第7話

  第7章・新矢・2



   プロローグ


「"親には子供の事なんてみんな分かる"という言葉が本当なら、俺が髪を染めてないって事だって分かったはず。それが分からなかったという事はお前は俺の本当の親じゃないという事だ。だったらアンタ呼ばわりする事も許されるはずだし、一緒に暮らさなきゃならない理由もないって事になる」



     ♩



 ついに我が「ギターショップ」が現在の形へと整った後、俺たち三人は、放課後毎日のように原付きでサトルさんの所へと向かい練習を重ねた。17時少し前になると、今度は歌祈さんもインテRでやって来た。サトルさんと知り合ってすぐ、歌祈さんは店長にこう申し出たのだそうだ。

「二時間早く出勤して私一人でお店の準備を全部済ませておきます。その代わりに他の人たちよりも二時間早く上がらせてください」

 最初店長は少々渋ったそうだが、いざそのやり方で営業してみると、

「かえってこの方が仕事を始めやすい」

 と言って喜んだらしい。だがしかし、そうだとしても、バンド活動のせいで歌祈さんの評価が下がる事だけは何としても避けたかった。そのため俺たち三人は、可能な限り歌祈さんの店で髪を切って貰えるよう友人たちに声がけをした。彼女の事はたちまち校内で話題となった。野郎オトコどもは皆、口をそろえて、

「お前らのバンドのボーカルめっちゃ可愛マブいよな! ウマヤラシイ!」

 羨望と嫉妬の入り混じった視線を俺たちに投げかけてきた。俺たち三人はたいへん満足だった。

 女子たちからも話しかけられた。俺が書き上げたばかりのまだ試作段階の歌詞を、教室で雪光に読んでもらっていた時の事である。

「…ねえ、それってあの美容師のお姉さんに唄ってもらうために書いてるんだよね?」

「…お願い! 私にもそれ見せて」

「…あのお姉さん、すンごい美人なのに全然それを鼻にかけてないところがまたいいよね」

「…まだ聴かせてもらった事がないからアレなんだけど、やっぱり歌上手いんでしょ?」

 その声を耳にするやいなや、一将はギターを弾く手を休め(その時一将は、三弦だけでバッハのG線上のアリアを弾いていた。月並みもいいところだけどあれは本当に綺麗なメロディーだよな)、親指を立てニカッと微笑んだ。

「そりゃあもう、上手いなんて言葉じゃ言い表せないぐらい上手いよ! まったく、『才覚兼備』とはまさにこの事だよ」

「ええっ? そんな諺あったっけ?」

「あれ? なかったっけ?」

「あるかボケ! それを言うなら『才色兼備』だ!」

 俺がツッコミを入れると、彼女たちはいっせいに笑い出した。

「ねえ、あのお姉さんの唄を聴いてみたい。ライヴの予定とかないの?」

 すると今度は雪光が、

「まだ詳しい事は話せないんだけど、夏になったら演る予定だよ」

 と答えた。彼女たちはいっせいに、

「予定決まったら教えてね。応援に行くから」

 と言ってくれた。俺たち三人は、

「おう! よろしく頼むぜ!」

 と返事した。

 自営業のため、比較的時間を自由にできるサトルさんは、歌祈さんと同じく平日を休日へと振り替えた。共有できる時間を可能な限り捻出し、俺たちは全員で音を合わせた。そしてそれが解体屋の日常となると、一将は黒人たちから、「Japanese・Jimi」を略した、「J・J」というニックネームを授けられた。その名で呼ばれるたび、一将が満足そうに微笑んだのは言うまでもない。そしてその度ごとに、ジミヘンに対する黒人たちのリスペクトの念がどれだけ強いのか、俺たちは改めて再認識するのだった。

 サトルさんからの、

「まずは基礎から徹底的にやり直す」

 という提案で、歌祈さんが得意だというザードのコピーを始めた。最初一将は、

「あまりにも簡単すぎてつまらない、これじゃ違う意味で苦行だ!」と不平をこぼした。俺も同じ気持ちだったが、サトルさんは、

「簡単なことを馬鹿にし過ぎるな。簡単な事だからこそ、ゆっくり、丁寧に、確実にやるんだ」と一将を諭した。そして、簡単であるがゆえについ走りたくなる俺たち三人を、サトルさんはまるで軍人のような厳格なるリズムキープで完璧に制御した。今まで俺たちが書きためて来たインスト曲も、サトルさんにドラムの部分を全部書き直された。しかしそれについて不満はなかった。俺はあくまでベースが担当で、ドラムの打ち込みは頼まれてやっていたに過ぎない。ドラムが本職であるサトルさんに、主にオカズの部分を修正され生まれ変わった曲は、目を見張るほど完成度が高くなった。俺たちは大いに満足だった。また、歌祈さんが書きためてきたメロディーに俺が歌詞をつけて完成させた曲にも次々と編曲アレンジが施された。そして演奏技術もそれに比例し飛躍的に向上していった。…更に付け加えるなら、歌詞をつけるという作業の性質上、俺と歌祈さんは二人きりの時間を過ごす事が、幸運にも他のメンバー達と比べて圧倒的に多くなった。

 …これらの全ての物事は、サトルさんの力がなかったら有り得なかった軌跡のほんの一部分に過ぎない。サトルさん、そしてもちろん歌祈さんの加入は、俺たち三人だけだったなら絶対に有り得なかった化学反応ケミストリーを次々と巻き起こしたのだ。

 やがて六月になり、「いるかロックグランプリ」のオーディションが始まった。マスターは、

「お前らが練習したザードを課題曲に勧めておいた。まあ、軽く捻ってこい」と親指を立て、ウインクし、俺たちの背中を押してくれた。そしてその言葉どおり、俺たちは何ら危なげなくオーディションを通過する事ができた。その間、俺が知る限り、マスターとサトルさんが会う所を俺は一度も見ていない。この事に関して、俺と一将と雪光の間で、

