第9話

  第9章・新矢・3



   プロローグ


 そして俺は、真夏の風の中で、肩にかけた愛器・アイバニーズの五弦ベースのベルトをかけ直した。



     ♩



 サトルさんのグロリアが、歌祈さんを乗せて解体屋へと帰って来た。

「歌祈さんお帰り。結婚式どうだった?」

 俺が声をかけると、

「もう最高だった。ゴシック調の教会も、そこから見える空も海も本当にきれいだった。しかしロサンゼルスってやっぱ日本とは気候から何から全部違うのね。陽射しの角度がまるで違うの。日光がこう、真上から降ってくるみたいなの。それでいて湿度がないからカラッとしててあまり汗も出ないし。サトルさんに言われてサングラス買ったんだけど大正解だった」

 歌祈さんはそう言いながらお土産のビーフジャーキーをみんなに見せた。すると一将が、

「うわっ、本場のビーフジャーキーだ!」

 まさにヨダレを足らさんばかりの勢いで飛びついて来た。

「何はともあれ、練習再開だね、あと一週間だよ。歌祈さんノドの調子はもういいの」

「うん、平気だと思う。でもいちおう病院で診て貰うまで唄うのは勘弁してもらえる? お盆が開けたらすぐ病院行くから」

 俺は歌祈さんの目をはっきりと見て話をした。

「病院には、俺も付き添わせて欲しい」

「うん分かった。私もそうしてくれると嬉しい」



 二日後、俺は歌祈さんに付き添って耳鼻口咽科へ向かった。

「上を向いて、舌を出してください…」

 歌祈さんが指示されたとおりにすると、その医者は舌の先端をガーゼで掴んで引っ張り、今度は、

「…えーっと声を出してください」

 と指示をした(五つの母音の中でもっとも喉が開くのは『え』なのだそうだ)。歌祈さんが再び指示されたとおりにすると、医者は先端にカメラのついている細長い管を喉の中に挿入した。するとすぐ隣のパソコンに、「えー」という音声と共に、振動する歌祈さんの声帯が見えた。音声は、閉じた左右の声帯と、肺から排出される空気が摩擦する事によって発生する。外へ出ようとする空気が、閉じようとする声帯を押し開く事によって、空気の波である音が作り出されるのだ。高い音の時は声帯の振動が早くなり、そして低い時は遅くなる。ボーカリストは、その振動をコントロールする事によって音程を取り、そして口の形で音声を言語に変換し歌詞をメロディーに乗せるのだ。更にいうと粘膜である声帯はあまりに酷使され過ぎると炎症を起こし、次第にそれはポリープ(血豆)や声帯結節(タコ)といった症状へと重症化する。歌祈さんはかなり早い時期に声帯の調子が悪いことを敏感に感じ取っていた。それが医者からの「炎症を起こす一歩手前」という穏やかな診断に繋がったのだ。

「もう心配ありません…」

 医者はきっぱり言い切った。

「…ただし予防的にお薬は出します。もうしばらくは飲み続けてください。それと夏の音楽祭が終わったら念のためもう一度診察に来てください。調子が悪いと思ったら休むことも大事です、それを忘れないで下さい、いいですね?」

「はい。ありがとうございます」

 そのやり取りを耳にし安堵した俺は、

「良かったね」

 その一言を心から口にした。

「ありがとう。サトルさんの所に帰ろう。私さっそく唄いたいの」

「いいとも。帰りもインテR運転させて」

「うん」

 俺は歌祈さんの車の運転席に乗り込み、キーを捻ってエンジンをかけた。するとブイテックの心地よい音が鳴り響き、シートとハンドルを通して振動が伝わってきた。

 歌祈さんは、ロサンゼルスから帰ってきた直後、「いるかロックグランプリが終わってひと段落ついたら新しく別の車を買う」と言い出した。このインテRは、今まで俺がバイトでため込んできた二十万円で買う事になっていて、すでにそのお金は歌祈さんに支払っていた(サトルさんの経済的な援助のかいもあり、俺はついぞ貯金を崩さずに生活を続ける事ができたのだ)。つまり、その頃俺はすでにもう、歌祈さんの車を半ば自分の物のように思っていたのだ。

 サトルさんが、解体した別のインテグラ(DC1、つまりタイプRではないオートマのインテグラ)から無限のマフラーを都合してくれたため、ノーマルよりも吹けが良くなり加速も鋭くなった(そして燃費も悪くなった)インテRを走らせながら、俺はサトルさんの事を口にした。

「サトルさんがロックグランプリ終わったらバンドから抜けるって話、聞いてるんだよね?」

「うん、聞いてる」

「俺たち三人は引き止めるつもりでいるんだけど、歌祈さんの意見を聞きたい」

「私もバンドに居て欲しいと思ってる。でもどうしても抜けたいって言うんじゃ、仕方ないよ」

「でも新しいドラムはどうする? サトルさんと同じレベルの人なんておいそれとは見つからないよ」

「そうね…」

 前方のトラックを追い越すため、俺は右斜め後ろをミラーで確認し、ウインカーを光らせ、ミラーと目視で斜め後ろを再確認しながらクラッチペダルを踏んだ。五速から四速にシフトダウンさせると、レバーからスコッと心地よい感触が伝わってきた。サトルさんにミッションオイルを交換してもらったばかりのチャンピオンシップホワイトに染めあげられたインテRは、ブイテックの甲高い音と共にトラックの横を駆け抜けた。

「…でも、人の気持ちなんてどうにもならないよ」

「そりゃそうだけど、それじゃまたDTMのドラムに逆戻りだよ。今さらデジドラの音なんてもう聴きたくない。サトルさんのドラムでベースが弾きたい。なんとか引き止められないかな」

