小話 雨の日の一時



 呪いで猫になってしまい、困っていることはいろいろある。


 例えば、歩幅が小さいから目的地に辿り着くまで時間が掛かる。ドアノブを捻ることができないのでドアが開けられない。たまに尻尾の存在を忘れて危険な目に遭いそうになる。などなど。


 数えたらきりがないが、その中でもシンシアにとって頭を悩ますものが一つあった。





「ユフェ様、最近厨房に来てくれないと思ったらやっと来てくれたんですね。私、ずっと首を長くして待っていたんですよ!」


 祈るように手を組んで歓喜の声を上げるのは、厨房で働いている料理人だ。彼女からはロッテからご飯をもらえない時に何度も助けてもらった。


「ミャウゥ」


 自分も会いたかったと鳴いてみせると、彼女は感激した様子で瞳をキラキラと輝かせる。


「嗚呼、どうしてこんなにも可愛いんでしょう!! 明日三時のおやつに蜂蜜がかかったパンケーキを作っておくので食べに来てくださいね」


 パンケーキという魅惑的な響きにシンシアの尻尾はピンと上に立った。


(修道院で数回だけ食べたことがあるけどとっても美味しかったのよね。しかも蜂蜜だなんて……贅沢品までつけてくれるの? 絶対明日ここに来るわ!)


 シンシアは心を躍らせながら軽い足取りで宮殿の中を散策した。




 それから疲れたので部屋に戻ってくるとロッテが山羊のミルクを用意して待ってくれていた。彼女とはいろいろあったが今ではすっかり仲良くなっている。


「ユフェ様お帰りなさい。そろそろ戻ってくる時間だと思ってたわ」

『ただいまロッテ』

「今日はどこに行ってたの?」

『厨房に。明日料理人の子が私のために蜂蜜のパンケーキを作ってくれるの。とっても楽しみだわ』


 ロッテは微笑みながら山羊のミルクを猫用の皿に注いで出してくれた。

 散策して喉が渇いていたシンシアは、ありがたく山羊のミルクを飲み始める。すると、なんだか髭がむずむずと痒くなり始めた。


 ミルク皿から顔を上げて鼻の辺りをもごもごと動かす。それでも変な感じがするので前足を使って掻き始めた。


「あら、もしかして髭の辺りが痒いの?」

『うん。なんだかとってもむずむずする。変な感じ……』


 質問に答えると、ロッテはああっと声を上げてから手のひらにぽんと自身の拳を乗せた。


「ということは明日はきっと雨ですね。猫が顔を洗うと雨が降るってよく言うし」


 この髭のむずむずの正体は雨雲が近づいているからのようだ。

 たまにむずむずすることはあったがここまでの酷さではなかった。明日はどうも大雨になりそうだ。


(パンケーキを食べに厨房へ行くけど雨に毛が濡れるから近道で中庭は横切れないわね……)


 明日は厨房へ必ず行かなくてはいけない。近道せずに正規ルートで行くためにはここを何時に出れば良いだろうか。

 頭の中で計算していると、ロッテが「ということは……」と呟いた。


「明日、ユフェ様は一日中このお部屋で過ごすことになりそうね」

『……え?』

「だって猫は雨の日に寝る生き物でしょう? 鳥さんたちも明日は大雨になるって言っていたし、お部屋の外に出ることは難しいと思うわ」

『ロッテ、私はただの猫じゃなくて妖精猫だから雨の日くらい平気だよ!』


 そう豪語するシンシアには自信があった。


(猫アレルギーのイザーク様が私に触っても大丈夫だった。つい最近、人間の言葉を話せるようにもなった。中途半端に呪いが掛かっているなら明日が雨でも眠くはならないはずよ)


 シンシアはこれまでのことを含めて、姿が猫でも本質的な部分は人間のままだと結論づけた。



 ――明日は絶対パンケーキを食べに行くんだから!!

