皮膜一枚隔てた幸福

スロ男

————

 栃木の親戚の家に遊びに行く時、よくそばを食べた。お寺に近い場所に何軒かそば屋があって、母親がそのうちの一軒を好んでいたのだったと思う。

 たまにお寺へ寄ることもあった。わりあい大きく綺麗目な作りで、石作りの階段を登ってお参りするのだ。その石段の脇はおほりというか水が溜まっていて、湧水が流れ込んでいるとかいう話だったと記憶している。

「お水のおいしいところはおそばが美味しいのよ」

 母親が得意げに言うのは毎度のことで、その時もやはりそんな話を聞かされながら登る途中、薄緑がかった水の中、奇妙なものを見つけた。

 それは針金のように見えた。銀色の、おそらく十五センチかそこらの針金。その針金が水の中でくるくると回転している。三分の一ほどから先、少し折れ曲がったように見えるそれは、まるで濁流に揉まれてしているかに見えた。

 水面は静かで、見えない奔流があるようには思えなかった。

 つまり、あの針金は自力で動いているのだ。

 不思議なものを見たなと思いながら、呼ばれて階段を駆け上がる。なんとなく、アレがそばの中に入っていたら嫌だな、と考えてしまって、その日は食欲が湧かなかった気がする。

 あれはハリガネムシというやつだったのではないか——と思い当たったのは後年のことだった。


     *


 台風の影響で雨が続き、三戸みと修介はぼんやりとすることが多くなっていた。会社の行き帰り、橋の途中で立ち止まり、川面を眺めて危うく遅刻しそうになったのは、これが初めてではなかった。

 妻は、そんな修介の様子に特に気づくこともなく、一見平和ではあった。

 夫のパリパリと無表情でサラダを食べる様子や、上手に啜れずそばを口に押し込むようにして食う様子などを、微笑むようにして妻の多恵は眺めたりした。

「ねえ、おいしい?」

 たいてい多恵はそう訊き、たいてい修介はこくんとうなずくだけだった。

 夏季休暇中だからか、たまたま研究がお手すきなのか、近頃は夫婦で朝夕を共にすることが多かった。時期によっては多恵は大学に入り浸りで、深夜に帰宅するか帰ってこない日も多かった。

「今日はずいぶん眠そうね」「なんだか疲れてるみたいね」「たまには有給でもとって気晴らししたら?」

 そんな台詞は、これまでならどちらかといえば修介が多恵に言うことが多かったのだが。ここ最近はまったく平穏である。


「そろそろお給料日じゃない? たまには外食でもする?」

 朝の支度をしながら多恵が言ったのはまさに二度目の、あわや遅刻をしそうになった日のことだった。八月下旬の話である。

「ああ、任せる」

「外に行くのが億劫なら、宅配でもいいけど」

「ああ、じゃあそれで」

「それとも私が作ろうか? たまには手の込んだのを」

「それでもいい」

 鏡の前で電気カミソリを使う夫に、それでも妻は溜息ひとつかず微笑んだ。

「任せて」


 結局その日はごく普通の晩飯だった。修介は特に気にもせず、多恵もニコニコして、朝のことなど忘れているようだった。めかぶとオクラと海藻だかなんだかの入った酢の物かサラダか不明な何かをたくさん作ったというのでやけに勧めてきたのだけが、ちょっと普段とは違ったぐらいか。感想は必ず訊ねられるが、あれを食えこれを食えなどというタイプでは全くなかったから。


 給料日前日、雨。暑さも酷ければ湿度も高いという厳しい気候の中、修介は傘も差さずに欄干にもたれて荒れる川面を眺めていた。帰宅途中だった。

 なんだか頭が痛い、と修介は思った。思ったが、どこか他人のことのようにも感じる。このまま水の中に飛び込んで、脳味噌を取り出して丸洗いしたい。だが、考えただけで、ふ、と小さく息をき、家へと向かった。

 最近は何をするにも億劫で、仕事でもミスが多い。だが、昔からそうだったような気もする。台風の影響で酷い目に遭ってる地域すらあるというのに、傘を忘れるなんてのも今に始まったことではなかったのではないか。


 家にたどり着くと外よりもムワッとしていた。ネクタイを緩めながらダイニングへ行くと、大鍋がもうもうと湯気をたてていた。

「あら、おかえり。先、天ぷらで一杯る? それともお腹空いてるなら、もう茹でちゃうけど」

「うどん、そば……?」

「おそばよ。今日はね、私の手打ちなんだから。ちょっと田舎風というか、太めで不揃いだけど」

「いや、……おまえ、そばなんて打てたのか?」

 多恵がふふんと腕を組みながら言う。

「作り方はね、ずっと頭の中にあったのよ。実践は初めてだけど。ねえ、どうする?」

「どうするって、食べるけど」

「そばを先に行くか、天ぷらにするかって話よ。打ちたてのそばを茹でたてで食うのが一番美味しいんだから。飲むなら、あとにするけど」

「いや、腹減ってる。茹でてくれ」

 オッケーといって背を向ける妻に、なんだか頼もしさと同時に憎しみを覚えて、修介は愕然とした。

 好きなことを好きなようにして仕事にした妻。自分より忙しく、おそらく社会的にも意味のあることをして、仕事内容に比べて安い安いとボヤいて、きっと実際そうなのだろうが——

 それでいて俺より賃金は高く、俺とは違って他の誰かでは成り立たない仕事を。しかも、その上で家のことまでやって!

