第5話

  第5章 ティアーズ・イン・ヘヴン



     Introduction


 …やっぱり、「ティアーズ・イン・ヘヴン」はあたしにとって、お兄ちゃんの事を唄ってる曲だったんだね…。



     ♩



「あたしバンドの生演奏がやりたい!」

 コスモは快活な声をあげた。各学年で披露する演目を決めるための話し合いが行われた、ホームルームでの事だった。

 その頃コスモはすっかり明るくなっていた。その瞳は自信に満ち、キラキラと宝石のように輝いていた。性格が変化したわけではない。どんなに眩しい太陽も、雲があったら地面を照らす事はできない。それは彼女本来の輝きを遮っていた不幸が取り払われた事によって現れた真の姿を、ついにクラス中に知ら示した瞬間だったのだ。

 相変わらず、冷やかしてくる輩もいないではなかった。一人、僕よりも偏差値が低く、足だって遅いくせに、やたらと見下すような発言をしてくる奴がいた。が、すでに身も心も結ばれている彼女を持つ僕にやっかんでいるのは見え見えだった。人を見下すのは、自分に自信がないからだ、幻想の優越感に浸ってチープな安心感を得たいだけだ。そんなもの、相手にするだけ無駄だと思い、常に聞き流していた。

 …むしろ憐れにすら思いながら…。

 ともあれ「三年生お別れ会」の催し物は、コスモの鶴の一声でバンドの生演奏に決定した。ボーカルは、もちろんコスモの大親友・歌祈ちゃんに依頼した。彼女の強い要望で、ザードのコピーバンドをやる事になった。

「本当は洋楽やりたいんだけど、歌祈が英語歌えないのに無理してもかえってカッコ悪いもんね」

 僕らは学校で話し合った。

「でも一曲ぐらいは洋楽やりたいな。歌祈ちゃんの問題があるならギターのインスト曲はどう?」

「トップガンの『アンセム』とか?」

 コスモはトップガンが大好きだった。ただし、トム・クルーズとサントラ音楽に興味があるだけで、映画の内容は全く理解していなかった。母親が、若かりし頃米海軍で兵站業務に就いていたはずなのに、だ。とにかくひたすら、トムと音楽だけをロック・オンしていた。

「賛成。スティーブ・スティーブンス大好き。でも楽譜がない」

「それなら大丈夫。毅に相談する」

 コスモがそう言った瞬間、「せめて受験が終わるまでは時間をくれよ」と言ってしまった事をほんの少し後悔した。

 ともあれ週末、僕らは歌祈ちゃんの親が経営する瀟洒な海沿いのカフェ、「シー・サイド・メモリー」にて毅さんと待ち合わせた。JBLの大きなスピーカーで、ビル・エヴァンスとケニー・ドリューが演奏する「いつか王子様が」のピアノを交互に聴き比べながら、毅さんの到着を待った。初心者マークをつけた白いワンエイティーに乗った毅さんは、丁寧に手書きされた楽譜とともに潮風のように現れた。本来ならフェードアウトで終わるあの曲を、生演奏でも問題がないよう自然な形で締めくくっている非常に完成度の高い楽譜だった。しかも、ギターでの演奏にも支障がないようタブ譜まで書いてあった。

「毅さんが書いてくれたんですか?」

「いや、音大でピアノを教えてる絶対音感の持ち主が知り合いにいるんだ、その人にお願いした…」

 彼のような不良少年に、そんな知り合いがいただなんて、何かの笑い話のようにしか思えなかった。が、事実手書きの楽譜がこうしてここにある以上、信じるより他なかった。

「…ところでベースいないんだって?」

 一体何がどうしたわけか、毅さんはやけにニコニコとフレンドリーな笑顔を浮かべていた。てっきり彼には嫌われていると思っていたので、正直かなり意外だった。

「俺に任せろ!」

 楽譜を援助してもらっている以上、あまり強くは断れなかった。…ともあれメンバーはそろった。平日は第二音楽室で、土日は例のガレージで毅さんを混じえ四人で練習を重ねた。

 僕は毅さんの目を盗み、壁に赤いスプレーで落書きをした。


 禁酒

 禁煙

 禁薬


「まだ未成年のボーカリスト、歌祈ちゃんの喉を考慮して下さい」

 毅さんは折れてくれた。そして主にコスモと歌祈ちゃんの働きにより、灰皿も空き缶もリポビタンDの瓶も、全て綺麗に掃除された。

 第二音楽室からザードの曲が漏れ伝わるのを皮限りに、我が母校にはちょっとした社会現象が流行し始めた。コスモに対する一年生女子たちの人気が、それこそまるでジェット戦闘機のような速さで急上昇し出したのである。

 …少年のような顔だち。

 …美樹本宇宙という派手な名前。

 …ハーフゆえのルックスとスタイル。

 …ドラムが上手いという解りやすい能力。

 宝塚のような魅力が、今更ながらに発掘された結果だった。

「今さっき、一年の子たちが様子を見に来てたよ…」

 僕とコスモが第二音楽室に遅れて到着した時の事だった。先に来ていた歌祈ちゃんから、このような話を聞かされた事もあった。

「…あの子たち、"ここだけの話なんですけど、コスモ先輩って中二の時まで成績すごく悪かったって本当なんですか?"って聞いてくるから本当だよって教えてあげたの…」

「ぜんぜん"ここだけの話"になってないじゃん!」

 僕が笑いながらツッコミを入れると、「…まあまあ、ちゃんと最後まで聞いてよ…」と、歌祈ちゃんは話し続けた。

「…コスモが優太君の部屋で毎日猛勉強してM高に合格した事とか、優太君が本当は私立へ行くつもりでいたのに、コスモをサポートするためにあえて進路をM高に変更した事とかも知ってたみたいで、全部本当だよって教えてあげたのよ。そしたらあの子たち口々に、"愛だ! 愛だ!"って言いだして感動してたの。私なんだか自分の事みたいで嬉しくなっちゃった!」

 コスモのファンクラブが結成されたという噂を耳にしたのは、それから更に数日後の事であった。むろん、この僕が噂話などを軽々しく信じるはずがない。が、たとえ事実がどうだとしても、酒癖の悪い「彼」を思い悩み、クラスで孤独な日々を過ごしていた事が、まるで嘘だったかのようにすら思えた。

 バンドは歌祈ちゃんの発案で、「桃色ウインドベル」と命名された。

「ステージ衣装に浴衣を着たい」

 突如そう言い出した歌祈ちゃんに、コスモがあの水色の生地にピンク色の風鈴が描かれた浴衣を見せたのがきっかけだった。歌祈ちゃんは一目見てそれを非常に気に入り、それがそのまま名前になったのだ。

