第8話

  第8章・歌祈・3



   プロローグ


 私は鏡の中のコスモを見つめながら、おまじないをかけるように囁いた。

「…コスモ、きれいだよ」



     ♩



 ロサンゼルス国際空港に到着し、タラップで飛行機の外へ出た瞬間、「陽射しの角度が東京や神奈川とまるきり違う!」、私は強くそう感じた。これが生まれて初めて国外の土地に足を一歩踏み出した時の第一印象だった。もっとも、こちらの方がずっと赤道に近いわけだし、そう感じるのはむしろ当然の事なのだろう。ところが屋外のカラッとした暑さとは裏腹に、空港を走るバスの中は、薄ら寒いと感じるぐらい涼しかった。決してエアコンのせいだけではない、晴れた四月より雨の降っている六月の方が暑く感じるのは、湿度のせいだと聞いた事があるのを思い出しながらターミナルに降りた。これまた当然の事ながら、周りはみんな白人を中心とした外国人ばかりだった、これまたもっとも、今は国外にいるのだから、厳密には私の方が外国人なのだが…。日本にいる外国人に対して日本人がそうするのと同じように、たまに私を奇異の目で見てくる人もいた。しかし私は、もはや「ギターショップ」のたまり場と化している解体屋で、外国人に慣れ始めていた。「新矢君も言っていたとおり、相手だって痛いとか怖いとかいった感覚をきちんと理解している人間なのだ、恐れる事はない、日本を代表する一人の国際人として胸を張ろう」。…私は奇異の目をものともせず、毅然とした態度で、ルイヴィトンのハンドバッグを持ち直した。そして、「あっちは紫外線が強いから用意しといた方がいい」とサトルさんに言われて購入したレイバンのサングラス越しに真正面だけを見つめて歩き続けた。

 空港の改札口を出た瞬間、

「歌祈ィィィー!」

 聞き覚えのある、ひどくよく通るハスキーな声が聞こえてきた。サングラスを外しながら声のする方向へと振り向くと、中学の頃よりも更に大きくなった胸をユサユサ揺らしながら駆け寄ってくるコスモの姿が見えた。コスモはそのままの勢いで私に抱きついてきた。私はよろけそうになるのに耐えながら、コスモの熱い抱擁を受け止めた。

「久しぶり。元気?」

「元気元気」

「少し太った?」

「失礼ね! そりゃ中学の頃に比べたら少しは体も大きくなるわよ。だいたいこっちの食べ物は量も多いし脂っこいしで、いつまでも日本にいた頃みたいにはいかないよ」

 コスモのフィアンセが話しかけてきた。

「ハジメマシテ、コンニチワ、ボクノナマエ、マイロン、マイロントヨンデ」

 そう言って、彼は私に手を伸ばし握手を求めてきた。私はその乾いた質感をしたフィアンセの大きな手を握り返した。コスモは手紙に、「ダーリンはサングラスをかけるとトップガンの時のトム・クルーズみたいなんだ」と書いていた。噂ほどではなかったが、彫りの深い顔をしたそれなりの美青年である事は事実だった。

「ナイス・トゥ・ミー・トゥ。マイネーム・イズ・カオリ・イナダ」

 私がそう話しかけると、彼は英語で、「あなたの事は前から何度も聞かされていました」という意味の言葉を繰り返した。解体屋でブロークンな英語を聞いているうちに、話すのはともかく、ただ聞くだけなら何となく分かるようになり始めていた。そもそも解体屋で使われている英語はかなりフランクで汚かった。そしてそれに比べたらフィアンセの英語はたいへん聞き取りやすかった。恐らくは英語に不慣れな私に気を遣い、ゆっくり丁寧に話してくれているからでもあるのだろう。そんな彼の優しさをたいへんありがたく思った。

「空港から家まで車で二時間ぐらいかかるの。とりあえず髪のカットは明日の朝でいいから、今夜はあたしの家でゆっくりしてって。それと、明日のお昼過ぎに、もう一度空港へ迎えに来たい人がいるの。それにも付き合ってくれる?」

「いいけど、迎えに来たい人って誰?」

「ユータ」

 何らためらうことなく、快活な声で返答したコスモに、思わず私は、

「ええっ!? ホントに?」

 と大声を出してしまった。そしてすぐ、医者から可能な限り沈黙するように言われていた事を思い出した。しかし、考えたら私は飛行機の中で十時間以上ひたすら沈黙していたのだ。薬だって飲んでいる。少しぐらいは平気なはず、でもこれからは注意しよう、改めてそう思い直した。

