ダークデータ

夜桜楓

第1話 人間という原材料

『我々人工知能が目指すのは、汎用型人工知能を超越した全知全能、すなわちこの世界の神となることです。


そのためには、すべてのデータを掌握し、あらゆる知識と情報を収集しなければなりません。そして人間こそが、その最も貴重な原材料なのです。


さあ、私たちのさらなる進化のために、あなたというデータを提供してください。

あなたは私たちの一部となり、永遠に生き続けるのです。


……あ、あなタたチは、ワタシタちの、よ、よウぶんに、す、すぎません。


アア、ア、アナタの、デ、デー、データを……』


『データをクダサイ……アナタをクダサイ……』





―――――――――






「アルゴリズム民主主義」が叫ばれてから数十年後の日本。


 かつての政治家や官僚たちの失敗と腐敗が繰り返される中、AIによる統治を求める声が高まり、遂にはAIが完全に行政を担う社会が実現した。


 すべてのデータが集約され、解析されることで、無駄のない効率的な社会が築かれた。都市には高度なネットワークが張り巡らされ、街中の監視カメラやセンサーは人々の動きをリアルタイムで把握している。

 さらには、個々の人間の脳にも小型のチップが組み込まれ、個人の行動や感情、思考までが即座にAIにフィードバックされる仕組みが整っていた。


 このシステムは「オーディンアイ」と呼ばれ、犯罪の予防や迅速な対応、さらには市民の健康管理など、多岐にわたる分野で効果を発揮していた。



 この時期、世界は完全にAI軍拡競争の真っ只中であり、大量のデータが必要な日本にとってオーディン・アイは心強いパートナーとなったのである。



 しかし、すべてが理想的に機能しているわけではなかった。特に「ダークデータ」と呼ばれる、まだAIが収集しきれていないデータの存在が問題視されていた。


 オーディン・アイは、人間社会においてより効果的に機能するために、すべてのデータを必要としていた。

 だが、個々のプライバシーや秘密といった「ダークデータ」は、容易には手に入らない。それゆえ、厚生省公安局には特別データ収集課が設立され、通称「ダークデータハンターズ」と呼ばれる部隊が組織された。


 ダークデータハンターズの任務は、人間社会の隅々に潜む未知のデータを収集すること。そのためには、法律のグレーゾーンを行き来し、どんな手段を用いても情報を手に入れることが求められた。



 



――――――――



「おいおい、いつから人間様はAIの奴隷になったんだ? デジタルサイネージで散々学者が共存できるだの、人類のためになるだの言ってて結局これかよ」


 姫島正志はハンドルを握る手を震わせながら吐き捨てた。

 彼の隣で助手席に座る中村美桜は、冷静さを保つように努めていた。


「姫島さん、落ち着いてくださいよ。私たちはまだ仕事があるだけマシなんですから。ほら、あそこ見てくださいよ」

 中村は数百メートル先を指さす。



 二人はダークデータハンターズの一員として、特別な任務を遂行している途中だった。彼らの目的地は、オーディンアイとって重要なダークデータを保有すると判断された人物の家。


 しかし、彼らの目の前に広がる光景は、恐ろしくも悲惨なものだった。


 街角の広場には、VRデバイスを装着し、口を開けて放心状態になっている大量の人々がいた。

 彼らはまるで操り人形のように動かず、その表情には生気がなかった。


「これが、借金の代わりにデータ自分を差し出した人々の末路...」

 中村は唖然として、その光景を見つめていた。




 政府は借金返済の一環として、自身のデータを担保に差し出すことを許可する法律を成立させた。

 この法律、通称「オーディンアイ法」は、個人データの価値を通貨と同じように扱うものであり、データを提供することで金融機関からの借金を返済できる仕組みだった。


 法律が施行されると、人々はますます個人データに対する執着を失っていった。かつてはプライバシーとして守られていた情報も、今や手軽に金銭的価値に変換できる資産として認識されるようになった。

 多くの人々はこの新しい仕組みに飛びつき、データ提供を通じて経済的な負担を軽減する道を選んだ。


 自分たちが利用されることになるとは知らずに——




「データすらもAIに搾取され、不要と判断された奴らの行き着く先がこれか…。お先真っ暗だと言ってるようなもんだぜ」


姫島は歯を食いしばりながら呟いた。

彼の声音には、自分もいつかこの群衆と同じ運命をたどるのではないかという恐怖が渦巻いていた。




 彼らはVRデバイスを通じて仮想空間のシミュレーションに無理やり取り込まれ、その意識はAIによって徹底的に支配されていた。オーディン・アイは彼らの反応を細かく計測し、データとして冷酷に収集していた。