「バンド名はいいとして、まだ3月の体育館で浴衣なんて寒いんじゃないか?」

 僕は懸念を口にした。

「唄い始めたらすぐに温まるよ」

「そりゃそうかも知れないけどさ、リハーサルの日、念のため本当に寒くないかどうかを確かめた方がいいよ」

 僕の意見を受け入れ歌祈ちゃんは浴衣を着た、そしてなんら心配のない事が確認された。…結果、歌祈ちゃんの着る浴衣に、バンド名の由来があるという事が一年の女子たちに広く知れ渡った。

 リハーサルが終わると、以前、僕を呼び出し殴る蹴るをしてくれた不良グループから、三度みたび体育館の裏へと呼び出された。

「…お前、何であの人と知り合いなの?」

 開け放たれた非常口から、彼らはステージにいる毅さんを指差した。

「何でって、何で?」

 思わず反問してしまった。

「…お前知らねぇの? あの人は抜群のグルーヴ感から『三浦半島のシド・ヴィシャス』の異名を欲しいままにしている風神毅かぜかみたけしさん、まさにその人じゃないか!?」

「…敵対してたチームの三人組から深夜に木刀で奇襲された時、たった一人だったのにも関わらず見事に返り討ちにしてみせたという伝説もあるんだ!」

 話半分だとしても、それは凄いと素直に思った。しかし、興味の持てる話ではなかった。

「喧嘩が強いからなんだって言うのさ。もしどうしても乱暴な事がしたいならリングの上でルールを守ってやって欲しいんだよね。だいたいあの人春から社会人だよ」

 すると彼らは口々に言い出した。

「…絶対丸くなったんだって!」

「…苗字が違うけど美樹本の従兄弟って本当なの?」

「…てゆーか何で教えてくれなかったの?」

「…頼む! 紹介してくれ!」

 仕方なく言うとおりにしてやると、彼らはまるで任侠映画の俳優のような声で挨拶をした。

「先輩の低音におとこを期待してます! 頑張って下さい!」

「おう! 本番当日は楽しんでくれや。ところでオメーら…」

 愛器であるフェンダーの白いプレジション・ベースをコスモに預けると、毅さんはステージでウンコ座りをした。

「…ユータに下手なマネしてねぇだろうな?」

 すると彼らは直立不動の姿勢のままいっせいに声を合わせた。

「してません!」

 したやんけ! 反論したくなった。だがしかし、意地が悪いかも知れないけれど、毅さんに対し厳しく訓練された警察犬のように振るまう彼らの従順な態度は見ていて正直楽しかった。それにもし本当の事を知ったなら、毅さんが何をし出すか分かったものではない。もう時効だ、黙っておいてあげよう、…そう思い、あの一件は水に流す事にした。

 なお、大勢の前での演奏の経験を持つのは、メンバー内で毅さんだけだった。彼らを前に堂々と振る舞う毅さんの姿に、やはりキャリアが違うんだなと、素直に尊敬の念を抱き始めていた。



 …そして当日。

 平日のため決して多くはなかったが、保護者の姿もちらほら見えた。病弱な母も珍しく、酸素ボンベの入ったカートを伴って学校へ来ていた。僕はもちろん、実の娘のようにでていた、コスモの晴れ舞台を観に来てくれたのだ。夏にギターを教えてくれた伊藤さんも、応援のためにわざわざ有給を取って駆けつけてくれた。更なる飛躍を期待してくれているのは明白だ、いいところを見せたい、僕は大いに張り切っていた。歌祈ちゃんのお兄さんも、ライヴを撮影するためハンディカムを持ってやって来てくれた。コスモの母は仕事のため、どうしても来れないとの事であった。しかし歌祈ちゃんのお兄さんが撮影してくれるという事を知り、「それなら安心して仕事に行ける」と言っていたとコスモから聞かされた。

 一年・二年の演目をステージの袖から見守りながら、前日、新品の弦に張り替えてすでに慣らし終えていたブラッキーの調律を再チェックした。やがて、一年・二年の演目は滞りなく終了した。僕は、映画「スタンド・バイ・ミー」の主人公・ゴーディの格好を真似るために新たに購入した、オレンジ色の生地に横縞の入ったTシャツと、ニューヨーク・ヤンキースの帽子を被った自分の姿を鏡で再確認した。直後、やはりそこに映るコスモと鏡の中で目が合った。僕がこの格好を選んだのは、何を隠そうコスモからの熱烈なる要望があったからだ。鏡の中でコスモと互いに頷きあった後、僕は初陣のステージへ向かった。

 舞台での立ち位置は、観客側から見て一番右側が僕、真ん中よりやや右側がボーカル&キーボードの歌祈ちゃん、やや左側がコスモ、一番左が毅さんだった。各々の位置に向かうと、コスモのファンクラブの存在を信じたくなるような光景が体育館中に広がっているのが見えた。なんとそこには、水色の生地にピンク色の文字で「桃色ウインドベル」と書かれた手作りののぼりがあったのだ。しかも、僕らがステージに出るのとほぼ同時に、体育館中にリンリンと風鈴の音が鳴り響き出したのだ。クイーンがライヴでバイシクルを演奏する時、ファンが自転車のベルを鳴らすというお約束があったと聞くが、まさにそれと同じような状態だと思った。しかもその一年の女子たちが激しく打ち鳴らしている風鈴には、恐らく自前で行ったのであろうピンク色の塗装まで施されていた。それだけではない、一年の女子たちは口々に「コスモ先パ〜イ!」と彼女の名を呼び、目を輝かせてこちらを見ていたのである。その異様なまでの熱気に打ちのめされた僕らは、全員で顔を見合わせ、そして頷き合った。

 演目は、「マイフレンド」「きっと忘れない」「君がいない」「心を開いて」「サヨナラは今もこの胸に居ます」の五曲だった。皮肉な話だ、いま思うとどれもみな、僕ら二人の未来を暗示しているかのような歌詞うたばかりである。

 演奏はほとんどなんのミスもなく大成功に終わった。リズム隊の相性もとても良かった。幼い頃から一緒だったからか、血縁者同士の阿吽の呼吸があったからか、コスモと毅さんが作り上げるビートは非常に安定していて、僕や歌祈ちゃんはのびのびと安心してプレイする事ができた。

