ライバル執事が私との結婚話になぜか乗り気です

川上桃園

第1話

このたび長年メイドとしてお仕えしていたルイ坊ちゃんがめでたくご結婚されました。

 昔はトカゲの尻尾集めに喜々としていたルイ坊ちゃん。

 勉強嫌いで家庭教師から逃走するべく木にのぼろうとして派手に落ちてしまった坊ちゃん。

 おねしょをしてしまったことをこっそり私に打ち明けていた坊ちゃん。

 そんな坊ちゃんが成長し、花嫁とともに並びたった時、あまりに御立派になられた姿に感無量になってしまって、ひっそりと泣いてしまいました。

 お相手のアリス様は坊ちゃんと相思相愛です。社交界で意気投合し、あれよあれよと婚約話が進んでそのまま結婚されてしまいました。

 お二人は教会で結婚式をあげた後、新婚旅行へ行かれました。

 旅行での日々がとても楽しかったのでしょう、お屋敷に帰ってこられた坊ちゃんが、ご自分の部屋でアリス様との旅行のお土産を次々と私へ披露されながら、こんなことを言い出されたのです。


「結婚っていいものなんだね。僕、すごい今、幸せなんだ」

「よろしゅうございましたね」


 うん、と坊ちゃんは微笑まれました。言葉通り、とてもお幸せそうです。

 傍らにアリス様がいらっしゃらなくても、この笑み崩れようです。おふたりがともに暮らされるようになったら、きっととんでもなく甘い空間になるのでしょう。

 アリス様はお父様とともに考古学者をされておいでです。今はピラミッドの発掘が大詰めを迎えているそうで、新婚旅行の行き先からそのまま発掘現場へ出発されたのだとか。新妻としばらくお別れとなった坊ちゃんはさみしがっているかと思いきや、案外、お元気です。

 逢わない時間が互いの愛を深めあうのだとか。なるほど。


「僕自身も結婚してみて思ったんだけど、今時、使用人たちも必ず独身でいないといけないだとか、恋愛してはいけない、という考えはひどく前時代的だね」

「はあ。とはいえ、恋愛で公私混同することもございますし、適度な節度は守っていただきたいところではございますね」


 坊ちゃんの近くに控えた私がそう申し上げますと、たしかにね、と坊ちゃんは同意した。


「でもたとえば、同じ屋敷の使用人同士が結婚したらずっとここに仕えてくれると思わない?」

「そのような考え方もあると思います」

「ねえ、イヴリン、君も結婚したらどうだろう」


 ……たっぷり、四拍。何をおっしゃるのですか、と声が上ずりました。

 私は十五の年からお屋敷に奉公し、今は三十一歳です。結婚するならばもうとっくにしています。それに最近、私は前任のマーサさんから家政婦ハウスキーパーの役割を引き継いだばかりでした。

 家政婦ハウスキーパーとは、メイドたちを束ねる管理職です。メイド上がりにしては出世したと言えるでしょう。お給金も多くなりましたし、いまさら結婚なんて考えられないことでした。

 しかし、私の遠慮を気にすることなく坊ちゃんは畳みかけてきました。


「僕、イヴリンには結婚してほしいな。こんなに楽しいことをイヴリンが知らないのはもったいないと思うんだ。ずっとお屋敷のためにがんばってくれているし。ねぇ、だれか好きな人はいないの?」

「好きな相手、ですか。……特におりませんが」


 ずっと隣で静かに佇んでいたもうひとりの人物がわざとらしく咳払いをしました。このようなプライベートな話題を耳にした以上、後であてこすりを言ってきそうです。この話題を早く切り上げたくてたまらなくなりました。


「結婚など。お気遣いはありがたいのですが、私には結構ですから……」

「ねぇ、スティーブン」

「なんでしょう、ルイさま」


 なぜか隣にいた彼に話の矛先を向ける坊ちゃん。「スティーブン」。彼はこの屋敷の執事です。執事らしく今日も姿勢よくその場に立っておりました。


「イヴリンは魅力的だと思わない?」

「ええ、とても素晴らしい女性かと」


 執事の(あくまで)丁寧な応対に、うん、とルイさまは満足そうに頷かれました。今のやりとりは、なんの確認なのでしょう。

 ……うっすらと嫌な予感がしてきました。

 しかし、そんなはずはないとも思うのです。スティーブンは私のことが気に入らないでしょうから。

 執事は男性使用人のまとめ役。家政婦ハウスキーパーは女性使用人のまとめ役。屋敷内の使用人はおよそそのようにすみわけがされています。執事と家政婦ハウスキーパーは同じ屋敷の住人でありながら、時には方針をめぐってぴりつくこともあります。

