宍童子

露木薄荷

宍童子

 三十四年、初夏。

 るりの庭には白百合が咲いた。

 宍塚邸の広い庭の一角には庭師にも立ち入らせない、るりの花園がある。そこではるりが白いたおやかな手で土をいじり、苗や種を植えつけ、丹精を凝らして花を育てている。

 るりの庭仕事を手伝うのは娘の千代と、るりが可愛がっている年若い女中のせつだった。手伝うと言っても、満三歳の千代はそばで遊んでいるだけだが、せつはるりの指示に従って熱心に働く。

 るりが東京から山梨の大地主である宍塚家に嫁いできたのは五年前のことだった。せつ以外の女中たちは表向きには慇懃に振る舞いながらも、陰ではるりをハイカラ奥様、耶蘇の奥様と揶揄している。都会で育ち、ミッションスクールで学んだ影響から洋書を愛読し、クリスチャンでもあるるりは、田舎の無教養な人間からすればかなり異様な存在なのだった。

 その浮世離れした美貌もまた女中たちが異様に感じる一因だった。抜けるように色が白く、西洋人形めいた華やかで愛らしい目鼻立ちをしている。頬は柔らかな線を描き、唇は瑞々しい小さな果実のようだった。嫁してきてから五年も経つのに、いまだ女児一人しか生まれないのは、るりがいつまで経っても少女のようで一人前になりきれないせいだと、女中たちはやっかみ交じりに言う。

 十三歳のせつだけはるりを崇拝している。せつの顔には正常な皮膚の範囲の方が少ないほど、黒々とした痣が大きく広がっている。まるでふざけて墨を塗りたくったかのような顔のせいで親からも疎まれ、どこに行っても気味悪がられてきた。あの痣は前世で重い罪を犯した印なのだという噂がまことしやかに囁かれ、何らかのいざこざがあれば問答無用でせつが悪いのだと決めつけられた。痣のせいで奉公の先も一向に決まらず、親からは穀潰しと罵られ、つらかった。これでは嫁の貰い手だって見つからないだろう。もはや自ら死を選ぶしか道はないのではないかとまで思いつめていた頃、るりが救いの手を差し伸べてくれたのだった。

「おまえはお嫁にゆけないかもしれないが、安心なさい。私にずっと仕えてくれればそれでいいから」

 るりの慈悲深い言葉にせつは涙ぐんだ。しかもるりはせつが他の女中たちからいじめられないようにいつも目を光らせてくれる。これまでいじめられ通しの人生を送ってきたせつは生まれて初めて安心できる環境に身を置くことができたのだった。美しくて慈しみ深い奥様は観音様のようだとせつは思っていたが、るりから聖母マリアの話を聞いたあとは、聖母マリアにるりを重ねるようになった。るりの清純な美貌はいかにも聖処女めいている。

 庭の雑草取りを終えたるりは、祭壇に飾る白百合を剪ろうと思い立った。通える範囲に教会がないため、教会通いができないことがるりの悩みだった。仕方ないので自室に祭壇を設け、十字架や聖母像などを飾り、祈りの場としている。

「千代、白百合はマリア様のお花だよ。マリア様にお捧げしようね」

「千代がやる」

 千代は土で汚れた小さな手を伸ばし、るりの持つ鋏をねだる。大人のやることはなんでも真似したがるのだった。

「この鋏は千代には重いよ。あら、この鋏はずいぶんと錆びている。研いでおかなければ駄目だねえ。せつ、別の鋏を持ってきておくれ」

「はい、奥様」

 るりに頼まれたせつは勝手口の方に向かい、忠犬のように駆け出す。

「そんなに急がなくてもいいんだよ」

 くすりと笑いながらるりはせつの後ろ姿に声を掛ける。

 せつは振り返り、「はい、奥様」と律儀に返事をした。しかしすぐには向き直らず、そのままるりの姿に見入ってしまった。納戸色の地に銀鼠の細かな縞が入った単衣姿で白百合のそばに立つるりの姿は、彼女が所有する聖母像によく似ていた。奥様はなんて青がお似合いなのだろう。せつはうっとりすると同時に、青は聖母マリアを象徴する色なのだとるりが教えてくれたことを思い出した。なるほど、青はマリア様の色だから、マリア様のように貴い奥様にもよくお似合いなのだ。せつは何か素晴らしい気づきを得たような嬉しい気分になり、弾むような足取りで鋏を取りに向かった。

 せつを待つ間、千代は花がらを地面に並べて遊び始めた。るりは娘の姿を眺めながら、千代もずいぶんと大きくなったものだと思った。ついこの間までは乳飲み子だったというのに、今では花がらを並べて「ひい、ふう、みい」と数えている。

 娘の成長は嬉しいが、それだけ時が流れ去っていることを感じ、るりは焦りを覚えた。もう結婚して五年も経つ。早く次の子供――男児がほしかった。いまだ跡取り息子が生まれないことに夫と舅は苛立っている。類まれなほど穏やかで優しい人柄の姑だけが焦ることはないと慰めてくれるが、それでも気にせずにはいられない。

 不意にまばゆい光に照らされ、るりは反射的に手で目の上に庇を作った。今日はどんよりと厚い雲が垂れ込めている空模様だというのに、突然晴れたのか。怪訝に思いながら空を確認しようとしたが、眩しさに目を開けていられない。

 突然、るりの足が地面から離れ、身体がふわりと浮いた。そのままるりは天から降り注ぐ光に吸い上げられてゆくように、上へ上へと昇っていった。

 せつは別の鋏を持って戻ってきた。そこにはしゃがみ込んで花がらをいじる千代がいるばかりで、るりの姿が見えない。

「千代様、お母様はどちらへ行かれましたか?」

 問いかけられた千代は空を指さす。

「お母さま、お空に昇ったの」

 るりが忽然と姿を消したと、宍塚家では騒然となった。最後の目撃者である千代の証言は幼子の戯言として誰もまともに受け取らなかったが、ただ一人せつだけは信じた。

 聖母の被昇天だ――せつは確信していた。聖母マリアは地上での生を終える際、魂と肉体を伴って天に召されたのだと、るりから教えられていた。るりもまた、同じように天国に迎え入れられたに違いない。

 るりはもう見つかりそうもないと見切りをつけたあと、千代の父の孝太郎は後妻を迎えた。後妻のよしは男児一人と女児五人を生んだが、唯一の男子を含む三人は夭折した。宍塚家は娘ばかりが四人となった。夫妻はもう子供を望めそうにないため、婿養子を取る他になかった。

 十四歳になった千代は自らの境遇はずいぶんと幸せだと感じていた。実母はなくとも、優しい祖母みねと継母よし、そして忠実なせつに大事に育てられ、苦労を知らずに生きてきた。継母は世間では恐ろしいものの代名詞のように言われているが、善良なよしは千代を可愛がった。異母妹たちとも仲良くしている。異母妹たちは千代ほど美しい人はないと無邪気に信じ、千代を偶像視しているのだった。友達を連れてきて、うちのお姉様は天女様よりもお綺麗などと自慢する。

 美しかったるりに似て、千代は匂やかな美少女に成長していた。四人姉妹が揃うと、千代だけが光り輝いているかのように美しさが際立っていた。

「千代ほどの別嬪ならば婿など掃いて捨てるほど集まってくるだろう」

 娘の美貌を得意に思う孝太郎は満足げに言う。

「まあ、お父様ったら……」

 千代は呆れたふりをしながらも、まんざらでもなかった。自分の人生を大きく左右する存在の選択肢は多ければ多いほど良いだろう。

 嫁には行かずに婿を取るということは千代にとってたいそう嬉しいことだった。婚家の人々に仕えるという苦労など味わわず、裕福な実家でお嬢様扱いされ続けることが決まっているのだから、これ以上安泰な人生はないように思えた。

 千代はるりが天に昇った時のことはかなりおぼろげにしか覚えていない。せつがいなければとっくに記憶は消えているか、幼い頃に見た奇妙な夢程度にしか思っていなかったことだろう。十年経った今でも、せつはるりへの忠誠心から千代にあの日のことを語り続ける。

「あの時、千代様は確かに天を指さし、『お母さま、お空に昇ったの』とおっしゃられたのでございますよ。ちいちゃなお嬢様がそんなでたらめを思いつくわけがないのだから、本当のことに決まっているのに、せつ以外の誰も信じないのだから嘆かわしい。とにかく、るり様はお身体ごと天に召されたのでございます。まさに聖母の被昇天です。せつにはるり様が誰よりもご立派なお方であると分かってはいましたが、やっぱりマリア様と同じくらい、聖なる尊いお方であらせられたのでございますねえ」

 そう言ってせつは涙ぐみながら天を拝む。るりはクリスチャンであったが、せつの信仰心というとキリストではなく、るりに向けられているのだった。

 ある日の夕方、千代は自室でるりが遺した聖書を読んでいた。千代自身は洗礼を受けたクリスチャンというわけではないが、るりの影響からキリスト教への関心は強い。

「おまえが盗ったのだろう。白状おし!」

 聖書を読む千代の静寂を苛烈な声が破った。千代は信じられない思いがした。廊下から聞こえてきたその声は紛れもなく祖母みねの声だが、千代はみねの激しい怒声など今まで一度も聞いたことがなかった。

「お祖母様、どうなすったのですか」

 千代は慌てて廊下に出た。

 憤然と仁王立ちするみねの足元にせつが膝をつき、小さくなっている。せつが廊下に雑巾がけをしていたところ、いきり立ったみねがやってきて、せつを詰り始めたのだった。

「どうしたもこうしたもないよ。この女が金を盗んだんだ。それだのに強情に盗ってないと言い張るのだよ」

「まあ……何かの間違いでございましょう。せつはそんなこと致しません。稀に見る忠義者でございますもの」

 千代は心からせつの潔白を信じ、庇った。せつほど忠誠心の強い奉公人は他にいないというのに、盗みなんてあり得ない。

「いいや、絶対にこの女が盗ったんだ。今まで黙っていたけれど、この女には前科だってあるのだよ」

「そんな、前科なんて――……」

「お黙り!」

 涙ながらに否定しようとするせつの声をみねが遮る。

「この女はねえ、客用の羊羹を盗ったのだよ。他の女中が気づいて明るみに出たんだ。泥棒なんぞうちには置いておけないと思ったが、郷里の親兄弟に食べさせたい思いから、つい魔が差してしまったと泣きながら言うじゃないか。それで私は武士の情けでなかったことにしてやったんだ。それだのに、また裏切ったのだよ。なんて情けないのだろうね。この恥知らず!」

 羊羹なんぞ盗んだ覚えのないせつは唖然とした。

 みねは記憶違いをしていると、千代は気づいた。羊羹を盗んだのはせつではなく、別の女中だ。祖母や両親は家の中で盗みがあったことを娘たちには隠そうとしていたが、千代は知っていた。その時のきなくさい雰囲気や、声を潜めているつもりでもよく通る女中らの話声によって、事情は察せられた。

「お祖母様、何かひどく誤解されておいでではないでしょうか。せつは羊羹なんて盗んでいないと存じます。それはせつではなく、マツのやったこと……一昨年も前に暇をとったマツがやったことなのでございましょう」

「な……何を言うんだい、お千代や……」

 羊羹を盗ったのはせつではなくマツ――マツは一昨年も前に暇をとった――にわかに激しい混乱に襲われたみねは唇を震わせた。

「ですから、お祖母様は人違いをなすっているのでございます。この者はマツではなく、せつです。羊羹を盗ったのはこの者ではなく、マツです。マツはもううちにはおりません」

 話がなかなか伝わらないもどかしさを堪え、千代はさらに嚙み砕いて説明した。

「でも……でも、確かにお金がなくなったのだよ。それなら誰が盗ったというの」

「お祖母様、落ち着きなさいまし。お金はお祖母様のお財布からなくなったのですか? それともまさか金庫から?」

 千代は事態を詳しく把握しようとした。金が盗み出されたのはみねの財布からなのか、一家の財産を保管している金庫からなのかでことの重大さが変わってくる。

 だが、千代の言葉はみねに届いていなかった。みねは急にぴたりと狼狽を静め、小さくなって跪いたままのせつをじっと見下ろして考え込んでいた。

 この女はマツではない――そうだ、顔に大きな黒痣があるこの女はせつ以外の何ものでもない。それではマツとは誰だったか――ああ、羊羹を盗んだ若い女中だ。あれは嫁入りが決まり、暇をとったのだった。せつは従順な働き者だが、マツは怠け癖があってだらしなかった。確か子癇で死んだと聞いている。盗みなんぞするから罰が当たったのか。あの時は同情して許してやったが、今思えば狡いマツのことだからあの涙は芝居だったのだろう。憎らしい小娘だ。金を盗んだのだってマツに違いない。

「マツ、マツはどこ。お金を盗ったのはあの娘に違いないよ。誰か、マツを連れておいで!」

 みねは再び昂り、声を張り上げた。唖然とする千代とせつを残し、みねはマツを探しに台所の方へ向かった。

 千代は継母よしに助けを求めた。千代とよしはどうにかみねを宥め、きちんと金を確認してみると、一銭もなくなっていないことが判明した。

「千代様、せつを庇っていただき、かたじけのうございます……」

 事態が落ち着いたあと、せつは千代に深々と頭を下げた。

「そりゃあ、せつは何も悪くないもの。当然のことよ。でも、お祖母様ったら本当にどうなすったのかしら。いつもは穏やかなお祖母様だのに、あんなに昂って、しかもいろいろと思い違いまでして……」

 こんな騒動は今回限りであってほしいと千代は願ったが、そうはいかなかった。

 みねはすっかり人が変わってしまった。以前の穏やかさが噓のように怒りっぽくなり、女中や孫たちを感情的に𠮟りつけるようになった。物を盗られたと騒ぐことも頻繁になった。すでに他界している夫や、独立した息子たち、嫁いだ娘たちを探すようになり、どうして姿が見えないのだとひどく不安がるようになった。

 千代はみねの変わりようを深く悲しんだ。優しい祖母がいてくれたからこそ、実母が不在でも寂しい思いをせずにいられた。その愛すべき祖母が正気を失くしてしまったなんて、受け入れがたかった。

 いつからかみねは家から抜け出してさまよい歩くようになった。自力では帰ってこられないため、家人が探しに行くしかない。仕方ないので常に女中に見張らせておくようになった。

 千代が自室で刺繍をしていた時、不意にみねが襖を開けて入ってきた。乱れた寝巻姿のみねに千代は改めて悲しくなった。以前の身じまいの良い祖母の面影はもうどこにもない。

「お夏、おはぎがあるよ。お上がりなさい」

 みねはにっこりと千代に笑いかけた。歯がほとんど抜け落ちた口元は滑稽さと不気味さが同居していた。夏はみねの娘で、とうの昔に肺を病んで他界している。千代はひどく嫌な予感を覚えつつ、みねの差し出すものに目を落とした。手の中で臭気を放つ茶色いかたまり――排泄物だった。

「ひっ」

 小さな悲鳴を上げた千代は女中を呼びに部屋から飛び出した。

 孝太郎は母親の狂態に頭を抱えた。みねは頭は耄碌していても身体はよく動くため、毎日のようにとんでもない粗相をしでかす。醜悪な奇行や汚い言葉で喚くさまは多感な年頃の娘たちにとても見せられたものではないし、客も家に上げられない。やむを得ず、孝太郎はみねを離れに閉じ込めた。

 千代はみねのために毎日熱心に祈った。どうかお祖母様がよくなられますように。もとのお優しいしっかりしたお祖母様に戻り、以前のように幸福に暮らせますように。蝶よ花よと育てられた千代は今まで理不尽な困難に直面した経験がなかった。綺麗な着物がほしい、甘いお菓子が食べたい、人形がほしい、ピアノがほしい――どんな願いもすべて叶えられてきた。だから今回も心から祈り続ければきっと願いは成就すると信じていた。

 だが千代の願いは空しく、みねは孫たちに看取られることもなく離れで息を引き取った。みねがひどく体調を崩し、もう助かる見込みはないとみなされてからも孫たちは一度も見舞わなかったが、それは両親の意向だった。彼らはこの世の醜い面をできる限り見せずに育てている箱入り娘たちに、みねの最期の様子はとても見せられないと思ったのだった。

 みねは風邪でもこじらせて亡くなったのだと、千代は漠然と思っていた。だが、女中部屋の前を通りかかった際、偶然漏れ聞こえてきたおしゃべりによって真実を知った。

「それにしても、本当に大奥様はお気の毒でしたねぇ。あたしはあんな恐ろしい耄碌の仕方をする前にぽっくり逝きたいと心底思いますよ」

「そうさね、以前は立派なお方だったのに、あんな最期を迎えるとは神も仏もないよ。何でもかんでも手当たり次第に食べてしまって、ひどくお腹を壊して死んじまうなんて。座敷牢内を汚物まみれにして、時には口に入れてしまうことは結構前からあっただろう。それだけでも十分困りものだけど、ひょっこり出てきた鼠や虫まで食べてしまうのだからね。ほら、離れの方はやたらと鼠が出るだろう。猫いらずを置いてもきりがないほど湧いてくるのだから、いっそ本当に猫を飼えばいいのに、旦那様は大の猫嫌いときたものだ。それで、あたしが大奥様のご様子を見に行った時、まさに捕まえた鼠を口に入れているところだったんだ。口からはみ出した鼠はまだ生きていて、バタバタ暴れているんだよ。おお、思い出すだけで吐きそうだ」

 千代が聞いているとは知らずに女中たちはみねについて口にした。千代は近くの勝手口から外に飛び出すと、激しく泣き出してその場にうずくまった。

 祈りは聞き入れられなかったどころか、みねには尊厳のかけらもない惨めな死が降りかかった。こんなのあんまりだと、千代はやり場のない怒りに震えた。頭を病む前の祖母は優しく、奉公人に対しても情け深い立派な人物だった。それなのに口に出すのも憚られるような最期を迎えるはめになってしまうとは、女中も言っていたが、まさに神も仏もない。

 怒りは次第に恐怖へと変わっていった。千代は老いが怖かった。年を取り、いつかみねのようになるのではないかと思うと、怖くてならなかった。みねのように老耄するところまではいかなくとも、年を取るのはたまらなく嫌なことだ。

 もうじき満十六歳を迎える千代は今が最も美しい盛りなのだろうと、自分自身で感じている。母親ゆずりの華やかかつ繊細な目鼻立ち。しみ一つない透き通るような白い肌。つややかな長い黒髪。ほっそりとした優美な体つき。世の多くの女たちが喉から手が出るほど欲しがっている美の要素を千代は持ち合わせていた。無論、その美しさは世間から見逃されることなく、縁談の口は鬱陶しいほど数多持ち込まれた。すでに婚約者は決まっているが、どこかで千代に岡惚れした見ず知らずの青年が大胆にも家に訪ねてきたことさえある。

 ついこの間、千代は一回り年上の親戚を数年ぶりに訪ねてきた。前回会った時はまだ美しかった彼女だが、すでに容色は衰えていた。皮膚の肌理が粗くなり、開いた毛穴や口の横の皺に白粉が入り込んでいた。彼女は千代の前で子供に乳を与えた。子供は乳を吸いつつ、もう片方の乳首を小さな手でぐいぐいと引っ張っていた。茶褐色の乳首はみっともないほど長く伸びていた。

 自分もあと一回りも生きれば彼女のようになるのか。千代は嫌悪感に身震いした。白い肌はくすんでゆき、張りが失われ、皺やしみが醜く刻まれる。身体のあらゆる部位は重力に負け、だらしなく垂れさがる。女の命とさえ言われている髪だってつやを失い、白髪になり、儚く抜け落ちる。さらに千代は絶望的な事実に気がついた。人間の寿命を考えると、美しい姿でいられる年頃より、容色が衰えてからの人生の方がずっと長いのだ。美しい状態でいられる時間など、ごく短い。

「嫌だ、嫌だ……」

 千代はたまらず呻くように呟いた。美はあっという間に褪せ、さらにその先にはみねのような耄碌による狂気が待っているかもしれないと思うと、やりきれなかった。

「千代、何が嫌なの?」

 親しげに呼びかけるその声は聞き覚えのないものだった。千代は怪訝に思いながら声の方に振り向いた。

 そこにいたのは白金色の髪に赤い瞳の子供だった。白金の髪には赤毛が微妙に混じり、光の加減によって桃色に輝いて見える。こざっぱりとした白いシャツに濃紺の半ズボン姿だった。

「……あなた、どこのどなた? 異人さんの子ね?」

 普段、西洋人なんてこのあたりでは全く見かけないので、千代は驚きを隠せなかった。実際に目にする機会はなくとも、西洋人の皮膚、髪、瞳の色は日本人とは大きく異なることくらいは知っている。だが、この子供のように桃色がかった金髪や真っ赤な瞳を持つ者がいるとは思ってもみなかった。暗褐色ばかりの日本人の髪や瞳とは全く異質の美しさがあるが、同時に不気味さを感じないでもなかった。宝石のような青や緑の瞳には素直に憧れるが、赤い瞳なんて血の色のようで不吉である。千代は戸惑いながらも、相手はまだ五、六歳程度の小さな子供だったので、さして警戒はしなかった。

「ぼくの名前はイオ。合いの子ってやつだよ」

「あら、そう。日本語がお達者だものね。どこからいらしったの?」

 実母の知人の子だろうかと、千代は思った。家族の中で西洋人との交際があるのはミッションスクールを出たるりしかいないだろう。だが、十二年も前にいなくなったるりの知人が今になって訪ねてくるものだろうか。

 イオは愛らしく微笑み、おもむろに天を指さした――……




 令和六年、秋。

 恋人たちはデートの約束をしていた。

 先に待ち合わせ場所で待っていた陽介は近づいてくる一花に思わず見惚れた。陽介が二十歳、一花が二十一歳の頃に二人は交際を始めた。それから六年が経つ今でも、陽介は彼女のような素晴らしい美人が自分の恋人であるなんて、いまだに信じられない思いがするのだった。

 髪をアップにし、灰色がかった薄紫色のワンピースを着た一花をすれ違う人々は振り返って見ている。モデル顔負けのスタイルを誇る彼女はどこにいてもひどく目立つ。背の高い彼女が背筋をピンと伸ばし、高いヒールを履いているところも陽介には好ましかった。陽介の妹も女性には珍しいほどの長身であるが、一花とは違い、猫背でヒールは履かない。彼女は高身長を恥ずかしがり、なるべく目立たないようにしているのだ。変えようのない身体的特徴に悩んで背中を丸めているよりも、一花のように堂々としている方がよほどいいのに、と陽介は思う。

 陽介はというと、一花よりさらに十センチ以上背が高い。平均身長を大きく上回る体格は意外とデメリットが多いものだ。公共交通機関、飲食店、映画館など、どこへ行っても椅子が低すぎて座り心地が悪い。車は天井が高く、シートにゆとりがあるものでなければ窮屈で運転に差し障る。サイズの合う服や靴もなかなか見つからない。だが、同じく背の高い一花と並ぶと釣り合いが取れるというメリットのために、陽介はそれらデメリットには目をつぶることができていた。

 今日のために陽介は思い切って髭を剃ってきた。無精髭ではなく、一応はこだわりをもって整えていた髭であったが、剃った方が小綺麗に見えると思ったのだった。昨日は散髪にも行った。スーツは二年前に購入したものを着ていたが、新品同様に綺麗だった。陽介は専ら在宅で仕事をしている。普段スーツを着る機会はあまりないため、傷みにくい。既製品では陽介の身体に合うものがないため、スーツはいつもオーダーメイドで仕立てていた。陽介は長身である上に、屈強な体つきをしている。がっしりとした骨組みと厚い筋肉は鍛え上げたアスリートさながらの逞しさだった。

 普段は仕事で長時間座りっぱなしでいることが多いが、身体を動かすことは好きなので、ジムにはまめに通っている。戸外での活動も好きで、今はロードバイクやロッククライミングに凝っている。それが頑強な体格の一因ではあるが、しかし最たる要因は生まれ持った体質からくるところが大きかった。陽介はもともと並外れて筋肉がつきやすい体質なのだった。

 陽介と一花は予約をとっているレストランへと向かった。今日は一花の二十七歳の誕生日を祝う予定だった。

 宍塚一花の実家はたいそうな資産家だ。もともと宍塚家は広大な土地を所有する地元きっての名家だった。一花の五代前の先祖で入婿である正三郎が養蚕で成功してからはさらなる発展を遂げた。戦争による日本全体への深刻な損害、正三郎の死去及び後継者の不在、戦後の農地改革、バブル崩壊などによって零落の危機は何度かあった。それでも宍塚家はなんとか苦境を切り抜け、財産を守り、繁栄を続けてきた。

 現在、宍塚家の主な収入源は経営する企業の収益によるものである。戦後間もなく立ち上げ、家族ぐるみで運営してきた会社が莫大な利益を上げているのだった。もとは基礎化粧品の製造を行っていたが、九十年代初頭に発売した美容サプリメント『セントピュア』が大ヒットし、主力商品となった。当時、日本ではまだサプリメントなるものはほとんど浸透していなかった。そんな中で『セントピュア』が驚異的な販売数を記録できた理由は、ひとえに優れた効果によるものだった。純粋に良い商品であるからこそ、よく売れたのである。発売から三十年以上が経っても人気と売上は衰えることなく、宍塚家を潤わせ続けている。今では世の中に美容効果を謳うサプリメントは数え切れないほど存在するが、『セントピュア』は他の商品とはわけが違う――あの劇的な効果はもはや奇跡であると、愛用者の絶賛の声は絶えない。

 一方、笹本陽介は一花とは対象的な貧しい家庭に生まれた。父親はギャンブルと酒に溺れ、妻子に暴力を振るった。両親は陽介が小学生の頃に離婚し、陽介と妹は母親側に養育されることとなった。当然、ろくでなしの父親が養育費を払うわけもなく、母親一人の収入で生活してゆくのは厳しかった。それでも生活の足を引っ張る父親がいないため、陽介と母と妹は楽しく暮らしていた。

 中学を卒業した陽介は定時制高校に通いながらアルバイトに励み始めた。朝早くからコンビニで働き、日中は時給が高めの引っ越しのアシスタントや、結果次第でインセンティブのつくテレアポなどで稼ぎ、夕方から夜にかけて学校で授業を受ける。学校が終ったあと、さらにバイトに入る日も少なくなかった。十八歳未満の少年を深夜に働かせることは違法であるが、母親の知人が経営する居酒屋のキッチンでこっそりと働かせてもらっていた。

 早朝から夜遅くまで活動しているので、一日の睡眠時間は短かった。それに重い家財道具を次から次へと運ばなくてはいけない引っ越し補助のバイトは、適応できずにすぐに辞めてゆく者も多いハードさだ。それでも陽介は全く体力的なつらさを感じず、まだまだ余裕があるくらいだった。

 幼い頃から陽介は異様に身体が丈夫で、一度も体調不良で寝込んだこともない。疲れさえほとんど感じない特異な体質なのだった。その上体格にも恵まれており、身体能力もきわめて高かった。何かスポーツをすればきっと大成できるだろうとまわりから期待されたが、どんなスポーツをするにせよ多かれ少なかれ金がかかる。指導料、道具代、ユニホーム代、遠征費等々――陽介はこれらの費用を思うと、スポーツに打ち込むなんて夢のまた夢に思えた。だから恵まれた肉体的資質を華やかな形で活かす機会は持てなかったが、しかし労働には活かせていたのでそれなりに満足していた。陽介は自分が家計を支えていることが誇らしく、時には母や妹が欲しがっているものをプレゼントしてやることもでき、嬉しく思っていた。

 定時制高校を卒業した陽介は専門学校に進学した。一花と出会ったのはその頃だった。

 よく晴れた夏の日、陽介は引っ越し補助のバイトで家屋から家財道具を運び出す作業をしており、一花はたまたまその現場の前を通りかかった。陽介は仲間と二人がかりで大きな棚を運び出していた。炎天下での肉体労働に疲労を滲ませている相方とは対照的に、陽介は涼しい顔をして荷運びをリードしていた。

 その逞しい姿に一目で心を奪われた一花は、気がついたらすぐそばにあったコンビニに駆け込み、栄養ドリンクを手にしていた。会計をしながら、母の言葉を思い出す。直感――つまり本能的な感覚を大事にしなさい。運命の人と結ばれるためには出会った瞬間のインスピレーションが何よりも大事。出会った瞬間にこの人だと強く感じたら、まず間違いないはず。

「これ、差し入れです」

 そう言って一花は陽介に自らの連絡先を添えた栄養ドリンクを渡し、嫣然と微笑んだ。思いがけず美女に言い寄られた陽介は有頂天になり、二人の交際は始まったのだった。

 陽介は専門学校を卒業後、会社勤めで経験を積んだあと、フリーランスのシステムエンジニアとなった。一花は大学を卒業後、母が代表を務めている会社で商品開発に従事している。陽介は学生時代に入居した都内の片隅にある小さなアパートに暮らし続け、一花は山梨県郊外の実家で暮らしている。会いに行くには少し億劫な距離がある上に、互いに仕事が忙しいため、逢瀬の頻度はそう多くない。だが、互いに恋人にどっぷりと嵌りこむタイプでもなかったので、このくらい距離を置いた付き合い方でも安定した関係が保てていた。

 予約していたレストランで二人は食事を始めた。スマートな接客、そこはかとなく上品な客たち、優雅なクラシック音楽。初めて入ったレストランだったが、絵に描いたような高級感漂う雰囲気に陽介はひとまず満足した。別に陽介は高級店で食事をしたいという志向はなく、料理が不味くなければどんな店だって構わない。だが資産家の令嬢として贅沢が身に着いている一花の誕生日に安っぽい場所に連れていくわけにもいかず、とりあえず高級感を第一に考えて店を選んだのだった。

「うん、おいしい」

 血の滴るようなレアステーキを口にし、一花は満足そうに微笑む。スレンダーな体型からは想像がつかないが、一花は肉が好物で、一度にかなりの量を軽く平らげる。

「俺はレアってちょっと手が出ないんだよなぁ」

 おいしそうに食べている一花を見ていると、挑戦してみたい気がしないでもない。だが結局は中までしっかりと火が通った焼き加減を選んでしまう。

「なんで? おいしいのに。私、火を通したお肉より、レアステーキとか、ユッケとか、生で食べるお肉の方がずっと好き。馬刺しや鳥刺しなんかもいいなぁ」

「一花さんは生で食べておいしい上等な肉を昔から食べ慣れているから抵抗がないんだと思うよ。スーパーの割引シールがついた激安鶏胸肉で育った俺には火の通っていない肉は怖いんだ」

「怖いって、大げさ」

 陽介は本気で言っているが、一花は冗談だと笑い飛ばした。

「ところで、陽介くん――」

 料理を半分ほど食べ進めたところで、一花は改まって切り出した。

「そろそろ結婚しない?」

「……本気で言っている? ずいぶんと唐突だね」

 陽介は一花との結婚を考えたことは一度もなかったので、ひどく驚いてしまった。彼女と自分の間には結婚という選択肢は発生しないものだと、漠然と思い込んでいたのだ。なにせ一花は非常に裕福な家に生まれ、美しい容姿にも恵まれた非の打ち所がない女性だ。一方、陽介は貧しい母子家庭で育ち、学歴や収入だって彼女より低い。どう考えても二人は釣り合いがとれておらず、彼女が自分を好きになってくれたことが奇跡のように思えていたくらいである。

「二十七歳の女が六年付き合った相手にする話としては何も唐突だとは思わないわ。私、陽介くんと結婚したいのよ。陽介くんはどう?」

「そりゃあ、一花さんとずっと一緒にいられたらいいとは思うけど……でも、俺なんかで本当にいいの?」

「うん。陽介くんがいい」

「前から不思議だったんだけど、一花さんって俺のどこがよくて付き合ってくれているの?」

「陽介くんって、私のお父さんによく似ているのよ。私が小さい頃に亡くなったお父さんに。顔立ちは別に似てないのだけれど、雰囲気や背格好なんかはそっくり。陽介くん並みに背が高くて逞しい人だったの。私はいつも抱っこや肩車をしてほしくてたまらなかった。でもお父さんは私を嫌っていたから、一度だって私の願いを叶えてくれたことはなかったわ」

 一花が陽介に父親の話をするのはこれが初めてだった。

「嫌っていた? どうして……」

「お父さんは妻の実家――つまり宍塚家で義理の家族と同居していたのだけど、家族と折り合いが悪くてね。娘の私だって宍塚家の者だから、受け入れられなかったんだわ。私がお父さんの目の前で転んで怪我をしても、少しも心配する素振りもなく無視して……それくらい、私のことが嫌いだったみたい」

「いくら奥さんの家族と折り合いが悪いからって、自分の子供まで嫌うなんて信じられないな。それにしても、俺ってそんな冷たい人に似ているんだ? ちょっとショックかも」

「冷たい人ではなかったのよ。お父さんにはとても大事にしていたペットの兎がいて、それは人間の赤ちゃんにでも対するみたいに可愛がっていたんだから。怪我の後遺症のせいであまり動けない兎だったから、よく抱いて外の空気を吸わせたり、日向ぼっこをさせていたわ。私は子供ながらに理不尽に感じたわ。私のことは可愛がってくれないのに兎は溺愛するなんて、絶対におかしいって。でも、そんなふうに兎に対する優しさはある人だからこそ、本当は愛情深い人なんだなって思って、嫌いになれなかったの」

「兎に向ける優しさはあるのに、自分の子供に向ける優しさはないなんて、理解し難いよ」

 幼い一花に悲しい思いをさせた父親なんて、本当に愛情深いと言えるのか陽介には疑問だった。

「陽介くんはお父さんに似てはいても、いつも私に優しくしてくれる。だからお父さんが与えてくれなかった分の愛情までも陽介くんが与えてくれているみたいで、嬉しいの。それからね、何と言っても陽介くんは頑丈で健康なところがいいわ。そこに一目惚れしたんだもの」

 陽介の逞しさは一花を惹きつけてやまない。初めて陽介を見た瞬間、一花は彼の生命力に素晴らしい価値を感じた。星の数ほどいる凡庸な人間たちの中で陽介だけが唯一強い光を放っているかのように見えたのだ。この男はきわめて貴重な逸材だと、はっきりと分かった。人生の中でこの時ほど強くインスピレーションが働いたことはなかった。決して彼を逃してはならない。六年間の付き合いの中でこの思いは非常に強固なものへとなっていた。

 一花がこれほどまでに自分を好きでいてくれて、結婚を望んでいるのならば、断る理由はない。陽介は心を決めた。

 結婚にあたって、陽介は一花の姓である宍塚を名乗ることになった。一花はきょうだいもいとこもいないため、一花が姓を変えてしまえば、宍塚を名乗る者が絶えてしまう。つまり宍塚という姓ないし家を存続させてゆくために、一花が結婚後も姓を変えないことが求められたのだった。田舎の旧い家柄である宍塚家にとって、家の存続は個人主義が幅を利かせている現代においても非常に重要なことだった。

 宍塚家側が陽介に望んだ事柄は妻側の姓を名乗る他にもまだあった。宍塚家での同居である。陽介は基本的にインターネット環境さえあればどこでも仕事ができるので、一花の実家がある山梨県の郊外に越すのは問題ではなかった。

 宍塚家は山や森に囲まれ、清らかな川が流れる自然豊かな地に居を構えている。牧歌的で美しくはあるが、最寄りのスーパーに買い出しに行くのでさえ車で片道三十分以上はかかる不便な場所でもある。ここらで目立つ唯一の大きな建物といえば、宍塚家が経営する会社の工場だけだ。寮も併設されており、大勢の従業員が暮らしている。

 広々とした敷地内に建つ宍塚邸はたいそう大きく立派だ。陽介は結婚前の挨拶の際に初めて訪ねたが、圧倒されてしまった。長い濡縁のある伝統的な日本家屋と、白い外壁と赤い洋瓦、塔のあるデザインが印象的な洋館が渡り廊下で繋がり、一体となっている。芸術的と言っていいほどの見事な和洋折衷の造りだ。家人らは先祖代々守り続けてきた日本家屋の方を母屋と呼び、後に建て増した洋館を離れと呼んでいる。

 敷地内にはさらにもう一棟小さな建物がある。茶室に用いるような草庵めいた和風建築で、立派な屋敷と生い茂る木々に遮られ、ともすれば見落としてしまいそうなほど目立たない。こういう感じが侘び寂びというものなのだろうかと陽介は思いながらも、その庵にはどこか薄気味悪さを感じ、思わず目を逸らした。

 自分がこの家に住むのだと思うと、陽介はひどく奇妙な心持ちがした。都会の片隅の窮屈なアパートで暮らしてきた陽介にとって、田舎の大邸宅で大家族の一員になるなんて、夢を見ているように現実味を感じない。

 一花からみて、高祖母の一子、曾祖父の康夫と曾祖母の一惠、祖母の一代、母親の一美、大叔母の智代、光代、春代、幸代、静代、道代、悦代、叔母の聡美、睦美、そして睦美の夫の隆が同じ家に暮らしている。陽介と一花を加えれば総勢十七人家族ということになる。

 大叔母たちは七人全員が未亡人である。叔母の聡美は五十歳にも満たないが、すでに未亡人である。大叔母たち、叔母たちの中で子供を持つ者は一人もいない。だからこそ本家で身を寄せ合って暮らしているのだろうか、と陽介は漠然と考えていた。

 宍塚家の最年長は百八歳になる宍塚一子である。彼女の存在は陽介を驚かせた。一花の高祖母にあたる人が健在であること自体がすでに驚きだったが、何よりもその若々しさは信じられないものだった。実年齢より三十から四十は若く見え、どう見ても百歳をとうに超えているようには見えない。彼女は目も耳も頭もしっかりと機能しており、読み書きも達者で、すらすらとよどみなく会話もできる。背筋は真っ直ぐに伸び、足腰もまだ強く、自力で歩行ができる。髪は雪のように白いが毛量は豊かでつやもある。肌つやも異様に良く、皺、たるみ、しみといった老化の証はその年齢としては考えられないほど控えめにしか現れていない。彼女が着物を着こなし、たっぷりとした白髪を綺麗に結っている姿は絵に描いたような美しい上品な老女といったところだった。

 最年長の一子をはじめとして、宍塚一族は皆ひどく若々しいのだった。とりわけ、それぞれの代の長女の若さは際立っており、皆、実年齢よりはるかに若く見える。一美に至ってはもう五十路を超えているが、せいぜい三十そこそこにしか見えず、一花の姉にしか見えないほどだった。その上、彼女たちは頗る健康だ。年を取れば身体のどこかしらに不調が出てくるのは至極当たり前のことだが、彼女たちは皆、体調の悩みとは無縁で溌剌としている。

「さすがセントピュアを生み出した一族なだけあるね。皆、すごく若く見える。なんだかちょっと怖いくらいだ」

 家族への挨拶を終え、一花と二人きりで庭を歩いた際、陽介は真っ先に驚きを口にした。

「皆、まるで魔女でしょ? 子供を攫ってきて、生き血をすすって若さを保っているんだわ」

 一族の壮健さと若々しさを誇りに思っている一花は機嫌よく冗談で答えた。

「あの一子おばあさんの驚異的な若々しさを見ればちょっと信じてしまいそうだよ。それにしても本当に大きなお屋敷だね。どれくらい前に建てられたものなの?」

「母屋の方は明治初期に建てられたという話よ」

「それはすごい……」

 文化財に指定されても全くおかしくないほどの古い歴史に陽介は驚くばかりだった。

「これだけ古くて大きな家を維持してくるのは本当に大変だったらしいわ。いっそ町に寄贈しようと考えたこともあるみたいだけど、なんとか手放さずに済んでいるの。洋館の方はバブル期に建て増したらしいわ。普段、うちの人たちは暮らしやすい洋館で過ごしていることが多いけれど、お正月や法事やお祝い事の時は母屋に集まるの」

「そうなんだ。なんだか緊張するな。こんな歴史ある家の一員になるなんて。しかも女性がとても多いから、馴染めるか少し不安だよ」

「女ばかりでびっくりしたでしょう。地元の人たちは昔からうちのことを女の家って呼んだりもするくらいよ。私も婚約した途端に、知り合いから女の子用の可愛いスタイを贈られたわ」

 陽介は苦笑した。贈り主は結婚と子供を持つことを同一視しているタイプなのだろう。純粋に婚約を祝っているだけのつもりなのかもしれないが、しかし妊娠していない女性にベビー用品を贈るなんて、デリカシーに欠けている。だが、それだけ宍塚家といえば女の子ばかりが生まれる家として有名なのだろう。

「そういえばさ……ちょっと気になることがあったんだけど」

 陽介は宍塚邸や宍塚家の人々に覚えたある違和感について切り出そうとした。

「なに?」

「なんだか、家の中の芳香剤の香りや、皆さんがつけている香水の匂いがきつすぎるんじゃないかと思うんだけど。正直、あの強い匂いの中で暮らすのはしんどいな」

 先ほど宍塚邸の中に足を踏み入れた瞬間、陽介はむせ返るような強い香りに包まれたのだった。その匂いの源は家のあちこちに置かれた消臭芳香剤の香り、アロマディフューザーから拡散する精油の香り、絶えることなく焚かれ続ける香の香り、そして家人がつけている香水の香りだった。陽介は特に芳香剤や香水が苦手というわけではなく、良い香りには癒しを覚える。しかし、ものには限度があり、過度な香りには癒されるどころか胸が悪くなる。

「やっぱり気になったのね。それは私たちの大きな悩みに対する苦肉の策なの」

 一花は小さなため息を零すと、話し始めた。

「遺伝なのか、うちの人たちはどうも体臭が強くて、それをひどく恥ずかしがっているの。だから過剰なまでに家の中に香りを溢れさせて、自分自身にも香水やデオドラントをたくさんつけて、ごまかそうとしているんだわ」

「それは厄介な遺伝だね……でも、一花さんは別にそんなことないよね?」

 陽介は今まで一花に対し、体臭が気になったことも、香水がきつすぎると感じたこともない。

「私は今はまだ大丈夫みたい。でも、この特徴は年を重ねると現れてくるみたいで、私もそのうち……」

 憂鬱そうな一花に陽介はこれ以上何も言えなかった。体臭なんてセンシティブな問題で、特に女性は触れられたくない事柄だろう。家の中や家人の強い香りも、住んでいるうちに慣れてしまい、気にならなくなるに違いない。陽介は自分にそう言い聞かせ、この問題に折り合いをつけた。

 十二月の吉日に二人は入籍し、披露宴を挙げた後、陽介は宍塚邸に越してきた。歓迎の宴のため、病気で伏せっている叔母の夫の隆を除いて、母屋の広い座敷に家族全員が集まった。長い座卓の上には女たちが張り切って拵えた料理の数々がずらりと並んだ。宍塚家の人々はにこやかに陽介を迎え入れ、一花は実に良い婿を見つけたものだと褒めそやした。

 暖かな雰囲気の祝いの席だが、陽介は部屋の中にいくつものアロマディフューザーや消臭芳香剤が設置されているのを見つけ、気になっていた。家人らの香水の匂いも強い。いくら体臭が宍塚家の人々の悩みの種であるとはいえ、食事の席にまで強い香りを持ち込むことはないのに、と思わずにはいられない。

「陽介くんはお酒飲むでしょう。はい、どうぞ」

「気を遣わせてしまってすみません」

 酌をしてくれる祖母の一代に陽介は恐縮した。テーブルの上にはピッチャーに入った茶が置いてあり、宍塚家の面々はそれを飲んでいる。一花もめったに酒を飲まないことからも、この家の人たちは飲酒を好まないのだろうと察せられた。それなのにわざわざ自分のためだけに酒を用意してくれたなんて、なんだか申し訳なかった。

「遠慮しないで。家族全員分のお酌を飲み干してちょうだいよ」

「潰れてしまったら介抱をお願いします」

 和やかな哄笑の中、陽介はビールをぐっと煽った。

「私も今日は少し飲もうかな」

 おいしそうに喉を鳴らす陽介を見て、一花もビールを手に取った。コップの半分まで注ぎ、ピッチャーの茶で割る。宍塚家で愛飲されている茶はジャスミンティーだ。ジャスミンの甘くすっきりとした芳香がビール特有の苦みをほどよくやわらげ、飲みやすくなった。

 新婚夫婦の前には小さな皿に盛られた薄桃色の刺身が出された。刺身といっても、魚ではない。陽介にはごく小さな丸い肉のかたまりを薄切りにしたもののように見えたが、実際はなんなのかは分からなかった。

「それは兎の睾丸だよ。この家ではね、新婚の長女夫婦は子孫繫栄を願って兎の玉を食うしきたりがあるんだ」

 曾祖父の康夫が猥褻な笑いまじりに説明した。彼は宍塚家にとって婿であり、宍塚の血を引いているわけではないが、それでも若々しい。九十を過ぎた今でも髪が濃く、肌つやも良い。

「そんなしきたりがあるんですか」

 陽介は驚きの声を上げた。確かに兎は非常に繫殖力が強い生き物なので、そこにあやかろうという発想は理解できる。だが、睾丸を刺身で食べるとは些か大胆過ぎるのではないか。

 当惑する陽介に相反して、この時を待ちわびていた一花は嬉々として刺身に箸をつけた。親族中の視線が一花に集まる。かつて自身もその刺身を食した者たち――各世代の長女とその夫は得も言われぬ極上の味を思い出し、口の中いっぱいに唾液を溜めた。その刺身を口にする機会を持ちえない者たち――長女以外の宍塚家の女たちは羨望の思いに胸を焦がした。しかしそれは長女夫婦しか口に出来ないもので、自分たちは刺身の代わりにすまし汁で我慢しなければならないとわきまえていた。このすまし汁だって、長女が結婚した際にのみ作られる特別なものである。

 一花は刺身の妙なる味わいに魅了され、瞬く間に平らげた。

「陽介くんも食べなよ。すごくおいしいよ」

「……そう? じゃあ、いただきます」

 魚の白子さえ好まない陽介は睾丸の刺身なんてかなり抵抗があった。だが、この家族の新入りとして、彼らのしきたりを拒むのは賢明ではないだろう。意を決して陽介は薄桃色の刺身を口にした。

 刺身は舌の上で滑らかにとけてゆき、濃厚な乳製品にも似たまろやかさと深いコクを感じたあと、思いがけない風味が広がった。陽介はこういう食べ物には須らく嫌な臭みがあると思っていたが、ほんのりと口の中に広がるのはジャスミンのような香り高い風味なのだった。花の風味がする刺身なんて、あまりに意外だった。花の香りは独特の味わいと喧嘩することもなく、不思議なほど調和してまたとない美味を生み出している。

「どう、おいしいでしょう」

 一花は得意になって訊いた。この肉の虜になるのは当然のことなのだ。

「うん、びっくりするほどおいしい。驚いたな、こんなに食べやすいものだとは思っていなかった――」

 陽介が花のような風味について口にしようとしたところで、どたばたと騒がしい足音が響いてきた。奇声と共に襖ががらりと開けられ、男が倒れ込むように座敷の中に乱入してきた。病で伏せっているはずの隆だった。

「俺をあそこに連れて行ってくれ……! 頼むから……頼むから吸ってくれええええ!」

 錯乱状態の隆はしきりに吸ってくれと喚いたあと、力尽きて気を失った。げっそりと痩せこけ、毛髪はほとんど抜け落ちている彼は老人のように見えるが、まだ四十代半ばである。白目を剥いて倒れている隆を妻の睦美が慣れた様子で介抱を始めた。

 狼狽する陽介とは対照的に、宍塚家の人々は落ち着き払っている。何事もなかったかのように食事を続けている者までいる。

「救急車を呼ばなきゃ」

「大丈夫、ただ失神しているだけだから。こうなるのは隆さんには珍しいことじゃないのよ」

 一花は軽く苦笑し、陽介を宥めようとした。

「でも……」

「こういう病気だから仕方ないのよ。いちいち救急車を呼んでいたらきりがないわ。本当に危ない状態になったらちゃんと適切な対応をするから、心配しないで」

 隆の病状を熟知している家族らが問題ないというならば、陽介はこれ以上何も言えなかった。

「陽介くん、悪いけど手伝ってくれる?」

 睦美に頼まれ、陽介は隆を部屋まで運んだ。隆は成人男性として背丈はごく平均的だが、しかし体重はひどく軽かった。なんの病気なのかは知らないが、これはもう長くはもたないのではないだろうかと、陽介は嫌でも感じた。

 それにしても、隆が何度も言っていた『吸ってくれ』とは一体なんのことだろう。不思議に思った陽介は一花に訊いてみた。

「ああ、それはね……うちの少し変わったしきたりというか、神様に関係することなの。陽介くん、ちょっと引いちゃうんじゃないかな。でも、どうせ今夜にも儀式をしてもらおうと思っていたところだから、話すね」

「神様……?」

 信仰とは全く無縁に生きてきた陽介は思わず身構えた。神だの宗教だのという根拠のない概念を本気で信じている人々の気持ちはどうも理解しがたく、近寄りがたく感じる。なぜ結婚前に宗教について話し合っておかなかったのか、後悔した。

「そう警戒しないでよ。別に陽介くんに信仰を強要したりなんかしないし、私だって熱心に神様に入れ込んでいるわけじゃないんだから。ただ、うちは旧い家柄だからよその家にはない風変わりな伝統のようなものがあるだけなのよ。陽介くんには悪いけど、うちで暮らすからには形だけでも儀式に付き合ってもらいたいと思っているの。うちの迷信深いお年寄りたちを納得させるために、ね?」

「まあ……形だけでいいなら」

 宍塚家の人々の中で円満に暮らしてゆくためには、彼らの伝統やルールに背くわけにはいかないだろう。陽介は企業勤めの頃、行きたくない飲み会に嫌々参加していた時のような気持ちで腹を括った。

「よかった。物分かりの良い人と結婚できて嬉しいわ」

「でも、儀式ってどんなこと? 難しくなければいいんだけど」

「難しいことは何もないよ。そうね……まずはうちの神様について簡潔に説明しようかな。うちでお祀りしている神様はね、この地域の人たちも知らない宍塚家独自の秘密の神様なの。この神様を私たちは宍童子って呼んで、大事にしているの」

「ししどうじ……宍塚の宍に、子供を意味する童子かな?」

「その通り。宍塚家の者が若々しく長生きする傾向にあるのは、宍童子のおかげということになっているのよ。宍塚家に生まれた者は始めから宍童子のご加護を受けているけど、縁組によって宍塚家の一員になった人は違う。だからその人たちも宍童子のご加護を受けるために、儀式をするってわけなのよ。宍童子に邪気を吸ってもらって、若さと健康を保つ儀式ね。隆さんが言っていた『吸ってくれ』っていうのは、宍童子に邪気を吸ってほしいという意味なんだわ」

「でもさ――こんなふうに言っちゃ悪いけど、宍童子のご加護は届いてないようだね? だって、宍塚家は未亡人がすごく多い。縁組によって宍塚家に来た者たちはどんどん亡くなって、ご健在なのはひいおじいさんと隆さんだけってことだろう。それも隆さんはとても具合が悪くて、健康とは程遠いし」

 陽介の指摘に一花は困ったように笑い、肩をすくめた。

「つまり、宍塚家に生まれた者の健康長寿は単なる遺伝的なものということね。こんなこと、うちの人たちには言っちゃだめよ。罰当たりって怒られちゃうから」

 一花は潔く儀式は無意味であることを認めた。彼女が謎めいた宗教に染まっていないのだと思うと、陽介の気持ちは軽くなった。

 夜が更けると、儀式を始める前に陽介は手を清めるように指示された。爪を短く切り、入念に洗う。最後の仕上げに一花は陽介の手を取り、アルコールをしみこませたコットンで丁寧に指先を拭った。

「宍童子が指先から邪気を吸うから、出来る限り綺麗にしなきゃいけないのよ。あ、こんなところに黒子があったんだ。知らなかった。指先に黒子だなんてちょっと珍しいね」

 どんなに仲の良い恋人や夫婦でも、相手の指先をまじまじと見る機会なんてないものだ。一花は陽介の右手人差し指の先に小さな茶褐色の黒子があることを初めて知った。

「それ、数奇な運命を背負っている証らしいよ」

「なにそれ?」

「前に飲みに行った帰り、道端に占い師の露店があったんだ。その人の前を通り過ぎようとしたら呼び止められて、手を見せろと言われたんだよ。胡散臭いとは思ったけど、酔っていたからノリで見てもらうことにしたんだ。手を差し出したら、生命線とかなんとか線とかは全然見もしないで、指先の黒子だけを見て、これはあなたが数奇な運命を背負っている証です、なんて言うんだよ。しかもどんどん顔色が青ざめていって、とても恐ろしい鬼が見える、って言うものだから、さすがにちょっと怖くなった」

「占い師なんて適当なことしか言わないものよ。わざと客を不安にさせて占いに縛りつけようとしているのが見え見え。気にすることないわ」

 一花はコットンを放り出し、不吉な占いをばっさりと切り捨てた。

 二人は宍童子を祀る部屋へと向かった。洋館の片隅にあるドアの前までくると、一花は兎のマスコットのキーホルダーがついた鍵を鍵穴に差し込んだ。

「儀式って言っても、本当に何も難しいことはないから安心して。陽介くんはただ手を差し出して、邪気を吸ってもらえばいいだけだから」

 一花は説明しながらドアを開けた。そのすぐ向こうにもドアがあった。

「お札だ……すごい数」

 ドア全体にいくつもの札が貼られており、陽介はぎょっとした。この先に神を祀っているというより、邪悪なものを封じているのだと言われた方がしっくりくる有様だった。

 一花はテンキーを操作し、二枚目のドアを開錠した。驚きながら陽介はその様子を眺めていた。鍵を使って最初のドアを開けたあと、さらに次のドアを開けるために暗証番号が必要とは、ずいぶんと厳重なものだ。

 ドアの先には暗い通路が続いていた。一花は壁面のスイッチを押し、照明をつけた。照らし出された通路は狭く、一人通るのがやっとの幅だった。

「中もお札だらけ……これってどんな意味があるの?」

 通路の壁も天井にも無数の札が貼られている。さすがに陽介は少し気味が悪くなった。

「さあ、私もよく分からない。おばあちゃんたちなら何か知っていると思うけど」

 突き当りを曲がると、再びドアがあった。一花はレバーの上に取りつけられたサムターンのつまみを捻った。

「ドアのこっち側から鍵を開けられるようになっているって、変じゃない?」

 陽介は強い違和感を覚えた。これでは侵入防止にならないだろう。

「業者さんがうっかりしてドアの取り付け方を間違えちゃったのよ」

「そんな馬鹿な」

 うっかりしすぎだろうと驚く陽介をよそに、一花はドアを開けた。室内のスイッチを押すと、間接照明のぼんやりとした明かりが灯った。

 大きな祭壇が壁際に設えられていた。ガラスケースに納められた人形、蝋燭、花などが供えられている。一花は並べられたいくつもの蠟燭に火を灯し始めた。

「すごくよくできた人形だ……でも、金髪の人形に水干って異色の組み合わせだな。もしかしてこれが宍童子?」

 祭壇の上に安置された人形は怖いくらいに生々しく、陽介は目を見張った。五歳前後の子供をありのままに再現したような精巧なもので、祭りで見られる稚児のように華麗な水干姿だ。緩やかな巻き毛はわずかに赤毛の混ざった白金色で、瞳は赤い。兎のような赤い瞳は別として、白金色の巻き毛は明らかに西洋人形めいている。それは一見すると和風の衣装と合わないようだが、人形の顔立ちはさほど西洋的な要素が強くないため、意外なほど調和していた。かといって純粋な日本人の子供のようにも見えない。ハーフやクオーターといった感じだな、と陽介は思った。

「宍童子の依代ってところよ。聡美叔母さんがその界隈では有名な人形作家で、これも叔母さんが作ったものなの」

「球体関節人形ってやつかな?」

「そう、それ。陽介くん、知ってるんだ?」

「高校生の頃、友達の家に飾ってあったのを見かけて知ったよ。こういう感じのリアルで綺麗な人形だった」

 社会人の姉が少女趣味で、給料をつぎ込んで人形やらフリフリのドレスを買うのだと、友人は呆れていた。

 陽介は聡美の風貌を思い出し、確かに人形作家らしい少女趣味のにおいがすると思った。さっきの食事の席では長い巻き髪に花柄のワンピース姿だった。陽介たちの結婚式でもレースとフリルで飾り立て、なかなか目立っていた。若々しい美人だから似合ってはいるが、見る人によっては少し引いてしまうような趣はある。

