自分の書いたものを半永久的に残したいと考えてみた

鮎川 雅

自分の書いたものを半永久的に残したい




 これもタイトルまんまである。


 私は大学生の頃、モラトリアムを持て余しており、アニメやら漫画やらにハマっていた時期があった。


 だが、ある時ふと思ってしまったのだ。


「誰かが作ったコンテンツを消費するだけの人生って虚しくね?」と。


 まさに、下手なAIが自我を持ってしまったような瞬間と言えなくもないが、ともかく、私は何かしらの自己表現手段を求めることにしたのである。


 これが色々紆余曲折あって、これを述べるとかなり長くなるので端折るが、絵画→小説→音楽→Youtube→小説みたいな、まるで一貫していない道のりを辿ってきた。要するに堪え性がないのである。ちなみに、当然というか、どれ一つとして、まともな実績をあげたこともない。


 小説だけ何とか続けているのは、要するにコストがかからないからである。ノートパソコンとWi-Fiさえあれば、カクヨムに(駄)文を書くには事欠かない。


 さて、ここで、自分が表現した作品をいかに「半永久的に残すか」である。


 半永久的というが、要するに、自分の死後も何かしら自分の生きた証を残したいんだーいと言う欲求がそこにはある。


 死後まで残すと言う意味では、先ほど自分がやってきた一覧としてあげた、絵画・音楽・Youtube(動画)・小説それぞれで、事情が多少違ってくるのではないかと思う。


 まず絵画だが、絵は例外なく物理的に劣化する。大昔のテンペラ画なんかは耐久性が高いらしいが、油絵とくに印象派の絵は、技法的な理由から劣化しやすいと聞いた。実際、ルノワールの作品などは、劣化が激しいものもあるという。


 次に、音楽やYoutubeだが、これらデジタルデータは、プラットフォームがサ終してしまえば、問答無用で消えていくと言うリスクがかなり高いのではないかと思う。


 自分はPCとかネットとかに詳しくないのだが、確か2010年ごろを境にしていたと思うのだが、それ以前までスタンダードだったホームページやらブログの形式(?)的なもの(イメージとしては、俳優・阿部寛のホームページみたいなの)が、あっという間に消えていって、アメブロとかそんな感じのホームページみたいなのに入れ替わった記憶がある。


 どうも何かしらの技術的な革新(それか単なる世代交代?)があったらしいが、あれで、膨大な数のホームページが消えたらしいのは間違いないようだ。


 そうすると、歴史好きな自分としては、例えばだが「ああ、あの大東亜戦争を生き残った下士官か兵隊世代のおじいちゃんが、還暦を過ぎた九十年代に入って、慣れないパソコンを必死に操って、子供や孫なんかには目もくれてもらえないような、軍隊にいた頃の記録や日記なんかをコツコツ記していったようなホームページたちは、あの時を境に、永遠の彼方に消失してしまったんだろうな」とか想像してしまうのである。


 ……これを、(読んでくださっている方がいれば)自分の小説と置き換えて頂きたい。


 自分が我が子のように難産して、世に出した小説作品が、時を経て誰からも忘れ去られ、思い出されるよすがもなく、永遠の闇と化してしまうのである。これほど恐ろしいことがあるだろうか。


 死にゃあそのあとは知ったこっちゃねえよ、と割り切れるのであればいいが、自分はなかなかそうはいかない、めんどくさいタイプである。自分は配偶者も子もいない。うだつの上がらない生活をしている。だがせめて、位牌なんかどうでもいいけど、自分の書いたものは何とかして遺したい(こんなエッセイまで遺す必要はないが、一作だけ、どうしても遺しておきたい作品があるのだ)。おそらく、これを読んでくださっている方も、できれば死後も自分の作品は何らかの形で遺したいと思う部類にいらっしゃるのではないかと思う。