 私とスティーブンの仲もそのようなものでした。もっとも、私が家政婦ハウスキーパーにあがる前から緊張感のある関係性だったことは付け加えておきますが。

 このお屋敷での勤続年数でいえば、六年前に執事として雇われたスティーブンと違い、十五の歳から奉公に出た私の方が圧倒的に長いのです。新参者の目上と古参の目下で対立するのもよくあることでしょう。もちろん普段の仕事では協力しあう場面もありますのでそこはこころえております。


「ルイさま、スティーブンにわざわざ聞く必要もありませんでしょう。私のことはもうよろしいですから……」

「いや、大事なことだから訊ねたんだよ。この『組み合わせ』はどうかなってね」


 ルイさまの目が私とスティーブンを交互に見ます。


「うん。並んでいるのを見て思った。結構いいんじゃないかな。どう思う、スティーブン」

「そうですね。大変、よろしいと思われますが」


 嘘でしょう。私はスティーブンを凝視しました。他人事のように言っていますが、事態が自分にも降りかかっているのをわかっていないに違いありません。

 スティーブンは私を一瞥はしたけれど、つん、ととりすまし顔で立っています。


「やっぱりね。スティーブン。僕は、君がイヴリンと結婚すればいいと思ったんだが、君はどう?」


 とんでもないことをおっしゃる坊ちゃんを私は慌てて止めようと口を開きかけるのですが、すぐさま「それは名案ですね」と隣の執事が素知らぬ顔で肯定したものだから、首根っこ掴んで正気かどうか確かめようかと思いました。


「イヴリン、私と結婚しましょう」


 私に向き直ったスティーブンがそう言いました。「今日は天気がよいので早く洗濯が乾くでしょう」みたいな世間話のついでのような調子で。


「……正気ですか」


 彼はかすかに微笑みます。微笑むといっても、皮肉を含んだものですが。……あぁ、からかわれている。

 私人としてのスティーブンは経験豊富な三十六歳男性です。詳しくは知りませんが、若い頃は相当遊んだとか。こんな恋愛経験皆無な年増女を捕まえて、質の悪いジョークを繰り広げるとは、呆れます。ため息をつきたいのをこらえます。


「坊ちゃん、お話は以上でしょうか。私は持ち場に戻ります。コックと今夜の夕食について打合せがあるのです」

「そんな……! だめだよ、イヴリン!」


 ルイ坊っちゃまは慌てた様子でした。


「もうちょっと真剣に考えてよ! スティーブンは乗り気なんだし! そ、そうだ、せめて、デートぐらいは行ってあげなよ! 君の気が変わるかもしれないし、ね、ね⁉︎」

「どうしてルイさまが必死になるんですか……」


 横目で見れば、スティーブンは相変わらずの本音が読めないアルカイックスマイルです。まぁ、執事の職業病ではありますが。


「一生のお願いだよ! 一回だけいい、スティーブンとデートしてきて! 僕のために!」


 その必死さに、私は隣の執事に尋ねていました。


「……スティーブンさんは坊ちゃんの弱みを握っているんですか」

「まさか。ルイさまは我々の幸せを願ってくださっているだけですよ」


 スティーブンが、自然な仕草で私の手をとり、口づけを落としました。紳士が淑女にするようでした。


「いがみあってばかりではよくないですよ。同じ使用人を束ねる者同士、友好を築くのも悪くないでしょう? 明日の午前十時、広場前で待っていますよ」


じっと、上目遣いで見られました。すると、なんだか、急に落ち着かない気持ちになるのです。近くで見つめられるのに慣れていないからでした。


「……わかりました。受けて立ちましょう」


 そう言わなければ手を離してもらえそうになかったので、諦めてそう返答すれば、スティーブンの笑みが深まった…気がしたのです。



 お屋敷の階下……主人家族が生活する表の空間ではなく、使用人たちが行き来し、生活するエリアに向かう階段で、私は前にいるスティーブンを小声で問い詰めました。


「スティーブンさん、どういうつもりです」

「どういうつもり、とは? 私とあなたの結婚のことですか? 良いでしょう? あなたには決まった相手がいないことですし」


 スティーブンは軽快な足音を立てて階段を下りていきます。下りた後は、流れで家政婦ハウスキーパー室に入ります。私の仕事部屋です。

 私を先に部屋に入らせたスティーブンは、家政婦ハウスキーパー室の内鍵を締めました。これまでも使用人たちに隠れての相談にはこうしたものですが、今日ばかりは意味合いが違うように思えてしまい、警戒心が高まります。