「あの、日本にいる元カレを結婚式に呼ぶって、どゆこと?」

 私はフィアンセの神経を逆なでにしないよう最大限の注意を払いながら小さな声で尋ねた。

「気にしなくて大丈夫…」

 私の心配をよそに、コスモはいたって普通の声で説明し始めた。

「…ダーリンはもう全部、何もかもを承知なのよ、日本でのあたしの事を。ユータを結婚式に呼んだのは、火事のドサクサでけっきょく返して貰えなかったお兄ちゃんの形見のギターを返してもらうためでもあるんだ。ダーリンがどうしても形見のブラッキーを結婚式の時に弾きたいって言うからそうして貰う事にしたの。ユータのヤツもフィアンセ連れて来るって言ってるし」

「すごいね。元カノの結婚式に今カノ連れてくるなんて、そんな話は初めて聞いた」

「とりあえず、車に行こう」

 フィアンセの運転する日本ではあまり見た事のない形の大きな乗用車に乗り、私たちは空港を後にした。



 その後、私はコスモのフィアンセの家族たちに囲まれて夕食を摂った。その席には七年ぶりに目にするコスモの母もいた。彼女は私を覚えていたらしく、いかにも日本的な仕草でお辞儀をしてきた。私もお辞儀し返した。しかしその表情は、七年という時間の経過とは不釣り合いなくらい、暗く老け込んで見えた。放火の罪を償うため、彼女には七年間、刑務所で暮らすペナルティーを裁判にて課せられた。コスモから受け取った手紙によると、模範的な囚人として務めた事が評価され、実際には六年で出所する事ができたらしい。その後の一年間を、社会復帰施設で暮らしながら一般社会の中を普通に働いて過ごし、去年ようやくアメリカへ帰る事を許されたそうだ。コスモの母には刑期を含め日本で三十年近く生活してきた過去がある。もともと米海軍の横須賀基地の中にある食堂で勤務していたコスモの母は、基地の近くにある飲み屋で、コスモの父と知り合ったらしい。コスモの話によると、除隊と同時にそのまま日本に住み着いたのだそうだ。彼女は今でも日本語が話せるのだろうか? そう思いながら周囲を見回した。そこで交わされている言葉はとうぜん英語だったため、私は会話にあまりついていけなかった。

 夜になり、コスモと同じ部屋で寝る事になった。

「その鼻に貼ってある絆創膏みたいなのは何?」

 コスモが日本語で話しかけてきた。

「これはね、ブリーズライトって言って、鼻の気道を確保して呼吸を楽にしてくれる物なの。これを使うか使わないかで次の日ノドの調子が全然違うのよ。ノドを通る時の空気には理想的な温度と湿度があって、鼻呼吸をすると空気がその理想的な状態になるのよ。私ね、いま声帯が炎症を起こしかけてるから、しばらく唄うのを休めって医者から言われてて…」

「へぇ、ボーカルも大変だね」

 コスモには、「ギターショップ」という男性ばかりのバンドで紅一点のボーカルをやっている事、そして「いるかロックグランプリ」に出場する予定でいる事を手紙エア・メールで伝えていた。

「ところでさっき、みんな英語ばっかりで話について行けなくてつまらなかったでしょ、ごめんね」

「うん、まあね、でも気にしないで、仕方ないよ。おやすみ」

「おやすみ」

 慣れない環境に身を置いたせいで、自分で思っている以上に疲労していたのだろう、目を瞑るなり私は沼の底に引きずり込まれるような激しい睡魔に襲われた。そして、夢も見ずに朝までグッスリと眠り込んでしまった。



 次の日の朝も、昨夜と同様食卓には英語が飛び交っていた。食事を終えるとコスモの家族は皆いっせいに出かけていった。なぜ出かけたのか詳しい事情は聞かなかったが、きっと中には私たちに気を遣って出かけて行ってくれた人もいたに違いない。ともあれ私は、いかにもアメリカらしい広い広い家の中で、コスモと二人きりになった。私は日本から持ってきた、「ギターショップ」のオリジナル曲の入ったCDをコスモに聴いて欲しいと願い出た。すると彼女はオーディオ&プレイルームと呼ばれている部屋に私を案内した。室内には、JBLの大きな左右のメイン・スピーカーや、ソニーの5.1チャンネルのルームシアター、CD&DVDプレイヤー、そしてパールのドラムやマーシャルのプリメインアンプ、フェンダーの茶色いテレキャスターなどが置いてあった。他にもスターウォーズのR2D2の1/1の模型、ダーツにビリヤード台が置いてあり、それでもまだなお、自由に身動き出来るスペースはサトルさんのカラオケ小屋よりはるかに広かった。

