第3話 イスラム教と「日本昔話」

  日本で生まれたイスラム教徒の子供たち。

  そんな彼らのために書かれた易しい日本語(ひらがな)の「イスラームの学習」「イスラームの学習2」という教科書。

この二冊をザッと読んだところ、「イスラム教の教えとは、在来種純粋日本人の聖書といえる『日本昔話』と同じではないか。」と感じました。

<イスラム教と「日本昔話」の共通点>

○ 人は必ず死ぬものという自覚

  (不老不死だとか、延命治療だとか、過度の健康志向に拘泥しない)

 → 「ラテン語memeno mori 汝死すべきことを自覚せよ」と同じ。

  死に対する覚悟と安心があれば、次元の違う充実した生活・人生が送れる、という教え(考え方)です。

○ (肉体が滅びた後の)魂の存在を信じることができる。

( ところが、日本の禅宗では、死ねばすべてが消えてなくなる「無」という考えです。)

○ 肉体が存在する期間とは、その後に来る魂の為にある。

  死んで魂だけになったら、魂は鍛えようがない。

  弱いスピリットは消えていくのだから、いま生きている間に鍛えておく。  

    その「鍛え方」にイスラム流と「日本昔話」で違いがあるのは致し方ない。

    イスラム教は世界中、どんな種族・民族・国家でも適用できる汎用宗教であり、「日本昔話」とは在来種純粋日本人(縄文人)だけの宗教なのですから。

○  キリスト教やイスラム教では「最後の審判」といい、「日本昔話」では「閻魔さまによる審判」と呼ばれるが、いずれも死後の魂の重み(質量)によって、その後の「その人の人生」が決まる、ということを指します。

これは簡単なことであり、例えば、水を満たしたガラスのコップに一滴のインクをたらすと、時間の経過と共にインクは広がっていく。しかし、水の蒸発と共に、逆にインクは凝縮し始める。この自然の分散と凝縮という原理が、人間の魂にも起こるということなのです。

○ ゆえに、(死後の魂の行き場を確かなものにするために)肉体が元気な内にやるべきことをして魂を鍛えておくべきである。

○ 約束と宿命

こういう確固とした考え方は、精神的な雑種混淆を繰り返してきた韓国人には、頭で理解できても、心底信じることはできない。

彼らは、いつでも「その場・その時・その相手」に合せて、都合のいい生き方・考え方で自分をカメレオンのように変えてきた人たちであり、だからこそ「日本で最大の移民数」という数の力によって、今やその支持政党である公明党(創価学会)をリーダーとして、日本で最大・唯一無二の絶対権力を持つ集団になりました。

もちろん、人の生き方とは千差万別・個性的ですから、そこに「良い悪い」はありません。それで当人たちが幸せであればいいのだし、そんな彼らが日本の進路を決めるまでの勢力に(ユダヤ人のおかげで)成長したのも致し方ない。これも宿命と捉え、自分は自分の運命を切り拓くしかない、と私自身は考えています。

ただ私としては、いつ思想・信条・性格が変わるかもしれない精神的に不安定な在日韓国人のような人よりも、「死んでも変わらない」同じ人格で今を生きているイスラム教徒的人間の方が安心できる。


その意味では、同じ韓国人といっても、大学時代のある先輩の場合、そんじょそこらの在来種純粋日本人面(づら)をしている偽物在来種純粋日本人以上に、安心感・安定感がありました。それだけ韓国人を超えて本来の人間になり切っていらっしゃるからには、私の知らない、相当ハードな核というものがおありでしょうから、私如きが「こういう人間」と括るわけにはいきませんが、その意味で、来世に於いて一番会いたくない恐ろしい人です。が、「善き宿命」として受け入れたい。

続く

2024年9月26日

V.1.1

平栗雅人

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誰も言わないイスラム教の真実 V.1.2 @MasatoHiraguri

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