「そうね…」

 と言ったきり、歌祈さんは押し黙ってしまった。

 その後も俺たちは、この問題に対しなんの解決策も見出せないまま毎日練習を続けた。


 …やがて俺たちは、こんなモヤモヤとした感情を抱えたままの状態で、本番当日である8月27日、「いるか祭り」の日を迎えたのであった…。



     ♩



「いるか祭り」の会場である、清和公園の陸上競技場にやって来ると、マイクの調子を確かめる、「ワンツー、ワンツーワンツー」という声が聞こえてきた。毎度の事ながらこの年のこの祭りも沢山の人たちで賑わっていた。陸上競技場の中心にはサッカーができる広々した芝生のグラウンドがあり、それを囲うオーバルコースには様々な出店が立ち並んでいる。出店の背後には芝生が敷き詰められた傾斜バンクしている土手もあり、レジャーシートを敷いた人たちが寝っ転がったり座ったりしながら寛いでいた。俺たちは陸上競技場の西側にある、メインステージの裏に設置された簡素な楽屋に着くと、各々の楽器を指定された場所に下ろした。やがて音響設備を始めとする全ての準備が整った事が確認されると、メインステージはしばらく静寂に包まれた。しばらくすると、マイクを持った秋島市の市長がステージの中央に立ち、

「それではこの快晴の空の下、第38回、『いるか祭り』を開催致します…」

 祭りの開催を宣言した。すると陸上競技場から大きな拍手が湧き上がり、鳩と風船がまっ青な空へと天高く舞い上がっていった。

「…ご存知のとおりこの『いるか祭り』は、昭和31年、ここ秋島市にて約150万年前のいるかの化石が発見された事から、太古の昔ここがまだ海だったと判明したのを端緒に始まりました…」

 メインステージの後ろの簡素な楽屋で、

「へえ、ここって昔は海だったんだ…」

 と、ジーパンにTシャツ姿の歌祈さんが腰に手を当てながらひとりごちた。

「…前から不思議に思ってたの。なんで海のない秋島で『いるか祭り』なのかなぁ、って。やっと謎が解けた」

「知らなかったの?」

 俺が尋ねると、

「だって地元じゃないもの」

 と歌祈さんが拗ねたような声を出しながら上目遣いで軽く睨んできた。そんな俺よりも歳上だが俺よりも背の低い歌祈さんへの想いを、俺はこの日、告白しようと考えていた。祭りのエキサイティングな雰囲気の中でなら、「はい」と返事してくれるのではないかという計算が俺にはあったからだ、…そう、いわゆる「吊り橋効果」を狙っての事だった。ほんの少し眠そうにも見えるトロンと色っぽく垂れた歌祈さんの大きな目を見つめながら、

「海と言えば歌祈さん、神奈川生まれだよね。やっぱ実家って海近いの?」

 と俺は質問した。

「話さなかったっけ? 近くも近く、すぐ目の前。実家はね、『シーサイドメモリー』っていう名前のカフェをやってるの。お店の目の前にはサザンオールスターズや杉山清貴&オメガドライブの歌にも出てくる国道134号線って道路があるのよ」

「ああごめん、それ前に聞いたわ。一緒に本屋へ行った時、神奈川の観光地が載ってる雑誌に、"うちのお店が出てる"ってはしゃいでたよね」

 その本屋で、俺は地元の中学の奴らとすれ違った。皆が皆、「あ、オンナできたんだ?」とでも言いたそうな顔をしていた。残念ながらその推測は間違っていた。しかし、もしかしたらその間違っている推測を、間違っていない事にできるかも知れない、そう思いながら市長の挨拶の言葉を聞いた。やがてその挨拶が終わると同時に、市役所がある秋島駅南口からやってきたパレードの集団が陸上競技場へと続々やって来た。ステージ上の進行役を引き継いだ女性が、そのパレードのチーム名を次々と紹介し始めた。

「…続いてやって参りましたのは、『想新の会』の鼓笛隊の皆さんです、『想新の会』の皆さん、ありがとうございます」

「うわっ、嫌なもの見ちまった!」

 俺は思わず毒づいてしまった。鼓笛隊の先頭を歩いているまだ若い女は、厚化粧した顔に満面の笑みを浮かべながら(ああ気持ち悪い)、斜め上を見て行進していた。彼女の後ろには、楽器を演奏する派手なユニフォーム姿の集団がぞろぞろと続いている。彼らはそうする事で「想新の会」の印象が良くなり、社会での評価が高くなると信じているからそうしているのだが、しかしあんな事をしたところで「想新の会」の印象が良くなる事は絶対にない。そして、「想新の会」を正しく理解している者が「想新の会」に入会する事もまた絶対にないのだ。

「新矢君のお母さんが、『想新の会』の人なんだよね?」

 認めたくない事実を、歌祈さんが質問してきた。

「…うん」

 しかし事実は事実なので、仕方なく俺は首肯した。

「良くないよね、自分の思想や価値観を他人に押し付けるのは…」

 歌祈さんはそう言って、不快そうな顔をした。

「知ってるの?」

「うん、昔お客さんからしつこく勧誘されて困った事があったの。店長に相談してそのお客さんと話してもらって、やっとその人諦めてくれたんだ。ああ、ホント嫌だったなぁ」

「『想新の会』の人たちって、相手が嫌がるのは自分たちが正しいからだって思ってるんだよ」

「そうなの?」

「うん。お袋がいつも言ってるよ、"正しいからこそそれを妨げる悪い働きが相手の命の中に起こるんだ"って。そんな命の中がどうだとか胡散臭い話を信じちゃうなんて馬鹿みたいだよね。だいたい、相手が嫌がるのは『想新の会』が正しいからじゃない、嫌だから嫌がってんだよ。俺に言わせりゃ連中のやってる事なんて思想のレイプだ!」

「だからあのお客さん、やんわり断っても分かってくれなかったんだ…」

 歌祈さんはのど飴を口に入れると、

「…ま、私が人との付き合いあまり上手くないからそうなっちゃった部分もあるにはあるんだけどね」

 意外な言葉を口にした。

「そんな風には見えないけど?」

「そう見えるのは私が客商売で小慣れちゃったからだよ」

「まあ、確かに、簡単に人のことを"そんな風には見えない"とか、"あなたはそんな人じゃない"って決めつけるのは失礼だよね。太宰治の人間失格がいい例だよ。傷つきやすい事をひた隠しにするために道化を演じる、ところがその演技の道化が良くも悪くも上手すぎて周りの人たちには道化の部分しか見えてこない、結果、周囲の人たちからは傷つきやすい人間だとは認知されなくなってしまう、そして傷つくような事を平気でされたり言われたりするようになるという悪循環が生まれてますます傷つけられてゆく。…こういう事例って、きっと少なくないと思うんだ、つまり何が言いたいのかというと、他人の事なんて何も分からないって思ってるぐらいがちょうどいいんだって事なんだ。ごめんね歌祈さん」

