第3話

  第3章 スタンド・バイ・ミー



     Introduction


 I'm sorry about yesterday.

 It will never happen again.

 I won't do it even after I'm 20 years old.

 So please "STAND BY ME".



     ♩



 小石が窓にぶつかる音がした。僕はブラッキーを弾く手を休め窓を開けた。

「いま何時だと思ってんだよ」

「夜の11時だと思ってるからこうしてるの。ちょっと付き合って」

 手の中で小石を弄びながらコスモは言った。これで何度目だろう、酒が理由で何かが起きて家出してきたのは…。そして、夜に女一人では何かと物騒だからと、ボディーガードに僕を呼び出すのは…。しかし23時は遅すぎる。新記録は悪い意味で更新された。

「勘弁してよ。そろそろ寝っ、…待て! 分かった、分かったから投げるのだけはやめてくれ」

 野球少年のようにテイクバックする彼女を見て、慌てて前言を撤回した。コスモのコントロールは正確だ。針の穴すら通せるだろう。そしてこの暗闇で石をかわせる自信はない。僕は思った、「この女と結婚したら、きっと尻に敷かれるに違いない」、と。

 5月下旬の夜。外はまだ薄ら寒い。すっかり着古したエイトボールの黒いパーカーを羽織ってから、窓の下の柱を伝い降りた。そして一階でテレビを見ている父にバレないよう、細心の注意を払って庭の納屋に飛び乗った。さらにそこから道路へとダイブ。すっかり慣れたいつものやり方である。泥棒と勘違いされて通報されるかも知れない、常に思う事だった。都会ならじゅうぶんあり得る話だ。

 コスモが持参してきてくれたサンダルを履いてから二人で歩き始めると、コスモはおもむろに語り出した。

「うちってやっぱり何かおかしいよね。親父の奴が真面目に働いてるのは分かるんだ。酒さえ飲まなきゃそんなに悪い人間じゃないって事も。でも、酒でお金を浪費してたら、プラスマイナスゼロじゃん…」

 プラスマイナスゼロどころの話ではない。心を病んだ親に育てられた子どもが親になると、今度はその人が子どもを傷つけるようになるからだ。…何故そうなるのか。戦争から帰ってきた人が山にこもって暮らすようになったり、性暴力を受けた女性が売春したりするようになるのは、不幸にも心に傷を負ってしまった状況とそっくりな環境を、今度は自ら望む事で、乗り越えようとしているからだと心理学では考えられている。児童虐待が世代間で連鎖するのは、同じ力が働いているからなのだ。したがってゼロではない、親の負債を子どもに押し付けているのと同じなのだ。が、社会はこの問題に関してあまりにも無頓着すぎる。なぜなら社会はそもそも大人が作っているから。そう、社会全体が、自分たちにとっての「不都合な真実」に、気づかないよう、気づかないようにと子どもを洗脳しながら育てているのだ。そしてそういった育てられ方をされた子どもが親になると、親と同じ過ちを繰り返している事に無自覚なまま子どもを傷つけるようになってゆく…。

 こういった主張の正しさを裏づける証拠がある。「二十歳を過ぎたら自分の責任」という常套句だ。なぜ、まだ親になった事のない人間までこの台詞を口にするのだろう? この謎は、社会全体が親にとっての「不都合な真実」から目を背けているからなのだ、と考えると、絡まっていた糸がほぐれる様にみるみる解けてゆく。親の影響から逃れられる人間は一人としていない。そしてその影響は、人の人生を一生左右する。この「不都合な真実」に、薄々とはいえ、本当は皆気づいているのだ。気づいているからこそその「不都合な真実」から目を逸らそうと、「二十歳を過ぎたら自分の責任」という一見さも正しそうに感じられる魔法の言葉で、「全ては親の責任」という真実から逃避しているのだ。そしてそういった思考は子どもへと引き継がれ、誤った常識で社会全体が洗脳されてもゆくのだ。

