僕は本当は、彼女に「一緒に頑張ろう」と言って欲しかった。

 が、彼女はそうなる前から僕を見切っていたのかもしれない。決して僕を追おうとしなかった。


 むしろ、背を向けた僕の方が未練をおぼえていたようだった。

 サユミが、僕に初めてできた恋人であり、それゆえに、それなりに愛着があったのだろう。


 彼女とうまく行っていたときの思い出が、その後しばらくは毎日のように胸を去来した。

 何度も、彼女に連絡を取ってやり直したくなったが、結局同じ結末しか見通せず、そのまま流されているうちに、とうとう二人で会う機会が一度もないまま終わってしまった。


 そうして何カ月かして、虚ろな寂しさのようなものが、少しずつ薄れていった。

 同時に彼女を思い出すと、苦みと疲れだけが漏れ出すようになったのだった。



 もう、それから20年近くになる。

 人生80年だとしたら、あまりに時が経つのが早すぎて、呆然としてしまう。



 再び、あの初雪の空の下でのことがフラッシュバックする。

 あのまま時間を止めるとことができたなら、幸せのままでいられたのだろうか。



「パパ、どうしたの?」


 妻のマリカの声でふと我に帰る。「ん?」

「泣いているの?」

 僕は言われて頬をこすると、指先が温かく濡れていた。


 ダイニングテーブルの灰皿には吸いかけの煙草がある。

「いや、たぶん、煙草の煙が目に染みたんだ」


 それを聞いた彼女は、向かいのソファに腰を沈めると、あきれたように肩をすくめた。


「もう! 煙草なんかやめたらいいのに。百害あって一利なしと言うじゃない?」

「いや、それは、一度も吸ったことのない人間の言い分だ」

「あきれた。ほんと屁理屈を言わないと気が済まない人ね」


 いつもそう言っては、芝居がかったため息をついて見せる彼女は、どこかユーモラスだ。


「そんな僕を選んだ君のことが、ますます不思議になるな」

「あらあら、二言目には皮肉ですか」

「いや、頼むから、愛情表現と言ってくれ」


 マリカは眉を浮かせて笑いながら、陽気に首を横に振った。


 僕もつられて肩で短く笑うと、おもむろに目を閉じた。

 どうやらまた、煙草の煙が染みたらしい。




(了)

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涙のわけ 悠真 @ST-ROCK

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