 シンシアは固く心に誓ったが、その願いは無情にも散ることとなる。



 翌日、シンシアは朝からぐったりとベッドの上に横たわっていた。


(身体が怠い。眠くて眠くて堪らない。ううっ、ここまで猫体質になってしまうなんて予想外。中途半端な呪いのくせにこういうところはちゃっかり掛かってるんだから……。私の、私のパンケーキが……)


 悪態を吐きながらベッドから這い出して歩き始めるものの、瞼が重たい。

 頭を何度も横に振り、パンケーキを食べるという強い意思(食い意地)のもと必死に足を動かしていく。


 ――が、部屋を出る前にとうとう睡魔に完敗してしまい、入り口の手前で眠り込んでしまった。



 まどろむ意識の中で、温かい何かに包まれる感覚を覚える。

 次にふわりと身体が浮いて、まるで雲の上に乗っているような気分だった。


 嗚呼、とっても心地が良い。この雲があればどこへだって飛んでいける気がする。

 これがあれば宮殿を出て、教会にだってひとっ飛びできる。そうすれば、神官に解呪してもらえるし、すぐに元の人間の姿に戻れる。


(元の姿に戻れば、心配してくれている修道院の皆が安心して喜ぶわ)


 ふふっと笑うシンシアは、ふわふわと綿飴のような甘い世界へと落ちていった。




 ――夢の世界から意識が浮上したシンシアはゆっくりと目を開けた。

 いつの間にかベッドの上に戻っていて、窓の外を見ると雨は止んで晴れている。


(入り口近くで眠ってしまったけど、ロッテがベッドまで運んでくれたのかな?)


 もぞもぞと動いてると頭に何かが当たった。枕にしては少しだけごつごつしている。


 不思議に思って身体を動かすと、それは大きな手だった。

 その手の向こうからはスースーと規則正しい寝息が聞こえてくる。


(これは一体誰の手? 横で添い寝されているけど、ロッテが疲れて眠ってしまったのかな? イザーク様にこんなところを見られたら叱られるだろうから早く起こさないと)


 起き上がって顔を上げたシンシアは添い寝している人物を見て目を剥いた。

 その人はロッテではなかった。


(そ、そんな! 添い寝していたのはイザーク様だったの!?)


 彼の寝顔を見た途端、心臓が早鐘を打つ。ドクドクとすごく煩い。

 この間――森の宴を頂いてからイザークの顔を見ると、こんなことが頻繁に起こるようになった。



(イザーク様、疲れて眠っていらっしゃるのね。私はもう元気になったからベッドは好きに使ってください。って、もう心臓がさっきから煩い! パンケーキ、パンケーキを食べてなんとかしないと!!)


 パンケーキに動悸を抑える効果は一切はない。

 しかし、混乱しているシンシアはそれを食べればこの動悸が治ると思い込んでいた。



 早く、早く厨房へ行かなくては。


 ベッドから降りて先を急ぐ。イザークは部屋の扉を少しだけ開けてくれていたので外には難なく出られそうだった。


 シンシアが扉の隙間に身体を滑り込ませていると、不意にベッドの方からイザークの魘される声が聞こえてきた。その声にぴたりと足を止める。


 声は断続的に続いてとても苦しそうだった。


(イザーク様、どうしたの?)


 シンシアは踵を返してイザークに駆け寄った。



 眉間に皺を寄せ、長い睫毛はしっかりと閉じられてはいるが絶えず震えている。額には珠のような汗が滲んでいた。


 シンシアはイザークの顔の前まで移動すると、自分の前足を彼の頬にぴったりとくっつけた。


『私が側にいますから大丈夫です。夢の世界くらい、楽しい思いをしてください』


 優しく声を掛けると、その言葉に反応してイザークの眉間の皺が和らいだ。暫くすると魘される声も消えて再び規則正しい寝息へと戻っていく。


 シンシアは安堵の息を漏らすとイザークの頬に乗せていた前足を下ろした。

 パンケーキは食べられそうにないが、誰かの役に立てるならこんな日も悪くはないのかもしれない。


 シンシアは彼の身体にぴったりと身体を付けるとゆっくりと瞼を閉じた。

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呪われ聖女、暴君皇帝の愛猫になる 溺愛されるのがお仕事って全力で逃げたいんですが? 小蔦あおい @aoi_kzt

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