 物事は、弱者の側からも見て公平に判断しなくては正確には理解できない。そして弱者である子ども側から見るなら、親行とはすなわち、自分で望んで結婚し、自分で望んでセックスし、自分で望んで出産し、自分で望んで子育てをするという事なのだ。にも関わらず、恩着せがましい親のなんと多い事なのだろう。子どもが年老いた親の面倒を見るのは当然の事であるかのような風潮があるが、僕はそれを必ずしも正しい事だとは考えていない。むしろ逆に、子どもに対して非道な事を繰り返し続けてきた親の面倒など見る必要はないとさえ考えている。それを、「なんて恩知らずな発想だ」と決めつけるのは間違いだ。恩知らずもへったくれもない、見捨てられても仕方がないような事をしでかし続けてきた以上、その報いを受けるのはむしろ当然と考えるべきなのだ。さんざんひどい事をし続けてきた親を、どうしてゆるして面倒を見てやらなければならないと言うのだろう? にも関わらず、年老いた親の面倒を見るのは当然の事だという風潮があるのは、それを「常識だ」という風に社会全体を洗脳しておかなければ見捨てられる可能性がある、といった自覚が実は親の側にあるからだ、という見方もできるのではないのであろうか? もし仮に(親子の問題に対し、デタラメな常識ばかりがはびこっているこの社会ではあるが、唯一の救いはそれと同時に言論の自由もまた保障されているという点が挙げられる)、「ひどい事をした親の老後の面倒など見なくてもよい」という価値観が社会に定着したと仮定しよう。自分の答案用紙に自分で勝手に赤を入れ、「自分は百点満点の良い親だ」と主張する者の比率は、ゼロにはならないにしても大幅に減るに違いない。親の答案用紙に赤を入れるのは、親自身ではなく、子ども。…もしそれが常識になれば、親は自身の親行を深く見つめ直さざるを得なくなる。そしてあくまでもその常識を受け入れる事ができないというのであれば、自身が子どもにしでかしてしまった罪の重さを間際の瞬間まで後悔するか、あるいはあくまで、「自分は正しい、悪いのは子どもの方だ」、と人のせいにし恨み続けながら孤独死するか、そのどちらかの未来が訪れるという事に相成るわけだ。

 むろん、当時の僕がそこまで深く考えていたわけではない、この時の僕には、ただただコスモの話を聞いてあげる事ぐらいしかしてあげられなかった。しかしそれが後の僕の思想や人格形成に大いなる影響を与えた事は事実だった。僕にとってコスモとの出逢いと別れは、それほどまでに重要な意味を持ってもいたのだ。

「…車の運転だって下手なはずがないのに、家族のために運転した事なんて一度もない、飲み足りないから買いに行くって飲酒運転だけはするくせにさ。それでもし事故を起こしたらどうするつもりなんだろう? クビになっちゃうよ…」

 飲酒している時はもちろん、していない時でさえ、正常な判断を失ってしまうのがアルコールの怖さなのだ。過度の飲酒は理性を司る前頭葉を萎縮させ、「酒が欲しい」という気持ちにブレーキをかける事ができなくなってしまうのである。結果、酒を手に入れるためになら手段を選ばなくなってしまうのだ。

「…それだけじゃない、なんか親父っていつもオシッコみたいな臭いがするし…」

 アルコールは、胃や腸で吸収されて血液中に取り込まれると、肝臓でアセトアルデヒドへと代謝される。すると身体は、毒物であるアセトアルデヒドを一刻も早く尿とともに体外へ排出させようと自動的に働いてしまうのだ。結果、本来の「出口」であるはずの尿をアセトアルデヒドを優先的に排出するために奪われてしまったアンモニアは、汗とともに体外へ排出されるようになる、…これが常飲する者からアンモニア臭がする科学的な理由である。今でこそ、大学で理論的な裏づけを学んでいるこの僕であるが、当時はそれを知る由もなかったため、思わず、「いくらなんでもそれは言い過ぎじゃない?」と反論してしまった。

「…いや、それが本当に臭うのよ。あたしが洗濯物をママに任せっきりにしたくないのは、親父のと一緒に洗濯機に入れられると自分の服までオシッコ臭くなりそうで嫌だからなの。だいたいママもママよ、あたしだったらあんな奴、とっくに離婚してる。あんな家には帰りたくない」

