第14話 退屈

 またしばらくして、遅くまで受験前の高校生に付き合っていたときのこと。その生徒は文系の学部を志望していたけれど、国立大学を目指すなら一定量は理数科目もこなさなくてはならない。最後の追い込みとして苦手を克服するため、本当によく頑張っていた。俺にとっても、あれほど熱心にひとを教えたいと思ったのをはじめてだった。

 そんなころ、久しぶりに牧野を見かけた。保護者のむかえがきて生徒を送り出したあと、帰り支度のために教材室へ歩いていた。人の気配がなくなると、昼間は清潔感を演出していあ白い廊下が急に無機質になった。

 不意に、教材室とは反対方向の廊下を足音が横切った。それもかなり急いでいる。弾くような靴底の擦れる音に振り向く。廊下に連なった照明に映し出された薄い影が、奥の教室へと消えていった。こんな時間に、と思いながら見ていると、一歩遅れてふたつ目の影と目があった。

 瞬間、互いに顔をそらした。廊下のタイルを叩く低いヒールの音。それもそのうち聞こえなくなった。俺は控えめに息をついて教材室に入る。手早く帰り支度を済ませ、すぐに塾を出た。遅くなったときには極力まだ残っている社員に声をかけているが、それもせずに自動ドアを抜け出す。

 ほとんど話したことはなくても、互いに顔くらいは知っている。ひとり目の影、あれは牧野だったのだ。それがわかってしまって、咄嗟に目をそらすしかなかった。


 生徒のねだる声に白を切りつつ、採点が終わったプリントを返す。ほとんどが正解で、後半の一問だけがケアレスミス。しかし彼女はほぼ満点の答案用紙になど興味がないみたいに、手近なノートの間に挟み込んだ。

 授業終わりのチャイムが鳴ると、唇を突き出した顔が仕方なさそうに「ありがとうございましたあ」と言った。俺もあわせて返事をしながら、小さなホワイトボードに書き込んだ数式を消していく。

 ノートやペンケースをだらだらとかばんにしまいながら、無理やり切り替えるようにたずねてきた。

「先生って好きなひといないの?」

 好きなひと、という言葉の響きがどこか懐かしかったのと同時に、こうして知らないことを前提に話されるのが珍しくもあった。最近は誰と話しても、まるで頭のなかが透けているみたいに言われることのほうが多かった。

 牧野たちに関する質問のときと同じように、否定にも工程にもならない返事をしていると、奥のブースから講師と生徒がぞろぞろと出ていった。そのなかに三神先生の姿を見つける。高校生の女の子と並んで話す横顔は柔らかく、この表情にみんな安心するのだな、と今更のように納得する。目線があわないことがわかっているからこそ、自然と目で追ってしまっていることも。

「次の授業がはじまるからそろそろ出よう」

 立ち上がって活気づいた室内を見渡す。俺も次の生徒の出迎えが控えている。

 促すように座ったままの彼女を見下ろすと、退屈そうに鞄の外ポケットを漁っていた目がきょとんとして見上げていた。

「もしかして、ほんとに知里先生のこと好きなの?」

 おもむろに立ち上がった彼女の視線が、授業用ブースの横を擦りむけて開けっ放しの出入り口に向かっていた。騒がしい集団を見送るともう一度口を開く。

「なんだ、そういうフリかと思ってた。学校でもそういう子いるんだよね。すきすき言ってるけど。絶対に告白はしないみたいなの。ノリとかその場の雰囲気とかで。そういうことにしておくほうが楽ってこともあるし」

 帰るー、とかばんを肩にかけた背中がぱたぱたと出ていく。ローファーが床を蹴る音はざわつきのなかでは気にならなくても、静けさから遠ざかっていくときはやけに耳に残る。

 唐突に、牧野がよく履いていたクレマンの黒い革靴のことを思い出した。

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