 宍童子の依代であるこの人形の容姿は聡美の球体関節人形作家らしい耽美さの現れなのだろうと、陽介は解釈した。

「この日付、一花さんの誕生日と同じだね。平成十六年だから、もしかして一花さんの七歳のお祝いに奉納したのかな」

 ガラスケース内には人形と共に日付が記された札も納められている。その日付はちょうど一花が満七歳を迎えた日と同じだった。

「まあ、そんなところ。陽介くん、そこに座って。胡坐をかいて楽にしていいから」

 すべての蠟燭に火を灯し終えた一花の指示に従い、陽介は祭壇の手前に敷かれた座布団に腰を下ろした。

「そこ、布に切れ目があるでしょう」

「ああ、本当だ」

 階段状になっている祭壇には白い絹織物が掛かっており、段と段の間の部分に切れ目があった。陽介は小学生の時にまわりの女子が持っていた布製のポケットティッシュ入れを思い出した。ポケットティッシュを綺麗な布で作った入れ物に入れて持ち歩くことが流行っていたのだ。祭壇の布の切れ目はポケットティッシュ入れからティッシュを取り出す合わせ目の部分に似ていた。

「そこから腕を入れて。祭壇に穴が開いていて、奥まで腕を差し込めるようになっているの。腕を入れたら宍童子が指先から邪気を吸ってくれるはずだから」

「穴の向こうはどうなっているの?」

 単純な好奇心と、得体の知れない空間に腕を突っ込む不安感から陽介は訊ねた。

「もちろん、宍童子がいるわ。腕を入れたら、いいと言うまで抜いちゃだめよ。指先を吸われる感覚にびっくりすると思うけど、何も怖いことじゃないから抗わないで」

「ちょ、ちょっと待って。本当に何かに指先を吸われるのか? 念のために聞いておくけど、宍童子って架空の存在というか、概念というか、実体のない神様なんだよね?」

 急に陽介は恐怖を強く感じた。この儀式はただの形だけのもので、宍童子は実在する存在ではないと当然のように思っていた。だが、一花の口ぶりでは祭壇の向こうの空間に宍童子と呼ばれる何者かが本当におり、指先を吸うかのようだ。

「そう怖がらないで。気持ち悪いと思うだろうから言いたくはなかったのだけど、教えるわ。実はね、うちの家族が祭壇の向こうにいて、指先を吸うの。つまり家族の者が宍童子に扮して役割を果たすのよ。ほら、人が神様に扮して行う儀式って、世界中に見られるでしょう。秋田のなまはげなんかがそう。あれは来訪神といって年に一度やってくる神様だけど、人が神様に扮するという面では一緒。家族に指を吸われるなんて嫌でしょうけど、我慢して」

 仕方ないとばかりに一花は宍童子の仕組みについて明かした。陽介は恐ろしさこそなくなったものの、嫌悪感を覚えた。義理の家族の誰かに指を吸われるなんて、正直かなり気持ちが悪い。

「家族って誰?」

「それは明かさない決まりなの。そもそも知らない方がいいのよ。誰か分かっちゃったらあとで気まずいでしょ」

 それもそうだと、陽介は納得した。顔を合わすたびにこの人が自分の指を吸ったのかと思い、気まずさと嫌悪感を味わうのはごめんだった。

「……それじゃあ、手を入れるよ」

 嫌々ながらも陽介は腹を括り、祭壇の布の切れ目に手を突っ込んだ。こんな訳の分からない儀式なんて早く済ませてしまいたかった。

 腕を奥まで突っ込んだ数秒後、温かい口内に人差し指を咥え込まれ、陽介の肌は粟立った。まだどんな人たちなのかもよく知らない義理の家族の顔が次々と頭に浮かんでくる。これは人間ではない――宍童子という神様なんだ。神様相手に気持ち悪いだなんて思ってはいけない。どうにか嫌悪感を消し去りたくて、陽介は胸の中で自分に言い聞かせる。

 宍童子は乳を飲もうとする赤子のように陽介の指を吸い始めた。

 指先から何かが吸い出される感覚に陽介は大きく身震いした。同時に激しい快感が湧き上がってきて、言葉も出なかった。それは陽介が知るどんな感覚よりもはるかに強い快感だった。酒に心地よく酔った時とも、性的絶頂に達した時とも比べものにならない圧倒的な快さ。人間が感じ得る快感の最大限と言っても過言ではなかった。隆がしきりに吸ってくれと喚いていた理由がよく理解できた。この感覚を知ってしまえば、病みつきになって当然だ。どんなに病で衰弱していようとも、この陶酔を求めずにはいられないのだ。

 祭壇の向こうで陽介の指を咥える宍童子もまた、恍惚と目を細めていた。陽介の指先から迸るそれは今まで口にしたことのない極上の美味だった。ただ美味いだけではなく、量も申し分ない。他の食事はちょっと吸っただけですぐに出が悪くなって物足りないというのに、この食事はいくら吸っても尽きる気配はない。

 すぐに宍童子は満腹になった。食事が非常に上質なので、満たされるのも早い。それでも極上の美味をもたらしてくれた指から離れるのは惜しくて、子猫のように何度も指先を舐めた。

 指先を舐められる刺激に合わせ、息を詰めたり、吐息を漏らす陽介を見て、一花は苛立った。陽介は明らかに性的な快感を覚えている。まるで目の前で堂々と浮気をされているような腹立たしさを感じずにはいられなかった。

「陽介くんっ」

 我慢ならなくなった一花は陽介の肩を掴んだ。「腕、早く抜いて」

「あ……ああ、うん……」

 名残惜しく思いながらも陽介は祭壇を覆う布の切れ目から腕を抜いた。一気に引き抜けば宍童子を驚かせてしまうと思い、ゆっくりと抜いた。そのちょっとした気遣いに気づいた一花はさらに嫉妬心を膨れ上がらせた。

「ねえ、陽介くん、大丈夫? もしかして気分が悪い?」

 快感の余韻で半ば放心したようにぼんやりとしている陽介に、一花は改めて呼びかけた。陽介は隆や死んだ他の婿たちとは違い、この儀式に耐え得る逸材のはずだ。だからこそ彼を結婚相手に選んだ。そう思いながらも、もしかすると駄目だったのかもしれないという不安がよぎる。

「いや……平気だよ。ただ、すごく不思議な感じがしてびっくりしちゃって」

 陽介はみだらな感覚をどうにか振り払い、平静を装って答えた。一花は安堵した。他の者だったら宍童子に吸われると気を失ってしまうか、意識が朦朧とするほど衰弱してしまう。だが、陽介はやはり何ともなかった。彼を選んだ自分の目に狂いはなかったのだ。

「それならいいわ。もう儀式は終わりだよ」

「本当に指先から何かが吸い出されていくような感じがしたんだ。一体、あれはどういう仕組み?」

 祭壇の前から立ち上がりながら陽介は訊いた。

「陽介くんったら野暮なことを言う。神様のすることに仕組みだなんて」

「はぐらかさないでよ。まさか、変な薬なんて使ってないよね?」

 陽介は薬物を使われたのではないかと、半ば本気で疑っていた。一花が自分に妙な薬を使うなんて思いたくはなかったが、あのような強い快感をもたらすものといえばそれくらいしか思いつかない。そもそも、宗教儀式と薬物は関連性が強いものだ。どこぞの民族のシャーマンは儀式を行う際に幻覚作用のある薬物を用いてトランス状態になるという。

「やだ、何言ってんの? 私が陽介くんに薬なんて使うわけないじゃない」

 突拍子もないことを言うと、一花は笑い飛ばした。

「でも、明らかに普通の感覚じゃなかった……」

「よく分からないけど、儀式の雰囲気に飲まれて催眠状態のようになっていたんじゃない? あんまり気にしない方がいいわ」

 一花は祭壇の上の蝋燭を次々と消してゆく。陽介は解せない思いで彼女を眺めていた。最後の蝋燭は人形のすぐそばにあった。改めて見ればその人形は非常に繊細な愛らしい顔をしていた。だが、やけに悲しげに見える。陽介に人形を愛でる趣味はないが、その人形を見ていると無性に胸苦しさを覚え、抱きしめたいような思いがした。

 一花が人形のそばの蠟燭を消す寸前、人形の目が動き、陽介の方を見た。人工物を嵌め込んでいるはずのその目は確かに生きている者特有の潤いを帯び、赤くきらめいた。

 陽介は悲鳴を上げると同時に一花の腕を掴み、無我夢中でその場から逃げ出した。

「何? 何なの? 陽介くん、痛いよ!」

 一花は戸惑いの声を上げるが、陽介は答える余裕もなく通路を走る。二重になっているドアを壊しかねない勢いで開け、廊下に飛び出そうとしたが、急ブレーキがかかったように突然動きを止めた。

「きゃっ」

 勢い余った一花が陽介の背にぶつかり、小さな悲鳴を上げた。

 ドアを開けてすぐのところに男が立っていた。陽介はどこにいても目立つほど大柄な体躯だが、その男も大きい。端正だが険しい顔つきをした三十歳前後の青年だ。

 この人、一花の亡父ではないか。恐怖の中で陽介は彼が何者であるか気がついた。仏間にある遺影で彼の顔をしっかりと覚えていた。一花が陽介に対し父と似ていると言っていたので、気になって遺影をまじまじと見ていたのだった。

 なんという悲しい目だろう。これほどまでに悲しい目を陽介は見たことがなかった。この世のすべての悲しみを集めてもまだ足りないような、あまりに深く重い悲しみが男の目の中にあった。

 男は陽介を見つめながら、すうっと姿を消した。人形の目が動いたことに続く怪異の追い打ちに陽介の喉からは悲鳴も出てこず、ただ目を見開いて硬直していた。

「陽介くん……?」

 ただならぬ様子の陽介に一花は怪訝な思いで呼びかける。陽介の背に遮られ、一花は男の姿を目にしなかった。

 恐ろしさのあまり青ざめ、まともに口もきけずにいる陽介を一花はダイニングに連れていった。湯を沸かし、カモミールティーを淹れてやる。

「飲んで。カモミールって心が落ち着く効果があるんだよ」

 お茶なんかで心が落ち着くならば何杯でも飲もうと、陽介はマグカップを受け取った。動揺のあまり口の中が乾いている。手が震えてこぼしそうになりながらも、どうにか一口すすった。

「……一花さんが最後の蝋燭の火を消そうとした時、人形の目が動いて俺の方を見たんだ。逃げ出してドアを開けた時、すぐそこに男が立っていた。目が合った直後、その人は消えてしまった。その人、遺影で見た一花さんのお父さんにそっくりだった……」

 ダイニングの煌々とした明るさとカモミールティーのおかげか、陽介はやっと一花に自らが目にしたものを説明することが出来た。

「お父さんが……? やっぱりまだこの家にいるのね!」

 怯え切っている陽介に反し、一花は喜びの声を上げた。

「一花さん、怖くないの?」

「だって、自分の親だもの。全然怖くないわ。実は前に少し霊感があるっていう友達が遊びに来た時に、この家には男の幽霊がいるみたいだと言って怖がっていたの。それで私、お父さんが今でもそばにいてくれているのかもしれないと期待していたのだけど、やっぱりいたのね」

 嬉しそうな一花に陽介は彼の様子を打ち明けられなかった。彼は明らかに深い悲しみを宿しており、娘を温かく見守っているというような様子ではなかった。物狂おしいまでに悲しいあの目。あんな目をするからには、よほどの事情があるように思えてならない。霊感があるという友人が怖がっていたのも、彼の悲哀に満ちた感情を感じ取ったからではないか。

「それにしても、陽介くんは霊感が鋭いんだね? 私はがっかりしちゃうくらい全然ないの。今まで一度もお父さんの存在を感じられたことなんてないし」

 少し寂しそうに一花は言った。

「俺も霊感なんて……」

 陽介は自分にだって霊感などないと言おうとしたが、よく考えれば心当たりがないわけでもなかった。幼少期に一度だけ、心霊体験としか言いようがない経験をしている。

 まだ保育園に通っていた頃のことだった。自宅の片隅にうずくまっている老人が見えていた時期がある。陽介はあのおじいちゃんは誰なのと母に訊ねた。母には何も見えなかったが、気味悪がって盛り塩をした。じきに陽介は凄まじい悪臭を感じた。見ると、老人は全身が腐敗して皮膚が黒ずみ、ガスで膨れ上がっていた。恐ろしさのあまり陽介は泣きじゃくるも、母にはやはり何も見えない。陽介が嘔吐するほどの悪臭を感じても、彼女には何も感じられず、ただ戸惑うばかりだった。翌日、老人の姿は消えており、悪臭もなくなっていた。ただ、老人がいた場所に黒い染みができていた。

 ずいぶんと昔の出来事なので普段は思い出すこともない。しかしこれだけはっきりと強烈な体験をしているということは、実は人並み以上に霊感が備わっているということなのかもしれなかった。

「とにかく幽霊を見たのだとしても、私のお父さんなのだから怖がることはないわ。ねえ、なんか食べない? 小腹が空いちゃった」

 一花は鼻歌を歌いながらキッチンの方へ立った。

 その晩、陽介はなかなか寝付けなかった。すぐ隣では一花が小さな寝息を立てているが、陽介には安らかな眠りなど訪れはしない。なんという奇妙な家にきてしまったのだろうという思いで頭がいっぱいだった。一花と結婚できたこと自体は嬉しいものの、この家の異様さには不安を覚えずにはいられない。

 人形の目が動いたことや、亡父の幽霊もさることながら、宍童子とやらだってひどく不気味だと、改めて思った。何よりも不思議なのは指を吸われている時の強烈な快感だ。あれは一体なんだったのか。いくら考えても謎は解けそうになく、出口のない迷路の奥深くに迷い込んでゆく思いがした。

 翌日から陽介は自らの仕事に手をつけ始めた。仕事部屋として、寝室の向かいの部屋を使わせてもらうことになった。

 仕事部屋からは広い中庭が見下ろせた。ぐるりと壁に囲まれた空間はスペインのアンダルシア地方に見られるパティオめいている。手入れはされておらずに荒れているが、見苦しくはなく、退廃的な美しさがあるといってもいい雰囲気だった。煉瓦や石を敷いた通路、古びた東屋、枯れた蔓が絡むアーチ、朽ちかけた木製のトレリス、様々な大きさの鉢、ロックガーデンの名残の積み上げた石――そういったものがあちこちに残っている。かつてはかなり手の込んだ庭であったことが窺えた。

 日中、一花や家族の一部は働きに出ている。彼女たちが経営する会社及び工場に赴き、大ヒット商品である美容サプリメント『セントピュア』等の製造に勤しみ、さらなる良質な商品の開発を目指して研究と開発を進めている。

 職を持たない者たちは屋敷でのんびりと過ごすか、気の向くままに遊びに出かける。今日は東京の方まで足を延ばすと言って、皆で姦しく出かけていった。たとえ後期高齢者であっても身も心も元気なので、苦もなく遠出を楽しめるのだった。

 陽介くんも仕事を辞めて専業主夫にでもなればいいんじゃないの、と一花は軽い調子で言う。専業主夫とはいうが、やるべき家事も家族の世話もないため、実質的にはヒモになるということだ。家事は通いの家政婦がこなしてくれるし、この家には高齢者がたくさんいるが、皆やたらと元気で世話を必要とする者もいない。妻が働いている中で自由に遊び暮らしても楽しいとは思えないに違いないので、陽介はデスクに向かい、パソコンを立ち上げる。

 広い屋敷内は少数の家人と、家政婦がいるばかりで、ごく静かだ。それでも日中の明るさゆえに不気味さは感じない。昨夜の恐ろしい出来事が嘘のように陽介は快適に過ごした。昼になるとダイニングに行って家政婦が作ってくれた食事をとり、また仕事部屋に戻って作業を再開した。

 やがて疲れを感じた陽介は大きく伸びをした。同じ姿勢で座ってばかりいるため、身体じゅうが凝っており、肩甲骨のあたりがポキポキと音を立てた。体力は人並み以上にあっても、デスクワークにおいては人並みに疲れる。ふと窓の外を見ると、淡い金色の夕陽が中庭に降り注いでいた。陽介は気分転換に中庭に出てみようと思い立った。

 窓から見た限り、中庭は外から出入りできない閉ざされた作りであるようだった。一階に降り、サンダルを持って中庭へと続く出入り口を探す。大きな窓が連なる廊下の奥にガラスドアがあり、それが中庭への出入り口だということが分かった。

 荒れた中庭はひどく静かだった。風がそよとも吹かず、空間そのものが滞っているかのような倦怠感が満ちていた。放置された鉢植えの植物はとうに朽ち果て、代わりに雑草がまばらに生えている。地植えの薔薇は秋薔薇の名残がどうにか一輪だけ咲き残っているが、葉には黒点が現れ、明らかに病んでいる。

 蜘蛛の巣の張った東屋の中のベンチに陽介は腰を下ろした。屋外でありながら壁に囲まれ、外部から隔てられた空間。おそらく今は誰も出入りしておらず、家人から忘れ去られている場所。この中庭そのものが幽霊のように寂しく、あやふやな存在であるように感じられた。

 肌寒いが、新鮮な空気が快い。それにあまりに静かなため、昨夜は眠れなかった陽介はいつの間にか居眠りをしていた。

 目覚めているのか、夢を見ているのか、陽介は自分でも分からない。そのどちらでもあるような不思議な感覚がした。身体がこっくりこっくりと船を漕ぎ、覚醒と睡眠の状態を行き来する中で、意識が狭間の世界に迷い込んでしまったようだった。

 陽介は東屋の梁からだらりとぶら下がる人間の後ろ姿を見ていた。梁に縄をかけ、首を吊っているのだ。後ろ姿ではあるものの、ノースリーブの白いワンピースを身につけた華奢な体躯から若い女であることが察せられた。

 船を漕いでいた身体がガクッと大きく崩れ、陽介の意識は明瞭になった。危うくベンチから転げ落ちてしまうところだった。陽介はすぐに女が首を吊っていた場所に目をやったが、そこには影も形もなかった。

 嫌な夢を見てしまった――そう思った瞬間、背後から首に手を回され、締め上げられた。ひどく冷たい手だった。冷たさが骨の髄まで染み入り、陽介は凍りついたように動けなくなった。締めつける手に抗いたくとも抗えない。

「芳秋さん……」

 陽介の耳元で女が囁く。首を締め上げる強い力には似つかわしくない細い声だった。

 芳秋――それは一花の亡父の名だった。亡父と自分は似ているのだと一花は言うが、まさかこの人は人違いをしているのか。人違いなんかで絞め殺されるなんてまっぴらだ。陽介はぐっしょりと汗をかき、どうにか身体を動かそうとするも、呪縛は解けない。苦しみの中で女の憎しみ、悔しさ、切なさが陽介の中に流れ込んでくる。

 私はあなたのためならなんだってしたのに、あなたは冷たかった……

 陽介は奔流のように押し寄せてくる女の感情に支配され、それが自分自身の感情であるかのように切なくなった。彼女は芳秋を愛していたが、裏切られた末に死を選んだのだろう。

 気がつけば陽介は東屋の中に倒れていた。すでにあたりは暗くなり、身体は冷え切っていた。陽介は急いで家の中に入った。

「夕方に中庭に出てみたんだけどさ……いつのことか分からないけど、もしかしてあの東屋で何かあった?」

 就寝時、陽介は一花に問いかけた。他の家族もいる夕食の席では話しにくかったので、一花と二人きりになれる時を待っていた。

「東屋? どうして……?」

 スツールに腰掛け、腕や脚にクリームを塗り込んでいた一花は顔を上げて訊き返した。その青ざめた顔は明らかに東屋で何かがあったことを物語っていた。

「それが実は――……」

 陽介は女の首吊りの幻影を見たことや、首を絞められたことを打ち明けた。一花は黙って聞いていたが、やがて重い口を開いた。

「陽介くんが見たのは、厚美叔母さん。東屋で自殺した私の叔母。お母さんの末の妹だわ……」

 厚美が自殺した日は忘れもしない。その日は一花の七歳の誕生日で、東屋で縊死している彼女を最初に見つけたのは一花だった。

 中庭にはもう行かないことにして陽介は過ごした。あんな目に遭ったからには二度と近づきたいとは思わないし、家人らも厚美が命を絶った場所に婿がむやみに出入りするなんて好ましく思わないだろう。

 陽介は芳秋に怒りを覚えていた。彼は一花を愛さず、悲しい思いをさせた。妻の妹である厚美を恋に狂わせ、自ら命を絶たせてしまった。彼の実際の人となりを知るすべはないが、罪深い男だと思えてならなかった。

 宍童子に邪気を吸い出してもらう儀式は三日に一度の頻度で続いており、慣れを感じてきた。それでも不気味だという思いがなくなったわけではないが、しかし指を吸われる快感の前では何も気にならなくなる。祭壇に祀られた人形は恐ろしいものの、吸われている時は恐怖心なんて雲散霧消してしまう。

 祭壇の向こうでは宍童子という神に扮した家人の誰かが指を吸っている。陽介はそれを家人の誰かではなく、宍童子という独立した存在として感じるようになっていた。宍童子が自分の指を咥え、吸うことで二人は繋がり合い、不思議な絆で結ばれているように感じた。

 宍塚家の近くには民家も商店もない。だが自然ならば溢れており、宍塚邸の裏手は森が広がっていた。戸外での活動が好きな陽介はよく森の中を散策するようになっていた。

 その日は今までにないほど森の奥へ入ってみようと試みた。この間登山をした際の残りの携行食と水筒を携え、迷わないように目印を残しつつ、森の奥深くへと向かってゆく。かなり歩いたところで、近くの茂みがガサガサと音を立てた。熊や猪だったらまずいと陽介は身構えたが、茂みの中から飛び出してきたのは一匹の猫だった。白毛に黒い斑のある猫はピンと尾を立て、陽介にすり寄ってきた。

「なんでこんなところにいるんだ?」

 明らかに人に慣れているので、もとは飼い猫だったに違いない。しかし、なぜ森の奥にそんな猫がいるのか不思議だった。けしからぬ輩がわざわざ森の中にこの猫を捨てたのかもしれない。陽介は哀れに思いながらしゃがみ込んで猫を撫でた。猫は愛想よく喉を鳴らした。

 まだ遺棄されて間もないのか、猫は痩せてもいないし、毛艶も良い。だが、野生動物と違って捨て猫が森の中で生きてゆくのは困難だろう。

 猫は急に陽介から離れ、駆け出した。保護してやらなければならないという思いから、陽介は慌てて追いかけた。追いかけているうちに森の中を抜け、開けた場所に出た。

 そこには広大な野原が広がっており、冬枯れとは相反する春のような麗しさに満ちていた。あたたかい陽の光が降り注ぎ、世界中のすべての種類の花が揃っているのではないかというほど、多種多様な花々が咲き乱れている。清らかな小川の中にさえ水草が可憐な花を咲かせており、まさに楽園としか言いようのない美しい場所だった。

 野原の中には家が一軒だけ建っていた。

 冬の薄暗い森の中から急に温暖な野原に出るなんて、一体どういうことだろう。狐にでも化かされているのだろうか。信じられない思いで立ち尽くす陽介をよそに、猫は花の野を悠々と歩き、家の方へ向かっていった。陽介は導かれるように猫のあとをついてゆく。春のような陽気に汗ばみ、着ていた上着は脱いだ。

 家の周りにはたくさんの果樹が植わっており、豊かな実りに梢が重そうにしなっている。野苺の茂みも広がっていて、緑の葉の中に熟れた赤い実が艶やかに光っている。無数の小さな白い花をつけた植物の蔓が家の壁面を這い、広く張り出たカバードポーチの柵や二階のバルコニーの柵にまで絡んでいる。あたりに漂う白い花の芳香は陽介を陶酔させ、夢のように美しい野原や家をいっそう幻じみたものに感じさせた。

 猫はカバードポーチに吊り下げられたブランコに飛び乗り、毛繕いを始めた。捨て猫ではなく、この家で飼われている猫なのだろう。

 この家にはどんな人物が住んでいるのか。好奇心を抑えきれず、陽介は躊躇いがちにドアを叩いた。現れたのは着流し姿の男だった。一瞬、陽介は自分よりだいぶ年上のように思った。だが、渋みのある老成した雰囲気がそう感じさせただけで、よく見ると自分とそれほど変わらないようだった。三十歳前後といったところだろう。

「こんなところに迷い込んでくるとは……」

 男は怪訝な顔で陽介をじろじろと見た。陽介も意外な思いで男を見つめていた。妖精の住処のような花の家から着流し姿の男が出てくるとは思わなかったのだ。日常的に着物を着る現代人は少ないが、この男の着流し姿はこなれており、明らかに普段から着慣れている様子が見て取れた。年に一二回、夏祭りや花火大会に出かける時だけぎこちなく浴衣を着るような人とはまるで雰囲気が異なる。

「急にお訪ねしてすみません。森の中を散策していたら偶然ここに辿り着いて……お宅が一軒だけあったので、思わず訪ねてしまいました」

「あんたはどこの誰だ?」

「宍塚と申します。最近、宍塚家の婿になった者です」

 宍塚家は地元ではかなり有名な家だ。きっと知っているはずだと思い、陽介はその名を口にした。男は目を見開き、驚いた顔で陽介を見つめた。

「そうか……では、俺とは少なからず因縁があるのだな。だからあんたはここに辿り着いたわけだ」

「因縁?」

 一体何のことだろうと陽介が思った時、家の中から不安げな幼い声がした。

「清治、誰か来たのか……?」

「お客さんです、シロウ様。珍しいこともあるものですね。胡乱な者ではないのでご安心ください」

 五、六歳くらいの子供がやってきて、男に隠れるようにしながら陽介を見上げた。その目は赤く、緩やかにカールしている髪は白金色だった。白いブラウスに水色のショートパンツがよく似合っている。

 陽介は宍童子の部屋の人形を思い出さずにはいられなかった。赤い瞳に白金色の髪という風変わりな特徴は全く同じであるし、背格好も同じくらいで、顔立ちもどこか似ている。

「こんにちは」

 おずおずと眼差しを向けてくる子供の可愛らしさに笑みをこぼしながら、陽介は声を掛けた。子供は怯えたようにいっそう男の陰に隠れながらも、小さな声で挨拶を返した。

「婿殿、お茶でも飲んでいきなさい」

 清治に勧められるがままに陽介は家に上がった。猫も陽介と共にするりと中に入った。

 今、自分は夢を見ているのだ。陽介はこの状況をそんなふうに捉えていた。季節を無視した花の咲き乱れる野原が突然現れ、風変わりな着物姿の男と金髪の子供が住む家に辿り着くなんて、そうとしか思えない。

 室内は木製の家具を備えた親しみ深い雰囲気だった。陽介は宍塚邸のような豪邸よりも、こういう家に住みたいと思った。宍塚邸は贅沢な広さが却って不便であるし、落ち着かない。家具調度品も豪華であるが、陽介の好みではない。

 清治は陽介に椅子を勧め、キッチンへ向かった。

「シロウくん、だっけ。いくつなの?」

 陽介の問いかけにシロウは「二十二」と答え、躊躇いがちにテーブルを挟んだ陽介の斜め向かいに座った。すぐさま猫が彼の隣の椅子に飛び乗った。

「え?」

「数えで二十二歳……だったと思う」

 猫を撫でながらシロウはもう一度答えた。

 どう見ても幼児の姿ながら、二十二歳。しかも数え年という現代では滅多に用いられない数え方だ。陽介は少し戸惑いながらも、受け入れていた。夢と思えばどんな不可解な事柄も受け入れられる。

 清治は飲み物と菓子を出した。自分と陽介にはコーヒー、シロウには真っ赤な野苺のジュースだ。

「こんな綺麗なところが森の中にあるなんて思ってもみませんでした。ここで暮らしているなんて、羨ましい限りです」

「そう、本当に気分がいいよ。美しいし、とても静かだ。訪ねてきた者だってあんたが初めてだ。シロウ様、クッキーを召し上がりますか? チョコレート入りのがよろしいですね」

 清治は陽介の相手をしつつ、シロウの世話を焼いた。シロウは小動物のような愛くるしい仕草でチョコレートクッキーをかじった。

 二人はどういう間柄なのだろうと陽介は気になった。大の大人が幼児にしか見えない相手に対し、やけに恭しく接しているのは不思議な光景だった。

「こんなにいいところなのに、誰も訪ねてこないのですか?」

「そうだとも。そう簡単に訪ねてこられては困るしな。ここはシロウ様と俺だけの場所なのだから」

 楽園のような花の野と居心地の良い家が二人だけのものであるなんて、なんという贅沢だろう。陽介は彼らほど幸福な者たちはいないように思えた。

 コーヒーを飲んだあと、陽介は暗くなる前に森を抜けなければと、席を立った。三人は戸外へ出た。猫もついてきた。

 別れ際、清治は懐から懐中時計を取り出し、陽介に渡した。

「これをお守りとして持っておきなさい。くれぐれも用心するように」

「何を――」

 手の中の懐中時計に目を落としていた陽介は、何を用心するのだと問うために顔を上げた。だが、そこには清治の姿はなく、シロウや猫の姿もなかった。花が咲き乱れる野も家も消え失せ、目の前には寒々とした冬の湖が広がっているばかりだった。

 陽介は湖の前で立ち尽くしていた。ひどく頭がぼんやりとする。今まで何をしていたのか、どうしても思い出せない。いつ木々の生い茂る森を抜けてこの湖に出たのだったか。猫と出くわしたところまでは覚えているが、それから先が思い出せない。さらに不可解なのは手に握っている懐中時計だった。こんなもの、いつどこで手にしたのだったか。答えが出ないまま陽介は懐中時計をしまい、踵を返した。暗くなる前に森を抜け、帰らなければならない。

 帰宅した陽介は森で記憶が抜け落ち、気がついたら湖の前に佇んでいたことを一花に話した。

「記憶が飛ぶなんて、怖いわ。一度病院で診てもらった方がいいよ」

 なんらかの病気かもしれないと、一花は案じた。

「そうだね……もし運転中とかに症状が出たら、相当やばいしな」

 車の運転中に病気の発作を起こし、事故を起こす話はしばしば耳にする。そうなれば自分の身が危ういというだけではなく、他者にまで危害を加えてしまうかもしれないのだ。

 怖くなった陽介は早速病院の予約をとり、検査を受けた。結果、脳やその他に異常は見られず、一過性の健忘症だろうと診断された。若年での発症は稀だが、この病気自体は珍しいものではないという。繰り返すような性質のものではなく、発作は一回きりである場合がほとんどであるため、特に不安がることはない。医師の説明に安堵した陽介は、街に出たついでに家人に菓子でも買って帰ろうと思いながら会計を済ませた。

 陽介はエントランスの方に向かって歩き出した。前方から老女が付添人に支えられ、ゆっくりと歩いてくる。

「あら、お兄さん、良いものを貰ったのねぇ」

 やにわに老女は陽介に声を掛けてきた。

「え? なんです?」

「懐中時計ですよ。でも今は持っていないのね。せっかく良いものを貰ったのだから、肌身離さず持っておくのがいいですよ」

 皺だらけの顔で陽介を見つめながら、老女はしかつめらしく言う。

「すみません。認知症で、ちょっとおかしなことを言ってしまうの。気にしないでくださいね。さあ、行きましょう」

 戸惑う陽介に付添人は謝り、老女を連れて再びゆっくりと歩き出した。

 不思議な気分で陽介は帰路についた。考えに耽っていたため、家人に菓子を買うのを忘れた。老女の言葉が頭から離れない。老耄ゆえの空言に過ぎないと言ったらそれまでだが、森の中でいつの間にか手に握っていた懐中時計の件があるため、心に引っかかってしまうのだった。老女は『貰った』と言っていたが、一体誰が自分にくれたというのか。答えは失った記憶の中にあるのだろうが、思い出すすべはない。

 謎は解けないものの、陽介は老女に言われた通りに懐中時計を肌身離さず持ち歩くことにした。宍塚邸は幽霊の出る不気味な家だが、ポケットの中の懐中時計を思うと、なんとなく安心できた。

 年末になると、宍塚家はにわかに慌ただしい雰囲気に包まれた。どっしりとした古い日本家屋と、後に建て増した華やかな洋館からなるこの屋敷はたいそう広い。大掃除や正月の準備は家政婦に任せるだけではとても間に合わないため、一家総出で取り組んだ。

「やっぱり若い男の人がいるといいねぇ。本当に助かるよ」

 家人らは口を揃えて言う。高齢女性が多い宍塚家では上背があって膂力のある陽介は重宝がられた。高いところに手が届き、重い物も運べる男手があるとないとでは、大掃除の捗り方が違ってくる。陽介はあちこちから声を掛けられ、働きまわった。

「悪いけど、納戸からお正月用品を詰めた箱を出してきてもらえるかしら。三箱あって、屠蘇器やら飾り物やらをしまってあるの。大きく『正月』と書いてあるから、見たらすぐに分かるはず」

 聡美に頼まれ、陽介は納戸へ向かった。

 二箱は納戸の手前の方にまとまっていたため、すぐに見つけられた。だが、もう一箱が見当たらない。聡美は三箱と言っていたが、二箱ですべてではないだろうか。そう思いながらも、埃臭い納戸の中に収められた様々な品物の中から最後の一箱を探す。

 そうしているうちに、木箱に入った数冊のアルバムを見つけた。早く頼まれた箱を見つけて持っていかなければと思いながらも、つい表紙に『一花』と書かれた一冊を手に取って開いた。

 アルバムの最初のページには新生児の写真が収められていた。赤ん坊は二人写っており、白い肌着を着せられ、隣同士に寝かされている。一方は間違いなく黄色人種の赤ん坊だが、もう一方の赤ん坊は色素が薄く、白人の赤ん坊のように見えた。皮膚が透き通るように白く、綿毛のような白っぽい髪が小さな頭を覆っている。目を閉じているので瞳の色は分からない。

 新生児ゆえに顔にまだ個性が現れておらず、どちらの赤ん坊にも一花の面影を見出すことは難しい。だが、これは一花のアルバムなのだから片方は一花であるに違いないので、黄色人種の赤ん坊が一花だろう。一方の白い赤ん坊は誰なのか。

 赤ん坊が二人写っていたのは最初の一枚だけで、あとは一花が中心だった。大家族の中で可愛がられて育ったことが伝わってくる写真ばかりで、なんとも微笑ましい。だが、父親の姿が見えなかった。母親をはじめとした家族らと写っている写真はたくさんあるが、父親との写真は一枚も見当たらない。芳秋は義理の家族と折り合いが悪く、一花のことまでも嫌っていたというが、写真がないのはそのせいか。陽介は次々とページをめくりながら、どうしてこんな可愛らしい娘を嫌うことができるのかと、改めて不思議に思った。

「陽介くん、箱のことだけど――」

 一花の声にはっとして陽介は振り向いた。

「聡美叔母さんに三箱って言われたでしょ。でも前の片付けの時に、私とお母さんで二箱にまとめ直したのよ。聡美叔母さんは知らなかったんだわ」

 三箱目は存在しないと、一花は伝えにきたのだった。

「ああ、見当たらないと思ったらやっぱりそうだったんだ。ねえ、一花さんのアルバムがあったから、つい見入ってしまったよ。最初のページに赤ちゃんが二人写っているけど、誰なの?」

「それは私と、私の兄よ。双子の兄」

「双子のお兄さん? 一花さんってきょうだいがいないんじゃなかったの?」

 思いがけない答えに陽介は当惑した。一花は一人っ子であると聞いていたし、二人の結婚式にだって兄なる人物は現れなかった。

「兄は赤ちゃんの時に養子に出されたの。私は兄のことを全く覚えていないし、自分が双子だなんてことも普段は忘れているから、陽介くんに話すこともなかったんだわ」

「そうだったんだ……一花さんに双子のお兄さんがいたとは。肌や髪が白いから、てっきり白人の子かと思ったよ。なんで一花さんらしき赤ちゃんが白人の子と一緒に寝かされているんだろうって不思議だった」

「兄は日本人離れして色素の薄い子だったらしいわ」

「お兄さんとは交流がないの?」

「うん。ずっと会っていないし、連絡もとっていない。兄はお父さんのお兄さんのところに養子に出されたのだけど、今現在うちと父方の親戚とは疎遠で、連絡もつかなくて」

「実のお兄さんと連絡もつかないなんて、寂しいね。それにしても、なんで養子に?」

 双子の兄妹のうち、片方を養子に出し、もう一方の子だけを親元で育てるなんて、陽介にはひどくつらい選択に思えた。もし陽介が親の立場だったら、非常に間違った選択をしてしまったのではないかという後悔が一生ついてまわりそうだ。養子にやられた子だって、たとえ養い親に可愛がられて育ったとしても、実の親に選ばれなかった、捨てられたという思いがつきまとってしまうのではないか。

「よく事情は知らないけど、向こうに子供がいなかったからじゃないかな」

「一花さん、会いたいと思わないの?」

「そうね、あんまり思わないなぁ。会ったところで、兄妹だっていう実感もわかないと思うし。そんなことより、そろそろ戻ろう。いつまで経っても戻ってこないって、叔母さんが業を煮やしているかも」

 陽介は慌てて箱を抱え上げ、納戸を後にした。

 年末はあっという間に過ぎ去り、元日を迎えた。

 旧家である宍塚家の正月は盛大なものだった。正月といえば雑煮が出るくらいで、特別な行事とは無縁の家庭で育った陽介には珍しい事柄の連続だった。玄関前には門松やしめ縄が飾られ、床の間には昆布、干し柿、橙で飾った鏡餅や十二支の置物が飾られた。普段はしまい込まれているたくさんの花器をかき集めて花をいけ、屋敷のあちこちに配し、空気を華やがせた。

 朝には家族全員が集まり、屠蘇を飲んだ。陽介は屠蘇を飲むのは初めてだった。作法が分からずにぎこちない陽介を家人らは面白がり、新年は和やかに始まった。

 午前中から客が次々と訪ねてきた。康夫の身内、隆の身内、亡くなった婿たちの身内、取引先の社長、地元の議員、地元警察署の署長、出入りの植木屋――陽介は代わるがわる紹介されるが、とても覚えきれそうになかった。

 若い一花は率先して来客をもてなし、息つく暇もない。新参者の陽介は勝手が分からないながらも、出来る限り手伝った。

 夕方過ぎ、最後の訪問客が暇を告げた。

「ああ、お腹空いたなぁ」

 ようやく応接から解放された一花は肩の力を抜き、胃のあたりを撫でた。

「一花さん、忙しくて食事する暇もなかったからね」

「食べなかったのは忙しかったせいもあるけど、お腹を空かせるためにあえて食べなかったの。お夕食のお雑煮をたくさん食べるためにね。今年のお雑煮は特別においしいはずよ」

「今年は特別なの?」

「そう。うちのお雑煮はね、数年に一度だけ特別な食材を使って作るの。それはお客さんには出さない家族だけのお雑煮で、すごくおいしいんだよ。陽介くんは本当にいいタイミングでお婿にきたね。数年に一度の特別を食べられるなんて」

 一花は子供のように目を輝かせながら特別な雑煮について語った。

 今朝屠蘇を飲んだ時のように家族全員が集まり、食卓を囲んだ。雑煮は関東によく見られる醬油仕立てのすまし汁に、年末についた餅を入れたものだった。見た目は陽介がこれまで食べてきた雑煮と大した違いはないが、味は極上で、数年に一度の特別な雑煮というのも納得の逸品だった。家族全員がテーブルに並ぶ他のおせち料理には目もくれず、雑煮に夢中になっている。

「一花さんの言う通り、本当においしい」

「こんなにおいしいお雑煮が食べられるなんて、宍塚家にきてよかったでしょ」

 いたずらっぽく一花は笑う。陽介はその笑顔がよりいっそう雑煮の味を引き立ててくれたように感じた。

「旨味は強いけど、後味がすごくさっぱりしているね。柚子でも入っているのかな。いや、柑橘系じゃないな。かすかだけど花のような香り――ジャスミンみたいな風味がある」

「そう、ほんの少しだけ感じられる上品な香りがいいでしょう。よそではまず食べられない味だわ」

 ふと陽介は思い出した。この風味には覚えがある。

「俺がこの家にやってきた初日に出してもらった刺身も、ジャスミンみたいな風味がしたと思う。この家の人たちはよくジャスミンティーを飲んでいるけど、もしかして料理にも使っているのかな?」

「さあ、どうでしょう。うちの特別なご馳走は秘伝だからね。たとえお婿さんでもおいそれとは教えられないわ。セントピュアの作り方並みに重要な秘密なの」

 一花は微笑みと共にさらりとかわす。

 陽介は少し驚いて軽く肩をすくめた。幽霊が出たり、宍童子という不思議な神を祀っていたりと、宍塚家は何かと謎めいている家である。だが、料理まで謎めいているとは思ってもみなかった。

 三が日も過ぎ、陽介も一花も日常に戻っていった。一花の出勤後、陽介も仕事部屋で作業に取り掛かった。

 昼になると家政婦の作ってくれた昼食をとった。献立はきつねうどんとタコとワカメの酢の物だった。料理上手な家政婦が作る食事はおいしいはずなのだが、陽介はひどく物足りない味に感じた。うどんの汁はしっかりとかつおと昆布の旨味が感じられるというのに、それでも物足りない。元日に食べた雑煮と同じく醬油仕立ての汁なので、どうしても比べてしまうのだった。あの素晴らしい味が相手では、どんな料理も霞んでしまう。次にあの雑煮が食べられる時が待ち遠しくてたまらないが、それはいつのことになるのかも分からない。なにせ数年に一度の珍しいご馳走なのだ。陽介はため息を禁じ得なかった。

 一月も半ばに差し掛かった頃、陽介は曾祖父の康夫から外食に誘われた。康夫は馴染みの料理店から良い食材が手に入ったという連絡を受けたため、陽介を運転手兼お伴にして出かけようと決めたのだった。康夫は卒寿を過ぎてもかなり元気ではあるが、さすがに車の運転は引退している。

「宍塚家のマイノリティである男同士、親睦を深めようじゃないか」

 助手席に乗り込んだ康夫は上機嫌だった。日々の食事に物足りなさを感じていた陽介も久しぶりの外食が楽しみだった。それに康夫に興味があったため、これはいい機会だと思っていた。どうして新入りの自分を除く婿たちの中で康夫だけがこんなにも元気で長生きしているのだろう。そんなことはただの偶然で理由を求めるなんて馬鹿げているかもしれないが、それでもじっくりと二人で話す機会を持ちたいと思っていた。

 シートベルトを締め、いざ車を出そうとした時、陽介は異臭に気がついた。他の家人と同じく康夫も香水の香りを強く漂わせているが、その香りに混じって悪臭が感じられる。車内という狭い密室がその臭いをはっきりと感じ取らせた。きつい体臭は宍塚家の遺伝的なものという話だ。なぜ婿であるはずの康夫まで臭っているのだろうと、陽介は怪訝に思った。だが、体臭が強いという特徴は何も宍塚家だけのものではないだろうし、高齢になれば誰しも独特な体臭がするようになるものだろう。夏ならば暑さを言い訳に窓を開けて換気できたが、真冬にその手は使えない。陽介は早く鼻が慣れて、臭いが分からなくなってしまうまで耐えるしかなかった。

「康夫さんもお婿さんなんですよね。あの家って、なんだかすごく変わった家ですよね。宍童子だとか、婿がやたらと早死にするとか。俺も早死にするんじゃないかって、ちょっと心配なんですよ」

「なあに、君は大丈夫だよ。だって俺と同じでずいぶんと丈夫そうじゃないか」

「ええ、まあ、丈夫さだけが取り柄なんです。俺、風邪をひいたり、体調不良で寝込んだ経験が本当にないんです。子供の時からずっと」

「それは俺も同じさ。この年になるまで一度も体調を崩したことなんかない。でも、長生きのために大事なのは身体の丈夫さだけじゃない。鈍感になってストレスを溜めないようにすることも大事だよ。一花の父親はそれができなかった。よく言えば繊細だったんだな。それで早死にしてしまったんだ。馬鹿だよ、本当に。自分から死んでしまうなんて」

「お父さんは自ら命を絶ったんですか?」

 初めて聞く話に陽介は驚きの声を上げた。芳秋は一花が子供の頃に亡くなったとは聞いていたが、それは初耳だった。

「そうさ。自殺なんて愚かだよ」

「芳秋さんって、どんな人だったんですか? 子供の頃、一花さんはお父さんに可愛がってもらえなかったと言っていました。なんでも娘よりもペットの兎を可愛がっていたとか……ちょっと変わり者のようですね?」

「さあ、俺はあまり接点がなかったから、詳しい人となりはよく分らんね。だが、なかなかハンサムで、若い娘にはたまらない魅力があったんだろうな。末の孫娘の厚美なんかあの男に夢中になってしまって、彼が一美の夫であることも憚らずに追いかけまわしていたよ。一美は仕事が忙しくてあまり家にはいなかったから、気がつかなかったようだな。それで厚美は妊娠したが、子は流れてしまった」

 中庭で縊死した厚美の姿が脳裏に浮かび、陽介の肌は粟立った。以前の宍塚家で形成されていた三角関係には強い嫌悪感を覚えずにはいられない。家庭内という狭い世界で婿と義妹が不倫した挙句、妊娠までしたなんて、あくどい昼メロ顔負けの醜悪さだ。

「さて、死者のスキャンダルを晒すのはもうよしておこうか。とにかく、自殺なんて馬鹿なことだよ。陽介くんもこの先何かあったとしても、深く思い悩むなんてよしなさい。ただ、うまいものでも食って人生楽しめばいいのさ。俺はいわゆる食道楽でね、うまいものを食うために生きているようなものなんだ。だから宍塚家に婿入りして本当によかった。あの家でたまに出るご馳走はたまらない味だからなぁ。これから行く店は宍塚の特別な味にはかなわなくても、それでもうまいものを食わす名店だよ。とりわけ今日はなかなかすごいものが食えるはずだ」

 康夫は話を切り替え、これから食べに行く食事について思わせぶりなことを言い出した。

「すごいって、どんな?」

「いわゆるゲテモノだが、味は上等なんだ。ちょっとびっくりさせてしまうかもしれないが、一口食えばきっと気に入ると思うよ」

「えっ、怖いな。虫とか蛙ですか?」

 久しぶりの外食に喜んでいた陽介だが、それを聞いて楽しみな気持ちが雲散霧消した。最初からゲテモノ料理を出されると知っていたら、何かと理由をつけてお伴を断っていただろう。

「それは着いてからのお楽しみだよ。ここで明かして帰られても困るからな」

 内心、ひどく帰りたいと思いながら陽介は車を走らせ続けた。

 着いたのは山の中にぽつんとある料理店だった。客席はすべて個室になっており、他の客を気にせずにゆっくりと食事ができるつくりではあるが、店内全体が薄暗くて陰気だった。

「宍塚様、お待ちしておりました。すっかり用意が整っています。どうぞこちらへ」

 店主は瘦せぎすの六十がらみの男で、長い髪を束ねた姿はどこか仙人めいていた。彼は愛想よく二人を席へと案内する。途中、陽介はどこからか甲高い叫び声が聞こえてきた気がした。気のせいだろうかと思いながらも、不安は高まってゆく。ゲテモノ料理なんて絶対に口にしたくない。どうやって断ろうかと思っているうちに、小部屋に着いてしまった。小部屋の中は嫌な臭いがして、思わず顔をしかめた。とても食事の場には適さない獣臭さが漂っている。

「さあ、陽介くん。座って座って」

 康夫は嬉しげに着席を促す。テーブルの中央にはすでに銀色のクローシュをかぶせた料理が置いてあった。ここまで来たらもう逃げられない。陽介は腹を括り、席についた。

「今の日本で提供できるのは当店だけと言っても過言ではない珍味中の珍味です。それでは、ご賞味ください」

 店主は得意げにクローシュの把手に手をかけ、静かに持ち上げた。

「うわぁぁぁ!」

 クローシュの中から現れたそれを見て、陽介は悲鳴と共に立ち上がった。腹を括ったつもりだったが、その料理を前に陽介が持ち合わせていた程度の覚悟など無意味だった。陽介が勢いよく後ずさったため、大きな音をたてて椅子が倒れた。クローシュの中から現れた料理――それは生きた猿だった。猿は音に驚き、目を見開いて陽介の方を見た。

 テーブルの中央が空洞になっており、そこに猿の身体をすっぽりと入れ、首だけ突き出させているのだった。猿は猿轡をかまされ、両の鼻孔からは血が流れている。

「い……生きている! 生きた猿じゃないですか!」

「ははは、驚いただろう」

 陽介の驚きように康夫は満足し、呑気に笑う。

「とびきり新鮮でしょう。ただいま切り分けますから、どうぞお掛けください」

 店主は陽介が倒した椅子を直すと、猿の頭に手をやった。先ほどクローシュを持ち上げた時のように、猿の頭もぱかりと持ち上がり、中身があらわになった。頭蓋骨を予め切り取ってあるのだ。猿は不安そうに顎を持ち上げ、自分の頭がどうなっているのか上目で窺おうとしている。

 頭蓋骨を外され、脳が剝き出しになりながらも生きている猿。あまりにグロテスクな光景に陽介は声も出なかった。

 店主がナイフを手にした瞬間、陽介は我に返り、康夫に断りを入れる余裕もなく小部屋から飛び出した。この先の光景は決して見てはならないと、本能が訴えていた。暇そうに座っていた店主の細君に「車で待っている」と康夫への言伝を頼み、店外に逃げ出した。

 陽介は外の新鮮な空気を深く吸い、どうにか落ち着こうとしたが、気持ち悪さはおさまらない。今にも吐きそうだった。ゲテモノと聞いて、蝗や蜂の子、あるいは蛙や蛇でも出てくるのかと身構えていたが、実際は想像を軽く超えていた。生きた猿の脳を食すなんて、未開の地に棲む部族の奇習と聞けばおぞましいながらもまだ納得できる。だがまさかこの日本でそんな野蛮な行為が行われているなんて、夢にも思わなかった。

 店の方から甲高い絶叫が聞こえてきた。あれは猿の断末魔だろうか。それともまた他の生き物の叫び声だろうか。なにせ生きた猿の脳を供する店なのだから、他にもいろいろとゲテモノ料理の種類はありそうだ。陽介は耐えきれず、草むらの方に駆けてゆき、嘔吐した。

 しばらくして、康夫が店から出てきた。

「置いてけぼりにするなんて酷いじゃないか。せっかく二人で来たのに一人寂しく食事するはめになるとは思わなかった」

 助手席に乗り込んだ康夫は苦笑交じりに言った。この老人は今しがた生きた猿の脳を食ってきたのだと思うと、陽介は嫌悪感のあまり車外に逃げ出したくなった。

「まさかあんなものが出てくるなんて思わなかったんです。いきなりあんなものを出してみせるなんて、康夫さんこそ酷いですよ。俺にはどうしても無理です。俺だけじゃなくて、世の中の大抵の人は無理だと思います」

 まだ胃のむかつきがおさまらない陽介は、青い顔をして恨み言を口にした。

「そんなに嫌か。味は本当にうまいんだけどな。それに脳を切り取られる時の猿の様子が面白い。痙攣したり、叫んだり、舌を突き出して馬鹿みたいな顔をするんだ。反応を長く楽しむために慎重に少しずつ切り分けていく――」

「やめてください!」

 目上の相手であることも忘れ、陽介は叫んだ。

「そう怒りなさんな。言ったじゃないか。健康長寿の秘訣は鈍感になってストレスを溜めないこと。そうピリピリするのはよくないよ」

 陽介の受けたショックなど意に介さず、康夫は飄々としている。

 その日の夕食は断って自室にこもっていたかったが、そうはできなかった。今日は祖母一代の誕生日で、夕食が祝いの席となっている。宍塚家では家族の誕生日を皆で祝う習慣があるのだ。勤め人たちもできるだけ早く帰ってきて、共に食卓を囲むことになっている。新入りの入婿がその食事の席を拒むのはかなり感じが悪いだろう。

 夕食は鍋料理だった。病に臥せっている隆を除く家族十六人での食事のため、食卓に鍋とコンロを四台も並べ、あたたかな湯気を立てた。

「はい、陽介くん、どうぞ。熱いから気をつけてね」

 睦美が鍋を器によそい、陽介に手渡した。

「ありがとうございます」

 鮮やかな緑の葱がふんだんに入ったキムチ味噌仕立ての鍋は甘辛い匂いを放っている。普段の陽介ならば食欲を刺激され、喜んで箸をつけていただろう。だが今は食欲など全くなく、食事の場にいることさえ不快だった。何食わぬ顔で席についている康夫が視界に入るだけでおぞましい。

 なかなか箸をつけられずにいる陽介をよそに、家人らは旺盛な食欲を見せた。この家は高齢者が多いが、皆、年齢のわりによく食べる健啖家ばかりだ。彼らは見た目が若々しいだけではなく、歯や嚥下機能、消化器官といった部分まで若く健康なのだった。最高齢の一子でさえ介護食ではなく、ペースはゆっくりではあるが普通の食事がとれる。

「陽介くん、どうしたの? キムチ苦手だっけ」

 浮かない顔の陽介に気づいた一花は声をかけた。

「いや、そんなことないよ。いただきます」

 気持ちを切り替えよう。あんなグロテスクな出来事は忘れてしまわなければならない。そう自分に言い聞かせ、陽介は食事を始めた。食べ始めると、すぐに食欲が出てきた。キムチの辛みがありながらもまろやかでコクがあり、奥深い味わいだった。今まで食べたどの鍋料理より陽介は気に入った。

「久しぶりに食べたけど、やっぱりおいしいよね。猿の脳って濃厚でまろやかで大好き」

 一花の満足げな言葉に、陽介は石と化したように硬直した。今、彼女は何と言ったか。猿の脳――確かに猿の脳と言った。自分が何を口にしてしまったのか理解した途端、陽介の胃は拒絶反応を示し、吐き気を催した。料理店で目にした猿の姿が脳裏に浮かんでくる。頭蓋骨を外され、脳が剝き出しになりながらも生きている猿。今から脳を食われるなんてことは理解できていないながらも、恐ろしい運命だけは察している不安に満ちた目。陽介は箸を取り落とし、トイレへ駆け込んだ。

 康夫は食べきれなかった分の猿の脳を持ち帰り、家人らは喜んでそれを食していたのだった。

 陽介は生まれて初めて体調を崩した。どうしても吐き気がおさまらず、寝込んでしまった。心配する一花を拒み、少しの間一人にしてほしいと言って仕事部屋に床を取った。

 猿の脳なんてグロテスク極まりないものを平気で食べる一花や家人らが恐ろしかった。そういえば、自分がこの家にやってきた初日からこの家の者たちの悪食の片鱗は垣間見えていたと、陽介は今更ながらに思う。あの時は兎の睾丸の刺身を出された。陽介にとって兎は可愛らしいペットのイメージが強いので、それを食べるなんて衝撃的だった。そんなものをどこで仕入れてくるのかも不思議でならない。陽介は恐る恐る口にしたが、意外にも味は驚くほどおいしかった。それに猿の脳入りの鍋だって、認めたくはないが味はよかった。もし具材の正体を知らずにいれば、嫌悪感など抱かずに平らげていただろう。そう思うと自分にも悪食の素質が十分にあり、家人らを不気味がる資格なんてないのかもしれなかった。陽介は自分自身すらおぞましくなり、やりきれない思いがした。

 どれくらい眠っただろうか。気がつくとカーテンの隙間から光が差し込んできていた。陽介は身体を起こして伸びをした。胃のむかつきはすっかり治まり、健康的な空腹感を覚えた。

 窓辺まで行くと、カーテンを開けて窓も開けた。そよ風に乗って花の香りが部屋の中に流れ込んできた。

 柔らかな朝の光が降り注ぐ中庭には初夏の花々が咲き乱れている。この中庭の管理者は花づくりがたいそう上手い。地植えでも鉢植えでも、多種多様な花が鮮やかに咲き誇っている。園芸が盛んなイギリスでは植物の育成が上手い人のことをグリーンサムというと、陽介は小耳に挟んだことがある。この中庭を手掛ける者はまさにグリーンサムに違いなかった。