「きっと二人の間には何らかのわだかまりがあるのだろう」と囁きあった。しかし、本人たちが口にしたがらない秘密を無理に覗くのはあまりいい事ではない。

「ま、別に他人の事なんかどうだっていいか」、と一将は呟き、この話題はあってなき物となった。そして俺たちはひたすら自分の腕を上げる事だけに集中した。なお、この時になって初めて、マスターの本名が「田中」である事を俺たちは知った。

 そんなマスターから聞かされた話によると、関係者の間では、「本番当日は恐らく『ギターショップ』と『Any time baby』の二大巨頭が熾烈なトップ争いを繰り広げる事になるだろう…」と噂されているとの事だった。

「…『Any time baby』が先行で逃げ切るか、あるいは『ギターショップ』が若さで追いつき追い越すかのどちらかだ」、と。

 「Any time baby」は、俺たち「ギターショップ」の草創オリジナルメンバー三人が卒業した清和中学の隣にある、出雲中学校を卒業した四人組のロックバンドだった。俺たち三人より年上で、すでに殆ど音楽だけで飯を食っているセミプロのバンドマンだった。当時流行していたパンクサウンドを前面に押し出したスタイルで、ライヴハウスではかなりの人気を博していた。正直なところ、当時の俺たち三人だけだったなら、恐らく勝ち目はなかっただろう。だが俺たちにはサトルさん、そして何より歌祈さんがいた。単にボーカルの歌唱力だけなら、どこからどう見ても歌祈さんの方が遙かに上だった。

 最終オーディションの日、俺たち五人は「Any time baby」のメンバー達と通路ですれ違った。彼らは皆、まさに「Any time baby」という言葉スラングどおりの挑発的な態度で俺たちを嘲笑った。俺たちも、負けじと彼らを睨み返した。

 相手にとって不足はなかった。



     ♩



 それは七月も終わりに近づき、そろそろ始まる高校生活最後の夏休みを、今か今かと待ち続けていたある日の事だった。バイトとバンドの練習で、家にはただ寝るためだけに帰っていた俺は、親と大喧嘩し家出をした。自称、「こんなにいい家庭を作ってやっている」親父にとって、ちっとも家に居つかない俺という存在は、認めたくない「不都合な真実」そのものだったのだろう、ちょっとでも目につく所があると、気になって気になって仕方がなかったのだろう。そんな親父やお袋に、全く身に覚えのない嫌疑をかけられた俺は、思わずカッとなって親父を殴ってしまったのだった。

 朝、いつもどおり制服を着て学校へ行く準備を済ませダイニングへ行くと、お袋からいきなり、「あなた、髪を染めたでしょ?」と声をかけられた。

「染めてないけど」

「嘘よ、染めてるじゃない」

「勝手に嘘なんて言わないでくれる? 本当に染めてないんだけど」

「嘘よ、認めなさい。染めてるんでしょ?」

「やってもいない罪を認めるなんて嫌だよ。染めてないものは染めてない、だいたいそれを言うなら、賢一はどうなの? 賢一だって染めてるじゃん。なあ賢一、染めてるんだろ?」

「うん染めてる」

 染めてると言ってもちょっと明るくしている程度で、学校の先生も見て見ぬふりをするであろうレベルだったが、賢一は確かに染めている事を素直に認めた。

「…だ、そうだけど? 中一の賢一には何も言わないで高三の俺には言うの? 仮に俺が染めていたとして、…の話なんだけど」

 お袋は賢一を追及しない事については何も言わずに、ひたすら俺の事だけを追及し続けた。その態度にちょっとばかりキレた俺は、

「だから染めてねぇって言ってんだろ! いい加減にしろ!」

 と怒鳴ってしまった。すると親父が現れた。万引きの時もそうだったが、こいつはいつも最悪のタイミングで現れては、表面的な情報だけを聞きかじって何もかも全部を分かった気になり、勝手に作り出した答えを正しいと信じ込んで偉そうな事を言うのであった、…まるで「想新の会」の幹部のように。

「なんだなんだ、なんの騒ぎだ?」

「この子髪の毛を染めてるのに、染めてないって言い張るのよ」

 全くもってして身に覚えのなかった俺は、「流石にこればっかりは親父も俺を信じるだろう」、と思いながら親父の目を見た。…今にして思うと、なぜ信じてくれるだなどと馬鹿げた事を夢想したりしたのだろう、親父が俺を正しく理解してくれた事など今までにただの一度だってなかったのに…。親父は俺の頭を一瞥すると、

「染めたんだろ」

 と口にした。その瞬間、「信じてくれるだろう」という思いが、今までの恨み辛みへと一気にひっくり返ってしまった。俺は思わず、

「お前まで言うのか〜!」

 と叫びながら親父を殴ってしまった。拳で殴りつけた直後、親父は尋常でないほどの大声で「痛ぇ!」と叫んだ。親父が歯医者に通っていた事を、俺は今更になって思い出した。

「賢一が染めてる事には言及しないくせに、なんで俺にばっかり言うのさっ!」

 痛そうにしている親父に対し、殴った罪を少しでも軽減したかった俺は即座にそう口にした。

「ちっとも家に寄り付かないからそう言われるんだ」

 痛みで顎が上手く動かないのだろう、親父の発音はどことなく不明瞭だった。

「だって帰りたくないんだもん、こんな居心地の悪い家。悪いけど俺もう家出るわ」

 当時、サトルさんの解体屋にはカラオケ小屋の他にもう一つ、倉庫とキッチンを兼ねた納屋があった。ヴィンセントという名の黒人がその部屋のベッドで寝泊まりしていたのだが、彼は家族の事情でアフリカへ一時的に帰国していた。早くても半年は帰って来ないと聞いていた俺は、サトルさんと相談し、夏休みの間そこで居候させてもらう事になっていた。どうせ家には夜しか帰っていない。夏休みにもなればバイトとバンドの練習で帰る時間は更に減るだろう。だったらここに住むのもありではないか、と。どうせそのつもりでいたのなら、早いか遅いかの違いだけだ。だったら今すぐ出てしまえ。俺はそう思ったのだ。