「いえ、でも……無茶でしょう。いくら坊ちゃんがおっしゃったとしても。今からでも取り消しませんか。スティーブンさんも悪ノリはよくないですよ。私も一応女性ですし…こういうデリケートな話題には良くも悪くも反応してしまいますから」


 堅い声を作れば、頭上から「わかりました」と声がした。


「あなたも、自分が女性であるという自覚があるのは結構なことです」


 スティーブンは先ほどよりも私との距離を詰めています。奥の壁際に立つ私に対し、私を追い詰めるような位置にいました。いくらなんでも近すぎませんでしょうか。もう息がかかりそう。


「デートはしますよ」

「は?」


 先ほど、一度は「わかりました」と納得しましたよね?

 どんな顔をしているのかと見上げてみれば、思いのほか強い眼差しに出会ってしまって、私は目を逸らしていました。


「しますから、デート。こうなったら与えられたチャンスを逃すつもりはないんです。……イヴリン、覚悟しておきなさい」


 壁に後頭部が当たる感触がしました。スティーブンが、近いです。スティーブンからはインクの香りがしました。坊ちゃんの手紙の代筆でもしていたのかもしれません。


「……私はあなたを口説き落としますよ」


 とんでもない捨て台詞を残して、スティーブンは家政婦ハウスキーパー室を出ていきました。

 へなへなとその場で腰を抜かしてしまいました。

 今いたのはだれでしょうか。私の知っているスティーブンではありませんでした。私の知るスティーブンは……あんな甘い顔はしません。そう、近いものを見たことがありましたが、あれは……。



 六年前のことです。スティーブンが執事として来たばかりのころ、偶然、スティーブンの「男性としての」顔を見たことがありました。

夜、水差しの水を切らしてしまって、キッチンに取りに行ったら、廊下で今まさにラブシーンの真っ最中…みたいな光景を目撃したのです。まだキスしていないだけマシかもしれないと、その当時は冷静に考えたのでした。

 喉が渇いて、それに次の日の朝が早いこともあったので、早く戻って寝てしまいたかったのです。


「もう少し、人目のつかないところでやってくれません? 通りづらいんですよ」

「イヴリン……お願い、マーサさんには言わないで」


 スティーブンの陰から出て来たのは同僚のキャロルでした。男性使用人たちからは「かわいい」と人気のある子でした。もちろん恋愛経験も豊富……そんな子が気まずそうに懇願してきます。スティーブンはキャロルから身を離すと、私に向き直りました。キャロルはすぐに自分の部屋に戻っていきました。

 残されたのは私とスティーブンでした。

 格上とはいえ、さすがに私も苦言を呈しました。


「スティーブンさん、あなたがよそでどう過ごそうと構いませんが、お屋敷の風紀を乱すような真似はよしてください」

「お屋敷の中だろうと、恋に落ちる時は落ちるでしょう? 禁じられるほど燃え上がる……」


 スティーブンは平然としていました。こういうときはもっと動揺するものと相場が決まっているのですが、開き直った彼はこのような事態にも慣れているのでしょう。

私は不思議な気持ちになりました。


「恋……しているんですか? 私にはそう見えませんけれど」


 すると、薄ら笑いをしていたスティーブンの雰囲気が一瞬、揺らいだようでした。


「どうして、そう思われたんですか?」

「いえ、ただの根拠のない勘ですが。恋というにはスティーブンさんの熱が見えない気がして。恋をするなら真剣にやらないとむなしくなるだけですよ」


 私はそっけなく告げました。


「へえ、あなたにはそのようなご経験が」

「一般的な話ですよ」


 本当は経験などありませんが、釘を刺します。


「大体、執事がメイドに手を出すのは倫理的にどうかと思います。不和のもとではないですか。ここで火遊びの恋をするなら、このお屋敷を出ていってください」

「旦那さまに言いつけますか?」


 彼も告げ口されるのが怖いのでしょうか。まだここでは新米執事のスティーブンに対し、すでに十年屋敷にいる私。どちらの方が信用されるのでしょうか。

しかし、無理に武器を振りあげようとするのもよくないことでした。かえって自分を危機に陥らせることも考えられるからです。


「あなたがこのまま同じことを続けるなら考えます。やるなら見つからないようにしてください。それに、本気でないなら手を出さないでください。これはキャロルの名誉のためでもあります」


