第4話

  第4章 チェンジ・ザ・ワールド



     Introduction


「とにかく何とかなる! 力を合わせて二人で世界を変えるんだ!」



     ♩



 1月、酷く寒い日の事だった。肺炎で入院するため、コスモがまたも学校を休んだ。原因は、もちろん「彼」の酒だった。深夜に突如叩き起こされ、家を追い出されてしまったのだ。時間が時間だったため、僕の家に来るのは憚られたと後から聞いた。

 プリントを持って行って欲しいと担任から頼まれた。正直「またかよ」と思った。休んだ理由を知らないはずがないのに、臨時の家庭訪問をしようとか、行政に連絡しようとか、少しは思わないのだろうか? それとも本当に何も知らないのだろうか? そうだとしたら一体どこに目をつけているのだろう? 口に出したい思いはあまりにも多く、重く、そして複雑すぎた。それが理由でかえって空回りし、けっきょく言葉は何も出てこなかった。

 制服のままバスに乗り、コスモの入院している病院へ向かった。流れる車窓をひたすら睨み続けた。大人達への不信感で、胸がいっぱいになっていた。

 病室に着くと、真っ白な室内に、髑髏と蛇が一際目立つスカジャン姿の先客、…毅さんがいた。

「すみません。二人きりにして下さい」

 告白する気だった。

 ポケットに手を入れフラリと立ち上がると、彼は何も言わずに部屋から去って行った。音楽をやっていると、日常の様々な音にも自然と敏感になる。不思議な事に背後から、本来なら遠ざかってゆくはずの足音が、何故か聞こえて来なかった。

 さっきまで毅さんが座っていた椅子に腰を降ろすと、はからずも涙があふれた。それを拭った後、覚悟を決めて一気に喋った!

「俺、コスモが好きだ! それなのに助けてあげる事ができない。俺が泣いてどうすんだよな。でも、何もしてあげられない。悔しい」

「アンタがあたしを好きだって事ぐらい、とっくに気づいてたよ」

 まるで鼻歌でも唄うような表情でコスモは言った。

「いつから?」

「学校サボって一緒に海へ行った時から…」

 ため息まじりに「そっか」と呟いてしまった。

「…アンタは隠し事ができるような性格してないから。優しいし、真面目だし、それに、本当の意味での勇気もある。だいたい、親父の酒癖が悪いせいであたしがハブられてるって事を承知の上で、"一緒に学校へ行こう"って迎えに来るだなんて、もうそれしか考えられないよ」

 来る道すがら、「中学を出たら働く。だからあと一年だけ辛抱してくれ」と言おうかとも考えた。しかしそれだけはどうしても嫌だった。最低でも高校だけは出たかった。

「毅さんの家のすぐ近くに、県立のM高校ってあるの知ってるよね?」

「知ってるよ。確か偏差値が65あるかないかぐらいの学校でしょ?」

 これは僕にできる最大の譲歩だった。

「一緒に行かないか?」

「何を馬鹿な事を言ってンの!? アンタ私立の進学校へ行くんでしょ! だいたいM高なんてあたしの成績で行けるわけないじゃん! それに、もったいないよ、好きだって言ってくれた事は嬉しい、でも、アンタはあたしみたいなのとは一緒に居ない方がいいよ、M高なんか行ったってきっと後悔するよ、あたしの事なんかほっといていいから、ユータは私立へ行きな」

 酷く暗い顔をする彼女に、僕は強く反駁した。

「そういうコスモこそ、あの家には居ない方がいい。このまま行ったらコスモの将来はメチャクチャになる。でも最悪の場合、M高なら毅さんの家からだって通える、むしろその方がいいぐらいだ。それに、コスモの成績が悪いのはコスモのせいなんかじゃない、コスモのお父さんが悪いからなんだ。俺、その事をコスモの親やコスモを見捨ててるとしか思えない先生達に証明したいんだ!」

 点滴の針が疼くのか、彼女はじっと黙ったまま、腕を凝視し続けた。焦れた僕は更に言葉を重ねた。

「コスモ、英語ならなんとかなるだろ。他の教科は俺が教える。俺、コスモと知り合ってすぐの頃からとっくに気づいてたんだ、コスモは親のせいで不利益を被って本領を発揮できずにいるだけで、地頭はすごくいいんだって事に。一年あればじゅうぶん間に合う、だからやろう。コスモは俺に音楽を教えてくれた、今度は俺の番だ。それに俺ならM高ぐらい楽勝だ、コスモに教えながらでも必ず受かる」

「頭がいいの自慢してんの?」

 確かに、そう受け取られても仕方のない言い方だった。

「とにかく何とかなる! 力を合わせて二人で世界を変えるんだ!」

 意地悪く聞こえないよう、おどけて見せた。

「ユータって不思議だよね…」

 コスモは微笑みながら物静かに語り出した。

「…ねえユータ、ザードの『負けないで』って曲知ってるよね。あたしあれ好きなんだ。最初は日本の音楽なんて、って思ってたんだけど、"たまにはこういうのも悪くないかもよ"って、歌祈がCD貸してくれたの。クラスに友達ができるなんて、ユータに逢うまで夢のまた夢だった。言ってたよね、"友達は量より質だ"って。あたしを悪く思ってるヤツが根強く残ってるのは薄々気づいてる、でも、本当にユータが言ってたとおりになった。ユータから"何とかなる"って言われると、不思議と本当にできそうな気がしてくるの。まるで『負けないで』って、ユータの事を唄っているみたい。ユータってホント不思議…」

 しばらく窓の外を眺めると、傷む喉を労わるようにゆっくりと深呼吸をしてから、コスモは僕に振り向いた。その目はまるで、予言者のように神秘的な色をしていた。

「…ユータは将来、有名な人になるんじゃないかな?」

「何を言ってるの?」

 不思議なのは、むしろコスモの方だと思った。

「ユータの小説、面白かった。歌祈も歌祈のおばさんも、"男が書いたと思えない"って驚いてた。ユータはいつも"あんなの太宰治のパクリだよ"って自嘲わらってるけど、どんなジャンルのどんなアーティストにだって、お手本にしている巨匠マイスターはきっといると思うの。作曲にしたって、音楽の事をよく分かってないヤツに限って、"こんなのパクリだよ。誰々の何々って曲にソックリじゃん"って軽々しく言うけど、本当に分かってる人にならむしろ逆に分かるはずなんだ、…まるっきり新しい物なんて作れっこないんだって事を。ユータは凄いよ。本なんてほとんど読んだ事がないあたしがこんな事を言っても説得力ないのは承知であえて言うけど、ユータはミュージシャンより小説家の方が向いてるんじゃない?」

 悪戯っぽく微笑んだ後、コスモは更に話し続けた。

「ユータは将来、きっと有名な人になるよ。でもその時、あたしはユータのそばに居ないの。何処か遠く離れた街で、ユータの活躍を、まるで自分の事のように誇りに思いながら毎日を生きるの。だから、あたしの事なんかほっといていいから、私立の進学校でいっぱい勉強して小説家になりなよ。デビュー作にはあたしをモデルにしたヒロインが出てくる小説でも書きな、『スタンド・バイ・ミー』の恋愛版みたいなやつをさ。きっと面白いのが書けると思うよ、だってあたしがヒロインだもん、面白いに決まってるじゃん。有名になっても、お願いだからあたしの事、忘れないでね。応援するからさ」

