シィラかんす

@zhidagongyuan

第1話

 シィラかんすと、世界の終わり


 ただ世界の終わりにて


 シィラかんすよ、やはりそれは横暴というものだよ


 ぽちゃん

 コバルトブルーの湖面に小さな波紋が生まれ、ああ、と一言言う間に消えた。

 もう正午過ぎというのに、目の前の大魚は残り半日を釣りに費やすつもりらしかった。

 しかも私を道連れに。


 なあシィラかんす。なんで君はそんな無謀を働くんだろう。

 私が言うとシィラかんすはぴちゃぴちゃと笑った。いや嗤ったのかもしれない。

 ”無謀“か、ずいぶん面白い言葉を使うね笹木君は。

 シィラかんすはねばねばしたものを口から出しながらこっちを見ている。それが何なのか私にはいまいち判然としない。昨日食べた鱒の残滓なのだろうか。かれこれ数年、聞くのも失礼に思えて切り出せずにいる。

 唯一つはっきりしているのはこういう時のシィラかんすは何を言っても聞かぬ、ということだった。

 君が理解しがたい朴念仁なのはよく知ってるけど、馬鹿なことは一人でやってもらいたいもんだね。

 毒づくとシィラかんすは体を小刻みに振った。今日はいやに機嫌がいい。

 ほら、別に只で釣りにつき合わせる気はない。こいつを持ってきたんだ。

 彼は懐から一升瓶を取り出した。昼下がりの淡い陽光に照らされて、瓶の表面がきらきら光った。

 越後の大吟醸だ。苦労して手に入れたんだよ。



 シィラかんすが田沢湖で一緒にマンボウを釣らないかと持ち掛けてきたのは一昨昨日の事だった。

 理由を聞けばマンボウの刺身が食してみたいのだという。

 馬鹿じゃないかと何度も諭してはみたものの効果は芳しくなかった。何しろシィラかんすの強情さと言ったら他に比するものがない。マンボウが淡水には生息しないこと、十分な量のプランクトンなしには直ちに生活が立ち行かなくなることを説いたが、田沢湖こそマンボウの生息に最適な環境なのだと主張する彼の論陣は固く、結局この通り、私が折れた。何しろ私がこの田沢湖について知っていることと言ったら、日本で一番の深度を誇ることぐらいであったのだから、論戦など望むらくもない。


 乾杯。乾杯。


 いやはやシィラかんす。こいつは上撰なのかな、美味しいねえ。

 釣り針を放ってしまってから言う。まあどうせ今日は彼の釣りに付き合わされることは分かっていた。美味い酒が飲めるだけ良かったというものだ。

 うん、やっぱりわかるかい。笹木君は辛気臭い割に目利きがいいものなあ、”こと“の前だったら随分高かったろう代物だよ。遠くの知り合いがくれたんだ。

 辛気臭いとはずいぶん失礼だな。

 シィラかんすはちょっと笑った。そういえば「クラムボン」はくぷくぷ笑うんだったか、ちょうどそんな感じの笑い方だった。


 別に悪口でもないだろ?このご時世辛気臭く居られるのは一種美徳だと思うがね。もっと自分がつまらない男であることを誇りたまえよ。


 このご時世、か。確かにそうかもしれない。現に首府の人々はひどい堕落ぶりと聞く。


 しばらく空を眺めながら、世界の終わりについて考えた。

 やはり“こと”は本当に、ゆっくりと世界に終わりをもたらしているようだった。少なくともニュースによれば2031年以降に生まれた子供たちの内で15歳を超えて生き延びた者はだれ一人としていない。思春期を迎えると子供たちは抑えられていた水が一気に決壊するかのように種々雑多な症状に見舞われ、ひどい苦しみの中で死ぬのだという。無論“こと”の影響が目に見えるようになってから、子供を産む人なんて皆無に等しいから、幸いその様子を実際に見たことはない。