 言いたいことを言って一息ついてから、空の水差しを持ち上げます。


「……そろそろ廊下を通っても? あなたが道を塞いでいるので通れないのですが」

「いいですよ、どうぞ」


 スティーブンは女主人に対するように恭しく道を開けました。ありがたく通り過ぎようとしたところ、「イヴリン」と声をかけられました。


「恋にご興味は?」

「それを聞いてなにになりますか。教えませんよ」

「残念だ」


 言葉に含みがあるように思ったのは気のせいでしょう。

 その後、彼も反省したのか、屋敷内のラブシーンを見かけることはありませんでした。隠れて付き合っていたかまでは知りませんが。

 ですが、まもなくキャロルは結婚するために屋敷を辞めました。結婚相手は地元の青年でした。スティーブンではなかったのです。

 別れ際のキャロルは、最後にあの夜のことに触れました。


「だれにも言わないでくれてありがとう。おかげで馬鹿なことをしないで済んだわ」

「……そう」

「彼も本気でなかったみたい。ただ、今度は本命の相手が見つかったんですって」

「そうなの」


 話を聞く気のない私に、キャロルはくすくすと笑いながら去りました。

 ……まぁ、あれはだいぶ前の出来事です。この時からスティーブンが私に目をつけていたわけではないでしょう。

 スティーブンが私に「その気」を見せたことはありません。彼は仕事のこととなるとわきまえていましたし、意見が合わなければ口論にもなります。

 使用人ともなると、仕事とプライベートの別も曖昧です。私は仕事以外のスティーブンをほぼ知りません。

 ただ、こうなってしまうとふと思い出すのが。


――おや、あなたも眠れなかったのですか。

――しかたがありません。ついでにあなたの分も淹れてしまいましょう。

――好みの味でしょう? 人の好みを覚えるのは得意なのです。


 真夜中に出会う彼。寝付けない夜に食堂にいくと、元々夜更かし気味の彼が、主人に出す練習のためといって紅茶を淹れてくれることがありました。いつも「ついでに」と言っていたので、きっと他の使用人にも同じようにしていたと思い込んでいましたが……。たしかに、私が好みそうなものばかり淹れているから気になっていたのです。

 真夜中の茶会はどこか私にも居心地がよく、一杯飲みほした後はきまってぐっすり眠れたものでした。とはいえ、いくら知った顔が相手でも、結婚となると……想像力が追い付きません。

 




 坊ちゃんが私に結婚話を持ちかけてから一夜が明けました。

 昨日の坊ちゃんとスティーブンの悪ノリは忘れるつもりでした。一抹の不安がないとは言えませんが、あれ以降もスティーブンはいつも通りでしたので、冗談だと片付けたのです。

 朝恒例の使用人全員が同席するミーティングも通常通り。その日の伝達事項がつつがなくスティーブンと私の口から伝えられていきます。


「メアリーの今日の持ち場は……」

「ルイさまのご予定にご同行するのは……」


 一通り終えると、私はいつものように「では、これで解散……」と言いかけたのですが。隣からすっと手を挙げた者がいました。スティーブンです。


「伝え忘れるところでしたが、今日の午前十時前から私とイヴリンは出かける予定です。夕方から夜には戻ってきますが、何かあれば今のうちに聞いておくように」


 一瞬で頭が沸騰しました。恥ずかしさのためではなく、怒りのためでした。そうに違いありません。

 神妙に聞いていたフットマンのトーマスが途端ににやついて、「おふたりで出かけられるなんてデートですか」と揶揄います。

 スティーブンは伝達事項の書いたメモをくしゃりとポケットにしまいながら平然と言いました。


「ええ、デートですよ。ルイさまの許可はいただいています」


 スティーブンの発言により、使用人たちの視線が私とスティーブンに集まる。思いもよらぬ展開にうろたえました。


「……本気ですか、スティーブン」

「ええ、まさか昨日の申し込みが冗談とでも? 待ち合わせの場所にはしっかりめかしこんできてくださいね。いつもの地味な恰好はなしでお願いしますよ」


 自分の恰好を見下ろします。家政婦ハウスキーパーという仕事にふさわしく、焦茶色で分別のあるデザインのドレス。腰から下げているのは、屋敷内の鍵を集めた鍵束……。仕事着にはよいが、デート向きではないのはたしかでした。