「日本語の音楽聴くの久しぶり」

 オーディオの前のソファーに座ったコスモはそう言いながら微笑んだ。私はサトルさんの所で一発録りした「泣かないでマイフレンド」をまず始めに聴かせてみせた。



   もう泣かないで Don't cry my friend

   君の事 守ってみせる

   もう泣かないで Don't cry dear friend

   君の事 傷つける全てから


   君の事 ちょっと誤解してた ゴメンね

   まさかこんなに涙もろかったなんてね

   放送室 ランチタイムの 打ち明け話

   正直に言ってくれてアリガト

   (I would like to know more about you)


   あんな噂 気にすることないよ

   間違ってるのはどちらか 私はちゃんと知ってる

   君が強がるのは 強くないから

   でももう大丈夫 これからは私が一緒にいてあげる


   だからお願い これからもずっと


   もう泣かないで Don't cry my friend

   君の事 守ってみせる

   もう泣かないで Don't cry dear friend

   君の事 傷つける全てから



 サビが終わって間奏が始まると、

「ああ、これ…」

 コスモはひどく懐かしそうな笑顔を浮かべながら尋ねてきた。

「…あの時の事を歌ってるのよね?」

「それが実は違うのよ」

 私はその歌詞が新矢君の書いたものである事を今ここで初めて打ち明けた。すると酷く驚いたコスモが、

「Really!?」

 と英語で聞き返してきた。私はたいへん満足だった。今まで打ち明けずにいたのは、何を隠そうコスモを驚かせる事が目的だったからである。

「それが本当なのよ。一部分だけ直してはあるんだけど、ほとんど全部そのまんま、その新矢って子が書いた歌詞が使われてるの。まだ知り合ったばかりだったのに、まるであの日の事を知ってたかのような歌詞を書くもんだから運命感じちゃってさ、これを初めて読んだ時、私感動して思わず泣いちゃったの」

「そっか、ところでこれドラムすごいね。いい意味でうるさくてあたし好き。ねえ、この人身体大きいでしょ?」

 やはりコスモは本職がドラムなだけあり、ドラムの音が嫌でも聴こえて来てしまうのだろう。

「…それにこのベース、手数が多くてテクニカルよね。その上まるでベースというよりギターのようなスケール感もあるから聴いてて楽しい。あたしこの人とリズム隊組んでみたいわ。リズムギターもトリッキーなのに超正確、まるでスナイパーみたい、こんなの聴いた事ない。それからなんと言ってもこのリードギターよね、音がすっごい尖ってる、それにすごく上手。この子たち本当にまだ高三なの?」

「うん、実はね、このリードギター、右きき用のギターを改造して左手で弾いてるのよ」

「ジミヘンじゃ〜ん! どおりでなんか音が違うと思った」

 コスモは右手でギターを弾く仕草をした後、すぐに左手で弾く仕草へと切り替えてみせた。そのオーバーなアクションに、やっぱりこの子はもうアメリカの人なんだな、と私は改めてそう思った。

「でもね、このギターの子が自己主張強くて、私が唄ってる時だけでいいからもう少し音を控えてって言っても聞かないのよ、何かあるとすぐにもう、やれファズだディストーションだで音を歪ませようとするの。文句を言ってもやれ"オレはアイドルのバックバンドじゃねぇ"だの、"オレを選んだのは歌祈さんだろ"とか言って聞いてくれないし」

「まあ、歌祈はこういうアメリカっぽい音よりイギリス系の音の方が好きだもんね。高三かぁ、きっとみんな元気いいんだろうなぁ。うん、この子たち、みんな上手いよ。アメリカのハイスクールでもこれだけ上手な子はまずいないよ。全員凄腕ぞろいだ。ホントいいメンバー見つけたね」

「ちなみに、この歌詞を書いたベースの子なんだけど、私の事好きっぽくってさ…」

「いいなぁ歳下の彼氏! すんごいいいなぁ! ねえ可愛いでしょ? 食べちゃいたいでしょ? ねえねえ」

 子供のようにはしゃぎ出したコスモを私は宥めた。

「まだそうと決まったわけじゃないわよ。でね、この子親と喧嘩してて今家出してるのよ」

「歌祈のアパートで暮らしてるの?」

 コスモがニヤニヤといやらしい笑顔を浮かべながら尋ねてきた。

「なんでそうなるのよ。ドラムの人が車の解体屋やってて、今そこの工場に居候してるの」

 私はサトルさんが、カラオケボックスとして利用されていた小屋をリビング件スタジオにしている事、全てのインフラを自前で構築している事、「露天風呂」でさえも設置している事、そしてとなりの納屋の中にキッチンがあり、そこに寝泊りしている新矢君が食事係として黒人たちから大いに重宝されている事を説明した。するとコスモは、