 世界が総手を上げながらカガクの成果たる、てくのろじぃいなるものがこの災厄になんの有効打も打てていないのは“こと”が結局人間自身の生み出した業だからなのだろう。

 今の人口減が続けばあと100年ほどで人類はいなくなってしまう、という。


 …しかし、いささか長すぎるなあ。


 思わずつぶやくとシィラかんすはこちらを向き、ホーローマグカップに清酒を注いで、こちらに寄越した。

 笹木君は釣りの極意をご存じないみたいだね。

 尾びれをゆすりながら横目でこちらを見ている彼のクーラーボックスもまた、私のものと同じく空だったので、極意を知っている割に随分ご立派な釣果ですね、と言おうか迷ったがやめておいた。

 無心だよ笹木君。心を無にするのが大切だ。世界の終わりだのなんだの、そんなくだらないことを考えていちゃいけないよ。

 無心か。あんまり無理を言っちゃいけない。そういえばだが、シィラかんす。君は世界の終わりについて考えることはないのかい?

 世界の終わり、か。笹木君みたいに大きなことを考える性質じゃないからなあ。

 じゃあ一度もない?


 いや…。

 シィラかんすは水平線を見つめながら遠い過去のことを思い出しているようだった。


 世界の終わりと一言で言ったって、いろんなのがおもいつくからなあ。“こと”なのか僕が死ぬことなのか、はたまた別の何事かなのか。僕にはよくわからなくなってしまってね。

 肩肘張って考えるものなのかね。


 シィラかんすはまた笑った。今度はくぷくぷ、といった風ではなくひゅうひゅう、という感じだった。


 シィラかんすはシーラカンスなのに、私よりずっとものを知っているものだな、と私は思い、左手でマグカップをつかんで、一杯飲んだ。


 やっぱりいい味だな。うん、それはもう。




 数刻たつと、田沢湖の湖面はもう、夕陽で赤く染まり始めていた。


 シィラかんすの釣り竿が大きくしなった、よもや釣り竿がちぎれてしまうのではないかと思うくらいのしなり具合だった。

 やはりマンボウはいるのかもしれないな。

 シィラかんすはしたり顔で言った。いるもんか。と言いながらシィラかんすに加勢して釣り竿を握る。釣り竿はいささか、彼の短い鰭には手に負えぬ代物だった。

 魚は得体の知れない怪力で湖の底へ潜り込もうと試みていた。私とシィラかんすは互いに重なりあうように釣り竿を掴んで対抗したが、主導権は暫しの間魚の方にあった。

 これは本当にマンボウかもしれないぞ。と心の中で思ったが口には出さなかった。

 数分にわたる格闘の後、ようやく獲物は活力を失い湖面まで浮かんできた。ぬらぬらした体に長い顔。もうすぐ死ぬかも知れぬというのにやけにのんびりした態度であった。

 無論マンボウではない。

 しかしその大きさと言ったらどうだろうか、水族館に居ても驚かない程の巨躯である。

 おや、これはピラルクーだね。

 シィラかんすは鰭を小さくたたいた。ぴらるくー。

 外来種だがね、珍しいよ、まだ日本にいるとはね。

 そういえば“こと”の前はこの外来種が旧首府の川で繁殖している。といった話をよく聞いたものだった。“こと”の直前に行われた外来種掃討で、日本では絶滅したと聞いていたが…。

 シィラかんすと一緒に、そいつを桟橋の上まで揚げる。

 今日唯一の釣果だね。

 シィラかんすはちょっとばかり苦笑した。

 ふむ、やはり、大きいな。


 この魚は世界の終わりのことを考えたりするのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを思った。

 このピラルク―という魚は太古より殆ど姿を変えていないらしいから、きっと白亜紀の大量絶滅の時には随分痛手を受けただろう。絶滅しかけたかも知れぬ。それでも姿を変えず、性懲りもなく同じような生き方を続けてきたのである。

 性懲りもなく。

 大方世界の終わりなどどうでもよいに違いない。

 ピラルクーの大きな目が微動だにせずにこちらを見ていた。

 食べてしまおうかね笹木君。


 シィラかんすが切り出した。ふむ、と頷きかけたが魚の眼をのぞき込んでみると随分澄んだ色をしていて、食べる気も失せた。老いた魚というのは人語に表しがたい威厳を身にまとうものらしかった、この魚然り、おそらくはシィラかんす然り。

 なあピラルクーよ、お前、食べられたいか?

