第6話

  第6章 ハロー・グッドバイ



     Introduction


 まるで毅さんとのやりとりを聞いていたかのようなタイミングで、ファミレスのスピーカーからビートルズの「ハロー・グッドバイ」が流れ出した。



     ♩



「…お前、なんであの夏、コスモを追いかけなかったんだ?」

 毅さんの質問に答えるためには、慎重に言葉を選ぶ必要があった。

「実は僕、中学の卒業式の後、西田っていう女の子から告白されたんだ…」

 あの頃の記憶を反芻しながら、僕はゆっくりと喋った。

「…すごく綺麗な子だった。コスモの事は承知の上で、それでも好きですって言ってくれたんだ。最初は断った。でも、お別れのエアメールを受け取ってしばらくしてから、やっぱり付き合って欲しいって自分から言ってしまったんだ。でもそれって本当は、コスモがいない寂しさを紛らわせたくて他の誰かを選んだだけだったんだよ。けどそんなの相手からすれば見え見えだよね。三カ月と続かなかった。"あんな女の何がそんなにいいって言うのよ!"って、泣かれたよ…」

 毅さんが音楽を聴く時のように真剣に耳を傾けてくれているのを、僕はしっかりと感じ取っていた。

「…僕は一度、別のひとと付き合ってる、そんな自分にコスモを追いかける資格はないと思った。…これがその質問に対する答え。西田さんには、本当に可哀想な事をしてしまったと今でも強くそう思ってる。僕はコスモが思ってるほどいい人間じゃないよ。後ろめたくて今までずっと言えなかったんだけど、歌祈ちゃんが急にバンドを抜けたいって言い出したのもきっとそれが理由だよ」

 …コスモは歌祈ちゃんにも、僕に宛てたのとほぼ同じ内容のエアメールを送っていた。彼女はそれを読むやいなや、すぐさま僕に電話をかけて来たのである。

「優太君あの時、"車から降りたのは俺一人だけだ、コスモと毅さんがその後どこへ行ったのかは知らない"って言ったよね? でもそれって本当は毅さんから…」

「…そのとおりだよ。あれは毅さんから"誰に何を聞かれてもそう答えろ、余計な事は一切言うな"って言われたからそう答えたんだ」

 僕らは直後すぐに毅さんの家へ向かった。そしてコスモが残していった、「Weekend, come hear to the Jone lennon.」という落書きの前で誓い合ったのだ。

「コスモのしでかしちまった事は誰にも話してはいけない。この秘密は、俺たちだけの物だ、この話は墓場まで持って行く事にすると今ここで互いに誓い合おう…」

 さらに毅さんはこうもつけ加えたのだった。

「…コスモの親父がられちまったのは必然だったんだ。その事で俺たちやコスモが苦しんだり悩んだりする必要はない。特にユータ、お前のMCがコスモの親父に油を注いだ事を気に病む必要は全くないからな。あの現場に、実はコスモの親父がいただなんて誰も夢にも思っていなかったんだ、つまりこれは単なる不運な事故だったんだ。決してお前のせいなんかじゃない」

 その話を聞き終えた後、僕は思ったままを口に出した。

「僕はあの時、会った事すらないコスモのお兄さんの死を悼んで『ティアーズ・イン・ヘヴン』を唄ったんだ。それなのに、会った事のあるコスモの父親の死を悼みたいという気持ちには不思議とこれっぽっちもなれないんだ。だから毅さんの言う事は正しいと思う、全面的に支持するよ」

 僕の父が言っていた、「よほどひどい生き方をしてきた人間でない限り、残された人たちは皆悲しんだり苦しんだりする事になるんだ」、という言葉は、やはり正しかったのだ。しかし、たとえこの言い分は支持できたとしても、「彼」に油を注いでしまったという事実は、やはり僕の心に深い傷痕を残した。