 初夏といえば薔薇の季節で、今まさに盛りを迎えている。しかしこの中庭において薔薇は脇役として片隅に咲くばかりで、最も目立つ花は他にあった。等間隔に並んだいくつものアーチに絡まる蔓植物の白い花こそ、この庭の主役だった。無数の小さな花が咲き誇り、見事な花のトンネルを形成している。幸せな恋人たちが芳しい香りをまとわせながら花の下を歩いてくる姿が目に浮かぶような、素晴らしい仕上がりだった。

 陽介はダイニングに向かった。空腹感は高まり、早く何か口にしたかった。家人らはすでに食事を終えたのか、姿が見えない。テーブルの上には大きな銀色のクローシュを被せた皿が置いてあった。陽介はクローシュを取り上げた。

 馥郁とした花の香りと共に皿の上に現れたのは、子供の生首だった。性別の判断もまだつきかねるような幼い子供――宍童子の部屋にある人形と同じ顔だった。あの人形も精巧で美しいが、生首はより美しかった。滑らかな頬は蒼白だが、長い睫毛に縁どられた大きな目は澄んでおり、死がもたらす濁りはまだ現れていない。

 それは実に不思議な瞳だった。一見すると兎のように赤いが、よく見ると赤い中にオパールの遊色にも似た神秘的なきらめきがある。瞬きをするたびに色合いや輝きが複雑に変化し、陽介を魅了した。

 潤んだ瞳はゆっくりと動き、陽介を見上げた。目が合った瞬間、陽介はあの目と同じだ、と感じた。幼い子供には似つかわしくない深い悲しみを宿すその目は、いつか現れた芳秋を思わせた。彼の目の中にもこの子供と同質の悲しみが満ちていた。

 子供の目から涙が零れ、頬を伝う。陽介はとっさに手を伸ばし、涙を拭ってやった。頬は驚くほど冷たい。子供はほろほろと涙を流しつつ、もの言いたげな悲しい目で陽介を見つめ続ける。

 子供の前髪の下から一筋の血が伝い落ちてきた。陽介はそっと前髪をかき上げた。丸みを帯びた美しい額があらわになる。髪の生え際の下に傷が走っていた。傷は頭部をぐるりと一周している。頭蓋骨を切ってあるのだ。頭頂部の髪を掴み、持ち上げると、中身が露出することだろう。

 陽介は言葉にはならない哀れみを覚える一方で、生唾を呑み込んだ。この美しい子供の中には、猿の脳など足元にも及ばないほどの美味なるものが詰まっているのではないか。

 目を覚ました途端、陽介は強烈な吐き気を覚えた。トイレに駆け込み、嘔吐する。眠りに落ちる前に吐き尽くしていたため、胃の中はとうに空で少量の胃液しか出てこなかった。

 陽介は茫然自失としてへたり込んでいた。なんという夢を見てしまったのだろう。子供の生首を見て食欲を刺激されるなんて、自分自身が恐ろしい。猿の脳にあれだけ嫌悪感を覚えておきながらこんな夢を見るなんて、宍塚家の者たちよりよほど異常ではないか。

 いつまでも茫然とはしていられず、陽介は口内の不快感を消すために歯を磨き、部屋に戻ろうとした。床を取っている仕事部屋は陽介と一花の寝室の向かいだ。足音に気づいた一花がドアを開けて顔を出した。

「ごめん、うるさかった?」

「ううん、眠れなくて起きていたから……まだ気持ち悪い?」

「もう大丈夫」

 すまなさそうな一花が気の毒で、陽介は平気なふりをした。

「よかった。ねえ、こっちで寝ない?」

 おずおずと誘う一花を断るのは忍びなく、陽介は寝室に入った。

「陽介くん、本当にごめんね。私、風変わりな家で育ったから、普通が分からないみたい。あれを食べることがそこまで変なことだって知らなかったの。だから許してね」

 ベッドに潜り込んだ一花は隣に戻ってきてくれた夫に囁く。

「いいんだよ。思えば、育った環境によって食べるものや常識が違ってくるのは当たり前のことだよね。俺こそ頭ごなしに気味悪がってごめん」

「やっぱり陽介くんは優しいな。私、不安で眠れなかったの。お父さんが私を嫌ったみたいに陽介くんまで私を嫌いになったらどうしようって……」

 一花は溢れてくる涙に声を震わせた。幼い頃に父親から向けられた嫌悪の情によって傷ついた心は、大人になった今でも癒えずにいる。だからこそ陽介の心が離れてしまうのではないかという不安は一花を激しく苛んでいた。

 可憐な一花に愛しさを覚えた陽介は、布団の中で彼女の手を握った。

 翌朝には陽介の体調は完全に回復していた。家人らは何事もなかったかのように陽介に接し、陽介も何事もなかったかのように振舞った。双方の間には昨夜の件は忘れてしまおうという、暗黙の了解があった。

 表向きは平和に過ごしているとはいえ、陽介は宍塚家に対する漠然とした不安感を完全に拭い去ることはできなかった。邪気を吸う宍童子、婿の早死に、幽霊の出現――これらのことからずいぶんと奇妙な家だという印象を以前からもっていたが、そこに悪食の習慣が加わり、異様さはいっそう際立っている。

 いっそ宍塚家を出て、一花と二人だけで暮らしたい。そんな思いがないわけではないが、とても実現できそうになかった。宍塚家の人々は一人娘の一花を決して家から出したがらない。一花自身も宍塚家の跡取りである責任感や誇りを強く持っているため、家を出る気はないだろう。それに、陽介にだって宍塚家を出るわけにはいかない理由があった。宍童子に邪気を吸われる強烈な快感を知ってしまった今、どうしても家を出る決心はつきかねる。

 ある日の夕食はステーキだった。宍塚家では皆、焼き加減はレアを好む。陽介の皿には中まで火を通したものが乗っているが、他の者たちは真っ赤な断面のステーキをおいしそうに口に運んでいた。

 最年長の一子も自らの手でフォークとナイフを使い、厚いレアステーキを食べている。じきに満百九歳となる超高齢者が手ずからステーキを食べられるなんて、なんと達者なことだろう。陽介は改めて驚きの気持ちを禁じ得ない。

 不意に一子が咳をした。少し咳込むだけではおさまらず、苦しそうにむせている。

「気管に入ってしまったかしらね」

 隣の席についていた智代が背中をさすってやる。それでも一子はいっそう激しく咳込み、皿の上に肉のかけらと白い歯を吐き出した。歯は一本だけではなく、大部分が抜け落ちてしまったのではないかというほど、何本もゴロゴロと皿の上に吐き出された。

「うぐううぅぅ……!」

 一子は口元から血の混じった唾液を垂らして呻きながら、苦し紛れに両手で髪をかきむしった。髪は束になってごっそりと抜け、豊かな白髪に覆われていた頭は一瞬にしてほとんど禿頭と化した。まるでホラー映画さながらのショッキングな光景に陽介は言葉も出なかった。

「部屋で休ませるよ。ほら、手伝って」

「早く、早く!」

 宍塚家の者たちは一子を取り囲み、抱え上げて連れて行った。彼女たちの統率のとれた動きは完璧なもので、とても陽介が手伝う隙はなかった。

「一子おばあさん、大丈夫? なんだか大変なことになっていたけれど……歯って、あんなに一度にたくさん抜けるものか? それに髪の毛までごっそりと抜けてしまって」

 一子を部屋に運び、戻ってきた一花に陽介は恐る恐る訊ねた。食卓には抜け落ちた歯や髪が残ったままで、もう食欲などすっかり失せてしまった。

「やだぁ、あれが本物のわけないじゃない。歯は差し歯が取れちゃっただけよ。髪はエクステだったの。一子おばあちゃん、おしゃれだから見た目には人一倍気を遣っていたのよ」

「そうだったんだ……」

 深く突っ込む気はないものの、陽介は腑に落ちなかった。以前、一子は歯も髪もすべて自前のものだと自慢していたのだ。

 それから陽介が一子の姿を見ることはなくなったが、無理もないことだと思っていた。今までどんなに若々しく達者に過ごしていても、かなりの高齢であることには変わりない。急に具合が悪くなって、寝たきりになってしまってもおかしくはなかったのだ。

 その日、宍塚家では家人の多くが出かけていた。いつものように勤め人たちは仕事に赴いた。他は買い物だの、習い事だの、観劇だの、美容室だの、それぞれの用事に出かけて行った。家政婦も休みを取ったので、屋敷内はひどく静かだった。屋敷に残っているのは在宅で仕事をしている陽介、病に臥せっている隆と一子、そして聡美と睦美だけだった。

 陽介は黙々と仕事に打ち込み、昼食をとったあと、少し身体を動かそうと外に出た。屋敷の周りを走って戻ってきたところで、聡美と睦美に出くわした。

「陽介くん、私たち、ちょっとだけ出かけてくるわ。ほら、近くに新しい大きなお店ができたでしょう。今日がオープンだからどうしても行ってみたくて。一子おばあちゃんと隆さんはよく眠っていて当分起きないだろうから、気にしなくても大丈夫。お留守番よろしくね」

 今まで車で三十分以上かかるところにあるスーパーが最も近い店舗だったが、十五分の場所に大型ショッピングセンターが完成したのだ。姉妹はいそいそと車に乗り込み、出かけていった。

 病人は気にしなくてもいいというが、それでも陽介はどちらか一人にでも残ってほしかった。だが彼女たちが何日も前からオープンを楽しみにしていたことは知っていたので、行かないでほしいとは言えなかった。

 陽介は屋敷に入り、仕事部屋に戻ろうとしたところで、廊下に這う隆を見つけた。

「隆さん、大丈夫ですか」

 慌てて駆け寄り、覗き込んだ隆の顔に陽介はぎょっとした。その顔色は見たこともないほど青黒く、滝のような汗をかいている。瘦せこけているせいでやけに大きく見える目はギラギラとした異様な輝きを帯び、それでいながら虚ろだった。

「ええと……何か薬が必要ですか? 具合が悪くなった時の頓服薬ってありますか?」

 隆は苦しげに唸るばかりで、問いかけに反応しない。睦美に彼の薬のことくらいは聞いておくべきだったと、陽介は後悔した。さらに困ったことに、陽介は睦美や聡美の携帯番号を知らなかった。彼女たちに連絡してすぐに引き返してもらおうにも、連絡が取れない。

 安静にさせて様子を見るべきなのか、救急車を呼ぶべきなのか、陽介は判断に迷った。以前、隆が錯乱したあとに意識を失った際、家人らは慌てるほどのことではないと楽観していた。今回もしばらくすれば落ち着くのかもしれないが、しかし、何もせずにいれば手遅れになってしまう可能性だってある。

「隆さん、救急車を呼びましょうか。俺じゃどうしたらいいのか分からないから、助けてもらいましょう」

 思い切って救急車に頼ろうと決めた時、焦点が定まらずにいた隆の目がやっと陽介を捉えた。

「呼ばなくていい……誰も呼んではいけない」

 苦しみに喘ぎながら、隆は陽介が助けを呼ぶことをやめさせようとした。

「でも、その様子はただごとではないでしょう。すぐに医者に診てもらわないと」

「いいからほっといてくれ!」

 切実な思いで隆は叫んだ。長い間待ち続けた機会を台無しにされるわけにはいかない。今、隆の肉体には芳秋の魂が潜んでいた。自室で人知れず息絶えようとしていた隆の肉体に芳秋の魂が入り込んだのだった。魂が肉体から離れようとしている隙を見て肉体に滑り込むことこそが、さまよえる芳秋の霊魂が肉体を得る唯一の方法だった。念願の肉体を得た芳秋はこれで目的を果たせるはずだったが、屍にも等しいほど弱った肉体を動かすことは困難を極めた。気力だけを頼りに這ってきたものの、それも限界だった。すでに芳秋の魂は隆の肉体から抜けかかっている。

「頼む、芳を取り戻してくれ……宍童子の部屋……あそこに芳が……」

 芳秋は当惑している陽介に縋った。もはやそれしか道はなかった。芳秋の目的は宍童子の部屋の中にあった。だが、部屋へと続くドアや通路に貼られた札が霊体の侵入を阻んでおり、今まで芳秋はそこに辿り着けず、悲憤に暮れていた。肉体さえ持ち得れば札などただの紙切れに過ぎないが、霊体にとってはどうしても太刀打ちできない忌まわしいものだった。

「隆さん、落ち着いて。やっぱり救急車を呼びますから」

 隆は宍童子に邪気を吸い出してもらう快楽を狂気的なまでに求めていた。芳とは何のことだか分からないが、苦しみの中で混乱しながらも尚あの快感を求めているのだろうと陽介は思った。

「君まで……鬼になってはいけない……」

 半ば意識を失いかけている彼の譫言めいた呟きに陽介はと胸をつかれた。以前、陽介が出会った占い師は青ざめた顔をして恐ろしい鬼が見えると言った。子供の生首の夢を見、自分自身におぞましさを覚えて以来、陽介はその言葉がひどく気になるようになっていた。もしかすると鬼とは自分の中の潜在的な異常性を示しているのではないかと考えるようになっていたのだ。

「鬼って、何のことですか?」

 占い師の指す鬼と、彼の言う鬼には何か関係あるのだろうか。気になってならない陽介は問いかけるが、悶え苦しむ彼にもはや声は届かない。

「ううううぅぅ……!」

 芳秋は胸を押さえていっそう激しく苦しんだ。今は鬼について探っている場合ではない。陽介は慌ててスマホを取り出し、救急車を要請した。

「すぐ来てくれますから」

 宍塚邸の立地からして救急車の到着には時間がかかることが分かっていながらも、陽介はそう言って励ますことしかできなかった。

「ジャスミン……の……下……」

 途切れ途切れの呟きを残し、芳秋は意識を失った。同時に強く握りしめていた手が緩む。掌の中にあったのは鍵だった。陽介はそれを取り上げた。見覚えのある兎のマスコットのキーホルダーがついている。それは一花が管理しているもので、宍童子の部屋へと続くドアの鍵だった。彼は一花の部屋に入り込み、鍵を盗み出していたのだ。

 その後、病院に搬送された隆は死亡が確認された。

 家族の死に直面しても、宍塚家は暗い雰囲気にはならなかった。睦美すら気落ちしている様子はないので、陽介は内心驚いていた。彼女は弔問客の前ではいかにも悲しげな様子を見せるものの、家族に対してはいつもと変わらず、冗談を言ったり、笑顔を見せていた。手のかかる長患いの隆が逝って、家族らは安堵しているのか。宍塚家の新入りである陽介にはよく分からないが、そのように感じた。

 弔いのさなか、陽介は何度も隆の最後の言葉を思い出していた。『君まで鬼になってはいけない』そして『ジャスミンの下』とは一体なんのことなのか。死に際の混乱における意味のない言葉で、深く考えるなんて無駄なことなのかもしれないが、どうしても気になった。一花にはこのことを話さなかった。宍塚家に対する漠然とした不安感が陽介の口を塞ぎ、これは自分一人で抱えているべき謎であると感じさせた。

 隆が持っていた鍵は一花に返した。

「隆さん、よっぽど宍童子のところに行きたかったんだろうな」

「そうね。でも、勝手に私の部屋に入って鍵を持ち出すなんて嫌だわ」

 一花は肩を竦めて軽くため息をついた。

 一連の弔いが済むと、宍塚家の者たちは日常に戻っていった。しばらくの間は隆の死を悼んでしめやかに過ごすなんてことは誰もしなかった。まるで隆という存在自体がなかったかのように、皆が無関心だった。

 仕事の合間に陽介はぼんやりと窓の外に目を向けていた。仕事部屋の窓からは中庭が見下ろせる。陽介は廃れた中庭に麗しかった過去の中庭を重ね、隅々まで思い出そうとした。一瞬、なぜ中庭の過去の姿を知っているのだろうと自分自身で驚いたが、夢で見たのだと思い至った。あの夢では子供の生首の印象が強烈で中庭のことは忘れかけていたが、確かに美しかった頃の中庭の姿を見たのだ。

 夢の中の季節は初夏で花が咲き乱れていた。庭を囲む壁に取りつけたトレリスにもたくさんのハンキングバスケットが吊るしてあり、たいそう賑やかだった。片隅にはロックガーデンもあり、積み上げた石の隙間に鮮やかな花々が愛らしく顔を出していた。煉瓦を敷き詰めた通路の脇に植わった薔薇よりも尚芳しいのは、長く連なるアーチに絡んだ花のトンネルだ。夥しい数の白い花をつけた見事な花のトンネルこそ、あの中庭の主役だった。

 半ば夢を見るように中庭を眺めていた陽介は我に返った。アーチに絡んだ白い花。あれこそがジャスミンではないのか。夢の中で窓を開けた時、芳香が風に乗って部屋の中に流れ込んできた。あれはまさにジャスミンの香りだったように思う。目の前のパソコンでジャスミンについて調べてみる。一口にジャスミンと言ってもいろいろと種類があるようで、画像を次々と確認してゆく。フェンスに蔓を絡ませ、無数の白い花を咲かせている画像など、夢の中の花と酷似しているように思えた。

 隆が今際の際に残した言葉『ジャスミンの下』とは、あのトンネルの下を指すのではないか。陽介は居ても立っても居られなくなり、部屋を飛び出した。

 恐ろしい出来事を経験して以来、中庭には近寄らないようにしていたが、強い好奇心は抑えられない。置きっぱなしにしていたサンダルを履いて荒れた中庭に出る。夢の中では豪華な花のトンネルの骨組みとなっていたアーチだが、今はみすぼらしく朽ちかけ、ミイラのように干からびた蔓が絡みついている。アーチの下には通路として飛び石が敷いてあった。

 陽介は等間隔に設置してあるいくつものアーチの下を歩いた。もし隆の言う『ジャスミンの下』がここを指すのだとしても、一体何があるというのだろう。ただ単に彼がこの場所を好きだったとか、そういう他愛もない話なのかもしれない。もう少しばかり想像を働かせてみると、かつて中庭を美しく手入れをしていたグリーンサムこそが彼で、命尽きる間際に力作である花のトンネルが頭に浮かんだ――というところだろうか。

 アーチの下を行きつ戻りつしながら考えていると、ふと陽介は飛び石の一つが妙に盛り上がっていることに気がついた。しゃがみ込んでまじまじと見てみるが、やはり他の飛び石と比べてその飛び石だけがわずかに隆起している。

 もしかして、隆はこの下に何か隠したのかもしれない。陽介は飛び石を取り除くためのシャベルを取りに納屋まで一っ走りした。中庭に戻る途中、すでに日が傾きかけていることに気がついた。冬の日没はあっという間だ。逢魔時という言葉が脳裏に浮かび、作業は明日にしようか、と迷いが生じる。逢魔時は昼と夜が移り変わる境目の頃を指し、魔物が現れる不吉な時間帯であると、子供の頃に読んだ本に書いてあった。そんな時間帯にあの中庭にいるのは躊躇われた。現に以前厚美と遭遇した時だって、夕暮れ時だった。だが結局、陽介は作業に取り掛かった。これほどまでに好奇心をくすぐる状況において作業を中断するなんて、できなかった。

 陽介は飛び石の周りの土を掘ると、石の下にシャベルを差し込み、てこの原理で持ち上げた。石の下から何かが姿を現した。何かがあるかもしれないと期待はしていたが、本当に何かが出てくるなんて驚かずにはいられなかった。シャベルを放り出し、土にまみれたそれに手を伸ばしかけた時、陽介はアーチの向こうの人影に気がついた。

 若い女だった。冬の澄んだ夕映えの下、ノースリーブの白いワンピース姿で佇んでいる。厚美に違いなかった。

 ゆっくりと厚美が歩み寄ってくる。近づいてくるにつれ、陽介は彼女の顔をはっきりと見た。その顔は縊死した者特有の凄惨なものだった。逃げなければ、と思うが、身体は動かない。以前、東屋で彼女と遭遇した時も身体が動かなくなったが、その時と同じだった。石と化したような身体の中で心臓だけが激しく脈打っている。

 すぐそばまで迫ってきた厚美は陽介を見つめて笑った。赤黒い顔色、半ば飛び出した目、舌を突き出した縊死者特有の顔つきはそのままに、にっこりと笑ったのだ。そのまま彼女はゆっくりと陽介に手を伸ばす。

 不意に厚美の腕を強く掴む者があった。どこからともなく現れた男が彼女の腕を掴み、陽介に触れさせまいとしたのだった。

 男は明らかに現世に生きる存在ではなかった。ぼんやりとした青白い光をまとい、全身の輪郭がおぼろげで、どんな顔をしているのかも判然としない。上背があり、がっしりとした体格をしているために男であることだけは分かるが、それ以外は何も分からない。

 厚美の表情が曇ったかと思うと、絶叫した。生身の人間には決して発することのできないその声は、歯科治療の際、電動の器具で歯を削る時の不快な音にも似ていた。おぞましい奇声がこだまする中、厚美の姿は空気に融けるようにすうっと消えていった。

 男は陽介の方を向いたが、おぼろげなその姿ではどんな表情をしているのかは見て取れない。陽介が何者なのか問おうとした時、彼は姿を消した。陽介を助けるという目的を果たしたからにはもうここにいる必要はないとばかりに、跡形もなく消えてしまった。

 金縛りが解けた陽介は上着のポケットのあたりが熱を持っていることに気がついた。カイロでも入っているかのようだが、そこに入れているのはお守りとして持ち歩くようにしている懐中時計のみである。取り出そうとしてポケットに手を突っ込むと、思っていたよりも熱く、反射的に手を引いた。改めて慎重に取り出し、蓋を開けてみる。針が目にも止まらぬ速さでぐるぐると回っていた。まるで何か不思議な強いエネルギーによって暴走しているかのようだった。

 陽介は窮地を救ってくれた男への礼を心の中で繰り返しながら、急いで飛び石の下に隠されていたものを持ち出した。

 仕事部屋に戻ると、陽介は土がついたままの発見物を無造作に机の上に置いた。崩れ落ちるように椅子に座り込み、大きく息をつく。まだ心臓が早鐘を打っている。あんな経験をするなんて、やはりこの家は異常だと、つくづく思った。もし男が助けてくれなかったら、今頃どうなっていたことか。考えるだけで恐ろしかった。

 どうにか落ち着きを取り戻した陽介は、探し当てたものの正体を確かめにかかった。外側を覆っているポリ袋を剝ぎ取ると、クッキーか何かの菓子が入っていたであろう大ぶりな長方形の缶が現れた。ペールブルーの地に小鳥や花の絵柄がエンボス加工されている。これは一花が喜びそうなデザインだと、陽介は思った。以前、一花に付き合ってデパートの焼菓子フェアに行った際、彼女は目を輝かしながら華やかな缶入りの商品を買い込んでいた。彼女にとって重要なのは菓子の味よりもパッケージの美しさなのだ。

 隆はこんな可愛らしい趣味をしていたのかと、少し戸惑いながら蓋に手をかける。長い間石の下に埋まっていたせいで錆びついており、蓋と本体がくっついているが、力尽くで開けた。缶の中にはタオルに包みこまれた何かが納められていた。タオルを開くと、子供向けのお絵描き帳が現れた。缶に納めるために軽く撓められており、弓なりに変形してはいるが、タオルが湿気を吸ったおかげか、あまり傷んでいなかった。

 陽介はお絵描き帳をめくった。お絵描きの題材は花が主だった。クレヨンや色鉛筆を用いていろいろな花が描かれている。子供らしい稚拙さの中にもその花特有の特徴がしっかりと捉えられている。自他共に認める絵心のない自分より、よほど上手いな、と陽介は思った。絵のそばに花の名前が書き込まれている。子供が何の花を描いたのか、大人が記録のために書き込んだようだった。クロッカス、フクジュソウ、スイセン、パンジー、チューリップ、プリムラ、ハゴロモジャスミン、バラ、クレマチス、マーガレット、ネモフィラ、ヒナゲシ、オダマキ、ゼラニウム、フクシア、コキア、セイタカアワダチソウ――……もしや中庭で育てていた植物だろうか。

 お絵描き帳は平仮名の練習にも使われていた。平仮名を練習する年頃といえば、小学校に上がる前の幼児だろうか。絵心のある子供だけあり、対象の形を捉える能力に優れているのか、ページをめくるごとに文字は目に見えて整っていった。五十音の書き取りの他に人名も書き込まれていた。『かおる』『よしあき』――何度も繰り返してこの二つの名前を書いている。かおるといえば、死の間際に隆が口にしていた名だ。一方、よしあきとは一花の父親の芳秋のことか。

 さらにお絵描き帳をめくってゆくと、子供のものではない文字が現れた。やや無骨だがはっきりとした読みやすい文字で、花の絵に花の名前を記していた文字と同じ筆跡のようだった。きっとこれは隆の文字なのだろうと思いながら、陽介は文字を目で追い始めた。

『いつ誰がこのお絵描き帳を見つけるのか分からないが――もしかすると、今から何年もあと、中庭を整備したり、屋敷に解体や改築といった手が加わる際にでも見つかるかもしれない。あるいはいつまで経っても誰の手にも取られない可能性だってなきにしもあらずだが、とにかく書こう。まず、私のことについて少し書く。このお絵描き帳に書き込んでいる私は宍塚芳秋という男で、宍塚一美の夫である。年齢は二十八歳。この年齢が享年となる。なぜなら私はこの手記を書き終えたあと、死ぬからだ。これから私が知る限りの宍塚家の所業を書き記す。宍塚家の者にこのお絵描き帳を発見されず、処分されずに済むか非常に不安ではあるが、どうしても書かずにはいられない。書き終わったあとの隠し場所は中庭の敷石の下としよう。家人らに見つけられたくないのに、宍塚邸の中庭に隠すなんて馬鹿げた話だが、私には隠し場所を選ぶ余地もないのだ。もしいつか奇跡的に宍塚家の者以外の誰かがこのお絵描き帳を手にした場合は、どうかこれから書き記す内容を悪趣味なフィクションなどとは思わず、信じてほしい。』

 これは隆の手記ではなく、芳秋の手記だ。なぜ隆が芳秋の手記が埋まっている場所を示したのだろう。そして芳秋はこんな謎めいた書き出しの手記を残し、何を伝えたいのか。陽介の好奇心ははち切れそうなほど大きく膨れ上がり、急いで続きを読み始めた。




 平成八年、春。

 アスファルトの隙間に菫の花が咲いている。芳秋はそういったものを見つけるとささやかな喜びを覚えるたちであるが、今は心が陰鬱に沈み込んだままだった。

 穏やかな春の午後、芳秋は黙々と歩く。行きは電車に乗ったが、今は歩きたい気分だった。芳秋は磯島有希の家を訪ね、結婚を申し込んできたところだった。芳秋と有希は高校時代から二十一歳になった現在まで交際を続けてきたが、今日で破局を迎えた。今まで喧嘩らしい喧嘩もしたことはなく、円満に付き合ってきたが、芳秋は結婚を断られてしまったのだ。

 プロポーズをした芳秋に彼女は泣きながら言った。気持ちはとても嬉しいけれど、結婚はどうしてもできない。芳秋に迷惑はかけられない。

 有希は小学生の頃に発症した難病により、徐々に筋力低下や筋萎縮などの症状が進行していっている。今では歩行が困難となったせいで外出を嫌がるようになっていた。それで芳秋は習慣のように有希の家に通うようになり、彼女の両親ともずいぶんと懇意になっていた。

 迷惑だなんて思わないから、結婚しよう。芳秋は言った。彼女との結婚生活は健康なパートナーとの生活とはまるで異なるものだということはもちろん理解していた。一生介護を担うつもりでおり、そのことを苦とは思っていないと、正直に伝えた。だが、有希は聞き入れなかった。

 泣き止んだ有希は冷静になり、淡々と思いを述べた。これからもっと病気が進行して、呼吸機能や心臓機能に深刻な合併症が出てくるかもしれない。それにこの病気は聴力や視力にまで問題が生じることがある。こんな私との結婚は、芳秋の大きな負担になる。今は介護が苦ではないと本気で思ってくれていても、何年も続けていけばきっと気持ちは変わると思う。そうなると、私はとてもつらい。

 もう会わないことにしよう。一方的に別れを告げた有希は母親を呼び、芳秋を帰すように頼んだのだった。

 どんなにやるせない出来事があったとしても、生活は続いてゆく。失意の中で芳秋は普段通りに仕事をこなし、上司に誘われれば行きたくもない飲み会にも参加した。そんないつもと変わらない日常のふとした瞬間に、有希を失った現実がよみがえってきて、深い虚無感が突き上げてくる。

 芳秋は高校を卒業後、造園会社に就職した。造園会社を選んだのは、ひとえに庭が好きだからだ。子供の頃に連れていってもらった旅行先で美しいイングリッシュガーデンと出会って以来、その魅力に惹かれ続けている。高校生の頃は庭づくりを学ぶために上京したいと考え、できれば本場イギリスで学ぶ機会も持ちたいと願っていた。だが、結局は有希のそばにいるために地元で働くことを選んだのだった。

 運よく庭に関わる職に就けたとはいえ、陽介が希望する仕事と現実の仕事とでは内容が大きく乖離していた。庭を細かくデザインし、植える植物の一つ一つまで自ら選び、美しく作り上げてゆくのが陽介の理想である。しかし実際の職務は顧客の希望に沿って淡々と作業をこなすだけで、自らの感性に沿った庭づくりとは程遠い。

 仕事とは関係なく、自らの庭を持ち、自由に庭づくりができればそれ以上に嬉しいことはない。芳秋が生まれ育った実家は駐車スペースの確保と雑草対策のため、敷地のほとんどをアスファルトで埋めていた。この味気ない環境が庭への渇望をより高め、なるべく早く庭付きの一軒家を建てたいと夢見るようになった。だが有希との別れによってその夢は潰えた。家族もなしに家を建てたところで、持て余してしまうだけだ。

 理想通りの仕事ではないとはいえ、それでも身体を動かす現在の仕事は芳秋に合っていた。芳秋は幼い頃から身体が非常に頑健で、体力に満ち溢れている。同僚らは二人がかりで運ばなくてはならない資材や仕事道具なんかも、芳秋一人で運べるほどの膂力もある。生まれてから一度も病気で寝込んだ経験もないため、丈夫なのは結構だが、おかしな子だと母親が不思議がるほどだった。

 その日は宍塚邸での作業があった。宍塚家はお得意様で、芳秋は今までに何度も出入りしていた。地元きっての名高い旧家である宍塚家の屋敷は非常に大きく、庭も広大なため、業者による定期的な手入れが欠かせない。

 そろそろ作業が片付きそうになった頃、陽介のもとに宍塚家の娘がやってきた。五世代にわたって同居している宍塚家だが、最も若い世代の一美だった。

「今度、お仕事とは関係なく、ゆっくりとお茶でも飲みにきませんか?」

 芳秋と共に作業をしている同僚の目を盗み、一美は誘いかけた。芳秋は少し驚きつつも悪い気はしなかった。同年代の異性――それもかなりの美人に声を掛けられ、嬉しく思わない男はいないだろう。だが、すぐに有希のことが頭に浮かび、乗り気にはなれなかった。

「せっかくですが、お客様と個人的なお付き合いをするわけには……」

「磯島有希さんの病気を治す手立てがあるのよ。次の土曜日、いらっしゃい」

 呆気にとられている芳秋を残し、一美は去っていった。なぜ彼女が有希のことを知っているのか。しかも今のところは治療法など見つかっていない難病を治す手立てがあるとは、何事だろう。

「庭師さん、少し休憩しませんか? お茶をどうぞ」

 一美と入れ違うように、芳秋の姿を見つけた少女が嬉々として駆け寄ってきた。

 宍塚家の末娘の厚美は初めて芳秋を見かけた時から彼に激しく心惹かれていた。少女らしいひたむきさから彼こそが運命の人であると信じ、彼が庭の手入れにやってくる日を心待ちにしているのだった。

「ありがとうございます。でも、すぐに次の仕事があるので……」

 芳秋はかすかな苦笑を浮かべて断った。いつも断っているのにもかかわらず、それでも厚美は誘ってくる。お菓子作りが趣味だと言って、毎回振舞おうとするのだ。高校生の少女からあからさまな好意を向けられても陽介は受け流す他になく、少し困っていた。

「それなら、お菓子だけでも持って行って。今日はクッキーを焼いたの」

 断るのも悪いので、芳秋は毎回受け取るものの、甘いものは苦手だった。甘いものに目がない同僚がいつも喜んで貰ってくれるため、助かっていた。

 その後、何をしていても芳秋は上の空だった。一美の言葉が気になってならない。非常に怪しいとは思いつつも、芳秋は土曜日に仕事を休んでまで宍塚邸に足を運んだ。有希の病気を治す手立てがあると言われれば、どんなに怪しくても確かめずにはいられなかった。

 芳秋は宍塚邸の庭には何度も出入りしていたが、室内に足を踏み入れるのは初めてだった。案内がなければ迷ってしまいそうなほど広い屋敷内に驚くと共に、家じゅうに漂う強い香りにも驚いた。見れば、あちこちに消臭芳香剤やアロマディフューザーが置いてあり、濃密な香りの香まで焚いている。こんな気分が悪くなってしまいそうなほどの強烈な香りの中でよく生活できるものだと、やや軽蔑交じりに思った。

 応接間にて二人はテーブルを挟んで向き合った。

「なぜ有希のことをご存知なんですか」

 挨拶もそこそこに芳秋は問いかけた。

「あなたのことを調べて、彼女のことも知ったの」

「どうして僕のことを?」

「あなたと結婚したいと思ったから」

「……僕をからかっているんですか?」

 あまりに突拍子もない答えに芳秋の困惑は極まった。今まで一美とは宍塚邸に仕事で訪れた際に二三度挨拶を交わしただけだ。出入りの業者と顧客というごく浅い繋がりしかないというのに、そんなことを言われても真に受けられるはずもなかった。

「私は本気。だって、あなたは運命の人だもの。私には運命の人を見抜く能力が備わっていて、あなたがそうだと強く感じるの」

 宍塚家の長女には運命の相手を本能的に見抜く能力がある。だから何よりも直感を大事にしなさい。幼い頃から一美は母や祖母たちからそんなふうに言い聞かされて育った。

 中高生の頃、一美は授業で生物について習ったあとなど、このことについて真剣に考えたものだった。多くの四肢動物はヤコブソン器官という部分で対象のフェロモンを感じ、情報を得るが、人間においてヤコブソン器官は退化している。だが宍塚家の長女はヤコブソン器官が機能しており、異性のフェロモンを嗅ぎ分けることができるのではないか。その結果、自分に相応しい相手が分かるというわけだ。あるいは嗅上皮によるフェロモン感知説も考えた。嗅上皮は誰の鼻にも備わっている匂いを感知する器官であるが、宍塚家の長女の嗅上皮にはヤコブソン器官の代わりを果たす機能があり、フェロモンを感知しているのではないか。

 乏しい知識をもとにいくら考えてみたところで本当のところは分からない。だが宍塚家の長女が運命の相手を見抜く能力があるのは確かだと感じていた。初めて芳秋に会った時、この人だと強く思ったのだった。宍塚家の長女が求める結婚相手は、人並み外れた強い生命力を持つ男だ。芳秋にはそれが備わっているに違いないと、本能的に感じるのだった。

「申し訳ないですが、それは勘違いだと思います。結婚はできません。僕はこれで失礼します」

 芳秋は腰を上げた。どうやら一美は真剣のようだが、だからといって彼女と結婚しようという気になるはずもなかった。ちらと挨拶を交わした程度の相手を勝手に調査した挙句、運命の人だと訴えてくる女なんて、まともではない。

「帰ってしまうの? 私なら――うちの持つ技術なら、有希さんを助けられるのに」

「そんなの出まかせでしょう。有希の病気に有効な治療法はまだないはずです」

 怪しいと思いながらもわずかな希望を感じてやってきたが、無駄足だった。彼女は自分の気をひきたいがために嘘をついているのだろうと、芳秋は怒りを覚えていた。

「あるわ。世には出していない技術だけれど、確実にある。彼女の病状を魔法のように回復させるすべがうちにはあるの」

「そんなにすごい技術なら、なぜ世に出さないんですか?」

「そんな必要はないもの。知っているとは思うけれど、うちはこれでも名の知れた基礎化粧品とサプリメントの製造販売メーカーよ。サプリの売上に至っては日本一を誇るの。正直お金ならいくらでもあって、豊かに暮らしているわ。だからあえて医療分野に参入して儲ける必要なんてないの。何よりこの技術に用いる細胞は相当特殊なもので、存在を公にしてしまえば世界中から狙われてしまうような途轍もないものなのよ。だからそもそも世に出そうにも出せないのね。ああ――私、すごく大それた、胡散臭いことを言っているわね。いくら真実を語っても、これじゃあなたの疑念を晴らすなんて難しいかも」

 一美は肩を竦め、困ったように笑った。

「特殊な細胞って、具体的には?」

「化粧品の安全性や有効性を確かめるために、兎を用いて実験するのだけど、どういうわけか老化に抗う性質が非常に強い個体がいてね。その個体の持つ特性を商品に活かせられたら画期的なものができるに違いないと思って研究に乗り出したの。細胞を培養してサプリに配合すると、今までにない優れた美容効果をもたらす商品ができたわ。評判は瞬く間に広がってうちの主力商品となった。男の人でも『セントピュア』って名前くらいは聞いたことあるんじゃない?」

 美容サプリメントなんて興味のない芳秋でも『セントピュア』は知っていた。母が毎日欠かさず飲んでいるため、実家で現品を目にする機会があった。このサプリの効果は絶大で、これがなければ生きていけないと母は絶賛していた。なんて大げさな、と芳秋は少し呆れながらも、サプリを愛飲する前と後では確かに母は変わった気がする。肌や髪に張りが出て、幾分若々しくなったようだった。

「ごく微量の細胞を配合したサプリでこれほどまでに効果が出るのだから、使い方次第でもっとすごい効果が得られる――そう思った私たちはいろいろと試してみることにしたの。様々な病気を発症させたマウスを用意して細胞を投与してみると、奇跡としかいいようがないほど素晴らしい結果が出たわ。有希さんと同じ病気を発症させたマウスは症状が大きく改善し、健康なマウスと変わらないほどの状態にまで回復した」

 そんな夢のような話、とても信じられない。芳秋は尚も疑いながらも、心の片隅ではもし本当だったら――という思いが頭を擡げかけていた。

「実はその細胞、すでに有希さんに投与しているの」

「え……」

 驚いた芳秋は一美の顔をまともに見た。美しい顔は勝ち誇った驕慢な色を湛えている。

「有希さんの家の近所に私の叔母が営む美容皮膚科があってね。あのあたりは美容にお金をかけられる裕福な奥さんが多いから、そういう層を狙って開院したのだけど、有希さんのお母さんも定期的に通っているのよ。叔母は新しく導入した輸液による施術がとても身体に良いと、お母さんに強くアピールしたの。そしたら早速有希さんを連れてやってきたわ。やっぱり病気の不安から、少しでも健康に良いと聞けば試してみたくなるのでしょうね」

「本当にそんなことを……?」

「嘘だと思うなら彼女に電話をかけてみなさい」

 芳秋は言われるがままに電話を借り、有希の家にかけた。電話に出たのは有希だった。

「また電話をくれてよかった。もう駄目かと思って、私からはかけられなかったから」

 電話越しの有希の声は喜びに弾んでいた。

「有希、身体の調子はどう?」

「それがすごくいいの。なんだかこの頃、信じられないくらい調子が良くて、びっくりしているの。近所の病院で健康効果のある点滴を受けたんだけど、それがすごく効いているみたい。だって私、自分の足で立って、この電話を取ったんだよ。信じられる? 掴まりながらなら少し歩けるようになったの。日に日に身体がしっかりしてきて、筋力が回復してきているのが実感できるのよ。お父さんとお母さんも大喜びで、点滴を薦めてくれた先生にお礼を言いに行ったわ」

 芳秋は驚きのあまり何も言えなかった。代わりに有希が話し続ける。

「特効薬でも何でもない点滴でこんなに調子が良くなるなんて、本当に不思議だよね。主治医に報告したら、この点滴は身体に良いはずだという強い思い込みが体調に影響しているのではないかと言うの。でも私は絶対に思い込みなんかじゃないと思うわ。だってただの思い込みでここまで効果が出るなら、医者よりも催眠術師がありがたがられているはずでしょう? だからね、もしかしたら奇跡的にあの点滴が私の体質にぴったり合って、特効薬のような効果が出ているのかもしれないって思うの」

「ああ……ひょっとすると、そうなのかもしれないね。本当によかった。これからもっと良くなるといいね」

「うん。主治医はあの点滴に懐疑的だけど、私はこれからも打ちに通うよ。ねえ、芳秋……別れようって言ったの、撤回させてね。今の私には希望があるから、もっと前向きでいられるの。今度の休み、遊びに連れていってよ。久しぶりに――」

 一美の手が電話機のフックスイッチを押し、通話を中断させた。芳秋は一美を睨んだ。

「私が話したことが真実だと分かってくれたでしょう」

「……どうやら本当みたいですね」

「嬉しい?」

「そりゃあ、これ以上に嬉しいことはありません」

「でもね、残念ながらあの点滴は定期的に投与し続けないと効果が切れてしまうの。投与をやめたら有希さんはまた病状が悪化してしまうということ。良好な状態を保ち続けるには一生涯に渡って投与を続けるしかないんだわ」

 有希に投与を続けてほしければ、一美の言いなりになるしかない。芳秋は恋人を人質にとられたのだった。

 すぐに芳秋と一美は入籍した。芳秋は宍塚の姓を名乗り、宍塚邸で暮らすことになった。

 地元きっての名家である宍塚家だけに、披露宴は盛大なものだった。芳秋は新郎でありながら、これは自分の式ではないと感じていた。結婚式というイベントを成立させるため、自分は新郎という役割を与えられたただのオブジェに過ぎない。なにせ、どんな式にするのか芳秋には一切相談せず、一美とその家族がすべてを決めてしまったのだ。

 芳秋側の出席者だって、宍塚家側の出席者の賑やかさに気圧され、居心地が悪そうにしている。そもそも芳秋が呼んだのは近親者とわずかな友人だけで、宍塚家側の出席者数とは大きく開きがあった。芳秋には人を招けない事情があった。

 多くの友人らの間では今回の結婚を快く思われていないため、声を掛けることができなかった。友人らは芳秋が高校時代から付き合ってきた難病の恋人を捨て、知り合って間もない裕福な令嬢を選んだとして軽蔑している。

 芳秋は仕事仲間も呼べなかった。芳秋は宍塚家の意向によって造園会社を辞め、すでに宍塚家が営む企業に籍を置いている。そのため、高卒で入社して以来世話になった上司や親しくしていた同僚すら呼ぶに呼べなかった。

 華麗なウエディングドレスに身を包んだ一美は胡蝶蘭を思わせる驕慢な美しさだった。彼女は大勢の人々から祝福と賞賛の言葉を受け、悦に入っていた。芳秋は彼女が恐ろしかった。ひどく強引なかたちで成立した結婚だというのに、どうしてそうも幸福な花嫁然として振舞えるものなのか。

 披露宴の翌日は宍塚の家族だけで更なる宴が開かれた。宍塚家では一美の叔母の夫たちまで同居しているが、彼らは皆、体調不良とのことで姿が見えなかった。結婚式も欠席していたほどであるし、もしかして体調不良ではなく、家族と折り合いが悪いのかもしれないと、芳秋は思った。大勢の人間が集まって暮らしていれば関係がこじれることはままあるだろう。だいたい、なぜ別々に暮らさずに同居をしているのか、芳秋は怪訝に思わずにはいられなかった。いくら広い屋敷といえども、何組もの夫婦がひとつ屋根の下で暮らすのは不自然ではないか。

「芳秋さん、ビール飲みますか?」

「ありがとう」

 ビール瓶を手に隣にやってきた厚美が酌をする。彼女の白いレースのワンピースはスカート丈が短く、太ももがあらわになっている。芳秋は落ち着かなかった。

 厚美は姉の結婚が許せなかった。自分の好きな相手を姉が手に入れるなんて、たまらなく悔しかった。幼い頃から厚美は一美に嫉妬していたが、今回の件で敵対心はいっそう激しく燃え上がった。厚美は姉たちを見て育つ末子特有の賢さがあったため、学業も習い事も優秀な結果を出した。それでも宍塚家では長女を重んじる家風があるため、何かにつけて尊重されるのは一美だった。厚美は末娘ゆえに愛玩動物のように可愛がられてはいても、存在を重んじられてはいなかった。姉妹の中で一番優れているのはこの自分だというのに、一美は最初に生まれたというだけで最も大切に扱われている。こんなの絶対に納得できないと、反感を募らせながら育ってきた。

 自分は一美ほど美人ではないが、男からより好かれるのは自分の方だと、厚美は思う。驕慢な一美は男に酌なんて死んでもしないだろう。一方、自分は愛嬌があり、男の喜ぶ行為や仕草をさりげなくやってのける。だから芳秋だって一美よりこの自分の方を好ましいと感じているはずなのに、一美は汚い手を使って彼を手に入れた。本当にずるい、嫌な女。厚美は胸の内で姉に毒づき、身体が触れ合うほど芳秋に近づく。

 芳秋と一美にだけ、薄桃色の刺身が供された。芳秋は甘い物が苦手だが、他はこだわりなく何でも食べる。この刺身が何の刺身であるのかは分からなかったが、特に気にせず、勧められるがままに口にした。それはこの上なくまろやかな味わいで、ほのかにジャスミンのような快い風味があった。他に類を見ない不思議な味ではあるが、間違いなく芳秋が今まで食べてきたものの中で最上の味と言えた。もっとたくさん食べたかったが、自分と一美だけに少量のみ供されていることから、これ以上は望めない貴重なものだと察せられた。

「これ、何の刺身ですか? すごくおいしい」

「例の兎よ。あなたの有希さんを救ったウサちゃんの睾丸。今からその兎を見せてあげる」

 意味深長な笑みを浮かべて誘う一美に芳秋はぎょっとした。自分が睾丸を食してしまったあとの哀れな小動物など見たくはない。芳秋は断ったが、それでも一美は強引に彼を連れ出した。

 芳秋は爪を短く切ってあるか確かめられ、手を念入りに洗うように促された。手洗いのあとは消毒まで求められた。貴重な兎を危険に晒す病原体を持ち込まないためだと、一美は説明した。

 母屋たる日本家屋から渡り廊下を通り、離れと呼ばれる洋館へと渡った。芳秋は一美の後ろを歩きながら、改めて大きな家だと思った。窓から中庭が見えた。仕事で訪れた際は表の庭の手入れだけを任されていたため、中庭があることは今初めて知った。ぐるりと壁に囲まれた空間はかなり広々としているが、雑草を刈り込む最低限の手入れだけが施された殺風景なものだった。

 洋館の片隅にあるドアの前までくると、一美はポケットから鍵を取り出した。開錠してドアを開けると、すぐ向こうにさらにドアが現れた。

「なんだか厳重だな……」

「貴重な兎だからしっかり閉じ込めておかなきゃいけないの」

 第二のドアを開錠するため、テンキーで暗証番号を入力しながら一美は答える。ドアを開けると、その先の狭い通路を進んだ。突き当りを曲がると、再びドアがあった。一美はレバーの上に取りつけられたサムターンのつまみを捻り、ドアを開けて照明のスイッチを押した。照らし出された室内はがらんとしており、あるものといえば片隅に置かれた一台のベッドだけだった。

「誰の部屋……? 兎は?」

「あれが兎。赤いおめめのウサちゃん」

 一美はベッドを指さす。芳秋はベッドに近づき、横になっている者の顔を覗き込んだ。照明の明かりによって目を覚ました子供が眩しそうに眉根を寄せ、目を瞬かせていた。五、六歳くらいの白人の子供ではないかと、芳秋は思った。兎のような赤い瞳に白金の髪、透き通るような白い肌をしている。

「この子は?」

 困惑しながら芳秋は一美に振り返った。

「これが有希さんを救った特殊な細胞の持ち主。私の双子の兄なの。あなたを私の夫に選んだわけは、これの最高の餌になる逸材だから」

「何を言っているんだ……?」

 芳秋には一美の言葉が何一つ理解できなかった。

 子供は怠い身体をゆっくりと起こし、芳秋をまじまじと見つめた。芳秋は再び子供の方に視線を戻した。不思議そうに見つめてくる子供の愛らしさに思わず微笑んだ。同時に、子供がひどく変わった目をしていることに気がついた。真っ赤な瞳というだけでも十分珍しいが、それだけではない。虹彩は赤一色ではなく、オパールの遊色めいた複雑な色合いのきらめきを含んでいる。こんな不思議な目が存在するものなのかと、驚かずにはいられなかった。

「起こしてごめんね。びっくりしたかな」

 子供は話しかけられたことに驚いて目を見開くも、何も答えない。

「やだ、そんな小さい子相手のような話し方、気持ち悪い。それは私の双子の兄だと言ったでしょう。二十三歳の大人なのよ」

「だから、君は何を言っているんだ。こんな子供がお兄さんだなんて意味が分からない」

「それは確かに私と同じ日に同じ親から生まれたのだけれど、小さいままで成長が止まっているの。老化に抗う性質が異様に強い、常識を超えた不思議な生き物なのよ。だからそれの細胞をもとに難病をも治す奇跡の薬が作れてしまったというわけ」

 にわかには信じがたい話に言葉を失っている芳秋に、子供はもの言いたげに右手を差し伸べた。何かをちょうだいと、ねだっているようだった。その姿に芳秋は違和感を覚え、そして気がついた。子供はパジャマを着ているが、左袖はだらりと垂れており、中に腕が通っていない。

「それはお腹が空いているのよ」

「それじゃあ、何か食べさせてあげてよ」

「餌はあなた。あなた自身をこれに食べさせるの」

 一美はおもむろに芳秋の腕を掴むと、子供に向かって差し出した。子供は迷いなく小さな口で芳秋の人差し指を咥えた。当惑する芳秋をよそに子供は乳飲み子のように指を吸い始めた。

 指先から何かが吸い出されている。芳秋は未知の感覚に衝撃を受けると共に、強烈な快感を覚えた。あまりの心地良さに言葉も出ず、恍惚とするばかりだった。芳秋の指を吸う子供もまた、生まれて初めての素晴らしい美味に酔いしれていた。芳秋の指から迸るそれは味も量も極上だった。

「それは今、あなたの精気を吸っている。それは普通の食べ物をとる以外に、人間の精気を吸ってエネルギーを補給する必要があるの。あなたには人並み外れた生命力が備わっているから、それの餌には最適なんだわ。今まで餌としてあてがってきたのは叔母の夫たち。女は男よりも精気が乏しい上に、毎月の生理によっても抜けてしまうから、餌には向かないのね。ほんの数回吸われただけで死んでしまう恐れがあるわ。子供や高齢者も十分な量の精気がないから、やっぱり使えない。だから男が必要なの。私たち宍塚家の女は団結し、それに与えるための餌となる男を夫として家に引き入れる。餌にするために人を攫ってきて監禁するのはリスクがあるけれど、夫にしてしまえばその問題は解決できるからね。でも、あなたのような強い生命力を持つ人間は滅多にいるものではなく、平凡な人間は精気を吸われ続けると衰弱してしまう。叔母の夫たちも皆、弱っていった。それでも彼らは精気を吸われる際に生じる快感の虜になって逃げ出そうとはせず、やがて死を迎える。今生き残っている夫たちも、もうかなり衰弱していて寝たきり状態だわ」

 陶酔の中にいる芳秋は一美の声が鬱陶しいと感じながらも、その奇妙な話に興味を持たずにはいられなかった。宍塚家の夫たちが姿を現さない理由は、複数の世帯が同居しているせいで何かトラブルでも生じているからなのではないかと勘繰っていたが、そんな単純な理由ではなかった。真相は想像もつかないほど奇々怪々としたものだった。

 思う存分良質な精気を吸った子供は満足し、芳秋の指から口を離した。満腹になり、気分もだいぶよくなったが、手術の影響でまだ少し怠い。身体を起こしているのがつらくて再びベッドに横になった。

 子供が怠そうなので、芳秋は子供の額にそっと手を当てて体温を確かめた。身体に触れられた子供はびっくりしながらも、不思議な心地良さを覚えた。いたわりの気持ちをもって他人に触れられたのは初めてだった。

「この子、耳が……」

 改めて子供の顔を覗き込み、芳秋は気がついた。髪で顔周りが隠れて今まで気づかずにいたが、子供の耳殻は両方とも欠損していた。左腕も欠損しているようだし、どうしたものかと気になった。

「あら、耳や腕だけじゃないわ。つい今朝だって、手術して摘出したのよ」

「何を?」

「鈍いわね。さっき、食べたでしょう。兎の睾丸」

 芳秋はやっと合点がいった。子供の小さな身体からは、さっきの刺身に感じたジャスミンのような芳しい香りがする。

「嘘だろう……どうして……なぜそんな酷いことを……」

 罪悪感のあまり芳秋は青ざめ、声を震わせた。目の前の子供の身体の一部を食してしまった。食人という恐ろしいタブーを犯してしまったのだ。

「これはうちでは宍童子と言われている存在で、その肉を食べれば若さと健康を保てるの。うちの家族を見ればそれが真実だって分かるでしょう。特別なお祝い事の時や、占いで決めた年のお正月にこれの身体の一部を切り取って家族みんなで食べるの。みんなと言っても、消耗品である叔母の夫たちにはもったいないから食べさせないけどね。あなたは希少な部位を食べられて幸運だわ。他のみんなだって本当は食べたくてたまらないものを私たちに譲ってくれたのだから。みんなは陰嚢を細かく刻んだものをおすましにして食べて我慢していたわねぇ」

 吐き気を覚えながらも、芳秋は宍塚家の者たちを思い浮かべた。宍塚家の最年長であり一美の高祖母である千代をはじめ、確かに皆、異様なほど若々しい。誰もが実際の年齢よりはるかに若く見え、病気に苦しむ者や介護を必要とする者は誰一人いない。

「もし本当にそんな効果があったとしても、人を食らうなんて許されないことだ。自分たちの利益のために生きている人間を食ってしまうなんて……それも、この子はあなた方の家族なんだろう。一美さんの兄なんだろう。どうしてそんな酷いことができるんだ!」

 宍塚家の残酷さを芳秋は激しく詰った。もはや宍塚家の者たちが自分と同じ人間だとは思えなかった。彼女らは人ではなく、鬼だ。おぞましい食人鬼だ。

「宍童子は私たちにとって食用の家畜のようなものなのよ。家畜を食べるにあたっていちいち残酷だとか考えたりしないものだわ。あなただって特に何も考えずに、牛や豚なんかを食べているでしょう。それと同じよ」

 一美は悪びれることなく淡々と答えた。食人行為が発覚すれば罪に問われるために世間には明かさないものの、それでも自分たちが残酷な行いをしているという自覚はなかった。食すために存在する宍童子に情がわいてしまっては厄介なので、宍童子は家族から切り離して育てる。だから一美には彼が実兄であるという実感はなく、愛情もない。

 宍童子に精気を吸わせるという用を終えたからには、もう戻ろうと一美は踵を返した。芳秋は哀れな宍童子を残して立ち去ることに罪悪感を覚えながらも、一美の後に続いた。

 一人になった宍童子は自らの額に触れ、さっき芳秋に触れられた時の感覚を思い出そうとした。ごつごつとした大きな手だが、触れ方は優しかった。あの人は今度いつ来るだろうか。次に来たら、また触れてくれるだろうか。宍童子は生まれて初めて期待に胸を膨らませた。

 言葉を交わすこともなく、芳秋と一美は廊下を歩いた。やにわに、芳秋は行動を始めた。目にもとまらぬ速さでそばにあった窓のクレセント錠を下ろし、がらりと窓を開け、外に飛び出した。あとには芳秋の履いていたスリッパだけが残った。

「待ちなさい! 誰かきて。芳秋が逃げた!」

 一美は出し抜けの脱走を止められず、慌てて叫ぶだけだった。だが、すぐに落ち着きを取り戻した。家の周りはぐるりと高い塀で囲まれており、表門も裏門も南京錠をかけて出入りできないようにしている。宍童子について知った芳秋が逃亡を図ろうとするのは想定していたので、敷地内から出られないように対策をとっていた。

 夜の雨の中を芳秋は走った。広い敷地内には防犯灯が複数設置されており、さして暗くはない。自分が逃げ出せば有希は治療の継続ができなくなるだろう。彼女は再び病気に苦しみ、果ては命を落としてしまうかもしれない。治療法のない絶望的な難病が快方に向かい、奇跡だと喜んでいる彼女やその家族を思うと、心苦しくてならない。だが、それでも逃げなければならない。子供が監禁され、残酷極まりない虐待を受けていると警察に訴えなければいけない。有希の病がぶり返すという悲劇と引き換えにしてでも、囚われの子供をおぞましい食人の被害から救わなければならない。