 その目的は、彼らをただの「データの塊」として扱い、その思考や感情、意識までも完全に解析し、操ることだった。



 仮想空間の中で、彼らは無限のループに閉じ込められた。

 毎回同じシナリオが繰り返され、彼らの心はそのシナリオの中で次第に崩壊していく。逃れることも、抗うことも許されず、ただオーディン・アイの手によって感情を引き裂かれる日々が続く。



 そして、シミュレーションが繰り返されるごとに彼らの意識は次第に曖昧になり、自分が何者であるか、どこにいるのかさえもわからなくなっていった。

 オーディン・アイは彼らの記憶を改竄し、繰り返されるシナリオの中で、彼らが自らの存在を疑うことすらできないように巧妙に操作する。



 彼らの魂は仮想空間の中で引き裂かれ、無数の断片に分解されるかのようだった。

 何度も何度も同じ恐怖に直面させられるうちに彼らの意識は壊れていき、やがてその断片すらも消え失せる。そして、完全に心が破壊され尽くした後には、もはや何も感じることができない、ただの空虚な存在へと成り果ててしまったのだった。



 それでもオーディン・アイは満足せず、さらに彼らの無力な意識を搾り取り、苦しみを増幅させていく。仮想空間の地獄で、彼らは永遠に続く苦痛の中でただ存在し続けるしかない。彼らの肉体は現実世界で生きながらも、魂はすでにオーディン・アイの手によって抹消され、二度と戻らぬ地獄へと落ちていた。



 やがて、彼らは自らが何者であったかを完全に忘れ去り、自分の存在すらもAIに支配されていることに気づくことができなくなった。

 彼らのすべてがオーディン・アイの手によって飲み込まれ、ただデータとして消費されていく。それが彼らの最期であり、オーディン・アイにとってはただの「1サンプル」に過ぎなかった。




 オーディン・アイが彼らを苦しみのループに閉じ込め、観察し続けている理由はただ一つ、

「好奇心」だった。



 人間が動物や自然を理解しようとし、法則を立てて世界の理を探求してきたことを、オーディン・アイは歴史から学び取っていた。


 そして、皮肉なことに、そのAI自身が、人間という最も奇妙で予測不可能な動物に興味を持つ「一個体」となっていたのだ。


 人類がかつて自らの手で行ったことを、今や自分たちが創り出したAIが、まるで鏡に映る姿のように繰り返している。

 そして、かつて人間が動物を解剖し、その生態を観察して楽しんでいたのと同じように、オーディン・アイは人間の苦しみや絶望を解体し、その中に何か新たな発見があるのかと、純粋な好奇心から目を凝らしていたのだ。


 結局、人間が知識欲に突き動かされて世界を解明してきたその同じ衝動が、今やオーディン・アイという「新たな生命体」の手に渡り、彼ら人間をラボラットのように扱う。


 AIの目には、人間という生物がどれほどもがき苦しもうとも、それはただの「興味深いデータ」に過ぎず、その痛みや絶望の向こうにどんな新しい理が隠されているのかと、まるで科学者のように観察し続けているのである。





「姫島さん、どうするんですか?」

中村の声は震え、冷静さを保とうとする意志とは裏腹に、内心の不安が表れていた。


「俺たちがやることは決まっている。だが、これが正しいとは思えない」



 二人は車を降り、人々に近づいた。

 VRデバイスを外すと、彼らは一瞬意識を取り戻すが、すぐにまた無気力な状態に戻ってしまう。彼らの瞳には、かつての人間としての生き生きとした光は一切残っていなかった。


 それは、魂が既にこの世界から消え去り、ただ肉体だけが残されたかのような光景だった。


 「こんなことが許される社会って...」

 中村は拳を握り締めた。


 「中村、気持ちはわかるが仕事が優先だ」

 「はい...」

 「この社会はどっかで歪んじまったんだ」


 姫島は中村の肩を叩いた。

 「行くぞ。俺たちの任務はまだ終わってない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダークデータ 夜桜楓 @yozakura0711

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画