 お前はなんだってそんな目でこっちを見るんだろう。なんだってそんなに素敵な目で生きていられるのだろうか。君の種族はもう日本にはいないんだとよ。


 結局じゃんけんをして食うか食わぬか決めた。シィラかんすはチョキが出せないので無論私が勝った。シィラかんすが不機嫌にならないところを見ればもともとさして食べたくもなかったのであろう。形式的な手続きである。


 つるりとピラルクーはもう真っ黒になった湖面の奥底へ消えていった。尾鰭が水面下へ没するとあとは波紋と静寂だけが残り、私は急に一人ぼっちになったような気がした。


 シィラかんすよ、今思ったんだけどね。

 ふむ。

 ピラルク―は本当に釣り上げられたのだろうかね。ああやってお別れも言わずに消えてしまうと、私は本当にあの魚と出会っていたのだろうか、と心配になってくるよ。


 シィラかんすは体を傾けて見せた。


 世界の終わりも昔のことも、考えてみればあやふやなものだね。きっと神様が肩肘張らず自分の思うままに居なさい、と言ってるんだろう。

 何事も余白があった方が面白いからねえ。


 シィラかんすの言葉を聞いて、そういえばシーラカンスには肩も肘もないのにな、とぼんやり思った。

 そして、ピラルク―がいるからにはきっとマンボウもいるのだろう。とも思った。



 コーヒー豆と白


 気分が晴れぬのは、今日がクリスマスなる祭日だからであり、またチキンがきっと届かないからでもあった。


 しんしんと雪が降っている。白い。秋田の冬である。

 それにしてもなぜチキンは届かないのか、雪のせいだろうか。


 私は何一つ料理の乗っていない食卓を見てぼんやり思った。

 いや、判りきったこと。チキンが届かないのは、届ける者がもういないからなのだ。

 前任者が死んでしまったら、今はもう、その仕事を引き継ぐ者はいない。

 雪が静かに窓外で積もる。


 シィラかんすのことを思い出したが、彼の住む湖岸のロッジはここから随分離れていた。それに彼の方からわざわざ私のために骨を折るとはどうしても思えなかった。

 かれこれ随分会っていない。

 ここは世界の終わりであった。

“こと”以来ずっとそうなのである。



 ミルがベージュのハンドルを回すごとにこりこりと音を立てる。

 私はコーヒー豆をひいていた。


 なぜこんな日々を生きているのだろう。私は。

 エチオピアのストレート。深煎り。別にコーヒーなど飲みたいわけではなかった。

 そうでもしないと居られないだけだ。

 95度の湯を注ぐと湯気が立ち、ゆっくりと抽出が始まる。


 そんな情景を眺めながら、食卓の方を見ないように努めた。

 空の食卓が恐ろしかった。それが世界の縮図に思えた。


 シィラかんすはいつか私を辛気臭いと言ったけれども、実際そんな高尚なものではない。

 ただ町の連中と追うものが違うだけなのだ。ゴールのないマラソンに参加しているのは同じ、か。


 麻袋に入っていたコーヒー豆を取り出し、噛んだ。

 ちくしょう。

 抑えが効かなくなっていくつも食べた。ぱりぱりと乾いた音がした。

 コーヒーの香りが想起させるものがコーヒーの味と違うように、コーヒーの豆はコーヒーとは全然違う味だった。


 私はいくつも食べた。

 抽出はいつまでも終わらず、私はコーヒー一杯を飲まずに死ぬ私を想起した。コーヒー一杯も飲めずに死ぬ私。

