第15話 天秤
その日最後の授業が終わると、生徒を見送り終えた順に退勤する決まりになっている。仲が良い講師同士であれば教材室で待ち合わせたりもするが、時間もそれなりに遅いので立ち止まらずに帰る人も少なくない。毎週金曜日は俺も担当する教科も生徒数も多い日なので、気がつくと喉がカサついていた。
迎えに来ていた保護者に生徒を受け渡すと、時計は十一時を過ぎるところだった。寒さが本格的になればなるほど、塾内の熱気は高まっていく。どこか緊張した空気が生徒の間に充満しつつあった。
遅くまでよく頑張っているな、と思うけれど、自分が受験生のころを振り返れば、たしかにこんな風だった。支配的な不安と戦うためには、取り憑かれたように机に向かうしかなかった。模試の結果の判定表記だけが安定剤で、そこに大人の言葉の入る余地は少ない。「そんなに頑張らなくてもよくね?」という同級生の言葉は、ただ自分を不能感を刺激するだけだった。
急ぎ足で教材室に戻ると、すぐにその人の姿を捉えた。いつもながらよく似合う薄水色の白衣。「知里先生しか、というか美人しか似合わないやつだよね」と羽田さんが言っていたのを思い出す。
「三神先生」
「潮見君、お疲れ様」
薄い唇がふわりと笑う。
彼女と目が合う瞬間が好きだ。目尻にかかる前髪を避ける仕草を自然と追いかけてしまう。それだけでなにか報われた気持ちになる。
三神先生の手元には角が削れた赤本が数冊あり、ノートPCも電源が入ったままだった。先輩の言葉を借りれば、アルバイトの仕事は授業の間だけだが、社員の仕事はむしろ授業以外のところに重心があるように思う。新規入塾の書類づくりから、模試や模擬テストの手配、季節ごとの保護者面談の準備。以前別の社員に、何時くらいまで残っているのかときいたら、授業が終わってからは一時間か二時間くらいだと教えてくれた。三神先生は特に熱心だから、という言葉に他意はなかったと思いたい。
「来月から土曜日のシフト入ってくれるんだったよね、またよろしくね」
「はい、あ、でも十四日は」
「そっか、結婚式なんだっけ」
考えたまま口に出すと、三神先生から以前話したことがするりと出てきた。こんなことにすら気持ちが沸き立ってしまうのだから、我ながら単純だ。
しかし三神先生に限らず、塾講師というのはなんでもよく覚えている。顔と名前と学年にはじまって、好きな給食のメニュー、両親とのささいなやりとり、学校の担任教師のあだ名と専門教科。当然だが書き留めているわけでもないのに、それはときに相手が驚くほどだった。
学校の先生はこんなふうではなかったな、と思うのは、自分がさほど教師と近い距離で話してこなかったせいかもしれない。良くも悪くも平均的な生徒だったせいか、そんな機会には思い当たらなかった。それなのに教師になろうと思ったのは。
「はい、従兄弟が東京で」
そう返しながら、音を立てないように引いた椅子に腰を下ろした。まだ足が落ち着かない。
「じゃあ歳はちょっと離れてるんだ?」
「たしか今年で二十八、とかだったと思います」
「私と同じくらいだ。おめでたいね」
控えめに血色が透けた頬がわずかに盛り上がった。綺麗だ、と思うのと同時に、彼女の台詞の重さが両天秤に乗って揺れる。
ここから海は見えない 片岸いずる @izurukatagishi303
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