地獄の中で : 2
サリが働いている酒場は、書き入れ時に向けて準備を始めていた。にぎやかな声が聞こえてくる店の中に、サリがいる気配はない。裏口からそっと中に入ると、薄暗い控え室で着替えをしていた下働きや、着飾った踊り子たちにじろじろと無遠慮な視線を送られる。厨房からただよってくる古い油の匂いに息が詰まる。しかし今はそんなことに構っている余裕はなかった。
「サリなら帰ったよ。もう随分前に」
確かさの踊り子が、安っぽい白粉を疲れた顔にはたきこみながら言った。顔が似ているせいか、サリと双子あることは自然と知られていれる。
「どこに行くか言ってましたか」
踊り子は無愛想に首を振った。
「まだ帰ってないなら寄り道でもしてるんじゃないの? あの子のことだから、物乞いに食べ物でもやってるんじゃない」
そういう彼女も、フロイドたちと同じ奴隷である。自分の世話をするのに精一杯なのだ、冷めた態度なのも仕方がない。フロイドは諦めてくるりと背を向けると、裏口のドアに手をかけた。
◯
酒場にもいないとなると、サリはどこにいるのか。自分の妹のことなのに、検討もつかない。もうすっかり日が暮れ、貧民街は闇の中に落ちていた。フロイドはアルのもとへ戻り、二人はとぼとぼと家路につくことになった。
フロイドは吐きそうだった。サリが今まで帰らなかったことなど一度もなかったのだ。身分も保証されず、人権もない奴隷だ。なにをされてもおかしくない。奴隷商に売られたとき、舐めるような目でサリを見つめていた商人を思い出す。何人もの男がサリを買うために手を上げていた。結局、一番高い値を表示した今の雇い主がふたりごと買い上げることになったのだ。それでもサリを下卑た目で眺めていることがあることに、フロイドはちゃんと気づいていた。
その夜は眠れなかった。いつもはサリが隣りにいて、穏やかなその寝息を聞くことで安心して眠ることができるのだ。一人で藁の上に転がって、壁に空いた穴から見える夜空を見つめた。結局眠ることはできず、疲れた体のまま働きへ行くことになった。
嫌な予感が的中することになるとは、フロイドは知る由もなかった。
◯
翌朝になってもサリは戻っていなかった。半分魂が抜けたように、フロイドは採掘場へ向かった。アルも同じようなもので、憔悴しきった顔で黙々と手押し車を押している。仕事が終わり、家へ帰ろうとため息を付く。サリが帰っているかもしれないと、僅かな期待を抱きながら。
採掘場は迷路のようになっていて、入り組んだ岩壁の間に狭い道がある。奴隷監督の小屋の前を通りかかると、鼻が曲がるような悪臭がした。嫌な匂いだった。物が腐るような、おかしな匂い。顔をしかめて通り過ぎようとすると、小屋の中からくぐもった低い声が聞こえてきた。
「あの奴隷娘、どうするんだ? 豚小屋みたいな匂いだぞ」
足を止める。じゃり、とボロボロの靴を履いた足の下で砂が音を立てた。
「こんなところに転がしておくわけにもいかんだろう。森にでも捨てるさ。ああ面倒だ」
「天下の奴隷監督が奴隷を孕ませたとなったら名折れだぞ。なんでこんな汚えガキなんかに手を出したかねえ」
「お前も知ってるだろうが? 奴隷にしておくにはもったいない
「まあ、どうせ望まれない世の中のクズだ。死んでも誰も悲しまない」
下品な笑い声が聞こえてくる。
フロイドの呼吸が止まった。体中の血が音を立てて引いていく。生ぬるい汗が伝い落ち、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
サリを。サリを殺した。サリをころした。サリをーーコロシタ?