 ぱりぱり。ぱりぱり。ぱりぱり。


 どうも肩肘張らずにはいられないよ、シィラかんす。








 人魚と、その季節


 雪は唐突に止み、私は釣り具をふりふりシィラかんすの家を目指した。

 春が来た、と聞いた。

 彼がそこにいるなどとは微塵も思っていなかったが、もしかしたら彼が旅に出なかったのでは、という可能性を残しておくのも嫌なのだ。


 案の定彼はいなかった。

 木製の簡素極まるロッジが静かに私を迎えるばかりである。

 シィラかんすのロッジが如何なるものか想像がつかないかもしれないが、その点は何のことはない。みすぼらしいがごく一般的なロッジである。

 そうだな、『スタンドバイミー』のツリーハウスを地面にたたき落として、少しばかり大きくしたようなものだ。


 生粋のノマドたる彼は地上を自由に「回遊」しているから、雪が止めば遠くへ行く。私の想像のつかぬほど、ずっと遠くへ行くのだ。

 ロッジに残るシィラかんす特有の魚臭さだけが、彼がいたことを示す痕跡だった。


 さて、しようがない。しようがない、か。

 扉を三枚潜れば蒼であった。

 ロッジの向こうは湖に面している。久方ぶりに相対すると、田沢湖岸には水芭蕉がこれでもかというくらいに茂っていた、いつの間にやら風まで蒼い。

 ふむ、思えば暫く見なかった眺めである。

 深呼吸をすると鬱屈とした気分も少しは晴れた。



 そしてそんな朝涼みだったのだ、私が人魚を見つけたのは。


 ロッジの程近く、水草の合間に頭が浮いており、私はすぐにそれと分かった。

 長いとも短いとも言い難い黒髪が小さな波が来るごとにゆらゆら揺れていたのである。


 取り急いで湖水に足を踏み入れると、人魚が白い服を着て湖面に突っ伏す格好であることも明らかとなった。私は少年時代飼っていた鰌がある朝こんな格好で死んでいたのを思い出し、いかに人魚であろうとこれはだいぶ弱っているぞと直観した。

 いきなり得体の知れぬものの髪に触れるのは気が引けたので彼女の白い服に釣り針をひっかけ、試しに引いてみたところ動いた。案外軽いのである。


 ロッジの前まで引き上げてようやく人魚は陸に揚がった。

 ふむ。断わっておくなら無論、本当の人魚ではない。女性である。

 なんで人魚と幻視したか、あるいは幻視したつもりになったのかと言えばおおかた人魚の出てくる妙な小説を先日読了したからであろう。


 黒髪にワンピースの若い女性であった。顔までかかった髪を上げるとまだ息をしていた。

 なるほどな、おおかた身投げであろう。このごろの田沢湖では入水自殺が絶えぬと聞いた、日本一の深さというレーベルが彼らを引き付けるのだろうか。

 ふむ、それならバイカル湖にでも行けばいいものを。


 彼女の両肩を掴んで速やかにロッジの中に運び入れる。寝かせてみると人魚というより女性のていになった。年は私と同じくらいか、あるいは少し下か。

 近頃猥雑な欲求を満たす機会に恵まれないためか、どろどろした何かが喉のあたりまでこみあげたが、結局こらえた。

 シィラかんすと私の田沢湖に身を投げるような人物である。大層なお関わりなぞ持ちたくない。

 一応、警察に一報入れておこうかと思って110にかけるが、携帯は「お出になりません」を狂ったように連呼するばかりだった。それはそうか。私は少し動転しているようだった。そうだ、ここは世界の終わりなのだった。



