幸せの味
「いらっしゃいませー! さんまるしぇへようこそー!」
翌日、約束通り例の再開発ビルに行くと、その一階で元気に呼び込みをする林田の姿が目に入った。
制服なのだろうか、今日はエプロン姿で髪を縛っていた。
「おっとそこのお兄さん、ちょっと寄っていきませんか!」
俺を見つけた林田は、下手な小芝居を打ち、怪しげなキャッチみたいな声を出して近づいてきた。
「ちょっと急いでるんで」
面白そうなので、俺も芝居に乗ってみる。
「いやいや、お兄さん。まるしぇに寄らず帰っちゃだめですよ! そうだ! お土産とかいかがです? 栃木みやげ」
「この町に土産になるものなんてないでしょ?」
「おーっとぉ!? 言っちゃいけないこと言っちゃったねお兄さん! あんた、ここにいる全員を的に回したよ?」
林田はそんなふうに煽ってくるが、敵意のこもった視線は感じない。というか、誰も目を合わせようとしない。
……そろそろ恥ずかしくなってきたんだが。
「わたしのおすすめはこれだよ!」
「……レモン牛乳?」
林田が近くのショーケースから取り出したのは、黄色い紙パックに「レモン」と書かれた乳飲料だった。
「栃木県民のソウルドリンクだぜっ!」
「……俺、飲んだことないんだよね」
「非県民!? 人権ないよそれ!」
たかがレモン牛乳ごときで、なんでそこまで言われなきゃならないんだろうか。
「絶対飲んだ方がいいよ! 幸せの味がするんだから!」
「幸せの味?」
「そうだよ! あーしあわせーって。あとで箱ごと持ってくるから北海道に持って帰って広めてね!」
レモン牛乳片手にぐいぐい距離を詰めてくるれもんさん。
まさか「れもん」だからなのか……? そんなまさか。
「嫌だよ。だいたいこんな暑い中持ってったら普通に腐るだろ」
「え? 大丈夫! 北海道涼しいから!」
「そういう問題じゃねえ……」
「それに少し酸っぱくなっても、レモンだしちょうど――」
「れもんちゃーん!」
そんな意味不明な問答をしていると、店の奥の方から声が飛んできた。
「ちょっと手伝ってー」
「はーい」
林田は愛想よく返事をする。
「ごめん。上がったら行くから、そこのカフェでこれでも飲んで待ってて」
「え、いいのか? 万引きとかにならん?」
「いいよこれくらい。わたしが払っておくから」
林田は手に持っていたレモン牛乳を俺に渡し、店長と思われる人の方へと去っていった。
「あ! 出世払いね!」
一度振り返って、そんな言葉を残しながら。
随分と安い買い物だな。
******
俺は言われた通り、隣の「サンサンカフェ」と書かれた場所に入って、空いている席に座った。
しかしカフェとは名ばかりで、中にはバリスタも店員もいなかった。一応コーヒーマシンと自販機が置かれているので、隣で売っているパンやお菓子を買ってお茶をすることくらいはできそうだ。
カフェというよりは休憩スペースだが、5,6個あるテーブルは多くが埋まっていた。高校生がテキストを広げていたり、おばさんどうしが会話に花を咲かせていたり、案外利用率は高いようだ。
「おいしいでしょ? それ」
先ほどよりもラフな格好に着替えた林田がやってきて、すーっと椅子を引きながら味の感想を尋ねてきた。
「うーん、まずかないが、うまくもない」
「えー?」
向かいに座った林田は、ぷぅっと頬を膨らませ、不満そうな目で俺を睨んでいた。
「非県民。そんなこと言うならわたしがもらうから。返して?」
林田がすっと手を伸ばしてくるので、俺は思わずレモン牛乳を自分の方に引き寄せてしまう。
「ほらー、返してよー、飲まないんでしょー?」
「いや飲むからもういいから。あーうまいうまい。最高の飲み物だなこれは」
「えー? イズミくんはなーにを意識してるのかなぁ? そんなに焦っちゃってー」
「……出世払い」
俺は林田の猛攻を切り抜けるため、財布の中から適当な小銭を掴んで彼女に押し付けた。
「……え?」
「払ってやるからコーヒーでも飲んでろ」
「むぅ……まあこのくらいにしといてあげますか」
林田はニマリと悪そうな笑みを残して、コーヒーマシンの方へ去っていった。
ったく、林田ってやつは。
大人になった林田れもんは、見た目だけではなく、性格まで明るくなっていた。昔から明るい方ではあったが、ここまではつらつとしてはいなかった。
仕事中もずっと笑顔で、愛想のいい声を出していた。周りのじいばあからも慕われているようで……幸せそうに見えた。
「で、なんの用でござるか?」
席に着いてコーヒーをすすり、ほっと一息をついてから、林田は聞いてきた。
「用?」
「ほら、なにか話したかったんでしょ? 昨日のイズミ。少なくともわたしにはそう見えた」
……その通りだ。こいつには何もかもお見通しなのかもしれない。
「言ってみ? 聞いてあげることならできるからさ」
そのまなざしは、相変わらず優しかった。あの頃と、何も変わらなかった。
