第2話 人影
*(二) 人影
和子が戻ったとき二人の姿はもう邸内になかった。置いてきぼりをくった和子は卑しく舌打ちした。
「まあ、また気ぐれな」
陽が高くのぼり歩きだすと腋の下に汗がにじんだ。打ち寄せる海の波音が樹木のざわめきをかすめてとどき光る魚の肌を思わせた。
先ほどの「それにな」のあとに、父はどのような言葉を続けようとしたのだったか。八重は妙に気がかりだった。たずねると祐親は、そんなことを言ったかという表情で、「いや、別に」と返したが、本意はちがうところにあった。あのあとには、八重と二人だけで歩きたいという言葉が、青年のような感傷とともにあったのである。和子は祐親の後添いで、八重には継母であった。継母が一緒では遠慮もあるだろうという父親の思いやりだった。それというのも、しばらく逢えなくなるという事情が祐親の身に起こっていたからである。
せんころ、祐親のもとに京より使いが届いた。ときの御(おん)大将平清盛からで、京洛にのぼり側に仕えよというものだった。うれしくもあり、面倒でもある知らせだった。伊豆の辺地に生きていることに祐親がみじんの不満もいだいていないと言えば嘘になるが、さりとて、若くはないこの年になって京へ媚を売りに行くのも厄介だった。行けば三年は帰れない。
しかし、結局は行かざるを得ないだろうと腹を決めていた。行かなくて済むのならそれに越したことはないが断われば翻ったと解される。もとより義理がたい祐親のこと、清盛に忠誠を尽くしこそすれ、反抗の意志など持とうはずがなかったが、解釈は人まかせである。その誤解を解くほうがよほど厄介だった。
妻の和子にはそのことを伝えてある。だが娘にはまだだった。出立の日取りが決まってからでも遅くはないと考えていた。子は親の心など知らない。八重は横から覗きこむようにして祐親を見、たわむれた。
「父上、気まぐれが過ぎまする」
わが子ながら年若い娘に見つめられると、ばかばかしくも祐親は落ちつかなかった。
「散歩は気まぐれに限る」
祐親は初めて気まぐれを承認して、その場をごまかした。
歩いているうちに酒の精が体躯をめぐり、祐親の眼のふちを紅く染めた。心地よい疲れをおぼえた祐親は、かすかに見える音無神社の屋根を見上げた。
「境内で腰を休めよう」
音無神杜の杜はあつく、昼間でも夕暮れの感があった。裏手には勢いの強い松川が、わき手にはやわらかく沈みこむようにして流れる音無川があった。境内の石段に足を乗せた祐親は、美禄の匂いを含んだ熱い息をはいた。
「ああー」
すみずみの筋肉がいっせいに緩んだ。そのときだった。前方で人影が動いた。昼間なのにヒトガゲといわねばならないほど音無の杜はよく枝葉を繁らせ、明かりを閉ざしていた。祐親は一瞬を身をひいた。が、すぐに平静に戻った。この地で伊東祐親このおれを襲える者はいない、それが自信だった。よく見ると、逃げ場を失った動物のように一人の若者がそこに突っ立っていた。
「誰だ」
父親の落ちついた声を聴いて八重は胸をなでおろした。そして、祐親がそれと気づく前に八重は若者の名を呼んだ。
「頼朝さま」
「そうだったか」
祐親もようやく判別したようだった。八重に名を呼ばれた若者は、平治の乱で平清盛に破れた源義朝の第三子、のちに鎌倉幕府を創立することになる源頼朝、その男であった。
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松川無情――八重と頼朝 鬼伯 (kihaku) @sinigy
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