「ここを出てどこへ行こうと言うんだ?」

 しかしまだこの計画を知らなかった親父は(直前に言って問答無用で家を出る気だった)、そう尋ねてきた。

「なんでそんな事を聞くの? 親には子供の事なんてみんな分かるんだったら、聞かなくたって分かるはずじゃない? ついでに言うと居心地のいい家からわざわざ家出するなんて事もあり得ないはずじゃない?」

 俺は親父の目を睨み、次から次へと湧き出てくる不満の声を口にした。

「アンタのやってる事なんてのはなぁ、俺に言わせりゃ自分の答案用紙に自分で勝手に赤を入れて百点だ百点だと主張してるのと同じなんだよ。アンタは自分で思っているほど良い親じゃないんだよ!」

「親に向かってアンタだと!?」

「"親には子供の事なんてみんな分かる"という言葉が本当なら、俺が髪を染めてないって事だって分かったはず。それが分からなかったという事はお前は俺の本当の親じゃないという事だ。だったらアンタ呼ばわりする事も許されるはずだし、一緒に暮らさなきゃならない理由もないって事になる」

「口ばっかり達者になりやがって!」

「褒め言葉としてとっとくよ! それと、俺は口が達者だからついでにもう一つ言っといてやる。あくまでも親には子供の事なんて何でも分かると言うのならこういう仮説も成り立つぜ!? …お前、本当は俺に殴られたかったんじゃないの? だから本当は染めてないって分かってたのにわざと染めたと決めつけて俺の神経を逆撫でにしたんじゃないの? もしこの仮説が正しいならかなり重症のドMだな。歯医者より心療内科へ行った方がいいんじゃない?」

 俺は親父に向かって中指を立てた後、いつか必ず言ってやろうと思っていた台詞を口にした。

「何も分かっちゃいねーくせに何もかも分かった風な顔しやがって、見たい現実だけを見て不都合な真実からは目を背けて、…お前のそういうところ、お前の大嫌いな『想新の会』の幹部にそっくりだぜ!」

 俺は当座の着替えとエレキベース、そしてケータイやら充電器やら財布やらを持って制服のまま家を出た。ドアを開けると目の前には、俺を迎えに来てくれていた雪光が立っていた。

「ちょっとアンタ、学校はどうするのよ?」

 お袋の声が背中を追いかけてきた。

「そんな分かりきった事を質問をするのはお前が本当の親じゃないからだ!」

 そう言って俺はバンッ! と乱暴にドアを閉めた。するとすぐに雪光が心配そうな顔をしながら話しかけてきた。

「なんか今、大声が聞こえてさ、とりあえず様子を見ようと思って新矢が出てくるのを待ってたんだ」

「ああ、心配かけてごめん。聞こえてたんだ?」

「うん、家を出るとかどうとか…。どうするの?」

 今はまだ両親に俺たちの話が聞こえてしまう可能性がある。そんな状態でサトルさんの名を口にされたくなかった俺は、

「とにかく今は学校へ行こう」

 と雪光を促した。そしてそんな俺の気持ちを察してくれたのであろう雪光は、

「あそこへ行くの?」

 と心配そうに声をかけてきた。



 学校で、一将と雪光を相手に今後の事を相談した。そして以下の事柄を決定した。

 …解体屋の近くでバイトを探して当座の生活のためのお金を稼ぐ。

 …何か家に必要な物がある場合、賢一か麻美のケータイに電話して準備してもらう。そしてこっそり一将か雪光に渡してもらう。

 …学校はもうじき終わる、それまではサトルさんの所から通う。親が先生を通して何か言ってきても沈黙を貫く。

 …一将と雪光には、知らぬ存ぜぬを通してもらう。

 何より困るのは、校舎の前で親に待ち伏せされる事だった。それに関しては親に面の割れていないクラスの友人たちに協力してもらい、いるかいないかをじゅうぶん確認してもらった後、教室の窓に向けてハンドサインを送ってもらう事にした。しかし、どういうわけかついぞ夏休みが始まるまで親は来なかった。それはそれで親から愛されていないようにも感じられ、なんだか複雑な気分になった。しかし安心していたのもまた事実であった。

 どうせあと数日で夏休みなのだし、学校へは行かずにサトルさんの所に潜伏する事も検討したのだが、

「それだけは絶対にダメ!」

 歌祈さんから強い反対にあった。

「そうやってズルズル学校へ行かなくなっちゃったら何にもならないんだから!」

 それゆえ通学だけは続けた。歌祈さんからは他にも注意を受けた。家出した初日、予定より早く解体屋に転がり込むようになった理由を問い質された時の事だった。

「親父を殴って家を出た」

 と答えると、それはそれは悲しそうな顔をしながらこう尋ねてきた。

「なんで殴ったの?」

 歌祈さんは、まるで何らかの悪さをした弟に相対する姉のように腕を組んだ。

「染めてない髪の毛を染めたと言われてついキレちゃったから」

「ちょっと失礼…」

 歌祈さんはそう言って、俺の髪に手を伸ばした。

「…まあ、素人には染めたように見えたのかもね…」

 歌祈さんはやはり悲しそうな顔をしたまま、俺の目を真正面から覗き込んだ。

「…これ、ドライヤーの熱で灼けてるだけよ…」

 自分にすら分からなかった、染めていない髪を染めたと決めつけられた理由が、これでようやく判明した。

「…とにかく、暴力は良くないよ。たとえ自分が悪くなくても心象を悪くするよ?」

「だからって、じゃあ俺は一体どうすれば良かったって言うのさ? 言っても分からないんじゃ殴るしかないじゃん。今回の件でつくづく思ったよ、もし俺が電車の中で痴漢だって疑われても、きっとアイツら信じてはくれないよ」