こうするしかなかった。汚いガキ。孕ませたら名折れだ。死んでも誰も悲しまない。
眼の前がくらみ、頭の中が真っ白になる。許せない許せない許せない! 死ね、こんなクズども。どっちがクズだ。どっちがクズなのだ。真っ赤な怒りと殺意に支配される。
「うああああああああああああああアアアアアアアアっ!!」
気がつけば、身体が動いていた。
最後に目に入ったのは、驚いて目を見開いた男の太った顔と、何度もフロイドに鞭を振り下ろした傲慢そのものの監督の顔が、恐怖と驚愕に歪む瞬間だった。
壁にかかっていたナタを乱暴に取り、無造作に置かれていた椅子に飛び乗って踏み台にする。空中に飛び上がった勢いのまま奴隷監督に飛びかかり、脳天にナタを振り下ろす。びしゃびしゃと温かい鮮血が吹き上がり、フロイドの顔に身体に飛び散った。ばたりと奴隷監督の身体が人形のように後ろに倒れた。
「あ、あ」
腰を抜かした奴隷商が、声にならない声を上げながら後ずさる。ふううと大きな息を吐いて、フロイドはゆらゆらと背を伸ばした。血の滴るナタを奴隷商に向ける。
「やっ、やめてくれ、やめ」
次の言葉はなかった。フロイドの一撃が、一瞬のためらいもなく太った腹に刺さったのである。深くまで突き入れたナタをフロイドが引く抜くと、血が一気に吹き出した。ゴト、と血濡れたナタを床に落とし、フロイドはもつれる足で小屋の奥へ走った。
「サリ、サリ、サリィっ」
見つけた。散らかった服や書類の中で、無造作に布に包まれた身体がある。言いようのない匂いを発していたが、フロイドには届いていない。顔までくるまれていたが、布からはみ出した黒髪やちらりと覗く耳、そして裸足の足はまごうことなきサリのものだった。
「うそだ」
フロイドは返り血まみれの手をのばし、サリに触れた。そっと布を剥がすと、そこには裸のサリがいた。白いまぶたは半分閉じて、淀んだ瞳が除いている。唇や頬には血の気がなく、首筋には青紫の痣があった。首を絞められたのだ。むき出しの腰や腕は驚くほど細く、胸には肋が浮いていた。あまりに痛々しく残酷で、そしてあまりに愛おしい妹の姿。
涙も溢れなかった。
「ははっ」
フロイドの唇が開き、乾いた笑いが飛び出す。
「あははははははははははっ、あはははは!!」
狂ったように笑う。首をのけぞらせ、床に膝をついたまま。
「あああああああああああアアアアアアアア!」
両手を上げ、血まみれの指で頬をなぞる。頬についた真っ赤な印は、まるで血の涙のようだった。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」
サリの首の下に腕を差し入れ、持ち上げる。力なく頭を揺らすサリは蝋で作られたようだ。冷たく硬くなった、痩せた身体。どうしてだ。どうして。どうしていつも奪われるんだ。与えられたことなど一度もない。世界はなぜ持たざるものから奪うのだ。肥え太った奴隷監督。力を持たないものをいたぶって喜ぶようなゴミなのに。なぜあいつらは与えられるばかりなんだ。
腐っている。
何もかもだ。
全ては腐敗を放ち、鋭い切っ先を突きつけてくる。
これ以上、なにも奪うな。
膝の上にサリを抱き寄せ、力を込めて抱きしめる。ぶぶ、と耳元でハエが通り過ぎていった。ねえサリ? 俺は、おまえだけだったよ。おまえだけが生きがいだった。愛してる。この世の何よりも。そんなおまえを奪われたら、一体何をして生きていけば良いんだ。誰か、答えてくれ。
◯
がさりと草むらが音を立てる。月夜に耳を澄ませていた鹿が、驚いたように駆け去っていった。
細い人影が月を隠し、一瞬の暗闇が訪れる。
よろよろと、フロイドは宛もなく森を歩く。草や木の根に足を取られ、いばらに身体を引っかかれながら。裸足の足には血が滲み、体中に付いた血は乾いてこびりついている。
ふいに、足元にあった地面がなくなった。ばりばりと音を立てて、フロイドは崖の下に落ちていく。生い茂った木の枝や、はりだした岩に体中を打たれながら。突然の落下は始まったときと同様、突然止まった。運良く大きな岩と岩の間に挟まったのだ。フロイドは痛みと衝撃で遠ざかっていく意識の中で思った。
(全部ほろんじまえ)
月が沈んでいく。空が薄い紫色に染まっていく。朝日が昇ってくる。世界は変わらず回っていく。フロイドのみた地獄よりもっと地獄や、サリの死など、誰一人気にもとめずに。腐って腐りきった世界は、回っていく。
収奪の奴隷と強欲の魔女 七沢ななせ @hinako1223
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