 ミディアム・バラード「サヨナラは今もこの胸に居ます」の後の演目は、僕の出番であるトップガンの「アンセム」だった。クローズドしたハイハットを刻むコスモを見ながら、歌祈ちゃんがキーボードを弾く。そんな彼女達ふたりの息の合ったイントロを注意深く聴きながら、僕は初めてコスモと知り合った日の事を思い出した。そして青いスポットライトを浴びながら、あの山の休憩所で見た、極細の飛行機雲が一筋、真横に伸びていた青空をイメージしながら演奏を始めた。名曲「アンセム」が持つ、大空を自由に飛ぶイメージを表現する喜びに、僕の心は大いに昂ぶった。最後の音をディレイで体育館中に残響させると、皆から長く熱い大喝采を受けた。もちろんそれがコスモの人気にあやかったものである事は嫌というほど分かっていたが、そうだとしても気分はもう本当に最高だった。

 こうして定められた三十分が過ぎた。歌祈ちゃんの「ありがとうございました」という声がマイクを通して体育館中に響いた。袖に帰るとコスモの名を呼ぶ声とともに、実はお約束的に最初から予定されていたアンコールの声が風鈴の音と共に体育館中に響き出した。「最後の曲は『負けないで』がいい」。コスモの強い要望だった。水分補給の後、僕らは再び舞台に戻った。

「今日はありがとうございます。最後の曲になります」

 歌祈ちゃんがマイクで言うと、女子たちの「えええ〜」という残念そうな声が聞こえた。しかし歌祈ちゃんが口にした次の言葉に、たちまち熱狂的な大歓声が沸き起こった。

「聴いて下さい。負けないで!」

 女の子に特有の金切り声のようなシャウトで歌祈ちゃんは曲名を叫んだ。と同時にコスモがスネアを連打しイントロが始まる。さすが絶大な人気を誇る名曲だけあり、体育館のボルテージは最高潮に達した。一年の女子たちは、コスモのスネアに合わせて割れんばかりの勢いで風鈴を鳴らし続けた。そしてそれは風鈴を持っていない他の少女たちにも伝播し、大勢の子たちが腕を振り上げた。3月だとは思えないほどの熱気で体育館中がいっぱいになった。やがて「負けないで」の演奏も終わりを迎え、演目は全て終了した。再び袖に帰ると思ってもいなかった二度目のアンコールの声が響いた。

「どうしよう。もう演奏できる曲なんてないよ」

 歌祈ちゃんが呟いた。僕は少し考えた後、男は度胸とこう切り出した。

「最後に俺一人で弾き語りをしてもいいかな? そうすればみんなも、これでもう本当に終わりだって諦めてくれると思う。それに、みんなにこのブラッキーを紹介したいんだ」

「よし行ってこい!」

 毅さんに背中を叩かれた。

 一人きりで舞台へ向かうと、コスモの出番を固く信じて疑っていなかったのであろう女子たちの、「えええ〜っ」と言う声が聞こえてきた。きっとそうなるだろうと予測してはいたが、正直少し傷ついた。

「皆さんごめんなさい。僕ら全員でできる演目はもう他にないんです…」

 マイクを通した僕の声が体育館中に響いた。みんなが僕を見ている。やっぱりボーカルは目立つんだなと、改めて思った。

「…このギターなんですけど、実は僕の私物ではありません。とある亡くなられた方の大事な形見なんです…」

 それまで静かだった会場が突然ザワザワと騒がしくなった。僕は人差し指を唇に当ててそれを制した。

「…僕はその人を直接には知りません。なぜならこれが実は形見だったと聞かされた時、その人はすでにもう、天国へと旅立っていたからです。でも、その人はとても良い人だったと聞いてます。その人を想って唄おうと思います…」

 マイクの位置と角度を唄い易いように直した後、僕は祈るような想いで瞳を閉じ、深呼吸した。

「…僕の歌なんて、歌祈ちゃんに比べたら足元にも及ばないのは百も承知です。それに、コスモの出番がないせいで一年の子たちが残念がってる事もちゃんと分かってます。自分で言うのはなんですけど、『アンセム』でいいプレイができたのは、毅さんを始めとするみんなに支えて貰ったからでもあるんです。でも、心を込めて唄うんで、どうか今だけはちゃんと最後まで聴いて下さい。曲はエリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘヴン』です」

 言い終えるのとほぼ同時に、出入り口の扉が開き、真っ暗な体育館の中に外部からの光が差し込んできた。そしてその光で、人が一人出て行くのが嫌というほどはっきり見て取れた。「具合でも悪くなったのかな」と思いながら、僕は「ティアーズ・イン・ヘヴン」の演奏を始めた。ここには失礼ながら英語が分からない人もたくさんいるはず、そもそも「ティアーズ・イン・ヘヴン」やクラプトンの事を知らない人だって少なからずいるであろう。でも、たとえそうだとしても、真心を込めて唄えばきっとその想いは皆に伝わるはずだ。僕はそう考え、全神経を歌とギターに集中させた。やがて演奏が終わると、体育館中が、熱い拍手と風鈴の音でさんざめいた。するとコスモと毅さんと歌祈ちゃんがステージへとやって来た。僕らは全員で手を繋いで万歳をした。それに合わせて体育館中の人たちも万歳をし返してくれた。毅さんは満面の笑みを浮かべながら、つい今さっき僕が唄うのに使っていたマイクをスタンドから外して口元に寄せた。

「え〜、最後に、俺たち『桃ベル』のメンバー紹介をしようと思う。まず始めに、こんなに歌が上手いヤツを俺は他に知らない。コイツは将来日本を代表する歌姫になり、そして全世界へと羽ばたく事になるだろう、ボーカル&キーボードの歌祈。それから今さっき、最高にカッコいい唄声とギターを聴かせてくれた俺の舎弟、ギター&ボーカルのユータ…」

 毅さんは、歌祈ちゃんと僕を、それぞれ順にマイクを持っていない左の手のひらで指し示した。

「…それと、ベース&ボーカルがこの俺、毅だ…」

 毅さんが左の親指で自らを指し示すと、観客の一部から、いかにもそれらしい野太い声援の声が聞こえてきた。

「…そして最後に、俺ら『桃ベル』の中で断トツの人気を誇っている俺の自慢の従兄弟を紹介するぜ! ドラムのコスモだぁ!」

 それまで止んでいた風鈴の音と、一年の女子たちのコスモの名を呼ぶ声がハッキリと聞こえてきた。

「今日は本当にどうもありがとう!」

 会場中の人たちの惜しみない拍手を受けて、僕たち四人は大いに満足であった。

 更にその後、体育館の裏口から通路へと出た僕ら「桃色ウインドベル」の面々は、待ち構えていた一年の女子たちからの熱烈なる歓迎を受け、つかの間のスター気分を味わった。

 コスモは女子から花束を受け取るやいなや、

「始めたばかりのコイツにギターを教えてやったのはあたしなんだ。最初は本当に下手くそでさ、一時はどうなるかと思ってヒヤヒヤしたよ。一弦と六弦を逆に張るヤツなんて初めて見たよ」