 やがて高校生活が始まると、僕は西田さんとかつてコスモに平手打ちを食らった現場でもあるバス停で偶然はち合わせた。

「美樹本さんとはその後どうなったの?」

 彼女がそう尋ねてくるのは至極当然の事であった。

「詳しい事はちょっと言えないんだけど、彼女はロサンゼルスへ行ってしまったんだ。卒業式にもやって来なかったのはそれが理由だったんだよ。向こうからエアメールが来たよ。"もう日本へは戻らない、アメリカで一からやり直そうと思う。だからあたしの事はもう忘れてください"って」

「そっか」

 西田さんの表情が、ほんの少しだけ晴れやかになるのを僕は見逃さなかった。

「あのさ…」

「あの…」

 僕らはほとんど同時に声を出した。

「…あ、どうぞ」

 西田さんがそう言うので、僕の方から話しかけた。

「…学校へは毎日このバスで通ってるの?」

 それ以来、僕らは毎日同じバスで通学する事になった。やがて僕は西田さんに申し込んでしまったのであった。

「…やっぱり付き合って欲しい」

 西田さんはOKしてくれた。するとその事をどこかで見聞きし僕に愛想を尽かしたのであろう歌祈ちゃんは、「桃色ウインドベルから脱退したい」と言い出した。ちょうどそれは毅さんがコスモの代わりのドラマーを連れて来てくれたのと奇しくも同じ日の事だった。圧倒的な歌唱力を持つ歌祈ちゃんは、最低かつ最悪のタイミングで居なくなってしまったのだ。歌祈ちゃんの代打などおいそれと見つかるはずもなく、結果「桃色ウインドベル」はあっという間に空中分解してしまった。僕と毅さんと新しいドラムの人は、ただ声が大きく、うるさくがなるだけが取り柄の男性ボーカルを新メンバーに迎え入れてパンクロックのバンドを結成した。そして僕はただヤケクソにブラッキーを鳴らし続けた。

 西田さんとの交際もまた、あっという間に空中分解した。コスモを喪失した悲しみに打ちひしがれ、自己憐憫に浸っていた僕は、事あるごとに彼女との思い出の日々を話しては西田さんを深く傷つけた。ある日の事、

「ねえ、本当はアンタ、まだ美樹本さんの事が好きなんでしょう?」

 西田さんはそう呟くやいなや、突然堰を切ったかのように激しく泣き出した。

「あんな女の何がそんなにいいって言うのよっ!」

 彼女は振りかぶった腕で、僕の胸を何度も激しく叩きつけた。

「もうアンタなんて顔も見たくない! 明日からいつもよりも早い時間のバスに乗って! もし同じ時間に乗り込んで来たらいかなる理由があろうともストーカーだって訴えるからね!」

 西田さんは、それはそれは激しい言葉で僕を強烈に罵り、そして走り去って行った。しかしそれも当然の事である。僕は西田さんの指定した時間のバスに乗る事を余儀なくされた。夏休みが終わると、西田さんは他の高校へ転入したと噂に聞いた。いくら時間が違うとは言え、僕と同じ路線のバスに乗る事がよほど嫌だったのだろう。だがしかし、もう同じバスに乗る心配はないのだと知った僕は、正直、心から安堵していた。

 …そして時間は過ぎ去って行った…。

 …俯いたまま、しばらく正面に座っている毅さんの返事を待った。しかし彼はいつまで経っても、何一つ言おうとはしなかった。仕方なく、僕は更に言葉を継ぎ足した。

「もしかして怒ってる?」

「いや、怒ってねえよ。まさかお前がそんなにモテる奴だったとは思えなくて少々驚いてるだけだ」

「悪かったッスね」

 悪態をつくと、毅さんはカラカラ渇いた声で笑い出した。

「ま、人生にはモテる時期があるってよく言うからなぁ。ちなみに、悪かったついでに俺も一つ正直に言う。昔の話だ、だからユータの方こそ怒らずに聞いてくれ。実は俺、コスモが肺炎で入院してた時、見舞いに来たお前の話を病室の外で盗み聞きしてたんだよ。なぜならお前が何らかの形で自分を犠牲にしてコスモを助けようとしてるのが俺には見え見えだったからだ。で、もしお前が中学を出たら働くだなんて抜かしたら直ちに病室へ乗り込んで、反抗するなら殴ってでも止める気でいたんだ、お前はお前の道を行け、ってな。でも、まさか同じ高校へ行くという形で自分を犠牲にする気でいたとは正直、夢にも思っていなかった、完全に予想外だったよ。そりゃあそうさ、コスモをフォローするために進学先を譲歩するなんて、これ以上下の学校がない俺には逆立ちしたってできない相談だ、…できるとしたら働く事だけさ。つまりあの時の俺は、元ヤンの自分と優等生のお前を同じモノサシで計って状況を完全に読み違えてたのさ…」

