ユグドラシルの燈火

@tanishi5656

第1話

 大学4年生の設楽太一は追い込まれていた。

 卒業論文案を10月中旬までに提出するように民俗学部研究室の阿藤教授から言われていたが、まだ一文字も書いていない。案も作っていない。題材も決まっていない。

 流されやすい設楽は生活費のためにコンビニバイトを始めたはいいものの、バイトリーダーにいいように言いくるめられてシフトを増やされて、大学生活のほとんどをコンビニバイトで費やしてしまい、気が付けば論文に何も手を付けないまま阿藤教授に進捗を報告する日が来てしまったのだ。

 阿藤教授は厳しいことで有名であり、設楽は青白い顔で教授のドアの前でウロウロする。

 何度目かのため息をついた後、意を決した設楽は阿藤教授の部屋のドアをノックした。

「阿藤教授、設楽です。」

「入りたまえ。」

 中から阿藤教授の重く透き通るような声が聞こえた。

 「失礼します。」

 部屋の中に入ると、窓から阿藤教授に光が差し込んでおり、日本人離れした顔立ちの阿藤教授は男性でありながら、まるで絵画のような荘厳な美しさが感じられた。阿藤教授は持っていたコーヒーカップを机の上に置くと設楽の方へ体を向けた。

「卒業論文案の提出日だったね。」

「その件なのですが・・・」

 設楽が言葉を濁すと、阿藤教授は目を細めた。

「もしかするとまだ案ができていなのか?案の提出が遅れるようであれば事前に私へ連絡するように伝えておいたはずだが?」

 もっともな言葉に設楽は俯くことしかできない。

 返事のない設楽に阿藤教授は話しかける。

「それで、進捗状況はどれくらいだ?」

「まだ何もしていないです。」

 阿藤教授は設楽に厳しい目を向ける。

「4月に研究室へ配属してから半年になるね。その間は何をしていたのかな?」

「アルバイトを・・・」

「それではそのアルバイトで稼いだ金で留年でもするのかね?」

「・・・今年で卒業したいです。」

 阿藤教授は呆れた顔をしながら机の上に置いてあった、栄樹村世界樹祭りと記載された白黒のパンフレットを設楽に渡した。

「これは?」

「毎年、君のような生徒がいるから、卒業論文の題材になりそうなものを用意していたんだよ。

 これまで栄樹村という村の村民以外参加できなかった祭りがあるそうなんだが、今年から村民以外も参加できるようになったらしい。

 事前にフィールドワークを行ってから、祭りに参加して内容を論文にまとめなさい。

 ああ、旅費と宿泊費はこちらで用意するから領収書を切るように。」

 断るすべを持たない設楽は流されるように祭りに参加することになった。

 退出するときに阿藤教授が意味深な目をこちらへ向けてきたことに設楽は気が付かなかった。


 パンフレット地図にある栄樹村の住所を目指して、左右の揺れが大きい特急列車に乗られて長野県に到着し、一日3便しかないバスに乗りかえた。

 バスの乗客は3人しかいない。設楽と老婆と禿げ頭の出っ歯の男だ。

 バスに揺られて2時間が経過し、設楽の腰が悲鳴を上げ始めたころに禿げ頭の男が設楽に話しかけてきた。

「お兄ちゃんも栄樹村に行くんか?」

「あ、はい。卒業論文作成のためのフィールドワークに行きます。」

「お兄ちゃん、大学生さんやったんか。ふぃーるどわーくっちゅうもんのためにわざわざこんな僻地まで来るなんて難儀やのう。

 わいは川崎平八郎ってゆうて栄樹村の知り合いに久しぶりに会いに行くんや。

 100年ぶりやったかのう。ケヒヒヒヒ。」

「そ、そうなんですかあ。」

 知らない男性からの突然のジョークに設楽は苦笑いをする。

「ケヒヒヒヒ。まあ、お兄ちゃん。仲良くしようや。袖振り合うもなんちゃらってね。」

 川崎の口調はやわらかく人懐っこい表情をしていたが、目つきが爬虫類のようにギョロリとしており、設楽は少し不気味に感じた。

 バスが村に到着すると川崎は「ほんじゃ、また」と言ってどこかへするりを消えていった。

 栄樹村はきれいに紅葉した山に囲まれており、コンクリートブロックの都会から移動した設楽に別世界に迷い込んだ感覚を感じさせた。

 そして、高揚した山の天辺に一本だけ異様に巨大な木がそびえ立っており、ファンタジーの世界のようで設楽の現実感を失わせた。

「なんだか、すごいところに来ちゃったなあ。」

 設楽は村に一つしかない民宿に荷物を預けると村を散策し始めた。

 阿藤教授によると現地の人に話を聞くことも民俗学としては重要らしい。

 赤々とした紅葉に囲まれながら道を歩いていると、畑を耕している老婆を見つけたので、設楽はさっそく話しかけた。

「すみません。大学生の設楽というものなんですが、お祭りのことについて伺ってもよろしいですか?」

「・・・・・・」

 老婆は黙ったままミミズクのような眼でじっと設楽を見つめる。

「あの、すみません。お忙しかったですか?」

「・・・・・」