「だから、何を言ってるの?」

 僕は戸惑った。付き合うかどうかは別として、一緒にM高へ行くという話だけは今日中に言質げんちを取りたかったからだ。

「ごめん、悪いけど今日は帰って」

 気づけば予言者のような目は、妖しくも美しい輝きを失くしていた。綺麗な幻想を見ていた人が、突然、現実に目覚めたかのようだった。

「分かった、帰るよ。でも、M高の話ちゃんと考えといて」

 最後に「約束して」と強く言い残し、病室を出た。

 はっきりとした返事こそ聞けなかったが、言いたい事はひととおり言えた、それだけでも良かった、そう思いながら廊下を一人静かに歩いた。すると通りかかった喫煙所に、毅さんの広い背中が見えた。せめてひと言ぐらい挨拶をしてから帰るべきだと判断した僕は、髑髏と蛇、その全てが職人の手によって刺繍されているテーラー東洋のスカジャンを羽織る彼の背中に歩み寄った。

「あの、帰りますね。失礼しました。…ていうか、どうかしました?」

 毅さんの目は赤くなっていた。

「見りゃ分かんだろ。煙が目に沁みてんだ。とっとと帰れ!」

 この台詞が、不器用な優しさから生まれた嘘だったと気づくまでに一年以上もの歳月を無駄に費やすようになる事を、当時の僕は全く知らずにいたのだった。



「これ何?」

 薄ら寒い朝の事だった。いつも僕が食事をしている席の前に、派手な包装紙に包まれた小さな箱が置いてあった。

「今日が2月14日なのは知ってるでしょ? お父さんが、"新聞取りに行ったらポストに入ってた"って。コスモちゃんもう退院したの?」

 告白の返事だ、そう思いながら包装を解いた。中には無地のメモ紙が入っていた。そしてそこには、まるで見覚えのない文字が綴られていた。


 早く私に気づいて下さい!


 なぜかしら、僕にはそれが、ものすごく悲痛な叫び声のように感じられた。

 学校へ行く準備を済ませ、ドアを開けた。すると外には、制服の上からでもはっきりと分かる大きな胸の前に、包装紙に包まれた小さな箱を持つコスモが立っていた。

「正直に言うからちゃんと聞いて!」

 上目遣いのコスモの頬は、寒さとは明らかに違う理由で、ほんのり赤くなっていた。考えてもみれば、ポストにこっそり入れておくなどという行為が、コスモの仕業であるはずがなかった。

「あたしも本当は学校サボって一緒に海へ行った時からず〜っとユータが好きだった。でもあたしなんてユータと全然つり合い取れてないし、迷惑かけるかも知れない、そう思って素直になれなかった、怖かったの。でももう意地を張るのに疲れた。病院でユータに好きだって言われた時、すっごく嬉しかった。ユータと付き合おうって決めたら、自分でも不思議なくらい気持ちが楽になった。歌祈にも言われたの、"つり合い取れてないと思うんなら、取れるように努力すれば?"って。もし本当にあたしなんかでいいんだったらこれ受け取って…」

 彼女はまっすぐ腕を伸ばすと、僕の胸に小さな箱を押しつけてきた。

「…M高の事、よろしくね」

 真剣な眼差しで訴えてくるコスモに、「これを受け取るのは実はこの日二つ目なんです」、とはとても言えなかった。



     ♩



 源頼朝によって治承4年(1180年)に建造された葉山郷総鎮守の森戸大明神は、相模湾、江ノ島、天気が良ければ富士山までもが一望できる絶好のスポットとして、地元民たちから絶大なる人気を博していた。大山祗命おおやまつみのみこと事代主命ことしろぬしのみことを御祭神とする由緒ある神社で、天下を収め源家の再興を果たした頼朝が、祈願成就の謝恩を表すため、現在の静岡県にある三嶋明神の御分霊を鎌倉に近い葉山に歓請したのが始まりとされている。

 春休み、僕らが知り合ってちょうど一周年の記念すべき日の事だった。二人で共に森戸神社へ詣でる事に相成った。むろん僕らの縁結びと、悲願であるM高合格を祈願するために馳せ参じたのだ。

「この神社はね、神奈川の景観五十選にも選ばれてるとっても綺麗な神社なのよ…」

 コスモはバスのタラップを降りながらうんちくを語り出した。バス停のすぐそばの鳥居をくぐるとコスモは更にこう話し出した。

「…海沿いにある神社って、普通は海の方に鳥居があるんだって。でもここは見てのとおり山側にあるでしょ。こんなの全国的に見ても珍しいんだって」

「それは誰から聞いたの?」

「ナイショ。とにかくお詣りしよっ」

 促されるままお詣りを済ませた後、手を繋いで境内を歩いた。水天宮と書かれた祠の中を見ると、子宝石と書いてある、卵によく似た石がいくつか置いてあった。僕は顔が真っ赤になるのを感じた。コスモも「ヤダッ」と顔を背けた。

 僕らはしばらく無言のまま境内を歩いた。石原裕次郎の碑や千貫松を見た後、「みそぎ橋」と書かれた鮮やかなあかい橋を渡って砂浜へと向かった。

「修学旅行のとき日光東照宮へ行ったんだけど、これと似たような橋が近くにあったな」

 橋にはマリンスポーツのブランドと思われるロゴが描かれたステッカーがいくつか貼り付けてあった。

「あたしも見覚えある。修学旅行は日光だった」

 砂浜には、テトラポットに似たコンクリートブロックが、桟橋のように真っ直ぐ沖の方へ施設されていた。そのやや足場の悪いブロックの先端を目指して二人で歩いた。別名、「裕次郎の塔」と呼ばれている灯台が、海の向こうに見えた。名島と呼ばれる小さな島の上に建てられた朱い鳥居が、青い水平線の中に小さく綺麗に映えていた。

 繋いだコスモの右手に、ドラムスティックのタコが出来ているのを感じた。人差し指の親指側だ。

「ユータの左手。指先にギターの弦ダコがあるね。当たり前っちゃ当たり前なんだけど」

「俺も今、同じこと思った」

 二人でクスリと笑い合った。

「でも、しばらく楽器はお預けかな?」

 彼女は少しつまらなそうに尋ねてきた。

「息抜きは必要だよ。それに指が動かなくなっても困る」

 繋いだ左手をいったん離し、指をパラパラ動かしてみせた。するとコスモは朗らかな声でこう言い出した。

「そうだよね。少しはドラム叩いてストレス解消しなくちゃ死にたくなっちゃう。それにしても、あたし生きてて本当に良かった。あたしがここに来ようと決めたのには実は理由があったの…」

 コスモはまるで、「昨日テレビで見た動物の赤ちゃんがすっごい可愛かったの」、とでも言う時のような、底抜けに明るい笑顔を浮かべていた。

「…実はあたし、この海で死のうと思った事があったんだ!」

 言葉の意味とはまるきり逆の、あまりにも楽しそうな話し方に、思わず顔が引きつってしまった。詳しい理由を聞く気にはとてもなれなかった。軽々しく触れてはならない心の傷に違いないと思ったからである。いつかきっと話してくれる日が来るだろう、…そう思いながら再び手を繋いだ。