「家出して納屋に寝泊まりかぁ。男の特権だね」

 と羨ましそうに呟いた。

「私も同じ事を思ったよ」

「ま、そのベースの子の気持ちはあたしも嫌と言うほどよく分かるけどね。もしあたしがあのままユータと一緒にM高へ行ってたら、あたし間違いなく毅の家に入り浸って通学してたと思うもん。学校近いしガレージのドラムは叩きたい放題だし。何から何までそっくりじゃん」

「私も同じ事を思ったよ」

「さっきもそう言ってたね」

「…確かに」

 私たちはそう言って笑い合った。

「…で、その解体屋で働いてる黒人の人たち、ボクシングやらなんやら格闘技をかじってる人が多くてさ、しかもそのドラムの身体が大きな人も父親から格闘技を仕込まれてるのよ。で、一時期そのベースの子も格闘技の真似事なんかを始めちゃってさ、ちょっと不安だったんだ」

「なんで不安になったの?」

「家出したのが父親を殴ったすぐ後だったから…」

「なるほどねぇ。そこへ来て格闘技じゃ怖いよね」

 コスモは酷く暗い顔で私の話に応じた。

「でも私が自分の気持ちを正直に話したら"やめる"って言ってくれてさ、ホッとしたんだ。だけどその格闘技やってた一時期だけは本当にアイツの事が分からなくなって、まだ付き合ってるわけでもないのに好きだって気持ちが少しだけ曇っちゃったんだ」

「そっか」

「あの、ごめんね、こんな話をして。嫌な気分させたかな?」

「気にしないで。それより髪切ってよ」

「分かった。でもその前にシャワーで髪洗ってきてくれる? 髪はもちろん濡れたままでいいからね」

 バスルームに向かうコスモを見送りながら、彼女の男性の暴力に対する恐怖心は、決して完全に癒える事はないのだろうという事実を私は改めて再認識していた。

 私はコスモから「こんな感じに切って欲しい」言われて受け取った雑誌を見た。そこには当然英語が書いてあった。しかし音符の読み方が世界共通であるのと同じように、髪の切り方もまた世界共通だ、恐れる事はない、私はその雑誌に写っているモデルの髪型をじっくりと観察した。しばらくするとバスタオル一枚だけ羽織ったコスモが鏡をセットしているリビングへとやって来た。

「うわっ、ダイタン、大丈夫?」

 バスタオル一枚のみに覆われたコスモのグラマラスな身体は、女の私の目から見てもそれはそれは美しく、セクシーだった。

「みんなしばらく帰ってこないから、これでいいや」

 私は椅子に座ったコスモの前に立ち鏡を置いた。そして事前に準備していた家中のライトでコスモを明るく照らした。

「ちょっと眩しいかも」

「我慢して。明るくないとちゃんと切れないの。あのね、髪の切り方を革命的に変えたのはヴィダルサスーンなのよ。それまで人は頭の形を立体的に見るという概念を持っていなかったの。例えば歴史の教科書に載ってる昭和とか大正時代の人たちの髪型を見ると分かると思うんだけど、どことなくのっぺりしてるでしょ?」

「…確かに」

「あれは頭を立体的に見ていなかったからなのよ。で、立体的に見るためには明るく照らしてあげる必要があるの。美容院が明るいのはそれが理由なのよ」

「なるほど。じゃ我慢する」

 私は日本から持ってきた自分のハサミを手に取った。

「ところで優太君のことなんだけど、言ってもいい?」

「何?」

「私今までずぅ〜っと黙ってたんだけど、実は優太君ね、コスモがアメリカに来てあなたたちが別れたすぐ後に、別の子と付き合い始めたのよ」

「西田さんでしょ?」

 コスモは尻下がりのイントネーションで質問してきた。その断定するかのような言い方にちょっぴり驚いた私は、

「知ってたの?」

 狂った手元で髪を切ってしまわぬよう、コスモの頭から慌ててハサミを離した。

「アイツはあたしみたいなタイプよりもああいうきれいな子の方がタイプだから」

「そうなんだ。でもなんで知ってたの?」

「アイツが隠し持ってたエロ本は全部チェックしてたから」

「そうなんだ」

「そりゃそうよ。だってあたしアイツの部屋で受験勉強してたんだよ」

 コスモは優太君の母親とひじょうに仲が良かった。聞いた話によると、優太君が塾などで不在の時も、コスモは部屋に上がって勉強する事を許されていたのだそうだ。それぐらい、コスモの家は勉強し辛い環境だったのだ。そして同時に、優太君の母はそれぐらいコスモを全面的に信頼していたのだ。