 老婆は不気味に黙ったままだ。設楽は居心地が悪くなり、すみませんでした、と言ってそそくさと老婆から逃げた。

 逃げた設楽を老婆はじっと見つめ続けた。

 その後も、何人かの村人に話しかけたが、同じように会話が成立しなかった。

 まるで会話ができないように設楽が話しかけても村人たちは黙ったままだったのだ。

 心が折れた設楽は道に座り込んだ。

「来るんじゃなかった。そもそも論文に手を付けていればこんなことには・・・」

 思わずため息が出てしまった。

 阿藤教授にお金を出してもらってこの村まで来て、何も成果がありませんでしたなんて口が裂けても言えない。

 論文案の提出もこれ以上遅れると本当に見限られて卒業できなくなってしまう。

 困り果てていると、険しい顔で巨大な木を見ている50代くらいの男性を見つけた。

 やけくそになってきた設楽は立ち上がり、諦め半分で男性に話しかける。

「すみません。話を伺ってもよろしいですか?」

「全然いいよ。一人で寂しかったからねえ。」

 以外にも男性は温和そうな顔に変化して優しそうな声で返事をした。

 設楽はようやく巡り合えた会話してくれる村人に歓喜した。少なくとも阿藤教授に何もできませんでしたと報告しなくてもよさそうだ。

「ありがとうございます。ありがとうございます。ところで、この村に住んでいるんですか?」

「生まれはこの村だけど、今は金沢に住んでるよ。僕は植物の研究をしていて、この村にしか生息しない植物の研究に来たんだよ。あの山のてっぺんの巨大な木とかね。

 君は大学生かい。」

「そうです。卒業論文作成のためにこの村の祭りを見学と現地調査に来ました。」

「そうかそうか。偉いねえ。僕は斎藤孝雄と言って、金沢大学で准教授をやっているんだ。

 この村の祭りのことは正直あまり覚えていないから力になってあげられないかもしれないけど、できる限り協力してあげるよ。

 この村の人は閉鎖的で大変だったでしょう。」

「そうなんですよ。だれも何もしゃべってくれないんですよ。何か口止めされているみたいに。」

「ああ、祭りがあるけど、よそ者とあまりしゃべらないように言われてるのかもしれないね。僕の植物研究に付き合ってくれたら、村の人の仲介役になってあげるよ。」

「いいんですか。」

 斎藤はにっこり笑った。設楽にとって斎藤は地獄の中で垂れてきた蜘蛛の糸のように輝いて見えた。

 斎藤はこの村に1か月前から来ていたようだ。

 結婚はしているが、妻とは長く別居状態であるため身軽なのだとから笑いをしていた。

 斎藤の植物採集を手伝う過程で、設楽は斎藤から植物や森のことについて教えてもらった。

「設楽君。ここは原生林と言って古くから人の手が入っていない森なんだよ。だから成長しきった樹木がたくさんある。古い森には木が密集していると勘違いする人がいるけれども、実際には木が生えていない場所がちらほらあるのが原生林の特徴でもあるんだよ。面白いよねえ。」

「会話するのは人間だけだと思われがちだけど、植物も会話していると最近の研究で分かってきたんだよ。」

「ほかの生き物を殺すすべを持っている植物もいるんだよ。セコイアは90mの巨大な木で雷を自身に当てることで山火事を引き起こしてセコイア以外の生物を殺して土壌に栄養を蓄えさせたうえで種をまくんだ。それで繫栄している珍しい植物だよ。」

「そうなんですね。斎藤さんと話していると植物学者になりそうですよ。」

「ははは。設楽君、うちに来ないかい。」

「俺は典型的な文系で、理系教科は苦手なので遠慮します。」

「そうか。残念だねえ。そういえば、設楽君。現地調査はうまくいっているのかい。この村の人は排他的だから会話するのも難しいでしょ。僕は何度かこの村に来たことがあって村の人とも顔なじみだから手伝ってあげようか?」

「本当ですか。実は全然会話できなくて困っていたんです。」

「いいよ、いいよ。代わりに私の植物採集も手伝ってもらうからね。」

 斎藤との会話は楽しかった。植物が好きなのが伝わってきて、斎藤の知識には興味が引かれた。

 斎藤はタンポポや三つ葉ような動物に踏みつけられる環境で育つ植物以外は可能な限り踏みつけず、器用に森を歩いていた。

 しかし、たまに斎藤がとある植物を見かけると険しい顔をして摘んで袋に詰めていた。聞くと

「外来種がこの原生林にまで入ってきているんだ。放っておくと増えて在来種を荒らしてしまうから、見つけ次第、駆除しないといけないんだよ。」

 と真剣な顔で答えていた。

 

 そうしているうちに祭り当日となった。

 設楽は斎藤の協力もあって現地調査を終えていた。

 斎藤と一緒にいると村人たちは別人のように態度を軟化させて、設楽の質問に答えてくれた。

 村人から聞いたところによると、2000年以上前からこの村の原生林にある御神木を奉る祭りであり、毎年この時期に御神木の前で村の巫女が舞を披露し、神主が祝詞を唱えるのだそうだ。

