サナトリウム
千織
サナトリウム
僕がいよいよおかしくなったと気づいたのは、周囲の景色が白黒に見えたからだった。空は薄い水色から薄い灰色になり、木々は水墨画のように細い枝をのばしていた。
真っ黒、というものは案外なくて、茶色っぽい灰色、青っぽい灰色の繊細なグラデーションで世界はできていた。
僕は歩いているのか止まっているのかもわからないまま移動して、体育館にいた。体育の授業で先生が何か言っているが、僕だけに話しているようにも聞こえるし、僕が存在していない世界で話しているようにも聞こえる。
僕は体調が悪いと言って授業を抜けて、部屋に帰った。
部屋に着き、ベッドに腰掛ける。ずっと誰かに首を絞められているように息が吸えない。何もやる気はないが、体は元気で時間もある。部屋に透明なビニールの風船がみっちり詰まっているかのように僕は圧迫されていた。
ベッドに横たわるが眠くはならない。置き時計を見ると、部屋に戻ってからまだ5分しか経っていない。時計の秒針を見つめる。時計を見つめてから30秒しか経っていない。また、じっと見る。15秒しか経っていない。死ぬまでに途方もない時間があると知って、僕はしゃくりあげて泣いた。
脳みそは茹で上がって、何も考えることができない。考えずにできることを探す。食事の時間になり、僕は食堂に移動した。
人がいると、僕はまるで皆と同じみたいだった。お行儀よく列に並び、正確に手を伸ばして食器を取る。こぼすことなくお茶を汲み、上手に箸を使って食べ物をほぐし、口に運んだ。
世の中にそうできない人もいる中、僕は恵まれた身体と感覚を持っていて、正常に存在しているのにも関わらず無駄だった。
鯖は口の中でちぎったティッシュのように舌に絡み、ご飯つぶは消しゴムのかけらのようだった。味噌汁はかろうじてしょっぱかったが、わかめはビニールみたいだし、豆腐も有害ではないと証明された何か、でしかなかった。
視覚と味覚の異常は、僕を少しだけ安心させた。僕が完璧に健全だったら、この世界に留まり続けるのは残酷だった。
♢♢♢
部屋に戻り、紙を燃やしてみた。火を見るのは好きだったが、今までその機会に恵まれなかった。自由な時間なのだから何をしても良いはずなのに、火を使うことはよくないことだと思っていた。そんな縛りを自分から破った勇気に少しだけ興奮を覚えた。
火は、色づいていた。自分でも驚くくらいイメージ通りで、焼けていく紙の縁は何よりもくっきりと黒かった。元々あった紙の形が無くなり、火と一体化して消失していく様子は、僕が死んで、その魂が世界に溶けていくことと同じことなのではないかと思った。
僕は薬の瓶を取り出して、飲み込んでいった。味わうこともなく、次々と。すでに僕は夢うつつなのだから、何も怖くない。きっと、多少は苦しいかもしれないが、これからずっとこんな日が続くなら、たとえば一年後にはもっともっと死にたくなっているはずで、だから今死んでおくことは賢い選択だと思えた。
満タンだった薬瓶を半分にしたあたりで、一度手をとめた。体に変化はなかった。まさかこのまま何もないわけがあるまい。
数分後、僕の心臓は急に鼓動を大きくした。胸の中心をハンマーで素早く撃たれているように、一回一回の鼓動が容赦なく僕の体を震わせた。耳の奥でハッキリと心音が聴こえる。
生きようとする絶対の意思が顔を出す。
全くのわからずやの僕に、ようやく暴力的な対話ができると言わんばかりに。
僕は死ぬのか?