 スティーブンは意地悪そうに唇を吊り上げます。


「どうせです、口紅もしてください。いつもと違うあなたが見たい。……まさか、ここまでお膳立てしておいて、逃げるなんて言わないですよね。このお屋敷の半分を取り仕切る家政婦ハウスキーパーのイヴリン・ターナーが」


スティーブン……! 私は苦々しげに彼を睨みましたが、それ以上何も言わずに、パンパン、と手を打って合図しました。


「今日のミーティングは以上です! みなさん、持ち場へ行ってください!」


 途端にこしょこしょと私とスティーブンを見ながら内緒話をし出す使用人たち。興味津々の目が突き刺さります。


「余計な詮索はしない! 気持ちが浮つくと、仕事まで浮つきますよ。気を引き締めること!」


 はあい、と何人かの使用人たちが間延びした返事をしました。


「イヴリン。ではまたあとで」

「知りません!」


 スティーブンにもそっぽを向きました。



 午前九時。私は完全に無視を決め込もうと思っていました。あんな回りくどく外堀を埋めてくる男などごめんです。スティーブンが何を考えているのかわかりませんが、巻き込まれるのはたくさんでした。

 いつものように帳簿付けなどをやっていると、とんとん、と軽いノック。ルイ坊ちゃんが顔を出します。出すなり、「やっぱり準備していないじゃないか。女性の支度には時間がかかるんだから、出かけるならもうやらないと!」と言い出したので仰天しました。


「いえ、坊っちゃん、私は別に……」

「デートだよ、せっかくのデートなんだ。スティーブンは昨夜からすごく楽しみにしているんだよ、期待に応えてあげようよ」


「別にスティーブンが楽しみにしているはずがないでしょう……」


 ああ見えて、スティーブンの外面はよいのです。女性にもモテます。私相手に楽しみという感情を抱くとは思えません。


「イヴリンは自分がイイ女だと自覚した方がいいよ! お嫁さんにするならしっかり者が1番なんだ!」

「ルイさま……」


 感激しました。恐れ多くもルイ坊ちゃんが私を褒めちぎってくださったのです。やはり持つべきものはお慕いする主人です。

 しかし、そこからがよくありませんでした。


「そんなわけで! イヴリンの応援のために僕もできる限りのことをするよ! 今ちょうど、メアリーとアンナに声をかけておいたんだ。あの二人ならイヴリンのことをよく知っているし、ちゃんといい感じに仕上げてくれると思うんだ。ほら、入って」


 失礼します、と入ってきたのは、部下のメイドたち。どちらも美意識が高く、休みのたびにファッション雑誌を買い、お化粧研究に余念がないのは知っています。そして二人とも、目をきらきらとさせています。


「おしゃれに興味のないイヴリンさんの素材をようやく生かせる日が……!」

「ルイさま、ご安心ください。私たち、きっとやり遂げてみせますわ。スティーブンさんをめろめろに悩殺いたしましょう!」

「よし、よく言った! 特別手当は出すから思い切り頼むよ!」


 二人とも、特別手当の言葉に舞い上がってきゃあきゃあ騒ぎます。

 ルイ坊ちゃんは部屋から引き上げ、メアリーとアンナが残されます。私はおそるおそる尋ねました。


「本当の本当にやるつもり?」

「もちろんです!」


 メアリーは元気よく返事をし、アンナはすでに私のクローゼットを開けて中を覗き込み、着て行く服を物色していました。アンナはこちらに顔を向けるや、一言。


「イヴリンさん。……これは少々、好みが枯れすぎです」

「ふっ……。このぐらいは予想の範囲内よ。わたしかアンナの服で似合うものを見繕いましょうか。はっ……化粧品が少なすぎますよ、イヴリンさん! 口紅は乙女のマストアイテムですよ、スティーブンさんがご所望なんですから……!」