 そして、あの巨大な木、もとい御神木の前で神主が一人祭事を行うらしい。

 御神木には村人も近づくことができず、神主のみが近づくことを許されているらしい。

 その神主はなんと金髪で鼻の高い外国人だった。これほど閉鎖的なのに重要なポストの神主は外国人で村人たちは良いのだろうかと設楽は腑に落ちない気持ちだった。

 御神木は何の植物の植物かわからないと斎藤が漏らしていた。

 斎藤の本当の目的は御神木の調査なのだろう。

 祭りの日になると斎藤は用事があるからと、一人どこかへ消えていった。

 村は多くの人でにぎわっており、神社の境内には出店まで並んでいた。

 社から外国人神主が出てきて祭りの開催を祝った。

「ヨウこそ。イラっしゃいました。きょうは2000年にワタるカミガミのイノリの祭りデス。

 ミナさん、タノしんでください。イエーイ!!」

 そういうと巨大なクラッカーを鳴らした。神主の奇行に村民は慣れているのか無反応だった。

 巫女も何人かいて、ビンゴ大会のためのビンゴカードを配り始めた。

 ビンゴ大会の景品は意外ながら一位がロードバイク、二位がドローンだった。副賞で一位と二位の人は御神木に近づいて特別に参拝できる権利を得られるそうだ。

 斎藤は御神木の研究のためにビンゴ大会に出た方がよかったんじゃないだろうか、一人で物思いにふけっていると、バスで一緒だった川崎がぬるりと近づいてきた。

「ケヒヒヒヒ。お兄ちゃん。また会ったな。」

 思わず設楽は悲鳴を上げそうになった。

 一呼吸おいて、何事もなかったかのように返事をする。

「いえ、リーチにはなりましたが、なかなかビンゴにならないですね。」

「そうか、突然やけどもお兄ちゃんにお願いがあるんや。一位か二位でビンゴになったらそのビンゴカードをこっそりワシにくれへんか?

 申し訳ないんやけど、どうしてもワシは御神木に行かないかんのや。」

 あまりに真剣な顔で頼まれるので、設楽は流されるように頷いた。

「ありがとな!ワシは後ろの方におるから、当たったら頼むわ。」

 そう言うと、川崎は人ごみの中へ消えていった。

 設楽はあの禿げ頭の男に苦手意識を感じていた。

 近寄られると背筋に冷たいものを感じるのだ。

 しかし、川崎はなぜ御神木に行こうとしているのだろう。

 御神木に参拝して叶えたい願いでもあるのだろうか?

 設楽が思考を巡らせているうちに、するっとビンゴ大会の一位と二位が搔っ攫われてしまった。

 一位は佐藤という名の白髪で初老の男性、二位は50代くらいのふっくらした体系の森山という女性で、どちらも村の外から来た観光客のようだ。

 設楽はリーチを重ねながらも最後までビンゴにならなかったため、参加賞のティッシュももらったのだった。

 ビンゴの一位と二位の人は巫女たちに何やら説明をされて連れられて行った。

 これから御神木に参拝に行くのだろう。

 神主からそれぞれの家族に御神木まで距離があるため、時間がかかると大きな声で説明されていたのが設楽の方にも聞こえてきた。

 その翌朝、御神木に向かった2人が帰ってこないと騒ぎになっていたのだった。


 設楽は民宿で寝ていると外から聞こえる騒ぎで目を覚ました。

 身支度をしてから借りている部屋の外に出ると、民宿の大広間では昨日祭りで御神木に向かった佐藤の家族と太った警察が大声で揉めていた。

「なんで探しに行ってくれないんですか?うちの主人が昨日からあの森に入って行って帰ってこないんですよ。」

「先行して捜索に行ったうちの署のもんが帰ってこんのですよ。電話しても県外でつながらないし・・・。ヘリで捜索しようにもこの霧じゃあ飛ばせない。二重遭難を避けるために、今は動くなと上から言われてるんですわ。」

「こういう時に何もしないなんて、なんのための警察なんですか。」

「ワシらの仲間も遭難しとる可能性が高い。今すぐにでも捜索したい気持ちは一緒ですわ。せめて霧が晴れてくれれば捜索に行けるんですけども・・・。」

 佐藤の家族は泣き崩れてしまった。

 設楽は突然のことに、廊下の真ん中で立ち尽くしてしまった。

 今まで平和そのものの人生であったため、こんな場面に出くわしたのは初めてだった。恐怖と不安感で呼吸が浅くなり、視野が狭くなるのを感じる。

 そういえば、斎藤は大丈夫なのだろうか。

 昨日から見ていないが、植物研究のために森の中に入ってはいないだろうか。何かに巻き込まれてはいないだろうか。

 急に不安に駆られた設楽は急いで斎藤が仮住まいしている村人の家へ走った。

「すみません。誰かいませんか。」

 村人の家のドアを勢い良く開けて大きな声で呼びかけると、家の奥から老婆がやってきた。

「すみません、斎藤さんはいますか。」

「孝雄は昨日から帰ってきてないよ。大の大人が連絡ひとつよこさないで、何をやってるんだろうね。まったく。」

 設楽は目の前が真っ暗になり、足元が遠く離れた感覚を感じた。不安感で浮遊して、頭がふらふらするような気持ちだ。

 また、急いで民宿に戻ると、息を切らしながら突撃するように玄関にいた若い警察に話しかけた。

「はあ。はあ。すみません。斎藤孝雄さんって人が昨日から行方が分からなくなってるんです。50代くらいで黒縁眼鏡で天然パーマの。昨日、森の中に入ったかもしれないんです。探してもらえませんか。」

「はあ、そんなんですかあ。でもこっちも今、手いっぱいでね。」

「探してもらえないんですか。」

「森の中に入ったときに、ついでに探すことはできるかな。でも、この霧じゃ、いつになるやら。」

 若い警察の適当な対応に設楽はカッとなった。

「ついでってなんですか。」

「正式に探してほしいなら、捜索届を出してもらわないと対応できないよ。うちはボランティアじゃないから。」

 若い警察はそう言って設楽から離れていった。

 警察は信頼できない。探すなら自分で探さないと。自分が遭難するかもしれないという考えは設楽の頭から抜け落ちており、自分が探さないと誰も斎藤を見つけてくれないという思いが強かった。