 過度な飲酒が原因で離散した家族の例は少なくない。当時まだ幼かった僕にも、さすがにそれぐらいは嫌というほど理解できていた。そしてコスモの母が離婚を選ぶという事は、即ちコスモと共にアメリカへ帰るという事を意味しているのも当然分かっていた。だからといって僕に何ができるというのだろう。できるのはせいぜい、無力な自分を呪う事ぐらいである。

 あてどなく、二人で夜の閑静な住宅街を練り歩いた。すると遠くから耳慣れぬ音が微かに聞こえてきた。

「ねえ、このガ〜ガ〜ガ〜ガ〜って音は一体何?」

「へ? カエルの鳴き声だけど?」

「ああ! これがあの有名な『カエルの歌』だったとはね。初めて聞いたよ」

「初めて聞いた、…かぁ、やっぱユータは都会育ちなんだね」

 そんな彼女の一言に、小さな声で笑い合った事も今は昔…。

 コスモの家の様子を伺ってみた。すっかり静まっているように見えた。

「落ち着いたみたいね、あたし帰る、ありがとう」

 そう、たとえ何がどうであったとしても、帰る場所はそこしかない、それが子どもの置かれている現実なのである。



     ♩



「もしもしユータ? 今あたし鎌倉駅にいるんだ…」

 公衆電話から連絡が来たのは、夏休みが始まってすぐの事だった。それはちょうど、「あの二人は付き合っている」という噂が一人歩きし始めていた頃でもあった。いくら家が近いからとはいえ、毎日のように二人で登・下校していたのだから、噂されるのも無理からぬ事であった。ともあれ必要最低限の応対で、僕はそれを否定し続けた。事実、当時はまだ本当に付き合ってはいなかった。

「…朝っぱらから酒飲んで寝てやがった親父の財布から一万円抜いてやったんだ! そんで江ノ電に乗って鎌倉へ遊びに来たってわけ。まず手始めに銭洗弁天で盗んだ一万円を清めて供養して…」

「供養?」

 金運のご利益を授かるとされている事で有名な、銭洗弁財天宇賀福神社の風景を思い浮かべながらそう尋ねた。むろん盗んだお金の一体何をどう「清めて供養」したのかを知りたくてそう尋ねたのだが、悪ふざけをする時の男の子のようなコスモの声に、僕の言葉はかき消されてしまった。

「…で、そのあと鶴岡八幡宮の近くにある着物のお店で水色の浴衣を買って着付けてもらったの。ピンク色の風鈴が描いてある可愛い浴衣なんだけど、どう? 今夜花火大会あるの知ってるでしょ。一緒に見に行かない?」 

 浴衣姿が素直に脳裏に浮かびあがった。その水色の浴衣は、ミルクティーのような色をした髪の毛に、きっとよく似合うだろうと思った。

 一色海岸行きの便が出ているバス停へ向かうと、待ち合わせていた自販機の前でコスモは一人、ひどく機嫌悪そうにしていた。話のとおり水色の生地の上にピンク色の風鈴が、大小様々にかつランダムに描かれていた。髪をオレンジ色の輪ゴムで束ねているのが、より一層可愛らしさを引き立てていて更にいと思った。しかしせっかく素敵な浴衣を着ているのに、怒っていては台無しだ、そう思いながら声をかけた。

「ごめん、ひょっとして待ち合わせの時間間違えた?」

「違うよ。ママに花火大会に行くからお小遣いちょうだいって言ったの。そしたらくれたんだけどさ、その後まるであと出しジャンケンみたいにこう言い出したのよ。"歯医者の予約キャンセルしなくちゃ"って。お金ないなら先に言ってくれれば良かったのよ。そうすりゃ無理にねだったりなんかしなかったのに」

 煙草の臭いがする事に、そのとき初めて気がついた。

「盗んだお金をとっとけば良かったんじゃない?」

 常識的にはそれが正しい、そう思った僕は思わず言ってしまった。

「そもそも盗むなんて良くないよ」

 正論は、火に注ぐ油と同じように働く事が時としてある。コスモは突如、烈火の如く怒り出した。

「お前みたいな恵まれてる奴に言われたくない!」

「ひがむなよ。うちだって色々あるって前にも…」

 突然、僕の頬にコスモの平手が飛んできた。普段からドラムでスナップを鍛えているだけあって、信じられないぐらい頬が痛く、否、熱くなった。

「あたし親父に洋服の一枚買ってもらった事がないのよ!」

 そう言い残すとコスモは涙目のまま走り去って行った。バス停に来た目的を突如喪失してしまった僕は、さりとて一人で花火を観に行く気になれるはずもなく、痛む頬に手を当てながら帰路を歩いた。カラスの鳴き声が、夕闇の空に泳ぐような波を描いて響き渡っていた。

