第7話
ベッドが軋んだ音を立てる。
眠っていた沙耶が目をうっすらと開けると、稀唯が身体の上にのしかかっていた。そして優しく髪が撫でられる。
彼の目はグレーへと変わり、金色の耳が生えていた。欲情の証だと言ってはいなかったか。沙耶へ口づける時に耳が生えていることは多々あったが、どうして今。
稀唯と呼びかけようとしても声にならなかった。
彼の両手が沙耶の首に回され強く絞められていたからだ。
「う……っ」
グッと力が込められると、苦しくて息ができない。体中の血が沸騰したように熱くなって、目や鼻、口から溢れそうになる。
だがなぜか沙耶の心は安堵に包まれていた。
まさか首を絞められるとは思わなかったが、ようやくその時が来たのだ。これで終われる、と。沙耶は稀唯に抱きつくように腕を回す。
すると、なぜか驚いたように稀唯が身を引いて、信じられないとでも言いたげに沙耶を見つめている。
「カハッ……はっ、ハッ……け、い?」
どうして殺さないのだろう。沙耶が呼吸を整えながら聞いても、答えは返ってこなかった。
稀唯の顔は闇の中でもわかるほど蒼白で血の気がなかった。沙耶が呼びかけても、なにも見えていないみたいに反応がない。
そしてどれくらい時間が経ったのか、稀唯のグレーの瞳が金色に戻る。彼の目が沙耶を捉えたのがわかって、安堵の息を漏らした。
「はぁ……よかった。死んじゃったのかと思った」
ぴくりとも動かない稀唯はまるで人形のようだった。生き物の最期など見たことはなかったから、もしかしたら死んでしまったのかもしれないと思ったのだ。
「どうして君は、俺を恐れない? あいつは……俺を」
「怖いわけない。だってあなたが殺してくれるって約束したんでしょう? 私はずっと待ってた。ご飯を食べて、運動をして。そろそろ美味しいと思うわ」
「君がいなくなってしまったら、俺はまた一人きりになるよ」
「あなたが殺そうとしたんでしょ? 変なの」
自分で殺そうとしておいて、一人きりになるとは。沙耶がクスクスと笑うと稀唯はなぜか泣き笑いのような表情になる。
「この家には鍵がない」
「うん、そうね」
「森を真っ直ぐにいけば、街に出られる」
「木の上に連れて行ってもらった時に見たわ。そんなに離れていないのね。それなのに人が入ってこないって不思議」
稀唯は怪訝そうな顔で沙耶を見つめる。
沙耶が楽しそうにコロコロと笑いながら返事をするのが、心底不思議でならないらしい。
「逃げればいいのに」
「どこに? 私にとって、ここ以上に幸せな場所はないわ」
「俺に名前をつけた女は、隙を見て逃げだそうとした。俺に優しくしたのも、名前をつけたのも、全部……自分が助かるためだった。だから……」
あぁ、そうか。ようやく納得した。
べつに彼の〝あいつ〟が誰であっても構わなかった。だが稀唯がその人のことをすごく大切にしているのはわかった。
(今は……もういないのね)
もしかしたら〝あいつ〟はこの家で眠っているのかもしれない。だから、彼は「俺たちの家」と言ったのだ。
どういう状態で眠っているのか想像に難くなかったが、不思議と怖くはなかった。彼に食べられた〝あいつ〟を羨ましいと思うことはあっても。
稀唯は、初めて温かいスープをくれた。温かい寝床を与えてくれた。
そして、沙耶に生きる意味を与えてくれた。
この男に食べられるために、今自分は生きている。そう思ったら、毎日が楽しくて仕方がなかった。
早く食べてほしくて、少しでも美味しくなれるように野菜も果物もたくさん食べた。
「似てると思ったけど……君はやっぱりあいつにはまったく似てない」
「あいつと比べるのは失礼よ。たぶん今の私の方がとても美味しいわ。だって毎日幸せだもの」
「幸せなの?」
稀唯がきょとんと目を瞬かせる。なんだか子どものように見えて、沙耶は彼の背中を抱きしめた。すると、ふわりと稀唯の尾が身体に巻きついてくる。
「あったかい」
「ねぇ、食べていい?」
「うん、もちろん」
目を瞑ると唇が重なって、稀唯の舌が差し入れられる。びりびりと口腔内から痺れが広がって、麻痺したように腕も足も動かなくなる。
気づくと沙耶は、ベッドの上に押し倒されていた。
身体は弛緩しきってまったく力が入らないのに、どこもかしこも熱く、はしたなく疼く。そういえば彼の唾液には媚薬効果があるのだと言っていた。
(気持ちいいまま天国にいけるのかしら)
夢のようだ。これほどに幸せな最期があるだろうか。
沙耶が恍惚と天を仰ぐと、愛おしむように優しい手つきで足が抱えられ、稀唯の身体が重なった。凶器じみたなにかが身体の中に入り込んでくる。
「あ……っ、あ」
沙耶は衝撃に声を上げる。
身体が燃え立つように熱い。
奥からなにかが噴きだしてきて、それらすべてを食い尽くされる感覚がした。恐怖なんて微塵もない。ただただ気持ちよくて頭が陶然としてくる。
「ど……っして?」
「なに?」
「どうして……全部、食べないの?」
息も絶え絶えになりながら聞くと、稀唯が首を傾げる。
「食べるよ。死ぬのが嫌になるくらい幸せにして、俺から逃げようとしたらちゃんと全部食べて、殺してあげるよ」
「それはいい考えね、約束よ」
「うん、約束だ」
沙耶は腕を伸ばし彼の頭を引き寄せた。
唇を重ねると、視界の端でふわふわと毛むくじゃらの尾が嬉しそうに揺れていた。
了
蜜月~孤独な金狼と死にたがりの少女 本郷アキ @hongoaki
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