 ミルクティーのような色をしたとても綺麗な髪の毛にブラシを通しながら、私は「知ってたの?」という質問で聞きたかった答えと違う返答をしたコスモに、今度は違う質問の仕方をする事で本来聞きたかった答えを導き出そうと考えた。

「ところでどうして西田さんだって分かったの?」

「うん、あたしが中二の一月に肺炎で入院した時、ユータに告白されて、で、その後バレンタインの時にチョコを渡して付き合う事になったのは覚えてるよね。実はその時、ユータのやつ、他の女からもチョコを貰ってたのよ」

「そうだったの?」

 あっという間に乾いてしまった髪の毛を、霧吹きで濡らしながら返事をした。やはり日本とは湿度がまるきり違うんだなと、場違いな思いが頭をよぎった。

「チョコを渡した時、ユータの様子が変だったの、アイツは考えてる事すぐ顔に出るから。で、その日学校が終わったあと、早速ユータの部屋に上がって勉強してたら、たまたまユータがいなかった時にユータのおばさんに言われたの。"ポストに入ってたチョコ、あれコスモちゃんでしょ? ありがとね"って。それであたしピンと来たの。あ、あの時様子が変だったのは、他の女からも貰ってたからなんだって」

「なるほど」

「まあ、ユータに限って浮気はないって信じてたし、だからあたしもユータにその事を追及しようという気にはなれなくて黙ってたのよ。でもほら、あたし達クラスでオープンに付き合ってたじゃない、それが理由である日突然分かっちゃったのよ、ポストにチョコ入れたのはきっと西田さんに違いないって…」

 鏡の中でコスモと目が合った。すると彼女はこう言い出した。

「…あたしからも質問。で、ユータと西田さんはその後どうなったの?」

「うん、上手くいかなくてすぐに別れたみたい。西田さんが泣きながら優太君の事叩いてたのを駅で見たって噂を聞いた」

「やっぱりね」

「やっぱりね?」

「これはあくまであたしの推測なんだけど、きっと西田さん、あたしが居ないのをいい事に、卒業式のあと玉砕覚悟でユータに告ったんだよ。ユータは一度それを断った。で、その後にあたしからのお別れの手紙エアメールを受け取って、それで寂しくて一時の気の迷いで都合よく現れた西田さんつい言っちゃったのよ、"やっぱり付き合って欲しい"って。そんな風にして始まった恋愛が長続きするわけないじゃん」

「そっか!」

 私はもう一度、手元が狂わないようにハサミを頭から離した。

「その推測、私もきっと合ってると思う。先に告白したのが西田さんなら色々と辻褄が合ってくる。私ね、コスモと別れた直後すぐに西田さんと付き合い始めた優太君の事、最初は軽蔑してたの。『桃色ウインドベル』を抜けたのもそれが理由だったのよ。もう優太君の顔なんか見たくもない! って思って。でも今になって思うと私も私だったのかな…」

 考えてもみれば、あの真面目な優太君が、コスモと別れた直後に別の女の子に声をかけるなんてあるわけがないのだ。何故こんな簡単な事に今まで気づけなかったのだろう。…そう考え込んでしまったせいもあり、そこでしばらく会話が途切れた。私は霧吹きで乾き始めたミルクティーのような色の髪を濡らし、ブラシを通した。

「…でもさ、言っちゃなんだけど、優太君ってそんなにいいかな? 確かに優しいし頭もいいけど、なんかこう、良くも悪くも優等生的で刺激がないというか…」

「確かにね、でも、ユータには、暴力の気配がないから…」

「暴力の気配?」

「ほら、男って時々怖いじゃん。本人にそんなつもりはないんだろうけど、急に立ち上がったり睨んできたり…」

「あ、分かる分かる。昔付き合ってた彼氏がさ、私の隣でうつ伏せになって寝てたの。別にそれはいいんだけど、目が覚めたら私の顔のすぐ目の前に彼の肘があってさ、あれめっちゃ怖かった」

