第7話

  第7章 レット・イット・グロウ



     Introduction


 少しずつでもいい、正しい未来へと成長していけるよう、コスモの背中を押してあげたいのだ。



     ♩



 2005年、夏。

 僕と由美は、羽田空港のロビーでコーヒーを飲みながら、アメリカ行きの飛行機が出発する時間を待っていた。

「最後にもう一度だけ念を押すけど、本当にいいの? いくらギターを返さなくちゃならないという大義名分があるとはいえ、元カノの結婚式に今カノを連れて…」

 僕の話はただちに遮られた。

「前から何度も言ってるとおりよ。ロサンゼルスの海が見える教会で挙式なんて素敵じゃない、まるで映画みたい。せっかく招待されてるのに見に行かないなんてむしろ損。私は心からコスモさんを祝福する。辛い思いをして生きてきたんだもん。幸せを祝ってあげなきゃ。それだけじゃない、優ちゃんはコスモさんに親と同じ失敗を繰り返して欲しくないんでしょ? それがコスモさんに会いに行く目的でもあるんでしょ? 私は分かってる。優ちゃんを信じてるから…」

 一カ月ほど前の事。コスモから、通算三度目のエアメールが届いた。中には結婚式の日取りについての説明が書かれた簡素な手紙、教会のパンフレット、二人分の航空機のチケット、そしてツーショットの写真が入っていた。当時の少年のような面影はすっかり影を潜め、大人の女性へと変貌を遂げた姿がそこには写っていた。耳には相変わらずガーネットを着けている。そして何より、とても幸せそうに微笑んでいた。由美はその教会のパンフレットに映る、目が覚めるような美しさの青い海と空を見て、大変気に入ったようだった。

「…不安がないと言えば嘘になる。でも、不安がない人なんているのかしら。例えば今、これから乗ろうとしている飛行機だって海に墜落しちゃうかも知れない、先の事なんて誰にも分からないんだから。それに、そもそも日本とアメリカでどうやって浮気するって言うのよ。だいたい優ちゃんに浮気なんて隠し事はあまりにも大それ過ぎてて絶対に不可能よ。それとも、式場に乗り込んでって花嫁を拐うとでも? 優ちゃんにはもっと不可能。あなたはそんなキャラじゃないわよ」

 由美はそう言ってクスリと笑った。細い指が口を隠すと、左手のリングがキラリと光った。改めて、とても良く似合っていると思った。

「そういう風に言ってくれて嬉しい。俺、あいつの旦那さんに興味があるんだ。安心して任せられる人かどうか会って確かめてみたい。嫁ぐ妹を見送る兄の気持ちってこんなものなのかもな。辛い思いをいっぱいした分、あいつには幸せになって欲しい、本当に、ただそれだけなんだ」

「私もコスモさんには興味があるの。手紙に書いてあったよね、"世界のどこを探しても、あの日の二人はもう居ない"って。綺麗な言葉だな、って思った…」

 由美が「コスモさんには興味がある」と言うのはこれで二度目だった。一度目に言われた時、僕は国際電話でコスモに断った上で、あのエアメールを由美に見せた。ちなみに、「あの日の二人はもう居ない」という言葉を綺麗だと言うのも、これで二回目だった。

「…普段から日本語に慣れ親しんでいる私でも、こんなに綺麗な言葉はなかなか思いつかないよ。コスモさんはきっと、感性の豊かな人なんだと思う。むしろコスモさんとは友達になりたいくらい。それにきっと、コスモさんの男の人を見る目は確かなはずよ」

「それは、誉め言葉と受け取っていいのかな?」

 ふと、毅さんから言われた言葉を思い出した。「俺には英語は分からん。こんな事はユータ、お前にしか頼めない。形見のブラッキーを受け継ぐに相応しい男かどうか、俺の代わりに見極めて来い」。由美は質問に答えず、ただ涼しげに微笑んでいる。…誉め言葉と取る事にした。

「そう言えば、コスモさんのフィアンセって親日派なの?」

「だと思うよ。一度電話で聞いた事があるんだ。"What do you like about japan?"って。そしたら"Anime"って言ってた。"マジョタク・ガンダム・スラムダンク"」

「典型的ね…」

 と由美は笑いながら、

「…ところで聞きたいんだけど、海の見える神社ってないかな?」

 と質問してきた。

「葉山にあるよ。森戸神社ってとこ」

「私達が婚約した事はまだ話してないんだよね。いっそコスモさん達に対抗して、結婚式はその神社にしない? それでコスモさん達を招待するの。もちろん旦那さんに宗教的な問題がなければ、の話だけど」

「まあ、旦那さんが敬虔なクリスチャンだという可能性は否定できないよな。でも、神社に来るぐらいは平気じゃないかな。宗教って言っても、広い意味では文化だし、よほど狂信的なカルト教団の信者じゃない限り、"他の宗教はみんな間違ってる、正しいのは自分達の宗教だけだ"みたいな事は言わないと思うよ」

 もちろんコスモの問題もあった。いくら観光目的とは言え、日本へ来る事に難色を示す可能性がある。コスモの親族以外では恐らく、僕と歌祈ちゃんだけが知るあの「真相」を、由美には話していなかった。話す必要があるとはとても思えなかったからだ。もし由美があの「真相」を知っていたなら、軽々しくコスモを挙式に呼ぼうなどと提案したりはしないだろう。それも含めて、コスモとじっくり話をしたい。親から受けた心の傷を、子どもに連鎖して欲しくないからだ。カウンセリングを学んだ者として、コスモに教えてあげたい事は山ほどある。不幸にも「彼」と似てしまった、カッとなると手が出やすいという欠点だけは、なんとしても克服して欲しい。そうでなくても女性にとって子どもは唯一の弱者なのだ。その事をきちんと自覚しなければ良い母親にはなれない。「自分は子どもの頃の自分を傷つけた親とは違う」、そう思い込み、自らを客観視できずにいるだけで、実は親と同じ過ちを繰り返し虐待を再生産している人間は決して少なくない、むしろほとんどの親がそうだと言っても過言ではないのだ。だからこそ、少しずつでもいい、正しい未来へと成長していけるよう、コスモの背中を押してあげたいのだ。これは僕にしてあげられる、恐らく最後の手助けとなるだろう。

 コーヒーを飲み終えると空港のアナウンスが聞こえてきた。

「荷物検査の時間だね」

 僕は席から立ち上がり、ブラッキーを収納している黒いハードケースを持ち上げた。もうじきこれは、僕の腕から離れてしまう。が、「未練」はもうこれっぽっちもない。もともとそういう約束だったのだ。そしてそれにしてはずいぶん長く、僕の胸に抱かれ過ぎていたというだけの話だ。

「ねえ、確かこのギターって、メイド・イン・USAなんだよね?」

「そうだけど?」

「それが海を越えてはるばる日本にやって来て、いろ〜んな人達にこんなに強く愛されて、そしてアメリカへ里帰り。世界って案外狭いのね」

 窓の外を見ると、そこにはコスモと初めて知り合った日に見た青空と同じように、極細の飛行機雲が真横に一筋伸びていた。その青い空の向こうにはアメリカがある。そしてその更に向こうには、夢や希望や、素敵な未来が待っているはず…。

 …前向きにいこう。改めてそう思った。

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