「でももうあたし死にたくない! ず〜っとユータと一緒に居たい!」

 海に向かってコスモは叫んだ。

「うん、俺もずっと一緒に居たい!」

 コスモの柔らかな手を強く握りながら僕もそう答えた。

「この海のず〜っと向こうに、ママの産まれたロサンゼルスがあるんだ…」

 コスモは左手で正面の水平線を指差した。ここは三浦半島の西側だ、…つまりその方角にロサンゼルスはないのだが、敢えてそこは言及しない事にした。

「…またアメリカ行きたいな、今度はユータとウッドストックの野音を観に行きたい」

「俺はイギリスへ行ってみたいな。そんでクラプトン・イズ・ゴッドって書かれた壁の前でコスモと一緒に写真を撮りたい」

「なんだかまるで新婚旅行の予定を立ててるみたいね」

 コスモは心底から嬉しそうだった。そんな彼女に対し、新婚旅行の事が話題になったのなら…、と思った僕は、思い切って「その事」を口にしてみた。

「なあコスモ、言ってもいい? あの…、俺も子宝は困るんだけど、その…、いつかコスモとエッチしたい」

 恥ずかしそうにコスモは俯いた。

「…きっとそう言うと思った。うん、いいよ、ただしM高に受かったらね。それまでみっちり勉強教えてもらうんだから。それとちゃんと避妊はしてよね」

「分かってるよ。子宝は困るって言ったろ」

「こっちは一人だって困ンだよっ! オメーちゃんと責任取れよな!」

 僕は拳で頭を殴られた。

 海が朝陽を照り返し、視界全体が青と銀だけで塗りたくられた絵画のように眩しく輝いていた。コスモの綺麗な瞳を見ると、カモメがまるで僕らを冷やかすような鳴き声を上げて飛び去っていった。

 押しては返す波の音。

 潮の香り。

 ふと振り向いた砂浜に、まだ人影はなかった。それを認めた瞬間、心臓が16ビートを演奏する時のドラムのように激しく鼓動し始めた。

 コスモはいざなうような笑顔で僕の目を見ると、やがてゆっくり瞳を閉じた。



 運が良いのか悪いのか、病弱なため、滅多な事で母が家を留守にする事はなかった、…そう、僕の部屋はコスモの個別指導の塾として最高の機能を有していたのだ。僕の理性は掌の上の孫悟空のように、慈悲深い母によって完璧に制御された。学校の行き帰りに手を繋ぐか、誰もいない公園でキスをするか。僕らの性交渉はそこから先へと発展する事はなかった。

 微々たる唯一の進展は、二学期、窓から紅葉した木々が見え始めたとある日曜日の事だった。いつものように二人で勉強していると、室内にノックの音が響いた。母は、「ちょっといい?」と言った後、ドアを開き室内を覗き込んだ。

「お母さん町内会の用で少しだけ留守にするね…」

 最後に母はこう言い残してドアを閉めた。

「…いい子に勉強してて」

 …いい子に勉強なんかしていられるわけがなかった。コスモが思っているほど真面目な人間ではないという事を自ら証明するまたとないチャンスの到来だった。僕はコスモに断った上で、服の上からその歳の頃にしてはやけに膨よかなる胸に手を伸ばした。柔らかかった。今までに触れてきた事のあるあらゆるものとも似つかない、優しさと生気に満ち満ちた感触に、頬が秋の夕暮れ空のように赤くなるのを感じた。キスをすると、彼女の舌から飴の香りを感じた。間もなく階下からドアの開く音が聞こえてきた。体を離すと、コスモはまるで子どもに微笑む母のような目で僕を見た。

 ブラッキーは、そんな僕らをただただ静かに見守り続けていた。



     ♩



 神社に詣でた甲斐あってか、三年になっても僕らは同じクラスだった。席替えのクジも、コスモの細工ズルで常に隣だった。毅さんから授かった「英才教育」のおかげである事は言うまでもない。知性と悪知恵は全くの別物だという事を改めて実感した。そうして得た地の利を最大限に活用し、授業で分からない事があるとコスモは直ちに質問してきた。

 僕等の真の目標を知ろうともしないクラスメイト達に冷やかされる事もあった。体育の授業で教室にいる生徒が男子だけになると決まってこう言われた。

「部屋に連れ込んでヤリまくってンだろ?」

 やりまくっていたのは勉強なのだが、どうせ言っても信じては貰えないだろうと判断し、

「そう思いたければそう思ってるといいよ」

 と言い返すのみに留めた。「またそれかよ、他に言う事はないのかよ」と、冷ややかな気持ちをひた隠しにしながら…。

 相合傘の落書きをされた事もあった。


 優等生

 不良娘


 ガキと黒板消しの扱いは先生の方が上手いに決まっている。僕は無視シカトを決め込んだ。コスモが抱える事情を思えば、気にしている時間すらもったいないと思ったからであった。



 そんなある日の事だった。

「澄ました態度が気に入らない」と言いがかりをつける不良グループから体育館の裏に呼び出され、僕は激しく殴られたのである。

 教室へ戻った僕の顔を見るやいなや、コスモはガタッと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。コスモは僕の袖を持ち、水道口まで引っぱった。そして水に浸したハンカチで、頬を優しく冷やしながらこう言い出した。

「なんで毅の事を話さなかったのよ!? 言ったでしょ、毅は中学ンとき滅茶苦茶ヤバかったって地元で有名だったのよって。毅にはあたしから言っとくから、またやられそうになったら名前出しな」

 しかし僕はそうしようと思わなかった。きっと連中の背後にもそういった手合はいるはずだと判断したからであった。だいたい「俺の彼女の従兄弟に言うぞ」だなんてカッコ悪いにもほどがある。信用できない大人達を頼るのは嫌だったが、痛い思いをするよりはマシだと考え先生に話した。すると次の日再び体育館の裏に呼び出された。

「お前先公にチクったろ?」

「本当の事を言っただけだ。これからも何かあるたびに先生に言うからな」

「調子に乗ってんじゃねーよ!」

「調子に乗ってるのは人に向かって調子に乗ってるって決めつけてるお前らの方だ! 言われたくないんだったら、そもそも俺を殴ったりなんかするな!」

 それ以降、彼らの標的は違う人物へとシフトした。その人には気の毒だが、いい勉強になったと思った。アイツらは、絶対にやり返してこない相手を選ぶ嗅覚だけは一人前の下らない連中なのだ、どんな方法でもいい、やられたらやり返せ、僕のように腕力に自信がないなら先生に言ったっていい、とにかく何かやり返す事だ、そうすればもうニ度とやられる事はない、と。

 想像力の欠如した者の陰湿な趣味、それがイジメの本質である。嫌がらせを楽しめるのは、人の気持ちを想像する力がないからなのだ。どうしてそんな事のために自分の貴重な時間を浪費させられなければならないというのだろう。僕にはその時間を、勉強や音楽、有意義な事に使う権利がある。イジメとは、その権利への干渉だ。僕は彼らを心底軽蔑した。

「また呼び出されたんでしょ。毅の事は言った?」

 教室に戻るとコスモに聞かれた。

「言ってない。でももう平気。それより勉強しよっ」

 僕は努めて明るい声を出した。



 もちろん、勉強ばかりでは疲れてしまう、息抜きだって必要だ。僕はお金を出し合ってスタジオを借りないかと提案した。しかし彼女に反対された。

「何もお金を出さなくたって、毅の所へ行けば済む話じゃん」

 けれども毅さんにだけは頼りたくなかった。何故なら彼は、以前僕を呼び出し集団で殴る蹴るをしてくれた奴らと同じ種類の人間だからだ。それにあの不良漫画のたまり場のような場所で演奏が楽しめるとも思えなかった。