 ある事ない事を喋りまくった。女子たちは声を上げて笑い出した。毅さんが表情だけで、「逆に張ったってホント?」と尋ねてきた。やはり僕も表情のみで、「ンなわけないっしょ!」と否定した。

 それにしてもコスモは饒舌だった。あれやこれやと喋っては、女子たちを笑わせ続けた。…何故かふと、「死を間近に控えた者は饒舌になる」という、不吉な逸話を思い出してしまった。

「ツーショットの写真を撮っていいですか?」

 拒否する理由などあるわけがなかった。僕は例の写真に写っているコスモの兄を真似てブラッキーを胸に抱いた。写ルンですのシャッターの音が鳴るとコスモは言った。

「I'll decorate it beside my brother photo」

 数週間後、別れる運命さだめにあるとも知らずに微笑んでいる僕らの写真を、きっとコスモは必ず受け取れると固く信じて疑っていなかったのであろう。同様に、やはりあの写真のすぐそばに飾ってもらえると信じていた僕は、

「I see」

 と英語で返事をしてみせた。

「えっ、今なんて言ったんですか?」

「ナイショ。聞かれたくないから英語で言ったの」

 コスモはそう言って舌を出した。すると女子たちは「すっご〜い!」と更なる歓声の声を上げた。それを遠巻きから見ていた不良グループの連中が、毅さんの名を口々に呼び求め出した。

「俺たちも一緒に写真撮らせて下さい!」

 ベースギターを肩に下げ、屹立し、カメラに向かって毅さんは親指を立てた。不良グループの面々は、そんな毅さんを取り囲んでうんこ座りをし、威嚇するような表情をカメラに向けた。スーツをビシッと決めつつも、ネクタイだけはわざと崩して締めている毅さんは、さながら矢沢永吉のようであった。

 そんなコスモと毅さんの姿に、思わず笑みが込み上げてきた。どうもこの家系には、同性のファンを惹きつけてやまない独特の雰囲気オーラがあるようだと思ったからであった。

「どうもこの家系には同性のファンを惹きつけてやまない独特の雰囲気があるみたいね」

 歌祈ちゃんがスイ・ドリームの甘い香りと共に僕の方へ近寄ってきた。

「実は今、俺も同じ事を思ってたんだ」

 僕と歌祈ちゃんは互いに笑い合った。…かくいう僕も、会った事すらないコスモの兄には熱烈なる憧れを抱いていたので、みんなの気持ちは痛いほどよく解っていた。そう思いながら再びコスモに目を向けた。

 様子が変だと思うほどの饒舌は、その後も止む気配を見せなかった。



 放課後、僕らはバンドが結成された記念すべき場所でもある「シー・サイド・メモリー」で打ち上げをした。そしてそこで、歌祈ちゃんのお兄さんが撮影してくれた自らの演奏を鑑賞した。自分が演奏している様子を客観的に視聴するのはこれが初めてであった。正直なところ、それを見るまで僕は自分ではもっと上手に演奏できていると思っていた。ところがいざこれを見てみると、自分でイメージしていたほど上手くなかった事に初めて気づいたのである。やはり、小学生の頃からやっていたコスモや毅さん、そして唄う事に関して天才的な閃きを見せる歌祈ちゃんに比べるとどうしても劣って見えてしまうのであった。他の三人なら、将来音楽で生計を立てる事ができるかも知れない、しかし自分はおそらく無理であろう。もしそうなった時は、それはコスモと別れる時なのかも知れない。そんな一抹の不安と寂しさを感じながら、皆との楽しいひと時を過ごした。

 やがて店の窓から見える相模湾に黄昏が降りてきた。海が西陽を乱反射し、一面黄金色に染まって見えた。さらに薄暗がりが辺りを覆うようになった頃、僕らは歌祈ちゃんをお店に残し、三人で毅さんの車に乗り込んだ。歌祈ちゃんも歌祈ちゃんで、僕らを見送るため店外まで出て来てくれた。車が長者ヶ崎の方へ走り出すとコスモはこう言い出した。

「ねぇ毅、家の近くのコンビニで降ろして。もういい加減二人きりになりたい」

 僕も同じ気分だった。

 …ちなみに警察は、このとき車から降りたのは僕だけで、コスモはそのまま毅さんの家に向かったと認知しているそうである。翌日コスモは日本を発っているにも関わらず、調べたらすぐに判るこんな穴だらけの供述が、不思議な事にまかり通っているのだ。警察は事情をそれとなく察して、敢えてコスモを見逃してくれたのだろうか? それともやはり警察なんて、そんな程度なのだろうか?

 手を振って毅さんの車を見送った後、望みどおり二人きりになるやいなや、コスモは不服そうな顔をしながら腰に手を当てて僕に振り向いた。

「『ティアーズ・イン・ヘヴン』はクラプトンが死んでしまった息子の事を想って書いた曲なのに」

 きっとその事を言いたくて「二人きりになりたい」と言ったのだろう、…そう思いながら僕は答えた。

「言われなくたって知ってるよ…」

 静かな夜の帷の中、ついさっきまでのお祭り騒ぎを嘘のように感じながら僕らは手を繋いで歩いた。コスモは右から左へと、季節外れの浴衣と女子からもらった花束の入った紙の手提げ袋を持ち替えた。獅子座が浮かぶ綺麗な寒空を見上げながら、澄み切った心持ちで僕は言った。

「…そうだとしても死んだ人を悼む気持ちは同じだよ。それに最後はしんみりと終わらせたかったんだ。いいだろ」

「ま、唄はともかくギターは良かったよ」

「お前に言われたくない」

 いつものごとく怒ったコスモに、僕は頭を叩かれた。すっかり慣れたお約束と、他愛のない会話を、僕らは心から楽しんでいた。

「いいライヴだったね」

「天国のお兄さんも喜んでくれてるといいな。俺、コスモのお兄さんに会ってみたかった」

「うん、きっと仲良くなれたと思うよ。あ、M高の文化祭、今から楽しみだよね。きっと一年の子たち、みんな来てくれると思う」

「コスモが声をかけたら一発だろうね。今日よりもっと人数増えてそう」

「あはは、確かにね」

「だって風鈴を持ってない他の子たちにまで伝染してたみたいで、みんなして腕を振り上げてたもん」

「そうなの? あたしには見えなかった」

「まあドラムセットが目の前にあるんじゃ難しいよな」

「ドラムの人間からすると、そういう時、前にいる他のメンバー達が羨ましいのよね。…あ、そうだ、毅が"桃色ウインドベル、もう少し続けてみないか聞いといて"って言ってた」