「大袈裟ね。何も太宰治を引き合いに出して長々喋ってまでして謝罪する必要はないわよ」

「なあ新矢…」

 背後から一将の声が聞こえてきた。

「…ライヴまでまだだいぶ時間あるし、お前、歌祈さんとちょっと祭りへ行って遊んでこいよ」

「機材なら楽屋ここで僕たちが見てるから心配しないで」

 雪光も微笑みながら手のひらで、「どうぞ行ってらっしゃい」と言う時のジェスチャーをして見せた。

「ありがとう」

 今日告白する気でいる事を、俺はすでに一将と雪光に打ち明けていた。二人が「行ってこい」と言うのは、気を遣ってくれているからなのに違いない。俺が手を挙げて礼を言うと、一将が大きな声で言い出した。

「歌祈さん、ちゃんと新矢の事見ててよね。なんたってコイツには警察の取り調べ室でカツ丼を食ったというとんでもない前科があるんだから」

「だから署長室だって言ってんだろ!」

 俺はそう言い返し、「あんな奴ほっといて行こ」、と歌祈さんを促し、楽屋から出た。

「そういえばサトルさんはどこ行っちゃったの?」

「知らない…」

 歌祈さんはどういうわけか、どことなく芝居がかった声で返事をした。

「…ねえ、それよりもさ、前にも聞いたけどその"カツ丼の前科"って一体なんなの?」

 オーバルコースを二人きり、時計とは反対周りに歩き始めると、歌祈さんがそう尋ねてきた。

「ああ、えっと、話すのは構わないんだけど、その、一つだけ交換条件がある」

「何?」

 歌祈さんは少し警戒するような表情をして見せた。

「手を繋いで歩きたい。ダメ?」

「なんだ、そのぐらいなら全然いいよ」

 ホッとした表情をする歌祈さんの顔を見ながら、俺は「やった」と心の中で叫んだ。俺は左手で歌祈さんの右手を握った。するとすぐ、たくさんの人だかりの中で、同じ中学だった連中たちとすれ違った。

「よお新矢じゃん。お前ら今日ライヴやるんだよな?」

「そのひと前も本屋で一緒だったよね、付き合ってるの?」

「あ、いや、付き合ってるわけじゃなくて、彼女は同じバンドのメンバーでさ…」

「付き合ってねぇならなんで手を繋いでるんだよ?」

 彼らはニヤニヤ笑いながらそう尋ねてきた。

「もう、いいからあっち行っててくれよ!」

 俺は手のひらで彼らを追い払った。すると彼らは、

「お前らが優勝する方にさぁ、俺たち全員千円ずつ賭けてんだ。出雲中学校イズチュウの奴らなんかに負けんなよ! 頼むぜ!」

 そう言い残しながら去っていった。

「やっぱり地元なんだね」

 歌祈さんは、笑いながらそう呟いた。

「アイツらきっと『Any time baby』と『ギターショップ』のどっちが上か賭けようってなったんだろうなぁ」

「相手が誰だろうとベストを尽くすしかないよ。最大の敵はいつだって自分自身なんだから」

「そうだね、ところでごめん、付き合ってるとか誤解されちゃったね」

「別にいいよ。てゆーかカツ丼の話は?」

「ああそうだったね。小学生の時に俺、警察に捕まえてもらうためにわざと万引きした事があったんだ…」

 沢山の人だかりの中で、俺はあの日の出来事を一から順々に説明した。署長から「カツ丼でも喰うか?」と言われたのだとオチまで話すと、案の定歌祈さんは「まるで刑事ドラマみたい!」と言って爆笑し出した。

「…それからその署長、毎年俺に年賀状送ってくれるようになってさ、もう警察は定年退職したらしいけど、今だに連絡してくれてるんだ。だから今日のライヴの事も俺、署長に手紙で報告してて、…あ、噂をすれば影だな」

 向こうから和かな笑顔を振りまいてやって来た人物は、まさに署長その人だった。

「やあ新矢君」

「お久しぶりです。署長」

「もう署長じゃないよ。定年退職したんだ。前にも話したろう」

「僕にとってはいつまでも署長ですよ」

「ところでこれまたずいぶんな別嬪さんを連れて歩いているんだなぁ。新矢君の彼女か?」

「いや違います。うちのバンドのボーカルです」

「何も別に隠さなくたっていいだろう。二人の楽しそうな笑い声がしたから君がいる事に気づいたんだ…」

 それは署長、アンタをネタにしてたからだよと、思わず俺は吹き出しそうになった。歌祈さんも同じ事を考えているらしく、俺の隣でクスクス笑い続けていた。

「…まあとにかく、今日のライヴ頑張りたまえ」

「ありがとうございます。頑張ります」

 署長は最後に、「邪魔してゴメンね」と言って去って行った。

「また彼女って思われちゃった」

 歌祈さんは満更でもなさそうな顔をして呟いた。

 会場のサブ・ステージには、「何とかレンジャー」の赤や青や黄色や黒やピンク色のアクションスーツを着ている人たちがいて、やはり敵役の昆虫を彷彿とさせる緑色のスーツを着ている人たちと、「ハッ! トウッ!」とか言いながら闘いを演じていた。それを応援している無邪気な子どもたちを見ながら、

「この暑い中、大変だろうなぁ」

 俺はひとりごちた。すると歌祈さんが、

「むかし遊園地で着ぐるみを着てキーボードを演奏するバイトした事があったんだけど、暑かったよ。まだ春だったんだけどそれでも暑かった。夏はもっと大変だろうね」

 と言い出した。

「ところでどう? ちょっとあそこで涼んでいかない?」

 俺は地元民なら誰もが知っている、ちっとも怖くない事で有名なお化け屋敷を指さした。歳下の男でも、頼れる時は頼れるのだとアピールするのが狙いだったのだが、「やだ」、とあっさり却下された。