「だったら俺がお金を全部出すからさ、とにかく一度スタジオで音を合わせてみようよ」

 その折衷案にコスモは折れた。

 彼女は唯一の自前セットであるスネアを、僕は借りたまま、ほとんど自分の物のようにしてしまっているブラッキーとマルチ・エフェクターを持ち、電車とバスを乗り継いで横須賀へと向かった(当時まだあのブラッキーの由来をきちんと知らされていなかった僕は、「高校になったらバイトして自分で稼ぐ、だからそのお金でブラッキーを譲って欲しい」、いつの日かコスモにそう申し出ようと思い始めていた。むろん僕に預けているのは、「彼」に売られる事を恐れているからだ、という話を忘れてはいなかった。そしてその理由は、恐らくは今は亡き兄の形見の品であるからであろう事にも薄々気づいていた。なぜならブラッキーは中学生が所有できるような安物ではなかったからである。しかし酒欲しさに売り払われてしまうのと、曲がりなりにもきちんと弾きこなしている者から、「自分の物として所有したい、だから譲って欲しい」と言われるのとでは意味合いはまるきり違う、きっとコスモは認可してくれるだろうと信じていた。僕はそれぐらい、ブラッキーに心底惚れ込んでいたのだ)。そして貸し切りにしたスタジオでレッドツェッペリンとクリームを演奏し楽しいひと時を過ごした。むろんギターとドラム、…そして僕の下手くそなボーカルだけしかいなかったが、他人に迷惑をかける心配のないグラスウールの密室で大音量をブチかますのは本当に気持ちが良かった。しかしコスモは心の奥で、フツフツ不満を押し殺していたようだった。帰りの電車の中で再びその事を口にし出したのだ。

「毅ン所ならタダなのに」

 お金を出したのは俺じゃないか、…喉元にきた言葉を、ギリギリの所で呑み込んだ。ブラッキーを借りたままの身分で、お金の事をとやかくは言えないと思ったからであった。先ほどの大音量に満足し、せっかくいい気分でいたのに、すっかり嫌になってしまった。

「もう、毅さんの事を言うのはやめてくれないか?」

 親族を冷たくあしらわれ、彼女は彼女で不快に思ったのだろう、その事が発端となり、月曜日、学校で喧嘩をしてしまった。

 授業中、コスモから二次方程式について質問を受けた時の事だった。

「自分でやりなよ」

 それは先週一度教えた内容だった。僕としては、その言葉が意味するとおり「自分でやりなよ」と言いたかっただけなのだが、短気な彼女は棘を感じたらしく、いきなり声を上げて怒り出した。

「お前まだ毅の事を言ってんのかよ!?」

 コスモが僕以外の男の名を口にした事に、スキャンダルの香りを感じ取ったのであろうクラスメイト達から、視線の集中砲火をいっせいに浴びた。まさか毅さんの名前が出てくるだなんて夢にも思っていなかった事も手伝い、

「違うよ! 自分でやりなよって言ってるだけだ!」

 つい僕も大きな声を出してしまった。すると先生から、

「そこ、静かにしなさい」

 と注意を受けた。不快な感情を抱えたまま、しばらく黙って授業を受けた。するとコスモが再び同じ事を質問してきた。

「わざとやってんの?」

 思わず睨んでしまった。すると、

「ふざけンなっ!」

 彼女は更に激しく声を荒げた。結果、今度は「二人とも、後で職員室に来なさい」と言われてしまった。

 授業が終わると、

「さっきの騒ぎは何が原因だったの?」

 さっそく職員室にて事情聴取を受けた。

「分からない所を教えてって言っただけなのにいきなり怒られたからイラついてつい…」

「怒ってないよ。先週教えた事を質問するな、自分でやりなよって言いたかっただけだ」

 僕が反駁すると、先生は「待て待て待て待て」と、両方の手の平を大きく押し広げた。

「先週教えたって話は恐らく本当なんだろう。しかし人間忘れる事もある。そうだろ?」

 確かにそれはそのとおりだ。仕方なく首肯した。

「で、確か"タケシ"って言ってたな。その人は一体誰だ?」

「従兄弟」

 すかさずコスモはそう答えた。そして、お金を払ってスタジオを貸りるだなんて無駄遣いだ、ガレージへ行けばタダだったと主張し出した。しかしその言い分には、僕が全額負担したという事実や、僕にとって毅さんが一体何者なのかという真実がいっさい含まれていない。大いに不満だった。ところがコスモの言い分が終わるなり、先生はこう言い出したのだ。

「そりゃ清水が悪いよ。親戚の所でタダで演れるならそこへ行けばいい。美樹本が言うように無駄遣いだ。勉強だって、分かるまで教えてあげたらいいじゃない」

「でも!」

 僕にも言い分があった。しかし先生は話を遮ってこう言いだした。

「とにかく授業中に大声で喧嘩するな。もしまたやったらお前たちを隣には座らせないからな」

 ひどい、何も分かってないじゃん、こっちの言い分を聞きもしないでそれはないだろう、…僕は強く思った。コスモがもっとも苦手としていたのは数学だった。そして、僕らが席をとなり合わせにして以来、コスモの成績が目に見えて良くなっているのは、担任かつ数学担当の彼が一番良く知っているはず。にも関わらず、「もしまたやったら隣には座らせない」はあんまりである。だいたい毅さんのようなタイプの生徒は、アンタ達を一番手こずらせている類の人種じゃないか。…しかしコスモの前でそこまで強く言及するのはさすがに躊躇われた。

 僕らはひと言も交わさずに教室へ戻った。次の授業は音楽だった。時間が迫っていたので教科書を持って慌てて音楽室へと向かう。すると黒板に相合傘が書いてあった。


 タケシ

 オトコオンナ


 普段は温厚な僕も、それを見た時は流石に頭に血が上り、あやうく床に教科書を叩きつけてしまいそうになった。

 それから三日ほど、僕らは一切口を聞かなくなってしまった。コスモはうちに勉強をしに来なくなった。すると母が「コスモちゃんは?」と心配しだした。思わず僕は「うるさい!」と怒鳴ってしまった。一緒にM高へ行きたい、コスモの成績を良くしてあげたい、…本心ではそう思っていた。しかしお金を払った僕の方から謝るだなんてとてもじゃないが承服できる話ではなく、僕の気持ちは荒みに荒んでいた。

 転機はその週二度目の音楽の授業の後、突如起きた。星野という名の女教師から、「二人だけちょっと残って」と呼び止められたのだ。音大を出たばかりの彼女は、当時売り出されていたアイドルに非常に良く似ていたため、男子の間でたいへん人気があった。また身長が低い事から、「同じ制服を着て私たちの間に紛れたら分からないんじゃない?」と、女子たちからも支持されていた。

「担任から聞いたけど、あなたたち音楽スタジオの事が原因で授業中に喧嘩したって本当?」

 ピアノ用の椅子に腰をかけて脚を組み、背もたれに肘を立てて頬杖をつくと、穏やかな声で彼女は質問してきた。

「…うん」

 タイトスカートから覗く柔らかそうな太ももには、まだコスモにはない大人の女性オンナならではの濃厚なる色気が感じられた。

「スタジオでは何を演ったの?」

 まだ若い星野先生は、意味深な笑みを浮かべながら更なる質問を投げかけてきた。

「レッペリとクリーム」

 僕が答えると、

「まあすごい!」

 彼女はいかにも音楽の先生らしい朗らかな声を出した。すると長くてきれいな黒髪が、肩からサラリと流れ落ち、そこからとても良い匂いが漂ってきた。コスモから伝え聞いた話によると、星野先生が使っているのと同じシャンプーが、女子の間で密かに流行しているとの事だった。その割には女子たちの髪からは同じ香りを感じなかったのだが、それはやはり星野先生だけが持つ、大人の女の色気によるところが非常に大きかったからなのだろう。