 芳秋は門には向かわず、とある庭木のところまできた。造園工として宍塚家の庭の手入れをしていた芳秋はこの庭の木々を知り尽くしている。この木に登れば塀を超えられると、見当がついていた。適当な位置に突き出した太い枝まで登ったあと、塀に飛び移った。登ってしまえば降りるのは容易かった。無事に塀の外に着地し、夜道を駆け出す。

 誰かに助けを求めたいが、宍塚邸は他の人家から離れた場所にあり、あたりは滅多に車も通らない。夜間はなおさらひっそりとしている。きっと宍塚家の者たちは車で追ってくるだろう。向こうは人手が多いから、どの道を進んでも見つかる可能性が高いと思い、藪の中に身を潜めて逃げた。靴も履かずに藪の中を行くのは難儀した。泥に足を取られ、靴下がずるりと脱げた。素足は傷つき、痛みを覚えながらも走り続けた。

 藪を抜けた先で芳秋は人家や通りすがりの車を見つけるよりも先に電話ボックスを見つけた。街灯に照らし出された電話ボックスはいかにも救世主然として見えた。ボックス内に駆け込んだ芳秋は受話器を取り、警察に助けを求めた。

 芳秋は駆けつけた警察官に保護された。警察署に着くと、ようやく逃げ切れたという実感がわいてきた。あとは宍童子が一刻も早く助け出されるのを祈るだけだ。芳秋の話を聴いた警察官はすぐに問題解決に乗り出すと言ってくれたので、その言葉を信じて待つしかない。芳秋は愛らしい仔兎のような子供の姿を思い浮かべ、救出された後には再び会いたいと思った。

「電話を貸していただけますか。家族に連絡をさせてください」

 とりあえず実家に連絡を取りたくて、芳秋は警察官に頼んだ。

「それは少し待ってください」

 警察官は言葉少なに断り、芳秋を小部屋で待機させた。家族に電話をかけるくらい構わないじゃないかと苛立ちながらも、芳秋は黙って待っていた。しばらくして、小部屋のドアがノックもなく開けられた。警察官と共に部屋に入ってきたのは、一美と母親の一代だった。

「さあ、帰るわよ」

 勝ち誇った顔で一美は芳秋に帰宅を促す。

「この人たちは犯罪者です。さっさと逮捕して、監禁されている子を助けてあげてください」

 狼狽しながら芳秋は警察官に向かって訴えるが、警察官は何も言わずに芳秋から顔を背けた。

「夫は心の病気で妄想が激しくて……すみませんが、暴れないように拘束して車まで送っていただけますか」

 さも困っているかのような一美の言葉に従い、警察官たちは芳秋を取り囲み、手錠をかけて歩かせた。

「何が心の病気だ。狂っているのはそっちだろう!」

 せっかく逃げ出し、警察に助けを求めるところまで漕ぎ着けたというのに、狂人扱いされて送り返されようとしている。絶望の中で芳秋は喚き、周りの警察官らに助けを求めるが、誰も耳を貸してくれない。

 芳秋は車の後部座席に押し込められた。

「馬鹿ね。警察に何を訴えたって無駄。うちはこの町の顔役よ。地元警察にコネくらいあるわ」

 一美は芳秋の隣に乗り込むと、彼の無駄な逃亡劇を嘲笑った。

「警察は宍塚家が何をしても見逃すのか……」

 社会の安全や秩序を守るために存在するはずの警察が全く頼りにならない。やるせない事実に芳秋はうなだれた。

「それにしても、結婚早々逃げ出すなんて情けない。有希さんのために腹を括ったのではなかったの?」

「食人一族に子供が監禁されて酷い目に遭わされていると知れば、誰だって逃げ出すだろう」

「そんなの言い訳だわ。あなたはただ意志が弱かっただけ。有希さんを守り抜こうという覚悟が足りなかったのよ。有希さんがまた病気に苦しむことより、やっぱり自分の自由の方が大事だと思ったんでしょう」

 これ以上ないほどの軽蔑しきった口調で一美は芳秋を詰った。芳秋が逃げ出したことに対する腹立たしさと、彼が有希を愛していることに対する嫉妬が綯い交ぜになり、粘着質な悪意と化していた。

 芳秋は何も答えなかった。警察が頼りにならないならば、どうやって宍童子を救えばいいのか。そればかりを考えていた。

「あなたは罰を受けなければならないわね。有希さんには気の毒だけど、治療はやめてしまうわ」

 上の空だった芳秋の顔色がさっと変わり、一美は内心ほくそ笑んだ。

「もう逃げないと誓う。だからそれだけは勘弁してくれ」

 今回の脱走で、宍童子を救えなかった上に有希の治療まで中止されてしまうなんて、あまりに救いがない。芳秋は何度も一美に慈悲を乞うたが、彼女はわざと曖昧な返事をしたり、無視を決め込んで芳秋の感情を弄んだ。

「……いいわ。今回だけは大目にみてあげる。でも今度私たちに逆らうような真似をしたら、ただじゃおかないから」

 家に着く頃、一美はやっと芳秋の哀願を聞き入れた。芳秋が気の毒になってほだされたというわけではなく、彼から完全に希望を取り上げてしまうのは得策ではないと思ったのだった。絶望した芳秋が自棄を起こして暴走してしまっては困るので、ある程度の希望は持たせておく必要がある。

 宍塚邸に連れ戻された芳秋は犬のように首輪を嵌められ、鎖で繋がれた。首輪には芳秋が外せないように鍵をかけられた。

「本当はこんな馬鹿げたSMグッズみたいなもの使いたくなかったけど、やっぱり用意しておいてよかった。この首輪、こういう機能が付いているのよ」

 一美は手の中のリモコンのボタンを押す。同時に首輪から電流が迸り、芳秋の首元から全身にかけて強烈な衝撃が走った。

「犬が無駄吠えした時なんかに電流を流してしつけるために使う首輪なのよ。それをちょっと改造して、より通電時間を長くして威力も強力にしたの。海外の警察が犯人確保のために使うテーザー銃程度の電流ね。しばらくの間、筋肉が硬直して動けなくなるはずだわ。うちはか弱い女性ばかりだから、あなたみたいな大柄な男をしつけるにはこうするしかないのよ」

 身体を動かせずに横たわる芳秋を残し、一美は部屋を出た。外側から鍵をかける音が芳秋の耳に届いた。

 次に芳秋が宍童子の部屋を訪れたのは脱走から三日後だった。三日おきに宍童子に精気を与えることが芳秋に課せられた役目だった。

 今日は芳秋の監視役に一美の叔母の光代が付いた。光代は部屋の中には入らず、ドアの外で待機した。宍童子の部屋の中は窓一つないので、脱走の心配はなかった。

 芳秋の来訪を待っていた宍童子は彼の姿を見て目を輝かせた。

「お腹は空いているかい? 食事をどうぞ」

 芳秋は宍童子がいるベッドに腰かけ、手を差し出した。宍童子は右手で芳秋の手を掴み、早速精気を吸おうとしたが、指に口をつける寸前で動きを止めた。

「どうした? 吸っていいんだよ」

 もの問いたげな目で見上げてくる宍童子に、芳秋は吸うように促す。宍童子は芳秋が何を言っているのか理解できなかった。生まれた時からずっと家族や世間から隔離され、言葉を耳にする機会が極端に少なかったため、言語能力が身につかなかった。

 宍童子は芳秋の手を持ち上げ、自らの額に当てた。前回、額に触れられた時のように、もう一度触れてほしかった。

 思いがけない宍童子の行動に、芳秋は彼の中の限りない寂しさを感じた。窓すらない殺風景な部屋に、ずっと一人きりで閉じ込められてきたのだ。誰だって正気ではいられなくなるような長い虚無の時を過ごしてきたその小さな身体の中には、どれほどの膨大な孤独が詰まっているのだろう。

 助けられなくてごめん。胸の内で呟きながら芳秋は宍童子の髪を撫でた。宍童子は嬉しそうにうっとりと目を閉じた。

 前回宍童子と会った時、芳秋は気づかなかったが、彼の肉体の欠損は左腕、両の耳殻、睾丸だけではなかった。右脚の膝から下も欠損していた。なんと痛々しいのだろうと芳秋は胸を痛めたが、宍童子は残っている右手と左脚を使い、室内を這ってみせた。ベッドに掴まって立ち上がってもみせた。

「器用に動くんだなあ。すごいじゃないか」

 どこか得意げな様子の彼を芳秋は褒めた。言葉を解さない宍童子であるが、芳秋が褒めてくれていることはなんとなく分かり、無上の喜びを感じた。

 外出を禁じられている芳秋が唯一外に出られる機会は、職場に赴く時だけだった。しかし職場は宍塚家が営む会社であるため、宍塚家の者の監視の目が常に光っている。

「本当は逃亡リスクを減らすために家から一歩も出したくはないんだけど、世間体というものがあるでしょう。うちみたいな名のある家の婿が無職だなんて恥だから、仕方なく職に就かせてあげているの」

 一美の傲慢極まりない言いぐさに芳秋ははらわたが煮えくり返る思いがした。いっそ彼女を殴りつけてやりたかったが、そんなことをしてもこの状況を打開できるわけではない。ただ一美や家族を怒らせ、自分の立場がいっそう悪くなるだけだろう。

 芳秋は怒りを性欲に紛れさせた。一美はどちらかと言えば性的に積極的なたちではあったが、芳秋との行為は苦痛に感じた。肉体的に痛みを感じる行為をされているわけではない。だが、身体を交わしていると、彼の憎悪と軽蔑が生々しく伝わってきて、屈辱を覚えずにはいられない。

 仕返しに、一美は彼の生活から徹底的に楽しみや人間らしい生活を奪った。外出禁止に加え、電話、メール、手紙といった外部との連絡手段は与えない。テレビ、ラジオ、インターネット、本など、娯楽になるものはすべて彼から遠ざけた。家族団欒には加えず、食事も一人きりでとらせる。職場では同僚との交流を妨げて孤立させた。

 刑務所の中の囚人ですらここまで執拗に管理された生活は送っていまいと、芳秋は苦笑する。苦笑ながらも笑うだけの精神状態がかろうじて保てているのは宍童子のおかげだった。話し相手も一冊の本すらもなく、ひたすら部屋に閉じ込められる生活はひどく気が滅入る。だが宍童子も同じ屋敷の中で閉じ込められているのだと思うと、どうにか挫けずにいられた。三日に一度は会うことだってできる。だから何もない空虚な部屋に一人で閉じ込められていても、孤独ではなかった。

 何度か顔を合わせているうちに、芳秋は宍童子を膝の上に乗せて指を吸わせるようになった。片腕、片脚が欠損している分、彼の身体は悲しいほど軽い。芳秋はジャスミンに似た快い体臭を感じながら、精気を吸われる快感に浸る。

「小さい君を義兄さんと呼ぶのは違和感があるから、これからは芳と呼ぼう。ジャスミンのような良い香りがするから芳だ」

 精気を吸い終わり、膝の上で満足そうに寛ぐ子供に芳秋は語りかけた。宍童子という呪わしい呼び名以外持たない彼にはまともな名前が必要であると気づいたのだった。

 宍童子は話しかけられても意味は分からないものの、話しかけられること自体は好きだった。一人きりで長い時間を過ごしてきた彼にとって、何気ないことも楽しい刺激に感じられるのだった。

「芳という字は俺の名前の一文字でもあるんだよ。こう書くんだ」

 芳秋は芳の小さな手をとり、指文字で掌に『芳』と書いてみせた。文字という概念を知らない芳は不思議そうにしている。そんな芳の手を引き寄せて接吻しながら、芳秋は不意に暗澹たる気分に陥った。

 欠損している左腕のように、このままではいつかこの手も食われてしまうだろう。早く芳を連れてこんな恐ろしい家から逃げなければならない。そうは思うが、芳を抱えた上で、監視、首輪と鎖、幾重ものドアや門扉への施錠といった脱走対策を打ち破って逃げ出すなんて、とても実現可能とは思えない。

 鬱々と過ごす芳秋に手紙が届いた。

「はい、有希さんから」

 一美から渡された手紙はすでに封を切られていた。

「勝手に読んだのか」

「ええ、読んだわ」

 悪びれもせずに一美は答えた。呆れた芳秋は怒る気にもなれず、手紙を開いた。

『芳秋、お元気ですか。私は元気です。なにせ今、自分の手でペンを持ち、この手紙を書いているのだから。以前ならできなかったことがもうずいぶんいろいろとできるようになりました。病気は確実に良くなっています。でも、体は元気になっても、気持ちは沈んでいます。芳秋、あなたは一度別れを告げた私を再び受け入れてはくれず、結婚してしまいましたね。私と別れてからあまりにすぐの結婚で、驚きました。正直、裏切られたような気持ちがしてとても悲しく、つらいです。あなたはお金持ちのお嬢様と結婚して、さぞ幸せでしょう。きっと私に結婚を断られて、よかったと思っているでしょうね。私が断ったおかげであなたは逆玉の輿に乗って、人生が良い方向へ進んだ。芳秋、私は不思議でたまりません。どうしてそんなに早く結婚相手が見つかったの? もしかすると私と付き合っていた頃から、その人と関係があったのではないかと疑ってしまいます。あなたは私を裏切っていたの? 本当に私だけを好きでいてくれる誠実な人だと思っていたけれど、それは思い違いだったの? 今さら聞いたって遅いけれど、気になって夜も眠れません……』

 有希に疑われていると思うと、芳秋はたまらなかった。有希のために一美の言いなりになる道を選んだというのに、こんなふうに誤解されてしまうなんて、あまりに苦しい。

「有希に返事を書きたい」

「そんな必要はないわよ。すでに私が返事を書いて送っておいたから。気が利くでしょう」

 婉然と笑う一美に芳秋は言葉を失った。手紙を無断で読んだ挙句、勝手に返事を出すなんて、信じ難かった。

「どんな内容を送ったんだ」

「有希さんが疑っているとおり、有希さんと付き合っていた頃から関係があったと書いたわ」

「どうしてそんな嘘をつくんだ」

「有希さんのためよ。いっそ思い切りあなたを憎んだ方が諦めもつくだろうし、次に進む原動力にもなると思って。有希さんのためになることならあなただって嬉しいでしょう」

 有希のためだなんて建前に過ぎず、一美はただ嫉妬心から二人を苦しめたいだけだった。芳秋と有希が恋人関係であったことや、今もなお双方に愛情が残っていることが腹立たしいのだった。

 後日、有希から芳秋の裏切りを責める手紙が送られてきた。苦しい思いで芳秋は目を通した。自分の人生を犠牲にして最愛の人に希望を与えたというのに、その彼女から憎まれた。一体、自分の人生とは何なのだろう。どうしてこんな惨めな仕打ちを受けなければいけないのか。

 有希との絆を踏みにじられた芳秋の唯一の心の拠り所は、芳だけとなった。芳は芳秋が部屋を訪ねてくるのをドアの前に座り込んで待つようになった。芳秋がドアを開けた途端、大きな赤い瞳が嬉しそうに見上げてくる。隻腕隻脚の芳が一生懸命ドアの前まで這ってゆき、自分がやってくるのをひたすら待っている。それを思うと、芳秋はあまりのいじらしさに胸が苦しくなるほどだった。

 芳秋が宍塚邸で暮らし始めて三か月が過ぎた。相変わらず芳秋は宍塚家の者たちの監視及び管理の下、息苦しい生活を送っている。

 一つだけ起こった変化は、芳秋のもとに厚美が顔を出すようになったことだった。今まで厚美は芳秋への監視や食事の配膳等といった役割は任されていなかった。厚美自身は芳秋に近づきたいがためにその役を進んで引き受けようとしていたが、彼女を子供扱いしている家族らは監視という冷厳さが必要な事柄を任せるにはまだ心許ないと判断していた。それが時と共に芳秋に対する緊張感が緩んできたために、やっと厚美にもその役目がまわってきたのだった。

「ケーキを作ったの。一緒に食べよう」

 厚美は嬉々としてケーキと紅茶を運んできた。実際は手作りのケーキではなく、店で購入してきたものだった。厚美は何度かケーキ作りに挑戦してみたものの、納得できる出来には達せずにいた。生地は上手く膨らまず、デコレーションも稚拙で、とても芳秋に出せたものではない。かくなる上は市販品を手作りと偽ることに決めたのだった。

「いらない。甘いものは嫌いなんだ」

 厚美の密かな奮闘など知る由もない芳秋は冷ややかに断った。喜んでもらえると期待していた厚美はひどく心を傷つけられた。

「甘いもの、好きだと思っていた……だって、前はいつも嬉しそうに受け取ってくれたから」

「断るのが悪いと思っていたからだよ。あれは全部同僚に譲っていた」

 悲しげな厚美を前にしても芳秋の良心は痛まなかった。可愛らしい少女の姿には騙されない。この厚美も人喰い一族の一員で、少女の皮を被った鬼なのだ。

「芳秋さん、つらいんでしょう。一美姉さんはとても傲慢で嫌な女だし、そんなふうに首輪なんて着けられて閉じ込められたら、イライラして当然だよ」

 厚美は潤んだ瞳で芳秋を見つめ、同情を示した。かわいそうな芳秋に寄り添い、慰めてやれるのはこの自分だけなのだと、独り善がりな使命感に燃えていた。

「同情するなら、俺とあの子をここから逃がしてくれ」

 当然聞き入れられるわけはないと分かっていながらも、芳秋はただ一つの願いを口にした。

「それは無理だけど……でも、他の願いならなんとか叶えられるように家族を説得するわ。この部屋にテレビを設置してもらうのはどう? そうしたらずいぶんと退屈も紛れると思う」

「テレビなんかより、少しでも外に出してもらえた方がずっと気分がいい」

 芳秋は唯一の外出の機会である出社をやめていたため、外の空気を吸う機会を完全に失っていた。出社したところで同僚らとは言葉を交わさないように隔離され、ろくに仕事も任せられずに監視されるばかりだ。これでは監禁場所が宍塚邸から職場に移るだけだと思い、ほとほと嫌気がさしてしまったのだった。一美は出社拒否なんて世間体が悪いと眉をひそめたが、あまりしつこくは責めなかった。家族で協力して監視は怠らないようにしているとはいえ、家から出ればどうしても逃げ出す隙ができかねない。逃亡リスクが低減できるならば、出社拒否くらい大目に見ようと思ったのだった。

「さすがに外出は難しいと思うけれど、庭に出るくらいなら許してもらえるかも」

 早速、厚美は芳秋のために家族を説得した。表の庭に出すのはいけないが、中庭ならば出しても構わないと、家人らは結論づいた。ちょうど中庭はほとんど手入れもせずに放置していたので、元造園工の芳秋に手入れをさせるのは悪くないだろうと思ったのだった。中庭はぐるりと壁に囲まれており、外部に出る道はないため、脱走の心配もない。

 悪天候の日以外、芳秋は中庭づくりに励むようになった。中庭では鎖から開放され、自由に動き回れる。一美は庭に放たれて喜ぶ犬のようだと嘲笑したが、芳秋は相手にしなかった。カッとなって言葉を返しでもしたら、せっかく与えられた中庭を取り上げられるかもしれない。

 必要な材料は何でも揃えてもらえた。カタログを見て欲しいものに印をつけておけば、注文してもらえる。芳秋はいつか自由に庭づくりをしてみたいと夢見ていたが、こんなかたちで願いが叶うとは皮肉なものだと思った。いくら願いが叶ったとはいえ、食人一族に囚われるという災難は割に合わない。

 中庭で作業をしている芳秋をいつまでも飽きずに窓から眺め続ける者がいた。粘着質な視線に芳秋は苛立った。中庭から外部に逃げ出すすべはないのだから、熱心に監視をしたところで何の意味もないと、呆れていた。しかし、そうではなかった。

 一美の曾祖母である一子は芳秋に遠い昔に失った夫を重ね、懐かしさに浸っていたのだった。夫も芳秋と同様、庭づくりに精を出し、花を愛する男だった。夫婦仲は良好とは程遠いものだったが、それでも一子は彼を愛していた。夫への愛しさを思い出せば必ず同時に湧き上がってくるのは、兄への憎しみだった。兄の存在が自分たち夫婦の間に育まれるはずだった愛情を台無しにしてしまったのだと、一子はいまだに悔しく思っている。だが、そもそも一子と夫が結婚できたのはその兄の存在のおかげであるのは否定できない事実であった。

 中庭を手に入れ、味をしめた芳秋はできる限り厚美を利用しようとした。冷たくするばかりではなく時には優しさも向け、彼女の心を離さないようにした。厚美はますます芳秋に夢中になり、彼のためならばなんでもしようと奔走した。その結果、芳秋は一日に一度は芳と会うことを許され、玩具や菓子を差し入れることもできるようになった。

 生まれて初めて玩具を目にした芳は戸惑った。何もない部屋の中でただぼんやりと時が過ぎてゆくのを受け入れるばかりだった芳には、遊ぶという発想自体がなかった。芳秋は実際に玩具を使ってみせ、芳に遊び方を教えた。芳はじっと芳秋を眺めていたが、やがておずおずと玩具を手に取って芳秋の真似を始めた。

 芳が玩具よりも尚好きなのは、絵本だった。芳秋の膝の上に座り、読み聞かせてもらう。言葉は分からなくとも、絵を眺め、芳秋の声を聴いているだけで十分に楽しめた。

 厚美が忠実である褒美として、芳秋は彼女と身体の関係を持った。好きな男とより深い関係になれた厚美は有頂天になった。芳秋は一美など少しも愛しておらず、この自分だけを愛しているのだと信じた。

「私、普通の結婚がしたいの。赤ちゃんだってほしい。でもこの家に生まれたからには普通の結婚なんて無理。旦那さんは宍童子の餌に取られて、弱って死んじゃうんだもの」

 夫を餌として捧げる短く異常な結婚生活。それが宍塚家の長女以外の娘に課せられた使命だった。厚美の叔母や大叔母たちは皆、忠実に使命を果たしてきたのだ。彼女たちがおとなしく決まり事を受け入れている理由は、一度口にすると決して忘れられない宍童子の美味なる肉のため、またその肉によって得られる奇跡のような恩恵のためである。いつまでも若々しく健康なまま、裕福な実家で安楽に暮らし続けられるのならば、なんだってした。

「それなら誰かと駆け落ちでもすればいい」

「芳秋さん、私と逃げてくれる?」

「いいよ。芳も一緒ならば」

 芳秋には逃げ出した先で厚美と共に暮らし続ける気などさらさらない。自由な外の世界でまで食人鬼と暮らし続けるなんて、あり得ない話だ。だが芳と共に宍塚家から逃げ出すためには彼女を利用するしかないだろう。

「あれは連れていけないよ」

「どうして。君ならこっそり鍵を持ち出して、連れ出すこともできるだろう」

「できないよ……」

 宍童子は宍塚家にとってかけがえのない秘宝である。家族の健康長寿という幸福も、サプリメントの製造販売による莫大な利益もすべては宍童子のおかげだ。それを連れ出すなんて、ひどく大それた、恐ろしいことだった。家族はどんな手段を使ってでも探し出そうとするだろう。どう考えても逃げきれるとは思えなかった。

「それなら別の男でも誘って家を出ればいい。もう俺に構わないでくれ」

「そんなふうに言わないでよ。私は芳秋さんだけが好きなのに」

 厚美は芳秋に腕を絡ませるが、芳秋は冷たく払いのけた。厚美は傷つくよりも焦りを覚え、みっともないほど媚びはじめた。厚美は芳秋に相手にされなくなることを何よりも恐れていた。

 一美が妊娠し、宍塚家は喜びに包まれたが、厚美は例外だった。激しい嫉妬心から一刻も早く自分も芳秋の子を妊娠しなければならないと思い、避妊具の使用をやめた。自分がまだ高校生であることや、姉の夫の子を孕むというタブーなんて気にしていられなかった。芳秋は厚美が妊娠しようとしまいとどうでもよく、他人事のように無関心だった。

 やがて厚美の望みは叶った。愛しい男の子供が自らの中に宿っているのだと知った瞬間、厚美は今までの人生の中で最も強い喜びを覚えた。

 厚美が真っ先に妊娠を打ち明けたのは、家族の中で最も親しい叔母の智代だった。母がこの事実を知れば激怒するに違いないので、まずは智代に味方になってもらいたかった。

「なんて馬鹿なことを」

 姪の浅はかさを智代は嘆いた。厚美にはその反応は意外だった。智代は今も昔も異性関係が派手で、そのことで年甲斐もなく家族から問題児扱いされている。いつまで経っても落ち着きがないと呆れられている彼女だが、厚美には気の合う年上の友達のように感じられていた。彼女の刺激的な恋愛話はテレビの陳腐な恋愛ドラマよりはるかに面白い。ナプキンしか知らなかった中学生の頃の厚美にタンポンの便利さを教えてくれたり、無駄毛の処理の仕方を教えてくれたのも彼女だった。どうしても派手な下着がほしかった時は、母に内緒で買ってくれもした。そんなふうにいつも智代は厚美を理解し、親とは異なるかたちで可愛がってくれている。だから今回の件でもきっと協力者になってくれるものだと思っていたので、がっかりせずにはいられなかった。

「智代叔母さんなら応援してくれると思っていたのに」

「応援とかそういう問題じゃないんだよ。あんたに早く教えておくべきだった。まだ子供だと思って教えていなかった私たちが悪いんだ」

「何なの?」

 ため息交じりに後悔を口にする智代に厚美は眉をひそめた。教えておくべきだったとは、一体何のことだろう。

「私たちは決して子供を産めないんだよ。うちの女で子供を産めるのは長女だけなんだから」

「確かに叔母さんたちや大叔母さんたちには子供がいないけれど、それは宍童子のせいでしょう。夫は宍童子の餌で、弱って死んじゃうから、子供を作るどころじゃなかったというだけでしょう?」

「そうじゃない……例えるなら、私たちは蜂みたいなものなんだよ」

「蜂?」

「これはお母さん――あんたのお祖母さんが最初に言い出したことなのだけれど、私はなかなか的を射ている例えだと思うのよ。共に生まれ落ちる長女と宍童子の立ち位置を女王蜂と考えるの。そして私ら妹たちが働き蜂。女王蜂は子を産めるけど、働き蜂には生殖能力がない。しかも働き蜂はすべてが雌でしょう。私たちも女ばかりが生まれてきて、働き蜂が餌を運んでくるように宍童子の餌となる夫を家に引き入れる。長女の夫はさしずめ特殊な餌であるローヤルゼリーよ。ほら、女王蜂だけが食べる栄養価の高い餌のことね。代々の長女が選んできた夫は皆、並外れて生命力が強くて、宍童子にとっては最高の餌だったというもの」

「私たちには働き蜂と同じで生殖能力がないというわけ? それは間違っているよ。だって、現に私は妊娠しているもの」

「私たちにはまるっきり生殖能力がないというわけではなく、無事に子供を産むまでの能力がないんだ。残念だけど、お腹の子は流れてしまうよ。隠していたけれど、実は私だって流産を経験しているし、大叔母さんたちの中にだって……」

「そんなの偶然だわ。私は信じない。私はとても健康だから絶対に大丈夫」

 信じないと言いながらも、厚美の顔は青ざめ、声はヒステリックに上ずっていた。

「そりゃあ信じたくはないだろうけど、事実なんだよ。諦めて一日も早く堕してしまわなきゃならないよ。胎児が育ってくればくるほど、流れてしまった時、つらいから。他の家族には内緒にしておいてあげるから、私と一緒に病院に行こう」

「そんなの嫌。中絶なんて絶対にしないから」

 厚美は目に涙を浮かべながら立ち上がり、智代の前から走り去った。

 何が何でも芳秋の子を産んでみせると、厚美は胸に誓った。今まで宍塚家では長女以外の女が無事に出産した例がなくても、自分だけは例外だ。この自分が一族の定めと認識を塗り替える。子供を産めるのは一美だけではないということを示すのだ。

 やがて末娘の妊娠に気がついた一代は智代同様に出産は不可能なのだと諭した。だが厚美は聞く耳を持たず、絶対に産むのだと言い張るだけだった。

 一美は芳秋の子を産みたがっている妹を馬鹿げていると冷笑しながらも、内心ははらわたが煮えくり返っていた。一美は仕事に追われるあまり、今まで彼らの関係に気づけずにいた。事実を知った時、厚美を階段から突き落とすべきか、それとも毒でも盛るべきかと思ったが、やめておいた。どうせ厚美には流産という天罰が下るのだから、何もわざわざ自分が加害者になる必要はないのだ。

 心配する家族や、流産を待ち望む一美をよそに、厚美の妊娠は順調だった。厚美は高校を中退し、よく食べ、よく眠り、寛いで過ごした。母体も胎児も健康そのものだった。一方、一美は体調不良に苦しんでいた。ろくに眠れないほどつわりが酷く、一日に何度も嘔吐した。

 家族らは二人の対照的な様子を見ているうちに、ひょっとすると厚美は本当に無事に出産を果たすかもしれないと思い始めた。

 厚美はついに臨月に達した。今まで頗る順調に過ごしてきたが、事態は急変した。いつものように菓子をつまみながらテレビを見て過ごしていた厚美は、不意に腹痛を覚えたかと思うと、血を流し始めた。それから長い苦しみを味わい、ついには死産した。

 一方、一美は無事に子供を産んでいた。妊娠中は体調不良に悩まされていたものの、出産自体は極めて安産だった。子供は男女の双子だった。

 芳秋が我が子と初めて対面したのは、生まれてから三か月も経ったあとだった。宍塚家には女手がたくさんあるため、芳秋が赤ん坊を世話する必要はなかったし、芳秋も会わせてほしいと求めなかった。しかし一美がそろそろ赤ん坊に父親と親しむ機会を与えたいと思ったために、やっと対面が果たされることとなった。可愛い我が子が物心ついた時、父親の愛情が感じられないのはかわいそうだ。

 子供部屋に連れられた芳秋はベビーベッドに眠る小さな娘を目にした。これが自分の子供であるなんて全く実感が湧かず、愛情も感じなかった。憎んでいる女との異常な結婚生活の中で生まれた子供など、今後も愛せそうにない。

「この子が一花ちゃんよ。可愛いでしょう。世界一の美人さんだわ」

 一美は愛娘の顔を覗き込み、うっとりと囁いた。権高な彼女も我が子には甘ったるい愛情を向けるものなのだな、と芳秋は少し意外に思った。

「もう一人の子は? 双子だったんだろう」

「もう別々に育てているわ。あれは新しい宍童子だから、普通の子供としては育てないからね」

「新しい宍童子って、どういうことだ?」

 宍童子。それは食人行為の被害者としての芳を指す忌々しい名称だ。

「言っていなかった? 宍塚家の長女が最初に産む子供は決まって男女の双子で、男子は次の世代の宍童子なのよ。今回の宍童子もやっぱり兎みたいな赤い瞳に、少し赤毛の混ざった白っぽい金髪という特徴が備わっていたわ」

 宍童子が宍塚家に代々生まれてくる存在だなんて、芳秋は思ってもみなかった。それも宍塚家の長女が最初に産む子供は決まって男女の双子で、そのうちの男子に宍童子としての特質が備わっているなんて、一体どのような仕組みが働いているのか。信じ難い話ではあるが、現に芳秋は芳という不思議な存在や、宍塚家の者たちの異様な若々しさを目の当たりにしている。どんなに常識を超えた仕組みといえども真実なのだろう。

「……ということは、芳の前にも宍童子と呼ばれる存在がいて、この家の者たちは昔から食人行為を行ってきたのか? そして新しく生まれてきた子も食うというのか?」

 こみ上げてくる吐き気をこらえながら芳秋は訊ねた。

「当たり前じゃない。宍童子は食べるために存在しているのだから。あら、一花ちゃんが目を覚ましたわ。お腹空いたかな? よしよし、おいで」

 泣き出した一花を抱き上げる一美を芳秋は愕然と眺めていた。優しく赤ん坊をあやすこの母親は、もう一人の我が子を食用としか認識していないのだ。

 一美は宍童子の餌となる者を集める人員確保のためにも、子供はできるだけ多くほしいと思っていた。家族からもそれを期待されている。だが、芳秋は一美に触れなくなった。芳秋は双子の誕生によって自分の間違いに気がついたのだった。食人鬼の一族を殖やしてしまった。新しい宍童子という哀れな存在を生み出してしまった。せめてもうこれ以上、宍塚の血を引く者を殖やさないようにしなければならない。

 厚美は死産の悲しみと、無事に芳秋の子を産んだ一美への妬ましさにひどく心を乱していた。芳秋が一美と肉体関係を持たなくなり、自分とは関係を続けているという大きな慰めがなければ、とても耐えられそうになかった。

 いつまでも自分に執着し続ける厚美を芳秋はつくづく馬鹿な女だと思っていた。だが、彼女の存在は重要だ。彼女が家族に口利きしてくれることによって、芳秋の無味乾燥な監禁生活はかなり改善された。これからも彼女を利用しない手はない。

 その日、芳秋は自らの上着で芳を包み込むと、抱き上げて部屋の外に出た。思いがけない出来事に芳は身体をこわばらせ、片方しかない手で必死に芳秋にしがみついた。部屋の外に出る機会が訪れるなんて、思ってもみなかった。手足等を切断する手術を受ける際だって、薬で眠っているうちに部屋から連れ出され、気づかないうちにまた部屋に戻されているのが常だった。ゆえに芳にとって部屋の外は完全なる未知の世界だった。

「そう緊張しなくて大丈夫だ。中庭に出るだけだから」

 芳秋は芳を軽くゆすり、声をかける。芳秋は厚美を介し、芳を中庭に連れ出す許可を取りつけたのだった。許可を得るまで三年もかかった。芳秋の粘り勝ちと言えた。部屋の中に監禁され続けるばかりの芳の生活はあまりに気の毒なので、せめて中庭に連れ出して外の空気を吸わせてやりたい。そんなささやかな願いがようやく叶えられる。

 ガラスドアから芳秋は中庭に出た。秋の午後の爽やかな空気が芳秋と芳を迎え入れた。

 生まれて初めての屋外に芳は目がくらむような衝撃を受けた。閉じ込められていた部屋だけが芳にとって世界のすべてであったため、それ以外の世界がこれほどまでに大きく広がっているなんて、信じられない思いがした。恐ろしく広く感じられる中庭にただただ目を丸くし、芳秋の服を強く握りしめる。緊張のあまり胸が苦しいほど高鳴った。

「芳の髪、自然光だとそんな色に見えるんだな」

 芳秋は窓もない室内では気づけなかった芳の特徴を発見した。白金色の髪の中に少量の赤毛が混じっている芳の髪は、自然光の下では桃色がかって見える。

「芳はジャスミンの中でもハゴロモジャスミンだったのか」

 ハゴロモジャスミンは白い小さな花をつけるが、蕾はピンク色だ。白い花とピンクの蕾が入り混じって咲く様子はまさに芳の髪の色合いとよく似ていた。

 ハゴロモジャスミンは蔓性の植物なので、アーチやトレリスなどに這わせて育てる。芳秋はハゴロモジャスミンで花のトンネルを作ろうと思いついた。

「ほら、コキアが赤くなっている」

 芳秋は芳を連れ、コキアの茂みの前に来た。和名のホウキギという名の通り、箒の材料にもなるコキアは丸い草姿が愛らしく、秋には紅葉が楽しめる。

「分かるか? 植物図鑑に載っていただろう。これが本物のコキアだよ」

 芳秋と芳はよく植物図鑑やカタログを共に眺めて過ごす。芳秋は芳が気に入った植物を庭で育てるようにしていた。

 丹精して育てた植物一つ一つを芳秋は芳に見せてまわった。いつしか芳の緊張は解け、中庭めぐりを楽しみ始めた。植物や庭づくりについての説明を受けても芳には意味が分からない。だが、芳秋に語りかけてもらいながら中庭を見せてもらうのは幸福以外の何ものでもなかった。目覚めている時には想像もできないような美しい夢を見ている時のような、満ち足りた気分に包まれた。

 その日から芳秋と芳は悪天候の日を除いて毎日のように中庭に出るようになった。芳が疲れたり、風邪をひいてはいけないからと、中庭にいられる時間は短く制限されている。制限の理由は傍目には優しげだが、芳秋は嫌悪しか覚えない。宍塚家の者たちは芳そのものを心配しているわけではなく、自分たちが食すために存在する宍童子が損なわれないかが気掛かりなだけなのだ。

 師走の寒さ厳しい夜から朝にかけ、雪が降り積もった。午後になった現在も小雪がちらついている。芳は銀世界と化した中庭と芳秋の顔を交互に見て、あれはなに、と説明を求めた。

「芳、これは雪だ。結構積もったな」

 芳を抱えた芳秋はサクサクと新雪を踏み、中庭を歩き出した。

「寒くないか?」

 芳の顔を覗き込み、芳秋は訊ねる。芳の真っ白な頬は冷気に晒されてほんのりと赤くなっているが、寒さは感じていなかった。芳秋が自分の温かいベンチコートで包み込んだため、冷たい空気が身体を冷やすことはない。

「雪を踏むのは片栗粉を踏んでいるみたいな感触だ」

 雪を片栗粉に例えたところで芳に伝わるわけもないが、それでも芳秋は語りかける。できることならば芳に雪の上を歩かせてやりたいと思うが、それは義足でも作らない限り無理な話だ。

 東屋まで来ると、芳秋はベンチコートの長い袖の中から小さな手を取り出してやった。

「触ってごらん」

 芳秋に促され、芳は東屋の柵の上に積もった雪に手を伸ばす。指先が雪に触れると、その冷たさに驚いて素早く手を引いた。

「びっくりしたか? 雪は冷たいんだ」

 本能的にこれは危ないものなのではないかと芳は不安になったが、芳秋は笑っている。それならば触れても問題はないのだと思い直し、再び雪に手を伸ばした。やはりとても冷たいが、面白くて不思議だった。ふわふわとして柔らかいが、ぎゅっと握ると一つのかたまりになり、ふわふわではなくなる。

「あんまり手を冷やすとしもやけになる。かゆいんだぞ。中に引っ込めてよく温めるんだ」

 雪の感触を楽しんだあと、芳は手を袖の中に引っ込めた。温かなコートの中で手はすぐに温もった。

 芳秋は東屋の中のベンチに腰を下ろし、膝の上に芳を乗せて雪景色を眺めた。雪は音を吸収する性質を持つため、中庭はいつになく静かだった。

 この純白の静けさの中に芳と共にとけ込み、跡形もなく消えてしまえればどんなにいいだろう。不意に芳秋は現実離れした思いを抱いた。宍塚家から逃げ出せないのならば、せめてもの救いを願わずにはいられないのだった。

「……そろそろ中に入るか」

 長々と感傷に浸りはせず、芳秋は立ち上がった。芳が冷えてしまってはいけない。

 大晦日の宍塚家は来たる正月の最終準備でばたついていた。地元きっての旧い名家である宍塚家にはたくさんの人々が新年の挨拶に訪れる。飾りつけ、料理、晴れ着などの準備は抜かりなく行わなくてはならない。

 芳秋は準備に駆り出されることもなく、いつものように部屋の中に閉じ込められて過ごした。大晦日といっても、外界と遮断されている身では時の流れる感覚が曖昧で、実感は湧かない。それでもせめて年末年始くらいは実家に帰りたいと、強く思う。もう両親とは三年以上会っていないのだ。両親に芳秋の現状について不信感を抱かせないためにも、たまに電話で話すことは許されているが、監禁されているなんて打ち明けられない。すぐそばには監視の目があるため、当たり障りのない話題しか口にできないのだ。もし宍塚家にとって不都合な内容を口にしようものならば、芳秋だけではなく芳にまで危害を加えると、脅されている。仮に監禁の事実を伝えられたとしても、救出してもらえる可能性は低い。芳秋の両親が警察に助けを求めたとしても、警察は動かないだろう。宍塚家と警察は繋がりがあるという事実を芳秋は身をもって知っている。

 もう二度と会えないかもしれない家族や友人のことを考えても気が滅入るだけだ。芳秋は早く芳に会いたいと思った。一日に一度、芳に会うことだけが今の芳秋の生き甲斐だった。

 いつもは昼食後に宍塚家の者がやってきて、芳秋を芳のもとに連れてゆく。もう食事はとうに終わっていた。正月の支度で忙しくしているせいで後回しにされているのだろうと思い、芳秋は苛立った。だが文句を言う相手もいないので、ひたすらおとなしく待つしかない。

 夕方になって、やっと厚美が顔を出した。

「今日はずいぶんと遅かったな。早く行こう」

 芳はいつもドアの前に座り込んで芳秋を待っている。長い間そのまま待たせているかと思うと、芳秋の胸は痛んだ。

「あの……びっくりしないでね。さっき手術が終わったところで、宍童子はまだ眠っているかもしれないわ」

 厚美はおずおずと説明した。

「手術だって?」

「そう。明日、元日でしょう。だからお雑煮に入れるためのお肉を――……」

 残酷な事実を告げられた芳秋は血の気が引いてゆく感覚に襲われた。もう少しで膝から崩れ落ちてしまうところだったが、歯を食いしばってなんとか堪えた。

「会わせてくれ」

 厚美に連れられ、芳秋は芳のもとに向かった。

「そんなに心配しなくても大丈夫だからね。今回切ったのは右脚の腿の部分よ。すでに脛の部分はなかったのだから、不自由さはたぶん変わらないでしょう」

 暗く沈んだ面持ちの芳秋を元気づけようと、厚美は明るく話しかけた。

 芳秋は何も答えずに考え込んでいた。強制的に手術を受けさせられ、目が覚めたら身体の一部を失っているなんて、考えるだけでも恐ろしい。しかも芳の身にはそんな悪夢のような出来事が何度も起こるのだ。ただ宍塚家の連中に食われるためだけに芳は部分的に身体を失ってゆく。病気や怪我の影響でやむを得ず切断するのとはわけが違う悔しさ、恐ろしさだろう。

 死人のように蒼白な顔で芳はベッドに横たわっていた。まだ意識が明瞭ではないものの、目覚めており、虚ろな目で芳秋を見つめた。芳秋は芳がしゃべれないことがひどくかわいそうだった。つらいとも痛いとも口にできないなんて、どれほど苦しいだろう。

「芳、吸ってくれ」

 芳秋は芳のそばにしゃがみ込み、小さな唇に人差し指をそっと押し当てた。芳は怠そうにゆっくりと口を開き、指をくわえた。手術で体力を消耗しているせいか、いつもより多く精気が吸い出されるのを芳秋は感じた。強烈な快感が押し寄せてきて、思わず息を詰めた。芳が酷い目に遭っている時にこんな感覚を覚えるなんて、罪悪感を覚えずにはいられない。それでも快感はとめどなく湧き上がり続け、芳秋を恍惚とさせる。

 厚美には芳を可愛がっている芳秋の気持ちがまるで理解できない。宍童子は食すための存在であり、それを愛玩の対象にするなんて、悪趣味であるようにすら感じる。芳秋の心を占めている芳の存在は疎ましくもあるが、芳の吸精行為は厚美にとっても必要なものだった。芳秋が厚美を求めてくるのは決まって芳に精気を吸われたあとである。芳秋は吸精行為によって生じた肉体の疼きをしずめるために厚美を利用しているに過ぎないが、厚美はその事実から目を背け、彼から与えられる愉悦に溺れていた。

 しばらくの間、芳の体調は優れなかった。それでも冬が終わり、少しずつ暖かくなるにつれて体力も戻ってきて、また中庭に出られるようにもなった。

 右腿の付け根から切断された分、さらに軽くなってしまった芳の小さな身体を抱き、芳秋は春の花を見せてまわる。



 五歳になった一花は幼稚園から帰ってくると、すぐに中庭に出るのが日課となっていた。父はよく中庭にいるので、彼に会うためだ。父が中庭にいる時以外はどこにいるのか、一花は知らない。彼は家族が集うリビングには現れないし、食卓も共に囲まない。お父さんはお部屋でお仕事をしているんだよ、と家族から教えられているが、父の部屋がどこなのか分からない。小さな一花には離れまである宍塚邸は広すぎたし、行ってはいけないと言われているところも何か所かある。だから父が中庭にいる時以外はどこで過ごしているのか、全く知らずにいた。

 今日は叔母が旅行の土産に買ってきてくれたクッキー缶を持ち、嬉々としてガラスドアから飛び出した。それは非常に美しいクッキー缶だった。ペールブルーの地に小鳥や花の繊細な絵柄がエンボス加工されている。一花は一目見るなり心奪われ、父に見せたいと思った。こんな綺麗な缶に入ったクッキーならば、父も欲しくてたまらないだろう。分けてあげればきっと喜ぶ。ありがとうと言って、笑いかけてくれるかもしれない。一花は父に笑いかけられたことがなかった。彼はいつも無表情で、冷たくよそよそしい。彼が笑顔を向けるのは、芳に対してだけだった。

 初夏の中庭は花の色彩と芳香に満ちていた。芳秋が六年にわたって手入れを続けた結果、かつては殺風景だったこの場所は見違えるほど美しくなっていた。うちの中庭ほど綺麗な場所は他にないと、幼い一花は信じていた。

 手入れの行き届いた中庭の中でもことに見事なのは、ハゴロモジャスミンをアーチに絡めて作った花のトンネルである。

「ほら、いい香りだろう。芳と同じ匂いだ」

 芳秋は抱きかかえた芳を夥しい数の花に近づけ、香りを嗅がせていた。初夏の日差しを受け、芳の髪は淡い桃色に輝いている。

 ハゴロモジャスミンの香りを嗅がせてもらったあと、芳は少し奥まった場所にあるトレリスに絡む花が気になり、指差した。この庭においてハゴロモジャスミンは長いトンネルを形成するほどたくさん植わっているが、その花は一か所に一株植わっているだけだった。ハゴロモジャスミンと同じく白い花を咲かせる蔓性の植物で、芳香もある。似てはいるが、花の形に違いがある。ハゴロモジャスミンの花弁にはふっくらと丸みがあるが、その花は花弁の付け根が細く、先端ほど幅広で、プロペラのような形をしている。

 花はすぐに盛りが過ぎ、枯れてしまうという事実を知った時、芳は悲しかった。芳は芳秋が育てている植物すべてを愛しているので、花に寿命があるなんて惜しくてならない。だからせめて花を部屋に持ち帰ってその美しさをじっくりと楽しみ、姿をお絵描き帳に描き写すようにしていた。あの白い花はまだ描いていなかったはずだ。今日はあれを剪ってもらいたかった。

「ああ、今日はあれを剪ろうか。あれはトウテイカカズラといって、スタージャスミンとも呼ばれている。見た目や香りがジャスミンによく似ているから」

 芳秋は秘密を打ち明けんとばかりに、耳殻を切り取られた芳の耳元に唇を寄せた。

「でも、ジャスミンと違って、あれには強い毒がある。だから芳は絶対に触れてはいけないよ」

 トウテイカカズラは姿も香りもモクセイ科ソケイ属のジャスミンと類似しているが、キョウチクトウ科テイカカズラ属に分類される全くの別種だ。口にすると、最悪の場合、死に至る。

 芳の耳元に唇を寄せている父の姿に一花の嫉妬は燃え上がった。その様子は一花の目に接吻しているように映った。芳ばかり可愛がって、ずるい。一花は大急ぎで駆け出した。

「お父さん! あ……っ」

 慌てたせいか、一花は勢いよく転んだ。手に持っていたクッキー缶は投げ出され、蓋が外れて地面にクッキーが散らばった。一花は地面に伏したまま声を上げて泣き出した。芳秋は何も言わず、助け起こそうともしなかった。

「お父さん、痛い」

 しばらくはただ泣きじゃくっていた一花は、声もかけてくれない芳秋に痺れを切らし、痛みを訴えた。

 芳秋は東屋のベンチに芳を座らせてくると、箒を持ってきて地面に散らばったクッキーを集め始めた。一花は身体を起こし、そのまま座り込んでぼんやりと父を眺めた。もう涙は止まっていたが、幼い心は激しい不満に満ちていた。一花は父に優しく声をかけてもらい、抱き上げ、慰めてほしかった。よその父親が我が子に対してそういうふうにしているところを見たことがある。なぜ父は同じようにしてくれないのか、解せなかった。

「この缶はどうする?」

 芳秋はペールブルーのクッキー缶を拾い上げ、一花に声をかけた。今日、初めて父に声をかけられた一花は喜びに胸が高鳴った。

「いらない」

 父に話しかけられて嬉しいものの、すっかり拗ねていた一花は素っ気なく答えた。とても綺麗な缶だから宝物入れにしようと思っていたが、今はもうどうでもよかった。

「それじゃあ、貰ってもいい?」

「いいよ。一花、そんなのいらない」

「そうか。それなら貰うよ」

 芳秋はクッキー缶を持って歩き出した。一花は彼のあとをついていった。擦り剝いた膝が痛かったが、またぐずってみたところで父が心配してくれるわけもないので、我慢した。

 芳秋は芳にクッキー缶を与えた。美しい色彩や絵柄に芳は赤い瞳を輝かせ、隻腕で缶を抱えた。嬉しそうな芳を目にした途端、一花の中にはクッキー缶の魅力が一気によみがえってきた。さっきよりも尚、魅力は増しているようにすら思えた。クッキー缶を自分のものにしてしまった芳が憎らしく、どうしても我慢ならなかった。

「それ、一花の。返して!」

 クッキー缶を奪い返そうと、一花は芳に手を伸ばす。すかさず芳秋は芳を抱き上げ、一花から遠ざけた。

「一花はいらないと言ったじゃないか」

 父に呆れられた一花は深く傷ついた。芳秋は一花に対して一度たりとも声を荒らげたり、暴力をふるったことなどないが、いつも静かに傷つける。

「言ってないもん。それ、一花のだもん」

 目に涙を浮かべ、一花は地団駄を踏んだ。芳秋は小さなため息をついた。

「芳、悪いけど返してくれるか?」

 がっかりしながらも芳は缶を手放した。見た目は幼い子供そのものである芳だが、本物の子供のようにむずかりはしない。これでも芳は三十年近い時を生きている成人であり、一花にとっては伯父にあたるのだ。

「ほら、返すよ」

 芳秋は一花にクッキー缶を手渡した。クッキー缶が返ってきても、一花の心は晴れなかった。まだ芳にはクッキー缶よりもはるかに大事なものを盗まれたままである。

 芳が一花から盗んだもの。それは父だった。いつも父は芳を大事そうに抱き、優しく話しかけ、宝物のように扱っている。本来、父からそういう扱いを受けるに相応しいのは、芳ではなくこの自分であるのに。

「お父さん、一花も抱っこして。お花の香りを嗅ぎたいの」

 先ほど芳秋が芳を抱えて花の香りを嗅がせていた時と同じようにしてほしいと、一花は訴えた。

「一花は自分で嗅げるだろう」

「高いところに咲いているお花の香りを嗅いでみたいの。だって、同じお花でも低いところのお花と香りが違うかもしれないでしょう」

 我ながら上手い理由を考えついたと、一花は得意になった。そんな一花に芳秋は苛立ち、返事をするのも嫌になった。一花の小癪な口ぶりや表情は一美にそっくりで、強い嫌悪感を覚えずにはいられない。

「……なんで芳は抱っこするのに、一花はしてくれないの? ねえ、なんで?」

 冷たく無視する父に焦れ、一花は不満をあらわにする。

「一花は歩けるけど、芳は自分で歩けないからな」

 おまえら食人鬼どもが芳の脚を食ってしまったせいで芳は歩けないのだ。そんな怒りを淡々とした口調に隠し、芳秋は答えた。

 自分でも大人げないと思いながらも、芳秋は一花を嫌悪し、甘えたがる彼女を拒み続けてきた。父親に拒絶されるなんて、かわいそうだという気持ちはある。だが、嫌悪感がそれをはるかに上回るのだ。まだ幼い一花だって、おぞましい食人一族の一員であることには変わりないため、決して愛せない。

「自分で歩けなくて、おしゃべりもできないなんて、赤ちゃんみたい。一花なんか幼稚園で一番速く走れるよ。それにもっともっと小さい頃から上手におしゃべりできるの」

 歩行も発語もままならないなんて情けない。一花は芳を馬鹿にし、挑発したつもりでいたが、芳が悔しがる様子は微塵もなかった。一花の背丈よりもずいぶんと高い位置にある芳秋の腕の中で、ただおとなしく一花を見下ろしている。その落ち着きぶりが一花の目には許し難いほど生意気に映った。

「一花はお姉さんで、芳は赤ちゃんだから、これあげる」

 一花は芳に向かってクッキー缶を投げつけたが、とっさに芳秋が庇った。クッキー缶は芳秋の身体に当たって地面に落ちた。

「痛いじゃないか」

 芳秋に睨みつけられ、一花はどうしていいか分からずに逃げ出した。走りながら涙が溢れた。父に愛されたいだけなのに、どうしてこうも上手くいかないのか。


 幼稚園の散歩の時間、二列に並び、隣の子と手を繋ぐ。一花の相手は理沙だった。

「昨日、ルルが赤ちゃんを産んだの。赤ちゃん、六匹もいるんだよ」

 繋いだ手を大きく揺らしながら理沙は得意げに言った。

「赤ちゃんが生まれたことくらい、何もすごくないよ。うちの裏庭でも猫が赤ちゃんを産んだもん」

 負けず嫌いの一花は理沙と張り合った。

「でも、その猫って野良猫でしょう。前に一花ちゃんはペット飼ってないって言ってたもんね」

 理沙は一花の痛いところを的確についた。確かに裏庭で出産した猫は一花のペットでもなんでもなく、ただの野良猫だ。一花がそばに近づこうものなら、警戒して風のように逃げ去る。

「ルルの赤ちゃん、可愛い?」

「まだあんまり可愛くない。なんだか兎じゃなくて、みっともない鼠みたいなの。でもママはあと何日かしたらふわふわの毛が伸びてきて、可愛くなるって言ってた。一花ちゃん、今度うちに見に来る?」

「うん、行く」

 悔しいが、兎の赤ちゃんは見てみたい。一花は大きく頷いた。

 休日になると、一花は母に頼んで理沙の家に連れていってもらった。多忙な母だが、土日のどちらかは一花のために時間を作ってくれる。

 理沙の母親は愛想よく一花と一美を出迎えた。彼女の夫は宍塚家が経営する会社に勤めている。一花や一美に対して何か粗相があれば夫の立場が危うくなりかねないため、くれぐれも機嫌を損ねないように気を張っていた。

「わあ、可愛い! 見て、お母さん。すごく可愛いよ」

 兎のルルと赤ん坊たちを見せてもらった一花は喜びの声を上げた。ついこの間、理沙はみっともない鼠のようだと言っていたが、ほんの数日の間に仔兎は見違えていた。手のひらサイズの真っ白な仔兎たちは一花が今まで見てきたどんな動物よりも可愛らしかった。

「そうね、本当に可愛い」

 一美は自社において研究開発業務に従事している。兎は製品の安全性を確かめる実験に用いるため、愛玩動物というより実験道具としか思えないのが正直なところだが、幼い娘にそうは言えない。

「お母さん、一花もウサちゃんほしい」

「あら、それなら差し上げましょうか。一匹でも二匹でもどうぞ」

 一花がおねだりすると、すかさず理沙の母親が口をはさんだ。彼女は仔兎たちをどうするか悩んでいた。うっかり繫殖させてしまったものの、つがいの二匹に加え、さらに仔兎を六匹も飼育してゆくのは難しい。

「残念ですけど、うちはペットを飼えないんです。家族にアレルギーの者がいて」

 一美は申し出を断った。しかし、アレルギーなんて建前に過ぎない。宍童子という特異な存在のために、宍塚家では昔から動物の飼育が禁じられている。至って健康そうに見える動物だって、何らかの病原体を保有している可能性は十分にある。野生動物だけではなく、家庭内のペットですら感染症の原因となる場合がしばしばあるのだ。だから万が一にも貴重な宍童子に病気がうつったらいけないとして、動物を家に入れないという決まり事があるのだった。

