第2話 宗教としてのイスラム教

ユダヤ教徒は、コーシャという極めて健康食品・食事を遵守しています。イスラム教徒は、ハラールという食のこだわりを持っています。


  日本では、仏教の坊主でも信者でも肉や魚を平気で食うという点で、もはや宗教ではない。なんでも辛いものにして食えば韓国人であるという「宗教」と、嘘も方便的いい加減な考え方、という点において同じです。

私自身は、イスラム教・仏教・キリスト教といった、宗教の信者・信徒になるつもりはありません。私には在来種純粋日本人(縄文人)としての思想・心情・信条があるのですから。しかし、知識・教養としては別です。

つい最近、子供向けの「イスラームの学習」「イスラームの学習2」という、優しい日本語で書かれた教科書を読む機会があったのですが、イスラム教やイスラム教徒には、学ぶべき事がたくさんある、と気づかされました。

また、彼らが(人に恥ずかしがることなく、信念を持って)日に5回も(仏教でいう)五体投地(両膝・両肘・額を順に地につけて、尊者・仏像などを拝すること。最高の礼法。)をするというのは、並々ならぬ覚悟であり、ともすれば韓国脳的「なんでもいい加減」「日本人と韓国人の区別を曖昧にする」風潮に染まっている昨今の在来種純粋日本人にとっては、良き刺激となります。


数十年前の日本という国は、韓国脳の影響がほとんどなかったので、子供から大人までこだわりがありました。顔つきにしても、黒澤明「素晴らしき日曜日」という映画に出てくる子どもたちの、在来種純粋日本人らしく、なんと個性的な顔をしていることでしょう。

一年中下駄を履いて生活したり、空き地で大きな声で歌を歌ったりといった、傍目には奇異に見える「五体投地的行為」をしている私としては、そんなイスラム教徒に共感が湧きます。彼らとちがい、私の場合はつまらないことではありますが「一寸の虫にも五分の魂」、こだわり・信念を持って生きる大切さを、彼らと同じように味わいたいと思っています。

イスラム教徒は五体投地によって、自分と異教徒とを区別している。

それは、自分が異物ではなく自分から見て異教徒が異物である、という、人間としての主体性の涵養になるし、その結果、差別ではなく違いを自覚することで、内なる安心感が生まれる。それが彼ら特有の、温厚で安心した表情になっているのでしょう。

イスラム教徒とはある意味で日蓮宗の不受不施派に似ているといえるかもしれません。

<不受不施派>

日蓮宗の一派。1595年(文禄4)京都妙覚寺の日奥の創始。法華経の信者以外には布施を受けず、施さぬ主義で、幕府に禁圧されたが、1876年(明治9)再興。岡山市の妙覚寺が本山。広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

仏教の中では最も宗教らしい、私の好きな仏教宗派です。

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