 黄昏である。

 いつの間にやら彼女は目を覚ましていた。シィラかんす備え付けのコーヒーを二杯分作っている間に、である。ベッドの上で目を瞬いては天井を凝視している。

「おはよう人魚さん。早かったじゃない。」

 声をかけると彼女は体を一回震わせ、私に背を向けた。け、命の恩人にその仕打ちか、と思ったが口には出さず、コーヒーを差し出してやることにした。

 彼女は少し当惑してそれを受け取り、しかし大層美味しそうにするすると飲んだ。

 ほうほう、なかなか綺麗に飲むものだなあ、と思う。

 私は一転彼女に好感を持った。


「やはり私は陸に括り付けられているみたいです。」

 ぼそっと女性が言った。死ぬのは向いてないみたい。

 返す言葉が見つからなかったので、なぜこんなところに来たの?と聞いてみると彼女は低い天井をじっと眺めた。


「そうですね…。蒸発したんです。逃げてきたんですよ。」

 遠いところから、と女性は続けた。

「首府から来たのです。」

「ほう、つくばですか。」

「いえいえ、昔のほうです。」

 少しばかりおどろく。昔のほうといえば、トウキョウか。今も人がいるとは。


 どうもあの土地ともあのひととも、関わるのに疲れたと言いますか。不足があったわけではないんですけど。

 と、女性は言った。こういうの、ぜーたくっていうのかもしれませんね。


 台所からベッドを眺めて分かったのだが女性のお腹は少し膨れていた。体型の話ではなく、不自然なのである。

 しかして私は随分まじまじと彼女の腹部を眺めていた。

「ああ、やっぱりこれですか。お腹に赤ちゃんがいるんです。」

「よもや産むのですか。」

 私が問うと女性はふっと微笑んでみせた。

「まさか、産みませんよ。おろすんです。」

 彼女はどこから来たのだろう。どこから。


 程なく女性は疲れたようで、眠ってしまった。

 眠ってしまってから、名前を聞くのを忘れていたことに気が付いた。


 私もコーヒーをするするすすりながら、ぼんやり考える。

 これからも人魚さんとでも呼ぼうか。

 いや、やはり少々失礼だろうか。





 何も無いような、何もかもがあるような



 夜である。

 人魚と酔い覚ましに歩く。

 酔い覚ましに夜風にあたるのがいいといったのは確か私だったけれど、田沢湖の周りを一周廻ろうと言い出したのは人魚のほうで、だからこの現況に対する責任は折半されるべきだった。

 それにしてもここはどこなのだろう。


 ざわざわと、風が吹くたびに真っ黒の森が揺れた。他には水の香りがするばかりだった。

 どうも肌寒い。


「ねえ、人魚さん。どのくらい歩いたんだろ。」

「そうですねえ、随分歩きましたけど。一向進んでいないような気もします。」


 ともあれ二人とも、訳は忘れてしまったけれど飲み過ぎたのである。

 はたまた訳などなかったのかもしれぬ。

 酔っぱらい、ために思ってもみない睦言めいたものを交わすと、調子に乗ってこんなところまで来てしまった。

 シィラかんすのロッジをでて暗いところをずっと歩いたことまでは覚えているのだが、それ以降が怪しい。

 持ち寄った干し烏賊がやけに堅かったとか、そういうどうでもいいことは覚えているのだけれど。もうここがどこだか、私には見当がつかなかった。だいたい夜道はみんな似たようなものである。