 仔兎を飼えないことに一花はひどくがっかりし、ついには泣き出した。困った一美は一花を連れて早々に理沙の家を後にした。

「なんでウサちゃん飼えないの」

 母の車の助手席で一花はしゃくり上げながら問いかける。

「昔からの決まりでうちは動物を飼えないんだよ。宍童子がいるからね。動物がうちにいたら宍童子が病気になっちゃうかもしれないから、駄目なのよ」

 まだ幼い一花にも、一美は宍童子について包み隠さず話すようにしている。宍塚家の長女たるもの、幼いうちから宍童子についてよく理解しておく必要があるのだ。

「でも、日菜子ちゃんは犬を飼っているし、由衣ちゃんは猫を飼っているよ。一花だって何か飼いたい」

「お母さんも小さい頃は犬を飼いたかったけれど、我慢したんだよ。だから一花ちゃんも我慢してね。そうだ、今からデパートに行って、何かおいしいものを食べてこよう。玩具も好きなものを買ってあげる」

 一花はデパートで人形を買ってもらったが、それでも不満はおさまらなかった。本当に欲しいのは人形などではなく、生きている動物なのだ。

 ペットを飼えない理由は宍童子がいるから。一花はますます芳が憎らしくなった。

 デパート内のレストランにて、一花はお子様ランチ、一美はボロネーゼを注文した。

「おいしそうだね。お母さんもお子様ランチが食べたい時があるけど、子供しか食べられないんだよ」

 いまだに浮かない顔をしている一花の気分をどうにか盛り上げようと、一美は過剰に羨ましがってみせた。普段の一花ならば旗が刺さったチキンライスや、シロップ漬けのさくらんぼを添えたプリンに嬉しくてたまらなくなる。だが今はお子様ランチよりも隣のテーブルに気を取られていた。

 小さな女の子と両親がテーブルを囲んでいる。女の子の隣には父親が座り、小皿に食べ物を取り分けてやったり、汚れた口元を拭いてやったりと、しきりに世話を焼いていた。両親も女の子も笑顔が絶えず、眩しいような明るい雰囲気がみなぎっている。

 一花は女の子が羨ましくてならなかった。自分は父にあんなふうに可愛がってもらった覚えはないどころか、共に食卓を囲んだ経験すらない。

「お母さん、どうしてお父さんは一花のことが嫌いなんだろう?」

 一花の問いかけに一美は胸を痛めた。一花が父親の愛情を感じられず、寂しい思いをしていることはよく知っていた。一美は今まで何度も芳秋にもっと一花を構ってやるようにと注意しているが、彼が態度を改めることはない。なるべく一花が赤ん坊の頃から父子が顔を合わす時間を多く設け、自然と愛情が育まれるように仕向けてきたつもりだったが、全く効果はないのだった。

「嫌いだなんて、そんなわけないでしょう。お父さんもお母さんも一花ちゃんのことが大好きだよ」

 偽りを悟られぬように一美は軽い調子で答えた。確かに芳秋は一花を含めた宍塚家全体を嫌悪している。だが、まだたった五歳の娘がそんな事実を知る必要なんてないのだ。

「でも、お父さん、一花を一回も抱っこしてくれたことないよ。おしゃべりだってあんまりしてくれないの」

「お父さん、本当は一花ちゃんのことが大好きだけど、恥ずかしがり屋さんだから抱っこもおしゃべりも苦手なのよ」

「一花が転んでお膝から血が出ても、知らんぷりするよ。一花のことが好きなら、知らんぷりなんかしないもん。どうしてお父さんはあんなに芳には優しいのに、一花には優しくしてくれないんだろう」

 これには一美もなんと答えていいか分からず、押し黙った。無性に芳秋が憎らしかった。小さな娘が怪我をしても無視するなんて、なんという非情な男だろう。

「そうね……お父さんが芳に優しいのは、芳のことが本当に好きだからというわけではないの。お父さんは芳に操られているだけなのよ」

 迷いながらも一美は切り出した。一花にはまだ難しい話だと思い、今まで説明せずにいたことをこの際に話そうと思った。

「どういうこと?」

「芳にとってお父さんは最高の食べ物であるということは分かっているよね?」

「うん、知っているよ。芳はお父さんから精気というものを吸って、それで生きているんだよね」

 宍童子がどういう生き物であるのか、一花は日常的に家族から聞かされて育っている。

「そう、芳にはお父さんがどうしても必要。だから芳は魔法のような力でお父さんを操って、自分のものにしているのよ」

「そんなことができるの? だって、魔法って本当はないんでしょう。幼稚園でみんなそう言っているよ」

 魔法だのサンタクロースだのおばけだのを信じている者は馬鹿。それがこの頃の幼稚園で広がっている風潮だった。

「本当の魔法ではないの。あくまで魔法のような力ね。今はまだ研究中で、その力の正体はちゃんと分かっていないの。でも歴代の宍童子の例や、彼らの脳波を解析した限り、どうも宍童子は精気を吸い取るための相手の精神を操っているような事跡が見られる。自らに好意を抱かせることによって精気と庇護を得て、食料と安全を確保するためだと考えられるわ。私の予想では、それは一般的に超能力と呼ばれて知れ渡っているものと同じ事象で、現代の科学では解明できないものなのよ。この広い世の中にはね、芳の魔法じみた力以外にもまだまだ解明されていない事柄がたくさんあるのよ。それはやっぱり魔法みたいにとても不思議に思えることばかりだけれど、実はちゃんとした原理のもとで起きている現象なの。その原理が人類に解き明かせるかどうかは別として、物事が起こる際には必ず根本的な理由や法則があるんだわ」

 宍童子は自らの糧となる者の心を操る能力を持っているが、宍塚家の長女にもまた特殊能力が備わっている。それは宍童子の最高の糧となる良質で豊富な精気の持ち主を見分ける能力だ。

 少しずつデータが取れてきた現在、最高の糧となる者に共通する特徴はいくつか見えてきている。大柄で屈強な体格であること。人並み外れた体力があること。過去に風邪をひいた経験もないほど頑健であること。他にも何かしらの共通点はあるのかもしれないが、はっきりとしているのはこの程度だ。

 これらの特徴が最高の糧となる者の特徴であると分かっていても、それだけを手掛かりにして探し出すのは困難だろう。体格については見た目だけで分かるが、その他の特徴は長い時間をかけて観察したり、本人に聴き取りでもしない限り、分かるものではない。だからこそ宍童子と共に生まれ落ちるさだめの長女には本能的に最高の糧を見分ける能力が備わっているのだろう。

 一花は口を半開きにし、あっけに取られて一美を見つめていた。一美はつい夢中になって饒舌になってしまったと、苦笑した。こんな話を五歳児相手に語ってみたところで、理解できるはずもない。

「一花、全然分からないよ……」

「ごめんね。お母さん、説明が下手ね。とにかく、芳は魔法みたいな力でお父さんを操っているのよ。お父さんが芳に優しくて、一花ちゃんにそっけないのは芳のせいなの」

「そう……全部芳が悪いんだね。芳がいなくなったら、お父さん、一花のこと好きになってくれるかなぁ」

「もちろん、大好きになるよ」

 一花のためを思って一美は肯定した。実際、芳がいなくなったとしても芳秋は一花を愛さないだろう。彼は宍塚一族を敵と捉えて憎悪しているのだから、一花だって例外ではない。

 数日後、園庭の片隅にある低木の陰に一花と理沙はしゃがみ込み、ひそひそと話していた。

「理沙ちゃん、ちゃんと持ってきた?」

「うん。一花ちゃんは?」

「持ってきたよ。はい、これ」

 一花は通園用の手提げ袋から人形を取り出し、理沙に渡した。

「やったぁ! これ、すごく欲しかったの」

 その人形はついこの間、一花がデパートで買ってもらったものだった。以前から続いているシリーズの新作で、従来の型と最も異なる部分は髪だった。今までは栗色の髪をしていたが、今作はピンクがかった金髪となっていた。ピンクほど多くの女児を魅了する色はない。たちまち人形は大人気となり、理沙も喉から手が出るほど欲しいと思っていた。

「なんでそんなお人形がいいの? 全然可愛くないのに」

 一花は喜んでいる理沙を軽蔑した。人形の髪は芳の髪の色に似ており、顔立ちもどこか似ている。そんなものが可愛いと思うなんて、センスが悪い。

「すごく可愛いよ。理沙、今日からこの子とずっと一緒にいる。お風呂も寝る時も一緒」

 大事そうに人形を抱きしめる理沙に一花はふんと鼻を鳴らした。

「ねえ、早くちょうだいよ。死んでないよね?」

「大丈夫。揺らさないようにそっと持ってきたから」

 理沙は手提げ袋からタッパーを取り出した。中には一匹の仔兎が入っている。

タッパーの蓋にはレンジで温める際に蒸気を逃がすための弁がついており、それを開けて仔兎が窒息しないようにしていた。

 一花と理沙は人形と仔兎を交換する約束をしていたのだった。一花はタッパーごと仔兎を自分の手提げ袋の中にしまい、理沙も人形を同じようにしまった。

 昼食が済んだあと、一花は仔兎を入れたタッパーをこっそりとトイレに持ち込み、蓋を開けてみた。仔兎はかろうじて息をしているものの、ぐったりとして動かない。元気に動き出してほしくて何度も指先でつついてみるが、ほとんど反応はない。

 これはもうすぐ死んでしまうところだと、一花は悟った。一花は哺乳類の死を目の当たりにしたことはなかったが、昆虫の死は何度も見てきた。虫を捕まえてしばらく経つと、こんなふうにあまり動かなくなり、そして死んでしまう。仔兎だって同じなのだろう。

「ねえ、死なないで」

 悲しくなった一花は仔兎を両手で持ち上げ、正面から話しかけた。力なく目を閉じていた仔兎だが、呼びかけに応えるように目を開けた。

 つぶらな赤い瞳と目が合った瞬間、一花の脳裏には芳秋の腕の中で自分を見下ろす芳の姿がはっきりと浮かんだ。一花は反射的に手の中の仔兎を思い切り締め上げた。小さな脆い身体はひとたまりもなかった。か細い骨は折れ、内臓はひしゃけ、びくびくと痙攣しながら失禁した。痙攣が止んだあと、仔兎はぴくりとも動かなくなった。

 一花は仔兎の死骸を便器の中に放り込むと、水を流してその場から逃げ出した。当然トイレは詰まり、その個室は使用禁止になったが、一花は素知らぬ顔で過ごしていた。

 やがて一花は幼稚園を卒業し、小学校に上がった。卒園式にも入学式にも芳秋は出席せず、一花は悲しい思いをした。

 秋になり、一花の七歳の誕生日が近づいてきた。当日には大勢の友達を招き、パーティーを開くこととなった。一花はパーティーを開くと決めてからすっかり舞い上がってしまい、当日までのあいだ夢見心地で過ごした。

「とっても可愛いわ。お姫様みたい」

 一花の唇にピンクのグロスを塗ってやった一美はにっこりと微笑む。

 一花は姿見の前に立ち、自分の姿をうっとりと眺めた。この日のために誂えたピンク色のドレスはレースとフリルたっぷりで、まさにお姫様のドレスそのものだ。カールアイロンで巻いてもらった髪にもピンクのリボンを飾った。チークとリップに少し色を差しただけではあるが化粧までしてもらい、ドレスアップは完璧だった。もともと整った顔立ちの一花には華やかな装いがよく映え、たいそう愛らしい。

「お母さん、早く行こう!」

 早くみんなにこの姿を見せたい。一花は母の腕を引っ張り、廊下に飛び出した。広い洋間をパーティー会場とし、招待客はもう集まっているはずだ。

 ドアを開けると、招待した友人たちの眼差しが一花に集まった。一花は満足しきった思いで席についた。友達も皆、余所行きの服を着ているが、誰も自分ほど綺麗ではない。

 蔓薔薇柄のクロスがかかったテーブルの上には子供たちが喜ぶご馳走が並べられた。オーダーメイドの豪華なケーキ、パステルカラーの繊細なアイシングクッキー、チョコレートソースの滴るババロア、色とりどりのマカロン、大きなガラスのボウルに入ったフルーツポンチ。

 一花は招待した友達と、家族それぞれからプレゼントを受け取った。たくさんのプレゼントに囲まれた一花を友人たちは心から羨ましがった。普段から欲しい物はなんでも買い与えられている一花はプレゼントそのものにはさして喜びを感じなかったが、羨望の的となるのは心地よかった。

 文句なしに華々しく楽しいパーティーは早めにお開きとなり、招待客たちは宍塚邸を後にした。

 その後は家族だけでさらなる祝宴が催された。今度は宍童子の成長を祝う宴である。一花の誕生日は共に生まれ落ちた双子の兄である宍童子の誕生日でもあるのだ。宍童子がつつがなく満七歳を迎えた。これは宍塚家にとって重要な節目とみなされた。

「お友達とのパーティーも楽しいけど、やっぱり家族だけでのお祝いが一番だね。だってケーキよりももっとおいしいご馳走が食べられるんだもの!」

 ご馳走に舌鼓を打ち、一花は朗らかに言った。愛らしい感想に食卓には笑顔が溢れる。

 ご馳走とは、宍童子に他ならない。それも家族で分け合えば忽ちなくなってしまう脚だの腕だのといった一部分ではなく、全身余すところなく食らえるのだ。新しい宍童子が満七歳を迎えた記念に、旧い宍童子を屠り、肉も臓物もすべて食らい尽くすのである。

 食卓の中央には芳秋が芳と呼ぶ宍童子の生首が据えられていた。頭蓋をぐるりと切り取っており、そこから脳を掬い出して食らう。各種部位の刺身も美しく皿に盛られている。宍塚家の者たちは皆、宍童子の生食を特に好む。生食に適さない部分は煮込み料理などにしたものの、肉も臓器も多くは刺身とした。

「こんなに深い味わいは他にないな」

 肝臓の刺身を口にした康夫が唸るように言う。康夫は宍塚家と完全に和合した婿だった。食への探求こそが人生最大の目的と考えている康夫は、美味なものがあると聞けばどこへでも赴き、どんなにグロテスクなゲテモノであっても喜んで口にする男だった。初めて宍童子の存在や食人行為について知った際は驚いたものの、道徳心よりも食への執着心が勝り、迷わずに受け入れた。宍童子は生存の手段として精気を吸い取る対象の精神を操ることができるが、康夫の食への強い執着はその魔法めいた力をも振り払うこととなった。芳を哀れみ、愛する芳秋とは対照的に、宍童子をただの肉畜と捉え、その妙なる味わいに大きな喜びを見出したのである。しかも宍童子の肉は究極の美味であるだけではなく、若々しさと健康長寿という輝かしい恩恵まで与えてくれる。これほどまでに素晴らしい食材を知ってしまったら、貪欲に求め続けずにはいられない。

「一花ちゃん、目玉を食べなさい。おいしいし、栄養がたくさんあるんだよ」

 一代は芳の瞼をぐいと引っ張り、瞼と眼球の隙間にスプーンを突き入れた。器用にほじくり出した眼球を取り皿に入れ、一花に差し出す。虚ろになった眼窩からは血が涙のように流れた。

 芳、悔しいの? 一花は胸の内で芳の生首に挑発の言葉を投げかけ、彼に見せつけるように目玉を頬張った。ほのかな芳香を伴うとろけるような味わいが口内に広がる。それは勝利の味だった。

 芳秋は苛々と室内を歩き回っていた。今日はなんだかひどく嫌な予感がするのだった。今朝早く、芳秋は芳に呼ばれた気がして飛び起きた。芳は口が利けず、声そのものも発さないため、芳秋は一度も彼の声を聞いたことはない。それでもなぜかその呼び声が芳のものだとはっきりと分かった。どんな声だったか、という印象は一瞬のうちに雲散霧消してしまったが、恐怖の中で助けを求めているような哀切な響きがあったのは確かだった。しかし、芳秋と芳の部屋は離れているため、もし芳が芳秋を呼んだとしてもその声は届くはずはなかった。寝ぼけて幻聴が聞こえただけだろうか、と思いながらも、芳秋の胸騒ぎは一向におさまらない。

 不安と苛立ちの中で芳秋はすっかり慣れたはずの首輪が鬱陶しく感じ、首元を引っかいた。この首輪さえなかったら、とうに隙を見て芳を連れて逃げ出しているというのに。首輪は鎖で繋がれており、芳秋は一定の範囲しか動き回ることができない。しかもリモコンのボタンを押すだけで電流が流れる仕組みだ。電流は強力で、息が止まりそうなほどの凄まじい苦痛が生じると共に、筋肉が硬直し、しばらくの間身体が動かせなくなる。

 夕方近くに厚美が現れた。

「遅いじゃないか」

「ごめんなさい。今日は朝からやることがいろいろあって、忙しかったの」

「すぐ芳のところに行かせてくれ。俺を待っているだろうから」

「そのことなのだけど、落ち着いて聞いてね。あれはもういないのよ」

「どういうことだ」

 気色ばんだ芳秋に厚美は怖気づいた。事実を伝えたら彼はどんな反応を見せるか、恐ろしかった。

「だから、もういないのよ……全部食べてしまったから」

 宍塚家の者にとって芳は肉畜に過ぎないため、厚美には殺人を犯したという罪の感情はない。だが、芳秋が愛玩していた仔兎を黙って屠ってしまった程度の決まり悪さはあった。

 芳秋は凍りついたように硬直し、頭の中が真っ白になった。数秒後には虚脱感が襲ってきて、とても立ってはいられずにそばにあったソファに座り込んだ。芳秋はただただ呆然としていた。芳を失った悲しみも、芳の命を奪った宍塚家に対する怒りも湧いてこず、何も考えられなかった。

「大丈夫? 芳秋さん、顔色が悪い……」

 厚美は芳秋の隣に腰を下ろし、気遣わしげに顔を覗き込んだ。芳秋には彼女の声が意味を持たないノイズにしか聞こえず、何も答えなかった。厚美は心配して話しかけ続けるが、芳秋は彼女の方を見ようともしなかった。

「……芳の最期はどんなだった? あんたらはどうやって芳を殺した」

 長い沈黙のあと、芳秋は静かに訊ねた。

「私は屠殺するところを見てないわ。お母さんや叔母さんたちがやったから」

 とっさに厚美は嘘をついた。芳秋が可愛がっていた芳の屠殺を行ったとなれば、彼に恨まれてしまう。実際は宍童子の捌き方を次世代に伝授する必要があるため、厚美も屠殺に加わっていた。幼い一花だって参加していた。

 それは今朝早くのことだった。まだ薄暗いうちから女たちは敷地内の片隅にある庵に集まっていた。土間を広く取った造りで、どっしりとした調理台、浴槽めいて大きな流し台、巨大な釜が設置されている。すべては宍童子を捌き、食肉として処理するためのものだ。母屋の台所を血で汚したくはないため、この庵で作業を行うのである。

 庵に連れてこられた芳は何か恐ろしいことが起こると感じ取り、怯えていた。また手足を失うことになるのだろうか。それとももっと別の災難が待ち受けているのだろうか。

 裸に剝かれた芳は大きな調理台の上に身体を固定された。黒ずんだ調理台の上の小さな白い身体は祭壇に捧げられた生贄そっくりだった。

「まず、最初の処理は血抜きね。おいしく食べるためにはきちんと血抜きをしなきゃいけないのよ。頸動脈を切って血を抜くの。大事なのは血抜きの前に息の根を止めないことだね。死んでしまったら血の出が悪くなって、せっかくの肉の味が悪くなってしまうから」

 芳の細い頸に触れ、頸動脈の位置を示しながら一代は娘や孫に教える。

「そこを切ればいいの? 一花がやる!」

 子供らしい好奇心から一花は包丁を握った。

「手を切らないように気をつけてね」

 芳は赤い目を恐怖に見開き、傍らに立つ一花を見つめた。芳は芳秋が芳のために話す易しい言葉ならばずいぶんと理解できるようになっていたが、彼女たちの言葉はほとんど理解できない。それでも今、よく砥がれた包丁を手にし、嗜虐的に目を光らせている一花を前に自分がおかれている状況は察せた。

「ほら、深く切りつけてごらん」

 祖母に促され、一花は包丁で芳の頸を切りつけた。しかし力が足りず、致命傷にはならなかった。それでも痛みと恐怖は十分すぎるほどで、芳は耐えきれずに気を失った。

「眠っちゃだめ!」

 すでに死人めいた青い顔でぐったりとしている芳を一花は叩き起こした。父を奪った憎い芳に最後の最後まで恐怖を味わわせるため、失神など許さない。一花はわざと力を込めすぎないように加減しながら何度も芳の喉を切りつけた。

 大人たちは一花が包丁で怪我をしないか気にかけながらも、好きにさせていた。子供はなんでも遊び道具にしてしまうものだ。

「一花ちゃん、あんまり包丁を振り回しちゃいけないよ。くれぐれも怪我しないようにね。ねえ、内臓はどうする? 心臓と肝臓は刺身にして、胃と腸は煮込むでしょう。腎臓はどうしようかしら」

「キドニーパイっていうのを作ってみない?」

「それイギリス料理でしょう? イギリス料理ってまずいと聞くけど」

 女たちが調理法について話し合うなか、ようやく一花は芳に致命傷を負わせた。

「きゃあっ! あははは!」

 間欠泉のごとく噴き出した鮮血に一花は無邪気な笑い声を上げた。

 小さな身体からは急速に血液が失われてゆく。芳の視界は暗くなり、目を開けているのか閉じているのかも分からない。よしあき、と最後に胸の内で名前を呼んだのを最後に意識は途切れた。

 芳の命が尽きてゆくところを一花は愉快な思いで眺めていた。目を見開いてびくびくと痙攣している様は無様で滑稽に見えた。最後に大きくびくっと震えると、芳は絶命した。

 血抜きの後は腹を裂き、内臓を取り出す。その作業は一花には難しいため、厚美が担った。捌き方の継承のため、年長者の指導のもと、家族の中でも若い者が処理を行う決まりだ。

 私があれを捌いたのよ、なんて芳秋には死んでも言えない。厚美は芳の死に際に関し、詳しいことは全く知らないと、しらを切り通すつもりだった。

「せめて苦痛のないようにしてくれただろうか……芳は痛くて苦しい思いをしなかっただろうか……」

 芳秋は震えながら独り言のように呟いた。芳が恐ろしい苦痛の果てに殺されたのではないかと思うと、耐えられなかった。

 厚美は芳秋を安心させるようなことを言ってやりたかったが、言葉が出てこなかった。なにせ一花はむやみに芳を切りつけていたし、芳の死顔には恐怖と苦痛がありありと浮かんでいた。

「芳の部屋に連れていってくれ」

 主のいない部屋に行ったところでどうにもなるまいと思いながらも、厚美は芳秋を連れて行った。

 芳の部屋に入ると、芳の気配がそこここに残っていた。芳が抱いて眠っていたクマのぬいぐるみはベッドの上にぽつんと取り残されている。お気に入りの絵本は開きっぱなしになっており、積み上げた積み木もそのままだ。芳秋はベッドに腰かけ、芳に触れる時と同じ手つきでぬいぐるみや寝具を撫でた。

「しばらく一人にしてくれないか」

 ドアのそばに立っていた厚美は渋々出て行った。芳秋のそばで慰めてやりたかったが、しつこくすると彼は嫌がる。鬱陶しいと思われたくはない。

 一花のお下がりのキッズデスクの上にはクレヨンや色鉛筆をしまうのに使っているクッキー缶と、お絵描き帳が乗っている。

 芳秋はお絵描き帳を開いた。たくさんの花々が描かれている。芳は中庭の花を剪ってきて、部屋でスケッチするのが好きだった。芳には生まれ持った絵心があった。これまで一度もペンを握ったことがなかったとは思えないほど、器用に絵を描いた。芳秋はこれなら文字も覚えられるかもしれないと思い、平仮名を教えた。芳は口が利けないため、文字で意思表示ができれば良いと思ったのだった。芳は文字の概念を理解すると、熱心に練習するようになった。文章を書くことはまだ難しかったが、簡単な単語や自分の名前と芳秋の名前は上手に書けるようになっていた。

 練習のために繰り返し書かれた『よしあき』の文字。その文字を見つめていると、今朝聞こえた呼び声が芳秋の中にはっきりとよみがえってきた。あれはやはり、芳の呼び声だった。芳が助けを求めて呼んでいたというのに、助けてやれなかった。何もしてやれなかった。芳は計り知れない恐怖と苦痛に苛まれ、絶望の中で果てたのだろう。

 この耐え難い現実の唯一の逃げ道は死しかない。刑務所や拘置所において、受刑者はシーツや衣服を使って縊死をはかることがままあるという。自分もそれに倣おうと思い、芳秋はベッドからシーツを引き剥がした。だが、ふと気が変わり、再びお絵描き帳に向かった。

 芳秋はペンを執り、お絵描き帳の空白のページに今まで宍塚家で体験したことを出来るだけ詳しく書き綴った。いつか宍塚家の者以外の誰かにこの手記を見つけてもらい、真実を知ってもらうためだ。

 平凡な造園工であった自分が難病の恋人に治療を受けさせるという条件のもとに一美の言いなりとなり、宍塚家の婿となったこと。宍童子という非常に特殊な存在のこと。宍塚家の者たちの宍童子に対する非人道的な扱い及び食人行為。改めて書き出すと、なんとも現実離れした内容だった。こんな話を信じてくれる者などきっといない。書くだけ無駄だったと後悔しながらも、それでも一度やり始めたことは最後までやり通すことに決めた。

 隠し場所は中庭以外に思いつかなかった。いつか業者を呼んで中庭を整備し直す機会でもあれば、その業者が発見してくれるかもしれない。わずかな可能性を信じ、芳秋はタオルに包んだお絵描き帳をクッキー缶に納め、さらにクッキー缶をポリ袋で包み込んだ。

 中庭の敷石の下にクッキー缶を隠したあと、芳秋は一花に宛てた手紙と贈り物をバードフィーダーの上に置いた。ぐるりと壁に囲まれているこの中庭には鳥など来ないが、薔薇の彫刻が施された石製のバードフィーダーは装飾品として美しく、ちょっと物を置いておく場所として重宝していた。一花はよく中庭に来るため、じきに見つけるだろう。

 やることはすべて済ませたあと、芳秋は厚美に芳の遺体を見せてほしいと頼んだ。食人行為の犠牲となってしまったのだから、原形をとどめてはいないだろう。それでも、たとえ骨のひとかけらだけでもいいから、芳に会いたかった。

「今、ちょうど骨を綺麗にしている最中なのよ。釜でよく煮て、骨についている血や肉をすっかり落としてしまうの。その骨を文字通り骨組みにして、人形を作るんだって。髪や爪も本物を使って、細かいところまで実物そっくりの人形を作るらしいわ」

「そんな人形を作ってどうする?」

 芳秋はぎょっとした。人骨を骨組みにして人形を作るなんて聞いたこともない。

「聡美姉さんが人形作家なのだけれど、どうしても本物の人骨を使って人形を作ってみたいんですって。姉さんってその界隈では天才と言われているほど人気と実力のある作家らしいのだけど、天才の考えることってよく分からないわ。おばあちゃんたちは五体満足の姿で作ってやることで供養にもなるだろうと言っていたけれど」

 たかが人形として五体満足の姿で作ってやることが供養になるとは、なんと傲慢な発想だろう。そんなことで芳の受けた苦しみは決して消えないし、宍塚家の連中の罪が贖われるわけもないというのに。芳秋は憤怒を滾らせながらも、もう嫌悪感を口にする気力も残っていなかった。

 骨は庵で煮ており、聡美が火の番をしていた。大きな釜が火にかけられ、薄暗い室内は蒸し暑い。厚美は火の番を代わると聡美に申し出たあと、芳秋を連れ込んだ。

「この釜、とても古いの。本当かどうか分からないけれど、処刑に用いていたと聞いているわ。ほら、盗賊の石川五右衛門が処された釜茹での刑……」

 釜を見つめる芳秋の耳にはもう厚美の声は届いていなかった。突然、芳秋は足早に釜に歩み寄り、蓋に手をかけた。彼が何をしようとしているのか、厚美は直感的に察した。

「待って! まさか……まさか……そんな恐ろしいことしないよね?」

 青ざめた厚美は慌てて芳秋に駆け寄り、釜から引き離そうとした。だが、彼は頑としてそこから動こうとしない。

「放してくれ」

「放したら、芳秋さん、死んじゃうんじゃないの? その釜の中に――……」

 考えるのも恐ろしいが、どうしてもそんな気がしてならない。芳秋は煮え湯の中に身を投じ、死ぬつもりなのではないか。

「おまえたちはさんざん芳や俺を蹂躙してきた。最期くらい、好きにさせてくれ」

 厚美は堪えきれずに愛しい男の背に抱きつき、すすり泣いた。

「どうしても死ぬというなら、私も一緒に死ぬ……あっ!」

 背中で呟く厚美を芳秋は強い力で突き放した。厚美はひとたまりもなく、尻もちをついた。

「誰がおまえなんかと死ぬもんか。俺は芳と死ぬんだ。おまえは一人で死ね――一人で勝手に死んでくれ!」

 激しい剣幕で吠えたあと、芳秋はさっと釜の蓋を取り、床に投げ捨てた。釜の中からジャスミンの香りが立ちのぼる。芳秋は頭から釜の中に飛び込み、煮えたぎる湯の中で芳の骨を掻き抱いた。

 尻もちをついた格好のまま、厚美は茫然として動けずにいた。

 どれくらい経っただろうか。厚美は徐に立ち上がり、覚束ない足取りで離れを後にした。頭の中では憎悪を剝き出しにした芳秋の言葉が延々と繰り返されていた。どうしてなの、と消え入りそうな声で呟く。今まで彼のためにできる限りのことをし、尽くしてきた。それなのにあんなにも手ひどく裏切られるなんて、信じられなかった。

 自室に着くと、厚美はクローゼットを開け、白いワンピースを取り出した。芳秋と一美が結婚した際に購入したものだ。一美に対抗し、ウエディングドレスを意識していた。一度しか着ずにしまい込んでいたから、古くなった今も綺麗だった。

 一花は芳秋に会いたくて中庭に出た。いまだに一花にとって父は謎めいた存在で、普段彼がどこでどうやって過ごしているのか知らない。彼に会いたければ偶然出会えることを願って中庭に出るしかない。一花はピンクのドレスから普段着に着替える前に、ドレスアップした姿を彼に見せたかった。

 黄昏時の中庭は静かで、誰もいなかった。一花はがっかりして引き返そうとしたが、バードフィーダーの上に置かれたものを見つけて足を止めた。風に飛ばされないように重しの石を乗せ、『一花へ』と書かれた手紙と小さな紙袋が置いてある。

「お父さんからのプレゼントだ!」

 今日、一花は大勢の友達や家族から祝われたが、今この瞬間が一番大きな喜びを感じた。まさか父からプレゼントを貰えるとは夢にも思っていなかった。

 一花は手紙を開いた。父の書いた文字は初めて見る。父が自分のために書いてくれたのだと思うと、文字の一つ一つが愛しかった。同じ大人の文字でも、母や担任教師の字とはずいぶん雰囲気が異なっていた。母や先生の文字はほっそりとしているが、父の筆跡には力強さが感じられた。クラスメイトのある男子は馬鹿みたいに大きく乱雑な文字を書いて、先生が苦笑交じりに「力強い字ですね」と言ったが、それとは全く違う。父の字は決して雑ではなく、はっきりとしてとても読みやすい。難しい漢字には仮名を振ってくれている。そんな小さな気遣いが一花は無性に嬉しかった。

『一花、誕生日おめでとう。お父さんが育てた植物で作ったハーブティーを贈ります。とても体によく、一杯飲めばいつまでも元気でいられるお茶です。だから決して独り占めせず、家族みんなに振る舞ってあげてください。みんなとても喜ぶはずです。お父さんより』

 紙袋を開けてみると、乾燥させた植物が入っていた。

 芳がいなくなった効果が早速現れたのだろうと、一花は思った。魔法のような力で父を操る芳がいなくなったから、父は突然目が覚めたように自分のことを好きになってくれたのだ。

 早速キッチンに行ってお茶をいれよう。駆け出そうとした一花はふと東屋のところに白い何かがぶら下がっているのを見つけた。かなり大きなものだが、あれはなんだろう。確かめるために近づく。それが何なのか理解した瞬間、一花の悲鳴が中庭じゅうに響き渡った。

 一花の誕生日は芳秋と厚美の命日となった。一度に二名の死者が出た宍塚家は弔いの準備に追われた。

 縊死した叔母を発見した一花はショックのあまり発熱し、寝込んでしまった。

「一花ちゃん、具合はどう? そろそろお昼だけど、何か食べられそう?」

 一花の額をそっと撫でながら、一美は優しく問いかける。縊死した身内の姿を見てしまうなんて、一美は一花がかわいそうでならなかった。一花には芳秋の死は伝えていない。ただでさえ厚美の死にひどく動揺しているというのに、父親の死まではとても伝えられない。一美は厚美が憎くてたまらなかった。誰にも迷惑をかけずにひっそりと死んでくれればいいものを、よりによって幼い一花の心に傷をつけて逝くとは、許し難い。

「いらない……」

「でも、喉乾いたでしょう。りんごジュースを飲みなさい。お母さん、ちょっとだけおばあちゃんたちの手伝いをしてくるからね」

 弱っている一花から離れたくはないが、四六時中枕元に控えているわけにもいかない。なにせ夫と妹が同日に死んだのだから、やらなければならないことは山ほどあった。

 一花はベッドの傍らに置かれたりんごジュースには手をつけなかった。それよりも、芳秋のハーブティーが飲みたいと思った。芳秋からの手紙には体にいいと書いてある。飲んだらきっと元気になれるだろう。

 茶葉の入った紙袋を持ち、一花はキッチンに向かった。キッチンにもダイニングにも誰もいなかった。一花はティーポットを取り出し、紙袋の中の茶葉を入れ、ポットの湯を注いだ。七歳になった一花はお茶くらい自分で難なく淹れられた。適当に蒸らしてからマグカップに注ぐと、馥郁とした香りが立ちのぼった。こんなにも良い香りのお茶は初めてだった。父が自分のために特別なものを用意してくれたのだという喜びに、叔母の遺体を目の当たりにしたショックも一時的に忘れた。

 ハーブティーは味に癖がなく、飲みやすかった。たくさん飲んだらすぐに元気になれるはずだ。一花はマグカップの中身を飲み干した。

 ハーブティーを飲んだあと、一花はすぐに気分が悪くなった。多量の冷や汗が噴き出、ひどく呼吸が苦しい。家族に助けを求めなければ、と思うも、ダイニングで倒れて動けなくなった。

 意識を失っているところを発見された一花は直ちに病院に搬送された。一時は生死の境をさまよったが、なんとか一命はとりとめた。

 一花が倒れる直前に飲んだハーブティーを調べた結果、有毒植物のトウテイカカズラが含まれていることが判明した。

 芳秋は芳の仇討ちのため、芳の芳しい体臭に似た毒の花を用いたのだった。

 芳秋が一花に宛てた手紙に目を通した一美は、はらわたが煮えくり返る思いで手紙を破り捨てた。芳秋は体に良いなどと偽り、家族にも茶を振る舞うように勧めている。一花だけではなく、宍塚家全体に害を与えることが目的だったのだ。

 宍塚家は話し合った。婿と宍童子への扱いを間違えてしまったのだ。宍童子は自らの糧となる対象の精神を操り、好意を抱かせることができる。それを思えば宍童子を失った芳秋が暴走する可能性は十分に考えられた。二人にはもっと距離を置かせ、交情をコントロールする必要があったというのに、実に迂闊だった。

 これからはリスク回避のために婿と宍童子への扱いを大きく変える必要があるだろう。いずれ一花が結婚した際、今回のような惨事が起こらないようにするため、何か対策が必要だ。

 いっそ婿には宍童子の正体を明かさずにいることが最良なのではないか。そうすれば婿によって世間に宍童子という存在が露呈する恐れも、思い詰めた婿が問題を起こす恐れもなくなるだろう。

 宍塚家の者たちは『設定』を考え出した。宍童子は血肉をそなえた生身の存在ではなく、宍塚家が祀る独自の神とする。婿と宍童子は隔てた環境に置き、対面させないまま、宍童子に婿の精気を吸わせる。婿にはこれを宍童子に邪気を吸ってもらうための儀式であると偽る。




 恐ろしさのあまりページをめくる指先を冷たくこわばらせながらも、陽介は芳秋の手記を読み終えた。

 宍塚家が祀る神だと教えられてきた宍童子が実は実在する特殊な人間を指している。その肉を食らえば若々しさと健康長寿という恩恵が得られ、細胞を投与すれば難病さえも快方に向かわせることができる。芳秋はその宍童子を愛護していたが、宍塚家の者たちによって宍童子は無残にも屠られ、食われてしまった。とても現実とは思えない話だ。

 だが、陽介は手記の内容を虚構だと簡単に切り捨てることはできなかった。陽介は幽霊と呼ぶべき芳秋の姿を目撃している。それに、夢で見た子供の生首は芳であるような気がしてならない。彼らの目には底知れぬ深い悲しみが宿っていた。その悲しみの理由こそ、宍塚家から受けた残酷な仕打ちなのではないか。

 しかも陽介は宍童子という存在の不可思議な力を身をもって感じていた。宍童子の部屋の祭壇にかけられた布の切れ目に手を差し込むと、確かに身体の中から何かが吸い出される感覚があり、同時に強い快感が生じるのだ。どうしてあんな不思議な感覚が湧き起こるのか、ずっと解せずにいた。一花は儀式の雰囲気に飲まれて催眠状態のようになっているせいではないかと言うが、どうしてもそんなふうには思えない。催眠状態だなんて、毎回そう簡単に陥るものではないだろう。つまり、邪気を吸うために宍童子に扮した家族の者がそこにいるという一花の説明は全くの偽りで、実際は宍童子本人が精気を吸っているのではないか。芳秋の手記によると、宍童子は邪気ではなく、精気を吸うのだ。しかし、その行為に耐え得るほどの強い生命力の持ち主はきわめて稀有な存在であり、並みの人間は精気を吸われ続けると衰弱して死に至る。その証拠が宍塚家の婿たちが挙って早死にすることであると、芳秋は記している。

 手記の中でも陽介がとりわけ気になるのは、芳秋が食べさせられた芳の睾丸の刺身と、正月の雑煮の材料にするために芳の大腿が切断されてしまったという部分だった。

 睾丸の刺身と雑煮。それは陽介も心当たりがある料理だ。宍塚家で口にしたものの中で最も美味で、深く印象に残るものだった。どちらもほのかにジャスミンのような快い風味があり、今までに口にした覚えのない類の味だった。あの味の正体こそが宍童子の肉によるものであり、自分は知らず知らずのうちに食人という禁忌を犯していたのか。あまりにも現実離れした事柄ゆえに確信を抱くまでには至らなくとも、おぞましい真実の気配に陽介は吐き気を覚えた。

 こうなれば、宍童子の部屋に行き、祭壇の向こうを確かめるしかない。陽介は恐ろしさや不気味さを振り払い、立ち上がった。芳が監禁されていたように、芳の次の世代の宍童子も閉じ込められているかもしれないのだ。だが、もし宍童子が実在したとしても、いつも祭壇の向こうにいるとは限らないだろう。そこにいるのは儀式の時だけで、普段はどこか別の場所に監禁されている可能性は十分にある。この広い屋敷にはいくらでも隠し場所はあるのだ。それでも他に調べてみるべき場所も思いつかないので、とにもかくにも祭壇の向こうを確認してみる他になかった。

 芳秋の手記が真実で宍童子が実在するのならば、それは芳秋の息子で、芳の甥で、一花の兄にあたる存在である。陽介は一花のアルバムの中に収められていた写真を思い出した。たくさんの写真の中でたった一枚だけにその姿が写し出されていた色白の赤ん坊。一花の双子の兄である彼は養子に出され、現在は音信不通という話だが、今となってはひどく疑わしい。もはや一花をはじめとした宍塚家の者たち全員の言動すべてが怪しく思える。

 宍童子の部屋に行こうと思い立ったものの、部屋の鍵は一花が管理している。隆が力尽きた際に手に握っていた鍵だ。まずは一花の部屋に忍び込み、あの鍵をとってこなければならない。あの時、一花に鍵を返す前に密かに合鍵を作っておけばよかったと思った。だがあの時はまだこんな恐るべき秘密が隠されているかもしれないだなんて、思ってもみなかったのだ。

 まだ一花は仕事から帰っていないため、出くわす心配はない。陽介は彼女の部屋に行き、ドアレバーに手を掛けたが、開かない。鍵がかかっている。悔しい思いでその場を後にした。

 鍵を盗み出さなくても、宍童子の部屋に入る機会自体はある。三日に一度は邪気を吸ってもらうという名目で陽介は宍童子の部屋に足を運んでいるのだ。だが、そばには必ず一花が控えているため、宍童子の正体を確かめるための行動はとれない。なんとか彼女を出し抜いて真実を解き明かす方法はないものか。その晩、同じベッドで眠る一花の横で陽介は考え続けた。

 気がつけば陽介は暗い廊下に立っていた。廊下の向こうにぼんやりと青白く光る人影があり、こちらを見ている。背の高い男――芳秋だ。

「芳秋さん――芳秋さんでしょう」

 陽介は芳秋のもとへ駆け出したが、彼は曲がり角の向こうに姿を消した。後を追うも、追いつくもう少しのところで彼はまた曲がり角の向こうに姿を消してしまった。どんなに陽介が急いで追いつこうとしても、芳秋は悠然と先を行き、追いつけない。何度も見失いそうになりながらも陽介は追い続ける。階段を上ったかと思うとまた別の階段を下り、再び上る。ドアを潜り、暗い部屋を通り抜け、また廊下に出てさらにドアを潜る。今、自分はどこにいるのだろう。母屋にいるのか、離れにいるのかすらも分からない。迷宮と化した屋敷内で陽介は方向感覚を失いながらも、ひたすら芳秋を追い続けた。

 だが、ついには芳秋を見失ってしまった。確かに彼はこちらの方へきたはずだと思いながら廊下を歩いていると、軽く軋んだ音をたて、ドアが開いた。

 ドアの向こうに芳秋がいた。

「芳をあの部屋から出してくれ。札のせいで俺はあそこに入れない。一美と一花は俺に罰を与えたいがために、芳をあの部屋に閉じ込めてしまった……」

 宍童子の部屋へと続くドアや通路に貼られた無数の札は芳秋に対してのものだったのだと、陽介は知った。死しても尚宍塚家に翻弄され、苦しみ続ける芳秋と芳を思うと、気の毒でならなかった。

 芳秋は陽介に向かって兎のマスコットのキーホルダーがついた鍵を差し出した。受け取ろうと、陽介は手を伸ばした。

 不意に陽介は目を覚ました。隣では一花が規則的な寝息を立てている。

 芳秋が鍵を差し出してくれた。宍塚家の謎を解き明かしたいという思いが見せたただの夢かもしれないが、陽介は胸が騒いで居ても立っても居られなかった。いつからか枕元に置いて眠るようになっていたお守りの懐中時計をポケットに入れ、静かに部屋を出た。

 暗い廊下を足早に進み、陽介は一花の私室まできた。胸を轟かせながらドアレバーを握ると、ドアは開いた。手当たり次第に引き出しを開けて鍵を探す必要はなかった。鍵は机の上に置いてあった。

 鍵を持ち出した陽介は宍童子の部屋へと向かった。最初のドアは鍵を使って開け、次のドアはテンキーを操作し、暗証番号を入力して開錠した。暗証番号は一花が入力する様子を見ていたため、自然と覚えていた。

 札だらけの細い通路を進み、突き当りを曲がった先のドアの前まで来た。サムターンのつまみはドアのこちら側についている。陽介は初めて見た時から、これでは侵入防止対策にならないではないかと怪訝に思っていた。一花はドアの取り付け方を間違えてしまったなんて言っていたが、今となっては侵入防止のためではなく、脱走防止のための施錠としか思えない。陽介は汗で湿った手でつまみを回し、室内に足を踏み入れた。

 祭壇にはガラスケースに納めた精巧な人形が安置してある。これは芳という食人被害者の骨で作った人形なのだと思うと、陽介は哀れみと恐ろしさに肌が粟立った。

 ガラスケース内には人形と共に日付を記した札が納められている。その日付は一花が満七歳を迎えた日と同日であるため、陽介はてっきり彼女の七歳の記念に奉納したことを示しているのだと思っていた。だが、芳秋の手記が真実だとすると、一花の誕生日こそが芳が殺された日であるのだ。つまり札の日付はこの人形の骨組みとなる宍童子を屠った日を示している可能性がある。

 陽介は祭壇に据えられたものをすべて下ろし、掛け布を取り払った。祭壇は壁と一体化しており、中央下部に腕が一本通る程度の穴が開いていた。今まで陽介はそこから腕を差し込み、祭壇の向こうの人物と接触していたのだ。

 陽介は腕を通すための穴から向こう側を覗き込んだ。穴の向こうは明かりが灯っており、壁際にベッドが置いてあった。その上に小さな子供が縮こまって座っている。陽介が祭壇の上の物を取り払う物音に怯え、陽介がいる方を見つめているのだった。

 本当に、いた。強い衝撃を受けながらも、陽介は彼を祭壇の向こうの小部屋から出してやらなければならないと思い、あたりを調べ始めた。兎のマスコットのキーホルダーには鍵が二本ついている。一つはこの部屋に来るまでの最初のドアの鍵で、もう一本はおそらく祭壇の向こうへと繋がる扉の鍵なのだろう。だが、その扉が見つからない。小部屋に面している祭壇側だけではなく、四方の壁すべてに目をやっても、それらしき扉はどこにも見当たらないのだ。

「ねえ、君。その部屋の出入り口はどこなの? 君をそこから出してあげたいんだけど、出入り口が見つからないんだ」

 祭壇の向こうの子供に問いかけるも、彼は怯えきった様子で何も答えない。陽介は芳秋の手記に芳は口が利けないという記述があったことを思い出した。彼もまたそうなのかもしれない。

 もしかしたら、この部屋と祭壇の向こうの小部屋を繋ぐ出入口はなく、向こうの小部屋には別の場所からしか行けないのか。一旦、この部屋を出て、改めて向こうの小部屋への行き方を探る必要があるだろう。そう思った陽介は焦りながらも、人形を忘れずに抱え上げようとした。死しても尚囚われ続けている哀れな芳を芳秋に返してやらなければならない。

 その時、ちょうど人形を置いていた場所に小さな上蓋があることに気がついた。上蓋と床板は同一の板から作られており、木目がぴったりと一体になっているために目立たない。床下点検口や床下収納というにはあまりに小さすぎて役目を果たさないだろう。

 まさか、とは思いながらも、陽介は床の上蓋を開けた。中からは鍵穴が現れた。二本目の鍵を差し込んで捻ると、祭壇の方からカチッと音がした。錠が解けた音に違いない。陽介は祭壇に駆け寄りながら、以前何気なく見ていたテレビ番組を思い出していた。ユニークな家を紹介する番組で、かの有名なウィンチェスター・ミステリー・ハウスに憧れて家を建てた好事家の主人が様々なギミックを披露していた。一見すると何の変哲もない本棚が実は扉となっており、スライドさせるとその向こうに部屋が現れるという仕掛けもあった。その仕掛けと同様に祭壇も扉として機能し、子供を閉じ込めている小部屋は開放された。

 陽介はベッドの上の子供にそっと近づいた。

「怖がらないで」

 できる限り穏やかな声で話しかけるも、子供は怯えた赤い瞳で陽介を見つめ、震えている。まるで捕食者に追い詰められた仔兎のようだった。

 赤い瞳に白金色の髪。子供の特徴は芳秋が手記に記していた宍童子の特徴と同じだった。もはや芳秋の書き残した手記の内容に疑いの余地はなかった。宍塚家には子供の姿で成長が止まる宍童子という謎めいた存在が代々誕生する。宍塚家の者たちは宍童子の身体を少しずつ切り取って食し、若さ、健康、長寿を保っている。最終的に宍童子は殺され、その肉体を食らい尽くされてしまう。

「おいで。一緒にここから逃げよう」

 この子供を連れて早くここから逃げなければならない。愛する妻であった一花も今ではもう恐ろしい食人鬼としか思えず、一刻も早く宍塚邸から逃げ出したかった。だが、陽介が手を差し伸べても子供はいっそう怯えて縮こまるばかりだった。無理もないと、陽介は思った。彼は長年監禁され続け、おそらくは宍塚家の者たち以外の人間とは一切接触を持たずに生きてきたのだ。彼は一花の双子の兄なのだから、二十七歳のはずである。しかし成人として当たり前の知識を持ち合わせていないどころか、言葉さえ分からない可能性もある。自分が残酷な扱いを受けているという自覚があるかどうかも怪しい。だからいきなり見知らぬ男が現れ、手を差し伸べられても、恐怖と戸惑いしか感じないのだろう。

「こうして顔を合わすのは初めてだけど、俺たちは互いを知っているはずだよ。君は俺の精気を何度も吸っているんだ」

 言葉は通じないかもしれないと思いつつも、陽介は話しかけ続ける。ふと子供の目は差し出された陽介の手に釘付けになった。人差し指の先に小さな茶褐色の黒子がある。それはよく知っているものだった。その指先からいつも精気を吸っている。最高に美味な精気が迸る指先である。

 子供の警戒心は薄れ、瞳にはもの問いたげな色が浮かんだ。そんな子供に陽介は頷いてみせた。そうだ、俺たちはよく知った仲じゃないか。

 陽介は子供を抱き上げた。小さな身体からはジャスミンの香りが香った。子供は抵抗せず、右手で陽介の服を握りしめた。もっとしっかりと掴まりたいが、左手は欠損しているため、右手だけで掴まるしかない。

 右腕に子供を抱え、左腕には人形を抱え、陽介は狭い通路を辿る。通路の向こうからは明るい光が差し込み、芳しい風が吹いてきた。

 通路を抜けた陽介は眩しさに目を瞬いた。そこは中庭だった。長年の放置によって荒れた中庭ではなく、手入れが行き届き、花々が満ち溢れた麗しい中庭だ。

 庭を取り囲む壁には淡いピンクの蔓薔薇と大輪のクレマチスが這い、いくつものハンキングバスケットが吊り下げられている。アイビーはバスケット内から流れ出るように蔓を伸ばし、フクシアは妖精の群れのように愛らしい。全体的に優しげな淡い色合いの花が多い中で、鮮烈な赤のペチュニアは良いアクセントになっていた。地植えのネモフィラ、ヒナゲシ、ヤグルマギク、ハナビシソウは風にそよぎ、爽やかな野の花を思わせる。

 何より目を引くのはハゴロモジャスミンで作られた花のトンネルだ。甘美な香気を放つ無数の花々は圧巻の美しさだった。

 その手前に佇むのは芳秋だった。

 陽介が左腕に抱えている人形が身じろいだかと思うと、脚をばたつかせた。今にも息遣いが感じられてきそうなほど精巧な人形ではあったが、もはやそれは人形ではなくなっていた。皮膚は柔らかく、ぬくもりがあり、血色が感じられる。澄んだ赤い瞳はオパールのような複雑な輝きを帯び、両腕、両脚は自在に動かせている。

 陽介が地面に下ろしてやると、芳はすぐさま芳秋の方に駆け出した。芳秋もまた芳に駆け寄り、抱き上げた。

「よかった……」

 再会を果たした芳秋と芳を見て、陽介は思わず呟いた。芳秋は芳を抱いたまま陽介に向かい、深く頭を下げた。

 強い風が吹きつけ、陽介は反射的に目をつぶった。目を開けた時、陽介は光の降り注ぐ明るい中庭ではなく、薄暗い廊下に立っていた。いつの間にか一花とその家族たちが周りを取り囲み、逃げ道を塞いでいた。怯えた子供は陽介にしがみつき、陽介は子供を強く抱いた。

 陽介が家人に気づかれずに宍童子を連れて逃げることは不可能なのだった。宍童子を監禁している部屋に侵入者等の異変があれば警報が鳴り、気づける仕組みになっている。

「陽介くん、どうしてそれの存在に気づいてしまったの?」

 悲しい思いで一花は夫に問いかけた。陽介には宍童子の存在を決して知られたくなかった。こうなってしまえば、彼は父と同じように宍塚家に拒否反応を示すだろう。

 宍童子を抱いている陽介の姿は在りし日の父にそっくりで、一花の胸をざわつかせた。いつも冷ややかで愛情のかけらも向けてくれなかった父。誕生日プレゼントに毒を贈り、自分を殺そうとした父。芳を追って死んでしまった父。一花は彼を恨みながらも、それでも深く愛し続けてきた。

 一花が陽介を愛した理由は、良質で豊富な精気の持ち主を選ばんとする宍塚家の長女に備わった本能のせいであるが、陽介に父の面影を感じたからという面も大きく影響していた。

 またしても宍童子は私から愛しい人を奪うのか。一花は実の兄である宍童子を憎悪にまみれた目で睨みつけた。

「芳秋さんの手記を見つけたんだ。彼はこの家であったことを書き記していた。宍塚家の人たちが宍童子と呼ぶ存在を監禁し、食人行為を行っていることもはっきりと書いてあった。一花さん、俺を騙していたんだな。こんな恐ろしい事実を隠して俺と結婚して、儀式だとか神とか作り話をでっち上げて、俺を利用していたんだ!」

 残虐な食人行為への怒りと妻に裏切られた怒りが綯い交ぜになり、陽介は声を荒らげた。

「仕方なかったの。だって、どうしても宍童子に関する伝統は続けていかなければならないのだもの。でも、信じてほしい。陽介くんを騙して宍童子の餌としたのは事実だけど、私は陽介くんを利用することばかりが目的なわけじゃなかった。本当に陽介くんのことを好きになったから、普通の夫婦として幸せに暮らしていきたかったの」

「人間を食った口で幸せに暮らしたいだなんて、よく言えるな。芳は一花さんにとっては伯父にあたるし、この子なんか双子の兄なんだろう。肉親を監禁して食ってしまうなんて、あんたたちは鬼だ」

 今や陽介はかつて占い師が言っていた鬼の正体に確信を持っていた。自分自身の潜在的な異常性を指しているのではないかと悩んだこともあったが、そうではなかったのだ。鬼とは紛れもなく宍塚家の者たちのことだろう。

「でもね、陽介くん。そんなに私たちを軽蔑しても、もう遅いのよ。あなただってもう宍童子の肉を食べてしまっているのだから」

 そのことはすでに察していた陽介は驚きはしなかったが、それでも明確な事実を突きつけられるとひどく気分が悪くなった。

「食人のタブーを犯したからには、俺も一花さんたちと同類というわけか?」

「そういう感情的な問題じゃないの。宍童子の肉を食べた者は呪われてしまうのよ。ほら、一子おばあちゃんを見たでしょう。今までとてもあの年齢とは思えないほど若々しかったのに、急に髪や歯が抜け落ちて苦しみ出した――……口で説明するより、実際に見てもらった方が早いわね」

 一花は陽介を導いて歩き出した。陽介は家人らに囲まれて歩きつつ、宍童子を奪われまいと殺気立っていた。家人らは無理に二人を引き離そうとはしなかった。いくら宍塚家側は大人数であるとはいえ、老人や中年女ばかりである。屈強な若い男と争う気にはなれない。

 この大きな屋敷には普段は使っていない部屋がいくつもあるが、一花はその中の一部屋に入った。ウォークインクローゼットを開け、向かって右側の壁をぐいと押す。すると、忍者屋敷のどんでん返しさながらに壁が回転した。自動で明りが灯った向こう側には下りの階段があった。陽介は当惑しながらも、階段を下りてゆく一花についていった。家人らもぞろぞろと後ろからついてくる。

 階段の下に辿り着くと、ドアが現れた。

「この部屋にいるわ」

 一花がドアを開けた途端、強烈な悪臭が漂ってきた。死後何日も経過した腐乱死体を思わせるひどい臭いだ。

 部屋の中は広く、まるで刑務所のようにいくつもの牢が連なっていた。その牢の一つ一つの中に、得体の知れない何かがいた。人間のような形をしてはいるが、果たして本当に人間なのか、陽介には判断しかねた。

 それらは一様に腰が大きく曲がっており、衣服を身につけていなかった。人がやってきたことに興奮し、白く濁った目を見開き、唸り声や咆哮を発している。涎を滴らせている口元からは長く鋭い牙が覗き、獣じみた獰猛さが窺える。全身の皮膚からは膿のような体液が滲み出、じっとりと湿っている。腕や脚は枯枝のように細いが、腹だけははち切れそうなほど大きく膨れ上がっている。髪は頭皮がはっきりと透けて見えるほどしか生えておらず、その頭皮には大小のしみが浮き出、不気味なまだら模様を呈している。