「まだ若いのに渋い趣味してるのね。草創期の頃のロック私も好きよ。今の時代、音楽の授業はクラシックばっかりじゃ駄目だと常々思ってるの…」

 ふと、壁に飾ってあるベートーベンの肖像画を見てしまった。気難しそうな彼の顔が、その一言で更に気難しくなっているように感じられた。ところで星野先生は、どうして僕らを呼び止めたのだろう? なんだか無性にブラッキーのアクティヴ・ミッド・ブースターを全開にして第九のメロディーを演奏したくなってきた。

「…ちなみにね、私の彼氏もクリームとデレク・アンド・ザ・ドミノスをよく聴いてるのよ」

「クラプトン好きなの?」

 プッとコスモが吹きだした。…そういうお前だってジョン・ボーナムを贔屓にしてるじゃないか。

「そ。彼氏もクラプトン好きなのよ。ところでこの前の授業の時、黒板に落書きがあったわよね。あの意味が知りたくてあなた達の担任に質問したの…」

 他人の恋愛ごとに対する女の嗅覚は非常に鋭い。そして、オトコオンナなんて言葉に該当する人物はこのクラスに一人しかいない。

「…それで授業中の喧嘩の話を聞いたんだけど、どうしてそうなったのか詳しく聞かせてもらえる?」

 コスモはすかさず、「無駄遣いだ、毅の所ならタダだった」と主張し出した。僕も僕で、「嫌らしいけどお金は全部俺が出した。それに、毅さんの所へは行きたくない」と、この前担任が聞いてくれなかった話を口にした。

「そのタケシさんの所へはどうして行きたくないの?」

 下手にあれこれ話したら、コスモがまた怒り出すかも知れない。それに自分達の実情を必要以上に話したくもない。そう思い、僕は言い澱んだ。

「言いたくないなら言わなくていいのよ。とにかく、付き合ってたら喧嘩の一つや…」

「付き合ってない!」

「付き合ってない!」

 僕らは同時に大声を出した。テノールの僕とアルトのコスモ。はからずも完璧にハモってしまった。互いに顔を見合わせた後、僕らは「フンッ!」とそっぽを向いた。そんな僕らが、大人のひとには可愛く見えて仕方なかったのだろう、

「分かった分かった。付き合ってないのね…」

 軽くいなされてしまった。

「…そうだとしても授業中に大声で喧嘩するのは良くない。そうよね?」

 それは全くそのとおりである。首肯するより他なかった。

「ところで楽器は何をやってるの?」

「ギター」

「ドラム」

「なるほどね。第二音楽室ここは吹奏楽部も使うし、あなたたちは受験生だから毎日ってわけにはいかないけど、事前に言ってくれるんなら週に一回くらい使っていいわよ。ただし、もう二度と授業中に喧嘩しない事、それと、今ここで仲直りする事。この二つ、約束できる?」

「約束してどうなるの?」

 僕が訊ねると、

「まずは約束しなさい。いい? できる?」

 先生は強い口調で繰り返した。ここは音楽室だ、もしかしたら期待できる何かがあるのかも知れない。思わずコスモと目配せしてしまった。

「はい。します!」

「はい。します!」

 今度は完璧なユニゾンになった。

 僕らは音楽室の裏部屋へと案内された。先生はポケットから鍵を出すと、その更に奥にある倉庫のドアを開けた。そんな倉庫があっただなんて、転校生だった僕はもちろん、コスモですら知らなかったと後から聞かされた。中には埃を被ったタマのワンバスドラムと、ヤマハのかなり大きなプリメインアンプが置いてあった。どちらもかなりの年季物だったが、まだまだ使えるのは明白だった。お金のない中学生にとって、あるだけで充分有り難い代物に、僕らは思わず顔を見合わせニンマリとしてしまった。

「灯台下暗しとはまさにこの事だね」

 僕らは共に笑いあった。そして星野先生にお礼を言い、二人で一緒に教室へ戻った。

「俺、本当は勉強しに来て欲しかったんだ。それを馬鹿みたいに意地張って言い出せなくて、ごめん」

「こっちこそごめんね。あたしも本当は不安だったんだ。M高はユータだけが頼りだから。ありがとう」

 コスモは「彼」から、塾へ行く事を反対されていた。「学校だけで事足りる」と、聞く耳を持たなかったのだそうだ。あるいは教育費より酒代の方が大事だったのだろうか。皮肉にも、それがかえって僕らの絆をよりいっそう強くする一助ともなっていた。

「それにしても、ドラムがあるなら山の休憩所で練習する必要なかったな」

「でもあたしがあそこで練習してなかったら、あたし達きっと付き合ってなかった」

 さらりと口にしたこの一言には、実は非常に重大な意味が含まれていた事を、その時まだ僕は全く知らずにいたのだった。ともあれ、こうして倦怠期を乗り越えた僕らの絆は、いよいよ強く親密に結ばれたのであった。

 卒業式の直前に、突如起きたあの事件…。

 そして突然訪れた、痛いぐらいに悲劇的なSay goodbye…。

 …まさか僕らにあんな最後が来ようなどと、互いに想像すらしていなかったのだ。



     ♩



 やがて夏休みがやって来た。

 ヘルマン・ヘッセの小説、「車輪の下」の主人公・ハンスのように、青っ白い顔をしてまで受験勉強なんて真っ平御免とばかりに、去年は行けなかった花火大会を見に行こうと僕らは話し合った。

 コスモは例の、水色の生地にピンク色の風鈴が描かれた浴衣を持って僕の家へやって来た。

「おばさん、帯を締めるの手伝って下さい! ママにも頼んだんだけど"私には無理"って言われちゃったんです。去年は鶴岡八幡宮のお店でただやって貰っただけだったから、まさか自分でやるのがこんなに大変だったなんて夢にも思ってなくて」

 母がその申し出を快諾したのは言うまでもなく、作業は直ちに開始された。鏡の前で息を合わせて浴衣を着付ける二人の姿は、やはり母と娘のようだった。そして何より、浴衣姿のコスモはもう最高に可愛かった。僕も母も、そんなコスモを満面の笑みでもってして眺めた。

 母に見送られながら家を出た後、僕らは花火大会の会場である一色海岸行きのバスが来るバス停へと向かった。昨年平手を決めてくれた現場でもあるバス停で、昨年平手を決めてくれた僕の左の頬に、

「去年はホント、ごめんね」

 コスモは恥ずかしそうにそう呟いてから軽くキスをしてれた。バスはすぐにやって来た。会場に着いた後、僕らは屋台で綿菓子を一つだけ買った。そして「世界のビーチ百選」にも選出されている一色海岸のそれはそれは美しい砂浜の上にレジャーシートを敷いて座り、綿菓子の絡みついた割り箸を二人で一緒に持ちながら食べた。お金がなかったからではない、

「片方ずつのイヤフォンで一緒に音楽聴いてるみたいで楽しいじゃ〜ん!」

 コスモがそう言って聞かなかったからである。

 やがて花火が始まった。それまで僕は夜空に咲き開く花火しか見た事がなかった、…つまり海面に乱反射する花火を観るのはこれが初めてだったのだ。最高に綺麗だった。特に船から海に投げ込まれる水中花火の美しい閃光と迫力に満ちた炸裂音には、胸が熱くなるような激しい感動を覚えた。

 ところが、である。花火が終わり帰ろうとすると、嫌なものを立て続けに目撃してしまったのだった、…酔っ払いである。馬鹿騒ぎをしている若い男女。道端にサイケデリックな色彩のゲロをまき散らしうずくまっている人。制服が似合う恋をした事のない者のやっかみだったのだろうか、