そんな感傷的な台詞が一瞬頭をよぎったが、すぐに悟った。
このままでは僕は死ねない。いや、死なない。
僕の体は、暴れ狂う心臓と頭蓋骨がくだけているのではないかと思うくらい痛む頭以外は正常だった。他の部位は平然と時を過ごしている。まるで隣が火事でも家が燃えてから逃げようと思ってる呑気な家族みたいに、他人事として澄ましていた。
死なないという恐怖。
もう一度、死に切る勇気を出すべきか。
僕はもう一人の僕にボコボコにされながらも、決めなくてはならなかった。反撃して、僕が運命の主であると証明するために死へ突っ込んでいくべきか。あるいは、僕がなんら力を持たない従属的な存在であると認めて傀儡として生きていくべきか。
僕は自ら電話を取り、救急車を呼んだ。
その時の僕は、その一夜で死生を悟るほど賢くなかった。
ただ、残りの薬を飲み切ったところで死には至らないと勘づいたから諦めたのだ。あっけない結末だった。
♢♢♢
もう一人の僕は、きっとまだ僕を殴り足りないと思うが、ひとまずお互いにあるべき場所に戻ることになった。
僕が死への好奇心に駆られて病みつきにならないよう、先生は僕に入院を勧めた。
フロアには僕と似た形の人がたくさんいて、伝わるような伝わらないようなやりとりをしている。僕もここにいるということは、彼らと同じなんだろうか。彼らの心が別のところにあり、自分の意思を表現するのには不十分な体でなんとかしようとしていることはよくわかった。
診察室に入り先生と会話をするが、扉の向こう側から雄叫びが聞こえる。いっそあれくらいだったら僕も楽だったろうに、と思った。
一人、年が近い女の子がいた。重度の摂食障害で吐いてしまうから入院しているらしい。見た目はキレイで、男にモテそうだった。
普通なら、集団にいれば誰かと仲良くしたいと思うだろう。だが、この集団では誰かと仲良くする必要はない。僕は一瞬、その子と心を交わしそうになったが辞めた。
気楽だった。
いつも僕は大人たちから、難しいことの処理を頼まれていた。たとえば、この子のような子がいれば仲良くしてあげてねとか、うまくいかない集団があれば仲を取り持ってほしいとか。僕はそういう子たち自体は嫌いじゃなかったし、集団をまとめることには確かに向いていたかもしれない。だが、僕は、僕だけの時間が必要な人で、その時間が奪われていくことに我慢がならなかった。
僕は、ここでは本当に何もしなくてよかった。
この窓枠にはめられた鉄格子は、僕を社会から守ってくれた。
僕は自分に期待されてきたことの全てを自ら放棄しても許されるということを知った。
学校で習ったことは、死の淵に持っていけないことはわかった。
高次元の教えも、僕のその時には役に立たなかった。
好きだった本や音楽も、思い出さなかった。
ひたすらに自分と殴り合って、目を覚ましたわけではないが、人間は最後まで自分と付き合うしかないのだということはわかった。
貴重な経験をした。
ただ、僕はこの経験がこの先なんの役に立つのか、全く見当もつかなかった。
♢♢♢
小さな錠剤で僕の脳内がコントロールされることを受け入れ切れなくて、ここから出たいという気になったのは良いことかもしれないが、またあのやかましい社会に戻るのかと思うと、やっぱり死後の世界の方が恋しく感じられた。
することがなくて、マンガを読み始めた。今流行りのもので、ずっと読んでみたかったのだ。単純に面白かった。
漫画の表紙の色が見えていることに気づいた。そういえば、入院してからは色が見える。摂食の彼女がパッションピンクのカーディガンを着ていたことを思い出した。食事も味がわかるようになっていた。良く、なっている。
僕は退院を希望した。
状態が良いからではないし、クリスマスが近いからでもない。相変わらず社会に対するアレルギーはあるが、もうここにいても新たに知ることはないとわかったからだ。
久々の社会はくすみカラーだったが、コンビニ飯がうまいと思えるくらいには馴染んでいた。
僕は勉強を始めた。仕事に就くことは考えなかった。僕のようなイカレた奴を雇う側が可哀想だと思ったからだ。
国語の問題を解いていた時に、「こんな風に文章で人に影響することができるんだな」と思った。この文章を読んで学んだ人が医者になり、誰かを助けている尊い姿が思い浮かんだ。
その時、目から鱗が落ちた。
それは本当に、比喩でなく、分厚い曇ったコンタクトレンズが外れたかのようだった。世界は鮮やかに色をとり戻して、僕は久々に酸素を吸うことができた。
それで良かったのだ。
尊い人間は必要だが、僕が尊い人間になる必要はない。たとえ僕が惨めな姿を晒したとしても、それが尊い人間の安らぎや励ましになれば、”その程度でも世界は十分なのだ”。
それは、僕に大した価値がないという意味ではない。人間にはそもそも価値などない。
僕の人生に春が来た。
小躍りしたくなった。
僕の身体は僕のこの納得が僕にとって重大であることを保証した。
ありのままの自分で勝負しよう。
そう決意したのは17歳の時だった。
(完)
サナトリウム 千織 @katokaikou
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