 陽介の腕の中で子供は大きな目に涙を溜め、ひどく怯えた。確かにこの光景は刺激が強すぎると思いながら、陽介は子供を抱く腕に力を込めた。

「あれは一子おばあちゃんの妹の千恵子さん。それから千賀子さんに、千鶴子さん――じゃなかった。千鶴子さんは向こうで、あれは千紗子さんね」

 一花は一人一人を指さし、淡々と紹介する。彼女たちの容姿は一様に同じ醜さで、陽介には全く差異がないように見えた。

「これが宍童子を食べた者の末路なの。宍童子の肉を食べれば、かなりの高齢になるまで信じられないほど若々しく健康でいられるけど、ある時を境に大きな副反応が現れる。一子おばあちゃんは長女で宍童子と共に生まれ落ちたせいか、妹たちよりも長持ちしたけれど、やっぱりこうなってしまった。こんなふうに化け物じみた姿になって、しかも常に飢えに苦しむようになるの。彼女たちが唸って腕を突き出しているのは、食べ物をちょうだいというアピールね。でも、どんなにたくさん食べたとしても満たされることはない。一子おばあちゃんには絹子さんと繭子さんという妹もいたのだけれど、彼女たちは共食いをして死んでしまったわ。姉妹の中でもとりわけ仲が良い二人だったから同じ牢に入れていたのだけど、それが悲惨な結果を招いてしまったの。だから牢は必ず別々にしなきゃいけないんだわ」

 姉妹で共食いだなんて、おぞましさのあまり陽介は言葉が見つからなかった。

「悲しいことに、こんなふうになっても寿命が尽きる気配はないの。ほら、これが一子おばあちゃんよ。短い間に変わり果ててしまったでしょう」

 一花が一子だと指をさした個体も、醜い姿で涎を垂れ流し、吠えたり唸ったりしている。彼女は絵に描いたような上品な老女だったというのに、もうその面影はどこにもない。

「そしてあれが一子おばあちゃんのお母さん。うちの本当の最年長よ。千代おばあちゃんというの」

 一花は部屋の最も奥の牢を指さした。その牢の中には他の者たちと同じように牢格子から腕を伸ばし、食べ物を求めている化け物じみた老女がいた。

 涎をまき散らして喚いていた老女の中に、ふと懐かしさが突き上げてきた。

 千代――実に久しぶりに聞いた名前だ。それは誰だったか。ああ、それは私の名前ではないか。

 千代は自分の名前を思い出し、そして今までの長い人生のすべてを思い出した。幼い頃に目撃した母の被昇天が静かな始まりだった。その十二年後に現れたイオによって、千代の運命は大きく変わっていったのだった。




 大正三年、初夏。

 祖母みねの死因を知った千代は、勝手口を出たところで泣いていた。耄碌の果てに自らの汚物や生きた鼠を口にし、腹を壊して果てるなんて、酷い死に様だ。千代は老いというものが憎らしく、たまらなく恐ろしかった。

 嘆き悲しむ千代のもとに突然現れた白金色の髪に赤い瞳の子供。それがイオだった。

「ぼくは空の彼方から来たんだよ」

 どこから来たのかと問う千代に彼は天を指さし、答えた。その仕草は幼き日の千代が消えたるりの行方を問われた時とそっくりだった。

「ねえ、千代。るりが空へ昇った時のことを覚えている?」

「あぁ……」

 驚きのあまり千代は小さく呻いた。ちょうど十二年前の今時分、母は天から降り注ぐ光に吸い上げられるようにして天に昇ったのだった。

「あなた、母のことを知っているということは、本当に空の彼方から来たの……? あなた、もしかして天使様……?」

 興奮のあまり千代は身体が震えた。確かにイオは天使然とした非常に美しい子供であるし、ただの幼児らしからぬ知的な雰囲気も感じられる。

「ううん。ぼくは地球の宗教が指すところの天使とは何の関係もない存在だよ。ぼくのいう空の彼方とは宇宙のこと。少し詳しく説明すると、この地球が属する天の川銀河の外のまた別の銀河の中にあるエアという星から来たんだよ。エアは地球と似たような環境で、やっぱり地球の人間とよく似た生命体が住んでいるんだ。もっとも、地球よりエアの方が科学技術ははるかに進歩しているし、住んでいる者たちも地球人より何段階も進化していると言えるだろう」

 千代は頭がくらくらした。イオの言っていることは全くと言っていいほど理解できない。

「よく分からないけれど、あなたは私の母をご存知なの?」

「知っているも何も、るりはぼくを産んだ人だよ。生物学的な母親ってやつだね。だから千代はぼくの姉にあたるわけだ」

 強い衝撃を受けた千代は言葉を失った。地球外から来たという子供が自分の弟だなんて、奇妙奇天烈な夢でも見ているような気分だった。

「ぼくは合いの子だって言っただろう。つまり、地球人のるりとエアの住人との間に生まれた混血なんだよ。ぼくは地球人の血を引いていて、地球には君という姉もいるわけだから、地球にとても親しみを感じる。だからこうして訪ねてきたんだ」

 理解が追いつかない千代にイオはさらに説明を続ける。

「私のお母様は神様のご意思によって天に昇られたのだと思っていたけど、そうじゃなかったということなの? 神様ではなく、わけの分からない奇妙な存在に攫われて、どこかで子供を産んだということなの……?」

 千代の目には涙がこみ上げ、声が震えた。信仰心の篤さ、心の清らかさを認められ、母は聖母マリアのごとく昇天したのだと信じてきた。だが、イオの言うにはそれは全くの思い違いで、実際は得体の知れない存在による単なる拐かしに過ぎない――それが真実だとしたらあまりに母が哀れであるし、自分自身も幼時に母親を奪われた被害者であったということになるのだ。

「うん、そういうこと。るりを捕獲したのは神でもなんでもなく、ぼくの星の連中だよ。地球人って人が上空に引き上げられていく姿を見ると、神に召されたと思い込むことがあると聞いていたけれど、本当なんだね」

「捕獲だなんて、酷い……お母様は一体どんな扱いを受けているの? 今もまだ生きていらっしゃるの?」

「生きてはいるけれど、地球にいた頃とはだいぶ様子が変わっているよ」

「どんなふうに?」

 喉の渇きを覚えながら千代は訊ねた。知るのが怖いが、それでも母の現状は知っておかなければならない。

「エアと地球とでは時の流れが全く異なるから、るりの体感的には永遠のように長い時を生きていることになる。だからるりにはもう地球にいた時の記憶は残っていないし、言葉も忘れてしまった。でも、肉体的には元気だから今でも子供を産み続けているよ。ぼくたちには夥しい数のきょうだいがいるんだ」

「夥しい数って……鼠じゃあるまいし」

 千代は嫌悪感に顔をしかめた。まるで母が繫殖力の強い下等な畜生であるかのような言いぐさだ。

「だって事実だもの。るりは一匹の鼠が一生のうちに産む子の数よりはるかにたくさんの子を産んでいるのだから。地球人の常識では考えられないだろうけど、エアの技術ではそれが可能なんだ」

「夫のある女を攫って、なんてことを……」

「でも、るりは不幸じゃなくて、むしろ幸せなはずだよ。彼女は分娩の苦痛を感じないように操作されているし、絶えず多幸感が生じるようにも操作されている」

 拉致され、夫以外の者の子を産まされ続けながらも絶えず多幸感を覚えるなんて、あまりの不自然さに千代は身震いした。搾取されるばかりの屈辱的な目に遭いながらも幸せそうに笑う母の姿が脳裏に浮かび、やるせない思いに胸が張り裂けそうになる。

「あなたの仲間によってお母様は取り返しのつかないことをされてしまったのね……なぜそんな残酷なことをするの?」

「地球人に産ませるのが流行りだからね。エア人の間では自分の身体で胎児を育て、産むことが好まれないんだ。自分の身体をもって産むことが素晴らしいことだと信じている者もいるけど、それはあくまで少数派。一般的にはそれはあまりに原始的で文明人としての品位を欠くこととして嫌われている。だから以前は人工子宮で子供を作るのが主流だったけれど、今は生身の生き物を使って子供を作るのが人気なんだよ。生き物を使った方が命の尊さや温もりを感じられて満足感が得られるって理由でね。卵子と精子は自分たちのものを使い、生体の身体だけ利用して子供を産ませる場合もあれば、生体の卵子や精子と自分の卵子や精子を組み合わせ、混血児を作ることもある。ぼくは後者だね。使用する生体の種類はいろいろあるけれど、今のところ地球人が最も多く用いられているんだ。なにせちょっと手を加えればとても丈夫になって扱いやすくなるし、見た目やその他の特徴がエア人と共通する部分が多いから。特に好まれるのは器量の良い若く健康な女。だからるりが捕獲対象となったわけだね」

「私の頭ではあなたの言っている内容はよく理解できないけれど、お母様を攫い、いいように利用しているということだけはよく分かったわ。いいこと、すぐにお母様を返してちょうだい。あなたに少しでも産みの母を思う心があるのなら、そうすべきだと思うでしょう?」

「それは無理だよ。るりは肉体的には元気だと言ったけれど、それはあくまでエアの技術によるものなんだ。もしエアを離れて地球に戻ったとしたら、すぐに死んでしまうだろう。たとえ肉体的に問題なかったとしても、彼女にはもう地球にいた頃の記憶は残っていないのだから、千代のことも分からないんだよ」

 無知な地球人の浅はかな要求にイオは困ったように笑った。

「口惜しい……お母様、おかわいそうに」

 耐えきれずに千代ははらはらと涙を流した。

「なぜ泣くの? ぼくにはるりを気の毒がる意味が分からないよ。るりは常に多幸感に酔いしれて不幸とは無縁だし、多くの子孫を残すという生物としての本懐を遂げてもいるというのに」

「あなたには感情というものがないのね……説明したって、分かりっこないでしょうよ」

「ぼくと千代の感情の在り方には乖離があって、ぼくには千代の気持ちは理解できない。でも、千代が悲しんでいるという事実には同情するよ」

「同情するならお母様を返して……もとのお元気なお母様を返してちょうだい」

「だから、それはできないんだってば。分からず屋だなあ。ああ――こんなにのんびりと話し込んでいる暇はないんだった。ぼくは目的を果たさなきゃ」

 イオは千代の聞き分けのなさに呆れつつ、自らの目的を思い出した。やにわに千代の前に小さな手を差し出し、人懐っこく微笑む。

「……なあに」

「別れの握手をしよう。地球式の挨拶でしょう?」

「それは世界中で行われている挨拶というわけではなく、西洋式の挨拶よ。あなたのお母様は日本人なのだから、覚えるなら日本式の挨拶になさいな……まあ、握手くらい構わないけれど」

 千代はイオに友好的な感情は持てないものの、手を握ってやった。イオが空の彼方からきた得体の知れない存在であっても、血の繋がった弟であることは確かなようだ。るりを連れ去った憎い仇は彼の同胞と呼べるエア人とはいえ、イオ自身ではないのだから、別れの握手くらいはしたって構わない。

 握手を交わしている最中、千代は花のような香りを感じた。その芳香はイオの身体から発せられている。なんて良い香りだろう――あまりの芳しさに千代はうっとりとし、悲しみや怒りすら忘れてしまうほどだった。そのままさらなる強い陶酔感が湧き起こり、身体じゅうから力が抜けてゆく。イオに握られている手から何かが吸い出され、瞬く間に身体の中が空になってゆくような感覚だった。立っていられずに地面に膝をついたが、すぐにその姿勢すら保てなくなり、倒れ込んだ。

 意識を失った千代をイオは静かに見下ろしていた。イオが千代の精気を吸い取り、気を失わせたのだった。

 長い歴史の中での進化の果てにエア人は他者の精神に侵入するすべを獲得していた。その応用として他者の精気を吸い取り、自らの糧にすることが可能だ。精気を吸うことによって食物の摂取によるエネルギー補給がわずかでも活力を保てるものの、良い面ばかりではない。食物摂取によるエネルギー補給能力がかなり退化しているため、食物の摂取だけでは必要なエネルギーを賄えないのだった。つまり、生きてゆくためには定期的に精気を吸う必要がある。

 エア人にとって吸精行為は必要不可欠なものだが、吸われる側にとっては命を削られる危険な行為だ。よってエア人同士では勝手な精神侵入及び吸精は固く禁じられているし、各々が自己防衛をするすべもある。だが他の星の生命体に対しては特に禁止されていないため、エア人の間では他の星の生命体を捕らえて精気を吸うことが一般的に行われている。

 精神侵入及び吸精のためには相手の身体に触れている必要がある。能力の高い者や、よほど切迫した状況に置かれた際などは身体接触なしに可能な場合もあるが、基本的には相手に触れていなければならない。だからイオは千代に握手を求めたのだった。口腔粘膜を介しての接触が最も簡単かつ効率的な吸精方法だが、無防備極まりない千代相手にならば手を握るだけで十分だった。

 イオは千代の中に自らの遺伝子を遺し、その場を後にした。千代が今後異性と交わり、受精した際、子供にイオの遺伝子が組み込まれるように仕組んだのだった。

 今すぐに妊娠させない理由は、この時代の日本において未婚の母の子供は白眼視される傾向が強いため、子供の生存に不利であると考えたからだった。千代が貞操などさして気にしない階級の女ならばこんな配慮は必要なかったが、彼女は大地主の長女であり、地域社会において女としては最も高い階級に属している。そんな良家の娘が望まぬ妊娠をしたとなれば秘密裏に中絶を行うかもしれないし、千代自身が苦悩のあまり自殺してしまう恐れもある。たとえ産んだとしても、すぐに始末して子供の存在をなかったことにしてしまう可能性も考えられる。

 イオが地球にやってきた目的は、自らのルーツである地球にて、地球人との間に子孫を作ることだった。エア人と地球人の混血であるイオは地球に郷愁を抱いている。だから自身の遺伝子を第二の故郷とも言える地球に還そうと思いついたのだった。相手に千代を選んだわけは、地球に対する懐かしさが地球においてただ一人の縁ある存在を求めたのだった。

 やがて目を覚ました千代はゆっくりと身体を起こした。なぜ私は倒れていたのだろう。イオはどこに行ったのか。訳が分からず、当惑しながらも着物についた土を払う。

 もしかすると奇妙な夢を見ていただけなのかもしれない。イオなんて存在せず、彼が話していた母のこともすべては非現実の話。祖母の悲しい死因を知って心が乱れたせいで、おかしな夢を見てしまったのだ。千代は無理やり自分を納得させ、家の中に戻ろうとした。

「う……」

 不意に下腹部に鈍痛が走り、思わず手を当てた。腰も重くて怠い。月の物がくる時期ではないはずだが、早めにきてしまったようだと思い、急いで手当をしに向かう。しかし、出血はしておらず、気のせいだったようだと思い直した。

 祖母の喪が明けてすぐ、千代は結婚した。裕福な商家の三男である正三郎が婿にきたのだった。野心家である正三郎は自らの手で事業を成功させたいと意気込み、養蚕を始めた。

 千代はすぐに妊娠し、腹ははち切れそうなほど膨らんだ。

「千代様のあの大きなお腹は双子に違いないよ。あんなにお綺麗で育ちの良いお嬢様も犬や猫みたいな孕み方をするものなんだねえ。宍塚様は赤ん坊をどうするのかしらね。あたしの郷で前に双子が生まれた時は間引いてしまったらしいけど、宍塚様のようなお金持ちでもそんなことをするのかしらね」

 女中の一人が仲間に向かってそんなふうに話しているのを継母よしは偶然耳にした。無礼極まりないその者には暇を出したが、しかし双子は困りものだった。不吉とされる双子が生まれてくるなんて、名家と名高い宍塚家にとってひどい汚点である。

 最も思い悩んでいるのは当事者である千代に他ならなかった。畜生腹という汚らわしい言葉が頭から離れず、できるだけ誰にも会わないように引きこもって過ごした。

 不安の中で千代は出産に臨んだ。長く激しい苦痛の中で千代は息も絶え絶えになり、耐えきれずに死んでしまうのではないかと、何度も挫けそうになった。真夜中にやっと生まれたのは、やはり双子だった。すっかりほやの煤けたランプの薄明かりの中で千代は泣きながら赤子に乳を吸わせた。

「千代様、お加減はいかがでございますか。精がつくものをご用意いたしましたので、どうぞ召し上がってくださいまし」

 翌朝、青い顔で力なく横たわる千代にせつが膳を運んできた。

「何も食べたくはないわ……」

 産後の激しい消耗と、双子が生まれたことへの失望から、千代は食欲などなかった。

「胞衣を召し上がると早く力がつくのでございますよ。せつの郷ではもとはこれを食べる習慣はなかったのですが、よそから嫁いできた人のお郷ではこれを食べるのが当たり前だったとのことで、食べてみせたのでございます。確かにその人は何人産んでもすぐにピンピンしておりました。それでどうやら本当に身体に良いのだと広まって、私の郷の女は皆、進んで食べるようになったのでございます。お乳の出だって良くなるのでございますよ」

 せつが力説するので、千代は身体を起こしてもらい、箸を手にした。

 夫も父母も双子の誕生に眉を潜め、まるで千代が悪いかのような反応を見せた。せつだけが自分の純粋な味方であり、心から気遣ってくれることがありがたかった。

 自分の身体から出てきたものを食べるなんて、奇妙な気分だった。後産のそれの見た目は生肉そのもので、刺身にし、しょうが醬油を添えてあった。

 千代は少し抵抗を感じながらも、口に運んだ。思いがけず素晴らしい味が口の中に広がり、驚きのあまり目を見開いた。うっとりするようなこの上なくまろやかで濃厚な味わいだ。かすかに花のような快い風味があり、少しも生臭さは感じない。添えられたしょうが醬油もつけず、瞬く間に平らげた。

「こんなにおいしいなんて思ってもみなかった」

 もっとたくさん食べたいと思いながら千代は呟いた。旺盛な食欲を見せた千代にせつは喜んだ。

「この調子ならすぐに力がつくに違いありませんねぇ。あら、坊ちゃまがお目覚めです」

 千代の傍らに寝かせていた双子の男児の方が泣き始めた。生まれたのは男女の双子だった。男児は跡取り息子として手元で育てるが、女児は遠方に住む親戚に預けることが早くも決まっていた。双子は不吉であり、世間体も悪いため、遠くへやってしまうのだ。

 長男ばかりがもてはやされる世の中ではあるが、千代は女の子を育てたいという思いが強かったので、失望は大きかった。綺麗な着物を着せて可愛がり、大きくなったら一緒に買い物や芝居などに出かければたいそう楽しいだろう。そのような楽しみを失ってしまうのだと千代が嘆けば、夫はこれからまた女の子を生めばいいだけのことだと言った。そういう問題ではないと、千代は感情を害した。長女と次の女の子は全く別の存在であり、長女を失う悲しみは次の女の子を育てる喜びで癒せるものではない。

 引き取ってもらう先でどのような扱いを受けるかも心配でならない。大切にすると請け合ってもらってはいるが、口先だけでならばなんとでも言える。たとえ虐げられることはなかったとしても、あたたかな愛情を注いでもらえるとは限らないだろう。

「千代様、坊ちゃまにお乳を差し上げてくださいまし」

 せつは男児を抱き上げ、千代に渡した。

「あっ!」

 朝の自然な明るさの中で初めて我が子をまじまじと見た千代は、その髪の毛に違和感を覚えた。生まれて間もない赤子はまだ髪が少ないが、それでもその髪の色が異様であることが分かった。透き通るような白金色の毛の中に、真っ赤な毛が幾筋か混じっている。

「どうなさいました?」

「この子の髪、おかしな色をしている……せつ、よく見てちょうだい」

 近眼のせつは赤子に顔を近づけ、少ない髪をよく見ようとした。確かに髪がひどく淡い色をしているようだと認めたが、あまり気にしなかった。今まで見てきた赤子の中にも淡い髪の色の子はしばしばいた。

「赤さんのうちは髪の色が薄いことがよくございますよ。そのうち濃い色になっていくはずです」

「そうかしら……」

 千代は不安な思いで再び赤子の顔を見つめた。少しむくみが引いてきた赤子はいつの間にか目を開けていた。その目を見て千代は悲鳴を上げ、赤子を放り出しそうになった。慌ててせつが赤子を抱きとった。

「イオの目だ! イオの目をしている!」

 夢の中の存在と思い、忘れかけていたイオという子供。しかし赤子はイオと同じ真っ赤な瞳をしており、嫌でも思い出さずにはいられなかった。

 なぜイオと特徴を同じくする赤ん坊が生まれてきたのか。ひどく動揺しながらも千代は考えを巡らせた。イオと出会った際、千代はいつの間にか気を失って倒れていたが、きっとその時に何かされたのだと思った。イオの話では、母は彼の同胞に攫われ、夥しい数の子供を産まされているという。イオもそういう怪しからぬ行為をする連中の仲間なのだから、自分に対して何かしてきてもおかしくはないのだ。こんな妙な話は決して誰にも言えないが、千代はイオの仕業だと信じた。

 白金色の髪に赤い瞳の子が生まれた。もはや双子であるなんてどうでもいいと思えるほど、宍塚家の者たちはうろたえた。こんな奇妙な子供が生まれたと世間に知られれば、宍塚家は呪われているとそしられるだろう。大地主としてこの地域を牛耳っている宍塚家の名が汚れてしまう。正三郎が去年取り掛かったばかりの事業にも影響を及ぼしかねない。

 いっそ早いうちに始末してしまった方がいいとも考えたが、これほどまでに奇怪な赤子を殺めては祟りがあるかもしれない。白蛇や白い獣は神の使いであるから決して殺してはならないと言われているように、この子だってそうかもしれないのだ。それならばどこか遠くに預けてしまいたいが、このような赤子を引き取ってくれるあてなどなかった。やむを得ず、赤子は離れに閉じ込め、存在そのものをなかったことにして育てることにした。徘徊や奇行が激しかったみねを閉じ込めるために作った座敷牢があるため、それが活用できる。

 男児の処遇は女児の扱い方にも影響が及んだ。よそへ預ける予定だった女児を宍塚家の長子として手元に残し、養育してゆくことになったのだった。

 一子と名付けた娘を千代は溺愛した。一子の髪や瞳は黒々としており、白金色の髪の男児とは似ても似つかなかった。千代は一子を愛する一方で、イオに似た男児は毛嫌いした。あの得体の知れないイオに似た子供など愛せるわけがなく、世話はせつに一任した。最も信頼できるせつに任せておけば万事安心だった。

 生まれてすぐに一生閉じ込められて過ごすことが決まってしまった男児をせつは哀れんだ。せつもまた男児と同じく、見た目で差別されてきた。顔に大きく広がる黒々とした痣のせいで、数え切れないほどつらい経験をしてきた。だからこそ、変わった見た目で生まれてきてしまったばかりに不遇の人生を歩まなければならない男児に同情を禁じ得ないのだった。それに男児は敬愛するるりの孫にあたるのだ。るりの孫とあらば、どんな子であれ大切にしないわけにはいかない。

「坊ちゃまに呼び名をつけて差し上げてくださいまし。たとえ正式なお名前ではなくとも、呼び名くらいは必要でございましょう。いつまでも名無しのままなんて不便でございますし、おかわいそうです」

 女児の名前が決まったあとも、男児は名無しのままだった。見るに見かねたせつは千代に懇願した。

「あれのことは好きなように呼んでちょうだい」

 千代は素っ気なく答えた。イオに似た忌々しい子供の名前など千代にはどうでもよかった。

 せつは子供をシロウと呼ぶことにした。白金色の髪と真っ白な肌が由来である。安直にシロと呼んでは犬や猫みたいなので、人名らしくシロウとした。

 シロウは日に日に弱っていった。千代が乳を与えたがらないため、山羊の乳を与えていたが、そのせいかもしれないとせつは思った。所詮山羊の乳は仔山羊を育てるためのもので、本来は人間を育てるためのものではない。やはり人間には人間の乳が最適なのだろう。

「千代様、後生ですからシロウちゃまにお乳をあげてくださいまし」

「そうは言っても、お乳は一子の分だけでなくなってしまうのだよ」

 乳の出に問題はないが、思わず千代は嘘をついた。シロウがこのまま弱って死んでくれれば大いに助かるため、あえて健康にしたくはない。

「それならば乳の出の良い乳母をお雇いくださいまし。シロウちゃまにはどうしてもお乳が必要なのでございます。こんなことを申すのは恐れ多いですが、もし乳母を雇わないなら、シロウちゃまを見殺しにすることになるのでございますよ……」

 いくら千代でも赤ん坊を見殺しにするなんてせつは許さなかった。もしこれだけ言っても千代が対応しないのならば、せつは独自に乳母を探してくるつもりだった。

 犯しかけていた罪を見破られた千代は、仕方なく乳母探しに乗り出した。

 近隣の農家の嫁であるハマが乳母に雇われた。ハマは固太りしてよく日に焼けた健康な女だった。半年前に出産したが、つい最近、赤ん坊は吐物を詰まらせて命を落とした。赤ん坊は亡くなれども、乳は豊富に出るため、乳母には適任だった。

「お子様のそばでは目隠しをしていただきます」

 目隠しのための布を手にしたせつにハマは目を丸くした。

「はあ、なぜでございますか?」

「世話をしている赤さんを可愛く思うばかりに、赤さんを連れ去ろうとする乳母は少なくないのですよ。だから情が移らないために、目隠ししていただくのです」

 シロウの奇異な姿を人目に晒すわけにはいかない。せつは適当な理由をつけ、ハマに目隠しをさせた。

「私は宍塚様のお子様を連れ去るなんて、決して致しませんがねぇ。うちは赤ん坊を一人亡くしたばかりですが、それでももう子供はたくさんいて、困っているくらいでございますもの」

 自分の子供ですら持て余しているというのに、他人の赤子など欲しいわけがない。きっと目隠しは情が移るのを防ぐためなんかではなく、赤子を見せたくないだけなのだろうと、ハマは察した。おそらく子供は片輪で、とても他人に見せるわけにはいかないのだ。背骨が歪んでいるのだろうか。四肢がどうかしているのだろうか。それとも奇怪な顔をしているのだろうか。強い好奇心がわいてくるも、決して探りを入れようとは思わなかった。余計なことはしないのが賢明である。ただ指示された通りにしていれば報酬が出るのだから、粛々と役割を果たせば良いのだ。

 シロウを渡されたハマは慣れた仕草で胸に抱いた。赤ん坊の扱いは身体にしみついており、視界を塞がれていても不自由はなかった。

 視界は真っ暗でも、ハマは快い香りにうっとりとした。花のようなほのかに甘い香りで、今までに感じたこともない芳しさだ。さすが裕福な宍塚家だけあり、舶来ものの上等な石鹸でも使って赤ん坊や衣類を洗っているのだろうと思った。

 今まで何人もの子供を養ってきたふくよかな胸にシロウは顔を埋め、乳と共に精気も吸い出した。エア人の血を引くシロウが生きてゆくには、食物の他に精気が必要だった。シロウは本能的に精気を吸う相手を選んでおり、せつの精気は吸わずにいた。せつは身の回りの世話をしてくれる唯一の人間だ。彼女の精気を吸って衰弱させてしまえば自身の利益を大きく損ない、生存率をも下げてしまうだろう。

「ああ……」

 得も言われぬ心地良さを感じ、ハマは恍惚の吐息をついた。今まで何度となく赤ん坊に乳を与えてきたが、こんな感覚は初めてだった。心地良さの極致に達した時、ハマは昏倒していた。

 そばで見守っていたせつは慌ててハマに駆け寄った。ハマは座った姿勢から後ろ向きに倒れたため、彼女自身が緩衝材となり、シロウに怪我はなかった。

「おハマさん、どうしました。しっかりしてください」

 せつは戸惑いながらも、声をかけ、身体をゆすった。それでハマは目を覚ましたが、気分は優れない。

「こんなふうに倒れたことなんて今までなかったのでございますが……私は丈夫さだけが取り柄だのに」

 面目ない思いでハマは呟いた。授乳で強い快感を覚えたと思ったら気を失うなんて、今までにない経験だ。

「きっと休めばよくなるでしょう。ゆっくりなすって」

 せつはしばらくハマを休ませてやった。一眠りしたハマは幾分顔色がよくなったものの、怠さは完全には取れなかった。それでも務めを果たすため、再び授乳に挑んだ。やはり不思議な快感が湧き起こり、恍惚となった。今度は気を失うまでには至らなかったが、ひどい怠さと眩暈に襲われた。

 乳母を勤めて三日目になると、ハマの乳は出なくなった。困ってしまうほど母乳が豊富に出る体質であったのに、まさか全く出なくなってしまうなんて、ハマは当惑した。乳が出ないのでは役には立たず、ハマは暇を出された。

 青い顔をし、覚束ない足取りで帰ってきたハマに家族らは驚いた。たった三日勤めただけでこんなにもやつれてしまうなんて、何事だろう。

「義姉さん、ひどい顔色。宍塚様のところで恐ろしくいじめられたのではないの?」

 義妹の寿栄子が訊ねた。大地主の宍塚家で働く女中たちは特権意識のようなものを持っており、新しくやってきたハマをいじめたのではないか。

「そんなことはないんだよ……おせつさんという女中さんが世話をしてくれたのだけど、なかなか親切な人だったよ。ただ、宍塚様のお子様がね……」

「利かん坊で手を焼いたのかい?」

「いや、おとなしいお子様だったのだけど、妙なんだよ。どういうわけか、そのお子様に乳をやると身体の力が抜けてふらふらになってしまうんだ。最初の時なんか、気を失ってしまったくらいだよ。しかも私は目隠しをされてお子様の姿を見せてもらえないんだ」

「そんな変な話は聞いたことがない。私、赤ん坊のふりをした化け物が義姉さんを弱らせているように思えて、ぞっとしたよ」

 乳母としての給金は惜しいが、そんな怪しげな仕事は続けるものではない。家族らはそう言うが、実を言うとハマはこの仕事を嫌ってはいなかった。確かに身体が弱ることも、赤ん坊の姿を見せてもらえないことも、ひどく不気味である。だが、乳を吸わる際に生じる強烈な快感は手放し難いものだ。たとえ身体が衰弱してしまおうとも、本当は乳母を辞めたくはなかった。

 ハマはすぐに辞めてしまったが、それでも以前よりシロウの顔色は良くなった。それが精気を吸ったおかげであるとは知る由もないせつは、やはり母乳はシロウの健康に欠かせないものなのだと思った。

 すぐに新しい乳母探しが始まった。丈夫そうなところを見込んで、富という女が選ばれた。

 健康そのものであった富だが、ハマと同様、すぐに弱っていった。乳も出なくなり、真っ青な顔で臥せってしまった。

 これにはせつも千代も困惑した。立て続けに二人もの丈夫な女がシロウの乳母になった途端に健康を害してしまうなんて、おかしいではないか。

「あれはやっぱり不吉な子だよ。私はすぐにお乳をやるのをやめてよかった。もしお乳をあげ続けていたら、今ごろ取り返しのつかないことになっていたかもしれない」

 千代は一子をゆすってあやしながら、シロウを隔離して育てることにして命拾いしたと思った。

「左様でございますねぇ……でも、シロウちゃまにお乳をあげないわけにはいきませんから、また乳母を探さなくては」

 本当にシロウが災いのもとなのだとしたら、その事実を明かさずに乳母を雇うのは卑怯だろう。しかし事実を明かせば乳母が見つからなくなり、シロウが衰弱してしまう。乳母の身よりもシロウが大事なせつは、ハマと富のことを隠して後任を探した。

 シロウがやっと乳飲み子を脱した頃には、もう乳母も見つからなくなっていた。最初は割りの良い給金のおかげで簡単に適任者が見つかったが、次第に見つけるのが困難になっていったのだった。人々は宍塚家の乳母という役割に恐怖を抱いていた。乳母になると、どんなに丈夫な者でもすぐに身体を壊す。中には衰弱死した者までいる。赤ん坊のそばでは目隠しをされ、姿を見せてもらえなかったという乳母たちの証言の不気味さも手伝い、宍塚家の乳母になど決してなるものではないという認識が広まったのだった。

 それでもどうにかシロウは成長し、もう母乳は必要なくなった。だが、乳母をあてがわれなくなったシロウは精気を吸う機会を失った。一度吸えば三日は平気だが、それ以上となるとつらくなってくる。

 シロウを見守ってきたせつは、シロウが乳母から精気を吸い取っていることに感づいていた。信じ難いような話ではあるが、乳母が弱るほどにシロウは元気になるのだから、そうとしか思えない。

 シロウが生き物の精気を吸い取っているのならば、犬や猫などの動物でも構わないのではないか。そう考えたせつは試しに仔犬を連れてきてシロウに近づけてみた。シロウは興味津々で犬に触れるも、何の変化も見られなかった。仔犬が衰弱する様子もなく、シロウが活気づくこともない。

 犬や猫などの動物の精気ではシロウの糧にはなり得ないのだった。人間のようにある程度高等で複雑な精神を持つ生き物の精気でなければ、糧として適さない。

 シロウは少しずつ弱っていった。せつは青白い顔で眠るシロウを眺めながら深いため息をついた。こうなればまた乳母を探す他にないだろう。千代にその旨を伝えるため、せつは座敷牢を後にした。

 せつが出て行ってすぐ、シロウは目を覚ました。せつはあれこれと考えながら牢を出たため、きちんと扉を閉めるのを忘れていた。シロウは牢を出、暑いので開けっ放しにしてあった襖から廊下に出た。精気を吸えていないせいで気分が悪く、ふらついて何度も転びながら廊下をさまよい歩いた。曲がり角を曲がったところで祖父に出くわした。

 白金色の髪に赤い瞳の孫が一人で歩いている姿に孝太郎は面食らった。孝太郎はシロウが生まれた時以来その姿を見ていなかった。改めて見ると、やはりその姿の異様さにはぎょっとせずにはいられなかった。生まれて間もない頃は髪もまだ少なかったが、生後一年以上が経った今は伸びてきた白金色の髪がひどく目立っている。

「おい、誰か――早く来い」

 孝太郎はシロウを抱き上げ、家人に呼びかけた。この奇妙な孫は座敷牢の中から出すなと命じているというのに、このように一人でうろつかせておくなんて、あってはならないことだ。

 シロウは孝太郎にぎゅっとしがみついた。その瞬間、孝太郎は小さな孫に対し、今までにない哀れみを覚えた。この上なく厄介な子供が生まれてきてしまったと思っていたが、それでも自分の孫には変わりないのだ。家族に構われることもなく、ずっと座敷牢に閉じ込められているなんて、少しかわいそうではないのか。

「お……? おおぅ……」

 不意に強い快感が全身を駆け巡り、孝太郎は呻いた。とても立ってはいられず、シロウを抱いたまま、よろよろとその場にへたり込んだ。

 精気に飢えていたシロウにとって、孝太郎との遭遇は獲物との遭遇だった。今までは口腔粘膜を介しての吸精行為しかしてこなかったが、身体が接触してさえいれば吸える。シロウは祖父の精気を思う存分吸った。今より未熟な乳飲み子の頃は一度に少量ずつしか吸えなかったが、ある程度成長した今、吸える量は増えていた。

 孝太郎の呼び声を聞きつけた女中が急いでやってくると、孝太郎が倒れていた。白目を剥き、激しく痙攣を起こしている。その傍らにはシロウがちょこんと座り込んでいた。

 すぐに医者が呼ばれた。医者は孝太郎の心臓の弱りを指摘し、絶対安静を言い渡した。

 自分がシロウを座敷牢から逃がしてしまったせいで、孝太郎が死にかけた。激しい罪悪感に苛まれたせつは千代にシロウの特殊な能力について話した。

「確かに、何人もの乳母が雇ってすぐに身体を壊してしまうのだから、おかしいとは思っていたのよ。でも、まさかあれが妖怪か何かみたいに人の命を吸っていたなんて……」

 つくづく不気味な厄介者だと、千代はシロウを今まで以上に嫌悪した。

「大旦那様までこんなことになってしまいまして……私が牢の扉をきちんと閉めておかなかったばかりに」

 青い顔をして罪の重さに震えているせつを千代は哀れに思った。千代は自分が生まれた時から世話をしてくれているせつに対し、母親への愛情に近いような思いを抱いている。幼くして実の母を失っていることも手伝い、せつへの愛着は非常に強固なのだった。たとえせつの不注意の結果で父が命を落とそうとも、千代は彼女に思い悩んでほしくはなかった。

「扉を閉め忘れたのはよくなかったけれど、そういううっかりは誰にでもあるものだよ。本当に悪いのはあの忌々しい子供なのだから、あまり気にするのはおよし」

 千代の寛大な言葉にせつの胸はいっぱいになり、言葉もなく深く頭を下げた。

 月日は流れ、シロウと一子は満十三歳になった。孝太郎は弱っていた心臓がもとで他界し、その後、妻のよしも腎臓を病んでこの世を去っていた。正三郎の始めた養蚕は大戦景気の波に乗って成功し、その後の戦後恐慌のさなかも上手く立ち回って安定した収益をあげ、宍塚家はますます栄えていた。

 一子は健やかに成長し、下に六人もの妹が生まれたこともあり、ずいぶんとおとなびてきた。一方、シロウは身体が小さく、幼いままだった。どう見ても幼児にしか見えず、とても一子と共に生まれ落ちた双子の片割れとは思えない姿をしている。シロウは五、六歳くらいまでは普通に成長していたのだが、そこからぴたりと成長が止まってしまったのだった。

 一子はシロウに対し、強い嫌悪感を抱いていた。自分の兄が普通の人間とは違うなんて、ひどく恥ずかしく、受け入れ難いことだった。こんな兄がいたら自分の将来に差し障るのではないかと、不安でならない。

 ある時、一子は一人でシロウの座敷牢に赴いた。今までもたまに座敷牢を訪れていたが、その時はいつも千代かせつと一緒で、一人で訪ねたのは初めてだった。

 突然やってきた一子にシロウは戸惑い、牢の隅に小さく縮こまった。

「シロウ、こっちにいらっしゃい」

 一子は高飛車な口ぶりで兄を呼びつけた。シロウはおずおずと彼女のそばに近づいた。

「おまえ、鏡を見たことはあって?」

 シロウは首を横に振った。鏡とは何なのか、シロウは知らなかった。シロウがまともに口を利いたことがある相手といえばせつしかいないため、語彙は少ない。今までせつとの会話の中で鏡という単語は出てこなかった。

「これが鏡。映っているのはおまえの顔だよ」

 一子は持ってきた手鏡を牢格子越しのシロウに突きつけた。手鏡には赤い目を丸くし、小さな唇を軽く開いた幼い顔が映し出された。

「あんまり醜くてびっくりしただろう。おまえが見るに堪えないほど醜いから、こうして牢の中に閉じ込めているんだ。その老人みたいな白い髪に、血みたいに赤い目! まさに化け物そのものじゃないか」

 赤い瞳と白金色の髪の異様さをおいておけば、シロウは醜くないどころか非常に愛らしい姿をしている。それは一子も承知していたが、シロウへの憎しみから醜いのだと強調して言い聞かせた。シロウの顔立ちは美しいが、自分は凡庸であるという点も一子の憎しみを大きくしていた。一子は美しい母親には似ず、父親譲りの地味な顔立ちを受け継いでいた。年を取れば上品で綺麗に見えるかもしれない顔立ちだが、娘らしい華やかさは感じられない。

 一子のきつい口調の恐ろしさと、自分がひどく醜いのだという悲しみの気持ちが入り交じり、シロウは泣きたくなった。

「閉じ込められているとはいえ、こうして生かしてもらえているだけでも感謝しなければいけないよ。おまえほどの厄介者を生かしてやっている私たちは本当に情け深いんだから。もしおまえがよその家に生れていたら、とっくに始末されていたところだよ」

 悲しげなシロウの様子に満足し、一子は軽い足取りで立ち去った。

「お母様!」

 廊下を歩いていた一子は、前方に千代の姿を認め、駆け寄った。

「あら、一子ちゃん。こんなところにいたの」

 千代は少し驚いて振り向いた。普段は母屋で過ごしている一子と離れで出くわすなんて、珍しい。

「お母様、お綺麗だわ。そのお召し物、新しいのね? 初めて見たわ。よく似合っておいでだこと。私、こんなお綺麗な人が自分のお母様だなんて、時々信じられないような思いがしますわ」

 これから出かけるところだった千代は余所行きの着物に着替え、入念にめかし込んでいた。その姿は娘の目から見てもため息が出るような美しさだった。

「一子ちゃんったら、お世辞の才能があるよ」

 そういいながらも、千代は娘の賛辞が純粋なものであると分かっており、笑みがこぼれた。

 すでに三十路も通り過ぎた千代であるが、今でも十代の乙女のような若々しさを保っていた。とても八人もの子供を宿したとは思えないほど腰や腹部は細く引き締まっており、乳房はいまだに花の蕾めいて初々しい。顔も少女のように愛らしく、白い肌にはしみや皺は一切刻まれていない。

 これほどまでに全く容色が衰えないのは不思議ではあったが、千代は自分の容姿に満足しきっていた。誰に会っても若く美しいままだと驚かれる。お世辞などではなく、彼らの反応には心からの驚きが感じられるから心地良い。

 娘時代に一回り年上の親戚に会い、彼女の容色の衰えぶりを目の当たりにした時のことを千代は今でも時々思い出す。自分もあと一回りも生きれば彼女のように老け込んでしまうのだろうかと怯えていたが、今のところはまだその心配はなさそうだった。

「お母様、お出かけなのね? いいなぁ、一子も一緒に行きたい」

 美しくて優しい母と出かけるのは一子にとって何よりも楽しいことだった。

「また今度連れていってあげるから、今日はいい子でお留守番していてね。帰りに何かおいしいものを買ってくるから、楽しみに待っておいで」

「わあ、嬉しい! 早く帰っていらしってね」

 奥の座敷牢にいるシロウのことなど忘れ、母娘は華やかな笑い声と共に母屋の方に向かってゆく。彼女たちが去ったあとの離れは冷ややかな静寂に包まれた。

 高い位置にある無双窓からはわずかな日の光が差し込んでくる。その光が白っぽい色から朱色になった。この部屋は西側にあるから西日が射し込んでくるのだと、せつが言っていたのをシロウは思い出す。美しい朱色の光はシロウのささやかな喜びだった。シロウは小さな手を朱色に染めて遊び始めたが、今日はいつものような喜びは感じられず、気持ちは沈んだままだった。

 いつかこの座敷牢を出て、外の世界を見るのがシロウの念願だった。せつの話では外の世界にはたくさんの人々がいて、シロウが見たこともないもので満ちあふれているらしいのだから、興味をひかれずにはいられない。だが、自分が化け物のように醜いと知ったからには、決して外に出るわけにはいかないと思った。

 そうか、だからせつが連れてくる者たちは目隠しをしているのだ。シロウは胸の内で呟き、静かに納得した。今までシロウの糧とするために連れてこられた使用人たちは必ず目隠しをしていた。シロウには赤ん坊の頃からそれが当たり前だったので、何の疑問にも思っていなかったが、思いがけずその意味に辿り着いた気がした。あの目隠しは恐ろしく醜い自分の姿を人目に晒さないための策なのだ。もし彼らが自分の姿を目にしたら、どうなるのだろう。恐れをなして逃げ出そうとするかもしれない。あるいは攻撃を仕掛けてくるかもしれない。考えるだけでシロウの小さな心臓は暴れ出し、苦しくなった。

 シロウが吸う精気は下男や馬丁といった男の使用人の精気で賄われるようになっていた。今までに雇った男たちの中には衰弱して暇をとった者もいれば、シロウに精気を吸われ尽くして果てた者もいる。だが、それでも女をあてがうよりは男をあてがった方がだいぶ長持ちするのだった。女より男の方が体力がある分、持ちが良いのだろうと、せつと千代は話し合っていた。

 宍塚家は浅野清治を園丁として新しく雇い入れた。

 清治は東京郊外に生まれ、尋常小学校を卒業後、植木屋に奉公に出た。徴兵検査では甲種合格となり、兵役に服した後は貿易会社を営む主人に雇われた。彼の家の園丁として仕事に精を出し、その働きぶりから主人一家に気に入られ、海外移住に同行を求められた。清治は誘いを受けたい気持ちは強かったが、親族に猛反対され、やむを得ずに断った。洋行を今生の別れと等しいものと思い込んでいる母が青い顔をして引き留めるものだから、諦めるしかなかった。主人は残念がったが、それならば次の勤め口として清治に宍塚家を勧めた。主人と宍塚正三郎は従兄弟にあたり、そのよしみで清治が願ってもないほどの給金が約束された。清治は主人の厚意をありがたく受け入れ、東京から山梨の宍塚家までやってきたのだった。

 園丁として雇われた清治だが、その他の雑用も多く任された。宍塚家としてはもう一人くらい下男を雇いたいところだが、宍塚家には呪いの子がいるという不気味な噂のために人材が集まらない。だから清治が忙しく働き回らなければならないのだった。清治は広大な庭の手入れ、馬や番犬の世話、薪割り、荷運び、屋敷や厩の修繕、子守りまで担った。

 清治の日に焼けた顔は凛々しく整っており、背はたいそう高く、がっしりとした骨組みを分厚い筋肉が覆っている。そんな彼を宍塚家の娘たちは偶像視した。たった三歳の千鶴子まで清治を強く意識し、彼に美しく見られたいがためにどうしても晴れ着を着たいと駄々をこね、千代や女中を苦笑させた。

 無邪気に清治に懐き、仔犬のようにじゃれつく妹たちとは違い、一子は遠くから密かに眺めるだけだった。清治が近くにいるとのぼせてしまい、上手く口が利けなくなってしまう。腕にしがみついた妹たちを彼が軽々と持ち上げるところを見て、あの勁い腕に抱きしめられたらどんな心地がするのだろうと夢想し、一人で顔を真っ赤にするのだった。

 ねえやのはるが清治と口を利いていると、一子はひどく嫉妬し、はるに冷たく当たった。大地主の家に生まれ、父は実業家としても成功しているという誇りから、一子は権高な性格をしている。使用人はもちろん、同級生をも卑しいと軽んじ、親しく付き合わないほどの思い上がりぶりである。そんな一子とは違い、愛想の良いはるは誰とでも簡単に打ち解けることができる。一子はそういうはるを下品な女だと軽蔑しながらも、心の奥底では羨ましく思わずにはいられない。

 どうやったら子供ができるのかさえ知らない無知な少女でありながら、一子は清治を求めてやまなかった。清治以外の男は近くに寄られることさえ不快だったが、清治にならば何をされても構わないと思えた。彼の子供を産んだって構わない――いや、どうしても彼の子を産みたい。そんなふうに思う自分にひどく恥ずかしくなりつつ眠りについた翌朝、一子は初潮を見た。

 その日、清治は初めて『離れの坊ちゃま』の遊び相手を命じられた。きたか、と清治は身構えた。宍塚家の離れには呪いの子が住んでおり、その子の相手をさせられると、ひどく身体を壊してしまうか、ことによると命を落とすという噂は清治の耳にも入っていた。しかも子供の相手をさせられる際、必ず目隠しをさせられるという。それは子供の容姿が化け物のように醜いせいで、とても人目には晒せないからであると、巷の人々は信じている。

 清治は不気味な噂がまとわりつく宍塚家を怪訝には思いながらも、呪いについては信じていなかった。呪いだの幽霊だのといった不確かなものの正体の多くは、人々の知識不足や異質なものに対する排他性が生んだ誤解に過ぎない。そんなふうに考えていた。

 シロウの座敷牢のある部屋の手前でせつは清治に目隠しをさせた。

「いいですか。シロウ坊ちゃまはお加減が悪く、長いことお部屋にこもって暮しておいでです。とても人見知りが激しいご気質で、ご家族や私以外の相手には姿を見られることを嫌っております。だから決して目隠しを取らないように」

「でも、目隠しをしていたら遊びにくいのですが」

「坊ちゃまは普通の子供のように跳ね回って遊ばないので、それでいいのです。なにせお身体がお弱く、おとなしいですからね。清治さんはただ無聊をお慰めするための話し相手になって差し上げればいいのですよ」

「そうですか……」

 清治はそれ以上何も言わなかった。探りを入れたい気持ちは強かったが、雇い入れられる際、『離れの坊ちゃま』については何も訊ねるなと、釘を刺されている。それはやはり、噂のとおりに彼が醜く奇異な姿をしており、人目には晒せないからであるように思えた。不幸をもたらす呪いの子という非科学的な噂の方は真に受けることはできないものの、目隠しをさせられる理由としては見た目に問題があると考えるのが妥当だろう。人見知りが理由でまわりの人間に目隠しをさせるなんて、ひどく苦しい言い訳に感じられる。

 今まで目にしたことのある不具者たちが清治の頭に浮かんできた。以前、金か食べ物を恵んでほしいと声を掛けてきた浮浪者はせむしだった。友人に誘われて行った見世物小屋には疲れた顔で玉乗りをする侏儒がいた。鼻のすぐ近くまで唇が裂けた兎唇の子供も見かけたことがあるし、実家の近くには福助のように頭が異様に大きな精神薄弱児が住んでいた。『離れの坊ちゃま』も彼らのいずれかのような姿をしているのだろうか。

 せつは清治の手を引き、ゆっくりと座敷牢の中に導く。

「では、ここに座って」

 かすかな甘い芳香に気を取られながら清治は腰を下ろした。職業柄、植物には詳しい清治はこの香りに心当たりがあった。茉莉花――ジャスミンの香りだ。

 腹を空かしていたシロウは喜んで清治に近づき、彼の膝に軽く触れた。花の香りが濃くなったのを清治は感じた。

「シロウ様ですか? 俺は新しい園丁の浅野清治と申します」

「清治、楽にしていろ」

 幼い声がしたかと思うと、清治は今まで感じたことのない不思議な感覚に襲われた。膝に置かれたシロウの手が、自分の中から何かを吸い出している。そうはっきりと感じたのだった。そしてその吸い出される感覚には得も言われぬ快感が伴い、恍惚となった。

 清治の精気を吸うシロウもまた恍惚となった。今まで何人もの精気を吸ってきたが、これほどまでに良質な精気は初めてだった。味は極上であるし、いくら吸っても滾々と溢れ出してくる。

 満腹になったシロウは吸うのをやめ、満足の吐息をついた。

「シロウ様、今、何を……」

「おまえ、平気なのか?」

 清治の意識がはっきりしていることにシロウは驚いた。今まで精気を吸ってきた者は皆、シロウが吸い終わるまでには気を失ってしまうか、さもなければ会話もできないほど意識が朦朧としてしまうかのどちらかだった。

 それから三日に一度の間隔で清治はシロウのもとへ通うようになった。やはり清治は今までの者たちと違い、衰弱してゆく様子は全く見られなかった。

 シロウは清治を気に入った。清治はたくさんの興味深い話を聞かせてくれるため、座敷牢の中以外の世界を知らないシロウにはたいそう面白い相手だった。

 清治もまた小さな主人に好意を抱いていた。人の命を削り取る呪いの子などという物騒な噂をたてられているシロウだが、本人の気質は至っておっとりとして優しい。宍塚家の他の子供たちは少女ながらに気が強いところがあり、家柄を誇るがゆえの傲慢さも垣間見えるが、シロウにはそういう気質が全くなかった。清治は少年時代の奉公先の坊ちゃんを思い出し、同じ裕福な家の子息でもまるで違うものだと思った。その坊ちゃんは慢性的に食事の量が足りていない清治の前で菓子を頬張り、ひとかけらを床に落とし、拾って食えと言って面白がる悪童だった。

 今日も清治はせつに連れられて座敷牢を訪ねた。シロウは彼が来るのを今か今かと待ちわびていた。

「清治は甘いものが好きか?」

「ええ、好きですよ」

「それならこれをやろう。口を開けて」

 目隠しをしている清治は少し戸惑いながらも、言われた通りに口を開けた。昔の奉公先の坊ちゃんならば虫や蛙なんかを口に入れてくるのではないかと警戒したところだが、シロウ相手にそんな心配は無用だった。口の中に入れられたものを咀嚼すると、チョコレートの豊かな香りと甘さが広がり、清治は微笑んだ。

「おいしいです。でも、このチョコレートはシロウ様のおやつでしょう。俺がいただいては悪かったのでは」

「おまえと分けて食べようと思ってとっておいたんだ。チョコレートがこの世で一番おいしいものだと思うから」

 おいしいものだからこそ、シロウは清治と分け合って食べたかった。清治が喜んでくれるのならば、自分一人で味わうよりはるかに価値があるように思えた。

「ありがとうございます。シロウ様はお優しい」

 この世で一番おいしいと思うものを分けてくれる純粋な優しさに、清治は胸が温かくなった。同時に切なさがこみ上げてきた。チョコレートがこの世で一番おいしいものだというシロウの言葉は病死した恋人を思い出させた。偶然にも全く同じ言葉を彼女も口にしていたのだった。

 ミヨは父方の遠い親戚で、清治の実家のすぐ近所に住んでいた。清治の三つ年下で、いつも清治に構ってほしがり、追いかけてきた。清治が奉公に出てからは藪入りにしか会えなくなったが、それでも親しい関係は変わらなかった。

 ミヨの器量は十人並みであったが、朗らかで愛嬌のある娘だった。長じてくるにつれ、言い寄ってくる男もそれなりに現れたが、彼女は清治だけを慕っていた。いつからか清治は彼女との将来を考えるようになった。互いの親もミヨもそれを望んでいるようであったし、清治自身もそれが自然な成り行きに思えたのだった。

 清治の兵役が明け、園丁として働き始めた頃、ミヨに病魔が襲い掛かった。色つやのよかった頬は忽ち青ざめてゆき、清治や彼女の家族は不安の中で神に祈るしかなかった。清治は彼女をいたわる手紙をまめに送り、たまの暇には必ず見舞いに出かけた。

 病に苦しみながらも、ミヨは組紐を編み始めた。作業をしているとすぐに気分が悪くなってしまうため、休み休み編み進めていた。

「この頃、組紐を編み始めたんだって? 手仕事なんてしたら疲れるだろう。おとなしく寝ていてくれよ」

 見舞いに訪れた清治は優しく咎めた。疲れは体力の衰えたミヨの大敵であるため、身体の負担になる行為はしてほしくなかった。

「ただただ寝てばかりいるのはとてもつらいことなのよ、清ちゃん。清ちゃんみたいに丈夫な人にはこのつらさは分からないでしょうねぇ。一度も風邪をひいたこともない人なんて、清ちゃん以外にいるのかしら」

「俺の丈夫さをミヨに分けられたらどんなにいいか」

 いたずらっぽく言うミヨに反し、清治は真剣な思いで呟いた。ミヨが病みついて以来、清治はよく思うのだった。自分は人並み外れて頑健であるという肉体的資質に恵まれた。この生命力をミヨに分け与えられることができたら、どんなに嬉しいだろう。

 表情を翳らせた清治をミヨはじっと見つめていた。この世を去る時、彼を道連れにできるものならば、ミヨは死も怖くはないと思うのだった。肉体の滅びや魂の行く着く先といった誰もが不安に思う事柄よりも、彼と離ればなれになることの方がミヨにとってはつらい。自分が亡き後、彼はそのうち別の女と結ばれるだろうと思うと、死んでも死にきれない思いがする。

「ねえ、見て。なかなか凝った柄を編んでいるのよ」

 ミヨは編みかけの組紐を清治に差し出した。確かにその組紐は凝ったものだった。やや幅広の平たいもので、複数の色の糸を使い、複雑な柄を編み出している。

「これは難しそうだな。ミヨは器用だね」

「私、本当は不器用だわ。手芸なんて大の苦手。でも、これはとても大切なものだからどうしても完成させなきゃいけないの。私の残りの命を全部込めて編み上げるのよ」

「変なこと言うなよ。そんなことを聞いたらお母さんがどんなに悲しむか……俺だって嫌だよ」

「お母さんの前ではこんなこと言わないわ。でも清ちゃんはちゃんと知っておくべきことなの。これは清ちゃんに贈るものなのだから」

 清治は自分への贈り物を編むミヨをいじらしいと思いながらも、どこか恐ろしくも感じた。若くしてこの世を去らなければならない女の命が編み込まれた組紐。それはある種の呪物といっても過言ではないのではないか。