「ガキが恋愛の真似ごとしてやがる!」

 僕らを指さし大声で嗤う中年の男もいた。当時の僕らの関係を、何も知らない赤の他人から恋愛の真似ごとだなどと決めつけられた事に激しく憤った僕は、思わずその酔っ払いを睨んでしまった。するとその中年の酔っ払いは、

「ンだコラァ! このクソガキゃあ!」

 と激しい怒声を出した。自分が殴られたり怪我したりする分には構わない、しかしコスモにもしもの事があったら、…と、僕は違う意味で怖くなってしまった。相手にしない方がいい、そう判断した僕は速やかにその酔っ払いから目を逸らし、コスモの手を引いてその場から離脱しようと試みた。ところがその一連の動作が彼を余計に刺激してしまったようであった。

「なんだテメェその態度はァ!」

 その酔っ払いは人ゴミを掻き分けながら僕らの方へと詰め寄ってきたのである。するとその場に居合わせた、日焼けした素肌に白いTシャツを羽織ったサーファー風の若い男が、

「おいオッサン! いい歳して何やってんだよ!」

 と言いながら僕らに背を向け立ち塞がり、真ん中で分けた綺麗な黒髪を揺らしながら酔っ払いの肩を押し返した。すると逆上した酔っ払いがサーファー風の男へと襲いかかった。ところがその真っサラな黒髪をツーブロックにカットした若い男は、酔っ払いの小指だけを掴むやいなや、鮮やかなる所作で背後へ回り込んだ後、斜め上に腕を捻って関節をめてみせたのであった。

「大丈夫?」

 彼の恋人と思われるやや化粧の濃い女性が、小さな声で僕らに話しかけてきた。

「ここはアイツに任せて早く逃げな」

「ありがとうございます!」

 僕らはすぐにその場を走り去り、人ゴミの中に紛れバス停へと向かった。

「あのお兄さん、カッコ良かったね」

 一見チャラそうにも見えるサーファー風の若者が、酔っ払いの中年から見ず知らずの僕らを護るために身体を張ってくれたのだ。争いごとにはまるで興味のない僕ではあったが、この時ばかりは例外であった。

「超カッコ良かった! やっぱ男はああでないとね!」

 コスモが僕に腕っぷしの強さなど期待していない事ぐらいとうの昔から気づいていた。が、分かってはいても、逃げるより他にコスモを守る手段がなかった僕のプライドはその一言で著しく傷ついた。

 酔っ払いからじゅうぶん距離を置いたのを確かめてから、

「いま目の前にある花火だけを純粋に楽しめばいいだろうに、なんでわざわざ酒なんかを飲むのかな? そもそも今みたいにトラブルの元になるって分かり切ってる物が、どうしてコンビニやなんかで簡単に手に入っちゃうのかな?」

 僕は率直な疑問を口に出した。

「分かんないよ…」

 コスモは酷く悲しそうな声でそう答えた。

「…分かんないけど、でも、酒って本当に嫌だね」

 …むろん当時の僕にもその答えは分からずじまいだった。しかし今の僕になら分かる。その答えは至って簡単である。飲酒は良い事だと、社会全体が間違った考えに洗脳されているからなのだ。証拠は「お酒は二十歳になってから」という常套句だ。これではまるで「二十歳を過ぎた者には飲酒する権利が自動的に認可される」と言っているようではないか、…もう少し正確に言うなら、飲酒を正当化しているのが見え見えではないか。酒の正体は毒だ、そして毒に適量はない、たとえ少量でも心身を蝕む薬物であり麻薬なのだ。事実この日の出来事がそうであったように、人々を日常的に傷つけているではないか!

 親がアルコール依存症だと子どももアルコール依存症になりやすい、これは統計的に見ても明らかである。体質や個人差はあるにせよ、親との関係によって情緒的な傷を受けながら育った者は、自然と周囲の人間関係にも過敏になってしまう。その疲弊した心を紛らわせるのに、酒は脳内麻薬ドーパミンを手軽にかつ強制的に抽出する事ができるという点においてだけは最適なのだ。これが薄々「毒」だと気づいているのにも関わらず、気づいていないふりをして飲酒してしまう本当の理由である。そして、気づいていないふりをするためにはどうしても必要だからこそ、一見さも正しそうに聞こえる「お酒は二十歳になってから」という常套句で社会全体を洗脳し、飲酒を正当化しているのだ。事実、僕は教授からこのような話を聞かせてもらった事があった。

「実は私の母親もアルコール依存症だったんだ。そしてそれが原因で、子どもへの食事は疎かにするくせに、自分の酒のツマミにはいつも決まって刺身とか一度聞いただけでは覚えられないような難しい名前のチーズとかいったいい物を食べようとしてたんだよ。その事を中学の時先生に愚痴ったんだ。そしたらその先生にこう言われたんだよ。"お酒を飲む人ってそうなんだよ"ってね。そう聞かされて中学の頃の私は非常に強い疑問を感じたんだ。『それではまるで傷ついている子どもの方が悪いみたいじゃないか。なぜ酒を飲まない子どもが酒を飲む大人の都合に合わせなきゃならないのだろう。煙草を喫わない人が、喫う人の都合に合わせて副流煙を吸わされたり灰皿を掃除しなきゃならないなんておかしい、喫いたきゃ喫煙所で喫うべきだし、灰皿の掃除にしても同様だ、酒もそれと同じようになるべきなんじゃないだろうか?』ってね。それが依存症について学ぼうと思ったきっかけだったんだ。この疑問に対する答えを見つけたのは大学に入ってからだったよ。『ああそうか、むしろ逆にアルコールに対する社会の認識の方が歪んでいるからこそ、"お酒を飲む人ってそうなんだよ"なんて話になるのか』ってね。ええ? 私の母親? 死んだよ、肝臓を悪くしてアルコール病棟でね。それを聞いても心が1ミリも動かなかったけどな」

 つり革を待ち、バスの車窓を見つめる浴衣姿のコスモの横顔には、陰鬱なかげがはっきりと見てとれた。そんなコスモの表情が、僕にはものすごくひどく老成して見えた。



 夏休みにも関わらず、僕らは週に一度学校へと通った。「みんなには内緒ね」と、星野先生から彼氏の伊藤さんを紹介された事がきっかけだった。アイドル似の彼女に相応しい、眉目秀麗な人物だった。

「中学生にしちゃあずいぶんギターが上手いと聞いててさ、前から会ってみたかったんだ…」

 伊藤さんから握手を求められた僕は素直に応じた。

「…ところで星野先生コイツからクラプトン好きのストラト使いだと聞いてはいたんだけどさ、まさかそれがブラッキーだったとはね。中学生にしちゃまたずいぶんといいギターを持ってるんだね。まあ、何はともあれ、一つ聴かせてみてくれないか…」

 楽器屋さんでのギターの講師を生業としている伊藤さんに促され、僕はコスモのドラムで、「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」「ホワイト・ルーム」、そして「レイラ」と「ベル・ボトム・ブルース」のギターと唄を披露した。すると彼はすっかり大喜びし出した。

「…独学で覚えた若い子が短期間でどれだけ伸びるか興味がある」

 伊藤さんはそう言い出した。そして特別にレッスンをしてもらう事になったのだ、…それも、なんと、無料で! それ以来、第二音楽室へ行く事がすっかり僕らの習慣になったのである。