 斎藤からもらった採取用のナイフを持つと、霧が立ち込める森の中に一人入っていった。川崎がギョロリとした目でそれを見ていたことに設楽は気が付かなかった。

 

 森に入ると神社の境内のような神聖な空気感に突然変わった。人間の立ち入りを拒むかのような荘厳な空気と濃密な霧に設楽は息をのみ、立ち止まるが、斎藤を探さないとという強い意志で森の奥へ足を進めた。

 途中、遭難しないよう、定期的に樹木にナイフで×印をつけていく。これを辿れば村に帰ることができるという訳だ。

 これは斎藤から教えてもらった散策時に遭難を防止のやり方だった。

 森に入ってしばらくすると設楽は視線を感じて立ち止まった。誰かに見られている気がするが、周りを見渡しても霧が立ち込めているだけで誰もいない。

「誰かいませんか。助けに来ました。」

 大きな声を出すが、声は霧の中へ消えていき、返事はない。

 霧のせいで不気味な異世界に閉じ込められてしまった感覚に陥った設楽は恐怖が足元から這い上がってくる気がした。

 「誰かいませんか。」

 もう一度声を出したが、捜索のためなのか自分の恐怖をかき消すためなのか、分からなくなってきた。

 声を出しながら、印をつけて足早に歩みを進めてどれくらい時間がたっただろうか。

 もう何時間も彷徨っている気がしていたが、スマホを見るとまだ30分くらいしかたっていない。

 電波は圏外だった。

 後、2時間だけ捜索しよう。日没も考えると、それが限度だった。

 相変わらず何かの視線だけはずっと感じていたが、設楽は気にしないことにして先に進んだ。

 