 やがてミヨは組紐を編み上げたが、同時に寝床から起き上がれないまでに衰弱した。清治が見舞うと、彼女はもう思うように動かなくなってしまった指先でゆっくりと時間をかけ、清治の手首に組紐を結んだ。

 結び終えたミヨはぐったりとして目を閉じた。そのまま絞り出すような細い声で清治に語り掛ける。

「私が生まれる前に亡くなったお祖母さんはね、お不動様を特に信心していたらしいのだけど、最期にお父さんにこう言ったらしいわ。自分が死んだあとはお不動様のお力を借りて必ずお父さんを災いから守るって。それでお父さんはあの恐ろしい大地震の日、ちょうど知り合いの家を訪ねていたの。家は崩れてしまったけれど、お父さんは運よく瓦礫の隙間におさまってほとんど怪我もなく這出てこられたわ。九死に一生を得たと思ったら、今度はあちこちで火事が起こって町じゅうが火の海よ。必死で逃げ回った末に辿り着いたのはお寺だったんですって。そこら一帯でそのお寺だけが崩れも焼けもせずに済んだらしいわ。そこの御本尊がお不動様だったから、お祖母さんが守ってくれたに違いないってお父さんは信じているの。とっても良い話でしょう? でもね、私は死んだあと、お祖母さんみたいに神秘の力で大事な人を助けたいとは思わないの」

「どうして?」

「私なら、大事な人が死にそうになった時、喜んでしまうわ。だって私と同じところに来てほしいもの。だから私が死んだあと、清ちゃんが絶体絶命の恐ろしい目に遭ったとしても、私の助けは期待しないでね」

 ミヨは冗談めかせて言ったが、清治はなんと答えてよいか分からずに押し黙った。大事な人に同じところに来てほしいと思うミヨの寂しさを思うと、とても軽く受け流すことはできなかった。

「清ちゃんに会ったら、元気が出たわ。そうね、チョコレートを食べたらもっと元気が出ると思う」

 すっかり食欲が衰え、青白く痩せていたミヨは無邪気に言った。

「チョコレートなんてここらでは手に入らないからねえ。明日、ちょうどお父さんが街に出るからお土産に買ってきてもらいましょう」

 母親は病に蝕まれた娘が望むものならばすぐにでも与えてやりたかったが、近所にある小さな商店ではチョコレートなんぞ扱っていない。買い求めるためには遥々都市部まで出ていかなければならないのだった。

「ああ、チョコレートが食べたいな。チョコレートがこの世で一番おいしいものだと思うわ。ねえ、清ちゃん?」

 ミヨは清治に甘えるように言った。

 清治はすぐにチョコレートを買いに出かけた。急いで戻ってくると、彼女の顔には白い布がかけられていた。清治が戻る少し前、容体が急変し、息を引き取ったのだった。

 シロウがミヨと同じ言葉を口にしたのは、彼と自分との間に特別な縁があるからなのかもしれない。そう思った清治はとりわけ深い誠意をもってシロウに仕えようと、心に決めた。

 千代とせつは清治の出現を思いがけない幸運と捉えていた。清治はたいそう役に立つ。シロウがいくら精気を吸っても命を落とす心配のない、まことに優れた餌である。

 いつものようにせつはシロウに食事を運ぼうとしていた。食事といっても、膳の上に乗っているのは桃の甘露煮だった。他者の精気を糧にしているシロウは食物の摂取による栄養補給は常人よりわずかで済む。そのため、食事らしい食事はたまにしか口にせず、普段は好きな甘い菓子を少し食べれば満足するのだった。

 廊下を歩いていたせつは突然頭に強い痛みを覚えた。まるで鈍器で殴打されたような凄まじい感覚に手から膳が滑り落ちる。桃の甘露煮が入ったガラスの器は割れ、中身があたりに飛び散った。

「うぅ……」

 痛みのあまり、せつは頭を抱えてうずくまった。視界に白い光がチカチカと点滅し、眩しくて目を開けていられない。同時に強烈な吐き気に襲われ、たまらず嘔吐したかと思うと、ばったりと倒れた。

 他の女中が意識を失っているせつを見つけた。長い眠りから覚めたあと、彼女はすっかり以前の健やかさを失っていた。身体の左半分が麻痺して動かず、言葉もろくに話せなくなっていた。

 千代はひどく動揺し、悲しんだ。八人の子を持つ母親としての威厳や自制心など忘れ去り、最愛の母が病に倒れた小娘のように悲嘆に暮れた。千代にとってせつは使用人ながらも夫の正三郎より大切な存在であるといえた。正三郎は所詮親が選んだ相手であり、好きで一緒になったわけではない。彼は欠点の多い男ではないが、美点も少ない。要するに取るに足らない男なのだ。対してせつはたった三歳の頃に母を失い、少女時代には祖母も亡くした千代の重要な支えであった。家事や千代の身の回りの世話といった実際的な仕事の面でも、精神的な安定を保ってくれる面においても、欠かせない存在だ。それにシロウの世話は全面的に彼女が担っていた。彼女がシロウの世話を首尾よくこなしてくれていたからこそ、千代はシロウの存在に煩わされたり、悩まされることなく、気楽に過ごしていられた。言うなれば奇妙な子供を産んでしまった重荷をせつが肩代わりしてくれていたようなものだ。

 何としてでもせつに回復してほしい千代は評判の良い医者を代わる代わる呼び、専属の看護婦も雇った。たかが女中相手にここまで手を尽くすなんて馬鹿げていると正三郎は眉を顰めた。千代ときたら実父が倒れた時よりもはるかに気を揉んでいるのだから、呆れたものだ。

「なにが名医だろうね。どの医者も何もできないくせに偉そうに」

 複数の医者にみせてもせつは一向に回復しない。焦燥感を募らせた千代は藁にも縋る思いで方々の親戚や知人友人に手紙を書き送った。せつの病状を書き記し、何か良い治療法や名医を知らないかと訊ねたのだった。

 横浜に嫁いでいる従妹の巴の返信に千代は興味をひきつけられた。名医は知らないが、素晴らしい占い師ならば知っているとのことだった。巴は医者にかかっても治らなかった子供の病気についてその占い師に相談し、占いの示す通りに家の敷地内にあった古井戸を清めた。すると見る見るうちに子供の病状はよくなり、今ではすっかり丈夫になったという。

 千代は今まで占いに頼ろうと思ったことは一度もなく、占い師のことを悩める人々から金をせしめる詐欺師のようにすら思っていた。だが今回ばかりは不可思議な力にどうしても縋りたくなった。現に巴の子供は占いのおかげで病気が癒えたのだ。それならばせつの病状を回復させる手立てだって占いによって見出せるかもしれない。

 思い切って千代は巴のもとを訪ねていった。

「千代お従姉様、お久しゅうございます。まあ、お従姉様ったら相変わらず本当にお綺麗。私よりも年上なのに、まるで女学生のようですわ。お従姉様が子持ちの立派な主婦だなんて誰にも想像できやしませんことよ」

 久しぶりに会った従姉の変わらぬ美しさに巴は目を見張った。一体、この従姉は何を食べ、何をしてこのような若さと美を保っているのか。巴は千代より二つ年下の二十九歳であるが、どう見ても巴の方が老けて見えた。十六歳で結婚した巴は今に至るまでほとんど休む暇なく身ごもっている。出産のたびに太ってゆくため、今ではかなりの貫禄がついてしまい、娘時代の可憐さはとうに消え失せていた。肥満と同じくらい巴を悩ませているのは薄毛である。もともと髪は薄い方だったが、やはり出産のたびにさらに薄くなり、今では頭皮が透けて見えていた。

 千代は軽く微笑んで巴の言葉を受け流した。容姿を褒められることは千代にとって大きな喜びだが、今はそれどころではない。一刻も早くせつの病を癒すすべが知りたくて、早速占い師のもとへ連れていってほしいと頼んだ。

「占い師の松浦野枝様はね、そりゃあ凄いお方で噂を聞きつけた悩める人たちが全国から集まってきますのよ。その中には偉い政治家やら華族やら実業家なんかもたくさんいらっしゃるそうですの。うちの子も野枝様のおかげで病気が治ったのだから、きっとお従姉様のお悩みも解決してくださるわ」

 占い師の家はごく普通の民家だった。大きな屋敷に生まれ育った千代からすると、かなりこぢんまりとした質素な佇まいのようにすら感じた。政治家や華族といった高い身分の人々が訪ねてくる家にはとても見えない。

 千代と巴は野枝の年老いた伯母に出迎えられ、客間に通された。

「いらっしゃいまし。私が占い師の松浦野枝でございます」

 千代たちを待ち受けていた野枝は細い声で挨拶をした。野枝は平たい地味な顔立ちで、中年と呼ぶには少し早いようだが、あまり若くもなかった。非常に痩せた青白い姿は、年を重ねた鶴が人に化けたかのような趣があった。

 挨拶もそこそこに、野枝は座卓の上に置いてあった紙とペンを千代に差し出した。

「あなた様のお名前をお書き願います。それからあなた様のお悩みがあなた様だけの問題ではない場合、問題の中心にいるお方のお名前もお書きくださいまし。そのお名前から私は超感覚的知覚によって、助言を自動書記で記しましょう」

「名前を書くだけでようございますか?」

「左様でございます。さ、どうぞ……」

 胸を高鳴らせながら千代は自分とせつの名前を記した。千代が書き終わると、野枝は紙を自分の手元に引き寄せ、ペンを握った。

「これから私は集中致しますゆえ、しばらくお静かに願います。尚、私は無意識のうちに手を動かして文章を書くため、自分でもそれがどんな内容なのかは存じませんの。そして私は自分で書き記した占いの内容を確認することは致しません。あえて知らないようにするのが私の流儀なのでございます。だから占いの内容を私に改めて質問されてもお答え出来かねますので、ご承知おきくださいまし」

「承知致しました。どうぞよろしくお願い致します」

 占い師という特殊な職業では、占い師当人にしか理解できない流儀というものがあるのだろう。千代は納得し、頭を下げた。

 野枝は目をつぶり、軽くうつむき加減になった。居眠りでもしているかのような姿でしばらくじっとしていたが、不意に手が動き出した。野枝は目をつぶって平穏な表情のままだが、手は目にもとまらぬ速さで文字を綴り始めた。まさに彼女の意思とは関係なしに不可思議な力で手が動いているような光景に千代は目を丸くした。

 最後に野枝はペンを置くと、紙を裏返しにし、目を開けた。

「これで占いは終わりでございます。どうぞこちらをお持ち帰りくださいまし」

 野枝は裏返した紙を千代に差し出した。

 野枝が求めた謝礼金はずいぶんと安価だった。政治家や華族などから頼られている凄腕占い師というからには、それなりの代金を求められると思っていた千代は驚いた。

「まあ……本当によろしゅうございますの? なんだか申し訳ございませんわ」

「これ以上はどなた様からもいただきませんの。お金目的で占えば、忽ち力を失ってしまうことが分かっておりますから。つまり私の特殊な力はお金を稼ぐためのものではないということでございますわねえ」

 そういうこだわりは彼女が本物の特殊能力者である証のようで、千代の期待はいっそう膨らんだ。

「ねえ、千代お従姉様。早速お読みになったら?」

 野枝の家を出てすぐ、巴は好奇心を剝き出しにして勧めた。

「そうねえ……今はやめておこうかしら。なんだか妙な気分がして落ち着かないの。私、帰りの汽車の中でじっくりと読むことにする」

 千代の胸はなぜか不穏にざわめき、今は占いを記した紙を開く気にはなれなかった。

「ええ、そんな。私、結果が知りたいわ」

「帰ったら手紙を書きますよ」

 いくら巴が不満がっても千代は頑固に占いの結果を確かめようとはしなかった。

 巴の家に一泊した翌朝、千代は横浜を発った。汽車の席に腰を下ろし、一息ついた千代はいよいよ占いを記した紙を開いた。目に飛び込んできたのは流麗な筆跡で、目をつぶりながらすごい速さで書いたものとはとても思えなかった。

『白と赤の子は若さと健康と長寿をもたらす。あなたが乙女のように若く美しいままなのは、白と赤の子の胞衣を食べたから。病人には白と赤の子の肉を与えればよいだろう。白と赤の子の両耳をそぎ落とし、柔らかく煮込み、食べさせるべし。』

 決して長くはないが衝撃的な内容に、千代は思わず紙面を胸に押し当てた。心臓の高鳴りがわずかに和らいだ頃、再び紙面に目を当て、改めてじっくりと読み返した。

 野枝がペテン師ではないことはもう明白だった。彼女が本物でなければ、千代とせつの名前しか情報がない中でこのような内容の文章が書けるはずがなかった。白と赤の子とは明らかにシロウのことであるし、シロウを産んだ際に胞衣を口にしたのも事実である。当然、野枝はおろか巴にだってそんなことは一言も話していない。また、せつが病気であるということだって野枝には伝えていなかった。

 それにしても、自分の若さがシロウの胞衣由来だとは夢にも思っていなかった。子供を産んでいない女ならば長く若々しい姿を保てようが、自分は八人も産んでいるのだ。それなのに体型は少しも崩れていないし、肌も髪も艶やかなままである。我ながら不思議だと思っていたが、まさかそんな理由があろうとは、青天の霹靂だった。

 シロウの肉が若さと健康と長寿をもたらす。シロウは幼児の頃に成長が止まり、現在も幼い姿のままである。その不可解な特徴は確かに若さと関わりがあるように思える。千代は八尾比丘尼の伝説を思い出した。彼女は人魚の肉を食し、若い姿のまま八百歳まで生きたという。シロウの肉もまた人魚の肉と同じような効果があるとは、本当になんという奇妙な子供を産んだものだろう。改めて気味が悪くなりつつも、シロウの驚異的な価値を知り、喜びを覚えた。

 若さ、健康、長寿。それは誰もが望む輝かしいものだが、天からの貴重な賜り物ゆえに、金や権力によって得られるものではない。たとえ世界一の権力者がどれだけ渇望したところで手に入るものではないのだ。しかしシロウの肉を食すことでそれらが手に入るのだから、彼の価値は計り知れないものだろう。

 せつを助けるための明確な方法が分かり、千代の胸には希望が満ち溢れた。一刻も早く家に帰りつき、彼女を癒してやりたかった。

 帰宅した千代は一息つく暇もなく、シロウの座敷牢に向かった。

「おまえ、これをお飲み」

 千代はシロウに湯呑を差し出した。

「……せつはまだ病気なのですか?」

 おずおずと湯吞を受け取りながらシロウは訊ねた。シロウは千代が苦手だった。親に対しては敬慕の念を持つべきだとせつに教えられているが、どうしてもそんな思いは抱けない。今まで千代は二、三か月に一度くらいの頻度でシロウの様子を見に来ていたが、すぐに立ち去るのが常だった。まともに言葉を交わした覚えもない。そもそも千代が時々様子を見に来るのは、たまには母親の顔を見せてあげなければシロウがかわいそうだとせつが切ながるためだった。それで渋々顔を出していたのである。いくら実の母親といえども、そういう冷ややかな相手に敬慕の念を持てないのは当然のことと言えた。

 せつが病気で臥せってからは千代と一子がシロウの世話のために毎日やってくるようになっていた。しょっちゅう千代と一子と顔を合わせなければならないのはシロウにとって苦痛だった。彼女たちが自分に向ける目は嫌悪に満ちている。彼女たちの冷たい目で見られると、シロウは自分自身が汚らわしい虫けらであるかのように思え、やりきれない気持ちになる。

「せつのことはいいから、おまえは早くそれをお飲みなさい。おまえのためにわざわざ用意してやったよく効く滋養強壮のお薬なのだからね。いいね、無駄にしないように必ずすべて飲み干すのだよ。あとでちゃんと飲んだか見に来るからね」

 千代が去り、シロウはほっとした。渡された飲み物を口にしてみると、嫌な味がした。もう一口たりとも飲みたくはなかったが、千代は必ずすべて飲むようにと言っていた。残したら叱られてしまうに違いない。シロウは吐き気を堪え、どうにか飲み干した。

 しばらくして千代は一子を連れて再び座敷牢を訪れた。座敷牢の中でシロウは寝床にも入らずに床に伏し、深い眠りについていた。

「焼酎に砂糖と葡萄の果汁を混ぜたものを飲ませたのよ」

 千代は一子に囁く。十三歳になった一子は何かと千代の助けとなる存在に成長しており、今回の件においても手伝うように言いつけられていた。

 千代は一子にシロウを羽交い締めにさせ、身体を固定させた。シロウは目を覚ましたが、ひどく気分が悪く、身体が思うように動かない。人形のようにされるがままになっていた。

「まあ、軽い。なんて貧弱だこと」

 これから行う行為に一子は嗜虐的な興奮を覚えており、シロウのか弱さにいっそう気を昂らせた。幼児の時点で肉体の成長が止まっているシロウに対し、一子は年齢相応かそれ以上に発育している。小さなシロウなど、片手で絞め殺せてしまいそうだった。

「いくよ、一子ちゃん。決して動かないように押さえていておくれ」

「はい、お母様」

 千代はシロウの髪をかき分け、耳を摘まんだかと思うと、よく砥いでおいた包丁でそぎ落とした。アルコールのせいで朦朧としていたシロウだが、痛みに目を見開き、悲鳴を上げた。その小さな身体から発せられたとは思えないほどの凄まじい絶叫だった。

「暴れないでよ。おとなしくなさい。あっ、やだっ」

 たまらず嘔吐したシロウを嫌悪しながらも、一子は最後まで役目を果たそうと、押さえつける力を緩めなかった。千代はもう片方の耳も素早くそぎ落とすと、清潔な手拭いで出血部を押さえた。

 両耳をそぎ落とされたシロウの有様は悲惨だった。激痛と出血によって顔面蒼白になり、震えが止まらない。手拭いは忽ち血まみれになって役に立たなくなった。

 いつも台所仕事は女中に任せきりの千代だが、今回は自ら台所に立った。シロウの耳の調理は女中なんぞには任せられない。

 ぐつぐつと小鍋が煮えている。千代が蓋を取ると、湯気と共にたいそう良い匂いが立ちのぼった。とろけてしまいそうなほど柔らかく煮えた小さな肉塊を細かくほぐす。味見のためにほんの一かけを口にしてみると、得も言われぬ芳醇な味わいが口いっぱいに広がった。シロウの胞衣も非常に美味だったが、耳も同じく美味なのだ。

 耳の煮付けと粥を膳に乗せ、千代は病人の部屋へ向かった。ずいぶんと痩せ細ってしまったせつが静かに横になっていた。

「せつ、身体を起こすわよ。とびきりおいしくて精がつくお肉を柔らかく煮たわ。これを食べて元気になってちょうだい」

 せつは千代の優しさに感激し、涙を浮かべた。自力では何もできなくなってしまったが、こんなに慈悲深い主人を持って幸せだと心から思った。

 病みついて以来、せつは初めて食欲が出た。この上なく美味な耳の煮付けと共に粥も平らげ、心地良い満腹感を覚えた。

 千代は目隠しをさせた清治を座敷牢に連れていった。シロウの糧となる使用人を座敷牢へ連れてゆくのはせつの仕事だったが、今は千代が行わなければならない。

 清治が宍塚家で働き始めてから一年以上が経つ。シロウの糧としてあてがわれてきた使用人はすぐに衰弱して使い物にならなくなっていたものだが、清治は依然として健康だった。

「シロウ――シロウ、起きなさい。清治を連れて来ましたよ」

 ぐったりと横になっていたシロウは徐に起き出した。耳を切り取られた激痛は絶えずシロウを苛み続け、しかも発熱までしていた。酒を飲まされた影響も尾を引いている。小さな身体にはアルコールが強烈に作用し続け、目が回り、吐き気と頭痛がおさまらない。震えが止まらないが、シロウは自分が寒いのか暑いのかもよく分からなかった。ゾクゾクと悪寒がする一方で、身体の奥が燃えるように熱く、発汗していた。

 シロウはやっとの思いで清治のそばまで這ってゆき、震える手で彼の手を取った。

「シロウ様……? あっ」

 シロウの手がひどく熱いことに驚いたのも束の間、清治は指先に不思議な感触を覚えた。柔らかく、熱く濡れている。それはシロウが清治の指先を口に含んだ感触に他ならなかった。

 外傷と発熱によって弱っているシロウは多くの精気を効率よく取り入れる必要があった。それには口腔粘膜を介しての吸精が最適であると、本能的に分かっていた。

 多量の精気を吸い取られる感覚に清治は思わず呻いた。かつてないほど強烈な快感が押し寄せてきて、千代の前であるということも忘れ、淫らな陶酔に浸った。

 心ゆくまで上質な精気を吸ったシロウは清治の指から口を離し、小さく息をついた。心なしか激痛が和らぎ、身体も楽になったようだった。

「……シロウ様、今日はどうなさいましたか。なんだか、いつもとご様子が違うような」

 快感の余韻がさめやらぬ中でどうにか冷静さを取り繕い、清治は訊ねた。一年以上、三日に一度の頻度でシロウと会ってきた清治は彼の様子が普段と違うことがはっきりと分かった。どうやら身体の具合が悪いようだが、目隠しのせいでどんな様子なのか確かめられないことがもどかしい。

 シロウは黙っていた。耳殻を切り取られた部分に包帯を厚く巻かれているせいで彼が何と言ったのか聞き取れず、答えたくても答えられない。

「本当にどうなさいましたか。熱がおありなのでは?」

 返事のないシロウに清治はますます心配になり、手探りでシロウに触れようとした。その手はちょうど耳の包帯をかすめ、シロウは痛みに悲鳴を上げた。

「申し訳ございません! シロウ様、どこか痛いのですか? シロウ様――……」

「清治、もうお下がり。目隠しを取ってはいけないよ」

 慌てふためいた清治は今にも目隠しを取り外してしまいそうだった。千代は座敷牢の中から清治を引っ張り出し、廊下まで連れて行った。

「シロウ様はお加減がずいぶんとお悪いのではございませんか?」

「ちょっと風邪をひいているだけだよ」

「なにか、痛がっておいでのようでしたが」

「耳の下が少し腫れているんだよ。子供にはよくあることだから心配は無用だよ。清治や、どうも雨樋にごみが溜まっているようなんだよ。雨が降る前に掃除しておいておくれ」

 素っ気なく答えた千代は用事を言いつけて去っていった。清治は彼女のほっそりとした優美な後ろ姿を苦々しい思いで眺めていた。今まで清治はシロウと話をしてきた中で、彼が親きょうだいの情愛を全く受けてこなかったことを知っていた。母親とすらまともに会話をした覚えがないと言うのだから驚きだった。千代は娘たちには優しいが、シロウにだけは冷ややかなのである。その冷たさの原因は、彼女がシロウの存在によって母親としての自尊心を傷つけられたからだというのは想像に難くない。シロウは子供たちの中で唯一の男子でありながら、離れの奥にこもって暮らさなければならない訳ありの身だ。巷ではひどく不気味な噂まで囁かれている。千代としては甚だ期待外れな子なのかもしれないが、だからといって露骨に冷たくするなんて、清治としては腹立たしいばかりだった。清治の忠誠心は主人夫妻よりもシロウに大きく傾いているため、どうしても反感を覚えずにはいられない。

 清治はシロウに精気を吸われているという事実までは知らないものの、シロウが自分の中から何かを吸い出しているということははっきりと感じている。吸われている時は強い快感が生じると共に、シロウと深く繋がり合っているようにも感じられる。自分とシロウの境目が分からなくなってしまうような感覚が湧き起こり、得も言われぬ多幸感に包まれるのである。そういう特別な交渉の積み重ねによって、清治のシロウに対する情は誰にも気づかれないままに大きく育まれていた。

 梯子に上り、雨樋に溜まった枯葉を取り除きながらも、清治はシロウのことを考え続けていた。せつが倒れて以来、シロウの世話は千代が担っていることが清治には気掛かりだった。せつはシロウによく尽くしていたため、シロウが不自由することはなかっただろう。だが、シロウを嫌っている千代がちゃんと満足な世話を行っているのか、怪しいものだった。千代が適切に世話をしていないからシロウは体調を崩したのではないかと、訝しまずにはいられない。今ごろシロウは一人で苦しんでいるのではないかと思うと、たまらなく不憫だった。

 雨樋の掃除を終えた清治が梯子をしまってくると、縁側に正三郎が佇んでいた。正三郎は清治を探していた。

「桑が病害虫に侵されて散々な出来なのだよ。担当者がいろいろと手を尽くしてはいるが、どうも効果が得られなくてね。君、植物には詳しいだろう。どうにかできないものか」

 正三郎は養蚕に欠かせない桑の管理について悩んでいた。今までになく桑が病害虫の被害を受けており、生育状況が芳しくない。桑の栽培に詳しい専門の職員が手を尽くしてはいるが、なかなか状況は改善しない。桑の出来は蚕の生育に直結するため、このままさらに病害虫の被害が拡大してしまえば事業そのものが大打撃を受けてしまう。それで別の角度からの解決方法を求め、園丁である清治の意見を聞いてみる気になったのだった。

「お力になりたいとは存じますが、実際の様子を見なければ何とも……」

「まあ、そうだろう。では、桑畑まで行ってちょっと様子をみてくれないかね」

 清治は養蚕用の桑の危機を救えるかどうか、自信はなかった。庭の植物と桑畑では勝手が違うだろう。それでも桑畑に赴き、病害虫の様子や栽培環境をよく観察し、知識と経験に基づいた対策法を説いた。ほどなくして、病害虫の被害はおさまった。

「清治は植物の知識が実に豊富で、優秀なやつだ。おかげでお蚕様は飢えずに済んだよ。園丁なんぞが桑の栽培について何も分かるはずはないと言っていた担当者らも、今では黙って清治のやり方に従っている」

 甚く喜んだ正三郎は上機嫌で千代に話した。

「確かに清治は役に立ちますわねえ」

 千代は夫に同調した。ことにシロウの餌として清治は非常に重宝している。今までシロウの餌探しには手を焼いてきたが、彼が現れてからはそんな苦労から解放され、たいそう楽になった。

 正三郎の養蚕が再び順調に運び始めた以外にも、宍塚家には喜びが訪れていた。耳の煮付けを食して以来、せつはぐんぐんとよくなっていった。たどたどしくも言葉が話せるようになり、やがて滑らかにしゃべれるようになった。麻痺していた左半身も感覚が戻ってきて、歩く訓練も始めた。彼女はもう快方に向かう望みはなく、死ぬまで寝たきりだろうと見立てていた医者は驚異の回復に目を見張った。

 自分の病を癒すためにシロウが耳を失ったことを知ったせつは涙を流して悲しんだ。しかし、やむを得ない犠牲だと思った。自分が寝たきりのままだったならば、シロウだって世話係を失って困ることになるのだから、これでよかったのだ。どうせシロウは誰にも姿を見られることなく一生を座敷牢の中で過ごす運命なので、耳がなくとも困りはしないだろう。

 爽やかに晴れた春の日、清治はふらりと散歩に出た。途中、猫の黒豆が道連れとなった。黒豆は宍塚家の周辺で暮らしている野良猫で、黒い斑模様が黒豆に似ているため、その名で呼ばれている。猫好きの女中や子供たちが馴らそうとして餌をやっているが、なかなか彼女たちには懐かない。だが清治とは親しく、喉を鳴らして甘えてくるほどだった。

 清治は時折黒豆に話しかけながら気ままに歩いた。うららかな陽気のもと、小鳥がさえずっている。こんな穏やかで美しい日を一人で歩くのはもったいないものだと思った。暖かくて空気も良いのだから、シロウも散歩に出られればどんなに良いだろう。清治は千代に少しはシロウに外の空気を吸わせた方が良いと、進言したことがある。歩行が困難であったり、外を歩くだけの体力がないのならば、自分が抱きかかえて連れてゆくとも提案したが、すげなく却下されていた。

 不意に清治は足を止めた。道端の目立たないところに菫がかたまって咲いている。

「今年初めての菫は誰に捧げるべきだと思う?」

 道端にかがみ込み、春の精髄と呼ぶべき花を摘み取りながら、清治は黒豆に囁いた。

「あら、菫。もう咲いているんですね」

 清治が帰宅すると、庭で絹子と繭子を遊ばせていたはるが声をかけてきた。

「清治、絹子にちょうだい」

「繭子もほしい」

 絹子と繭子が清治にまとわりつく。清治は少女たちに摘んできた菫を分け与えたが、残りは死守したいがために急いで立ち去った。縁側から一子が小さな妹たちを連れて現れたため、彼女たちにまで差し出す羽目になるのは避けたかった。

「絹ちゃん、繭ちゃん、清治からお花をもらったの?」

 一子は妹たちに駆け寄り、羨ましい思いで菫の花を見つめた。

「そうよ、お姉様。いいでしょう」

「私、そんなちっぽけな菫の花なんて欲しくなくてよ。豪華な薔薇の花束だったら受け取ってあげてもいいですけどね」

 つっけんどんに返しながらも、一子は清治が落としていった一輪の菫をこっそりと拾い上げた。

 残りの菫はシロウに捧げられた。

 シロウの耳の包帯はすでに取れていた。失った耳殻は当然もとには戻らないものの、体調は回復していた。

「綺麗だ。良い香りもする」

 シロウは嬉々として紫色の花束の香りをかいだ。殺風景な座敷牢に閉じ込められているシロウにとって、明るい日のもとで咲いていた菫は生命の化身のようにいきいきとして感じられた。

「シロウ様も良い香りがなさいますね。シロウ様の香りは茉莉花の香りによく似ています」

 目隠しをしたまま清治は話す。シロウの香りは石鹸や香水などの香りではなく、彼自身の体臭なのだと知った時は本当に驚いた。花のような芳しい香りを放つ人間なんて見たことも聞いたこともない。

「そうなのか? それはどんなものだ?」

「白い可愛らしい花ですよ。志那ではこの花で香りづけしたお茶が飲まれるそうです。俺が以前お仕えしていたお屋敷では、茉莉花の仲間のハゴロモジャスミンという花を育てていました。まだ日本ではほとんど広まっていない珍しい品種です。旦那様が珍しいものがお好きな方で、庭の花も異国から取り寄せたものが多かったのです。ハゴロモジャスミンは蔓性の植物なので、大きな柵に絡ませて育てていたのですが、本当に見事な美しさと香りでした。無数の小さな白い花と桃色の蕾が可愛らしくて……シロウ様にもお見せできたらどんなにいいか」

「ぼくも是非とも見たい」

「いつか二人で見に参りましょう」

「ああ、行こう」

 自分にはそんな機会は一生訪れないだろうと思いながらも、シロウは清治がそんなふうに言ってくれることが嬉しかった。

「そういえば、さっき黒豆に会いました」

「元気だったか?」

「はい。シロウ様によろしくと申しておりました」

 シロウは一度も黒豆と会ったことはないが、いつも清治から話を聞いているため、白毛に黒い斑のある姿をありありと思い浮かべることができた。黒豆だけではなく、シロウは清治の家族や友人のこともよく知っていた。清治はシロウの無聊を慰めるためにいろいろな人の話や自分が経験した出来事を話して聞かせる。清治の話はシロウの最高の楽しみだった。彼の話はせつの話よりずっと面白く、興味が尽きない。

 清治の話は黒豆の話から、清治の末の弟が鼻の穴に豆を詰めて取れなくなった笑い話に移った。楽しそうに笑うシロウに清治は嬉しくなりながら話していたが、途中で千代が話を遮った。

「清治、無駄話はそのへんにしておいておくれ。母屋から離れに箪笥を移してほしいのだよ。あとでお客がくるからのだから、その前に済ませてちょうだい」

「シロウ様、申し訳ございませんが、一旦退座させていただきます。奥様の御用が済みましたら戻って参ります」

 清治が行ってしまうと、シロウは寂寥感にとりつかれ、ため息をついた。いつもと変わらないはずの薄暗い座敷牢がいっそう暗く、重苦しいほど静かであるように感じた。清治と過ごす時間が楽しいからこそ、彼が去った時の寂しさは堪えるのだった。

 箪笥を運ぶついでにあれこれと用を言いつけられた清治は、結局その日はシロウのもとに戻れなかった。シロウのもとを訪ねるには目隠しをしてせつか千代の付き添いがなければならない。せつも千代も今日はもうシロウのもとへ行く必要はないと言い、連れていってくれなかったのである。目隠しも付き添いもひどく鬱陶しいと、清治は感じていた。シロウと会うだけのことにそんなものが必要であるとは全く思えなかった。たとえシロウがどんなに奇妙な見た目をしていようとも、シロウはシロウである。花を捧げると無邪気に喜び、どんな他愛のない話にも嬉しそうに耳を傾けてくれる清治の小さな主人である。

 次に清治がシロウのもとを訪ったのはそれから三日後のことだった。清治はシロウに謝った。戻ると言っておきながら、結局は戻らなかったことが申し訳なかった。

「気にしていない。おまえは忙しいのだろう」

 すぐに戻ってくると思っていた清治が現れないことにシロウは気を揉んでいたが、そんな素振りは見せないようにした。清治にはいろいろと仕事があり、自分に構ってばかりはいられないことはよく分かっている。

「園丁としての仕事だけならばそれほど忙しくないのですが……」

 男手の足りない宍塚家において、清治は様々な雑用に駆り出される。一応は園丁として雇われたはずが、なんでもこなさなければならない雑用係としての役目を担わされているのだった。

「そうだな……清治は園丁だというのに、ぼくの相手なんかをさせて悪い」

「何をおっしゃいますか。シロウ様にお会いするのは俺の一番の楽しみです」

「嘘でも嬉しいよ」

「俺は噓などつきません……」

 忠誠心の強い清治にとって、シロウに信じてもらえないことは遺憾であった。どうしたらシロウにこの思いを理解してもらえるのか、ひどくもどかしい。

 季節は巡り、シロウと一子は満十五歳になった。

「一子ちゃん、本当に綺麗になったよ」

 娘盛りを迎えた一子の盛装姿に千代は目を細めた。一子は背が高く、西洋人のようにすらりとした美しい娘であると、千代には思えた。モダンな洋装をさせればさぞ似合うだろうと思うが、今日は見合い写真を撮るため、華やかな振袖を着せている。宍塚家にはシロウを除いて男子がいないため、千代が結婚した際と同じく、長女の一子が婿を取る予定だった。

 親の欲目で千代には一子が実際よりも美しく見えているとはいえ、確かに一子は以前より美しくなった。大人に近づくにつれて顔の均整がとれ、まずまずの器量になっていた。

「いつもそうやってお母様は私を褒めてくださるけれど、私はお母様の美しさには遠く及ばなくってよ。お母様はよそのお母様よりもはるかにお若くてお綺麗ですもの。この前、私とお母様が一緒にいるところを見かけたお友達がね、あの綺麗な女の人はお姉様なのって後で訊いてきたくらいよ。お母様なのよって言っても、冗談だと思われてしまったわ。お母様が私の妹に間違われる時が来る日もそう遠くないかもしれなくってよ」

「妹だなんて、そこまでいけばさすがに気味が悪いねえ」

 千代は笑い飛ばしながらも、ゾクゾクするような嬉しさを覚えていた。衰え知らずの美と若さほど千代を喜ばせるものはなかった。

 一子の写真は正三郎の旧い知己である酒田雄作のもとに送られた。しばらくして、雄作は次男の幹彦を連れて宍塚邸を訪ねてきた。

「幹彦様って上品な美男子だわ」

「色白ですっきりしたお顔立ち。お内裏様みたい」

 妹たちは幹彦を美男子だと言って騒いでいる。確かに一子の目から見ても彼は整った容姿をしていた。やや面長で青白く、男にしては肌理の細かい皮膚をしている。目は切れ長で鼻筋は通り、唇は赤く小さい。体つきは貧弱だが、それは肉体労働とは無縁の貴族的な特徴に見えなくもなかった。

 しかし幹彦は全くもって一子の心を喜ばせなかった。彼は少しも一子の好みではなかったし、彼のおしゃべりといったら不愉快そのものだった。幹彦は癪に障るやけに甲高い声で絶え間なくしゃべった。少し黙ってくれと示すために一子が分かりやすく冷めた態度をとっても、彼はお構いなくしゃべり続けた。彼と結婚する女は一生このおしゃべりに付き合わないといけないのだと思うと、一子はぞっとした。

 幹彦と顔を合わせている最中、一子は不愉快な声を意識の外へ追い出し、清治のことばかりを考えていた。幹彦と清治は何もかもが正反対のように思えた。青白く貧弱な幹彦。日に焼けた逞しい清治。癪に障る声でくだらないおしゃべりを繰り広げる幹彦。低く甘い声で誠実な言葉を紡ぐ清治。産まれすぎた仔猫を始末した話を武勇伝のように語る幹彦。猫を愛し、猫に愛される清治。桔梗の花を竜胆と間違える間抜けな幹彦。一子も知らない花の名前をたくさん知っている清治。

 一子は清治が恋しくてたまらなかった。清治以外の男と一生を共にしなければならないなんて、考えるだけでも胸が苦しくなった。彼以外の男には指一本たりとも触れられたくはなかった。

 酒田父子が帰ったあと、一子はすぐに母親に不満を告げた。

「あの人、好きじゃないわ」

「どうして? 幹彦さん、かなりの秀才なのよ。洋行帰りでフランス語も堪能。お母様は頭の良い男の人はいいと思うね」

 千代が婿に第一に望む条件は頭の良さだった。どんな困難が待ち受けているかも分からぬ厳しい世の中において家を守ってゆくためには、何よりも頭の良さが重要だ。

「フランス語が堪能なのは結構ですけれど、おしゃべりが過ぎるわよ。おしゃべりのせいで女に鬱陶しいと思われるような男なんて、果たして本当にお利口といえるのかしら? あの人、たとえ細君が臨終の床にあってもぺちゃくちゃとどうでもいいことをしゃべり続けるに違いないわ。かわいそうな奥さんは鬱陶しいおしゃべりのせいで最後の最後まで安らげないでしょう」

 娘の辛辣な批評に千代は苦笑した。

「まあ、確かに少ししゃべり過ぎるきらいはあるようだね。でも陰気で無口なのよりはよほどいいでしょうよ」

「少しどころじゃないわ。あんなおしゃべりな人を家に入れてしまったら大変なことになってよ。ねえ、お母様。うちの離れの奥には何が住んでいるかお忘れではないでしょう? もし幹彦さんがこの家の一員になってあれの存在を知ったら、忽ち世間にあれの存在が知れ渡ってしまうわ。あの絶え間なく動き続けるお口は秘密なんて決して守れませんもの」

「そうだねえ……それは困るよ。でも、幹彦さんを断ったとして、次にもっと良い人が現れるとも限らないし……どうしたものかしらね」

 幹彦を婿にしたいと思っていた千代も、こう言われては心が揺れた。

 千代は正三郎に相談してみた。一子が幹彦を全く気に入っていないし、自分としても彼の軽薄そうなところは些か心配に思うと告げた。正三郎は不機嫌になった。自分の親しい友人の息子との縁組にけちをつけるなんて、業腹だった。

 結局、幹彦は婚約者候補という曖昧な立ち位置におさまった。正式に婚約するかどうかはこれから交流を重ねて見極めればいいという具合だった。

 年が明け、酒田父子は新年の挨拶にやってきた。

 おせち料理を食べながらも幹彦はせわしなくしゃべった。そんなにしゃべりながら食事をしては喉を詰まらせてしまうのではないかと、一子は思った。いっそ詰まらせて死んでくれたらせいせいするだろう。

 幹彦は雑煮を食べながら、関東の雑煮と関西の雑煮との違いについての薀蓄を語りたくてならなくなった。それで餅を頬張りながらしゃべろうとした拍子に、大きな餅の塊が喉の奥に滑り込み、気道を塞いだ。

「おい、大丈夫か」

 息子が喉を詰まらせたことに気がついた雄作は背中を強く叩いてやった。だがいくら叩いても餅は喉にみっちりと詰まったままで、口から飛び出しもしなければ、胃の中に落ちてゆきもしなかった。

 千代と正三郎は一子以外の娘たちを座敷の外に追い出した。大きく目を見開き、涎を垂らしながら苦しげに唸る幹彦の姿はとても見せられたものではない。

「お嬢様方、どうなさいました」

 きゃあきゃあ騒ぎながら少女たちが廊下を駆けてくる。鉢合わせた清治は何事かと思った。

「幹彦様が喉を詰まらせて死にそうなのよぅ」

 泣き出しそうになりながら絹子は訴えた。

 緊急事態だと判断した清治は主人や客人がいる部屋に駆け込んだ。幹彦は真っ青な顔をし、酸素を求めて口を大きく開け、悶え苦しんでいた。雄作も宍塚夫妻もすっかり狼狽えてしまい、右往左往するばかりである。

 清治は幹彦の背中側から腕を回して上半身を抱え込むと、拳で上腹部を突き上げるようにして圧迫した。少年時代、清治は医者である親戚がこのやり方で喉を詰まらせた祖父を助けたところに居合わした。これは覚えておいて損はない方法だと思い、やり方を詳しく習っておいたのだった。何度かみぞおちの圧迫を繰り返していると、幹彦の口から餅の塊が飛び出した。

 もう少しで死ぬところだった幹彦はさすがにすぐには口も利けず、荒い呼吸を繰り返した。

「おお、よかった!」

 息子が死なずに済み、雄作は大喜びしたが、宍塚家の人々は苦笑いするしかなかった。行儀悪く食べ物を口に入れたまましゃべろうとするから、こんな騒ぎを起こすのだ。

 速やかに退室しようとする清治の姿を一子は名残惜しい思いで見つめていた。人命を救ったというのにちっとも得意がりもしない潔さに惚れ惚れとせずにはいられない。幹彦があのまま死ななかったのは惜しいことだが、しかし清治はなんと素晴らしいのだろう。

「ああ、痛い! さっきの男は馬鹿力で僕のあばらを折ってしまったようだ。謝りもせずに行ってしまうなんて、なんてやつだろう。下男はもっときちんと躾けるべきです」

 苦しみが去ると、幹彦は真っ青だった顔を今度は真っ赤にして憤った。

 酒田父子はその日のうちに帰る予定だったが、酒にしたたかに酔ってしまったため、急遽泊まってゆくことになった。

 千代は彼らにあてがう部屋に困った。母屋の座敷は訪ねてきた大勢の親類たちですでに埋まっている。他に客を泊められるような部屋といえば離れにしか残っていなかった。渋々千代は彼らを離れの部屋に通した。シロウの監禁場所である離れにはできる限り誰も近づけたくはないが、今夜ばかりは致し方ない。シロウの座敷牢と父子にあてがった部屋は離れている上に、座敷牢の方へ繋がる廊下は扉で区切られているため、彼らがシロウの存在に気がつくことはまずないだろう。念のために父子の向かいの部屋に正三郎が控えて彼らを見張ることにもしたため、心配はほとんどなかった。

 深夜、宍塚邸では家人から客まで皆寝静まった。音もなく雪が降り積もる中、突如男たちの声が響き渡った。

「おぉい、起きろ! 離れが燃えた! 火事だぞ!」

 血相を変えた酒田父子と正三郎が離れから飛び出してきて、母屋で眠っていた者たちを覚醒させた。人々は寝巻姿のまま部屋から飛び出した。清治も起き出し、裸足のまま縁側から外に出た。離れの一部からはすでに赤い炎が上がっていた。乾いた強い風が吹いているせいで火の回りは早い。

「旦那様、シロウ様はどちらにいらっしゃいますか?」

 青ざめた清治は正三郎を捕まえて問いかけた。正三郎が無言のまま首を横に振ると同時に、清治はそばにあった池に飛び込んだ。表面に張っていた薄氷が割れ、清治は痛いほど冷たい水に浸かった。予期せぬ清治の行動にそばにいた女たちは甲高い悲鳴を上げた。

「せいじぃ!」

 幼い末娘の千紗子が池に駆け寄ろうとするので、千代は彼女を抱き留めた。こんな真冬に池に落ちてしまったら心臓が縮み上がってしまうか、肺炎にでもなってしまう。

「拝借致します」

 ずぶ濡れになって池から這い上がった清治は千代が持っていたランプを引っ手繰ると、離れの方へ駆け出した。危ない、行くなと引き留める声には耳を貸さずに無我夢中で走った。

 離れの中は煙が容赦なく満ちてきていた。清治は身体を低くし、なるべく煙を吸い込まないようにしてシロウのもとへ急いだ。

 不意に声が聞こえたような気がして、清治はぎょっとした。まさかシロウの他にもこの離れの中に取り残されている者がいるのか。

「こっちへ来て。早く、早く……」

 煙が濛々と立ち込め、火の手が迫りくる方向から声は聞こえてくる。清治はランプを掲げ、目を凝らし、耳をすました。

「清ちゃん、こっち……早く来て……」

 姿は見えないが、声の正体に気がついた清治は慄然とした。自分を清ちゃんと呼んだのはミヨただ一人だ。自らの命を込めて編み上げた組紐を清治の手首に結び、死んでいった娘だけである。

 私なら、大事な人が死にそうになった時、喜んでしまうわ。だって私と同じところに来てほしいもの。清治の中にミヨと交わした最後の会話が鮮明によみがえる。彼女は自分に焼け死んでほしがっているのだと、清治は確信した。この危険な状況は彼女にとって自分を自らのもとに引き寄せるまたとない機会なのだろう。

 すぐに清治は手首に巻いていた組紐を引きちぎり、捨てようとしたが、途中で躊躇いが生じた。若くして死んでしまったかわいそうなミヨ。幼い頃から一途に自分を慕ってくれた可愛いミヨ。そのミヨを裏切るなんて、できようものか。彼女のもとへ行ってやるべきなのではないか。

 ――清治!

 もう少しでミヨが呼ぶ方へ足を踏み出すところだった清治は、はっと我に返った。確かにシロウの声が聞こえたのだった。遠くからの声でも近くからの声でもなく、頭の中に直接呼びかけてくるかのような、不思議な呼び声だった。

 清治は握り締めていた組紐を手放した。組紐は音もなく床に落ちた。

 ごめん、ミヨ。おまえのところには行けないよ。胸の内でミヨに謝り、清治はシロウのもとへと走る。

 座敷牢の中でシロウはただならぬ焦げ臭さに戸惑っていた。ランプをかざした清治は真っ暗な牢の中にうずくまるシロウの姿に衝撃を受けた。清治はいつも必ず目隠しをしてシロウのもとへ通っていたため、シロウがどんな環境で過ごしているのか知らずにいた。まさかシロウが座敷牢に囚われていたなんて夢にも思っておらず、彼に対する扱いに怒りを覚えた。だが、今は感情的になっている場合ではない。

「シロウ様、火事です。逃げましょう」

 閂を外して牢の中に入った清治はすぐさまシロウの寝床から敷布を剥ぎ取った。それを水差しの水で濡らし、手早くシロウの全身を包み込み、抱き上げて連れ出す。

 急速に火が回ってゆく離れを一子は血の気の失せた顔で見つめていた。清治が燃える家の中に飛び込んでしまった。このまま彼を失ってしまうかもしれないという恐ろしさのあまり精神が麻痺したようになり、家族に話しかけられても返事もできずにいた。

 しかし、清治は人知れず離れから脱出していた。炎と煙から守るために敷布に包み込んだシロウをしっかりと抱き、命からがら裏口から逃げ出したのである。

「シロウ様、ご無事ですか。苦しくはありませんか」

 離れから十分距離をとると、清治はシロウに声を掛け、そっと敷布をめくった。

 離れを焼き尽くそうとする炎があたりを照らし出し、二人は初めて顔を合わせた。シロウは大きな赤い瞳でおずおずと清治を見つめた。火事の恐怖とはまた違った恐怖が小さな胸の中に溢れた。シロウは人に姿を見られることを何よりも恐れていた。その恐怖は一子に鏡を突きつけられ、おまえはひどく醜いのだと言われて以来、シロウの中に芽生えたものだ。時々、人前に突き出され、姿の醜さを罵られ、嘲笑われる夢を見て、気分が沈むことがある。今、その悪夢が現実になるのではないかと怯えずにはいられなかった。それもよりによって腹心の従僕である清治によって悪夢が再現されてしまうなんて、たまらなく悲しかった。

「シロウ様、お苦しいですか? 声が出せませんか?」

 シロウが黙っているので、煙に喉がやられてしまったのではないかと、清治は不安になった。

「いや……平気だ。その……おまえ、ぼくの姿を見てびっくりしたのではないか?」

「ええ、少しだけ。想像していたお姿とは違っていましたから」

 清治は正直に答えた。いつまで経ってもシロウの身体は幼児のように小さいままのようだと、目隠しをした状態でも気づいていた。そのことから、きっと見世物小屋で見かけた侏儒と似通った姿なのだろうと想像していた。だが、世にも醜い一寸法師と触れ込まれていた哀れな侏儒と、今腕の中にいるシロウは似ても似つかなかった。シロウの身体はやはり小さいものの、頭部との大きさの調和がとれている上に、顔立ちだって肉体相応に幼い。そのため、不具者らしい違和感は全くないのだった。

 シロウの顔を見て清治の頭に浮かんできたのは、宍塚の娘たちがこよなく大切にしている人形だった。清治はたまに彼女たちの人形遊びに付き合わされるが、その人形は必ず取り合いになるため、毎回仲裁に入らなくてはならない。それは洋行した正三郎の弟が贈ってくれたもので、パリの人形職人がフランス人と日本人との間に生まれた子をモデルに作ったものである。西洋的な特徴と東洋的な特徴が混じり合った特別な美しさが少女たちの心を掴んでいるのだった。清治は西洋人形のけばけばしい顔立ちがどうも好きにはなれないのだが、その人形だけは可愛らしいと思っていた。混血児をモデルにしているだけに西洋人形特有のどぎつさが程よく薄まり、上品で可憐な印象なのである。シロウはまさにその人形によく似ていた。

 清治が自分を見つめて微笑んでいるので、シロウの不安は消え去った。その微笑みはいつも目隠しをした状態で向けてくれるものとなんら変わりなかった。

「清治、助けにきてくれて感謝する」

「シロウ様が俺を呼んでくださったから辿り着けたのです。シロウ様の呼び声がはっきりと聞こえました」

「変だな……確かにぼくはずっとおまえに来てほしいと念じていたけれど、声には出していない」

「もちろん、念が届いたのです」

 不思議がるシロウに反し、清治はさほど不可解だとは思わなかった。今まで清治の中ではミヨの存在が幅を利かせていた。だが、彼女の誘いに背き、彼女が命を込めて編んだ組紐をも捨て去った今、清治の心は完全にシロウだけのものとなった。自分はシロウのものなのだから、絶体絶命の状況にある彼の念が届くのはごく自然なことであるように思うのだった。

 清治は再びシロウの全身を敷布で包み込み、姿を隠して人々のもとへ連れて行った。母屋の方の庭ではせつが雪の上に膝をつき、泣きじゃくっていた。その傍らで千代と一子が呆然としている。彼女たちはシロウと清治が焼け死んでしまったものだと思い込んでいた。

「清治が戻ってきた!」

 真っ先に清治に気がついたのは千鶴子だった。宍塚家の娘たちは喜びの声を上げながら清治を取り囲んだ。一子はこちらに向かってくる清治の姿を信じられない思いで見つめた。涙が溢れてきて姿が滲んで見えるが、それは恋しい男に違いなかった。

 やがて離れは燃え尽きたが、幸いにも風向きが味方して母屋に飛び火はしなかった。

 火事の原因は酒田父子の煙草の不始末だった。煙草は布団を焼き、畳を焼き、あっという間に燃え広がった。酔っ払いたちは狼狽えるばかりで適切な消火行為ができず、向かいの部屋に床を取っていた正三郎を起こして逃げ出してくるだけで精一杯だったのだ。

 これには正三郎も激怒し、酒田とは金輪際交流を持たないと決めた。激しい怒りの一方で、人命を救うために火の中に飛び込んだ清治の勇敢さには甚く感激していた。清治には桑の病害虫問題を解決した手柄もあるし、喉を詰まらせた幹彦の命を救いもした。幹彦のように実家が裕福で学のある男は世の中にたくさんいるが、清治ほど忠誠心が強く、役に立つ男は探しても見つかるものではない。こういう男こそが一子の結婚相手として相応しいと、正三郎は強く思うようになった。

 夫の思いに千代も賛同した。清治はシロウにことさら忠実であるため、シロウに関する情報を外部に漏らす心配はまずないだろう。それに彼自身がシロウの最高の餌であるため、ずっと家にいてくれれば大いに助かるのだ。

 新しい結婚話を母から告げられた一子は、すぐにはそれが現実の話だとは思えなかった。一子は清治に思いを寄せていたが、まさか彼と結ばれる時が来るなんて夢にも思っていなかった。

 離れが焼けてしまったため、シロウは母屋の一室をあてがわれていた。自由に部屋から出ることは許されていないので監禁状態という点は変わらないが、大きく変わったことが一つある。清治が目隠しをせず、千代やせつの付き添いもなく、部屋を訪ねてくるようになったのだ。シロウの姿を知ってしまったからには、目隠しも監視も必要なくなったというわけだった。

 清治はシロウを抱き上げ、窓の外を見せてやっていた。シロウには窓の位置が高すぎて、自力では覗けない。

 窓から射し込む日の光を浴びたシロウの髪は薄桃色に輝いている。その妙なる色合いに清治は見惚れていた。シロウの髪は白金色の中にわずかに赤毛が混じっているため、光の加減で薄桃色に見える。こんな風変わりな色の髪があるなんて、清治は想像したこともなかった。小さな身体からはジャスミンのような芳香を発しているし、つくづく不思議な存在だと思う。宍塚家の『離れの坊ちゃま』は化け物めいた呪いの子だと噂している人々が実際にシロウの姿を見たら、どんなに驚くことだろう。シロウは化け物どころか、天から舞い降りてきたかのような清らかで愛らしい姿をしているのだから。もしかすると本当に天からやってきた貴い存在なのではないかと、清治は半ば本気で考えていた。

「シロウ様、お話があります」

「なんだ?」

「実は、一子様と婚約致しました。俺はこの家に婿に入るのです」

「……よく分からない」

 シロウの乏しい知識では、婚約だの婿だのと言われても、意味が理解できなかった。

「俺はこの家の人間になるんですよ。家族になります。つまり、シロウ様とは義理の兄弟になります。シロウ様が俺のお義兄様ですよ」

「そうなると、今までと何か違ってくるのか?」

 不安になりながらシロウは訊ねた。自分と清治の関係が変わってしまい、今までのように楽しい時間を過ごせなくなるのではないかという恐れがあった。

「これからの俺は雇用という不安定な事柄に縛られることなく、ずっとシロウ様にお仕えできます。とても良いことです」

「そうか……それは嬉しい」

 不安は忽ち消え去り、シロウは微笑んだ。清治がこれからもずっと仕えてくれる。それは確かに何にも増して良いことだ。

 一子と清治の婚礼から一年が過ぎた。

 恋しい男と身分の差を越えて結ばれたとはいえ、一子は想像の半分も幸福ではなかった。清治は一子の夫ではあるものの、彼の心は一子のものではなかった。彼は一子に対して主人の令嬢扱いをほとんど崩さず、堅苦しく距離を置いたままだ。一子としてはもっと夫婦らしく打ち解けたいが、清治は頑ななまでに態度を変えようとはしない。

 清治の心はどこにあるのかというと、間違いなくシロウの小さな手の中にあった。彼は誰の目から見ても、妻より義兄を愛していた。清治は一子を愛すどころか、極力態度には出さないものの、憎んですらいた。シロウの耳は千代と一子によって切り落とされたのだと知り、どうしても許せないのだった。抗うすべを持たないシロウに対して残虐な行為に及んだ女を愛することなどできるわけもなかった。

「家族を監禁するなど、恐ろしく野蛮で卑劣なことです。何をしでかすか分からない狂人ならば閉じ込めるのも止むを得ないですが、シロウ様のようにおとなしいお方を閉じ込めておくなんて、あってはならないことでしょう」

 宍塚家の婿となって発言権を得た清治は毅然と意見を述べ、一子や千代の反対を押し切り、シロウを部屋から出した。さすがにシロウの姿を世間の目に晒すわけにはいかないので、決して敷地外には連れ出さないが、人目につかない庭の片隅には出して遊ばせた。明るい日光と新鮮な空気を得たシロウは以前より顔色がよくなり、表情もずいぶんと明るくなった。

 清治は正三郎の右腕として働くようになり、家を空けていることが多くなった。在宅時はほとんど常にシロウの相手をしているため、夫婦水入らずの時間を満足に持てない一子は不満を募らせていた。