「じゃらじゃらした鍵束なんてさっさと外してしまいましょう、内裏のトーマスさんにでも預けておけばよいのです」


 かしましく話す彼女たちは、私を椅子に座らせたり、立たせたりしながら、ああでもないこうでもないと私に似合うという服や化粧や靴を身につけさせていきました。髪もいつもと違う髪型に結い上げられます。


「イヴリンさん、終わりましたよ! この短時間でも最高の仕上がりです! いかがです?」

「あ、ありがとう……」


 疲弊し切った私はもうそれしか言えませんでした。

 さわやかなエメラルドグリーンのワンピースを着ていました。パフスリーブというのが若めのデザインではありますが、他の構造は案外シンプルで、シルエットの良さが際立っていました。

 髪型はまさかのハーフアップです。母の形見の真珠の髪飾りをつけられました。

 靴も太いヒールではなくて、もっと細いヒールとボタン留めがついたブーツ。

……普段は身に付けないものばかりです。ただ、楽しそうな彼女たちに釣られて、少し華やいだ気持ちになったのはたしかでした。着飾った目的を忘れなければですが。


「さ、参りましょう!」


 二人にお屋敷の外へ連行されました。「いってらっしゃい!」「がんばってくださいね!」と見送られながら待ち合わせ場所へ出発です。

 あとでこっそり帰ることも頭をよぎりましたが、さすがに坊ちゃんやメアリーたちの気づかいを「帰りました」で終わらせてしまうのは人としてどうかと思ったのでそのままのろのろと待ち合わせ場所へ向かいました。

 さっさといって、さっさと帰る。これがこの事態を穏便に済ませるもっとも冴えたやり方なのです。



 お屋敷近くの広場のベンチに、スティーブンが座っていました。いつもの執事服ではなく、白のシャツにスラックスというラフな恰好です。シンプルな組み合わせなのに、姿勢がよいので見栄えがします。彼は服装にも気をつかうので、服ひとつとっても仕立てがよいものを着ています。


「イヴリン!」


 私を見つけるや、彼は片手をあげました。少し早足で私のところまで来ると、うっすらと頰を上気させています。子どもみたい。


「よかった。ほんとに来てくれたね……きれいだ」


 ぼそっと「きれいだ」と言ったのが、彼の本音に聞こえた気がして、そわそわと落ち着かなくなりました。仕事ではないシチュエーションがそうさせるだけなのです。自分にそう言い聞かせます。


「あまりそんなことを言うのは……よくないと思う」


 ここで皮肉げに「照れていますね」とからかえばいいものを、なぜか彼は空いた両手で口元を覆い、私から目を逸らしました。


「似合っていると思ったから言ったんだよ……。ピンクの口紅も、君に合っている。本当はずっと見てみたかったんだ」


 優しげに言われると、自分の唇についた紅を擦り落としたくてたまらなくなりました。あのスティーブンに「女性」として見られているのが、恥ずかしい。


「どうぞ」


 右手を取られてベンチに座るように促されました。ベンチにはしっかりハンカチーフまで敷かれています。まるでレディーのような扱いです。


「す、すみません……」


 なぜでしょう。いつもと違う反応をしている気がしました。

 スティーブンは隣に座りました。手は、握られたままです。


「スティーブンさん、手は……」

「いけませんか? 私に触れられて気持ち悪いですか?」


 手の甲をつつ、と親指でなぞられて心臓の鼓動が跳ね上がります。つとめて冷静な声を出そうとしたのに、自分から出る声が予想以上に甘やかなもので愕然としました。


「気持ち悪いということは、ありませんけど……。でも、私たち、今までこういう感じではなかったでしょう」

「こう言う感じ、とは」

「恋人のような、甘い関係ではなかったでしょう。……私を生意気だと思っていたでしょう?」


 仕事に生きる「鉄の女」。私の評判はそのようなものです。特定の恋人をつくらず、いつでも真面目に仕事に打ち込む、ルイ坊っちゃんがもっとも信頼するメイド……。男性使用人の仕事のやり方に苦言を呈したことも一度や二度ではありません。


「それはあなたが一所懸命だっただけです。あなたにはあなたの立場があり、私には私の立場があった。それぐらいは理解しています。好ましく思うことこそあれ、生意気とは思いませんよ」