 しばらく森の中を進んでいると急に霧が晴れ、心地よい風が設楽の身体を通り過ぎたら、目の前に巨大な御神木が姿を現した。

 あまりの巨大さとあまりの神々しさに設楽は我を忘れて御神木に見入った。

 まるで神と遭遇したかのような不思議な感覚であり、設楽は無宗教にもかかわらず、つい祈りを捧げそうになる。

 しばらく御神木に見入っていた設楽だったが、かすかにザッ、ザッと土を掘るような音が聞こえていることに気が付く。

 音は設楽から見て御神木の反対側からなっているようだった。

 遭難者がいるのかもしれないと、設楽は御神木から無理やり目を離して音の方へ近づいた。

 これまで慣れない森の中を歩いてきたせいで、設楽の背中には大量の汗が流れており、シャツが肌に引っ付いて気持ちが悪い。

 設楽は土の掘る音の場所を視界にいれた。

 どうやら神主が穴を掘っているようだ。

 穴は3つある。

 穴の隣にそれぞれ3人の人が倒れている。

 2人は昨日、御神木に向かった人だ。

 頭から血を流して濁った目はうつろに空を見ている。

 もう1人は。

 もう1人は斎藤だった。

 設楽に優しく植物について教えてくれた斎藤だった。

 斎藤は目を瞑って倒れている。

 生きているのか、死んでいるのかここからでは分からない。

 神主が設楽の方を向く。

 設楽と神主の目が合った。

 無機質な目をしていた。

 無感情な目をしていた。

 感情が抜け落ちていた。

 設楽は誰かが悲鳴を上げたのを聞いた。

 悲鳴が森の中に響き渡るのを聞いた。

 悲鳴を上げていたのは設楽だった。

 設楽は走った。

 力の限り走った。

 後ろを振り返ったが、神主が追いかけてくることはなかった。

 しかし、走るのをやめようとは思わなかった。

 しばらく走り続けて体力の限界になったとき地面に倒れこんだ。

 息が苦しい。足が鉛のように重い。

 キョロキョロと辺りを見渡し、神主が追いかけてきていないことを確認した。

 遅れて身体が突然壊れたかのようにガタガタと震え始めた。

 人が死んでいた。

 殺されていた。

 濁った目をした顔がフラッシュバックして喉の奥から酸っぱいものが込み上げている。

 思わず、地面に吐く。

 怖い。

 人を殺した人間が怖い。

 殺されるのが怖い。

 怖い、怖い、怖い。

 しばらく震えていると、突然声が聞こえてきた。

「おや、ここに来るニンゲンなんて珍しいっスね。」

「うわあああああああ。」

 突然の声に設楽は悲鳴を上げて飛び跳ねる。

「ああ、ごめんっス。びっくりさせるつもりはなかったんス。」

 声の主は霧の森の中を透明な翅でふわふわと飛ぶ可愛らしい顔をした小さな妖精だった。

 設楽はあまりの現実感の無さに呆然としてしまった。

「どうしたんスか。ああ、妖精は初めてですか?最近、妖精は少ないっスからね。しょうがない、しょうがない。オイラはパック。ニンゲンの名前は?」

「設楽太一。ほ、本当に妖精なの?」

「そうっスよ。昔から人を導く親切な存在。かわいい妖精さんとは我々のことっスよ。」

 そう言うと、妖精は飛びながら胸を張った。

「なんで?どうしてここに?」

「震えていて可哀そうなニンゲンがいたから助けに来たっスよ。オイラ親切だから放っておけないんスよ。」

「た、助けに?た、助けてください。人が死んでいて、それで、それで、斎藤さんも倒れていて、俺、どうしていいか、わからないんです。」

 パニックになる設楽に対して、パックは目を合わせてゆっくり話しかける。

「タイチ。落ち着いて。それじゃあ、分からないよ。タイチはどうしたいの?何がやりたいの?」

「俺がどうしたいのか・・・」

 設楽はそう言われて呆然とした。自分がどうしたいかなど全く頭になかった。

 設楽の様子を見て、パックは腕を組んで冷静に話しかける。

「それじゃあまず、情報を整理するっスよ。どこでニンゲンが死んでいたっスか?」

「巨大な木、御神木の前。」

「誰が死んでたっスか?」

「観光客のお年寄りの2人。斎藤さん・・・斎藤さんは倒れていたけど、生きているか分からない。」

「どういう状態だったんスか?」

「3人の横に神主が穴を掘ってた。」

「ふむふむ。この辺の巨大な木というとユグドラシルっスね。あと100年くらいで開花しそうだって話を風の噂で聞いたことがあるっス。その神主がユグドラシルの開花を早めるためにニンゲンたちを殺して埋めてるんスね。古くからある開花の呪いっス。」

「ユグドラシル?何それ?」

「タイチは知らないっスか?天界と地上と冥界を結ぶ世界樹っスよ。ユグドラシルが開花すると神が降臨するっス。」

「神様?本当にいるの?」

「もちろんいるっスよ。ただ、最近は世界樹が少なくなったっスから、神も地上に降りて来られなくなってるっス。ただ、神が地上に落ちてくるとニンゲンは大変っスよ。」

「なんで大変なの?」

「そりゃあ、久しぶりに地上に降りて来たら、川も海も汚れて、空は濁んで、巨大な塔が空に向かっていっぱい建てられてるんっスよ。また、神が怒って津波で全部流すに決まってるっス。」

「ノアの箱舟・・・。本当にあったことだったのか。」

「あんなに大変なことがあったのにニンゲンはすぐに忘れるっスね。それで、タイチはどうするっすか?放っておくと大変なことになるっスよ。」

 パックは設楽に目線を合わせる。設楽はパックの綺麗な碧眼に吸い込まれる幻視をした。

「斎藤さんを助けに行かないと。まだ、生きているかもしれない。」

 パックはにんまり笑った。

「タイチは勇敢っスね。オイラもお手伝いするっスよ。」

「ありがとう。」

 パックが手を差し出すと、設楽はその小さな手を握った。

「さっそくユグドラシルへ案内するっスよ。サイトウってニンゲンも助けないといけないっスからね。」

 パックはそう言うと霧の充満した森の中を慣れた様子で先導した。

 

 ふと設楽は森の中に入ってから感じていた視線のことを思い出した。

 今も視線を感じるのでおそらくパックの視線ではなかったのだろう。

 パックに聞いてみようと口を開けた瞬間、突然設楽は後ろの方から話しかけられた。

「お兄ちゃん。そいつを信用したらいかんよ。」

 話しかけてきたのはギョロリとした目つきの川崎だった。

「川崎さん、どうしてここに?」

「お兄ちゃんが一人で森の中に行くもんやから、心配で付いてきたんや。」

 川崎がパックを睨みながら近づいてくる。

「タイチ、注意するっス。こいつはニンゲンじゃないっスよ。」

「え?川崎さん、人間じゃないの?」

「そうっス。正体を現すっス。」

 そう言うとパックは人差し指の先から光を放った。

 光に当てられた川崎は姿を人間から河童に姿を変えた。

 河童は緑色で頭には皿があり、全身がぬらりと濡れたおぞましい姿をしており、設楽は背筋がゾッとして思わず悲鳴を上げた。

 「このカッパはずっと森に入ってからずっとタイチを付け回してたっス。カッパは人間の肝を食うッスから、タイチは狙われてたんスよ。ここはオイラに任せて先に行くっス。」

 そう言うとパックは何かボソボソと呪文のようなものを呟くと、指先に火を灯り、河童へ投げつけた。

 火は河童に命中したが、河童のぬらりとした肌には傷ひとつなく、ただ、パックを睨みつけていた。

「このいたずら妖精め。」

「タイチ、早く走るっス。」

「パック、ごめん。」

 設楽はパックに謝ると、一人森の中を走った。

 後ろで河童が何か叫んでいたが、パックの放つ魔法による騒音でかき消されて設楽の耳に届くことはなかった。

 「まさか河童だったなんて。」

 川崎が河童だということに設楽は衝撃を受けていた。

 人間のふりをして設楽に近づき、自分を殺して肝をすする河童の姿を想像し、設楽は鳥肌が立った。

「パックは大丈夫だろうか。」

 設楽には魔法のことはさっぱりわからなかったが、パックは魔法は河童には通じていなかったように見えた。

 パックがカッパの足止めをしてくれている間に斎藤さんを助けて、可能であればユグドラシルの開花を阻止しなければならないと思うが設楽には斎藤さんを助ける方法もユグドラシルの開花を阻止するやり方も分からない。