「そうだとしても、暴力はダメなの!」

「だから、じゃあどうすれば分かってもらえたって言うのさ? もしかしたら殴られてもまだなお、染めてると思い込んでる可能性すら考えられると思うよ」

「…」

 何も答えようとはしない歌祈さんを、俺は激しく睨んだ。…彼女を初めて憎いと思った瞬間だった。 

 解体屋のハードな仕事が務まるとはとても思えなかったので、近くのコンビニでバイトを始めた。生活のための当座の金に少し困ったが、サトルさんが、

「貯金を崩すなんて馬鹿な事を言うな。オレが面倒を見てやるから」と言ってくれたのでさほど問題にはならなかった。

 ともあれ、俺の人生の中でもっとも充実した夏休みはこうして始まったのであった。こんなにも充実した夏休みは後にも先にもこの時だけだったと言っても過言ではない。俺はあの夏、様々な事を経験し、学んだのだった。



     ♩



 解体屋で暮らすようになってすぐ、サトルさんの親父さんから総合格闘技を習う事になった。最初にやったのは、親父さんと互いに向き合って交差させた左腕を、押したり、引いたりするという守備の基礎練習だった。簡単なようで案外難しく、二分もすると腕が疲労で上がらなくなってきた。親父さんの話によると、呼吸の仕方をちゃんと学べば一時間くらいやっても全く疲れなくなるらしい。しかしどういうわけか、その肝心な呼吸の仕方だけは決して教えてくれなかった。

 K-1の黒人ファイターであるアーネスト・ホーストが話題になった事もあった。解説の人が、「あの巻きつけるようなローキックは一見地味に見えますが実は非常に効くんです」という意味の事を喋っていた記憶があり、その事を問いただしたのだ。俺は前々から、アーネスト・ホーストの長い脚が繰り出すローキックに憧れていた、…美しいとすら感じていたのだ。サトルさんの親父さんは、「あれは滅茶苦茶効くぞ」と言って俺を蹴りやすいような姿勢に立たせ、そして脚を放った。親父さんが手加減してくれているのはじゅうぶん分かっていたが、それでもかなり痛かった。

「どうだ? 本気でやったら脳天まで痺れるだろう?」

 が、「痛い」と口に出すという事は、すなわち敗けを認める事だと思った俺は、歯を食いしばりながら屈伸する事で痛みを分散させて耐えた。

 解体屋には野ざらしになっているリングがあった。サトルさんは暇を見つけてはそこで黒人たちとオープングローブを着けて取っ組み合っていた。ただし、親父さんの蹴りと同じように、みんな本気で人を殴ったり腕や足を締め上げたりはしていなかった。様子を見ているうちに、俺はある事に気づいた。その黒人たちは、本気でやったらサトルさんには勝てないと分かっていて、それを承知で痛くない程度に手加減して格闘技を楽しんでいるのだ、という事に…。その証拠に、黒人たちがサトルさんからマウンティングを取った時と、サトルさんがマウンティングを取った時とでは殴る時の力加減やマウンティングする時間の長さには明らかな差があった。腕や足の関節を極めてもそう、黒人たちはすぐにマットを叩いて参ったとアピールしていた。しかし逆の立場になると、きちんと技が極まったのを確認してから、黒人たちは手足を放すのだ。サトルさんの姿は、まるで高校生が中学生に喧嘩のやり方を教えているかのようだった。屈強な肉体を持つ黒人たちを軽くあしらう日本人。あまり見慣れない構図に、俺はエキサイティングな憧れを抱いた。そして、それが理由で俺も何度かリングに立たせてもらった事があった、ただし、黒人たちとはあまりにも体格差があり過ぎるため、俺だけ特別にマウスピースとヘッドギアの着用が許された。ちょうどサトルさんが黒人たちに手加減するのと同じように、黒人たちは俺に手加減してくれた。それでもやっていくうちに、四、五回に一回ぐらいは腕を極めたりマウンティングを取ったりができるようになってきた。こうなってくると格闘技の真似事も途端に楽しくなってくる。喧嘩慣れしている一将も、リングの上の俺を見て、

「やばい、たぶんオレもう新矢には勝てねぇわ」

 と呟いた。男には生まれつき、勝てる相手と勝てない相手を本能的に区別する力が備わっている。黒人たちがサトルさんに対して勝てないと思っているのと同じように、そして俺が黒人たちに対して勝てないと思っているのと同じように、一将は俺に対し、戦わずして負けを認めたのだ。

 格闘技をやっていくうちに良い事を一つ、学んだ。誰とはなしによく口にする言葉がある。

「差別するわけではないが、黒人はなんとなく怖い」

 そういった発言をする事、それ自体がすでにもう差別のような気がして仕方がないのだが、ともあれ、彼らは決して「怖い人たちではない」という事を俺は知ったのだ。むしろ逆に彼らとて、なんの理由もなしにいきなり暴力をふるって来たりはしないし、痛いとか怖いとかいった感覚をキチンと理解しているれっきとした人間なのだ、と。…ところがこんな俺を良く思わない人が一人いた、…歌祈さんである。ある日歌祈さんは愛車インテRのエンジンをかけると、解体屋の近くのカフェへと俺を連れ出した。

「黒人だってれっきとした人間で、何の理由もなしにいきなり暴力をふるって来たりはしない、したがって闇雲に怖がるべきではない。その言い分は良く分かった…」

 歌祈さんはアイスコーヒーにミルクとガムシロップを入れてストローでかき混ぜながらこう切り出した。

「…じゃ、ここで一つ質問。理由があったら暴力をふるってもいいのかしら? たとえば髪の毛を染めたって疑われたりしたら?」

 ぐうの音も出なかった。歌祈さんはストローで、グラスの中の氷をカランカランと鳴らしながらさらに話し続けた。

「どうして格闘技なんか練習するの? 楽しいの? 強くなりたいの? あれが実生活で何かの役に立つとでも言うの?」

「実生活で役に立つのかっていう言い分はどうなのかなぁ。それを言ったら楽器の演奏だって役には立たないよ」

「そりゃそうね。でも音楽は人を傷つけない」

「でも、もし仮に悪い奴に襲われたりしたら?」

「確かに通り魔がナイフで人を刺したりとか、そういう不幸な事件が社会でまれに起きている事は私も認める。でも普通に生きていてそんな災難が訪れる可能性が果たして何パーセントあるっていうの?」