 帰宅すると、

「花火は?」

 と母から聞かれた。

「うん、まあ…」

 曖昧に答えてごまかした。

「ひょっとしてコスモちゃんと何かあったの?」

「なんだっていいだろ!」

 平手打ちされただなんて口が裂けても言いたくなかった僕は、強い口調でそう言い放った後、母を無視してローカルテレビで花火の様子をぼんやりと眺めた。

 自宅の電話が鳴り出したのは、花火大会が終わった後の事だった。

「お前さ、つい今さっきバス停のすぐ近くで美樹本にビンタされてなかった?」

 クラスの友人からであった。

「いや、されてないけど…」

 平静を装い嘘を吐いた。

「ふ〜ん、それなら別にいいんだけどさ、あまりあの女とは関わるな。キレると超危ないって有名なんだ。小学校の時に男をビンタ一発で張り倒して怪我させたって伝説があるのを前にも話したろ? ついたあだ名はアリーナ姫。お前も知ってるだろ? ドラクエ4のアリーナだよ。事実、あれを見た時オレはこう思ったんだ、きっとこういうのを会心の一撃って言うんだろうなぁ、って。ほんとスゲェ音がしたんだから、ビッタ〜ン! ってな。いくら洋楽が好きでもよ、アイツとつるむのはほどほどにしとけ」

 部屋へ遊びに来た事がある友人たちは、あのブラッキーを僕の私物だと勝手に勘違いしていた。むろん春の一件を知らなかったからである。過去の経験上、話す必要のない情報だと判断していたのだ。特に何の説明もなければ、渋谷にいた頃から持っていたのだろうと推認するのも当然である。

 友人からの電話はそこで切れた。小学校の時の伝説。コスモならじゅうぶんあり得る話だ。家庭が病んでいれば情緒も不安定になる。

 受話器を置いた直後、再び呼び出し音が鳴り響いたので、僕はもう一度電話に出た。

「清水です」

「…」

「もしもし?」

 しばらく無言の状態が続いたかと思うと、通話は一方的に切られてしまった。その音は明らかに公衆電話からのものであった。…何故かしら、女性からのように感じられた、それも、大人ではなく僕と同じぐらいの年頃の…。

 受話器を置いて再び離れると、三度目のコールが鳴り響いた。

「さっきはごめんね。痛かったよね。本当にごめん。あたしが間違ってた。許して…」

 コスモだった。泣きながら赦しを乞うその声に、いっそガチャンと電話を切れば、どれだけせいせいするだろうかという思いが頭をよぎった。そんな気持ちを見抜いたのか、

「…お願い! あたしを嫌いにならないで!」

 コスモは激しく泣き出した。プライドをかなぐり捨てた要求である事は明白だった。拒否なんてできるわけがなかった。

「分かった。ただし今回だけだよ。超痛かった」

「ありがとう。ごめんね、花火を見れなかったの、あたしのせいだ…」

 声にはまだ、涙の余韻が感じられた。

「…ねえ、うちに来ない? 花火セット買ったんだ」

 お詫びの印というわけだ。僕はすぐに彼女の家へ向かった。コスモは浴衣姿のまま僕を迎えてくれた。やはりコスモにとても良く似合っている、涼やかでとても可愛らしい、心からそう思った。

 地面にはすでに、水の入ったバケツと蝋燭が用意してあった。コスモは両手に花火を持つと、腕を広げて走り回った。その姿は、まるで光の翼を背に纏う天使のようだった。さっきまでの出来事を、忘れてしまったかのようにはしゃぎまわる姿をとても愛おしく感じた。仲直りして本当に良かった、もし電話を叩き切っていたなら、こんな風には思えなかったはず、コスモも激しく傷ついただろう、やはり短気はよくない、改めてそう思った。…と、その瞬間、

