麗しき桜の下で

入江 涼子

第1話

 ――大丈夫。私はあなたの側にいるわ――


 君がそう言ってくれたのは何年前だったか。もう遠い昔の話だ。君は一人娘を遺して逝ってしまった。


 私が彼女――妻の珠桜しゅおうと結婚したのは今から二十三年前の春だった。私は名を璃堅りけんというが。珠桜は三歳下の明るい少女で。よく笑いかけてくれた。そんな珠桜と結婚して二年程が経った頃に一人娘の朱璃しゅりが誕生する。私と珠桜は酷く喜んだ。が、朱璃が生まれてから日に日に妻は弱っていく。顔色は白く身体も細くなっていった。


「……璃堅。今日も雪が降るわね」


「ああ。今夜は冷えるから。珠桜は休んだ方がいい」


「そうね。私ね。朱璃を生んだ事は悔やんでいないわ」


 珠桜の言葉や表情に私は目を奪われていた。彼女はにっこりと笑っていたからだ。私に手招きをする。近寄るとすっと両手で頬を包み込む。私は驚いて珠桜の深い感情が宿った双眸を見つめた。


「……璃堅。あなたは一人じゃないわ。大丈夫。私はあなたの側にいるわ」


 優しく顔全体をくしゃくしゃにしたような笑顔。珠桜はそう言いながら小さなやせ細った手で私の片頬を撫でる。泣きそうになった。ほたりと一筋だけ涙が流れた。


「……珠桜」


「大丈夫よ……」


 私は小さく細くなりながらも昔と変わらない笑顔を浮かべた珠桜を抱きしめた。


 それからしばらくして。私の腕の中で珠桜は息を引き取った。寝台に丁寧に寝かせてやる。珠桜は瞼を閉じたままで冷たくなっていた。私は重い体を引きずりながら侍女や家人を呼びに行く。しめやかに葬儀がこの後に執り行われた。珠桜は享年が二十八歳。早すぎる別れだった。


 私が彼女を喪ってから二十年が過ぎた。娘の朱璃は今年で十九歳だ。既に嫁いでいた。相手はこの国の王で名を縲泉るいせん陛下といい、朱璃を大事にしてくれている。二人の間には可愛い娘が生まれていた。

 翠戀すいれんと名付けたと朱璃が文で教えてくれている。


「……旦那様」


「ああ。蒼藍か」


 若い頃から仕えてくれている蒼藍がお茶を持って部屋に入ってきた。今は私と蒼藍、妻の青蓮や娘で侍女の恋々の四人しかこの屋敷にはいない。だが、今はそれで十分だ。


「旦那様。奥様――珠桜様が亡くなって二十年ですね」


「ああ。もうそんなに経つんだな」


「ええ。珠桜様が逝った季節は今頃でしたから」


 蒼藍は言いながら私の前に静かにお茶が入った茶器を置く。湯気が室内に揺蕩う。お茶の良い香りが鼻腔を抜けた。


「朱璃が今年もこちらに帰りたいと言っていた。蒼藍、部屋の支度を頼むよ」


「はい。翠戀公主様もいらっしゃいますし。玩具やおしめなども用意しないと」


「そうだったね。翠戀様が生まれるとは。年月が過ぎ去るのは早いよ」


 私が言うと蒼藍はしわが出てき始めた顔をくしゃりとさせながら笑った。


「そうですね。璃堅様もお祖父様になるんですから」


「……だな。お祝いも用意しないと」


「わかりました。忙しくなりますね」


 蒼藍が言いながら背中を向けた。私は生まれた初孫を思いながらお茶を口に含んだ。ほろ苦い味がした。


 朱璃が夫や娘を伴って私の住む屋敷に帰ってきた。馬車でなくだが。なんと、夫である縲泉陛下が操る馬に乗ってだ。娘――翠戀公主は朱璃の腕の中にいた。


「……朱璃。おかえり」


「ええ。父上。只今戻りました」


「璃堅様。お久しぶりです」


 私が朱璃に言うと。妻に年々似てくる朱璃が明るい笑顔で答えた。被せるように縲泉陛下も挨拶する。


「……陛下。お久しぶりです。公主様共々、こんなあばら家にようこそお出でくださいました」


「あばら家など。璃堅様。そんな事はおっしゃいますな」


「いえいえ。陛下をおもてなししようにも。人少なになったわが家では。大した事はできません」


 私が言ったら朱璃も陛下も苦笑いした。


「父上。わたくしが何もできずに申し訳ありません。不自由をおかけします」


「何。私が珠桜を忘れたくないからこの屋敷に留まっているんだ。お前の再三の勧めにも従わずに」


「……そうでしたね。父上」


 朱璃は悲しげに笑う。が、縲泉陛下は何を思ったのか。翠戀公主を朱璃の腕から取り上げたのだ。私に目配せをしてくる。不思議に思い、近寄ると。公主をぐいと私に預けてきた。


「義父上。娘の翠戀とは会うのが初めてだったかと。しばらくお守りをお願いします」


「……はあ。わかりました」


「私は朱璃をおろしたら。馬を厩舎に繋いできます。すぐに戻りますので」


 陛下はそう言うと馬首を屋敷の厩舎に向けさせた。私はその場に孫娘でもある翠戀公主と二人残される。途方に暮れたのだった。


 孫の翠戀公主はまだ一歳足らずの小さな幼子だ。柔らかな髪を後ろに束ねて薄い桜色の産着を着せられている。翡翠色の綺麗な瞳が私を見た。


「……う。あ」


「……初めまして。翠戀様」


「お、おじじ!」


 笑いながら挨拶する。そうしたら公主は私を「おじじ」と呼んだ。まだ幼いのに私が爺さんだと分かるらしい。


「ええ。おじじですよ。さあ、おばば様の所に行きましょうね」


「……おばば?」


「そうですよ。おばば様はこちらで眠っています。挨拶をしに行きましょう」


 そう告げたら公主は頷いた。なかなかに聡明な子だ。感心しながら公主を抱いたままで屋敷の中に入った。


 その後、陛下と朱璃が待っていた。珠桜が眠るお墓の前で。私は翠戀公主を二人に返した。朱璃は公主を受け取るとお墓に近づく。


「……お母様。また、今年も来ました。娘も生まれて。名を翠戀と言います」


「義母上。お久しぶりですね。今年も同じく来ました。静かにお眠りになれる事を願います」


「珠桜。今年も朱璃達が来てくれたよ」


 答えはないが。私や朱璃達は墓石に向かって笑いかけた。さあっと風が吹き抜ける。


『……可愛いわね』


 風と一緒に珠桜の囁く声が聞こえたような気がした。朱璃や縲泉陛下にも聞こえたらしい。私は嬉しくなってそっと胸中で返事をした。


(……そうだろう。私達の孫娘だよ)


 珠桜がにっこりと笑う幻が見えたような気がした。泣きそうになり胸が熱くなる。後で娘の朱璃や陛下に心配されたが。何でもないと誤魔化した。そよそよとまた風が吹いたのだった。


 ――終わり――

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