「オリジナルをやるって事? 確かに俺たち音は合うんだよなぁ。ま、考えとくよ」

 コスモから、「毅は女ボーカルのガレージロックをやりたがってる」と聞かされた事をふと思い出した。

 …コスモとは、打って変わったスレンダーな体型。

 …浴衣を衣装に選ぶという、大胆奇抜なファッションセンス。

 ギターを弾きながら見た歌祈ちゃんの背中には、艶やかなる華があるのを僕は感じていた。対角にいた毅さんが同じ思いを抱いていたとしても、何ら不思議な事ではない。

「ところでさっき思ったんだけど、コスモのファンクラブがあるって噂、やっぱ本当なのかな?」

「知らないよ。自分から聞くなんて恥ずかしいし」

「まあそうだよな。てゆーかコスモ、今、家って誰もいないの?」

「いないけど? …あ、したいんでしょ?」

「…」

「やっぱりね。でも今お腹痛くて、ライヴ終わって気が緩んだせいかな。多分そろそろ来そうなんだ。ごめん」

 男ってそればっかり、と思われないよう平静を装った。慌てる事はない、バンドもデートもこれからいくらだってできる。

「じゃあまた明日ね」

 僕らは軽いキスをして別れた。

 突然、強烈な胸騒ぎを感じた。コスモがあの浴衣を身につけた時に起きた一連の出来事をふと思い出し、胸に黒い影が走るのを感じたのだ。…なぜか決まって酔っ払いから嫌な思いをさせられるんだよな、…と。

 …僕は何故この時の嫌な予感を信じなかったのだろう?

 …そしてコスモを引き止めなかったのだろう?

 振り向くと、そこにはまるで遠近法をあえて無視して描いたキリコの絵画、「通りの神秘と憂鬱」のような光景が広がっていた。帰路を歩くコスモの姿が、絵画の中の車輪を押す少女と同じように、異様なまでに小さく、そして憂鬱に見えたのである。

 それが最後に見た彼女の後ろ姿だった。



 家に帰り、風呂に入ると、消防車のサイレンが聞こえてきた。最初は他人事だろうとタカをくくっていた。風呂から上がると、「火事はコスモちゃんの家の方じゃないか?」と父から聞かされた。そんなまさかと思いながらも、様子を見に行く事にした。

 角を曲がった直後、まさかの光景を見て僕はすぐに駆け出した。すでに火の消えているコスモの家が、黄色と黒のしま模様のロープで囲まれていたからだ。黒々と焼け焦げた家、立ち入り禁止と書かれた看板、消防車、救急車、パトカーも来ていた。ついさっきまでの不自然なほどの饒舌を思い出しながら僕は叫んだ。

「すみません! この家の人と友達なんです!」

 叫び声を上げる僕の肩を、まだ若い警察官が、

「駄目だ! まだ危ない!」

 と言って押し返した。と同時に焼け焦げた家の中からヘルメットを被った白衣の男が現れた。その男の言葉を耳にし、僕は力なく、その場に膝をついた。

「焼死体が一つ発見されました」



 泣きながら眠れない夜を過ごした。気づけば朝が来ていた。朝日が眩しい、という事実を残酷だと思った。朝日から逃げたいと思った。現実から逃げたいと思った。逃げたいと思っている事それ自体から逃げたいと思った。

 リビングへ行くと、

「今日はもう学校休んでいいから、ゆっくりしてなさい」

 母はひどく優しく僕を慈しんでくれた。父も父で、

「コスモちゃんの両親だって見つかってない。本当の事はまだ何も分かってないんだ。いいか、昨夜も言ったが間違っても早まったりなんかするなよ」

 と言い残した後、「優太を頼むぞ」と母に声をかけ、会社へと向かった。

 …昨夜、焼け落ちたコスモの家の前で激しく泣き崩れていた僕は、少し遅れて様子を見に来た父に抱き抱えられて家路についた。僕の肩を押し返したまだ若い警察官も家まで付き添って来た。

「落ち着け。まだコスモちゃんが死んだと決まったわけじゃないんだ…」

 僕の部屋に二人で共に入ると、父はコスモが愛用していた水色のイームズに腰を降ろした。僕も自分の黒いイームズに腰かけた。

「…優太の事を、これから一人前の男だと思って話す。だからいいか、今から話す事はお母さんには内緒だからな…」

 父は大きく深呼吸すると、意外な過去を語りはじめた。

「…実はお父さんもな、中学の時、付き合ってた女の子がいたんだ。でもな、その子、高校に上がる直前に自殺してしまったんだ…」

 ほとんど真っ白だった頭に、「自殺」という言葉はくさびのように鋭く突き刺さった。

「…お父さん、つるんでもいないよその中学の連中とつるんでいると誤解された事があってな、同じ中学の連中に襲われた事があったんだ。ソイツらにはそれ以前にも身に覚えのない事で殴られた事があって、もし次またやられたらやり返してやろうと決めていたんだ。お父さんその頃気づいてたんだ、"アイツらは決して強くない"、って。友達も言ってたんだ。"アイツらはただキレ易いってだけで、そんなに強くない気がする"ってな。ところでああいう事をする連中っていうのは、どうも"自分たちは特別だ、食物連鎖の頂点に居る動物と同じようなもんだ"、とでも思い込んで勘違いしてるみたいで、自分たちが暴力を振るうのはいいけど自分たちが振るわれるのはおかしいと思っているような節があるんだよな…」

 この言い分はもっともだと思った。

「…で、いざ殴られて本当にやり返したまでは良かったんだが、自分より下だと思い込んでいた相手にやり返されるなんて思ってもいなかったんだろうな、カッとなった連中のうちの一人にナイフで左腕を刺されてしまったんだ…」