だから。
「……会社を辞めたいと思ってる」
「……なんで?」
「人間関係とか、いろいろな……」
「嫌な人でもいるの?」
「ああ……」
「わかるよ、その気持ち。わたしも一回辞めてるし」
そんな暗い過去も、明るく話せてしまうのが林田だった。
「いやーなマネージャーがいてさ。あ、スーパーだったんだけどね」
林田に理解してもらえたことが、共感してもらえたことが、素直に嬉しかった。
「だから辞めて今のところに……お給料は下がっちゃったけど、わたしは辞めてよかったかな」
「だから、俺も――」
「でもイズミは本当にそれでいいの? 簡単に辞めちゃっていいの?」
林田は俺の言葉に割り込んで、「半年も経ってないのに辞めるのは早すぎだ」とか、急に一般論的なことを語り始めた。
……正直、失望した。林田にはそんなことを言ってほしくなかった。
だから俺は反論した。3年は続けろなんて馬鹿が言うことだと言ってやった。
それでも林田は、簡単に逃げるななどと言ってきた。
「それだけじゃないんだよ。うちの親もいい歳だし、そろそろ実家に帰って家を継ごうとか……」
「嘘だ」
「噓じゃない」
「でもそれは
彼女の鋭い目線が瞳の奥に突き刺さって、恐怖すら感じた。
「イズミはそうやって言い訳を作って、親御さんを理由にして、本当はただ自分が逃げたいだけなんでしょ?」
「違う……! お前に何がわかる?」
勢いよく下ろした手がテーブルにぶつかり、ガタンと音を立てた。
「わからないよ。イズミのことなんか、わからない。でもさ、イズミは甘えてるよね? 自分が恵まれてるって気づいてないの?」
今度は
「どういう意味だ」
尋ねると、林田は一度目を伏せて、スーッと息を吐いてから話し始めた。
「わたしさ、本当は大学に行きたかった。東京に行きたかった。東京で働いてみたかった」
「……」
「わたし、本とか好きだからさ。編集とか、そういう仕事がしたかった。……でも、ママ一人で置いて行けないし……だから諦めた」
――そこで思い出した。
林田は、中学の途中まで「森本」という名字だった。彼女の両親はその時に離婚していた……。
俺はそのことを知っていたはずなのに、どこかでその情報に蓋をしてしまっていたのだ。
「大学にも行かせてもらえて、北海道にも行けて。しかもそれがイズミのやりたかったことなんでしょ? ねえ?」
「でも……!」
彼女の言う通りだ。甘えたことを言っているのはわかっている。
だが事実、現状は俺の思い描いてたものと違うし、地元に帰りたいというのも本心だ。それは詭弁なんかじゃない。
「逃げる前に向き合わなきゃ。じゃないと後悔するよ?」
「林田だって……逃げたじゃないか」
「うん……そうだよ。だからわたしは言ってるの。逃げても全部上手くいくわけじゃないんだよ?」
彼女はじっと俺の瞳を見つめて、決して放さなかった。
いくら逃れようとしても、それを許してはくれなかった。
「少なくともわたしの好きだったイズミは、そんなことですぐに逃げ出すような男じゃなかったもん」
…………え? 『好き』?
「わたしちゃんと覚えてるよ。将来すっごい技術を開発して、日本の農家を楽にさせるんだ! とか、キラキラした目で言ってたの」
…………。
「いっつもやる気なさそうにしてるくせに、農業の話になると熱くなるんだもん。最初はびっくりしたよ」
きっとその頃の俺は、純粋に農業が好きだったんだろうな。
「それで段々わたしも刺激されちゃってさ、なにかイズミみたいに熱く語れるものが欲しいなって……それがたぶん、本だった」
正直、林田がそれほど本を読んでいるイメージはなかった。
俺が気づいていなかっただけなのだろうか……。
「ねえ、もしもさ――」
――もしも、もしもの話である。
もしあのとき林田れもんの気持ちに気づいていたら――あのとき別の道を選んでいたら――あのとき、先輩の優しさに甘えていなければ……今頃俺はどうなっていたのだろう。その方が幸せになれたのではないか、なんて思うこともある。
だがそれは、あくまでイフの話で、もしもが起きることはない。
だから結局人は、いつか現実と向き合わなくてはならないわけで、それが今なのかもしれない。
俺ももう少し、立ち向かってみようと思う。
とりあえず、「北海道の牛乳でレモン牛乳にすればいいじゃん」という訳のわからない理由で持たされた一つのレモン。これを会社に持って行って、先輩を驚かせてやろう。
どんなネタを仕込んでいってやろうか。
――なんて考えると、少し未来が明るく見えてくる。
あの人にもレモン牛乳の良さを教えてやらないとな。
幸せの味を教えてやらないとな。
じゃないときっと、林田れもんに怒られる。
もしもしあわせ 葵葉みらい @rural-novelist
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