裏側

小春素人

裏側

目を閉じて十秒数えている間、僕は今日ここに来るまでのことを思い返していた。



 心霊スポットに行こうと言い出したのは山下亮平だった。

 彼は同じ大学の文芸サークルに所属している同級生であり、僕の数少ない友人のうちの一人だった。「快活」という言葉を絵にかいたような人物であり、大学一年の春に別のサークルの新歓で知り合った僕をこの文芸サークルに勧誘したのが彼である。小説を読むこと自体は好きだったものの、執筆することにはさほど興味のなかった僕は、幽霊部員になる可能性が大いにあることを亮平に承知してもらい加入したのだが、気づけば活動日にはほとんど毎日部室に顔を出すほどこのサークルに居着いてしまっていた。

 文章を書くということが思いの外楽しかったというのもあるが、なにより亮平を含めたメンバーやサークルの雰囲気が好きだった。

 サークルの規模としては小さなもので、全学年合わせて十五人ほどのメンバーでのんびりと活動している。正確にはもう少し多くの人数が在籍してはいるのだが、ゆるいサークルなので、もう当分顔を見ていない人や、名前しか知らない人がたくさんいた。そんな自由な空気が僕にとっては居心地がよかったのだろう。

 そんなサークルだが、活動自体は活発に行っていて、三ヶ月に一回、会誌を発行している(ほとんど内輪向けのものではあるが)。次の会誌のテーマはホラーなのだが、僕も亮平も普段ホラー小説などは読まないもので、会誌に載せる小説の構成に悩んでいた。

 というわけで、心霊スポットに行ってインスピレーションを高めようと亮平が提案したのだった。


 ──ヤンキーのカップルとか、大学生が男女の集団で行くようなチープな噂付きの心霊スポットじゃダメなんだ。俺たちが求める根源的な恐怖を感じるためには、廃病院みたいなありがちな場所じゃなくて、もっと「本物」の心霊スポットに行かなきゃ。


 亮平はそう言っていたが、僕には彼が求めている恐怖感についてはあまり理解ができなかった。彼は時々よく分からない哲学を主張することがあり、最近の僕はそんな彼の話を理解するよりも先に聞き流すようになっていた。とはいえ彼のそういった性格は嫌いではなく、そんな哲学が彼の文章に深みを与えているのだと思っている。良い文章を書く人はどこか他人とは違ったこだわりを持っているものだ。

 そんな彼は、自分の求める「本物」の心霊スポットを数日かけて熱心に探し、とうとう見つけてきたらしい。


 ──めっちゃ地味な場所だけど、なんか神秘的だろ? ここは「本物」って感じがする。俺には分かる。


 僕にはそこが「本物」なのかどうかは判断がつかなかったが、確かに彼の言う通り神秘的な場所ではあった。県内にある山の奥らしいのだが、一応人の手で整備されたように見える細い道のようなものがあることが、彼に見せてもらった写真から見てとれた。ギリギリ山道ではあるようだ。そんな道の先には小さな山小屋があり、その横には大きな木が一本場違いに生えている。僕は中学の地理の教科書に載っていた屋久島の縄文杉を思い出した。そこは心霊スポットと言うよりは、どちらかと言うとパワースポットのようだった。


 ──なんかネットの情報によると、このでかい木の根元に赤い木箱が置いてあるらしい。それだけでも不気味なんだが、その箱に一人一個自分の思い入れのある品を入れて目をつぶって心の中で十秒数えると、箱の中のアイテムが一個増えてるらしいんだ。どうやら噂では、その箱は昔事故かなにかで隣の小屋で死んじゃった子供のおもちゃ箱だったみたいで、その子供の霊が遊びに来て、自分のおもちゃを箱に入れるんだってよ。あまり有名な場所じゃないから、これ以上は何も分からなかった。


 僕にはなんとなくその噂が彼の言っていた、よく心霊スポットに付随するチープなものに感じられたが、その感想は黙っておくことにした。


 そんなことを部室で話していると、たまたまそれを聞いていた本条リサも僕らに同行することになった。

 本条さんも僕らと同じ二年生で、文芸サークルの数少ない女子部員だ。軽音サークルと掛け持ちしていて、このサークルでは珍しいタイプの子だった。一見クールな印象もある美人なのだが、別に無口というわけではなく、誰とでもフランクに接する女の子である。多くの男はそのギャップに惹かれることだろう。幸か不幸か、彼氏がいるという噂は聞いていない。