 父は古傷があるあたりを服の上からさすりながら話し続けた。

「…当時の悪ガキは、今の若い子たちよりももっとタチが悪かったんだ、毅君なんかまだまだ全然大人しく思えるぐらいにな。しかもその時の喧嘩に巻き込まれて、当時付き合っていた彼女も顔にひどい怪我をしてしまってな、その事でショックを受けた彼女は、今で言う引きこもりになってしまったんだ。しばらくして、彼女の母親から自殺したと聞かされた。葬式へは行ったんだが、今度は父親から、"お前が娘を遅くまで連れ回したからこうなったんだ!"って言われて参加する事すら許して貰えなかったんだ…」

 父は水色のイームズの上で姿勢を正すと、「…今までず〜っと黙ってたんだけどな…」、と言って更に話し続けた。

「…本当はお父さんな、お前たちの交際には反対だったんだ。もし優太が昔のお父さんと同じような事になったらと思うと、正直気が気じゃなかった。そうでもなくともコスモちゃんの家は色々あったしな。でもお母さんがあんまり、"私にはコスモちゃんが可愛いのよ! コスモちゃんが可哀想な子なんだって事ぐらいお父さんだって知ってるでしょ? よその家の子だからなんだって言うのよ! ゆとりがないわけじゃないんだし、一人ぐらい面倒見てあげたっていいじゃない!"って言うもんだから、敢えて黙ってバックアップするふりをしていただけなんだ。でも優太はお父さんをいい意味で裏切った、まさかコスモちゃんを本当にM高へ合格させてしまうだなんてな。お前は本当に良くやったと思う…」

 話し疲れたのか、父は何度か深く深呼吸すると再び口を開いた。

「…いいか、コスモちゃんの両親だってまだ見つかってない。本当の事はまだ何も分かってないんだ。だからいいな、間違っても早まったりだけはするなよ。たとえ今日の火事で死んでしまったのがコスモちゃんだとハッキリ分かったとしても同様だ。死なれると残された人たちがどれだけ苦しむか、お父さんはそれを嫌というほど知っているんだ。正直なところ、お父さんはコスモちゃんが死んでしまったとは思ってない。さっきも言ったように本当の事はまだ分からない、分からないんだけども、あの元気なコスモちゃんが死んでしまったとはとても思えないんだ。だがな、もし仮に、仮にだぞ、もし仮に死んでいたと仮定しての話なんだが、好きな人の死は、まだ十五歳のお前にはとてつもなく重い物になると思う。そうだとしても乗り越えられないほど苦しんだりはしない。事実それを経験したお父さんが言うんだから、間違いない。だからたとえ何があったとしても早まったりだけはするなよ。優太が早まれば必ず、まだ生きている他の誰かが苦しむ事になるんだ。そしてもしその苦しむ事になる他の誰かがまた早まった事をしたら、どうだ? そういった悲しみや苦しみを連鎖させてはいけないんだ。分かるな? 生前よほどひどい生き方をしてきた人でない限り、残された人たちは悲しんだり苦しんだりする事に必ずなるんだ。でも優太は違う、優太には苦しんだり悲しんだりしてくれる人たちがいるんだという事を忘れるな。だからもう一度言う、いいな、絶対に早まるなよ!」

 …リビングの椅子に腰かけ、母の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、昨夜の話をゆっくりと反芻した。父の言わんとしている事はきちんと理解できていた。しかしそれは昨日のコスモの様子が変だと思うほどの饒舌を知らないから言える事だ、と思えて仕方がなかった。コーヒーを飲み終えるのとほぼ同時に、コードレス電話の音が鳴り響いた。毅さんだった。

「近くのコンビニにいる。今すぐ来い!」

 僕は直ちに上着を羽織った。

 昨日の饒舌だったコスモを再び思い出した。やはりあれは虫の知らせだったのだろうか。そう思いながら、立ち入り禁止と書かれた看板が、まるで僕をあざ笑うかのように突っ立っているコスモの家の前を通った。黒々と焼け残った家を眺めながら、この中で互いに生まれて初めて抱き合った後の事を思い浮かべた。

「ユータ、ずっと一緒に居ようね、ずっと一緒に居ようね」

 泣きながら、コスモは何度も何度もそう言い続けていた。

 人前ではいつも強がり、悪ぶった事ばかりしていたが、本当はひどい泣き虫で、寂しがり屋で、甘えん坊だった。しかしそれは僕にしか見せない素顔だった。そんな彼女が自慢だった。僕らの仲を悪意で批判されても、屁とも思わなかった。むしろ逆に、「今に見てろよ。いつか必ず公認させてやる」と思っていた。コスモをM高に合格させ、全校生徒たちの前でライヴを大成功させた事で、ようやくその兆しが見えてきたと思っていた。「距離を置いた方がいい」、善意の忠告をする者もいた。本気で付き合い始めると、むしろ逆に僕から距離を置くようになった奴もいた。それならそれで構わない、そう思って諦める事にした。気づけば友達なんて、片手の指くらいにまで減っていた。量より質だと自分に言い聞かせた夜は、一度や二度ではなかった。正直、むしろ逆にコスモと付き合っていなかったら、もっと友達は多かっただろうと思った事が何度かあった。だがしかし、悩んだところで結局いつも、「貫いてやる!」という結論しか出てこなかった。ほとんど意地になっていた。今はどんなに辛くても、二人で一緒に笑い飛ばせる未来が必ずやって来ると信じていた。恋人が死ぬ、まさかそんな恋愛小説のような悲劇が、自分の身に降りかかってくるだなんて夢にも思っていなかった。

 コンビニに着くとすぐ、ワンエイティーのバンパーに腰を下ろし、スカジャンのポケットに手を入れて寒そうに背中を丸めている毅さんの姿が見えた。その刹那、自分の中にまだこんなにもたくさんの涙が残っていたなんてと思うぐらい、僕は激しく泣きじゃくってしまった。毅さんは駆け寄ってくるなり、僕の髪を鷲掴みにした。そして涙を顔ごと肩に引き寄せ、耳元でこう囁いた。

「落ち着け。コスモは生きてる…」

 ハッと彼の顔を見た。

「…事情があって今はまだ詳しく話せないんだ。でも、とにかくコスモは生きてる、それだけは心配するな。…とりあえず車の中で話そう…」

 促されるまま車内へ入ると、毅さんは煙草に火をつけた。少し落ち着きがないように見えた。

「…いいか、よく聞け。もし万が一警察がユータの所へ来て、夕べの事を尋ねてきたら必ずこう答えろ。"毅さんにコンビニまで送って貰った後、僕は一人で車から降りました。その後毅さんとコスモがどこへ行ったかは知りません"。誰に何を聞かれても、それ以外の余計な事は一切言うな! お前の親にもそう言って口裏を合わせておけ。分かったな!」