 正直、僕のギターはコスモのドラムよりも練度が低いという自覚が以前からあった。小学生の頃からやっていた彼女と比べれば、キャリアの違いは悔しいぐらいに明確だったのだ。また、コスモと比較する以前の問題として、その頃僕は自分のギターの上達に壁を感じ、伸び悩んでもいた。そんな風に少しばかり焦りを感じていた僕にとって、明解な理論に裏づけされた伊藤さんの運指は、まさに目から鱗だった。特に、伊藤さんが聴かせてくれたジミ・ヘンドリクスの名曲、「ブードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」の巧みさには舌を巻いた。しかも、夏休み最後のレッスンが終わると、ジムダンロップのワウペダルまでプレゼントされてしまったのである。「お礼をしなくちゃならないのは僕の方なのに」、と、涙が出そうにすらなった。



 もちろん勉強も怠らなかった。

 夏休みが始まる直前、

「コスモの進学に寄り添いたい。だから本来の成績よりも下のM高へ行く。コスモの成績が悪いのは本人のせいじゃない、コスモの父親が悪いからなんだって事を証明したいんだ」

 きっぱり両親に打ち明けた。確かに僕も、当初は私立の進学校へ行く事を望んでいた。その事もあって父から猛反対された。

「だからって優太までM高へ行く必要はないだろう。お前に何のメリットがあると言うんだ」

 その言い分はもっともだった。しかし僕は譲らなかった。

「でも、実際二人で一緒に勉強し始めてからコスモの成績は良くなってる、今更やめられない、それじゃコスモを裏切る事にもなる。コスモとは高校を卒業するまで一緒ならいい。大学には必ず行くと約束する。だからお願い、高校だけは好きにさせて」

 父は半ば呆れたような顔をしたが、

「もういい、好きにしろ」

 最終的には受け入れてくれた。

 僕はその年、塾の夏期講習をキャンセルした。コツコツ勉強してさえいれば、M高になら必ず受かるという自信があったからだ。そしてその分の時間を、コスモと二人、僕の部屋で自習に励む事へと充てた。

 そんなある日。バレンタインデーに誓い合って以来、硬いフローリングの上に座布団を敷いて勉強し続けてきたコスモを、恐らく母は以前から、ずっと不憫に思っていたのだろう。二人並んで勉強する事ができるワイドデスクを新聞のチラシで見るなり、

「夏期講習を辞めた分の浮いたお金で、いっそ机を買い換えちゃおっか!」

 唐突にかつ楽しげに言い出した。次の日僕らは父の愛車で家具の量販店へと向かった。そして二人でワイドデスクの使い勝手を確かめた。そんな僕らを、店員たちはみな怪訝そうな目で見ていた。一人だけやや毛色の違うコスモを目にし、「変わった家族だ」と思ったに相違ない。

 レジで会計を済ませると、

「おじさん、本当にありがとうございます」

 コスモはペコリとお辞儀をした。すると心なしか父の頬は赤くなった。そんな父の半袖から覗く左腕には、ギターを弾けなくなった原因になったという古傷が、縫い痕とともに痛々しく刻み込まれていた。

 帰宅後、さっそく父と一緒に電動ドライバーを用いてワイドデスクを組み立てた。イームズのお洒落な椅子(僕は黒、そしてコスモは水色を選んだ)と、小学生の頃から使い続けてきたなんの変哲もない勉強机からモダンなデザインのワイドデスクに置き据えられた僕の部屋は、まるでインテリア雑誌に掲載されている写真のようにスタイリッシュになった。僕は、たいへん満足であった。

 僕と父がワイドデスクを組み立てている間に、母とコスモは昼食を用意してくれていた。四人でそれを食べ終えるやいなや、僕らはただちに受験勉強を再開した。ついでに買ってもらった冷風機は、イームズに腰かける僕らの間をせっせと往復し、汗ばむ背中へ心地良い涼を届けてくれた。

 次の日の朝、コスモの母が礼を言いにわざわざ我が家へやって来た(しかし「彼」は来なかった)。

「わざわざ机を買い替えて頂いたそうで…。本当にありがとうございます」

「いえ、いいんですよ。若い子がやる気になってるのに、私たち大人がそれを後押ししてあげないでどうするんですか。どうかお気になさらないでください」

 母は鷹揚にそう答えた。

「そう言って頂いて本当に助かります。まさか娘がやる気になってくれるだなんて夢にも思っていませんでした。感謝してもしきれません。その上毎日のようにお昼までご馳走になって。本当にありがとうございます」

 コスモの母はもう一度、いかにも日本的な仕草で深々と頭を下げ、お札が入っているのであろう封筒を差し出した。母は最初それを拒んだが、きっと彼女のプライドを慮ったのであろう、最終的にはそれを受け入れた。

 思わぬ新兵器の登場によって、受験勉強の効率は飛躍的に向上した。二学期が始まる頃には、じゅうぶんな勝算が期待できるだけの学力が彼女につき始めた。こんなにも充実した夏休みは、後にも先にもこの年だけだったと断言してもいい。コスモの弁を借りるなら、化学反応ケミストリーが起きた、至りつくせりの夏だったのだ!



     ♩



 やがて二学期…。

 中間テストでコスモはいきなり、まるで別人に生まれ変わったかのような高得点ハイスコアを軽々と叩き出した。しかし本人は納得がいかないようであった、結果にではなく、態度に。例によって細工ズルで手に入れた隣の席へ戻って来るなり、ぶつぶつ文句を言い始めた。

「ムカつく。先公に"カンニングしたんじゃないだろうな"って言われた。ビンタしてやれば良かった」

「やめとけ、内申に響くぞ。それに、お前のビンタはマジで痛い。洒落にならない」

 コスモは苦笑いしながら舌を出した。

 期末テストでは更なる高得点を叩き出した。中には僕が解答を誤り、コスモが正解している箇所さえあった。うかうかしていられないと心底思った。授業中、教えてくれと話しかけて来なくなってきたのもその頃からである。受験当日インフルエンザにでもならない限り、まず間違いなく受かると確信を深めた。しかし油断は禁物だ。気合いを入れ直す意味も込め、初詣には再び森戸神社を訪れた。

「ねえ、結婚式ってここでもできるのかな?」

 お詣りを済ませるやいなや、コスモは唐突にそう言い出した。繋いだ手は、僕が着ているN3ーBのポケットの中に入っていた。みそぎ橋を渡って砂浜へ向かうと、痛いくらいに冷たい風が、海から強く吹き荒んできた。

「できるはずだよ」

 初めて二人でここへ来た時、「新婚旅行の予定を立ててるみたい」と、コスモが笑った事をふと思い出した。

「海が見える神社で挙式って素敵じゃない? まるで映画みたい」

「いつかそんな風に結婚できたら素敵だよね。そのためにも、まずは受験を頑張ろう…」

 その頃にはもう、未来を真剣に意識し始めるほど、僕らの絆は深く強くなっていた。

「…でももし本当に結婚するなら、コスモの親父さんの問題は俺にとっても他人事じゃなくなってくるんだよな」

 まだ幼かった僕にも、「彼」には何らかの医療が必要な事ぐらいはっきりと分かっていた。なお、将来はそういった職業に就こうかと初めて思ったのはまさにこの時でもあった。

 家族の問題について言及すると、ここぞとばかりにコスモはニヤニヤ意地の悪そうな笑顔を浮かべてこう言い出した。

「毅から逃げる事だってできなくなるよ? 文化祭に来なかった事、残念がってたんだから」

 …毅さんの事が原因で、再び喧嘩した時の事を思い出した。十月、空がやけに高く綺麗な日曜の朝の出来事だった。いつものように勉強しに来たコスモが、部屋のドアを開けるなり、