「それよりかき氷食べたい」

 俺たちはそれぞれ、ブルーハワイとイチゴのかき氷を注文し、歩きながらそれを食べた。会場には他にも、パターゴルフや子どもが乗る小さなSLを模した乗り物、さらに田宮模型のミニ四駆の特設サーキットも設置されていた。

「懐かしいな。タミヤか」

「新矢君、ミニ四駆やってたの?」

「ううん、でも戦闘機の模型にハマってた時期があってさ、色々作ってたんだ。マスターのお店、昔は全く違う人がやってる模型屋さんだったんだ。そこに俺の作ったプラモを飾ってもらった事もあるんだぜ」

「凄いのね」

「『陸軍三式戦闘機・飛燕』っていう戦闘機でさ、日本で唯一水冷エンジンが搭載された戦闘機だったんだ。ダイムラーベンツ社が開発したDB601っていう名前のエンジン。その飛燕って戦闘機の事を良く分かってない人は、たまたまちょっとシルエットが似てるって事とエンジンが同じだっていう事だけで、"ドイツのメッサーシュミットBF109のコピーだ"って悪く言うんだ。だけど、飛燕の事をキチンと理解していたならそんな事は言わないはずなんだよ。シルエットが似てる? 飛行機の形なんてざっくり言っちゃったらみんな同じじゃん。確かに、日本でよく知られているゼロ戦とかはみんな空冷エンジンを搭載しているせいで機首カウルが丸みを帯びてるし、それと比較したら水冷エンジンの飛燕はスマートだから日本の戦闘機っぽく見えないという言い分は分からないでもない。でも、それでメッサーのコピーは言い過ぎだよ。メッサーシュミットとエンジンが同じだからコピー? それだって、ちゃんとライセンス生産権を買った上で作ってるんだし、これまた言い過ぎだよ、それに機体の設計に共通点なんてほとんどないんだし。たとえば離着陸する時に主翼から伸びるギアだって、飛燕とメッサーシュミットでは開く方向が逆なんだぜ。さっき、軽々しく人の事を分かった気にならない方がいい、むしろ逆に何も分かってないと思ってるぐらいでちょうどいいって言ったけど、そこに通ずる部分があるかなと思ってつい語りたくなっちゃった」

「なるほどね。戦闘機の事はよく分からないけど、その飛燕って飛行機が誤解されてるって事だけは何となく分かったよ。確かに軽々しく分かるなんて言うべきじゃないって私も思う」

「ちなみにその飛燕なんだけど、連合国軍からは"トニー"っていうコードネームで呼ばれてたんだ」

「へぇ。そうなんだ」

 立体迷路のようにも見えるミニ四駆専用のサーキットをしばらく二人で眺めた。シャーっと乾いた音を立てて走り去っていくミニ四駆を見送りながら、

「間近で見るのは初めてなんだけど、けっこう速いのね」

 歌祈さんが呟いた。

「うん、プラモデルやってた関係で色々話を聞いた事があるんだけど、あれはあれでけっこう奥が深くてやり出すと面白いらしいよ」

 白い日除け屋根の下で、ミニ四駆を整備している子どもたちの中に一人、すでに成人していると思われる男性の姿が見えた。テーブルを挟んだ反対側には、頬杖している女性が座っていて、ミニ四駆をチクチク弄っている男性の様子を微笑みながら眺めていた。「へえ、世の中にはこういうカップルもいるんだなぁ」、ふとそう思いながら、俺は想いを告げる心の準備をした。

「ねえ歌祈さん、言ってもいい?」

 俺は手を繋いだまま、歌祈さんの顔を真正面から見つめた。

「何?」

 心臓が激しく鼓動し始めた。俺はグッと唾を飲み込むと、覚悟を決めて一気に喋った。

「俺、ずっと前から歌祈さんが好きでした。付き合ってください…」

 歌祈さんは俺から視線をずらして地面を見た。しばらく彼女の反応を伺ったが、いつまでたっても歌祈さんは返事をしてくれなかった。

「…やっぱ歳下じゃだめ?」

「高校卒業して、きちんと就職して。そしたら付き合ってあげる」

「どうして? 今すぐじゃダメなの?」

「ダメってわけじゃない。でも…」

 歌祈さんは俺から手を離すと、俺の真正面に立ってこう言い出した。

「もし、もしだよ、もし新矢君が卒業する時に、下級生の女の子から告白されたら、どう?」

「どうって、そんな事あるわけないよ」

「あるわけないじゃなくて、もしそうなったらの話をしてるの」

 俺は答えに詰まってしまった。すると歌祈さんはこう言い出した。

「答えに詰まってるって事は、迷いがあるって事だよね」

「そんな事ないよ。だってそんな考えた事もないような事をいきなり質問されたって、普通は答えに詰まるじゃん」

 すかさず俺は反論した。しかし歌祈さんは、

「分からないよ。だってやっぱり、どうしたって、…若い〜子には負けるわ♩」

 森高千里のモノマネをした後、一人で小さく笑い出した。しばらく会話が止まってしまった。後ろから、追いかけっこをしている子どもたちが走ってきて、俺の足に接触した。しかし子どもたちは気づいていないのか、そのまま走り去って行った。

「もし、私が高校生だったら、きっと新矢君の事オッケーしてると思うの」

「だったらいいじゃん。付き合ってよ」

「でも、私はもう社会人だし、あなたはまだ高校生なの。だから今はまだ返事できない。それに言っちゃなんだけど、母親との関係が上手くいかなかった男の人って、その代わりを恋人に求めるようになるってよく聞くし、新矢君が歳上の私を選んだのにはきっとそういう要素もあるんじゃないかって正直そう思ってもいるの。…まぁ、もっとも…、ううん、やっぱもうこれ以上は言わない」