 歌祈さんは俯いたまま、コーヒーをストローで吸い込んだ。白いストローに赤い口紅がついているのを見て、「俺は今、大人のひとと行動を共にしているんだなぁ」、と改めて痛感した。しばらくすると、

「回りくどい言い方はやめにするね…」

 彼女はテーブルの上に、マニキュアを塗った細くきれいな人差し指をトンと置いて音を鳴らした。

「…ああいう乱暴な事はもうやめて欲しいの…」

 格闘技の楽しさが分かり始めて来ていたこの時期に、その訴えは正直かなり辛かった。しかし歌祈さんの、

「…でないと私、新矢君を嫌いになる」

 真剣な眼差しに俺は気圧されてしまった。

「…分かった。やめるよ」

 まだ付き合ってもいないのに、「嫌いになる」もへったくれもないと思ったが、俺は歌祈さんに従う事にした。歌祈さんにだけは嫌われたくなかったからだ。人は純然たる権力や腕力にのみ従う生き物ではない。男は女に勝てない、そう悟った瞬間だった。

 解体屋に帰り、サトルさんにその事を伝えた。すると彼はトラックの大きなディーゼルエンジンを軽々とテーブルに持ち上げながら、

「その方がいいよ」

 とあっさり受け入れてくれた。あまりにもあっさりとし過ぎていたので、正直かなり意外だった。黒人たちにも俺自身の口から、

「I quit to play the martial arts」

 と話した。

「why?」

 彼らは口々に尋ねてきた。するとサトルさんが「女に止めろと言われたらしい」と、俺の代わりにアフリカン・イングリッシュで答弁してくれた。黒人のうちの一人が「chicken!」と言うのが聞こえたが、俺はその言葉を知らないふりをして聞き流した。



「chicken」といえばもう一つ、俺はその夏たいへん貴重な体験をした。生まれて初めてチキンを屠殺する現場を見たのだ。残酷な事だなどと言って情報を遮断してしまわないで欲しい。雑食である以上、人間には動物性たんぱく質がどうしても必要なのだ。だいたい屠殺という行為を残酷だというのなら、食べる事もまた同様である。精肉は屠殺というプロセスを経て食卓に並んでいるのに、その過程を無視して食べるという結果だけを追求するのは道義的に見ておかしいのではないだろうか。論理的に考えれば分かるはずの事を、残酷の一言で片付けて目を背けるのは間違いだ、そう考えた俺は屠殺の現場を見学させてもらう事にした。

 黒人の一人が鶏小屋の中から一匹を捕まえ取り出すと、ノコギリで頸を切り落とした。彼がカタコトの日本語でしてくれた説明によると、鉈で一気に切り落とした方が鶏の苦しみは少ないらしい(どうしてそうだと言い切れるのかは謎だったが)。しかしそうすると頸を失くしたとたん鶏の身体がバタバタ暴れ出すからやりづらいらしい、だから彼はノコギリで少しずつ切り落とす方法を選んでいるのだそうだ。ともあれ、頸を落として逆さに吊るし血抜きをした後、湯につけて体毛を抜き、お腹の皮膚を割いて内臓を取り出し、肉を捌く。分解されてスーパーで売られているのと同じ状態、…すなわち「精肉」になったら、今度は俺の出番だ。幸いな事に、俺は黒人たちから料理の腕を認められていた。本国へ帰ったヴィンセントの後釜として皆から必要とされていたのだ。唐揚げにしたり野菜と一緒に炒めたりして提供すると、黒人たちはみんな喜んでそれを食べてくれた。野菜と同じように、精肉にも鮮度があるという事を俺は知った。「ついちょっと前まで生きていた」精肉には、スーパーで販売されている物とは比較にならないぐらい歯ごたえや旨みがあって美味かったのだ。サトルさんの親父さんは九州の出身で、「昔の話だが、俺の地元じゃ鶏の屠殺くらいみんな普通にやってたんだぞ」、と教えてくれた。「サザエさん」の作者・長谷川町子も九州の出身で、戦後間もない頃の四コマ漫画には、磯野波平が鶏を締めるシーンが普通に描かれていたとも聞かされた。

「お前もしめてみるか?」

 親父さんに聞かれたが、俺はそれだけは拒否した。もし文明が崩壊して、世界がさいとう・たかをの漫画「サバイバル」のようになったならきっとやるだろう、しかしできる事なら自分の手ではやりたくない、それが正直な本音であった。そして、そういった職業に就いてくれている人たちの存在を、俺は非常にありがたいと思った。ふと、歌祈さんの顔が瞼に浮かんだ。

「道義だろうと現実だろうと、新矢君に屠殺なんて経験して欲しくない」

 きっと歌祈さんはそう言うだろうと思ったからであった。しかし、もし本当にそう言われたとしたなら、きっと俺はこう言うだろうとも考えた。

「でも、もし文明が崩壊して自分の手でやらなきゃならなくなったとして、そんな綺麗事が言えるの?」

 …むろん全て自分の想像上での話だ。



 また、俺はこの夏、産まれて初めてエンジンオイルの交換をした。最初にやったのは自分の原付バイクでだった。

「そんな事をしたら機械が壊れちまうとか、よほど無茶苦茶な事をしない限り黙って見てるから、自分のペースでやってみな」

 サトルさんはそう言って腕組みをした。俺にとって「黙って見てる」という提案は非常に有り難かった。例えばうちの親父がもろにそうなのだが、ちょっとでも何かあるとすぐに口出しをしてくる輩が少なからずいる。が、そういう事をされると俺はすぐ自分のリズムを失って自然体で作業ができなくなるのだ。一度親父が、「勉強を見てやる」と言ってすぐ隣に座わり込んで来た事があった。字を間違えた俺は、鉛筆を持ったまま、人差し指と親指で消しゴムを握り込んだ。すると親父からその手に持った鉛筆を引っこ抜かれた。親父からすれば、「鉛筆を持つ時は鉛筆だけ、消しゴムを持つ時は消しゴムだけを持て」と言いたかったのだろう。しかしそのやり方で慣れている俺からすれば、親父の行為はありがた迷惑でしかなかった。結果、「すぐそばに居座られる」という事それ自体がストレスになって集中できなくなってしまった。親父がいない方がよっぽど勉強が捗るのにと心底から思った。そのくせ「親には子供の事なんて何でも分かる」と主張するのだから、俺たち親子がすれ違うのも当然である。