 しかし、神父は人間である。

 人を殺していたかもしれないが、人間であれば話せば分かり合えることをアルバイトで設楽は知っていた。

 意外と設楽はクレーマーの対応がうまかったのだ。

 アルバイトで身に着けたよく分からない自信をもって森のなかへ歩みを進める。


 森は最初に入ったときよりもより一層不気味に見えた。

 まるで人を拒むような雰囲気を感じとって設楽は少し身震いをした。

 お調子者のパックといたときは感じなかった不安が背後から近づいてくるようだった。

 突然、ゴゴゴゴゴゴゴという大きな音が鳴り、地面が大きく揺れ出した。

 今まで感じたことがない大きな揺れに設楽は地面に倒れ込む。

 すると設楽の目も前の土が突然盛り上がり始め、地面から大きな化け物が姿を現した。

 その化け物は巨大な蛇のようだが、無数の子供のような手足が生えており、人間と似た歯があったため、およそ蛇と言えるような見た目ではなかった。

 化け物が設楽の方を向き、叫び声をあげた。

 「キシャアアアアアアアア。」

 設楽は蛇に睨まれたカエルのように地面に這いつくばった姿で固まった。

 化け物が大きな口を開けて設楽の飲み込もうとする。

 設楽は突然近づいてくる死を前に走馬灯を見ていた。

 何もない平凡な人生だった。

 周りの人の目を気にして、いい人を演じるだけのつまらない人生だった。

 まだ、何も成し遂げられていない。

 まだ、何も達成できたことはない。

 死ぬ間際の走馬灯なのに自分で見ていても、こんなにもつまらない。

 こんなつまらない人生のまま終わってしまっていいのか。

 いいわけがない。

 こんなところで終われない。

 俺の人生はこれから変わるんだ。

 これから変えてやるんだ。

 まだ、死ねない。

 死ぬわけにはいかない。

「あああああああああああ。」

 設楽は自らを鼓舞するように叫び声をあげて、カエルのように間抜けな姿でジャンプして迫る化け物の口から逃れた。

 逃れた先でネズミのように逃げようとした設楽だったが、素早く回り込んだ胴体から生えた化け物の子供のような小さな手に捕まえられてしまった。

「くそ、離せ。」

 小さな手は見た目からは想像できないほど強い力で設楽を締め上げて暴れまわる設楽をがっしり握りこんだ。

 再び、設楽の目の前に化け物の口が近づいてくる。

 化け物の口からは側溝に詰まった汚泥のような臭いがした。

 もはやこれまでかと目を瞑った設楽だったが、突然、設楽のポケットにくしゃくしゃに詰め込まれていたパンフレットが荘厳な光を放った。

「キシャアアアアアアア。」

 光を顔に浴びた化け物は光から逃れるように、設楽をほっぽり出して森の奥へと消えていった。

「助かったみたいだけど、今のはなんだったんだ。」

 設楽は光らなくなったくしゃくしゃのパンフレットを見ながらそう呟いた。

 パンフレットは阿藤教授から渡されたものだった。

「タイチ、大丈夫だったっスか?」

 設楽の後ろからずぶ濡れのパックが飛んできた。

「蛇みたいな化け物に襲われたけど、このパンフレットが突然光ったら逃げていったよ。」

「ユグドラシルを守護する蛇と言えば、だぶんニーズヘッグっスね。ニーズヘッグほどの強力な神話の生物を追い払うなんてニンゲン技じゃないっスね。このパンフレットはだれからもらったっスか?」

「うちの研究室の阿藤教授だよ。ただの厳しいだけの人間だけどね。」

「うーん。」

 パックはくしゃくしゃのパンフレットを見ながら難しい顔で考えていたが、諦めたように設楽の方に目を向けた。

「今、考えていてもしょうがないっスね。とりあえず、ユグドラシルに向かうっスよ。」

「そうだね。そういえば河童はどうなったの?」

「なかなか食えない河童だったっスけど、なんとか木に縛り付けて来れたっス。しばらくは動けないっス。」

「本当?パックは強いんだね。」

「オイラは強くて優しい妖精さんっス。もっと褒めるっスよ。」

「よっ、日本一、いや、世界一。頼れるかわいい最高の妖精さんだぜ。」

「ふーん!」

 パックは鼻高々に胸を張った。

 