「言わなくても分かるよ。どうせ男なんてみんなマザコンだとでも言いたいんでしょ?」

 バレたか、と言わんばかりの苦笑いをしながら、歌祈さんはしばらく俺とは全然違う方向を眺めた。やがて俺の方に向き直ると、

「約束する…」

 と言い出した。

「…私はそんなに強い女じゃないの。だからね、歳下なのをいい事に甘えられても困るの。だから、ちゃんと高校卒業して、きちんと就職して、社会人として務まる人なんだって事を証明して、そしてきちんと就職した上で音楽をやって、それをちゃんと証明してくれたなら、その時は私の方から告白するって約束する、だからまず先にそれを証明して。そうでなくたって、バンドマンとバーテンダーと美容師は信用するなって有名な言葉があるぐらいなんだから」

「ここに一人バンドマンで美容師の人がいるけど?」

「女はいいの!」

「なんだよそれ!?」

「とにかく、私にだってできたんだから、男のアンタにできないわけがない。だからまず先にそれをちゃんと証明して。してくれたなら、私の方から告白する、約束するから」

 その言い分は正直ちょっと不服だった。俺にはちゃんとできる自信があったからだ。しかし断られたわけではない、そして歌祈さんが約束を破るなんてあり得ない。だから俺は返事をした。

「分かった。ただしその約束、絶ッ〜対守って貰うからね!」

 俺は歌祈さんに「指切りげんまん」を求めた後、絡めた小指を自分の左手へと引き寄せ再び手を繋いだ。

「あら、要領いいのね」

「褒め言葉としてとっとく」

 歌祈さんは「あはは」と乾いた声で小さく笑った。

「あれ、ちょっと待って!」

 俺はある事に気づいた。その懸念を確かめるため、慌てて疑問を口に出した。

「もしそれを証明するより先に、歌祈さんが他の男から告られたらこの約束はどうなっちゃうの?」

「さあね、新矢君よりもいいひとだったら、約束を反故にしてその人と付き合っちゃうかも」

 歌祈さんはわざと意地悪そうな声を出した。

「それずるいよ。せめて一年ぐらいは待っててくれないと話が違うってなっちゃうぜ」

「大丈夫。私もね、本当はお店で新矢君の髪を切った時からずっと好きだったの。でもね、だからこそさっき言った事だけはキチンと証明して欲しいのよ。とにかく、一年やそこいらくらい待っててあげるから心配しないで…」

 歌祈さんほどの美女を、他の男が放って置くとは到底思えない、果たして本当に大丈夫なのだろうか、…と、一抹の不安を感じてしまった。ところが歌祈さんは、

「…ところで新矢君、話はガラッと変わるけど『HSP』って知ってる?」

 不安に思っている俺をよそに全く違う話題を口にし出した。

「何それ? 歌祈さんが好きなプロレス団体の名前?」

「バカ違うわよ、Highly sensitive person、…約して『HSP』」

「それって"繊細過ぎる人"って意味だよね?」

「よく分かったね。実はね、ロサンゼルスからの帰りの飛行機の中で、『桃色ウインドベル』でギター弾いてた人と一緒になったの。結婚したコスモって子がそういう風に手配してくれてたのよ。でね、新矢君の事を相談したの、ほら、新矢君は今家出してるでしょ。そのギターの人、カウンセラーとして働いてるから、それで色々教わりたくて話を聞いて貰ったのよ。そしたらその人、新矢君が親に疲れているのは『HSP』だからなんじゃないかって言ってたの」

「へえ、そうなんだ」

「別に珍しい話じゃないんだって。なんでも五人に一人の割合で生まれつきそういう人がいるらしくて、だとしたらうちのバンドに一人はいるって事になるよね…」

 まるで霧が晴れて視界が開けるように、家族の中で俺ばかりが神経をすり減らしていた理由が突然理解できてしまった、…何故ならうちの家族もまた全部で五人だったからだ、むろん五人のうちの一人が、うちの家族に二人、あるいは三人いるという可能性も確率的に有り得ない事ではない、また同じ「HSP」でも軽度の人や重度の人だっているはず。そして何より俺だって、知らず知らずのうちに人を傷つけるような言動をしている可能性は当然の事ながら否定できない。そうだとしても自分ばかりが苦しんでいたのはその「HSP」だからなのだと考えると、色々と辻褄があってくると思えたのだ。

「…でも、『HSP』なら『HSP』で、その繊細な感覚を活かして創作活動とかもできるし、無理にそれを治そうとする必要はないんだって。…ところで話はまたもガラッと変わるんだけど、妹の麻美ちゃん、可愛いのね」

 歌祈さんは、あたかも麻実を自分の目で見た事があるかのような言い方をした。

「なんで麻美のこと知ってんの?」

「実はね、サトルさんから相談された事があったの。"俺は未成年者を匿ってる事になる。万が一新矢の親が警察に届けたりしたらまずい事になるかも知れない"って。サトルさんの所には外国人もいるし、もし本当にそうなったなら色々と面倒な事になるのは新矢君も分かるでしょ? だから一将君と雪光君にもその事を相談して、新矢君の親に話を通して貰ったの。で、ロサンゼルスへ行く前と帰って来た後、二回新矢君の親に会いに行ったんだ、サトルさんと一緒に」

「そっか」

「勝手にこんな事してゴメンね」

「別に謝らなくていいよ」

 会話はそこでしばらく中断した。歌祈さんは色々と話し続けたせいか喉の渇きを訴えてジュースが欲しいと言い出した。すぐそばの店で、氷水の中に沈んだポカリスウェットを買うと、歌祈さんは美味しそうにそれを飲んだ。俺もコーラを買って飲んだ。炭酸が鼻の奥を刺激し、涙が出そうになった。少し離れた所で、たこ焼きや焼きそばを美味しそうに立ち食いしている解体屋の黒人たちの姿が見えた。俺が手を挙げると、彼らもこちらに気づいて陽気そうな笑顔を浮かべながら手を振り返してきた。

「まずロサンゼルスへ行く前、私は美容師としてあなたが髪の毛を染めてないって事を証言したの。"ドライヤーの熱で灼けてるだけだ"って。サトルさんも、"責任を持って新矢君を預かります"って言ったら二人とも理解してくれたの。で、帰ってきた時もカウンセラーの人が新矢君は『HSP』の可能性があるって言ってた事も話したの…」