 修介はかぶりを振った。

 なんだかここのところ特におかしな考えに支配されている気がする。できた嫁を持ち、不甲斐ない自分に苦笑しながら、それでも嫁を誇れるような、そんな器の示し方だってあるのでは……?

「おまちどうさま」

 笑顔で妻が差し出した、茹でたて、冷水でキュッと締めたそばの、きれいに盛り付けられたのを見て、もうただ溜息しかでなかった。

 久方ぶりに食欲を感じて、修介は出された蕎麦猪口ちょこに、下ろしたての爽やかな山葵を溶かして、一口手繰った。

「……ハリガネムシ……」

 不意に蘇った子供の頃の記憶。あの揺らがない水面の下で、まるで機械か何かのように激しく動き回る、銀色の線。

 がしゃん、と音がして、見ると多恵が揚げようとしていた種と菜箸を取り落としていた。

「……なんで」と多恵は言った。「なんで、わかったの……」

 尋常ならざる妻の狼狽に、それ以上に激しい動悸が修介を襲った。

「わかったって、何が……」

「ハリガネムシ……」

 そのとき、修介は一際強い痛みを頭に感じ、ううっ、と呻いた。痛みに体が縮こまる。頭をテーブルの上のざるにぶつけて、まだ収まらない。両手でテーブルのフチをつかみ、ぐぐっと頭を卓面に喰いこませながら、カハッ、とありったけの空気を吐き出した時——

 修介の頭が開いた。

 つむじのあたりからカパッと。熟れたイチジクが裂けるように、頭髪ごと引き攣れた皮が裂け、頭骨がほどけるように口を開け、そこから何かが飛び出した。

 それを見た多恵は窓を震わすほどの大声を上げ、意識を失い、頭の重さのまま自由落下した。

 テーブルの上で一旦弾み、料理その他を跳ね上げ、それよりも大きな勢いをつけ跳ね上がった多恵の頭は、後ろにそっくり返るように背後のコンロに衝突し、天ぷらを揚げるに適した温度のフライパンが振動で滑り落ち、床に激しい音を立てて落ちた多恵の上に降り注いだ。ジュウウウという音に、肉の焼けるいい匂いがして、それから——

 床に臥した多恵の頭も修介と同じように花を開き、同じように人の形をしたものがでてきた。

 道服を着た、てのひら大のヒトの形をしたもの。

 這い出てきたそれは、天井を見上げ、浮上し、ふわふわと浮き上がり、天井のあたりで消えた。

 それを見届けるように、修介から出てきた道服の小人は、彼の頭の上に立ったまましばし上を向いたままだったが、同類が消えてから少し後、また頭の中へと戻った。袋の口を紐で縛りあげるように、修介の頭は元へと戻り、肉の焼けるうまそうな匂いと、髪の焦げる嫌な匂いは、まだ部屋を揺蕩たゆたっていた。


     *


 病院に妻の見舞いにいって、頭中包帯だらけの、それでいて意外と朗らかな妻の様子に修介はホッとした。

 退院まではおそらく半年以上かかるだろうが、それでもきっと、また元のような楽しい夫婦生活に戻れるだろうという、根拠のない自信があった。

 なんといっても、

 修介は気づいたのだ。自分の頭の中につまっているのは脳味噌なんかではなく、みっちりと絡み合ったハリガネムシであることに。

 そして、修介として生きているいまの自分は、単なる報告役にすぎないことに。

 庚申信仰こうしんしんこう

 その報告役。

 地獄の監査役に、その人間の罪を伝え、寿命のものさしとなるもの。虫として人に知られるもの。自分——いや、己を修介として認識しているこの自我は、それだった。

 つまり

 庚申の日に、人が眠りについてようやく動き出せるはずの自分が、なぜ修介としての記憶を引き継いだのかはわからない。

 本来ならば、自我などというものは、この肉体の檻から抜け出したいという欲ぐらいしか存在しないはずだった。

 実際、意識を失った三戸多恵の、自分の同類はきちんと役目を果たし、そして戻ってきた……。意識を失った、その理由となる記憶だけどこかへ処分して。

 彼女の寿命はどの程度縮まったのだろうか。子供なんて欲しくないと願った彼女の、その欲望を叶えるため、夫に生殖能力を奪うというハリガネムシを常に食べ与えさせていたこと。それから夫の浮気を許せなかった器の狭さ。研究者にあるまじき、常識を越えた馬鹿げた迷信にすがるような愚かしさ。

 生物は繁殖するために生きている。それに逆らうことがどれほどの罪か、人という生物は理解わかっていない。

 もっとも。

 人ですらなく、単なる報告役を仰せつかっただけの自分が、まるで人のように生き、あまつさえその寿命をできるだけ引き伸ばそうと、連絡日にもまったく動かなかったことを考えると、ヒトという種以上に罪深いとすら思える。

 だが、その想いも、そもそも人として生きていた頃の修介という存在を引きずったものでしかなく、自分という存在の意味も、価値すらまるでわからないのだった。

 ベッドに半身を起こせるまでになった妻に、慣れない手つきで林檎を剥いて、食べさせる。あーん、とまるで子供に戻ったような妻に餌付けをしながら、修介は、これはこれで悪くない、と考えた。

 何も考えなければ、ここには幸せしかない。

 何かを考え始めたら、地獄しか存在しないのと同じように。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

皮膜一枚隔てた幸福 スロ男 @SSSS_Slotman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画