 設楽たちがユグドラシルに到着する頃には、空はもう夕日で不気味な赤へと染められていた。

 神父はまだ穴を掘っており、設楽の姿を見ると呆れた表情に変わった。

「Oh my god。モリのソトに逃げなかったんデスか?セッカク助かったイノチをこんなところで捨てるツモリですか?はやく帰りナサイ。」

「まだ帰れませんよ。斎藤さんを返してください。」

「この男はシにました。もうどうしようもありまセン。」

「死んだ?」

 設楽は呆然として立ち尽くした。

 斎藤を助けにここまで来たのに・・・。

 ここまで頑張ってきたのに・・・。

「タイチ、しっかりするっス!せめて死体だけでも家族に返してあげるっスよ。」

「・・・そうだね。そうだよね。死体だけでも」

 神主は嫌そうな顔でパックを見た。

「イタズラ妖精がヨケイなことをフキこんでいるみたいデスね。降りかかるヒノコは払わないトネ。」

 神主が腕を一振りすると周りの植物が急成長してパックの身体を拘束した。

「流石、ユグドラシルの契約者っスね。でも、これくらいじゃオイラは止められないっスよ。『火のルーン』。」

 パックが放った火のルーンにより拘束していた植物は燃やし尽くされて、神主に向かって火球が飛んで行った。

 神主は奇妙な歩き方で火球を避けると、難しそうな顔をした。

「強力なシンピを操るところを見ると、カミの時代からイきるふるいフェアリーですネ。」

「ふーん。今更後悔したって遅いっスよ。『風のルーン』。」

 かまいたちのような鋭い風が神父に襲い掛かったが、神父の前に黄金の障壁が現れて弾かれた。

「ムダです。ユグドラシルがある限りワタシには傷ひとつツケられませんヨ。」

 パックと神主の戦闘を見て設楽は違和感を感じていた。

 神主の歩き方に見覚えがあるのだ。

 その歩き方は植物に配慮した独特の歩き方だった。

「斎藤さん・・・。もしかしてあなたは斎藤さんじゃないですか?」

「・・・どうしてそう思うんですか?」

「斎藤さんは独特な歩き方をしていますから。周りの植物に配慮した優しい斎藤さんらしい歩き方です。」

「・・・君にだけは知られたくはなかったんだが・・・」

 神主はゆっくり夕空を見上げると、その姿を斎藤の姿へと一瞬で変えた。

「斎藤さん、どうして・・・」

 斎藤は設楽に顔を向けずに、夕空を見ながらぽつりと話した。

「娘が亡くなったんだ。交通事故だった。僕は仕事人間で家にはほとんどいなくてね。娘のことは妻に任せっきりだった。娘が死んだとき、僕は激しい後悔に襲われた。なんでもっと娘と向き合ってあげなかったんだろう。なんでもっと色んな所に連れて行ってあげなかったんだろう。なんでもっと!なんで・・・」

「・・・斎藤さん。」

「故郷のこの村には世界樹の伝説が残されていた。世界樹の開花によって神が降臨すると。どんな神が降臨するか分からない。神が降臨した後に娘を生き返らせてほしいとお願いして、それを叶えてくれる保障なんてない。だけど、やるしかないんだ。やらざるを得ないんだ。僕の人生は娘が死んだときに終わった。胸にぽっかり空いた穴はけして塞がることはない。僕にはこの選択肢しか残されていないんだ。ただ・・・、ただ君にだけは知られたくなかった。君は娘にとても似ているんだよ。顔やしぐさじゃなくて雰囲気が・・・。君に知られたくなくてこんな回りくどい真似をしていたのに、結局知られてしまった。僕は間抜けだね・・・。」

「斎藤さん、俺はあなたのことを尊敬していますし、とても感謝しています。この村に来て村の人に邪険にされてるときに、あなたに手伝ってもらって、優しくしてもらってどれほど救われたことか・・・。斎藤さん、今でも遅くありません。こんなこと止めましょう!」

 設楽が泣きながら斎藤へ訴えかけたが、斎藤は血走った目で否定する。

「言っただろう。僕の人生はもう終わったんだ。もう止まれないんだよ。設楽君、君には悪いが、少し眠ってもらうよ。」

 斎藤は手を振って植物を設楽に向けたが、パックの火のルーンによって燃やされた。

「タイチ、ユグドラシルを燃やさないと、もう止められないっスよ。一個だけ打開策があるっスけど聴くっスか?」

「パック、教えて!」

「オイラが契約でタイチに火のルーンを刻んで、タイチ自身の神秘でユグドラシルを燃やすっス。ただ、タイチは神秘の使えない一般人っスから、契約のために寿命が50年縮むっス。」

「分かった。やって。」

「やめるんだ、設楽君。」

「斎藤さん、俺はここまでくる間にこれまでの自分の人生がどれだけちっぽけでつまらない人生だったか思い知らされました。俺は長くてつまらない人生よりも短くても面白い人生を歩みたい。パック!」

「シタラタイチ、寿命50年を対価に、汝は『火のルーン』を求めるか?」

「求める!」

「ここに契約は結ばれた。妖精パックが汝に『火のルーン』を授けよう。」

 設楽の右手の甲が光り出し、ルーン文字が刻まれた。

 すると、手の甲のルーン文字から突然火が噴き出し設楽の身体を燃やし始めた。

「うわああああ。パック、これは何?」

 火に包まれた設楽が藻掻きながらパックに尋ねると、パックは突然、悪魔のような表情に変化し、狂ったように笑い出した。

「キャハハハハハ。まんまと騙されたっスね。間抜けなタイチ。これは火のルーンじゃなくて焼死のルーンっスよ。ここまで我慢してきた甲斐があったっス。立派な決意も台無しっスね。」