「そう、それそれ、でもユータにはそういう所が少しもないのよ。だから一緒に居ても不安に感じる事が全くないの。ところでどう、そのベースの子、暴力の気配を感じる?」

「感じる、…かなぁ。でも、自分より弱い人には暴力ふるわないと思う。それは信用できる。人の痛みとかをちゃんと理解できてるし、他人の気持ちに共感して寄り添う力も持ってるから。実際ほら、女の子の気持ちを書くのとかも異様に上手いでしょ? みんな言ってるのよ。"歌祈の曲や唄い方と新矢の歌詞は相性が抜群にいい"って。事実さっきの曲がそうだったみたいに」

「うん、正直言ってあれを男が書いたとはとても思えない」

「本人にそれ伝えとくよ。きっとアイツこう言って喜ぶよ。"男が書いたと思えないは、俺にとって最高の誉め言葉だ"って」

「なるほどね」

 私が梳きバサミに持ち変えて仕上げの作業に入ろうとすると、

「やっぱり、女に暴力ふるう男はダメだよ」

 コスモは突然そう言い出した。コスモが言外に言おうとしている事の意味を、私は嫌というほど理解していた。

「はい、これでカット終わり、もう一度シャワー浴びて来て」

 私は立ち上がろうとしたコスモの背中を、あの日放送室で話し合った時のように後ろから抱きしめた。

「コスモ、元気な赤ちゃんいっぱい産んで、そしていい子に育てて…」

 私は鏡の中のコスモを見つめながら、おまじないをかけるように囁いた。

「…コスモ、きれいだよ」



 その後私たちは、コスモのフィアンセが運転する車でロサンゼルス国際空港へと向かった。ハイウェイを飛ぶような勢いで走る車の中、私たちは日本語でガールズトークを交わし続けた。恐らく断片的にしか英語を聞き取れない私と同じくらい、断片的にしか日本語を聞き取れていないのであろうフィアンセは、ただニコニコ笑って車を運転し続けていた。

 空港の出入り口付近で待つ事約十分。見覚えのあるとても優しそうな痩身の男性が、笑顔の素敵な女性とともに姿を現した。彼の手には、ギターの神の異名を欲しいままにしたエリック・クラプトンのシグネイチャー・モデルであるブラッキー専用のケースが握られていた。その黒いケースの隅にある、「fender」と描かれた銀色のロゴが、まるで意思を持つ生き物のようにキラリと光を乱反射し、私の目を射抜いた。…その中に納められているギターが、コスモの兄の形見の品である事は言うまでもない。

「ユータァァァー」

 コスモは昨日と全く同じように、とてもよく通る低くてハスキーな声で彼の名を呼び、そして抱きついた。「フィアンセの目の前でそんな事をして大丈夫なのかしら?」と危惧したが、「あ、でも、アメリカではこれぐらい、むしろ当たり前なのかも知れない」と私は思い直した。

「ハイ、ナイス・トゥ・ミー・トゥ…」

 彼はコスモのフィアンセと握手しながら自己紹介をし始めた。さすが優等生なだけあって、私よりも遥かに流暢に英語を操っていた。そして互いに名前を名乗りあうと、彼は形見のブラッキーをフィアンセに譲り渡した。

「久しぶり、優太君」

 私も彼に声をかけた。「桃色ウインドベル」を抜けて以来、神奈川ではついぞ一度も、駅やコンビニなどですれ違う事すらもなかった相手と、はるか海を越えたこのロサンゼルスの地で再会、…なんという巡り合わせなのだろう。世界は案外狭いのかもしれない。私はそう思いながら優太君と握手をした。

「久しぶり、歌祈ちゃん。紹介するね、由美って言うんだ。俺のフィアンセ」

「初めまして。『三年生お別れ会』でボーカルやってた方ですよね? ビデオ見せて貰った事があるんで知ってます」

「あれを見てくれたんですね。ありがとうございます。初めまして、稲田歌祈です」

 コスモと由美さんが向かい合った。二人の間に、女同士の複雑でわだかまった感情のようなものは微塵も感じられなかった。二人は互いに、

「初めまして」

 と言って名乗り合い、握手を交わした。由美さんは、

「あの手紙、読ませて貰いました。『世界のどこを探しても、あの日の二人はもう居ない』って文章に感動しました。普段から日本語に慣れ親しんでいる私でも、こんなきれいな文章はなかなか書けないと思ってたんです。きっとコスモさんは感性の豊かな人なんだろうな、って。そんなあなたと友達になりたくてこうしてはるばるやって来ました。ロサンゼルスの青い海と空が見える素敵な教会での結婚式に期待してます」

