第13話 彼方

 こんなこと言われても困るよな、と牧野が口のはしだけで笑った。こういうとき、相手よりも動揺してはいけないのだろうけど、それを上手に隠せるほど器用ではなかった。

「昔から決まった相手がいるっていう?」

「それは許嫁だろ。でも似たようなもんなのかな。詳しいことはわからないけど、地元に婚約者がいるって言われたんだ。理央の実家、中部地方の海沿いなんだけど、結構古い感じのところらしくてさ、大学卒業して落ち着いたら、結婚することになってるって」

 途中からまくしたてるような言い方に変わって、言い終わると同時に牧野は広いテーブルのうえに突っ伏した。浮いていた髪が今度は机のうえを這う。くぐもった音で聞こえる長い溜息。婚約者なんて、どうしろっていうんだよ。

 誰にも答えを求めない問い方だった。牧野もわかっているのだ、彼にとってそれが遠い場所の遠いできごとだったように、俺にとっても遥か彼方のできごとだということが。時代錯誤、と簡単に口にできないことも。

「そんなこと、俺に話してもよかったのか」

 大したことも言えずにいると、牧野は

「誰かに話さないとやってられなかったんだよ。むしろ聞いてくれてありがとうな」

 テーブルに頬を貼り付けたまま、目線だけで力なく笑う。こんなときまでいいやつでいなくていいのに。婚約者がいるという彼女も、牧野のこういうところが好きなのだろうか、と考えなくてもいいことを考えた。

 その前にもあとにも、牧野は恋人の婚約者だという男について詳しく話すことはなかった。知らないままでいることを選んだのか、知っていてあえて口に出さなかったのか。どちらにしても牧野らしいとは思わなかった。

 傷ついた顔が急に静けさを持ったあと、ちょっと皮肉らしく

「お前はいいよなあ、あんなにわかりやすくたって平気なんだから」

「それは、褒めてないよな」

「まさか、羨ましいんだよ、本気で」

 それからも徐々に牧野とは疎遠になり、たまに大学やバイトで出くわしてもそのことを話題にあげることはなかった。牧野が話さないなら、俺から「どうなったか」なんて聞けるはずもなく、ただ「婚約者」という耳慣れない響きだけが重しのように頭に残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る