 そんな彼女が僕たちと一緒に行くことになったのには正直驚いている。同じサークルのメンバーではあるが、特別僕らと親しいわけではなく、なんとなく別の世界の住人だと思っていたからだ。

 彼女が同行することになった詳しい経緯は忘れてしまったのだが、おそらく彼女も小説の構想を練りたかったのだろう。

 本条さんが一緒に来ることが決まってからといもの、亮平は俄然張り切っていた。結局大学生の男女グループでチープな噂付きの心霊スポットに行くという、亮平が嫌がっていた構図になってしまったが、彼は嬉しそうだったので、それでよいことにしておこうと思った。


 

 当日──つまり今日の午後九時、僕たちは亮平の運転する車で山の中腹までやってきた。車で行けるのはそこまでで、そこから先は徒歩で目的地を目指すようだった。

 十五分ほど歩くと、周囲の雰囲気が写真の感じに近づいてきた。

 

──車道からそんなに遠くなくてよかった。


 亮平がそう呟いたのを聞いて、本当にそう思った。もし目的地が歩いて何時間もかかる場所だったらどうするつもりだったのだろう。

 さらに少し行くと、例の大きな木が見えてきた。写真の通りだ。隣には山小屋もあった。写真ではパワースポットのようだと感じたのだが、実際にその場に来てみるとなるほど、確かに、そこはかとない不気味さが漂っていた。周りの景色から切り取られたように存在するその空間は、そこに立つ者を不安にさせた。

 木の根元を見てみると、亮平の言っていた通り、赤い木箱が置いてあった。文房具や書類を保管しておくのに便利そうな、直方体の箱だ。蓋は開いている。そんな箱がなぜこんな場所に無造作に置いてあるのか、そもそもこんな場所になぜ山小屋があるのかが全く分からないことが一番怖かった。不気味な空間に用途不明の不気味な物が場違いに置いてあるだけで人間は恐怖を感じるものなのだろう。

 僕は今日初めてここに来てよかったと思った。この感覚は小説を書くときに参考になる。


 僕らは早速噂を検証してみることにした。亮平から、何か箱の中に入れる用の思い入れのあるものを持って来るように言われてはいたのだが、高々二十年と少しの人生にとって特別なものなどそこまで多くはなく、現実的に大きすぎる物や高価な物を持ってくるわけにもいかず、悩んだ末に携帯電話に着けていたストラップを箱に入れることにした。数年前に県内の動物園で買った、犬のキャラクターの小さなぬいぐるみである。たった数年間だが、肌身離さず持っていたと言えなくもないので、思い入れがある品と言ってもいいだろう。

 ほかの二人も概ね似たようなものを持ち寄っていた。


 箱の中にそれぞれのアイテムが静かに置かれた。噂によると、ここから目を閉じて十秒数えると、子供の幽霊が自分のおもちゃを持ってくるらしい。この場所に来てから周囲のどことなく不気味な景色に吞まれていた僕も、箱の中に丁寧に並べられたかわいらしいアイテムを見ていると、だんだんと我に返り、ばかばかしいように思えてきたが、あとは十秒数えるだけである。


 僕らは目を閉じた。



 目を開けると、箱の中には四つの物があった。

「おお……」と、本条さんが呟いた。

 目の前には僕たちが入れた三つのアイテムの他に、僕が入れたものとは違う、別のキャラクターのストラップがあった。僕が入れたのは黒い犬のキャラクターだったが、その隣に、色違いの白い犬のキャラクターが置いてあった。どちらも同じ動物園のオリジナルキャラクターであり、対になるものだった。

 僕は今、生まれて初めて怪異を目の当たりにしているのだが、その特異な状況に反して、僕の脳内は冷静だった。

 なんというか、地味だな、というのが最初に出てきた感想だった。

「これは……なるほど。ここで死んだっていう子供も、あの動物園に行ったことがあるってことかもな」

 そう言って分析する亮平もどことなく不満そうだ。

 この現象がもし家や学校など、日常の空間で起こったら大いに驚き、多少恐怖したかもしれない。しかし、僕は今いるこの場所の不気味な雰囲気に、思った以上に期待してしまっていたのだろう。予告編やキャッチコピーを見て気になった映画が、思った以上にB級で落胆してしまうなんていうのはよくある話である。

 僕らはしばらくその場で話していたが、それ以上何か起こる様子はなさそうだった。

 一連の出来事はおそらくすべて亮平が仕組んだことだろうと僕は考えていた。本条さんが参加することまで計画していたかは分からないが、たぶん亮平は僕に怖がってほしかったのだろう。そんなことをした理由はおそらく、ホラー小説を執筆するに際して、心霊現象に遭遇した人のリアルな反応を見たかったに違いない。