 毅さんは、人差し指と親指で目頭を揉みながら自嘲した後、再びこう語り出した。

「…正直に言うと、それまで俺はお前をナメてた。お前がほら、コスモから煙草を取り上げた後、"クラプトンは、麻薬も酒も煙草もみんなやめてますよ。それでも白けますか?"って俺に言った事があったよな。あの時ガキみてぇにビビってるコスモを見て、実はかなり焦ってたんだよ、コスモ、お前まさかっ!? ってな。コスモがゾッコン惚れ込んでるのはあれでもう見え見えだったし、でも正直なところ、お前の何が良くてコスモが惚れてたのか、あの時点では全く分からなかったから余計に慌てたよ。まあ、お互い人種があまりにも違い過ぎたんだよな…」

 それは僕もまったく同感であった。

「…でも病院で"一緒にM高へ行こう"って言うのを聞いて、コスモがお前を選んだ理由がようやく分かったんだ。お前にはあのブラッキーを受け継ぐ資格があるとも思った。俺、あのとき喫煙所でこう思ってたんだ、…なあガイア、アンタの妹とブラッキーは、俺もうアイツに任せる事にするわ、いいよな? …ってな」

「あの時、毅さん本当は煙草を喫いながら泣いてたんでしょ?」

「…」

 コスモの兄の名前が大地と書いてガイアだと知ったのは、毅さんとの親交が急速に発展し始めてからの事であった。毅さんは箱から二本目を取り出し、火を点けながらこう言った。

「盗み聞きなんて趣味の悪い事をして済まなかったな」

「気にしてないよ。毅さんが盗み聞きしたくなる気持ちもよく分かるしね。てゆーかやっぱりそうだったんだね。もしかしたら聞かれてたのかも知れないって、後になって気づいたんだ。足音が妙に静かだったからさ…」

 毅さんだってミュージシャンのはしくれだ、僕の言っている事の意味が分かったのだろう、小さくフンと鼻で笑った。僕は微笑みながら、

「…もしもあっさりフラれていたら、きっといい笑いぐさだったろうね」

 と言った。すると毅さんも、

「実を言うとそれを期待してたんだ。ところがお前らまんまと俺を裏切ってデキちまいやがった!」

 悪い冗談を飛ばしながら大きな声でカッカと笑い出した。やがて笑い終えると、しっかりとした口調で語り始めた。

「自分一人の力だけじゃどうにもならない事ってのは確実にある。ましてガキじゃなおさらだ。でもお前は精一杯やった。俺が一番良く知ってる。無理に責任を背負いすぎるな。時間は取り戻せないんだ、今の彼女を大事にしろ。切ないよな、苦しいよな、自分の力でコスモを幸せにしてやりてぇよな、だけど今のコスモがいるのは紛れもなくお前の力があったからなんだ、その事に関しては誇りを持っていい。でももういい加減、思い出から卒業しろ、俺は解ってるんだ…」

 煙草を持つ手が僕を指差す。

「…お前は今でもコスモに未練を持ってる。そうだな?」

 図星だ。認めざるを得なかった。

「恥ずかしい事じゃねぇよ。お前らは二人で力を合わせて様々な困難を乗り越えた。ところがさぁいよいよこれからだって時に終わっちまったんだ。あんな別れ方じゃ未練を持たねぇ方がどうかしてる…」