 最後のひと口を飲み干すと、歌祈さんはポカリスウェットの空き缶をすぐ近くのゴミ箱に放り込んだ。

「…そのカウンセラーの人、こうも言ってた。"親子だからって必ずしも相性が良いとは限らない、相性の悪い親子だっている、それをストレスだと感じるのなら無理をしてまで一緒に暮らす必要はない。親子は必ず分かり合えるとか、絶対一緒に暮らさなきゃならないなんてカウンセラーの俺に言わせればデタラメな常識もいいところだ、むしろ親戚の家から学校へ通うとかいった手段も積極的に視野に入れて考えるべきなんだ"って。だからその事も新矢君の親に伝えたんだ。…その上でとても大事な話があるの。実は今、すぐ近くの東屋あずまやに新矢君の両親が来ててサトルさんと一緒に待ってるの。どうかしら、両親と会うだけ会ってみない?」

 どおりでサトルさんの姿が見えないわけだ。…改めてそう思いながら、俺はしばらくの間、目をつぶって考えてみた。再び目を開くと、そこにはまだ若い父親と風船を持っている幼い息子が、仲良く手を繋いで歩いている姿が見えた。誰だって最初から子どもとの関係が悪くなると思って親になる人はいないはずだ、ふとそんな思いが心に浮かんだ。

「そこまでして貰っておいて、会いたくないとは言えないよな…」

 俺は常々、「親は俺の事なんて何も分かっちゃいない」と思い続けてきた。が、翻って考えれば、俺だって親の事は何も分かってはいなかったのだ、…そして、分かっていなかったからこそ、「髪を染めていないと信じてくれるだろう」と誤った推測をしてしまったのだ。「話し合う必要がある」、俺はそう結論した。

「…分かったよ。ちょっとだけ会ってみる」

 歌祈さんはすぐにケータイでサトルさんと連絡を取り始めた。そしてその足でそのまま清和公園の東屋へと向かうと、そこには話のとおりサトルさんと親父、そしてお袋と麻美がいた。

「あ、歌祈お姉ちゃんだ!」

 麻美は嬉しそうな声を上げ、歌祈さんの真正面へと駆け寄ってきた。

「麻美ちゃん元気?」

「元気〜っ!」

 きっと麻美にも歌祈さんがとびきりの美女だという事が分かるのだろう、まるで眩しい物を見る時のように目を細めながら彼女の顔を見上げた。歌祈さんと手を繋いだまま、俺は両親の前へと歩み寄った。暗に、「俺ももう、曲がりなりにも女を連れて歩いている一人前の男なんだ」とアピールする事が狙いだったからだ。

「親父、まず、殴ったのは本当に悪かった。謝る。サトルさんからも"もう二度と人を殴るな"って注意された。本当にそのとおりだと思う。でも俺、ダメなんだ、アンタ達と一緒にいるともう本当に疲れるんだよ。話に聞いたとおり、きっと俺はその『HSP』ってやつなんだと思う。反対にサトルさんの所での生活は自然体で居られるから楽なんだ。だからこのままサトルさんの所にいたい。高校へはそこから通うし、ちゃんと卒業するよ。で、就職したらサトルさんの所からは出ようと思ってる。サトルさんもそれでいいって言ってくれてるんだ。音楽は、その上でやるよ。それなら別にいいだろ?」

 親父は、

「分かった…」

 と言った上で、

「…歌祈さんとサトル君から話は聞いた。特に、サトル君から新矢の本音を聞かされた時は、かなりショックだったよ。お父さんもお母さんも、良かれと思ってしていた事が、まさか裏目に出てたなんて夢にも思っていなかった。正直なところ悲しかったよ。知らず知らずのうちに色々辛い思いをさせてたみたいだな。済まなかった」

 と頭を下げた。

「俺さ、今までずっと、アンタは俺の事なんか何も分かってないって思ってたんだ、勝手に答えを作って解った気になってるだけだ、って。でも、さっき歌祈さんと話してて気づいたんだ…」

 俺はいったん歌祈さんの方を向いた後、再び親父の目を見た。

「…あの時俺、髪を染めてないって事、親父は信じてくれると思ってたんだ、でも、染めたって疑ったじゃん? 嫌味で言うわけじゃないんだけど、もし俺が親父の事をちゃんと理解していたなら、きっと染めたって疑うだろうと正しく推測できてたはずなんだ、…つまり勝手に答えを作って解った気になっていたのは俺も同じだったんだよ」

「お父さんには嫌味にしか聞こえないなぁ」

 親父はそう言って苦笑いした。

「ま、ともあれこれで和解は成立だな…」

 とサトルさんは言い、

「…その証に握手しろ」

 と促してきた。俺はいったん歌祈さんから手を離し、言われたとおり親父と握手をした。俺は口にこそ出さなかったが、親父と「和解」する機会を作ってくれた「ギターショップ」のメンバーたちに、心から感謝していた。

「ところで俺、知ってのとおりこれからライヴなんだ。良かったら観てって欲しい。一将や雪光は悪友なんかじゃないって事を証明したいんだ。ちゃんと観てくれたらきっと分かってくれると思う」

 俺が握手したまま言うと、親父は「分かった」と言った。

「お袋もさ…」

 握手したままの状態で、今度はお袋の方を見やった。

「…もし俺たちが『いるかロックグランプリ』で優勝したなら、『想新の会』の事、もう少しだけ考え直してみてくれないか? 俺今まで、『想新の会』の事を色々と批判してきたでしょ、でも、罰なんてなんにも当たってないじゃん。そりゃあ信じてるお袋からしたら批判なんて不快でしかなかったろうけど、俺にはどうしても『想新の会』が正しいとは思えないんだ。だからさ、今すぐじゃなくてもいいから、考え直す事も視野に入れてみて欲しいんだ」

 俺たちがプロデビューした後、ついぞ「想新の会」の洗脳マインド・コントロールを超克し、脱会を決意する事となるお袋は、少なくともこの時は、「まさか優勝はないだろう」とでも思っていたのだろう。