 この言葉の裏側に隠された事の意味を推察するのに、当時の僕はまだあまりにも幼な過ぎた。…ともあれ帰宅した僕は、すぐさま母にその言葉を伝えた。すると母は、最初ひどく驚いたような様子を見せた。その後激しく憎悪したかのような表情を見せ、最後に痛いくらいに悲しそうな顔をして見せた。だがやはり、母の表情が目まぐるしく変化した本当の理由を推察するのに、当時の僕はあまりにも幼な過ぎた。

 夕方になると、今度は歌祈ちゃんから電話がかかってきた。コスモの安否を知りたがっていたからである事は言うまでもない。しかし、彼女が知りたがっている答えは、そのまま僕が知りたいと望んでいる事でもあるのだ、…答えられるわけがないのだ。僕はやはり、毅さんの言葉をそのまま歌祈ちゃんにも伝えた。

 次の日学校へ行くと、一年の女子たちが、「ユータ先輩!」と口々に僕の名を呼び求めてクラスへ大挙し押しかけてきた。昨日と同様、毅さんに言われたとおりの説明をし、席に戻った。すると目を真っ赤にさせた歌祈ちゃんが僕に近寄って来た。

「まるでデジャヴを見てるみたい。昨日はあの子たち、"歌祈先輩!"って、私に同じ事を質問しに来てたのよ」

 言い終えるやいなや、歌祈ちゃんは僕の机に突っ伏し、激しく泣き始めた。



 二日後の新聞に、信じられないような事が書いてあった。火事の原因は放火だったのだ。火をつけたのはコスモの母だった。そして死んだのは、「彼」だった。


 

 一体何をどうしたらいいのか全く分からないまま、悪戯に時間だけが過ぎていった。



 結局コスモは卒業式にもやって来なかった。



 卒業式の後、西田という名の女子から突然話しかけられた。

「中ニの夏休みの時の事なんだけど、花火大会の日に無言電話があったのを覚えてる? あれ、実は私だったんだ…」

 ボーイッシュで童顔なコスモとはまるきり逆の、清楚なタイプの少女だった。

「…バス停で美樹本さんからビンタされたのを偶然見ちゃって、匿名で"あの人とは距離を置いた方がいい"って言いたくって公衆電話からかけたの。でも、たったワンコールでいきなり清水君が出てきたからびっくりしちゃって、…で、つい無言で切っちゃったんだ。ごめんね」

「ひょっとして、"早く私に気づいて下さい!"って書いてあったバレンタイン・チョコも?」

 西田さんは苦笑いをすると、それはそれは悔しそうに呟いた。

「ちょうどその頃からだったよね。美樹本さんとの関係がいよいよ本格的になり始めたのって…」

 彼女が最終的に何を言おうとしているのかすでに予測できていた僕は、「…で?」、と、話の先を促した。

「…清水君が美樹本さんだけしか見てない事ぐらい、ずっと前から分かってました。美樹本さんが今、何らかの事件に巻き込まれた可能性が高い事も、二人が恋仲なのも全部知ってます。でも、そうだとしてもキチンと言うだけ言いたかったんです。…私、ずっと前から清水優太君の事が好きでした!」

 コスモの行方が分からない、という残酷な事実が、きっと彼女にとっては千載一遇のチャンスに思えたのだろう。しかし、僕の答えはもちろん一つだけだった。

「ありがとう。でも彼女が少々の問題を抱えていたとしても、それでも僕は美樹本が好きなんです。ごめんなさい」

「きっとそう言われるだろうと思ってました。でも、言うだけ言って気持ちがスッキリしました。ちゃんと最後まで話を聞いてくれてこちらこそありがとう」

 その誠実なもの言いには非常に好感が持てた。身も心も、僕にはもったいないぐらい綺麗で素敵な少女だと、正直、そう思った。



 コスモから書留のエアメールが届いたのは、奇しくも僕らが知り合ったのと同じ日の事だった。それがお別れの手紙である事ぐらい、外国から来ているという時点で想像がついていた。しかしその内容は、思っていたより遥かに陰惨で、衝撃的なものであった。



     ☆



 長い間心配かけてごめんね。あたし今、ロサンゼルスにあるママの実家にいるんだ。

 何からどう伝えればいいのか、考えてたらだいぶ時間が過ぎちゃった。国際電話で話そうかとも思ったんだけど、いっぺんにいろんな事が起き過ぎて頭がパンクしてて、口では上手く話せないと思った。だから考えをまとめながらこれを書いたの。何度も何度も書き直して、これなら自分の気持ちが正しく伝わると思える物がようやく書けた。あたしはユータみたいに頭も良くないし、文章書くのも得意じゃないから、分かりにくい部分もあるかも知れない。それにまだ正直、気持ちが落ち着いてないんだ。でも、これでも精一杯分かってもらえるように書いてるつもりなの。だから送ります。読んで下さい。


 あたし、親父を刃物で刺しちゃったんだ。身を守るため、そうするしかなかったの。あの時、「家には誰もいない」って言ったよね。実はいたんだ。やっぱり酒を飲んでて、いつもより更にひどい酔い方をしてた。実はあいつ、三年生お別れ会を観に来てたんだって。まさかあの飲んだくれのクソ親父が来るはずがない、家で酒を喰らってるに決まってる、…普通ならそう思うよね。なんでこの日に限って来てたんだろう? そもそもあの日は仕事のはずだったのに何で家にいたんだろう? 死んでしまった以上、確かめようがないけど、とにかくもうホント、わけが分からなかった。

 知ってのとおりあたし達、ライヴが跳ねた後、シー・サイド・メモリーで打ち上げしたよね。その間にだいぶ飲んでたみたい。帰ったら、それこそ浴びるように飲んでる親父がいたんだ。いないとばっかり思ってたからびっくりしたよ。

 お兄ちゃんと親父、実はものすごく仲悪かったんだ。精神病棟へ強制的に入院させられた事を、親父のヤツずっと逆恨みしてたの。だから二度目のアンコールでユータが喋った事にもすごく腹を立ててた。

「何が"いい人だったと聞いてます"だ、会った事もないくせに知った風な事を抜かしやがって」って。それだけじゃない、

「あのガキが一番大切にしてるものをメチャクチャにしてやる」

 そう言っていきなりあたしを押し倒したんだ。酔った上での悪意だったのか、それとも本気だったのか、今となっては分からない。とにかく、信じられないぐらい臭い、サイテー、コイツもう人間じゃないって思った。親父にだけは犯されたくなくて、必死になって抵抗した。そしたら弾みでコタツの上の包丁が落ちたの。親父のヤツ、サラミを切りながら飲むのが好きだったから。それを見た瞬間、今までの恨み辛みが一気に爆発しちゃった。どこを刺したかも、何回刺したかも覚えてない。気づいたら血だらけになってた。そしたらママが帰ってきたの。ママ、一瞬で全部が分かったみたい、