「ドレンボルトって、これで合ってるよね?」

「そうだ」

 と言ったきり、サトルさんは話のとおり口出しをしてこなかった。レンチでドレンボルトを外すと、汚れたオイルがドバドバとあふれ出してきた。それを事前に用意していたオイルパンで受け止め、一滴残らず出てくるのを待った。その間にクリーナーを吹きつけたドレンボルトをウエスで綺麗にし、ワッシャーを新しい物に変えた。そして汚れたオイルが出切ったらドレンボルトを締める作業に入る。まず手始めに、カジらないよう慎重に手で回してねじ込み、最後はレンチでしっかり締め込んだ。

「力加減は水道の蛇口を締めるのと同じぐらい、それにプラスもう一絞り。甘すぎてもキツすぎてもダメだからな」

「うん」

 続いてエンジンの上にあるナットを外し、指定されている量のエンジンオイルをホースの着いた容器で注ぎ込んだ。そしてナットを締めたら作業は終了。しばらくの間、オイルを撹拌させるためにエンジンをアイドリングさせた。

「どうだ? 自分でやってみると面白いだろう?」

「うん、面白い!」

 しばらくすると今度は、ちょうど替え時が来ていた歌祈さんのインテRのオイル交換にチャレンジする事になった。歌祈さんは少し不安そうだったが、

「オレが見てるから絶対大丈夫だ」とサトルさんが言うと渋々承知してくれた。「自分の車より俺の怪我を心配してくれよ」と言いたかったが、まずは無事にオイル交換を成功させて結果を出す事が先決と考え直した。

 まず手始めに、フロントタイヤをコンクリートブロックの上に載せ、シャーシの下に人一人入れるだけのスペースを作った。後は大きいか小さいかの違いだけで、原付バイクと要領は同じだ。俺はスケボーの上に仰向けに寝ると、シャーシの下に潜り込み、ドレンボルトを外しオイルを抜いた。オイルパンに排出されたエンジンオイルをサトルさんに手渡すと、歌祈さんの声が聞こえてきた。

「そのオイルはどうするの?」

 するとサトルさんは、

「ドラム缶に入れて保管しておく。で、冬になったらオレが自作したストーブを焚きつけるための燃料にする」 

 と答えた。

「サトルさんってすごいのね。何でも自分で作っちゃうんだから」

「はい、後は上から新しいエンジンオイルを注ぐだけだよ」

 シャーシの下から親指を立てながら這い出てきた俺の事を、歌祈さんは満面の笑みで迎えてくれた。

 俺は大いに満足だった。



 親のいない生活が、こんなにも平穏で快適なものだったとは知らなかった、…俺は心底からそう思った。俺はここへ来て生まれて初めて、「自然体のまま生きている」という実感を味わった。勉強や楽器の練習を雪光や一将の家でやった時でさえも、ここまでの開放感を味わった事がなかった。なぜなら勉強や練習が終わるという事は、すなわち家に帰るという事であり、再びストレスフルな親との生活という閉じた輪の中へ戻る事を意味していたからだ。しかしここでの生活には、閉じた輪の中へ戻るという前提がそもそも最初から存在していなかった。朝、目を覚ましても親はいない。バイトから帰って来ても、バンドの練習が終わっても然りだ。そう考えると、俺の両親は俺が嫌がる事をわざとするいじめっ子のような存在にすら思えてきた。

 これは高校を卒業し、社会人になってからつくづく感じた事なのだが、俺の経験上、「上の人って見てるんだよ」という意味の言葉を軽々しく口にする奴に限って、実は勝手に答えを作って分かった気になっているだけで、案外何も分かっていないというケースが非常に多いのだ。本当に分かっている人間は、勝手な推測で物を言ったりはしない。なぜなら推測はどこまで行っても推測でしかなく、真実に追いつくには、ソクラテスの「無知の知」が示すように事実を確認するより他に方法がないからだ。推測と真実の違いをきちんと理解できている人間が、表面的な情報を二、三聞きかじった程度で何もかも全部を分かった気になって、やれ「上の人って見てるんだ」だの、「親には子供の事なんて何でも分かるんだ」などと軽々しく発言するはずがないという事ぐらい、ちょっと考えれば分かるはずだ。

 …俺の言っている事、何か間違っているだろうか?