「今すぐじゃなくてもいいのね」

 渋々ながらも承知してくれたのであった。そんなお袋を見て、「まったく、宗教の問題ってどうしてこうも厄介でデリケートなんだろう」、ふと俺はそう思ってしまった、と同時に歌祈さんが、

「今後の事で新矢君のご両親ともう少しだけ話をしたいの、だから、新矢君は先に一将君たちの所へ行っててくれる?」

 そう言い出したので、俺は「分かった」と返事をした。

 メインステージ裏の簡素な楽屋に戻ると、一将と雪光から、

「ごめんな、お前の家の場所を勝手に教えたりして」

 と謝罪を受けた。

「別に謝らなくていいよ。サトルさんの言う、"警察に相談されたら困る"って話も分かるし、外国人たちとお仲間になっちまった以上、こういった問題はもう避けては通れないもんね。それに、いちおう親とは和解はできた、良かったよ、むしろお前たちのおかげでもあると思ってる。ありがとう」

 俺はそう返事をした。すると一将はこう言い出した。

「あのさ、オレたち三人、同じ団地で生まれ育って、悪い事もしたし馬鹿な遊びもしたし、それにほら、学校もずっと同じだったじゃん? どうだろう、オレもお前の親と話したんだ。"オレたちの演奏を見てください"って。それでもし、お前の親が俺たちを認めてくれたなら、一度だけでいいから団地へ帰って来ないか? そんで今までどおり三人で学校へ通って卒業しようよ。それでももし、もし、どぉ〜しても親と一緒に暮らすのが嫌だと感じたら…」

 一将は俺の肩にポンッと手を置いた。

「…その時は歌祈さんのアパートに転がり込め!」

「なんでサトルさんの所じゃなくて歌祈さんのアパートなんだよ?」

「もう告ったんだろ?」

「まあね」

「そしたら何て?」

「"ちゃんと高校を卒業して就職して社会人として勤まる人だって事を証明して欲しい、そしてその上で音楽をやって欲しい"って言われた。"ちゃんと証明してくれたなら、私の方から告白する、約束する"って」

「じゃあこうしよう、いったん団地に帰って来い、そんでそれを全部証明しろ。そして約束どおり歌祈さんに告ってもらえ。で…」

 一将は俺の肩にポンッと手を置いた。

「…歌祈さんのアパートへ転がり込め」

「同じオチかよ!」

 俺がツッコミを入れると雪光がクスクスと笑い出した。

「まあそれはともかく、俺、つい今さっき親に言ったんだ。"ライヴ観てくれ、それで一将と雪光が本当に悪友なのかどうか判断してくれ"って」

「そしたら何て?」

「"分かった"って言ってた」

「ならいい。オレたちも新矢の親には言ってるんだ、"もしそれでもオレたちを悪友だって言うなら、もう『ギターショップ』は解散する"って」

「解散って、お前そこまで言っちゃったの!? ヤバくね?」

 するとすぐに雪光が笑いながらこう言い出した。

「まあ、その時はその時で僕がまた何か考えるから心配しないで」

「とにかく頑張ろう」

 俺たちの話が済むのと同時に、サトルさんと歌祈さんが戻ってきた。

「ロックグランプリが終わったらバンドを抜けるって話なんだが…」

 サトルさんは頭をかきながら少し照れ臭そうに言い出した。

「…やっぱりあともう少しだけ一緒に居させてくれないか?」

「もちろんだよ! むしろ逆に居てくれないと困る…」

 俺はすぐさまサトルさんと握手を交わした。

「…それにやっぱサトルさんのパワフル・ドラムじゃないと一将のじゃじゃ馬ギターは飼い慣らせないもんね!」

「なんだ、オレはサトルさんの飼ってるペットかよ」

 一将が不服そうな顔をすると、今度は歌祈さんが、

「当然でしょ。今更何を言ってるのよ」

 まるでアニメのツンデレキャラのような声を出した。一将を除く俺たち四人は大声で笑いあった。

「まあ、冗談は横に置くとして…」

 サトルさんは真剣な表情で言い出した。

「…さっき田中と久しぶりに会ったんだ。田中のやつ、もしオレたちが優勝して楽器屋の商売が今よりも良くなったら、育美のやつにプロポーズする気でいるらしいんだ。もしそれが全部上手く行ったら、その時はオレを正式なメンバーとして迎え入れてくれ」

「俺はもうとっくの昔っから正式なメンバーだって思ってるよ…」

 俺が握手している手を更に強く握りながらそう言うと、

「オレも」

「僕も」

「私も」

 他のみんなもすかさず相槌をうった。

「…でもそれでサトルさんの気が済むって言うのならもうそれでいいよ。しかしこれはいよいよ負けられないね。『ギターショップ』の解散もかかってる事だし」

「『ギターショップ』の解散!? 何の事よ?」

 歌祈さんが酷く驚いた顔でそう言い出した。すると一将が、

「新矢、余計なことを言うなよ、さっきのは嘘だ」

 笑いながらそう言い出した。

「何、嘘だったの?」

 たまに一将の嘘は本当に嘘なのかどうかが分からない時がある。いつもそうなのだが、そんな時は雪光の様子を伺うのが一番だ。ニヤニヤと楽しそうに微笑んでいる雪光を見て、「なんだ、解散の話は嘘だったのか」と俺は思った。

「さあ、そろそろ始まるから準備しよ。私トイレで浴衣に着替えてくるね」

 歌祈さんはそう言って、ステージ衣装を入れた紙袋を持って去っていった。俺たちもその簡素な楽屋で、それぞれのステージ衣装に着替えた。

 一将は、ジミヘンが好きそうなサイケデリックな色彩のド派手なアロハシャツを羽織った。

 雪光は、リーバイスのブーツカットとレッドウイングのエンジニア・ブーツで脚元をバッチリと固めた。

 サトルさんは、ご自慢の肉体美を強調するため真っ赤なタンクトップ姿になった。

 そして俺は、タイガーストライプの迷彩模様のボトムスの上に、ボーイスカウトシャツを羽織って大好きなミリタリースタイルを決め込んだ。

 しばらくすると歌祈さんが、夜空に輝く無数の花火が鮮やかに描かれた丈の短い浴衣姿で現れた。

「今からみんなにメイクする、顔を洗ってきて」

 歌祈さんはそう言って化粧ポーチを取り出した。

「メイク? オレたちビジュアル系になっちゃうの?」

 一将の声がひっくり返った。

「違うわよ。ビジュアル系みたいなメイクのためのメイクじゃなくて、あくまでも顔をきれいに見せるためのメイク。芸能人はみんなメイクしてからカメラの前に立ってる事ぐらい知ってるでしょ。だいたい雪光君ならともかく、一将君がビジュアル系になんてなれるわけないじゃない」