 スティーブンが、おかしい。意見の対立で何度も揉めて来たはずの相手が、急にころっと変わってしまうものでしょうか。言葉に詰まりました。


「君の質問はそれで終わり? なら次は私の番だね」


 頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されているのにこの上何を…と身構えていたら。


「それじゃあ、デートの手始めに……散歩でもしましょう」

「散歩?」

「そう。デートは気晴らしでもあるし、散歩はいいアイディアも浮かびやすい。ほら、腕をこう……組んで」


 しっかり腕を組まされます。これまでにないぐらい体同士が密着しました。私も散歩は好きですが、男性と腕を組んで散歩することなどほとんどありません。

大通りを歩いていきます。休みの際には何度も通ってきた大通りでした。なのにそれはいつも知る景色とは違うように思えます。なぜなら。


「私とあなたが結婚した時のメリットは、仕事を辞めずに済むことです。執事と家政婦ハウスキーパーの二人三脚でルイさまたちをお支えできますよ」

「デメリットは……特にありませんね。あっても言いません」

「もし子どもができたら、ルイさまたちのお子様の遊び相手になるでしょう。ただ二人のままだったとしてもそれはそれで楽しい」

「そう都合よく時期を合わせられるかって? ……そこはがんばりましょう。お互いの努力が大切です」

「結婚したら、この通りに家を借りましょう。それまではお互いの部屋を行き来するか……夜を忍んであなたの元を訪ねるのもよいですね」


 途中では、通りの店をのぞき、軽く昼食をとりました。ただ。

 ……すべてがこの調子なのです。至近距離でずっと口説かれているのですから、私もどうにかなってしまいそうでした。


「スティーブンさん……私、あなたの素敵結婚生活プランにお付き合いするとは一言も言っていません」

「では想像してください、イヴリン」


 彼は私の顔を覗き込んだ。


「私はあなたを愛していますよ。今はあなたの気持ちがそこまでついてこなくてもいい……ただ『イエス』とさえいってくれればいいのです」


 でも、と彼の手が私の頬をさらりと撫でました。拒絶することもできたはずなのに……動けませんでした。


「私が今のあなたの様子を見る限りでは、まんざら望み薄というわけでもなさそうだとは思っていますが。いかがでしょう。試してみますか?」

「……試すとは、何を」

「恋人同士でしかしないことをするんですよ」


 私たちは教会に来ていました。小さな庭のガゼボには人気がなく、剪定を忘れられた白い薔薇がひっそりと咲いています。

 彼は懇願するように囁きかけました。


「イヴリン。恋人にしか許さないことを、私に許してくれませんか?」


 自分の喉がひきつれたように乾くのを感じました。私の目はスティーブンの唇に吸い寄せられます。


「それは……どんなこと?」

「キスですよ。子どものようにたわいのないものではありませんよ。我々は大人ですから」


 掠れた声が耳朶を打ちました。

 キスまでしてしまったら今までのようには行かなくなるでしょう。今後の関係性ががらりと変わります。これを受け入れてしまったら、私はきっと……。

私の手は勝手に彼の肩から胸のあたりを滑り降りて。諦めたような呼気が漏れました。


「……いいわ。スティーブン」

「イヴリン、それは……」

「キスしてもいい、と言ったわ。……試すんでしょう?」


 教会の裏手の外壁。だれもみていない物陰でした。

 スティーブンはそろそろと私を抱き寄せて、そっと唇を寄せてきます。互いによい歳なのに、意外にもスティーブンの息が震えています。彼も緊張しているのだと思うと溜飲が下がりました。

 ひそやかに交わしたキスは……やっぱり拒めるものではありませんでした。一度してしまえば、二度も三度も同じことなのです。際限がなくなりました。

 唇が離れると、互いの息が上がっていました。足りない、と反射的に思ってしまったのだから重症です。


「……結婚しましょう、イヴリン。今のキスでわかったでしょう? 私たちの相性はけして悪くないのだから」


 スティーブンの口の端に私の口紅がついていました。扇情的で目のやり場に困るのです。


「スティーブン……あなたはいつからそのつもりで……」


 これまで気づいていませんでしたが、スティーブンの気持ちが一日二日のものではないのが伝わりました。

整わない息で問えば。


「わりと以前から、と言ったら? わかりやすかったと思いますよ。なにせ、ルイさまにも見破られたぐらいですから」

「ルイさまとはじめから組んでいたのですね。妙なことをおっしゃると思えば……」

「ええ、屋敷の方々はみんな協力的でした。私とあなたの人望だと思いませんか?」


 結婚を勧めてきた坊ちゃん。興味津々ながらも嘲笑する様子がなかった使用人たちの反応。服や化粧品を選んでくれたメアリーとアンナ。いろいろとお膳立てされています。みんな、そうなればよいと思っていたのでしょう。