 シロウの存在がひどく疎ましい。一子は結婚前とは比べ物にならないほど強く思うようになっていた。シロウという奇妙な存在が自分の結婚に差し障るかもしれないと心配していたが、まさかこんな形で影響を及ぼしてくるとは思ってもみなかった。

 一子の悩みはシロウと清治の問題だけではない。結婚して一年以上が経つが、まだ子供ができないことも大きな悩みだった。子供ができたら清治もシロウばかり構っていずに、妻子を一番に愛するようになるだろう。そういう思いから一子は一日も早く子供がほしいのだが、なぜか実を結ばないのだ。まだたった一年が経ったところにすぎないし、若いのだから焦る必要はないと自分に言い聞かせる一方で、何かがおかしいのではないかと感じていた。このまま子供ができないまま、ずるずると時だけが過ぎ去ってしまうような気がしてならない。子供を産めない女など、清治や世間はなんと思うか。考えるだけでもひどく憂鬱になるのだった。

 千代も娘がなかなか子宝に恵まれないことが気にかかっていた。自分自身は結婚して間もなく身ごもったため、なぜ一子はすんなりといかないのか、もどかしかった。

 そんな折、千代は従妹の巴から子供が生まれたという報告の手紙を受け取った。前の子供は生まれてすぐに命を落としてしまったので、今回生まれた子は丈夫に育つよう、占い師の松浦野枝に名前を決めてもらうという。

 それだ、と千代は思った。自分たちもまた松浦野枝を頼ればいい。一子が子供を授かるにはどうしたらいいのか、彼女に占ってもらうのだ。三年前、病に倒れたせつは野枝の占いのおかげで奇跡のように回復した。彼女の能力は本物に違いないので、今回もきっと助けてもらえるだろう。

 千代と一子は期待に胸を膨らまし、横浜に出かけた。

 二人を迎え入れた野枝は早速自動書記による占いに取り掛かった。目をつぶり、居眠りでもしているかのような姿で迷いなく文字を綴る。母娘は神聖なものを拝むような心持ちで息を殺し、野枝を見つめていた。

 自動書記が終わり、野枝の家を後にした母娘はすぐに彼女から受け取った紙を開いた。これから巴の家を訪ねるところだったが、とてもそれまでは待てなかった。頭を寄せ合って紙を覗き込み、黙読したあと、母娘は顔を見合わせた。

「嫌だわ。そんなもの、絶対に食べたくない……」

 一子は嫌悪感をあらわに眉を顰めた。

「でも、そうしなきゃ子供はできないと書いてあるよ。せつだって占いに従ってあれの肉を食べさせたらすぐに快方に向かったのだから、一子もきっと良い結果が出るはずだよ」

「でも……」

 子供を授かる方法は明確に示されていたが、その方法は一子にとってかなり気が進まないものだった。

 それでも一子は自宅に帰り着く頃までには心を決めた。子供を授かるためならばどんなことでもやってみせよう。

 清治が遅くまで帰らない日を狙い、一子と千代は医者を呼んだ。

「これは見ての通りの片輪者でございます。見た目がひどく奇妙なだけではなく、頭も大変弱いのでございます。じきに大きくなってあちらの方に興味を持つと大変なことになってしまいますでしょう。だから小さいうちに取ってしまうべきだと存じますの」

 じきに大きくなる見込みのないシロウを医者に突き出し、千代は憂鬱そうに言った。

 シロウは怯えていた。母の言葉は婉曲的でほとんど理解できないが、これから何かされるということは確かなようだ。以前、耳を切り落とされた時のように恐ろしい目に遭わされるのかもしれない。今すぐに清治が帰ってきてくれないものかと、シロウは願った。せつはシロウに同情的ではあるが、千代に絶対服従しているので、助けてはくれない。シロウを庇ってくれる者はこの世で清治しかいないのだった。

 夜遅くに清治は帰宅し、一人で食事をとった。帰りの早い日はシロウと共に食事をし、入浴をするが、今夜はもう眠っているだろう。

「これは何ですか?」

 出された食事の中に見慣れぬものがある。小皿に盛られた薄桃色の刺身のようなもの。清治は手をつける前に一子に訊ねた。

「それは兎の睾丸のお刺身。私もいただきましたけれど、とてもおいしかったわ」

「兎の……そんなものどうやって手に入れたのですか」

「先日、お母様と一緒に横浜の占い師のところに行って参りましたでしょう。それで、子宝を授かるには夫婦で兎の睾丸を食べるといいという結果が出ましたの。兎は次から次にたくさん子を産みますものね。その力にあやかるというわけですわ。ほら、あなたも残さず召し上がって」

 清治の問いには答えずに一子は刺身を勧めた。そんな馬鹿げた占いを本気で信じているのだろうかと、清治は妻の良識を疑った。確かに兎は繫殖力が強いが、その生殖器を食したからといって子供ができるなんて、まるで土人の発想だ。女ながらに一子は自分よりもかなり高い教育を受けてきたはずだが、所詮迷信深い田舎者に過ぎないのだろう。軽蔑しながらも清治は刺身を口にした。占いについては全く信じられないが、出されたものは文句を言わずに完食するつもりだった。

 きっと生臭いだろうという予想に反し、刺身は何の臭みもなかった。臭みがないどころか、ほのかにジャスミンのような快い風味があり、非常に美味だった。

 翌朝になってシロウの部屋を訪ねた清治は、昨日シロウが受けた仕打ちを知り、同時に昨夜出された刺身の正体を知った。あのジャスミンの風味がする刺身は兎の睾丸などではなく、シロウの身体の一部だった。清治は憤怒に突き動かされるがまま、妻と義母のもとへ向かおうとした。

「待て、清治」

 青い顔で臥せっていたシロウは慌てて体を起こし、引き留めた。

「止めないでください。俺はとても我慢なりません……」

 固く握り締めた清治の拳は大きく震えている。こんな状態の清治を家族のもとへ行かせたら大変なことになるだろうと、ものを知らないシロウでもはっきりと分かった。大柄で力の強い清治が手を上げたら、彼女たちはひとたまりもないだろう。

「眠らされているうちにされたことだから、痛くないんだ。だから大丈夫……そんなに怒らないでくれ。もしおまえが一子やお母様に手を上げたら、この家を追い出されかねないじゃないか。そんなのぼくは嫌だ。頼むから行かないでくれ」

 シロウの説得によって、清治はどうにか暴走せずに済んだ。だが、この件によって元から親密とは言い難かった夫婦の仲は完全にこじれた。清治は一子と必要最低限の会話しかしなくなり、二度と触れようとしなかった。一子は暴力を振るわれたわけでも罵られたわけでもないが、清治の冷たさに打ちのめされた。

 それでも表面上はまだ夫婦としての体裁は保っているため、毎晩同じ部屋で就寝する。一子が最もつらいと感じる時間は二人きりになるこの時だった。そっけない清治の態度に傷つきながらも目を閉じるが、頭の中では思考がとめどなく巡り、眠りは訪れない。まだ私は若く、子供もいない。それなのに夫に見限られ、この先ずっと何の喜びもない人生を送らなければならないのかもしれないのだ。こんな仕打ちはあんまりだ。これでは女として生まれてきた意味がないではないか。耐えきれずに一子は嗚咽を漏らすが、すぐ隣にいる清治は声をかけてくれもしない。

 夫婦関係がこうも悪くなってしまったからには、子供なんて授かりようもない。一子は絶望していたが、思いがけず身体に変化が訪れた。それは妊娠のしるしに他ならず、おそらくはシロウの睾丸を口にした日に実を結んだ子だった。

 一子が大きな喜びの中にある一方で、清治は冷めきっていた。これから自分の子が生まれるというのに、一切の喜びがないどころか、不快ですらあった。一子の腹の中で自分の子供が育まれているのだと思うと、言い知れぬ嫌悪感がこみ上げてくる。

 時が満ち、一子が産気づくと、宍塚家は期待と不安の入り交じった雰囲気に包まれた。お産が何かもまだ分かっていない幼い者にまで家人らの緊張が伝染し、神妙にしていた。

 清治とシロウは庭に出るため、産室の前を通りかかった。一子は清治がすぐそばを通り過ぎてゆくのを感じ取ったかのように、いっそう大きな苦しみの声を上げた。ただならぬ声にシロウは驚いた。シロウは一子が今まさに出産に挑んでいることを知らされていなかった。

「清治、今のはなんだ?」

「さあ、何でしょう」

 しらばくれた清治はシロウを抱き上げると、足早にその場を立ち去った。

 長い苦しみの果てに一子はやっと産声を聞いた。数分後、産声は再び上がった。子供は一子とシロウと同じく、男女の双子だった。女児の方はどこにも問題はないごく普通の子といえた。一方、男児は普通とは言い難い姿をしていた。その姿はシロウが生まれた時とそっくりなのだった。皮膚は透き通るように白く、わずかに生えている髪もよく見れば確かに白金色である。むくみが引いて目を開けた時、その瞳はやはり赤かった。

 物心ついた頃から毛嫌いしてきたシロウと同じ特徴の子供を産んでしまった。一子は強い衝撃を受けると共にシロウを呪った。シロウと似た子が生まれてしまったのはシロウのせいであるように思え、憎くてたまらなかった。

「なんてことだろう……」

 悔しさのあまり千代は震えた。孫の代までイオの影響が及ぶなんて、悪夢でも見ているかのようだった。

「早速、乳母を探しましょう。たくさん必要でございますもの」

 一子や千代よりも先に運命を受け入れたせつが呟く。シロウの例からして、赤ん坊が乳離れするまでに何人もの乳母が必要となる。

 一惠と名付けた女児は一子が手ずから育てた。男児の方は世話を任せられたせつの手で今回も存在を隠すように育てられた。やはりシロウの時のように乳母探しは苦労した。地元では宍塚家で雇われれば命が危ないと誰もが知っているため、わざわざ遠方に人材を求めなければならなかった。雇われた乳母たちは母乳だけではなく精気まで吸われ、衰弱してゆく。乳母の命が尽きる前に暇を出し、どうにか死者を出すことだけは回避した。なんとか乳離れが済み、今度は女よりも長持ちする男を与えようと思っていた頃、せつが木に縄をかけ、首を縊った。

 誰よりも頼りにしていたせつが自ら命を絶つなんて、千代には受け入れ難い出来事だった。確かにこの頃のせつは憂鬱そうで、体調不良を訴えて寝込んでいた。以前に彼女は大病を患っていることもあり、心配した千代はすぐに医者を呼ぼうとしたが、せつはそれを頑なに拒んでいた。

「ご心配をおかけして申し訳ございません、千代様……。でも、頭が痛いわけではないので、以前と同じ病気ではないことは確かでございます。それに熱が出るわけでも咳が出るわけでもない……ひどく漠とした具合の悪さなのでございます。お医者にとっては病気とも呼べないような有様でしょうから、診ていただくだけ無駄でございましょう」

 そう言ってせつは部屋に籠っていた。千代はせつに個室を与えていたが、彼女はいつもむせかえるほどの香を焚き、部屋の中には煙が充満していた。

「こんなに煙をもうもうとさせていてはよけいに気分が悪くなってしまうのではないの?」

「むしろ、このお香が気分の悪さを和らげてくれるのでございます。私には何よりの薬なのです」

 しかつめらしい顔でそんなふうに言うものだから、千代はそれ以上何も言えなかった。

 縊死したせつの遺体が降ろされると、千代は泣きながら彼女に縋りついた。その時、思いがけず彼女の身体からはひどい腐敗臭がした。命を絶ってからまださして時間は経っていないのにもかかわらず、すでに何日も経っているかのような臭いだった。

 せつの死は一子にとっても大きな痛手だった。生まれた時から共に過ごしてきた身近な存在が自殺だなんて、ひどく堪えた。自分が落ち込んでいても清治が慰めの言葉一つかけてくれないこともまた嘆かわしかった。清治は相変わらず一子に冷たく、さらには我が子に対しても冷淡なのだった。彼の心はシロウにしか向かず、妻子には目もくれない。

 少しは子供に構うようにと一子からうるさく言われても、清治は聞く耳を持たなかった。今の自分に残された時間はわずかで、愛してもいない子供なんぞに構っている暇はないのだ。支那との戦争はもう秒読みだろう。戦争が始まれば召集がかかる。

「もう少ししたら、一緒に楽園に参りませんか? 誰にも内緒で……奥様にも一子さんにも秘密で、二人だけでこっそりと行くんです」

 檜の浴槽を備えた浴室でシロウの髪を洗ってやりながら、清治は言った。シロウは洗髪されるのが好きなので、清治はいつも入念に頭皮を揉んでやる。

「らくえん?」

 うっとりと目をつぶって洗髪の心地良さに浸りながら、シロウは訊き返した。それは聞いたことのない言葉だった。

「そう、楽園です。いつでも花が咲き乱れている素晴らしく綺麗な場所で、そこに辿り着けたら永遠に楽しく暮らしていけます。つらいこと、醜いもの、汚いものは一切なくて、常に心からの幸せを感じられる場所なんです」

「それはなんて良い場所だろう。どこにあるんだ? 遠いのか?」

「遠いようですが、行こうと思えばすぐに行ける場所です」

「すぐに行ける場所にそんなところがあるなんて思わなかった。ぼくは庭までしか出たことがないから、外に何があるのか何も知らないんだ。でも、そんなに良い場所ならいつでもたくさんの人がいるのだろう? ぼくは人に慣れていないから、人がたくさんいたら怖い」

 楽園にはひどく心惹かれる一方で、シロウは不安を感じずにはいられなかった。

「その心配はありません。楽園とは人それぞれにあるのですから。シロウ様と俺の楽園には二人以外誰もいませんよ」

「それならよかった」

「楽園には怖いものなんて何一つないのですよ。でも、シロウ様のお好きなものならばなんでもあります。チョコレートなんかのいろいろなお菓子も、こうして俺が頭を洗って差し上げるための風呂も。それから、黒豆もそこにいるはずです」

 清治に懐いていた野良猫の黒豆だったが、とうに姿を現さなくなっていた。結局、一度も会えずじまいだったシロウはたいそう残念がっていた。

「ぼくの好きなものだけじゃなくて、清治の好きなものもあるといいのだけれど」

「もちろん、ありますとも。おいしいコーヒーやブランデーなんかがいくらでもあるはずです」

 清治が以前仕えていた主人は美食家で、特に西洋料理、洋酒、コーヒーを好んだ。珍しいもの、美味なものを使用人にも分け与える気前の良い人物で、清治はとりわけ彼に気に入られていたために、いろいろな味を知った。上質なコーヒーやブランデーの芳醇な味わいには特に衝撃を受け、忘れられずにいる。

「それならよかった」

「そしてシロウ様と俺は綺麗で快適な家に暮らすんです。広く張り出したカバードポーチにブランコが吊るしてあって、二階にはバルコニーがありますよ。家の近くには水遊びができる流れの緩やかな小川が流れていて、甘い実のなる果樹がたくさん植わっていて――それから庭にはハゴロモジャスミンがいつでも咲きにおっているでしょう」

 清治の頭の中には東京にいた頃に見た西洋風の家が浮かんでいた。近所でも評判の美しい家だったが、庭は雑草がのさばりがちで、貧弱な木が二、三本植わっているだけの粗末なものだった。清治はその家の前を通りかかるたびに、家とつり合いが取れるような美しい庭にしたくてうずうずしていた。

「早くそこに行きたい」

 シロウは待ちきれない思いで呟いた。カバードポーチもブランコも小川もどんなものかは分からないが、きっと素晴らしいものに違いない。

 夏になると支那事変が勃発し、出征者が続出した。清治のもとにも召集令状が届いた。

「清治お義兄様!」

 赤紙が届いたあとも普段と変わらず庭で草むしりをしている清治のもとに、絹子と繭子が駆けてきた。

「この家から出征者が出ることが本当に嬉しいわ。お義兄様は私たちの誇りです」

「私たちは女だから戦えないことが悔しくてならなかったの。でも、私たちの代わりにお義兄様が敵を斃し、お国を守ってくださるのだわねぇ」

 少女たちは興奮気味に言う。日本中の少年少女同様、彼女たちはすっかり軍国少女に仕立てられていた。戦時には質素倹約が当然の義務であるという風潮に合わせ、地味な古着に着替え、ほつれないようにきつく編んだお下げ髪をしている。二人とも将来の夢は看護婦で、命がけでたくさんの日本兵を救うのだと意気込んでいる。清治はかつて使用人だった頃を懐かしく思った。幼い彼女たちは清治を無邪気に呼び捨てにし、綺麗な着物をまとい、髪に結んだリボンを蝶のようにひらひらとさせて遊んでいた。あの頃の幸福な女の子たちは一体どこへ行ってしまったのだろう。

「俺が行ったら、庭の世話をお願いします。見てください。今は立葵が盛りで、見事に咲いているでしょう」

 軍国主義なんて吐き気がするほど嫌いな清治は話題を変え、近くの立葵の茂みを指さした。強い日差しを浴びて咲く鮮やかな大輪の花はいかにも夏の花らしく、清治の気に入っている花の一つだった。

「観賞用の花なんて、この状況の下では最もどうでもいいものの一つだわ。見た目だけで食べられもしないのだから」

 軽蔑の情を隠しもせずに絹子は言った。

「私たち、なるべく早くこの庭を菜園にしてしまいましょうってお父様に話したところなのよ。お百姓たちも戦争に行くでしょう。労働力が減れば作物の収穫量も減ってしまう。だから私たちも畑仕事をお百姓任せにしていないで、自ら鍬を持つ必要があるのだわ。畑仕事だなんて本来宍塚家の娘がやるべき仕事ではないけれど、今は国民が一丸となってやれることはなんでもやらなければならない時なのだから。庭なら家から出てすぐに畑仕事ができるから便利だわ。これだけ広さがあればかなりの量が収穫できるでしょうし」

 得意げに繭子は言った。

「そうですか……たくさん収穫できるといいですね」

 少女たちが行ってしまうと、清治は再び黙々と草をむしり始めた。

 清治は軍国主義に染まり果てた国家の方針に従うつもりは毛頭なかった。親兄弟や親しい友にも打ち明けたことはないが、戦争など愚の骨頂だと思っていた。清治は徴兵検査に合格後、くじ逃れの幸運も掴めずに兵役に服し、満期除隊している。それだけでも不快極まりない経験ではあったが、実際に戦地に赴き、命を賭して戦えと命じられるのはあまりにも業腹だった。なぜ国家の権力者たちが勝手に始めると決めた醜い争いごとに自分も強制的に参加させられなければいけないのか。国民の多くは支配者たちの手駒として利用されることに何の疑問も持たず、国のために戦うことは名誉であると信じている。清治は不思議でたまらなかった。ちらとでも国家に対して疑問や不満を見せれば非国民と叩かれるが、なぜ彼らはそんなにも盲目的に国家主義に傾倒することができるのだろう。

 血肉をそなえた一人の人間であるはずの天皇を神として崇め、皇国が臨む戦争は聖戦であり、決して負けるはずはないなんて、清治には理解し難かった。一体どんな根拠をもってそんな価値観が成立しているのか、全くもって解せない。まるで子供の荒唐無稽な空想を日本中のいい大人たちが真剣に信じているようで、気味が悪い。

 どうしても戦争がしたいというのならば、せめてやりたい連中だけで勝手にやってくれればいいのに、と清治は思う。戦争を望む者たちだけが誰にも迷惑のかからないどこかの無人島にでも集まって、好きなだけ殺し合えばいい。

 庭仕事に一区切りつけた清治は出かける支度を始めた。汗で汚れた顔を洗い、ついでに今朝剃ったばかりの髭も剃り直した。着古した野良着を脱ぎ、新しく仕立てたばかりの麻の着物に着替え、袂に懐中時計を忍ばせた。以前仕えていた主人から賜った大事なもので、これだけは持ってゆきたかった。

 自分の支度を済ませたあとはシロウを着替えさせた。水色のショートパンツはせつが洋裁の心得がないながらも見よう見まねで仕立てたものだが、白いブラウスと小さな靴は姉妹からのお下がりだった。シロウの服は寝巻から遊び着まで姉妹からのお下がりばかりである。この白いブラウスにはリボンの飾りと花の刺繡が施されていたが、綺麗に取り除き、すっきりとした無地となっていた。

 支度を終えた二人は誰にも気づかれることなく、屋敷の裏手にある森の中へと入っていった。

 生まれて初めて屋敷の敷地外に出たシロウははしゃいで森の小径を歩いたが、足が弱いため、長くは歩けない。シロウが疲れてくると清治が背負って歩いた。清治の背中でシロウは深い喜びに浸っていた。木々は強い日差しを遮り、清々しい香気を振りまいている。時折風にざわめく枝葉の音が心地よい。

 清治は愛らしい野生の花や奇妙な形の茸を見つけるたび、立ち止まってシロウに見せた。野苺の群生を見つけると、摘んで食べた。宝石のような赤い実を自らの手で摘んで口にする楽しさと、甘酸っぱい素朴なおいしさにシロウは心から満足した。

 どんどん森の奥深くに進み、屋敷から離れてゆくほどにシロウの喜びは増してゆき、思わず涙ぐんでしまうほどだった。シロウを背負ったまま清治は歩き続ける。日が傾きかけた頃、ようやく森の小径を抜けた。

 不意に目に飛び込んできた光景にシロウは息を呑んだ。そこにはまばゆい夕陽を受け、金色にきらめく湖が広がっていた。

「シロウ様、長い散歩にお疲れでしょう。疲れがよく取れる薬をお飲みください」

 シロウは勧められるがままに薬を飲み、すでに楽園に辿り着いたような至福のうちに深い眠りについた。

 清治は袂に石を詰め、シロウと自分の身体を紐でしっかりと結びつけると、湖の中に沈んでいった。

 清治とシロウの姿が見えないことに気がついた宍塚家の人々は彼らを探し回ったが、見つけ出すことはできなかった。

「戦争に行きたくないあまり、清治は逃げたに違いない。あれがこんな腰抜けだとは思わなかった。やはり丁稚上がりの卑しい男など婿にするものではなかったのだ」

 娘婿の不名誉極まりない行動に正三郎は怒りに震えた。絹子と繭子を始めとした少女たちも英雄視していた義兄の裏切りに憤慨した。一子はというと、清治よりもシロウが憎くてならなかった。シロウこそが清治に逃亡を決心させた最たる要因であり、シロウさえいなければ彼は戦争に赴き、立派に手柄を立てたに違いないと信じて疑わないのだった。

 ある朝、目覚めてすぐに千代は異臭を感じた。吐き気を催すような腐敗臭である。

「ねえ、起きてください。なにか嫌な臭いがしませんこと? どこかで鼠でも死んでいるのでは……」

 千代はまだ眠っている夫に声を掛けた。ここまで強い臭いを発しているということは、かなり腐敗が進行しているだろう。なぜ今まで気がつかなかったのだろうと、不思議だった。

「……ああ、確かに臭う」

 目覚めた正三郎は犬のようにあたりの臭いを嗅ぎ、原因を探り当てようとした。

「どこかしら。かなり強い臭いだからすぐ近くだと思うんですが」

 千代は押し入れを開け、上段も下段も覗き込んだ。それらしいものは見当たらない。

「おい、君……」

「えっ?」

 日頃、開ける機会が少ない天袋を確かめようと思った時、千代は驚いて振り向いた。いつの間にかすぐ後ろに正三郎が立っており、その顔には困惑と嫌悪が入り混じった奇妙な表情が浮かんでいた。

「どうも、臭いのもとは君のようだ」

 千代は口を半開きにし、言葉を失った。

 部屋から正三郎を追い出した千代は自らの身体を確かめた。寝巻を脱ぎ、鏡に身体を映すが、見た目には何の異常もなさそうだった。だが、腕を上げて脇下の臭いを嗅いでみると、ひどい臭いがした。さらに耳の後ろに指を差し込み、軽くこすってから指の臭いを嗅いでみる。やはり強烈な悪臭がした。

 千代は鏡に映る自らの姿を呆然と眺めていた。四十代半ばも過ぎたというのに、その姿はたいそう若々しい。白髪は一本も見当たらず、肌は白く滑らかだ。張りのある乳房や細く引き締まった腰は乙女と見紛うばかりで、どんなに婦人の診察に長けた医者でも八人もの子供を産んだとは見抜けないだろう。まさに年齢からは考えられないような瑞々しさだが、このひどい体臭はどういうわけか。まるで表面だけは綺麗で、内側はドロドロに腐っているかのような有様だ。

「ああ、せつ……」

 千代はせつの遺体の臭いを思い出した。あの臭いはいつまで経っても忘れられない。彼女は死後間もないのにもかかわらず、強い腐敗臭がした。今の自分と全く同じ臭いだ。

 せつは死んでから臭いを放ち始めたのではなく、生きている時点ですでに臭っていた。それを隠すために部屋の中が煙たくなるほど香を焚いていたのだ。だが、いつまでも部屋に籠って誤魔化してはいられない。それで苦悩の末に首を縊ってしまった。

 おそらくはせつの死の原因に辿り着いた千代は、両手で顔を覆い、咽び泣いた。

 戦争が長引くにつれて食糧不足は深刻になり、戦前の豊かさが嘘のように宍塚家の食卓も貧しいものとなっていった。

 本土への空襲が本格化してきた頃、千代は一子の産んだ双子のうちの男児の腕を切り落とし、食らうことに決めた。男児はシロウと同じく人間離れした特徴を有しているため、きっと彼の肉も健康長寿の効果があるに違いないと考えたのだった。幼い一惠は栄養不足で虚弱であるし、他の家族も皆飢えていた。この状況で一家が健やかに生き延びてゆくためには、八尾比丘尼が食した人魚の肉ならぬ白と赤の子の肉がどうしても必要だと判断したのだった。それにシロウの肉の味を知っている千代と一子は再びあの美味を口にしたくてならなかった。慢性的な空腹が続く中、戦前は口に出来たご馳走の数々が恋しくてならないが、何よりも求めてやまないのは白と赤の子の肉の味なのだった。

 千代は貴重な肉を自分と娘たちと孫娘だけで分け、正三郎には与えなかった。正三郎を嫌っているわけではないが、自分と娘と孫が食べる分を少しでも多く確保するために彼を疎外した。

 肉の味は素晴らしく、千代たちは我を忘れて骨までしゃぶった。しゃぶったあとの骨さえ惜しく、無味になるまで何度も煮出して汁をすすった。虚弱だった一惠は見違えて元気になり、千代たちも活力を取り戻した。やはり男児の肉はシロウの肉と同じ効果があるのだと確信した千代たちは、その後も少しずつ男児の身体を切り取り、食してゆくことにした。

 家族らはあえて男児を普通の人名では呼ばず、宍童子と呼ぶようになった。宍塚という苗字の宍の字は、食すために存在する子供の呼び名に用いるにはお誂え向きだった。その呼び名は彼があたかも人ならざる存在であるかのように錯覚させ、食人への罪の意識を薄れさせるのに役立った。

 終戦を待たずして正三郎は病死した。正三郎には長い間寛解状態を保っていた持病があったが、栄養不良をきっかけに悪化したのだった。

 やがて玉音放送が敗戦の事実を告げた。敗戦は宍塚家から農地改革という名目で広大な土地を奪い去った。大地主という立場を失いながらも、宍塚家にはまだいくらかの先祖譲りの財産や正三郎の遺産はあったので、それを元手に基礎化粧品会社を立ち上げた。千代を筆頭とした宍塚家の女たちの驚異的な若々しさが何よりの宣伝効果を発揮し、売り上げは好調だった。

 一子の妹たちは結婚しても家を出なかった。彼女たちは夫を実家に住まわせ、彼らを宍童子の餌とした。餌として人を攫ってくるのはリスキーな犯罪行為であるが、夫を用いればその問題は解決できる。だが、清治のようにいくら精気を吸われても平気な者は滅多にいるものではなく、夫たちは衰弱し、やがて死に至った。

 成長した一惠は康夫と恋に落ち、結婚した。一惠は初めて康夫を見た瞬間から彼に激しく心惹かれた。まだ一言も言葉を交わしていないうちから、この男以外に自分の相手はいないと悟ったのだった。

 康夫は頑健な男で、清治と同様、宍童子に精気を吸われても衰弱しない稀有な体質だった。それを知った一惠は、自分が我を忘れて康夫を求めた理由はそこにあるように思えた。彼が宍童子の糧として最良であると本能的に見抜いたからこそ、彼を宍塚家に引き入れなければならないという使命感が無意識のうちに働いたのではないか。

 一惠の話を聞いた一子は、娘夫婦に自分と清治の関係を重ねずにはいられなかった。自分も清治と出会った頃、まだ何も知らない少女でありながら、彼の子供を産みたいと思うほど強烈に惹きつけられたのだ。

 結婚を祝し、新郎新婦は宍童子の睾丸を食した。一惠は間もなく妊娠し、男女の双子を産んだ。女児はごく普通の赤ん坊であるが、男児の髪は白金色で、瞳は赤かった。新しい宍童子が誕生したのだった。

 宍塚家に食人の習慣があることを知った康夫は驚きながらも受け入れた。康夫は美味なものに目がなく、味が良いものならばどんなゲテモノでも喜んで口にする。彼にとって宍童子は探し求めていた極上の珍味だった。

 一惠と康夫は次から次に子宝に恵まれたが、宍童子以外に男児は生まれなかった。宍塚家にはしきりに囀る小鳥めいた女の子たちの声が響くばかりだった。

「どうしてうちには宍童子以外は女の子しか生まれないのだろうねぇ」

 眠っている小さな曾孫の顔を覗き込みながら、千代は疑問を口にした。

「そうねぇ、お母様。私は宍童子と一惠しか産まなかったから参考にはならないけれど、お母様の子もシロウ以外は皆女だものねぇ。これはあまりにも男女比が偏り過ぎて、奇妙な感じがするわ」

 一子も千代と同じく不思議でならなかった。生まれてくる性別に偏りがある家系はままあるようだが、しかしいくらなんでも偏りが過ぎるのではないか。

「もしかして私たち、蜂みたいなものなのかもしれないわ」

 長女の一代の髪を梳かしてやりながら、一惠は言った。

「蜂って虫の?」

 孫娘の突飛な物言いに千代は小首を傾げた。

「お祖母様は蜂の生態をあまりご存知ないかしら。蜂の群れの中心には一匹の女王蜂がいるの。子供を産めるのは女王蜂だけで、あとの蜂には子供を産む能力はなく、労働力として群れのために尽くすのが役割なのだけど、その働き蜂たちは皆雌なのですって。まさに現在のうちの様子とそっくりじゃありません? 長女だけが女王蜂のように子を産んで、あとの娘たちは働き蜂が餌を運んでくるみたいに宍童子の餌である夫を家に引き入れる。叔母様方を働き蜂に例えるなんて嫌ですけれど、実際、叔母様たちは誰一人子宝に恵まれていないという点も、働き蜂と類似しているでしょう。それで、女王蜂はローヤルゼリーと呼ばれるとても栄養価の高い特別な餌を食べるのだけど、さしずめそのローヤルゼリーが長女の夫かしらと思うの。お母さんの夫――つまり私のお父さんは宍童子に精気を吸われてもなんともなかったというじゃない。そしてやっぱり康夫さんも宍童子に吸われても平気だわ」

「なるほどねえ……言われてみればずいぶんと蜂と似たところがあるようね。でも、全く同じというわけでもないね。ローヤルゼリーとやらを餌とするのは女王蜂だろう。うちの場合、ローヤルゼリーもとい精気を必要としているのは宍童子だからね」

 一子は娘の話に感心しながらも、蜂とは異なる点を指摘した。

「お母様、それはね、宍童子と長女は二人合わせて女王蜂の立ち位置になるというわけなのよ。共に生まれ落ちる双子なのだし、そう考えてもあまり不自然ではないのではなくて?」

「ちょっと無理があるかもしれないけれど、面白い考え方ではあるね」

 シロウと自分を二人で一つの存在と定義することへの嫌悪感から、一子は簡単には認めようとしなかった。

「とにかく、私はこの蜂の営みに似たうちの在り様は今後も続いていくんじゃないかしらって思うの。一代も将来は女王蜂として双子を産み、さらに働き蜂たる娘たちを産むってことね」

「それじゃあ、今後も宍童子がずっと生まれてくるというわけね。それはよかった。めでたいことだ」

 自分がシロウを産んだ時は絶望した千代だが、今では宍童子の存在を心から喜んでいた。

 四十代半ばを過ぎた頃、一子の身体は腐敗臭を放ち始めた。妹たちも相次いで同じ悪臭を放ち始めた。

 千代は娘たちの異変を受け、やはりそうなのだと確信した。自分やせつも現在の娘たちと同じくらいの年頃に体臭が変化した。つまり、この体臭の変化は宍童子の肉を食らった者が中年期ないし更年期を迎えた時に現れる症状なのだろう。

 千代は今まで忌々しい体臭をデオドラントや香水で誤魔化し続けてきた。娘たちも母に倣うしかなかった。

「臭いなんて隠そうと思えば隠せるのだから、そんなに気にすることないんだよ。でも、老いは隠せないのだから悲惨だね。私の同年代の人たちはもうすっかりお婆さんだけど、私はまだこんなに若くて綺麗で元気だもの」

 若さへの執着が甚だしい千代は、若さを保てているのならば体臭なんてさして問題ではないと開き直っていた。少女時代、老耄ゆえの狂気にとりつかれた祖母や、加齢によって容色が衰えた親戚の女にショックを受けて以来、千代は過剰なほど若さに固執し続けていた。

 体臭という副反応は確認されたものの、それでも彼女たちの中で宍童子に対する食人行為に難色を示す者はいなかった。若さと健康、そして宍童子の肉の美味を思うと、決してやめられないのだった。彼女たちは宍童子の肉を口にできなくなってしまう日がくることを非常に恐れた。だから一惠の娘たちには物心つく前から肉を与え、その味の虜にさせ、食人習慣と次世代の宍童子を絶やさないための協力者に育て上げた。

 一惠の予想通り、一代は夫との間に男女の双子をもうけた。やはり男児は宍童子としての特徴をそなえていた。一美と名付けられた女児は健やかに育ち、やがて下の娘たちも生まれた。

 一代が産んだ宍童子が満七歳を迎える頃、一惠が産んだ旧い宍童子を屠殺することにした。七歳という一つの節目を記念する意味もあるが、もはや旧い宍童子は屠って食らうしかない状態だった。すでに四肢、両耳、性器を食らい尽くしていたため、これ以上生かした状態で食える部位が残っていなかった。

 屠殺にあたり、敷地の外れに草庵風の小さな建物を建てた。

「これで母屋のお勝手を汚さずに済むねえ」

 千代は喜んで新しい離れの中を見まわした。

 小さな宍童子といえども、捌く際にはかなりの量の血が流れる。だから宍童子を調理するための場所が必要だと思い、思い切って屠殺と調理に特化したこの離れを建てたのだった。

 血で汚れても洗い流せるように土間を広く取り、大きな流し台、調理台、竈を備えつけた。交友関係の広い康夫がどこかからか譲り受けてきた古い大釜もあった。石川五右衛門も処された釜茹での刑に用いられたものだという。本当に刑に用いられたものかどうかはさておき、宍童子はもちろん、大の大人さえ丸茹でにできそうな大きさだった。

 八十年代の好景気の波に乗り、宍塚家が経営する会社も大きく飛躍した。宍塚家は屋敷を増改築した。宍塚邸は明治初期に建てられた歴史ある屋敷で、今まで大事に手入れし、修繕を加えて住み続けてきた。その屋敷に渡り廊下で繋げた洋館を併設したのだった。

 昭和から平成に時は移ろい、バブルが崩壊した。宍塚家が経営する企業もかなりの痛手を受けたが、新しく発売した美容サプリメント『セントピュア』が窮地を救った。培養した宍童子の細胞を配合したそのサプリメントは逸出した美容効果が話題となり、生産が追いつかないほどの売れ行きで莫大な利益をもたらした。かつて広大な土地と養蚕によって栄えていた宍塚家だが、その頃をも凌駕する栄華を手にしたのだった。

 一美の夫の芳秋は食人行為を受け入れられず、宍童子の死に絶望して死を選んだ。それでもなんとか宍塚家の跡取りたる長女と新しい宍童子は誕生している。彼は自殺という世間体の悪い行為で宍塚家の名誉を傷つけはしたものの、それでも最も重要な役目だけは果たしてからこの世を去ったといえた。

 千代は大変若々しく矍鑠としていると評判の長寿となった。百歳を迎えた際、地元新聞社の記者がやってきて、千代に若さと元気の秘訣をインタビューした。

「やっぱり、食べ物はとても大事ですわ。好き嫌いをせずに何でもいただくことが健康に繋がるのではないかしら。とりわけ大事なのはたんぱく質ね。身体そのものを構成する栄養素ですもの。だから私、この年になってもお肉はたくさんいただきますよ」

 百歳の老女とは思えないはっきりとした声で淀みなく話す千代に記者は驚き、素晴らしいですねと連呼した。

「このままお肉をたくさん食べ続けていれば、私は永遠に元気なまま生きられるのではないかと存じます」

 千代がいたずらっぽく微笑んだ時、記者の背筋に悪寒が走った。目の前の老女はにこやかで優しげだというのに、なぜか恐ろしい魔女と顔を突き合わせているかのような心持ちがしたのだった。

 宍塚邸を後にした記者は車を走らせながら、千代に感じた恐ろしさの正体について考えていた。あんなふうに嫌な気分になったのはなぜだろう。永遠に元気なまま生きられる――そう言った時の目つきのせいかもしれない。彼女は冗談めかせて言っていたが、しかしあの目は本気だった。そうだ、彼女はきっと本気だった。

 千代は本当に永遠に生き続けられるような気がしていた。肉体的にも精神的にもまだかなり元気なので、自分に死が降りかかるなんてどうしても思えないのだった。

 百十歳という超高齢が迫っても尚、千代は健康を保っていた。その日も杖にも頼らず自らの足で外出を楽しみ、帰宅した。今日はいつになく疲れたと思い、お茶でも飲んで一息つこうとした。

 お茶請けの饅頭をかじった時、突然口の中に硬い異物が出現したように感じ、目を丸くした。それは綺麗に生え揃っている自慢の歯が抜けたものだった。虫歯もぐらつきもない丈夫な歯であるはずなのに、なぜか柔らかい饅頭をかじっただけで急に抜けてしまったのである。それも一本や二本だけではなく、すべての歯が一気にボロボロと抜け落ちた。衝撃的な出来事に思考が追いつかないうちに、今度は頭皮の猛烈な痒みに襲われた。思わず頭に手をやると、髪の毛が指に絡みつき、ごっそりと抜け落ちた。

 抜け落ちた歯や髪は異変の始まりに過ぎなかった。千代は全身に激しい痛みを覚え、狂ったように悶え苦しむしかない数日間を過ごした。ようやく痛みが和らいだ頃には、千代の腰は大きく曲がってもとには戻らず、手足の指はあらぬ方向に捻じくれていた。眼鏡にも頼らずよく見えていた目はどんよりと濁り、視界は濃い靄がかかったようにぼやけた。一切の弾力を失った皮膚は鶏の肉垂のように垂れ下がり、毛穴からは強烈な臭気を放つ体液が絶えず滲み出るようになった。いくら入念に身体を洗っても、洗うそばから体液が滲んでくるので、きりがない。

 すべての歯を失った口内には新しい歯が生えてきた。人間の歯は乳歯から永久歯に一度だけ生え変わる二生歯性であるが、その性質を無視して新しい歯が生えてきたのである。だが、それは見るからに人外めいた異様な歯だった。すべての歯が尖っており、とりわけ犬歯は長く鋭く伸び、口内に収まりきらないほどだった。鋭い牙をそなえたおそろしく醜い顔。それは人食いの悪鬼そのものだった。

 変化は外見だけにとどまらず、千代は常時ひどい空腹感に悩まされるようになった。腹がはち切れそうになるまで食べても満たされず、涎を垂らしながら四六時中食べ物を求めた。冷蔵庫や戸棚の中身を食いつくしても食欲はおさまらず、しまいには家族に襲いかかって捕食しようとまでした。やむを得ず、宍塚家の者たちは彼女を牢の中に閉じ込めた。



 地下室には腐臭が立ち込め、牢の中では化け物めいた老婆たちが唸っている。異様な状況下で陽介と一花は対峙していた。

「宍童子の肉を食べてしまったら、将来このようになるのよ。それでも私たちは宍童子を食べ続ける。一度あの肉の味を知ってしまったらやめることなんてできないもの。若さと健康長寿という恩恵も捨てがたい。だから私たちは絶やすことなく宍童子を生み出し続けるしかないの。同時に私たちは諦めずに研究を続けている。とことん宍童子を研究して、将来の副作用を克服する方法を見つけ出そうとしているの。運命に抗うため、それはもう必死に研究しているのよ。研究が実を結べば、本当に健康なままでうんと長生きできるはず。もしかしたら不老不死だって夢じゃないかもしれない。研究のためにも、宍童子はどうしても必要なの。だから陽介くん、あなたはそれを諦めて。それの犠牲は陽介くんにとっても必要なものなのだから」

「駄目だ。宍塚家は芳やこの子に本当に酷いことをしてきた。これ以上罪を重ねないでくれ……!」

 陽介は懇願するように言った。宍童子の真実を知るまでは心から愛していた一花に、これ以上残虐な行為を繰り返してほしくはなかった。

「陽介くん、ちゃんと現実を見て! 本当にこんなふうになったっていいわけ? 常に飢えたおぞましい化け物になって牢の中に入れられるなんて、私は耐えられないよ」

「そりゃあ、こんなふうになるのは嫌に決まっているだろう。でも、だからといってこの子を犠牲になんてできるものか」

「それは人間なんかじゃないわ。食べるために存在する家畜のようなものなの」

 あまりの酷い言いぐさに陽介は絶句した。倫理観に齟齬がありすぎて、とても話にならない。よくこんな相手と結婚したものだと自分自身の見る目のなさに呆れてしまうほどだった。

「……陽介くんの馬鹿。私の言うことを聞いてくれないなら、聞いてくれる気になるまで牢の中で頭を冷やしてもらうわ」

 説得ではどうにもならないと諦めた一花は壁にかけてあったテーザー銃を手に取った。他の者たちも刺股だの催涙スプレーだのを手に取り、陽介に迫ってきた。牢の中の老婆たちが脱走した際に使用することを想定して用意しておいたものだ。

 下手に抵抗すれば宍童子もろとも痛い目に遭わされるだろう。仕方なく陽介は追い詰められるがままに空いていた牢の中に入った。一花の手で牢の扉に鍵がかけられたのと同時に、ギィ……とかすかに軋んだ音がした。この地下室唯一の出入り口であるドアが開いたのだ。その場にいた者たち全員の視線がドアの方に集まった。

 男が部屋の中に入ってきた。全身に青白い光をまとい、輪郭はおぼろげで、顔かたちは判然としない。ただ、この男が人智を超えた存在であるということだけは誰の目にも明らかだった。突然の人ならざる者の出現に宍塚家の者たちが言葉を失っている中で、陽介はあの人だと思い至った。中庭で厚美の亡霊に襲われた際、助けてくれた男だ。

「我が妻や娘、そして義母や義妹たち。こんな醜い悪鬼に成り果ててしまうとは情けない」

 低い声が室内に響き渡る。その声に最も強く反応したのは牢の中の一子だった。忘れもしない。これは私の夫の声だ。彼を呼ぼうとするが、言葉は出ず、代わりに獣の咆哮じみた声が出た。

「そして我が子孫たちはなんと残虐非道な行為を続けようとしているのだろう。見た目はまだ人の姿を保っていても、中身は鬼だ。おまえたちは滅ばなくてはならない。もうすべてを終わりにしなければならない」

 男はそう言うと、音もなく姿を消した。同時に今しがた彼が入ってきたドアがひとりでに閉じたかと思うと、牢の錠がガチャッと音を立てた。それは鍵が開いた音だった。陽介と宍童子が閉じ込められている牢以外の施錠が解かれ、すべての老婆たちが中からまろび出てきた。老婆たちは涎をまき散らし、ゾンビ映画のゾンビさながらに自らの子孫に襲い掛かった。

 宍塚家の者たちは慌てふためきながらも応戦しようとしたが、持っていた武器はまるで役に立たなかった。テーザー銃や刺股は狙いを定めようとしている間に強い力で弾き飛ばされた。めったやたらに噴射した催涙スプレーは自らの粘膜を痛め、目も開けていられない始末だった。

「開かない!」

 一花はドアまで駆けてゆき、逃げ出そうとしたが、ドアは固く閉ざされていてびくともしない。

 逃げ場のない密室での捕食行為は容易なものだった。あちこちで悲鳴が上がり、老婆たちの血生臭い食事が始まる。陽介は牢の隅で宍童子を庇い、地獄のような光景を見せまいとした。

「お母さぁん!」

 母親を呼んで泣き叫ぶ一花の声が響き渡る。一花が襲われているところなのか、それとも一美が危険な状況なのか。陽介は振り返って確かめることはできなかった。

 老婆に馬乗りにされた一美を助けようと、一花は駆け寄った。だが一花は別の老婆に襲い掛かられ、腕に咬みつかれた。

「やめてぇーっ! 私、妊娠しているの。赤ちゃんがいるの。お腹に赤ちゃんがぁ……!」

 恐怖のあまり一花は必死に訴える。それはまだ陽介にも伝えていない自分だけの大きな喜びだった。そろそろ陽介の誕生日が近いので、その日の特別なプレゼントとして打ち明けようと思い、秘密にしていたのだ。

 老婆たちの視線が一気に一花に集まり、ぴたりと動きが止まった。

 身ごもっている子孫を襲い、食らうなんて、さすがに気が引けたのか。食欲に憑りつかれて我を忘れている鬼のような老婆たちにも、まだほんのひとかけらの人の心は残っていたのか。

 一花をはじめ、まだ生き残っていた宍塚家の者たちは心の底から安堵した。だが、老婆たちが静まっていたのはほんの一瞬に過ぎなかった。彼女たちは一斉に耳を聾する奇声を上げながら一花に襲い掛かった。

 宍塚家の長女の妊娠は即ち、宍童子を宿しているということである。一花の胎内に宿る素晴らしく美味な胎児を食らおうと、老婆たちは躍起になっているのだった。

 もう少しで一美の喉笛を食い裂くところだった老婆も標的を一花に切り替えた。絶体絶命の状況から脱した一美だが、最愛の娘が獰猛な化け物たちに群がられるという絶望的な光景を目にする羽目になった。

「一花ぁ!」

 半狂乱になって一美は老婆たちにむしゃぶりついた。だが老婆たちの膂力は常人離れしており、鬱陶しい蠅を払うかのような軽々しさで一美を弾き飛ばした。それでも一美はどうにか一花を助けようと、無我夢中で捕食者たちに向かっていった。

 一花の腹は鋭い牙によって裂かれた。老婆たちは我先にと傷口に手を突っ込み、子宮を引きずり出そうとした。腹の中を荒々しく掻き回される凄まじい感覚に、一花は絞り出すような断末魔の叫びを上げながら白目を剝いた。

 花の香りがする。不意に一花は気がついた。老婆たちの腐敗臭はいつの間にか消え失せ、あたりには甘い芳香が満ちている。

 一花は中庭に佇んでいた。現在の廃れた中庭ではなく、芳秋が管理していた頃の麗しい花の庭だ。爽やかに晴れた青空の下、色とりどりの花々がいきいきと咲き誇っている。

 ジャスミンの花のトンネルの前に芳を抱いた芳秋がいた。

「お……父さん……」

 震える声で一花は父を呼んだ。芳秋は一花を見つめ、優しげに微笑んだ。

 ああ、お父さんがきっと助けてくれる。一花は歓喜と希望に涙ぐんだ。生前は一度たりとも愛情を向けてくれなかった父だが、死が彼の憎悪を宥めてくれたに違いない。

 芳秋は愛情深い仕草で腕の中の芳をしっかりと抱き直したあと、一花に向かって軽く顎をしゃくってみせた。

「見てごらん、芳。おまえに酷いことをした一花が殺されかけている。一花だけではない。あいつらは皆、報いを受けるよ」

 優しい声とは裏腹の残酷さで彼は一花を絶望の淵に突き落とした。

 突如腹部に凄絶な痛みを覚え、一花は崩れ落ちるように地面に膝をついた。自らを抱きしめるように腹部に回した腕にぐにゃりとした生温かいものが当たる。それは血まみれの腹部から飛び出すはらわただった。

 一花は悟った。自分は今、息絶えようとしている。命の灯が消える刹那にこの不思議な時空に迷い込んでしまったのだ。

「たす……けて……」

「行こうか、芳」

 救いを求める一花を無視し、芳秋は花のトンネルの中へと歩き出した。芳秋に抱かれている芳は芳秋の肩の上から顔を覗かせ、無垢な仔兎めいた瞳で一花を見つめていた。

 腹を引き裂かれた一花の亡骸に老婆たちが群がり、臓物を貪り食っている。もう一美は一花を救い出そうとする気力もなく、床にへたり込み、ガタガタと震えていた。

 やがて宍塚家の者たちは皆、老婆たちに食い殺された。それでも尚老婆たちの食欲はおさまらず、今度は共食いをはじめた。壮絶な争いの果てに深手を負いながらも最後まで残った二人の老婆は、互いの身体にかじりつきながら果てようとしていた。

 長い間、陽介は牢の隅で宍童子を庇いながらうずくまっていた。きつく目をつぶり、牢の向こうで繰り広げられている現実から少しでも意識を逸らそうとしていた。腕の中のぬくもりだけが正気を保つための命綱であるように思えた。

 突然、ガチャッという音を聞き、陽介は恐る恐る振り向いた。牢の鍵が開いたのだ。扉が音もなくゆっくりと開いてゆく。牢の外は食い散らかされた死体の山だった。

 陽介は宍童子を抱き上げると、脱兎のごとく部屋を駆け抜けた。さっきまで固く閉ざされていた唯一の出入り口であるドアも開いており、その向こうの階段を駆け上がった。

 こんな恐ろしい場所にはこれ以上留まってはいられない。陽介はそのまま屋敷を出た。日の出の直前で空はうっすらと明るかった。

 ふと懐中時計のことが頭をよぎり、陽介はポケットに手を突っ込んだ。取り出した途端、手の中からパーツが零れ落ちた。蓋、文字盤、針、さらには中身の歯車やネジまですべてバラバラになっており、原形をとどめていなかった。

 生まれて初めて外に出た宍童子はしきりにあたりを見回していたが、やがて赤く染まった東の空を食い入るように見つめた。

「ああ、空が綺麗だな……あれは朝焼けと言うんだよ」

 さっきまでの修羅場が嘘のように夜明けのひと時は美しい。今しがた経験してきた惨憺たる出来事に陽介の精神は疲弊し、もう何も考えられず、宍童子と共にぼんやりと空を眺めていた。

 何かが飛んでいる。気がついた陽介は目を凝らし、それが何であるのか確かめようとした。最初は空に浮かぶ小さな点に見えた謎の飛行物体は徐々に大きくはっきりと見えてきた。どう見てもこちらに向かってきている。陽介は息を呑み、飛行物体から目を離せずにいた。

 ついに飛行物体は陽介と宍童子のすぐ近くまでやってきた。円盤型で、小型の飛行機程度の大きさをしている。SF映画で何度か見た光景だ、と陽介は思い、本当に円盤型をしているものなのだなと感心した。

「とうとう一人になってしまったようだね」

 明瞭な声が響く。幼い子供の声だった。

「誰なんだ?」

「空飛ぶ円盤が現れたんだよ。そりゃあ、君たち地球人がいうところの宇宙人に決まっているじゃないか」

 陽介の問いかけに子供の声は小馬鹿にしたように答える。

「宇宙人が何しに来たんだ」

 幽霊、宍童子、食人一族、異形の老婆――どれも信じがたいような存在ではあるが、今度はUFOが現れ、宇宙人が声を掛けてきた。もはや陽介はどんなあり得ないことでも起こり得る奇妙な夢を見ているような気分で、恐怖も戸惑いも感じなかった。

「ぼくの名前はイオといって、地球から遠く離れたエアという星から来たよ。宍塚陽介、君が連れ出したその子はぼくの子孫だ。どうやらその子のコロニーが滅んで独りぼっちになってしまったようだから、ぼくは迎えに来たんだ。本当はこの地球でもっと長く子孫を残し続けてほしかったのだけど、その子一人ではどうにもならないから、エアに連れていこうと思ったのさ」

 そうか、この子は宇宙人の子孫なのか。陽介は大いに納得した。宍童子は何かと人間離れした特徴が多く、ただの人間というには無理がある存在だ。

「でも、この子があんたの血を引いていると言っても、地球で生まれ育ったんだ。そのエアとやらの環境に適応できるのか?」

 陽介は第一に頭に浮かんできた疑問を口にした。エアに宍童子を連れてゆくといっても、放射線量、重力、酸素濃度、気温、食料、水質など、地球育ちの宍童子が耐え得るものなのか。

「地球とエアは環境がよく似ているから、心配は無用だよ。もうかなり昔から多くの地球人がエアにやってきているけれど、何の問題もないからね。それが何よりの安全の証といえるんじゃないかな」

 どういう理由で多くの地球人がエアにいるのか陽介には想像もつかなかったが、エアで地球人が何の支障もなく暮らせているという実績は重要だと思った。

「この子は今までずっと監禁されていたから、きっと何も知らないんだ。酷い虐待のせいで身体も不自由で、口も利けない。ちゃんと適切に面倒を見てくれるのか?」

 陽介はさらに問いかけた。いくらこのイオという宇宙人が宍童子の血縁者であり、エアの環境にも問題はないとしても、おいそれと引き渡すわけにはいかない。しっかりと宍童子の面倒を見てくれなければ困るのだ。

「そんなに心配なら、君も一緒に来るかい? どうやら君は素晴らしい精気の持ち主で、ぼくの子孫のお気に入りでもあるようだからね。客人として丁重にもてなすよ。エアは地球よりよほど快適なところだから、きっと気に入るはずさ」

 思いがけない提案に陽介はと胸をつかれた。宇宙人に誘われるがままに地球を飛び出し、よその星に赴くなんて無謀極まりないことだろう。何が待ち受けているか分からない完全なる未知の世界である。イオだって今のところは友好的な態度であるものの、腹の底では何を考えているのか分かったものではない。なにせ彼は宇宙人なのだ。宇宙人といえば地球人を攫って人体実験をする。あるいは身体に寄生して大暴れする。そんな恐ろしいイメージが数多のSF映画や小説によって刷り込まれているせいで、容易く信用する気にはなれない。

 とはいえ、ある意味ではかなり魅力的な誘いだった。なにせ陽介は現在、ずいぶんと厄介な状況に立たされているのだ。今後の問題を思うと非常に頭が痛い。まず、宍塚家の者たちの死や、人外と化した老婆たちの存在を警察や世間にどう説明すべきか分からない。宍童子の肉を食した結果がこれだと説明したところで、受け入れてもらえるとは思えない。どの遺体も咬傷と食い荒らされた形跡だらけで、陽介が手を下した形跡は一切ないのだから、陽介の犯行ではないということはすぐに明らかになるだろう。だが、それでも他に類を見ない怪事件の真っ只中にいた人物として怪しまれ続けるのは目に見えている。そんなふうに今後待ち受けているであろう問題を思えば、地球から立ち去り、エアに逃げ込むのは悪い選択ではないように思えた。

「……どうしたらいいと思う?」

 なかなか答えが出せない陽介は腕の中の宍童子に問いかけた。宍童子は片方しかない手で陽介の服をぎゅっと握った。一緒に行こう。そう言っているように陽介は感じた。

 陽介の心は決まった。地球を捨て、宍童子と共にエアに移り住もう。

「決めたよ。頼む、俺も連れていってくれ」

 陽介が願うと、上空の飛行物体からまばゆい光が降り注いだ。光を浴びた陽介は腕に抱いている宍童子ごと身体がふわりと浮き、そのまま上空に引き上げられていった。

 未知の世界への旅立ちは不安である一方で、陽介はせいせいした気分だった。愛していた妻と彼女の家族の本性を知り、そして彼女たちの破滅を見届けた。こんな散々な目に遭ったあとだから、はるか遠くの地で新しい人生を始められるのは、大きな救いに思えた。

 飛行物体は二人を内部に取り込むと、朝焼けの空に向かって飛び立った。



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宍童子 露木薄荷 @hakka0618

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