「なんだかさっきから同じところを回っているような気がします。ぐるぐる回っているような。」

 たしかにそうだねえ、と言いながら私は、今は何時なんだろうと思った。空にはぼんやりと月が浮かんでいた。浮かんでいたけど、ただそれだけ。他には何もない。

「ねえ人魚さん。」

 声をかけると返事がなかったので私は俄然不安になった。

「人魚さん。」

「はーい」

「あのさ。人魚さん」

「はーい?」

 どうも心地が悪くて、何度も人魚さんと呼んだ。

 その度、はーい?とうつろな返事が後ろから帰ってきた。


 人魚さん。はーい。人魚さん。はーい。


 本当に真っ暗なのだ。

 ずっと遠くに街灯の薄ら光がぽつぽつと見える。それだけだった。


「人魚さん。」

「少し疲れました。休みましょ。」

 人魚が言うので、仕方なく座ってみた。

 座ってみるとコンクリートが少し湿っていたものだから、下が少し濡れた。

 私が干し烏賊を齧ると暗闇の中でぱりぱりと気分の良い音がした。


「これ、食べる?」烏賊を渡すと人魚もぱりぱりと食べた。


「私達、帰れますかね。」

「さあ、どうなんだろう。」

 どうなのだろう。


「ねえ、あなたは湖の底を覗きたいとか、思うことはないですか?」

 人魚はしばらくぶりに口を開いた。

「不思議なことをきくね。」

「私はあるんですよ。しょっちゅうなんです。」

 ふうん。

「でも私も時折あの湖にはマンボウがいるって本気で思ったりするよ。」


 彼女が口笛でダニー・ボーイを吹き始めたので、私も吹いた。私が吹いてもそれは肺炎をこじらせた犬のため息のようにしか聞こえなかったが。


 風がざわざわ吹いている。

 久しぶりに世界の終わりが遠い夜だった。

 世界の終わりだけではない、いろんなことが遠い夜なのだ。


 何も無いような、何もかもがあるような。






 シィラかんす、旅のものら


 天ばかり高く、何も肥えていないような秋であり。

 そんな秋の午後のことであった。


 桟橋の上でシィラかんすが寝ていたのである。

 片目で空を見上げて、いかにも打ち上げられたという風であった。

 私が板前でも生業にしていたらぜひとも三枚おろしにしたい。そんな無防備な格好である。


 帰ってきたのか。


 一瞬死んでしまったのではないかとありそうもないことを思ったが、案の定私が近づくともぞもぞと動いた。

 少し陽にあたっていたのだよ。とシィラかんすはうそぶいた。

 シィラかんすはよくよく考えてみれば冬以来ずっと旅をしていたのだ。


 シィラかんすよ、こんなに長く遠出して一体何をしていたんだい。

 聞いてみるとシィラかんすは少し困った顔をした。

 ふむそうだな、見聞を広めていた、とでも言おうかね。


 久しぶりに釣りがしたい。

 とシィラかんすが続けた。

 分かったよシィラかんす。酒でも飲もう。大吟醸とはいかんがね。



 釣り針が放物線を描いて湖面に落下していった。

 マンボウは釣れたんだろうか。と、シィラかんすが聞くものだから、私は少し考えて首を振った。

 シィラかんすは瓶を傾けて酒を喉の奥に流してくぷくぷ笑った。

 君は全く律儀な男だよ。難儀だけどもね。

 そうだろうかね、と言いながら私も笑った。


 と。私の釣り竿が大きくしなった。

 今度こそマンボウだろうかね。とシィラかんすは言った。

 程なくして魚は浮き上がり始めた。ふむ、無論マンボウではない。


 おや、ウグイかね。

 ウグイだね、これは。


 やはり失敗か。

 シィラかんすは自嘲した。

 自嘲して、おもむろにウグイを持ち上げると、ぼと。と胃の奥にそれを落とした。それから、喉の奥でウグイを砕いてつぶしてみせた。ごりごりとにぶい音がした。

 おいしいのかい。聞いてみるとシィラかんすは首をかしげて、そうだなあと暫く悩んで見せた。

 そのあとで一言、まずいかな。と言った。


 にしても君、マンボウの代わりに妙なものを釣り上げたようじゃないか。

 妙なものって、ああ、人魚さんのこと。

 やっぱりシィラかんすにはお見通しのようだった。


 隣人と仲良くするのはいいことだよ。マタイの福音書にだって書いてある。


 そのあとシィラかんすとごくごく平凡な、つまらない話をした。人魚さんのこととか、ロッジの天井のこととか昼飯のこととか、そんなこと。世間話である。


 考えてみると目の前の悪友は随分と様子が変だった。暫く会っていなかったものだから気が付かなかったが、元来シィラかんすは妙なことを切り出さぬ方が珍しい。

 これは平凡ならざる事態なのだ。

 よくよく見てみれば、大魚の両のひれは黄色くなり、目は前にもまして白濁していた。


 随分、老いたのだろう。


 なあ、笹木君、僕はね。

 シィラかんすはそう言って少し咳をした。咳と言ってもシーラカンスの咳である。

 僕はもう一度旅に出ることにしたのだよ。もっと遠くに行こうと思う。

 遠くへ?