「設楽君、今助ける。」

 斎藤が火を消すために設楽の身体を植物で覆ったが、火は消えることなく設楽は燃え続ける。

「ムダっスよ。焼死のルーンが刻まれている限り、水につかっても死ぬまで燃え続けるっスよ。キャハハハハハ。」

 設楽は藻掻きながらも目に決意を宿した。

「ここで死ぬなら仕方がない。ただ、斎藤さんを止めるためにも、ユグドラシルは道連れにしてやる。」

 設楽は炎に包まれ、全身に酷い火傷を負いながらも、気合だけでユグドラシルの元まで移動してユグドラシルにしがみ付いた。

「おおおおおおお。燃えろおおお。」

「ムダムダ。ユグドラシルはそんなもので燃えるものじゃないっス。気合は認めるっスけど、何の意味もないっス。おとなしく絶望してもがき苦しむといいっス。」

「関係ないね!一緒に燃やしてやる。おおおおおお。」

 燃える設楽が気合でユグドラシルにしがみ付いていたが、ユグドラシルは燃えることなく毅然と佇んでいた。

 焼死のルーンが刻まれた設楽の右手はすでに黒く炭化しており、設楽の意識は徐々に薄れていった。


 気が付くと設楽は上下左右が真っ白な空間にいた。

「ここは、一体?」

「悩ましいわね。久しぶりに地上に降りたいけれども、こんな面白い人の子を放っておくのももったいない。どうするべきかしら?」

 目の前には美を体現したかのような絶世の美女が佇んでいた。

「あら、あなた。珍しいものを持ってるわね。それならあなたに期待した方が良さそうね。」

 そう言うと美女は人差し指を設楽のおでこに当てた。

「よろしくね。勇者さん。」


 設楽が目を覚ますと、何故か身体を包んでいた炎は消え去っており、ユグドラシルが煌々と燃えていた。

 日が暮れた闇の中を燈火のようにユグドラシルは世界を照らしていた。

「なんでなんでなんでなんで、こんなことになってるんスか?どうしてどうしてどうして。は、早く逃げないと。」

 パックはそう言うと飛び去って行った。

「設楽君、大丈夫なのかい?」

 憑き物が落ちたような顔をした斎藤が近づいてきた。

「はい、不思議と痛くはありません。一体どうなったんですか?」

「君が倒れると、突然君の身体が光り出して炎が君からユグドラシルに移ったんだ。」

「なんででしょう。」

「さてね。ただ単に罰が当たったのかもしれないね。死んだ人間を生き返らせようとした罰が。」

 斎藤がそう呟くと次第に斎藤の身体が半透明になっていく。

「斎藤さん、身体が」

「ユグドラシルとの契約でユグドラシルが無くなると僕も消えるんだよ。」

「そんな。俺はただ、斎藤さんを助けたかっただけなのに。それなのに。」

 設楽が俯いて泣いていると、斎藤さんは設楽の肩を持った。

「因果応報だよ。これで良かったんだ。止めてくれてありがとう。君には感謝しかないよ。こんな穏やかな気持ちになれたのは久しぶりだ。本当に・・・」

「斎藤さん、ごめんなさい・・・。ごめんなさい・・・。」

「いいんだよ。君の寿命は削られてしまったけれども、君が言ったように短くても面白い人生を送ってほしいな。そしてあの世で僕に教えてね。」

「分かりました。誰もが羨むような、そんなおもしろおかしい人生にして斎藤さんに自慢してあげますよ。」

 設楽が泣きながらそう話すと、斎藤は満足そうな顔をして消えていった。


 全身やけど状態で右腕が黒く変色している設楽が村に帰ると、設楽を見た住民が血色を変えて通報し、あっという間に病院に運ばれた。

 病院で治療を受けながら警察庁公安部の人に質問攻めに合い、病院と公安部から解放されたのは事件から2週間後のことであった。

 病院では瀕死の重傷なのに元気にぴんぴんしていると、病院の先生がゾンビでも見るような眼で設楽の診察をしていた。

 設楽は解放されて真っ先に阿藤教授のもとを訪れた。

「阿藤教授、失礼します。」

「入りたまえ。」

 部屋に入ると前に来た時と同じように阿藤教授はコーヒーを飲んでいた。

「大変だったみたいだね。話を聞かせてもらっても良いかね。コーヒーは飲むかね?」

「いえ、結構です。」

 コーヒーを断った設楽は栄樹村での出来事について話し始めた。

 話が終わるころには空はすでに茜色に染まっていた。

「なるほど。それはご苦労だったね。」

「阿藤教授、確認したいことがあります。」

「答えられる範囲で答えよう。」

「阿藤教授は人間ではありませんね。それに未来が分かるんじゃないですか?」

「・・・」

「今回の件は、俺がユグドラシルを燃やすという結末に向けて異常なほど都合よく進みました。俺に娘の雰囲気を感じて危害を加えられない斎藤さん、俺を騙してユグドラシルに誘導するパック、親切心で俺を止めようとするもパックに防がれた川崎さん、そしてパンフレットで逃げていったニーズヘッグ。ニーズヘッグだけは俺がユグドラシルに近づく上でどう足掻いても突破できない壁だった。それを予知したからこそ、俺にニーズヘッグを撃退するパンフレットを渡したんじゃないですか?」

「・・・私はしがない中間管理職でね。上司の命令に従うだけで私が決められる裁量というのは非常に少ない。今回は上司の命令で木を破壊することになったが、誰に頼むかは私の裁量で決められた。君が全身に火傷を負い、寿命が縮まると分かっていながら栄樹村に行くように差し向けたのは私だ。恨んでくれて構わないよ。」

「俺が阿藤教授を今回の件で恨むことはありませんよ。むしろ感謝しています。俺の平凡でつまらない人生に輝きをくれました。感謝してもしきれないです。・・・もしかして、こう言われることも予知していました?」

 めったに笑わない阿藤教授がふっと笑った。

「私は神のように全知全能ではないのでね。そこまでは分からないよ。話疲れただろう。コーヒーは飲むかね?」

「いただきます。」

 阿藤教授はコーヒーメーカーからカップにコーヒーを入れると設楽に渡した。

 設楽がコーヒーを飲み始めると阿藤教授はまじめな顔で話し始めた。

「それでは今回の件をレポートにして再来週までに提出したまえ。」

 設楽は苦い顔をした。

「レポートですか?本当に必要ですか?」

「君の書くレポートは非常に拙いものばかりで読むに堪えない。これも勉強だよ。」

「・・・分かりました。」


 その後、設楽はレポートに取り組むも締め切りから一週間が過ぎた後にレポートを提出したが、阿藤教授に赤字で半分以上手直しされたのだった。

 レポートのタイトルはユグドラシルの暗い世界を照らす燈火のよう燃え盛っていた映像が設楽の脳裏に焼き付いていたため、「ユグドラシルの燈火」とした。

 

 

 

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ユグドラシルの燈火 @tanishi5656

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