第12話 練習
「先生、私がこれ早く解けたら、残りの時間はおしゃべりしようよ」
取り立てて活発に見える子ではなくても、こういうところを見せられるとやはり中学生の女の子だな、と思う。
切りたてのように直線にそろった彼女の前髪と、かりかりとノートのうえに並んでいく数式を交互に見る。少し前に流行ったアニメのキャラクターがついたシャープペンシルの走りはよどみがない。やはりこの子は理解度が高いな、と思いながら時計を見ると、ちょうど授業の三分の二を終えたところだった。内容に沿って用意された練習問題とその応用は、通常なら時間内に終わるか終わらないかというくらいだが、この調子ならきっと難なくこなせるだろう。否定も肯定もしないまま黙って目の前の小さなホワイトボードを眺めた。
「ね、先生。牧野先生と理央先生が付き合ってるって本当?」
終わったよ、と差し出されたノートの丸付けをしながら、会話にのぼったふたりの顔を思い浮かべる。
牧野はともかく、理央先生のことは授業で見かける姿しか知らない。小中学生をメインに教えているためか授業の時間がかぶることも少なく、唯一知っている駅向こうの短大に通っているという情報は羽田さんが教えてくれたことだった。
俺は丸付けに集中するふりをしながら
「知らない」
と一言返す。
「えーでも、ふたりが手つないで歩いてるの見たひととかいるんだよ。他にもしょっちゅう授業中にこそこそ内緒話してたりさ」
「受験生の受け持ちの子がいると相談事もいろいろあるんだよ」
「先生、牧野先生と同じ大学なんでしょ。絶対知ってるでしょ」
そう詰め寄られるが、もう一度首を振った。見るからに納得していないというふくれっ面に若干申し訳なく思いながらも、この間おろしたばかりの赤ペンにフタをした。
実のところ、ふたりが付き合っていることはアルバイトの間では割と知られていることだった。社員でさえ承知しているひとは少なくないだろう。
俺はそのことを牧野本人から聞いていた。そもそもこのアルバイトを紹介してくれたのが牧野で、同じ大学の同じ学部に通っている。一回生のころはほとんどの教養の授業で顔を合わせていたし、専門性の高い講義が増えてきた今でも週に一度くらいは姿を見かけている。
先生と呼ばれるようになって半年ほどがすぎたころだ。いつまでも居座る残暑の厳しさに、クーラーを入れた休憩室で涼んでいると偶然牧野とふたりになった。牧野はぽつりとこぼした。
「俺さ、理央先生と付き合ってるんだよね」
理央先生、という名前がそのときはすぐに思い当たらなかった。「小学コースの」と補足されるとよくやくわかった。すらりと背が高く、長い髪をうしろでひとつにまとめた姿がぼんやりと浮かび、牧野もそれがわかったようにうなずいた。その顔がどこか気まずそうに影を落としていた。
「なにかだめなのか」
「いや、だめってことはないんだけどさ。生徒にはさすがにバレないようにしてるけど、社員のひとにはとくになにも言われてないし」
そう話しながらも妙に歯切れの悪い。大学で見る牧野は、いつもひとの輪の中心にいるような、賑やかな印象があった。人付き合いはいいけれど、大学生としてある意味健全な不真面目さもなく、サークルにはたしか学生だけで設立した地域活性のための団体かなんかに入っていると聞いた。ひとに声をかけるときのあのてらいのなさが羽田さんと似ている。
わずかにたじろくような仕草のあと、牧野がようやく口を開いた。
「理央、婚約者がいるんだ」
りお、という響きが、教材に囲まれた部屋に放り投げられる。牧野の伸びた前髪の表層がエアコンの風にゆるくなびいていた。
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