 ああ、ずっと遠くへ行く。暫くまたあえないだろうな、だからこうして一応アイサツに来た

 というわけだ。また気が向いたら戻ってくるよ。



 シィラかんすは嘘つきである。

 私にも彼がもう長くないことぐらいは分かるのだ。


 引き留めようかと一瞬思い、やめた。私がそんな気遣いのないことをしたら、シィラかんすは鰭を叩いてまた私を皮肉るだろうから。

 猫は死に際に生家を捨てて遠方へ行くという。いつか聞いたそんなことを思い出した。


 僕のあばら家は自由に使ってもらって構わないよ。釣り具も桟橋も好きにしたまえ。

 まあ、そう言っても僕のいない間随分好き勝手に使っていたようだからね、そのまま使い続けるがいいさ。なにしろ腐らせとくのが一番よくない。


 言うとシィラかんすはまたうまそうに一杯酒をあおった。で、瓶を下したシィラかんすは少しにやにやしていた。秋空を見上げて、ぼうっと息を吐く。


 僕は少し嬉しいのだよ、くそみそに頭が固くて不愛想な君は、ようやく僕がいなくても生きていけるようになったみたいだ。

 何だ、失礼な。いつだって私は立派にひとり生きてきたさ。

 はは、通り一遍の「生きる」じゃないよ。


 私が何か言葉を継ごうとしたら、シィラかんすはこちらを見てふふん、と言った。

 ふふんと言って、湖の方に向き直ったので、彼の表情がわからなくなった。

 分からなくなって、私もシィラかんすも、少し黙った。

 いつの間にやら季節が過ぎて、気が付けばあちこちで木々は葉を落とし始めているのだった。

 ああ、もう1年がたったのか。


 ああ。

 なあ、随分肌寒くなってきたことだよ。やっぱり僕は秋が一番好きみたいだ。

 シィラかんすはきっと笑っていた。


 …それじゃあな。

 笹木君。


 ぼちゃん。



 水音であった。

 水音であったから、ようやくシィラかんすは別れを言ったのだ、と分かった。

 隣にいたシィラかんすの姿が無い。


 代わりにコバルトブルーの湖面におおきな波紋が広がっているばかりだった。

 波はゆっくりと広がって、桟橋の足をそうそうと濡らし、濡らして、

 ほどなくして消えた。


 消えた。


「もし、シィラかんす。」

 もう日が傾きかけていた。

「もし…」

 その言葉に答えるものは無かった。


 泣きでもしたら水面からあいつがまた浮いてきて「女々しいことだね、嫌なら引き留めればよかったじゃないか。」だのなんだのにやにや言いそうで、しばらく口を結び、湖面を見つめていた。

 私の目がそれでも潤んだのは、きっと午後の光が湖面を照らし、コバルトブルーの田沢湖が一瞬、黄金色に衣替えしたように眩しかったからである。


 傍らの桟橋をなぜる。指先が湿って、変なにおいがした。


 シィラかんすがつい先ほどまで隣に腰かけていたことが信じられなくなった。

 確かに少し魚の匂いが残っていたけれど、それは先ほど釣り上げたウグイの香りかもしれず、はたまた私の気のせいかもしれない。


 いつかのピラルク―と同じことだ、きっと別れとはあやふやなのだろう。

 第一シィラかんすとは私の妄想以上の何かだったのだろうか、考えてみればそうだ、シーラカンスとは歴とした深海生物である。


 悩むことは多く、世界の終わりは遠い。

 肩肘張って考えるぐらいは許されそうなものだ。


 なあ、シィラかんすよ。



 追伸


 人魚さんから手紙が届く。外見に反してヤマネコが筆を執ったような悪筆である。


 拝啓笹木様。

 私はお腹の子供を産むことにしました。

 トウキョウで授かった子ですが長らく一緒に暮らすうちに情がわいたのでしょうか。どうもおろす気にならぬのです。

 ここは世界の終わりなので、笹木さんはハンタイなさるかもしれませんけど、産みたいものは産みたいのです。

 この子にとり、世界って終わることすらできないんです。それはどうも可哀そうで。


 ですので、よろしくお願いします。



 同じ町に住み、毎日釣りばかりして顔を会わせる仲ながら手紙とはなにゆえ。と思わぬでもない。

 それにまさか私がハンタイなどするわけがないではないか。

 加うるに、なにを「よろしくお願いします」なのか。


 でも私は不思議と笑ってしまった。


 釣り針を準備して、あの桟橋を目指す。

 世界の終わりにて、釣りに向かうのである。

 今度は私が人魚さんにマンボウ釣りを勧める番だ。それに他にも色々と、せねばならぬことがあるからなあ。


 空が青い。

 無論ここは“こと”の先、世界の終わりであり。

 一つ。ここは世界の始まりでもあった。


                                   (了)


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