 もしそうなら、彼には少し申し訳ないことをしたことになる。僕たちの反応はあまりにも薄く、恐怖という感情を表現する糧にはならないだろう。

 とはいえ、僕が思い入れのある品としてストラップを持ってくることを見抜いていた亮平の慧眼は、見事なものである。


 亮平の「帰るか」というシンプルな一言で、僕らはその場を離れることにした。



 一人暮らしをしているアパートに帰ると、僕は早速小説の執筆にとりかかった。

 僕らが体験した現象は予想以上に地味で、恐怖感をほとんど伴わないものだった。しかし、僕にとってはあの場所に行ったことによる収穫は大きかった。

 そもそも僕は幽霊に会いに心霊スポットへ行ったわけではない。ホラー小説を書くに当たって、人が何を怖ろしいと感じるのか、どんな雰囲気の作品にすればホラー感を演出できるのかを直接感じに行ったのだ。その点でいうと、「科学的、心理的に説明のつく現象では人間は恐怖しない」ということが分かったのは大いに参考になった。偉大な発明家エジソンも科学実験に関して同じようなことを言っていたような気がする。


 とりあえず小説の舞台はあの場所と似た感じにしよう。そう思い、僕はスマホを取り出した。僕は資料としてあの山中の写真を何枚か撮影していたのだ。

 スマホに保存した写真を眺めながらストーリーの構成をだらだらと考えていると、奇妙なことに気が付いた。過去のアルバムの中に撮った覚えのない写真が何枚もあるのだ。

 最初は何かのバグか誤操作で保存してしまった写真だと思った。しかし、あまりにも数が多く、なおかつ誤作動にしては不自然なほど写真が綺麗なのである。

 見たことのない景色や、行ったことのない場所。そんな写真だけならまだしも、僕が住んでいる部屋のキッチンやリビングの写真は流石に気味が悪かった。僕が自分の部屋の写真を何枚も撮る理由がないのだ。

 最も気持ちが悪かったのが、遊園地の入り口で僕がピースしている写真だ。その遊園地は全国的にも有名で、県外からの旅行客も多い人気のテーマパークだ。僕も高校生の頃に家族と行ったことがある。その遊園地には入口にロケットの形をしたオブジェクトがあり、そこで記念撮影をするのが定番となっている。その写真の僕もロケットをバックに記念撮影をしているのだが、そもそも大学に入ってからその遊園地に行った記憶がない。さらに、問題は僕のポーズだ。左手でピースをしているのはいいのだが、右手が不自然な位置に浮いている。まるで、隣にいる見えない誰かと肩を組んでいるみたいだった。


 形容しがたい恐怖が段々と僕を襲って来た。

 この現象は今日行ったあの場所と何か関係があるのか? もしかしたらあの場所には僕らの知らない怪異が憑いていたのかもしれない。僕はそれを知らずのうちに連れて帰って来たのかもしれない──

 そう思うと、その怪異が今この部屋に潜んでいるような気がしてきた。なんとなく自分の部屋にも違和感があるような気がしてしまう。確かにここは僕の部屋なのだが、何かが足りないような……

 いや、それは考え過ぎかもしれない。曲がりなりにも心霊スポットと言われている場所に行ったから過敏になっているだけだろう。テレビのホラー番組を見た夜に、風呂に入って髪を洗っていると誰かに見られているような気がするのと一緒だ。スマホの写真も、何か変なアプリでもインストールしてしまったのだろう。

 僕はそう思い込むことにした。自分の身体に残る寒気には気付かないふりをして、眠りについた。


 次の日、部室に入るとそこには既に亮平と本条さんが来ていた。彼らには何かあの後変わったことはなかったのだろうか。僕はそれとなく聞いてみることにした。

「亮平、昨日はありがとう。貴重な経験ができたよ」

「俺としては不服だけどな。もっとこう、何かあると思ってたよ」

「まあ、一応噂通りではあったから……」

「そういえば、よく考えるとあれってかなり怖い現象だよね」本条さんが口を挟んだ。「確かに昨日のあの場所では少し味気なく感じちゃったけど……」

「中学生がよくやるコックリさんと同じだろうな。あれって本当は誰かがこっそり力を込めて硬貨を動かしてるんだろ? それに比べたら、俺たちが目を閉じてる間にこっそり箱の中にストラップを入れるなんて簡単だろう」

