優しさの原点

野田ユキオ

優しさの原点

「痛いでしょ、ありがとう」

英茉(えま)は、自分の頭を上げて僕の右腕を外そうとした。

「大丈夫」

英茉を右腕で抱き寄せて、プルンと突き出た下唇にキスをした。指をシャツのボタンに掛け、ほどくように外した。わずかな月明かりが、英茉の胸元を映した。手は華奢な輪郭を確かめるかのように腰から背中をたどり滑った。揺れるカーテンをすり抜けて、静寂が聞こえる。胸の膨らみに接触すると、英茉の吐息が発声に変わり、僕の体を振動させた。腕を大きく伸ばして窓を閉めた。

部屋に充満した熱気で目を覚まし、シャワーを浴びて、神宮前交差点近くにあるタイ料理店に向かった。ブランドショップの最上階にあり、エレベーターの窓から、青い空と麻布台ヒルズのビル群が一望できた。逆方向の扉が開き、振り返ると熱帯植物で囲まれた通路があった。通り抜けると、高い窓から木製のレリーフを照らしていた。ラタンの椅子に座ると、天井に取り付けられた回転式の羽根が作る柔らかい風を感じながら時を過ごした。注文した生春巻きが来ると、英茉は口いっぱい開けて頬張り、最後の一口を喉に通すと、僕に視線を移して「海に行いきたい」と言った。僕は英茉の視界に入る範囲で店内を見回した。

渋谷から湘南新宿ラインで鎌倉に行き、江ノ電に乗り換えた。由比ヶ浜でたくさんの乗客が下車し、僕たちは目の前の空いた席に座った。心地良さで数駅過ぎたとき、飛び降りるように鎌倉高校前で降りた。

太陽の光が肌を刺す。海岸沿いの道路を歩いた。横を見ると英茉は眉間に皺を寄せながら目を細めている。荷物を引き取って、僕の帽子をかぶせた。

数十分歩くと、弓形の大きなビーチが見えた。腰越海岸だった。海の家でパラソルとデッキチェアを借りて、パラソルを挟むように2台のデッキチェアを横に並べた。英茉が寝転び気持ち良さそうにあくびをしている。それを見て僕は、大きく手を伸ばして深呼吸した。息を吐き終えると肌を滑る風を感じた。目を閉じると波の音が体を振動させた。

うとうとしていた僕に英茉は言う。

「海、入りたい」

僕は英茉の靴下を脱がし、ズボンの裾を捲り上げた。

「よし、行こう!」

素足で歩く熱い砂浜。僕は英茉を抱っこした。

英茉は浅瀬を走り回り、波を蹴り上げると、自分に降り掛かって、僕を見てはにかんだ。

静かに佇んで波を感じている英茉を見て、僕は手を差し伸べた。

英茉をデッキチェアに座らせ、僕はハンカチを水道水で濡らして、英茉の足指の間に入った砂粒を1つ1つ丁寧に拭いた。

海の家からバーベキューの匂いが漂う。

「バーベキューしたい」

「さっき予約しておいたよ」

バーベキュー会場から傾き始めた夕が見えた。

「お待ちどうさまー!」

半分ぐらい泡の入ったビールを両手に持ち、1つ英茉に手渡した。

「かんぱーい!」


電車の中で英茉が僕に寄り掛かって眠っている。

僕は思い出す。優しさの原点をみたいなものを。

いつも腕まくらしてくれたこと。毎年海辺でバーベキューしてくれたこと。眠る僕を起こさないように優しく抱きかかえて運んでくれたこと。遠くで上がる花火を指差し「行きたい」と言ったら、パジャマのまま車で向かってくれたこと。友達ができなかった僕に、たくさんの同級生を集めて誕生日会を催してくれたこと。数え出すときりがない。優しい父だった。

英茉の吐息が聞こえる。

優しくしよう、なんて思ったことはない。

いなくなった父に言いたい。

「父でいてくれて、ありがとう」

そして、教わったことを敢えて言葉にするならば、

純粋な心はどんな壁も打ち抜く力がある、ということなんだろう。

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優しさの原点 野田ユキオ @nodayu

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