「毅のケータイに連絡して迎えに来て貰いなさい!」って言ったんだ。

 あたしが家を出た後、まだ生きてたケダモノに灯油で火をつけて、一緒に死のうとして、でも死ねなくて、しばらくしてからママも毅の家に来たんだって。

「おばあちゃんの家は覚えてるわよね、コスモを見送ったら自首する、ロスへ行きなさい」

 ママにそう言われた時、最初あたし、一緒に逃げようって言ったんだ。でも、罪を償うって聞かなかったんだ。

「ママが悪かった。お兄ちゃんが死んだ時も、お父さんは何もしようとしなかった。そんな人はあの時点でとっとと見限って二人でアメリカへ帰るべきだったんだ」

 そう聞いた時、その方が良かったのかな、ってちょっと思ったの。でももしそうしていたら、あたしはユータに出逢ってなかったんだよね。本当は何が一番良かったんだろう。人同士って、解らないものなんだね。

「日本にいたら、犯罪者の家族と言われて肩身のせまい生き方をする事になる。ただでさえ、お父さんの事で肩身のせまい思いをさせてきたのに、本当にごめんね、お父さんにされそうになった事は誰にも喋らない。焼死体の刺し傷も、ママがやったと証言する。ママ達がコスモをそんな風に育ててしまったの、だから罪は全部ママが被る。あんな人は死んで当然なの。だからこの事でコスモは苦しまなくていい。とにかく、あの日あの時、あなたはあの家にいなかった。学校が終わった後、毅と一緒に真っ直ぐ毅の家に来た。いいわね?」

 ママがそう言った時、正直あたし、安心しちゃったんだ。さっきまで一緒に逃げようって言ってたくせに、逆に自首して欲しいと思ってしまったの。ひどい考えなのは自分でも分かってる。そして、そんなひどい事を考える人間は、やっぱりユータのような真面目な人には相応しくないとも思ったの。

「罪を償ったらママもアメリカへ帰る。もう日本へは戻らない」

 あたしももう、日本に戻る事はないと思う。ずっと一緒に居たかったけど、ユータにはもう会えない。たとえ正当防衛だったとしても、あたしは一度、本気になって人を刺してる。ママが言ってた、「まだ生きてた」って言葉だって、自分の目で見てない以上、本当の事は分からない。「罪は全部ママが被る」って言葉も、きっと本当は「そういう意味」なんだと思う。ユータなら分かるよね。たとえ事実がどうだとしても、ママの答えは同じなんだよ。

「ママが殺した」

 あたし、ユータにだけは迷惑かけたくないんだ。あたし達はもう、一緒に居ない方がいい。悲しいから、本当は認めたくない、だけどやっぱりあたし達、努力してもつり合い取れるようにはなれない運命だったのかもね。あなたはとても優しい人だから、あえてはっきり言う。

 もうこれ以上あたしなんかに優しくしないで!

 そんな風にされたって、あたしばっかり惨めになるの、見え見えだもん。

 …だからお願い、あたしの事はもう、忘れて下さい。


 ユータのおかげで、生きてて良かったって、心の底から本当にそう思った。だからもう二度と、自分から命を投げ捨てようなんて考えない、もっと自分を大事にする、約束する。ユータと出逢ってなかったら、M高どころか、そもそも進学しようとすら思ってなかった、ユータと出逢えた事を無駄にしない、これをいい機会だと思ってアメリカで一からやり直す、もう人に甘えたり頼ったりしない、お兄ちゃんの代わりを求めるような生き方もしない、強く生きてく、そうでないと天国のお兄ちゃんに顔向けできないもん。


 …やっぱり、「ティアーズ・イン・ヘヴン」はあたしにとって、お兄ちゃんの事を唄ってる曲だったんだね…。


 それと、お願いだから毅とは仲良くしてよね。音が合うって認めてた事、とっくに報告済みなんだから。だいたい学校のすぐ近くにタダ同然で使えるスタジオがあるだなんて、こんなに良い話はないでしょ? 毅に感謝してよね。そうでなくたってアンタ友達が少ないんだし。ま、人の事は言えないけどね。それにそもそもユータがそうなっちゃったのは、あたしと付き合っちゃったからだもんね。


 最後にこれだけは言わせて下さい。

 あなたを好きだった事、あたし一生の誇りにしたいです。だからユータ、いつか夢を叶えて素敵な人に、なって下さいね。あなたの事、遠く離れたアメリカから応援してます。

 もっとバンドやりたかった。M高にも一緒に通いたかった。M高の制服とリボン、可愛いから、着てるところを見て欲しかった。ユータならもっといい学校行けたのに、あたしなんかのために犠牲にさせてしまって本当にゴメンね。おばさんとおじさんにも、「親代わりになって下さって、本当にどうもありがとうございました」って、どうかくれぐれもよろしくお伝え下さい。

 ユータのおかげであたしは幸せでした。心から感謝します。

 でも、さようなら。


 コスモ・J・ウィンストンより、もう一人のお兄ちゃんへ。



     ☆



 手紙の中に、急に大人びてしまった彼女を感じた。もう、僕にしてあげられる事は何もないような気がした。

 わざわざ買い換えてもらったワイドデスクの上には、コスモが置き残していった文房具がいくつか、放置されたままになっていた。彼女がかつてこの部屋に居た証だった。コスモは確かにここに居た。毎日まるで、自分の家のようにやって来て、懸命に努力していた。にも関わらず、気づいたら、何もこの手に残っていなかった。「壊してしまうのは一瞬」という言葉の意味を、これほど如実に表している出来事も珍しいと思った。彼女の居ない部屋が、こんなにも広く寂しく虚無感に満ちていたなんて、夢にも思っていなかった。そこかしこに、コスモの残像すがたと残り香が感じられるような気がしてならなかった。

 そしてそんな室内には、「近いからいつでも返してもらえる」と言っていたブラッキーが、あたかも僕の私物だったかのように取り残されていた。さりとてそれを弾く気になれるはずもなく、あらゆる事に無気力で、怠惰な日々が長く続いた。


 …やがてあんなに楽しみにしていたはずの高校生活が、幕を開けた…。

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