「毅が"高校最後の文化祭にユータを招待したい"って」

 と言い出した事がきっかけだった。

「悪いがそれだけは勘弁してくれ。だいたいなんで毅さんが俺を招待したいと言うのか理由が分からない」

「じゃあ理由を聞いとくよ」

「別に聞かなくていいよ。とにかく、毅さんみたいなタイプの人苦手なんだ。あの高校だって、まるで動物園みたいだと思って辟易してたんだから」

「動物園みたいだなんて失礼だよ!」

「知り合って間もない頃、痴漢だって誤解された話をしたのは覚えてるよね。クラスでそう言って騒いでた悪ガキと毅さんは同じようなタイプの人間だ」

「そんな簡単に一緒くたにしないで! あたしも彼氏として改めてユータを紹介したいの!」

 しつこく食い下がるコスモに、昔の話を思わず蒸し返してしまった。

「あれ? 確か去年の文化祭の時、"彼氏じゃね〜っ"って言わなかったっけ?」

 思えば僕も小さな男である。まだ来たばかりだというのに、コスモは怒って階段を駆け下りてしまった。するとすぐ、寝間着姿の父が頭を掻きながら隣の寝室からやって来た。ドアが開いていたため、喧嘩の声は筒抜けだったのだ。

「コスモちゃんの事を証明したいのなら、優太から謝れ。女と本気で付き合うなら、負けるが勝ちって事を学んどけ。謝る方が偉いんだ…」

 父は少しだけ眠そうな顔をしながら、コードレスの電話を差し出してきた。

「…もし文化祭が嫌なら、今すぐは無理だけど、受け入れられるように努力すると言うんだ。今一番大事な事は何なのか、分かってるならできるはずだ」

 電話をすると彼女はすぐに戻ってきた…。

 …その時の事を思い出しながら僕は言った。

「前にも言ったとおり、少しずつ受け入れられるように努力するよ。俺ももう毅さんの事で喧嘩したくない、というより、時間を無駄にしたくない。けどさ、すぐに結婚するわけじゃないんだし、そもそも結婚するって決まったわけじゃないんだ。だからせめて受験が終わるまでは時間をくれよ」

「分かった。でもM高へ通うようになったら、自然と毅の家に寄る機会も増えるようになると思うの。だから時間をくれだなんて言って問題を先延ばしにするような真似だけはやめてね。今のユータが毅の事をちゃんと理解しているとは思えないんだ」

 突然、コスモがこれだけ毅さんについて言及するのはそれだけの理由があるからなのだ、という事に僕は気づいた。クラスの一部にコスモを良く思わない者がいるが、それはコスモの悪い面ばかりを見て、良い面を知ろうとしないからだ、それと同じ事を毅さんに対してやっているのではないだろうか、と。

 大人になるという事の意味を、冬の海を見ながら深く思った。



 そして3月…。

 ついに悲願は成就した。合格者の数字が書かれたボードの前で、感極まったコスモは涙を流して喜んだ。

 特筆すべき事実が一つあった。それまで正直、英語以外の点数は、僕の方が上になると思っていた。ところがコスモは、社会の点数も僅かながら上を行っていたのだ。無理やり稼ぎ出した成績で進学しても、その先の高校生活が続くという保証はどこにもない、むしろ逆に破綻する可能性さえ考えられる。つまり、いくら毅さんの家が近いからとはいえ、僕は無理な条件をコスモに強いていたのだ。しかしこれなら先の心配はない。むしろこれが彼女本来の学力だったのだ。そんな話をしながら帰路に着いた。

 結果を報告をするため、職員室へ向かった。コスモによると担任は、

「現実を見ろ。お前の成績でM高は無理だ」

 二者面談でそう言い放ったらしい。僕はコスモを励ました。

「いつか見返してやろうぜ。現実を見ていないのは先生の方だと教えてやるんだ!」

 …そう、ついにその日がやって来たのだ!

「美樹本、お前はこの一年間本当に良く頑張った。おめでとう!」

 僕らは勝利した。最高にいい気分だった。親のせいで不利益を被っているだけで、コスモはやればできるのだという事がこれで証明されたのだ。

 世界は変えられる、改めて僕は思った。



 玄関で靴に履き替え、校舎を後にした。二人きりになるやいなや、小さな声でコスモは言い出した。

「ちょうど今、家に親いないんだ。あたしならもう構わないから、うちに来て」

 彼女の表情は非常に大人びて見えた。コスモの家に上がるのは、もちろんこの日が初めてだった、…そして、最後でもあった。

 僕を部屋に案内すると、

「ちょっと待ってて」

 小さな声で言い残し、コスモはいったん部屋を出て行った。

 ふと、一枚の写真を視野に捉えた。背景に、毅さんの家のガレージが映っている写真だった。ドラムスティックをウサギの耳に見立て、可愛らしいポーズを取る小学生の頃のコスモが中心に写っていた。コスモの左側には、ベースギターを持ち、見るからにヤンチャそうな笑みを浮かべる中学時代の毅さん、そして右には、そこはかとなく薄命そうに感じられる美青年が、ブラッキーを愛おしそうに抱きしめている姿が見えた。コスモにとても良く似た中性的フェミニンな顔には、涼しげな微笑が浮かんでいた。

「あたしのお兄ちゃんなんだ…」

 振り向くと、その唇には濃い桜色の口紅ルージュが引いてあった。

「…病気で急に死んじゃったの」

「うん、きっとそうなんじゃないかって、ずっと前から思ってた」

 …ボーズの高価なヘッドフォン。

 …最新型のウォークマン。

 …男のような字が書かれたカセット。

 …膨大な量のCD。

 …時折みせる妹のような仕草。

 …そして何よりブラッキー。

 コスモの身辺まわりには、そうでなければ説明のつかない物があまりにもあふれ過ぎていた。

「ギターが上手で、隠し事が下手くそで、優しくて真面目で、本当の意味での勇気があって、何から何まで誰かさんと笑っちゃうぐらい瓜二つだった…」

 二人きりの室内には、カーテンの隙間から細い光が差し込んでいた。宙に浮いている小さな埃が、その光をキラキラと反射しているのが見えた。

「…お兄ちゃんが死んだ日も、親父は酒を飲んでた。休みと言えば酒ばかり、病院へ見舞いに行った事もなかった。親父が飲んで暴れても、守ってくれる人はもう家に居ない、それならいっそ後を追って自分も死のう、…ちょうどそう思ってた頃だったの、初めてユータを見たのは。引っ越ししてるユータを見て、あの人お兄ちゃんと雰囲気がすごくよく似てる、仲良くなれるかも知れない、だからあともう少しだけ死ぬのを待ってみよう、…あたしはそう思った。そしたらあの山の休憩所で知り合った。その瞬間、友達になれるチャンスかもって馬鹿みたいに浮かれちゃって、居ても立ってもいられなくなった。それがあの日ユータの家に押しかけた本当の理由だったんだ。あの時、あたしをウルサイ女だなって思ったでしょ?」

「そんな事もあったね」

 僕の目からホロリと一粒涙が落ちた。

「最初はお兄ちゃんの事を話すつもりなかったんだ。軽々しく言えるような事じゃないもん。形見のブラッキーを預かってさえくれたら、それだけでもうじゅうぶん満足だった…」

 コスモは薬指で涙を拭うと、僕の顔を真正面から見つめて再び話し出した。

「…同い年の男なんて、最初は子どもみたいだと思ってた。でも、気づいたらあなたはあたしよりもずっと前を歩いてた。ううん、あたしが気づいてなかっただけで、そもそもあなたは最初から、前を歩いてたのかもね。友達になれたらなって思ってたのが、気づいたら、

 …こんなに大好きになってた!」

 薄暗い部屋の中で、桜の花びらが艶めかしく揺らめいた。

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