 亮平は僕に視線を送りながら言った。白々しい奴だ。

「あ、なんだ。そういうことか。私普通に信じちゃってた」

「分からないよ。もしかしたら本当にあの時子供の幽霊が来ていて、本条さんに今も取り憑いてるかもしれないからね。大丈夫? あの後心霊現象とか無かった?」

「ちょっと、怖いこと言わないでよ。あ、でも」

 やはり彼女にも何か異変があったのだろうか。

「昨日家に帰ってから、私の小説用のメモ帳が無いんだよね」

「ああ、なんだ。それはただどっかに落としただけじゃないの?」

「うん、多分そう」

 どうやら本条さんには何も起こっていないようだ。亮平にも何かありそうな様子はない。

「もしかして、その手帳って昨日あの場所で何かメモしてたやつか?」

 亮平が本条さんに尋ねた。

「あ、うん。今度の会誌に載せる小説用に色々書いてたんだけどな」

「それなら、今からもう一回あそこに行って探してみるか?」

 亮平はやけに本条さんに親切だ。

「正直一人であそこに行くのはちょっと怖かったから、それは助かる。でも、本当にいいの? 私だけのために車を出してもらうのは申し訳ないよ」

「いいんだよ。俺もあそこに何か忘れ物して来た気がするんだ」

 亮平は本条さんとドライブがしたいだけじゃないか。何か忘れ物をした気がする、は流石に無理があるだろう。

「お前も行くだろ?」

 意外にも亮平は僕も誘ってきた。もったいない、せっかく本条さんと二人でドライブできるチャンスだったのに。大方二人だと話が続きそうにないから僕も連れて行こうとしているだけだろうけれど。

 ただ、僕としてももう一度あの場所に行ってみたいところだったので、彼らについて行くことにした。あの場所にもう一度行けば、僕のスマホの中の謎の写真についても何か分かるかもしれない。


 車を降り、昨日と同じ山道を歩きながら、僕は本条さんにずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。

「本条さんはなんで僕たちと一緒にここに来ようと思ったの? 僕たちとめちゃくちゃ仲良いってわけじゃないのに」

「え、だから、手帳を探すために……」

「そうじゃなくて、昨日」

「ああ、えっと、なんでだっけ……」本条さんは首を傾げた。「なんで私も一緒に行く流れになったんだっけ?」

「えっと、どうしてだったかな。本条さんも小説の構想に悩んでて、みたいな?」

「なんか、よく覚えてないや。でも、私たちが仲良くなかったは心外だな。私は君も亮平くんも友達だと思ってたけど?」

 どうやら違う世界の人間だと敬遠していたのは僕だけだったらしい。これからは他の人に接する際にも気をつけよう。

「なあ、あの木の根元にあるの、本条さんの手帳じゃない?」

 先頭を歩いていた亮平が振り返って言った。気づいたら僕らはあの場所に着いていたらしい。目の前には昨日と同じようにそびえ立つ大樹とボロ小屋があった。

「あ、これだ」本条さんは木の根元に落ちていた手帳を拾い上げた。

「よかった。ありがとね、二人とも」

「いやいや、見つかってよかったよ」

 そう言いながら、ふと僕は足元の赤い木箱を見た。そこには昨日と同じように、僕たちがそれぞれ持ってきた三つのアイテムと、見覚えのない白い犬のストラップが綺麗に並んでいた。

「これ、持って帰る? なんか勿体無いし」

 僕は二人に提案する。亮平はわざわざこのために動物園へ行ってストラップを買ってきたのだ。昨日は何となくここに置いてきてしまったが、よく考えると、かなりもったいないことをしているのだろう。