 まるで毅さんとのやりとりを聞いていたかのようなタイミングで、ファミレスのスピーカーからビートルズの「ハロー・グッドバイ」が流れ出した。その陽気だが、どことなく哀しげな響きを持ったポールの唄声を聴きながらほろ苦いコーヒーを啜った。しばらくすると毅さんは再び話し出した。

「…お前の二度目のアンコールの時のMCが、コスモの親父に油を注いじまったのだって、前から何度も言ってるように不運な事故だ、あの現場に実はコスモの親父がいただなんて誰も夢にも思ってなかったんだ、決してお前のせいじゃない…」

 僕がそれを後悔し、激しく泣いた夜は一度や二度ではなかった、…そして今、この瞬間にも涙している。

「…コスモはお前の事を、兄を慕う妹のように想っていた。でもそれをアメリカへ渡った時に断腸の思いで絶ち切ったんだ。お前への未練と、自分がやらかしちまった事を天秤にかける苦しみは、想像を遥かに超えるほど辛かっただろう。でもコスモだって人間だ、『女は上書き保存』だってよく言うけど、そうだとしてもケータイの電話帳メモリーを消去するように、お前への想いを消したりはできないはず。もしもあの夏、お前がアメリカへ行っていたなら、ヨリは戻ってたかも知れない、ダメだったとしても諦めはついたろう。しかしお前はそうしなかった。だったらコスモは忘れるしかない。仕方なかったんだよ。お前らが引き裂かれたのはコスモの親のせいだ、お前のせいじゃねぇ。ただし一つだけ言える事がある。コスモにとって、お前との出会いは遅すぎたんだ」

 僕は涙を拭きながら言った。

「そうだね。そして僕にとってコスモは、突然すぎたんだ」

「人の出逢いなんてそんなもんさ。あの当時、コスモを助けてやれなかった事を思い悩んだ結果、お前はカウンセラーになると決意した、それはいい。でもそれとコスモへの未練は別の問題だ。コスモはもう結婚するんだ、いい機会だと思って未練は今ここで完全にスッパリ断ち切れ。でないと中学を卒業した後にやっちまった過ちをまた繰り返すぞ。今の彼女にまで"忘れたくて他の誰かを選んでるだけだ"って思われたら今度こそオシマイだ。下手すりゃトラウマになって一生同じ事繰り返すぜ」

「毅さん、そういうのをね…」

 すでに涙はやんでいた。しかし声はまだ鼻につまっていた。

「…釈迦に説法って言うんだよ」

 毅さんは穏やかな微笑を浮かべながら、煙草を灰皿に押しつけ火を消した。

「あの頃のお前ら、仲良かったよなぁ。まるで本物の兄妹のようだった。見てるこっちが恥ずかしくなるぐらい眩しくってよ。そんなお前らが、俺は自慢だった」

「ところで毅さん、どうだろう? 禁煙にチャレンジしてみない?」

 火の消えた煙草を見ながら僕は言った。

「僕の就職が決まったら心療内科へおいでよ。今は喫煙も病院で治す時代だよ? 喫煙はニコチン依存症という病気なんだ」

「なんだ、就活予定の病院の営業か?」

「そうとも言うね」

「実は二十歳の時に一度禁煙にチャレンジした事があってよ…」

「二十歳? おかしな話だね」

「…ところが三日で挫折しちまったんだ。だからまあ、考えとくよ」

「挫折したっていいんだよ。薬物依存はスリップし易いんだ。クラプトンもそうだったらしいしね。だからこそ何度でもチャレンジすべきなんだ。そうしなければいつまでたっても止められないよ?」

「とにかくまあ、考えておくよ」

 僕らの間にしばし沈黙が訪れた。すると店内に中学生とおぼしき男女が入店してきた。二人はしばらく小さな声で笑いながら話し合うと、やがて教科書を広げて勉強し始めた。

 …あの二人には、一体どんな未来が待っているのだろう。

 …ああそうか、きっと父や母や毅さんには、当時の僕らがこんな風に見えていたんだなぁ。


 …それはコスモへの未練が、暗い夜の海へと沈んでゆく白い月のように、ゆっくり静かに消えてゆくのを感じた瞬間でもあった…。

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