 ともあれ、俺はあの夏、親という名のいじめっ子のいない環境で、伸び伸びと、悠々自適に、様々な事を学んでいたのだった。

 ある日、サトルさんが「外で飲みたい」と言い出したので、俺の運転でサトルさんの白いグロリアを走らせて居酒屋へ行く事になった。その頃すでにもう自動車免許を取得していた俺は、飲み歩くのが好きだったサトルさんの良いお抱え運転手だったというわけだ。また免許を取り立てだった俺にとっても、車を運転するという事それ自体が一種の遊びでもあった。まだマイカーを持っていなかった事もあり、サトルさんの車の運転はいい練習にもなったのだ。俺は居酒屋で、親の事を愚痴った。親のいない生活がこんなにも気楽だとは思わなかったと散々こぼした。サトルさんは嫌な顔一つせずに黙って聞いてくれた。ひととおり聞き終えると、サトルさんは言った。

「もう、家に戻る気はないのか?」

「ない。このままあそこで生活して、そしてそのまま高校へ通いたい。どうせもう三年だから、いつまでも通うわけじゃないし、就職してアパートを借りたらあそこを離れようと思う。それまでは世話になりたい、いいよね?」

「構わねえよ。むしろ逆にオレも弟ができたみたいで今の生活が楽しいんだ。ま、ヴィンセントが予定より早く帰って来る可能性がある事が心配だが、まあその時はその時だ。どうにかするよ」

「ありがとう。俺も長男だから、もしお兄ちゃんがいたらきっとこんな感じなんだろうなって思ってたんだ」

 俺は少しばかり照れながらそう答えながら、居酒屋の飯と焼き鳥をかき込み、みそ汁を吸った。

「ところで歌祈のロサンゼルス行きの件なんだが、やっぱり羽田空港には俺の運転で行こう思う。お前にはまだ都心での運転は荷が重いだろう。そこで一つ頼みがある。当日、うちの黒人たちの面倒を見てもらいたい。…と言ってもいつもどおり解体屋で飯を作ってやるだけで構わないんだが。やってくれるか?」

「もちろん引き受けるよ。住まわせてもらってるわけだし、それぐらいはしなくちゃ。ま、もっとも、できれば自分の運転で歌祈さんを送ってあげたかったかな」

「お前、歌祈に惚れてるのか?」

「…うん」

「もう告白したのか?」

「まだしてない」

「そうか、でもきっと黒人達アイツらは付き合ってると思ってるぞ」

「だろうね。マーシャルアーツを止めたいって言った時、アイツらが『chicken!』って言ったの実は聞こえてたんだよ。まあ、女の言いなりになってる『腰抜け』である事に違いないのは認めるけどね。いずれにせよ、アイツらの面倒はちゃんと見るから心配しないで」

「助かる。帰りの運転も頼むぞ」

「もちろん、飲酒運転は違反だもんね」

 素面の俺は、グロリアのキーを手の平の中でチャリッと鳴らした。



 次の日俺は、親のいない時間帯を確認した上で一度家に帰った。身の回りの細々した物を、俺自身の目で選んで持ち帰りたかったからである。家には電話で確認したとおり、賢一が一人で待ってくれていた。

「兄貴。お帰り…」

 賢一はいつも座っているダイニングの椅子で漫画を読んでいた。

「…親父もお袋も心配してるよ。今どこで…」

「心配なんかしてるもんか! ただ俺の事を思いどおりに束縛できなくて不満に感じてるだけさ。あいつらと一緒じゃなくなって俺は今すげえ気楽に生活してる…」

 俺は吐き捨てるようにまくし立てた。

「…賢一は、あいつらと一緒にいて疲れないか? 俺はこうして家を出て初めて、実は疲れてたんだって事に気づいたんだ」

「まあ、二人ともちょっと問題はあるよね。でも疲れるかって聞かれるとそこまでではないかな。…ところで兄貴、今どこで生活してるの? 親には絶対言わないって約束するから教えて」

「とある車関係の仕事をしている人の所で居候させてもらいながら、バイトやバンドの練習して楽しく暮らしてるよ」

「そっか、まあ、元気にしてるんならいいや。兄貴ご飯作ってくれたりしたもんな。今日うちに来た事も黙っててあげるから」

「ありがとう」

「でも、あれはないよな?」

「殴った事を言ってるの? 確かに俺も悪かったとは思うよ」

「そうじゃない…」

 賢一は冷蔵庫の扉を開けて麦茶を取り出した。そしてグラスを二つ出して注ぎ、片方を俺に差し出した。

「…まあ、確かに兄貴が親父を殴った時は俺もびっくりしたよ、怖くて声も出なかった。でも、兄貴が家を出てった後に、俺、親父にこう言ったんだよ。"あれだけ染めてない染めてないって言って本気で怒ってるって事は、本当に染めてないって事なんじゃない? 子どもの事が分かってないっていう以前に、場の空気が読めてないよ"って。親父のやつ、何も言い返して来なかった」

 そう言うと、賢一は麦茶を一息に飲み干した。

「なんか賢一、雪光と性格が似て来たな…」

 俺はそう言って少しだけ笑った。

「…とにかく、親父にそう言ってくれてありがとう。賢一と話ができて良かったよ」

 いつ親が帰ってくるとも分からない家に長居は無用と、俺は麦茶を飲むと荷物をまとめすぐに家を飛び出した。



 それから更に数日が過ぎ、歌祈さんがロサンゼルスへ行く日がやって来た。日程は四日間。ロサンゼルスへ行き、中学時代からの友人・コスモさんの髪を切り、結婚式に参加。次の日の飛行機で日本へ帰る、という予定だった。歌祈さんはその頃、喉の調子が悪いといって耳鼻口咽科へ通っていた。連日の練習で負荷がかかり、声帯が炎症を起こす一歩手前の状態になっている、という診断だったらしい。

「毎日唄えるっていうのも、これはこれで問題なのね…」

 歌祈さんはカラオケ小屋の中でそう言い出した。

「…病院でお薬貰ったんだけど、これ飲むと痰が絡んでもコロンと取れてくれて助かるんだ。医者からも"唄う事を休みなさい。沈黙するだけでも声帯は回復します"って言われたの。ロサンゼルス行きはノドを休ませるいい機会だと思う事にする」

 そう言い終えると、やはり夏休みのため毎日解体屋へ来ていた一将と雪光に、歌祈さんは何やら意味あり気な視線を送った。そして、サトルさんのグロリアへと乗り込んだ。

 サトルさんは夕方ごろ帰ってきた。その頃にはもう、黒人たちの手によって、バラした車がトラックへと積み込まれていた。サトルさんが、それを運転してクズ鉄屋へ持って行くと言うので、俺は同乗する事にした。クズ鉄屋に着くと、まず手始めに金属の載ったトラックの全重量を量った。いったん別の場所に移動し、今度は荷台からクレーンを使って金属を降ろし、そしてもう一度今度は金属の載っていないトラックの重量を量った。その重量の差が、すなわち金属の重さであり、それが金属の種類によってレート辺り幾らという単位で換金されるというわけだ。幾ばくかのお金を懐に入ると、サトルさんは、