 もちろん、いかなる表現(絵画・音楽・小説などなど)においても、世間から一定以上の評価がなされている作品には、忘れ去られる心配は無用である。著者が死んでも、必ず作品を残そうとする人がいるからである。絵画が朽ちようとも、デジタル化するなどすれば半永久的に残る。音楽も小説も然り。


 しかし、作品の発表手段をカクヨムとかのプラットフォームにしか持たない私のような凡俗は、そうはいかない。カクヨムだろうが小説家になろうだろうがエブリスタだろうが何だろうが、プラットフォームそのものが消失する可能性って小さくないのだ。


 私が学生の頃、ニコニコ動画は最盛期を迎えていた。あの頃は皆、「Youtube? だっせえw」くらいの感覚だったと思う。そのニコニコ動画、今は見る影もない。十年後残っているかと問われれば、消えていても何の不思議もないプラットフォームとなった。


 だから、生存戦略としては、複数のプラットフォームに自分の作品を放流することが重要となってくるかもしれない。


 でも、そのすべてのプラットフォームがサ終してしまえば、それこそ一巻の終わりである。私は何でも、悲観的にものを考えるのである。


 そういえば、知り合いがある大手出版社で自分の小説を自費出版した。紙の本にもなってAmazonでも売ってるし、Kindleでも売っていた。自費とはいえ、そういう形で自分の作品が世に出せるなんて羨ましいなあとか最初は思っていたが、でもよくよく考えると、これにしても、本人が死んだらおしまいじゃね? と思った。要は、紙の本ならまだしばらくは残るかもしれないが、そんな無名作家(H先生、ごめん!)の紙媒体もそう長くは残らないだろう。Kindleの方も、サ終してしまえば終わりである(サ終しなくても、金を払わないと見られない無名作家の古い小説を、後世で読む人はほぼいないであろう)。


 そんなことばかり言ってると、「もうそれじゃどうしようもないだろ」とお叱りを受けるかもしれない。


 だから自分は思うのだ。「誰か、自分の遺言なり小説なり何なりのデータを、半永久的にネット上に第三者閲覧可能な状態で保存してくれるサービスを作ってくれないかな」と。そこではデータを残すことが最優先で、技術革新などがあったら、都度新しいデータ形式に変換していってくれる、といった感じで。


 もしそういうのがあるとしたら、どうだろう。カクヨム諸兄はこぞってこのサービスを求めるのではないだろうか。カクヨム老人会なるものが将来できていたとするならば、そこで評判になるのではないだろうか。


 というか、自分が知らないだけで、すでにそういったサービスはあるのかもしれない。よく調べてもないが。


 でも、こういうのは本当にあってほしいと思う。というか、早晩出てくると思う。需要は確かにあると思う。お金はかかると思うが、自分の永代供養なんかに金をかけるより、よほどこちらの方が報われるではないか?


 私は長年、高齢者介護の仕事を続け、ケアマネジャー介護支援専門員資格取得までこぎつけた人間である。だから多くのおひとり様とかいう高齢者の最期を見てきた。おひとり様なんていうと聞こえはいいが、その実は独居老人だ。それを見てきた経験から想像すると、私自身の最期も侘しいだろう。


 自分が寿命に近づく頃は、父母はとうになく、兄弟も遠方にして疎遠。在宅生活ができているうちは、デイサービスでも話し相手もおらず、一人で自分が自費出版した小説をひたすら読み返す日々。在宅生活が怪しくなってくれば、生前後見人をつけて、施設入所の手配やら、財産管理(ろくにないと思うが)、緊急時の延命処置意思確認(もちろん、延命は希望しない、だ)、死亡時の手配と遺骨の処置などなどを任せる。ああ、書きながら自分でも気が滅入ってくる。だが日本よ、これが独居老人の最期だ。


 それでも、その死に顔は安らかであってほしい。その根拠は、「私は死んでも、(小説の)データは遺るもの」だ。


 でもやはり、自分が書いた紙の小説本も一冊は棺に入れてもらいたい、とも思う自分である。







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自分の書いたものを半永久的に残したいと考えてみた 鮎川 雅 @masa-miyabi

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