「歌祈さん? 一言余計だよ」

 悪態をつく一将の姿を見て、思わず俺は笑ってしまった。

 それだけは断固拒否する、というサトルさん以外の俺たち三人のメイクが終わると同時にマスターが楽屋へやってきた。

「いいか、知ってのとおりトップバッターは平均年齢がもっとも若いお前らだ。だからって遠慮する必要は一切ないからな、先手必勝だ! 一撃でトップを奪い取れ!」

「おう!」

 俺たちはかけ声をかけた。そして全員で円陣を組んだ。

「オレたち『ギターショップ』は、なんとしてでも優勝するぞ!」

 というバンマス・サトルさんのかけ声の後、

「行くぞ! オーッ!」

 と全員で声を合わせた。するとすぐ、進行役の女性のアナウンスの声が聞こえてきた。

「はい! それではここで記念すべき第一回、『いるかロックグランプリ』を開催したいと思います…」

 それと同時に歌祈さんが、

「そういえばさっきね…」

 風鈴ウインドベルの形をした桃色の可憐なピアスを小さく揺らしながら、俺の方へと振り向いた。

「…新矢君のお母さんから、"息子の事どうかよろしくお願いします"って言われちゃったの…」

 楽屋からメインステージへと向かう通路を見ながら、歌祈さんは俺にだけ聞こえるよう小さな声でつぶやいた。

「…やっぱりもう付き合ってるって思われちゃってるみたい。どうしてみんなそうやって勝手に答えを作っては分かった気になってしまうのかしらね」

「歌祈さん、それ、逆の見方もあると思うよ」

「逆の見方?」

「そ。お袋のやつ、あくまでも"同じバンドのメンバーとしてよろしくお願いします"って意味で言ったのかも知れないじゃん。もしそうなら、勝手に答えを作って分かった気になってるのは歌祈さんの方だって事になる…」

 なるほど、と歌祈さんは呟いた。

「…さあこれから本番だって時に数学の話はウザいかも知れないけどさ、3辺がそれぞれ、3:4:5の比をなしてる三角形が直角三角形なのは知ってるよね?」

 俺はソクラテスのように空とぼけながら質問してみせた。すると歌祈さんはまんまと引っかかり、

「知ってるよ」

 と答えた。

「知ってるって言うならピタゴラスの定理を使ってキチンとそれを証明してみせて」

「できないよ。アンタと違って現役の学生じゃないんだから」

「できないなら軽々しく"知ってる"なんて言わない方がいいよ。ソクラテスの言う"無知の知"だ。突き詰めてみると、知ってるつもりになってるだけで知らない事ってけっこう多いんだから。お袋の話に例えるなら、まず始めにキチンと付き合っているって事を確認してから、"息子の事をよろしくお願いします"って言うべきだったんだ、本来なら」

「なんかドサクサにまぎれて頭がいいのを自慢してるみたい。性格悪いよねぇ。大っキライ!」

 歌祈さんは両手を腰に当ててそっぽを向いた。

「もぉずぇ〜ったいに付き合ってあげない!」

 ふと、丈の短い浴衣からのぞく、白くて綺麗で柔らかそうな太ももを見てしまった。そして、もし本当に付き合う事になったなら、そのすべすべとした細長い脚を邪魔そうにして折りたたみ、膝枕とか耳かきとかして貰えるのだろうかと想像してしまった。「うわぁ、超甘えたい。そういやタオルで耳を拭いて貰った時、すげえ気持ち良かったな、店だったから我慢したけど声が出ちゃいそうだった」、…と、そこまで考えた後、俺はスケベな想像を頭から追い払った。「今は演奏に集中しよう。歌祈さんは今、あくまでも同じ楽曲を演奏するメンバーの一員であって、女性であって女性ではないのだ」、と。

「…まず最初に登場して頂くのは、『ギターショップ』の皆さんです。演奏して頂くのは、『やさしくなりたい』『泣かないでマイフレンド』、そしてギターのインストルメンタル曲『ハートエイク』の三曲です。よろしくお願いします!」

 アナウンスの声が止むと同時に、

「おいコラッ、二人ともイチャついてる場合か、行くぞ!」

 サトルさんにドラムスティックで尻を叩かれた。 

 ステージでの立ち位置は、観客から見て一番左側が、レフティーで演奏するために弦を逆さにセットしたフェンダーのストラトキャスターを持つリードギター担当の一将だった。右側がギブソンのレスポールカスタムを構えた、まるでスナイパーのように正確かつトリッキーな音作りに定評のあるリズムギター担当の雪光。ド真ん中はもちろん、ローランドのキーボードとスタンドの頂点にノイマンのマイクをセットした、絶対的な歌唱力を持つ我が「ギターショップ」の紅一点、歌祈さんだ。歌祈さんの右斜め後ろが、アイバニーズの五弦ベースを愛用する俺。そして、真後ろがパールのツーバス・ドラムで俺たち四人を熱く激しく支えてくれる頼れるナイスガイ、バンマスのサトルさんだった。定められたポジションに向かいながら、同じ中学の連中や、俺の成長を遠くから見守り続けてくれた署長、同じ釜の飯を食った黒人たち、そして何より、両親がいるであろう群衆へと目を向けた。

 そして俺は、真夏の風の中で、肩にかけた愛器・アイバニーズの五弦ベースのベルトをかけ直した。

 まだ見ぬ未来への一歩のために…。

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真夏の風の中で 如月トニー @kisaragi-tony

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