 僕たちはそれぞれ順番に自分が入れた物をを回収した。箱の中には白い犬のストラップだけが残る。

「これ、お前のだろ?」

 亮平がそれを取り出して僕に言った。

「えっ」

 どういうことだろう。あれは亮平の仕込みじゃなかったのか?未だにしらばっくれることに何か意味があるのだろうか。

「俺たちを怖がらせるためにお前がこっそり入れたんじゃないのか?」

「え、僕は亮平がやったのだと思ってたけど……」

 僕は亮平から白い犬のストラップを受け取りつつ顔を見合わせる。彼とは知り合ってまだ数年しか経っていないが、どうにも嘘をついているようには見えない。

「どっちも嘘ついてないんだったら、じゃあやっぱり、噂は本当ってことなんじゃない?」本条さんは赤い箱を見ながら言う。

「本条さんがやったわけでもないんだよね?」

「この流れで私だったらむしろそれがホラーだよ」

 彼女は続けて言う。

「今からもう一回やってみたら?心から不正はしないって約束してから」

 本条さんはこの奇妙な状況を楽しみ始めているようだった。僕は勝手に彼女のことを理論派で、こういうオカルトみたいなものには興味がない人だと思っていたけれど、やはり外見で人を決めつけるのは良くないと実感する。この二日間で本条さんの意外な子供っぽさを発見し、少し嬉しくなる。もっとサークルのメンバーと仲良くならないといけないな。たぶんその方が、彼女たちの書いた小説を読むことが一段と楽しくなる。


 僕たちは本条さんの提案に乗ることにした。先ほど手に取った自分のストラップをもう一度箱の中に入れる。

 箱の中に三つのアイテムが無造作に並ぶ。

「目を閉じて十秒、だね。じゃあ、行くよ」

 僕たちは一斉に目を閉じた。

 やはり本当に心霊現象はあるのだろうか。今から目の前で確実に証明されるのはやはり興味深い。

 しかし同時に、昨日同じことをしたときは全くと言っていいほど感じなかった恐怖という感情が自分の中に生まれていることを自覚する。


 スマホのフォルダにあった奇妙な写真のことを思い出す。


 その直後、後ろから誰かに背中を押されたような感覚がした。僕はバランスを崩して右足を一歩前に出したが、そこにあるべき地面はなく、僕はそのまま深い穴の底へ落ちていく感覚を覚えた。

 

 目を開けると、周囲の景色はこの世界とは思えないようなものだった。いや、よく見たら僕はさっきまで立っていた山の中にいる。大きな木とボロ小屋があるのに変わりはない。ただ、色が違うのだ。そこはまるで、元いた場所の写真の色を反転させたような世界だった。亮平と本条さんの姿も見えない。まるで夢を見ているような気分だ。一体これはどういうことなんだ。

 その時、どこからか声が聞こえてきた。

「本当だ、やっぱり一個増えてる」

 本条さんの声だ。彼女たちには異変はないのか? それより、そもそもどこにいるんだ?

「ほら、言っただろ? 俺は昨日も何もしてなかったんだよ」

 亮平の声が答える。

「私は元から信じてたけどね」

「じゃあどうしてもう一回やらせたんだよ」

 亮平たちから僕の姿は見えているのだろうか

「まあでも、やっぱり箱に入れた物が二個から三個に増えてるだけ、ってのは地味だったからさ。本当にそれだけだったのかなって思って」

 どういうことだ?「三個に増えてる」?

「確かにな。まあ、今日もやっぱりそれ以上のことは起こりそうにねえな」

 僕は亮平と本条さんの名前を呼んでみたが、反応はなかった。いくら呼びかけても、彼らの会話が聞こえるだけだ。彼らは僕がいないことに全く気づいていない様子だった。

 やがて亮平の「帰るか」という言葉とともに、二人の声は遠くに去って行った。僕はその声を追っていこうとしたが、なぜかいくら山道を進んでもあの木と小屋がある場所に戻ってきたしまった。

 


 どれほど時間が経っただろう。僕はもう動き回ることをやめた。

 この場所では箱に入れたアイテムが増えていたのではない、人が減っていたのだ。そうして元の世界からは、その消えた人が生きていた痕跡が消されるのだろう。一緒にこの場所に来た人の記憶からも、綺麗に無くなるのだ。

 僕にはそれがとても怖ろしいことに感じられた。友人や大切な人から忘れられるのは、ただの死よりも孤独だ。


 そして、おそらく僕もある人のことを忘れてしまっている。昨日ここに一緒に来たもう一人の友人だ。一緒に旅行や遊園地へ二人で行き、僕の家で写真を撮った人だ。僕は先ほどポケットに入れた白い犬のストラップを取り出す。自分が携帯に着けていたものと対になるストラップ。

 その人は僕にとってどれほど大切な人だったのだろう。もしかしたら、恋人だったのか? 今となっては、もう分からない。

 彼女も昨日、自分のことを忘れて帰っていく僕たちの声を聞いていたのだろうか?  

 白い犬のストラップを見ても何も感じない僕を見て何を思っただろう?

 今も僕と同じようにこの裏側の世界で孤独にさまよっているのだろうか?


 願わくば、その人ができるだけ早く僕のことを忘れてくれたらいいのだけれど。

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