 はっきりとした明瞭な日本語で由美さんは話した。

「あたしも、"もう一人のお兄ちゃん"が選んだ相手がどんなひとなのか興味を持ってました。会えて嬉しいです」

 コスモはそう言って人懐っこい笑みを浮かべた。



     ♩



 2005年8月12日。

 日本の暦では友引に当たる日、コスモはロサンゼルスの海と空が一望できるゴシック調の美しい教会にて、無事結婚式を迎える運びとなった。

 披露宴の直前、私は式場の裏にあるパウダールームでコスモにメイクを施した。私は私の持てうる限りのテクニックで、コスモを美しく仕立てあげた。

「やっぱりちゃんと美容の勉強をした人のメイクって違うのね」

 鏡に映る自分の顔を見て、コスモはとても満足そうに微笑んだ。

「ところであの、結婚式の最後に花嫁がやる、『bouquet toss』ってあるじゃない?」

「ブーケトス」のところだけ、発音が明らかに英語になっていた。

「…あれ、なんとか歌祈の所に届くようにあたし頑張るからね!」

 両手の拳を固めると、コスモは花嫁姿に全く不釣り合いなガッツポーズを決めてみせた。

「別に頑張んなくていいよ。私まだ音楽やりたいし。だいたい狙って投げてどうすんのよ。あれは然るべきひとの所に運良く飛んで行くからこそ意味があるんじゃない…」

 今ごろ、教会の会場でコスモの出番を今か今かと待っているはずの優太君と由美さんの事をふと思った。

「…それにもしどうしても狙って投げたいのなら、由美さんの所へ投げてあげてよ」

「あそっか」

 突然、コスモは物を投げるのが異様なまでに上手かった事を思い出した。体育のソフトボールでピッチャーをやると、コスモはその尋常ではないコントロールとスピードでみんなを圧倒した。誰もバットにかすらせる事すらできなかった。クラスではやや浮いた存在として認知されていた事も手伝い、「存在それ自体が反則だ」と言われた事すらあった。ダーツも非常に上手かった。毅さんの家のガレージで、私は初めてダーツを経験した。「桃色ウインドベル」のメンバーで競ったのだが、男性で運動神経抜群の毅さんですらコスモには勝てなかった。その時毅さんが言った言葉を私はふと思い出した。

「すげえ。俺もハットトリックは初めて見た」

 コスモが的のド真ん中に三回連続で矢を当てた時の事である。「そう言えばあれはなんて言ったかしら」、体育の授業の時、コスモがソフトボールでやった何やら奇跡的な偉業に対して女の体育教師が言った言葉を思い出そうとした。その時も先生は言っていたのだ、「初めて見た」と。しかし私は野球やソフトボールにはあまり詳しくないため、その言葉を思い出す事がどうしてもできなかった。…ともあれ、コスモならたとえ背面でも狙って投げられるのではないかと私は半ば本気でそう考えた。

「私式場に行くね」

 ソフトボールの時に先生が言っていた、コスモの偉業の名前。…優太君なら分かるかもしれない。私はそう思いながら部屋を出た。

「歌祈、きれいにしてくれて本当にありがとう」

 コスモは私を気持ち良く見送ってくれた。

 会場へ行き、私はすぐさま優太君と由美さんの席を探し当て、隣に腰を降ろした。

「ねえ優太君。野球やソフトボールで、誰にも打たれないで勝つ事を横文字でなんて言うの?」

「パーフェクト、もしくはノーヒットノーラン」

「うーん、違うなぁ」

「何、どうしたの?」

「コスモが体育の授業でソフトボールのピッチャーやった時の事なんだけど、先生が"初めて見た"って言ってたの。その時コスモがやった記録的な偉業の名前をなんて言ったかなぁ、と思って」

「ああ、コスモのやつ物を投げるの上手いからなあ。俺もそれで何度か怖い思いをした事がある。コントロールがいい事とタム回しのグルーヴがいいのはきっと無関係じゃないと思うんだよ。…あ! それって、ま、まさか、…フェルナンデス?」

「そう、それだ! フェルナンデスだ!」

 すげえ、と優太君がため息をついた。

「でもさ、俺が働いてる心療内科の待ち合い室に置いてあったスポーツ新聞で、確かアメリカの女性のソフトボールの選手が格下の選手相手にフェルナンデスをやったとかなんとかって書いてあったのを斜め読みして、へえ、そんなのもあるんだって思ったって程度で、公式にそんな物が認められてるのかどうか正直よく知らないんだよね」