「私とあなたが結婚したところでたいして変わりません。元々、執事と家政婦ハウスキーパーは仕事上の夫婦みたいなものでしょう。それが実際の夫婦になるだけですから。一緒にルイさまたちをお支えしましょう」


 スティーブンは、私のツボをこころえています。仕事はやめなくていい、ともに主人を支えよう。

 こんなに条件のいい縁談はないでしょう。私自身も、スティーブン相手なら……という気になっています。彼とはずっと一緒に働いていて、お互いの性格も知り尽くしています。結婚生活をするならこれほど勝手のわかる相手が今後出てくるとは思えません。

 私はこくりと頷いてみせました。


「……わかりました。結婚のお話を承諾いたします。スティーブンさん、末長くよろしくお願いします」

「ええ」


 喜ぶかと思っていたのに、スティーブンの返事が意外にあっさりしていて、不審に思います。だが、ふと、その場でうずくまってしまいました。


「スティーブンさん!」

「いや……ほっとして、腰が抜けた」

「は?」


 驚きを浮かべた私が反射的に助け起こそうと手を伸ばした時、背中に腕を回されて、私たちは芝生の上に倒れ込みました。不意打ちのように下にいた彼がキスします。


「隙がありますよ、イヴリン。この調子では結婚してもしまらない顔を他の使用人たちに見せるつもりですか? 私を見習ってください。あなたを愛して五年近く、あなたに気づかれることなく、ライバルを演じてこられましたよ?」


 たくらみ顔でそう言われて、私にも持ち前の反抗心が湧きました。


「……私、恋愛したところで公私混同はいたしませんよ。あなたこそ結婚に浮かれて仕事がおろそかになったりしませんよね?」

「いい男というものは、オンオフの切り替えが自在にできる。夫と執事の両方を完璧にこなしますよ。……あなたと違って」

「あら、そうですか」


 いつもの調子が戻ってきました。ぴりりときいたスパイスのような小気味いいやりとり。私もひそかに楽しんでいたのだとやっと気づきます。


「あなたが完璧なら私も完璧です。使用人たちの前ではつゆほど甘さは見せませんよ」

「見せるのは二人の時だけ?」

「だれも見聞きしない、ふたりきりの時だけですね」

「わかった、合意しよう」


 彼は私を助け起こし、そのついでとばかりに耳元で告げます。


「……ひとまずお屋敷に帰ったら私たちのことをルイさまに報告しましょう。君の花嫁姿が楽しみだ」


 体を支えていたはずの手がいつのまにか私の指を絡め取り、恋人のように組まれます。スティーブンの顔が、また近くなりました。


「近いうち、指輪も買いにいきましょう。付き合ってくれますね?」

「指輪って」

「結婚指輪です。答えはイエス、ですよね」


「イエス」と口にする前にスティーブンが堪えきれなくなったように唇を寄せました。私もわかっていたように目をつむって、彼を受け入れました。


「イヴリン、今、とても幸せな気分だよ。……君は?」


 囁きに答える代わりに、私はスティーブンの背中に腕を回しました。……あぁ、もうわざわざ聞かないでほしい。



 三ヶ月後。私とスティーブンはめでたく結婚しました。まさかの超スピード婚に、詳細を知らない周囲からは驚愕されましたが、主人夫婦にも使用人たちにも祝福されました。結婚式の会場には、なんとお屋敷を使わせてもらえたのです。

 結婚後、私たちはお屋敷近くの家に移り住み、通いで家政婦ハウスキーパーと執事をしています。仕事が遅くなった日などはお屋敷に泊まることもあるけれど。

 結婚生活は案外うまく行っています。普段は角を突き合わせていても、二人きりの時はとびきり甘く。スティーブンが、恋人や妻に対してここまで優しく甘やかす人間とは知りませんでした。君だけだよ、と本人は言っていたけれど、言われて悪い気はしません。


「ねぇ、イヴリン。私のことを好きになってくれた?」

「ええ、もちろん。愛していますよ、スティーブン」


 ……今日も、私たちはふたりきりの甘い駆け引きに興じるのです。

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ライバル執事が私との結婚話になぜか乗り気です 川上桃園 @Issiki

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