「飲みに行く。いったん帰って俺のグロリアに乗り換えるから運転してくれ」

 と言い出した。もうほとんど夜に近かったため、一将と雪光は帰宅していた。

「実はな、空港へ行く時に歌祈と話し合ったんだが、オレ…」

 喉が乾いていたのだろう、居酒屋に着くなり、サトルさんは生ビールを美味しそうに一気に飲み干した。その直後、突如サトルさんはとんでもない事を言い始めた。

「…『いるかロックグランプリ』が終わったら『ギターショップ』から抜けようと思ってるんだ」

「なんで!? サトルさんバンマスじゃん! 居なくなったら困るよ!」

「逆にオレが居たらバンドに迷惑がかかる」

「どうして!? 居なくなる方がよっぽど迷惑だよ」

「お前たちはみんな上手い、歌祈の曲とお前の歌詞も相性が良い、恐らくお前らならプロになれるだろう。しかしもし本当にそうなったら、間違いなくオレの存在がバンドの名に傷をつける事になる」

「だから、どうして?」

 サトルさんは、しばらく黙ってお新香をカリカリとかじり続けた。更に枝豆をいくつか口に入れると、再びビールを飲み干し、そして、言った。

「実はオレは凶状持ちなんだ」

「凶状持ちって、前科があるって事だよね?」

「そうだ」

「何をしたの?」

「人を一人殺した」

 顔中からサアッと血の気が引くのをはっきりと感じた。俺はグラスの中の烏龍茶を見ながら、小さな声で「どうして?」と呟いた。

「まだ高校の時の事だ。同じクラスのヤツが駅でカツアゲされそうになってる現場をたまたま目撃しちまったんだ。財布を丸ごと取られそうになっている所を偶然通りかかったもんだから、手首を捻って取り返してやったんだ。ソイツ、礼も言わずに走って逃げてったよ。まあ、別にそれはいい…」

 サトルさんは新たにもう一杯ビールを注文した。俺は烏龍茶を一口飲んだ。

「…次の日、田中と育美の三人で電車を待ってたんだ。そしたら昨日手首を捻ってやったヤツが仲間を大勢連れてやって来やがったんだ。が、どいつもこいつも威勢がいいだけでよ、オレはポケットに手を突っ込んだままパンチを躱したりなんだりと適当にあしらって遊んでたんだ。するとその事に逆上した一人がナイフを抜きやがった。さすがにそれはまずいだろうと、少しだけ本気を出す事にした…」

 運ばれて来たビールを飲むと、

「…最初から本気を出していたらあんな事にはならなかったんだ…」

 と言ってサトルさんは陰鬱な表情をジョッキの中のビールに落とした。

「…ちょっとした乱闘になってな、ナイフを持ってたヤツが蹴っつまずいたんだ。その弾みでナイフが育美の喉に刺さったんだ、それを見てオレはついカッとなっちまった。警察が来る頃にはソイツら全員血だらけになって倒れてたよ。弁護士からその内の一人が頭蓋骨陥没で死んだと聞かされたのはそれから三日後の事だった…」

 サトルさんは目頭を押さえて、しばらく沈黙し続けた。天井を仰ぎ、軽く首を左右に振ると、やがて再び話し出した。

「…家裁から検察に回された。弁護士に言われたとおり、カツアゲされそうになったクラスメイトの話はしたんだが、 その時助けてやったヤツは、 自分の進学に響くとでも思ったのか、"そんな事実はない"って証言しやがったんだ…」

 とおりかかった店員に、「熱いおしぼりをもう一つくれ」とサトルさんは言った。

「…信じてくれたのは、田中と育美だけだった…」

 店員からおしぼりを受け取ると、サトルさんはそれを両目に当てて押さえた。俺はサトルさんの感情の波が収まるまで、ただただ無言で待つ事にした。やがてサトルさんは大きく深呼吸すると、

「…もう一度言う、『いるかロックグランプリ』までは付き合う。でも、そこから先はお前らだけで行け」

 と言った。

「それが理由でバンドに迷惑なんかかからないよ」

「もし有名になって、オレの過去がマスコミに掘り返されたらどうする?」

「きっと雪光が起死回生のアイデアを思いつくよ。とにかく、今のこの時点でバンドを抜けるという事を決定事項にしないで欲しい。ところでこの話、あの二人にもしていいかな? みんなで話し合おうよ」

「ああ、構わねぇよ。それとな、新矢、こんな俺だからこそ言える事がある。…いかなる理由があろうとも、もう二度と人を殴るな。分かったな?」

「分かった」

 俺が「格闘技をやめる」と言った時、サトルさんがやけにあっさり「その方がいい」と言った理由をようやくはっきり把握した瞬間だった。



 次の日俺は解体屋へやって来た二人にサトルさんの話をした。すると雪光はケロリとこう言ってのけた。

「マスコミに掘り返される前に、いっそ自分からカミングアウトしちゃったら? 確かチューブでベース弾いてる角野秀行も、交通事故でフィアンセを亡くしてるんだよ。でもその家族から"音楽を続けて欲しい"って言われて復帰したって。だいたい、その時サトルさんはまだ未成年だったんでしょ、本当は正当防衛だったんでしょ、罪だってもう償ってるんでしょ、関係ないよ」

 一将も一将で、

「少年院にいたなんてむしろ逆に箔があってカッコいいじゃん! いっそドラムソロが始まる時の決め台詞にしちまえよ! "お前はもう、死んでいる"って。ファンが喜ぶぜ!」

 と言い出した。俺たちは「確かにそうかも」、と、三人で笑いあった。

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