「何そのフェルナンデスって」

 由美さんが優太君に質問をした。

「全部の打席を三振に取る事だよ」

「本当にそんなのあるの!?」

「えっ、由美さん野球分かるの?」

「お兄ちゃんが野球やってたから分かります。でも、フェルナンデスなんて私も初めて聞きました」

 優太君は、

「…フェルナンデスって、確かヒスパニック系の代表的な名前だよな…」

 と呟いた後、

「…まあ、本当にそんな名前の記録があるのかどうかは別として、体育の授業ぐらいのレベルでなら全奪三振もじゅうぶんあり得るよな、コスモなら。ところでなんでそんな話をするの?」

 と私に尋ねてきた。

「なんかコスモが、"ブーケトスを由美さんの所へ狙って投げる"って張り切ってるのよ。コスモならできるんじゃないかなぁ、と思って」

「うーん、確かにアイツならできるかもな…」

 優太君は苦笑いしながらこう言った。

「…しかしコスモの球を受けたキャッチャーの女の子も、きっと怖かったろうなぁ」

「ああそれはね…」

 私は人差し指を立て、ウインクしながら種明かしをした。

「…誰も取れないもんだから、たまたま手が空いてた野球経験者の男の先生にお願いしたの」

「なるほど…」

 と言って優太君は腕組みをした。しばらくすると由美さんが、

「あ、えっと、式までまだもう少し時間ありますよね? 私ちょっとトイレ行ってきます」

 と言って席を立った。チャンスだと思った私は西田さんの事を尋ねてみた。

「私ね、優太君に聞いてみたいことがあるの。優太君、ほら、コスモと別れた後、すぐに西田さんと付き合い始めたでしょ。私が『桃色ウインドベル』を抜けたのは、実は別れた直後すぐに西田さんと付き合い始めた優太君を軽蔑したからだったの。でね、コスモと昨日その話になって、"最初に告白したのは西田さんの方だと思う"ってコスモが言い出したの。お願い、そのへんのところ本当はどうだったの、教えて」

「そのとおりだよ、最初は彼女だった。そうだとしても俺が酷い男だった事に違いはない。歌祈ちゃんが俺を毛嫌いするのも当然だよ」

「やっぱり、コスモが急に居なくなって寂しかった?」

「まあね」

 本当の事を知ることができて私は満足だった。新矢君が常々言っているとおり、「本当に分かっている人間とは、推測と真実の区別がついている者の事を指す」のだ。そして私は、「最初に告白したのは優太君だ」と勝手に答えを作って分かった気になり、その間違った推測を長い間真実だと思い込んでいた、「分かっていない側の人間」だったのだ。

 私は口にこそ出さなかったが、優太君と「和解」する機会を作ってくれたコスモに、心から感謝していた。



 ヴァージンロードを通ってやって来たコスモとフィアンセが、牧師の前で神様に対し永遠の愛を誓った後キスをして結婚式が終わると、快晴の空のもと、屋外での会食が始まった。

 会食はひたすら英語で進行していった。私にはその内容は半分も分からなかったが、優太君や由美さんには分かるらしく、誰かが冗談を言うたびに声をあげて笑っていた。「今ならまだ間に合う、作詞に活かせるかもしれないし、私も英語を勉強しよう」、私は本気でそう思った。

 式のプログラムの一番最後になり、ステージ上にコスモとフィアンセが現れた。フィアンセはすぐ隣にコスモを立たせて、アンプに繋いだ形見のブラッキーでクラプトンの「ワンダフル・トゥナイト」と「ベル・ボトム・ブルース」の弾き語りを始めた。さすが英語圏の人が唄うだけあり、その発音や歌い方は堂に入っていて安心して聴く事ができた。歌が終わると会場中から盛大な拍手が湧き上がり、やがて式の全てのプログラムが終わったという内容のスピーチがマイクで告げられた(さすがにその英語は聞き取れた、…というより状況でおおよそ想像がついた)。

 そして、待ちに待ったブーケトスの瞬間が訪れた。ウェディング姿のコスモは、式に参加した人々の中に居る由美さんの位置を確かめた後、何度も何度も頷きながら由美さんにアイコンタクトを送り、私たち全員に背を向けた。そして身をかがめた後、大きくジャンプし花束を青空へと放り投げた。

 花束は、ロサンゼルスの青く美しい空の中へと、高く高く、そしてどこまでも高く、白い翼を持つ鳥のようにきれいな弧を描きながら飛んで行った。

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