「どうりで金が足りねぇと思った…」

 背後から低い声が聞こえてきた、と同時にコスモの顔が恐怖で凍りついた。

「…その浴衣は俺の財布から盗んだ金で買った。そうだな?」

 振り向くと酒臭い息を吐く男がいた。

「お前が例の娘にちょっかい出してるってガキか?」

 そう言うと「彼」は、胸ぐらを掴み、僕の体をものすごい勢いでドアに叩きつけた。ドアノブが背に当たり、痛みで一瞬呼吸ができなくなった。

「お前みたいなガキがいるから娘が色気づいて金をるようになるんだ」

 事実はまるきり逆である。児童心理学では常識だ。満たされない心を、チャンスさえあれば盗める親の財布から金を得る事で満たそうとしているのだ。つまり、それは愛に飢えているという子ども側からのサインなのである。それを、心理学を学ぼうともせず、反対意見に耳も貸さず、「愛ならじゅうぶん与えている」と自己主張ばかり繰り返し、非行だけを非難するのが世の親の常…。これでは親子はすれ違っていく一方である。物事は、弱者の側からも見なければ正しく理解できないのに…。

 背中の痛みに耐えながら、「ひがむなよ」と口走った事を酷く後悔した。引っ叩かれたのはむしろ当然の事のようにすら思えた。事実、確かに彼女に比べて様々な点で僕は恵まれていた。しかもそれは本人の努力ではどうにもならない問題なのだ。戦争ごっこに戯れている先進国の子どもに対し、「恵まれ過ぎてて分からないんだろうけど、本物の戦争はそんなもんじゃないんだからな」と主張する被戦地の難民がいたとしよう。先進国の子どもに「ひがむなよ」と言える資格などあるわけがないのだ。表面的な情報を二・三聞きかじった程度で、相手の人生の何もかも全てを把握した気になってあれやこれやと助言しようとする輩が少なくないが、果たしてそれが本当に相手のためになっているのかどうか、一度でも真剣に考えた事があるのだろうか? むしろ逆に相手のためになっていると思い上がっているだけで、実際には触れてはいけない心の傷に塩を塗りたくっているだけだと考えた事はないのだろうか? 僕がこの日してしまった事は、まさにそれと同じだったのだ。

 胸ぐらを掴む「彼」の手首を握り、強く睨み返した。たとえ力で勝てなくとも、気迫だけは負けたくなかったからだ。

「なんだお前やんのかコラ!」

「お父さん止めて!」

 勝てないにしても、コスモが逃げるまでの時間稼ぎならできる、そう判断し僕は叫んだ。

「警察を呼べ!」

 被害を被っている子どもが実の親を警察に訴える、それのいったい何が悪いというのだろう? むしろ逆に当然の権利なのではないのだろうか? この時の僕は極めて自然にそう考えていた。

 この夜の出来事を思い出すたび、考えてしまう事がある。果たして本当に、親には必ず、いついかなる時も感謝しなくてはいけないのだろうか? 親の行為に対し、「間違っているものは間違っている」と批判してはいけないのだろうか? むしろ逆に、感謝しなくてはならないという「誤った常識」を防波堤にし、「親の過ちに対する正当な批判」という津波までもを防いでいるような社会を異常だとは思わないのだろうか? こんな事で傷つく子どもの方が悪いと言うのなら反論する、それは大人のエゴだ、俺は間違ってない、…僕は強い確信を込めてもう一度叫んだ。

「いいから早く警察を呼べ!」

 すると「彼」はチッと舌打ちしながら僕から手を離し、家の中へと入って行った。アルコール依存症は否認の病、とはよく言ったものである。「彼」には病識がないのだ、…つまり、人を傷つけているという自覚がないのだ。この日のような事なんて、明日の朝にはケロッと忘れているのだろう。

 大学で依存症について学ぶようになってから知った有名な言葉がある。

「地獄を見たければ、アルコール依存症者のいる家庭を見よ」

 という言葉である。理性を失くした親の身体を、ロープで縛って柱に括りつけたり、割れたグラスを泣きながら処分したりといった地獄が、その家庭では日常的に起きているのだ。そしてもし、この日僕の背中を激しく打ちつけたドアノブに手を伸ばし、その扉を開いていたなら、その地獄を覗き見る事ができたのかも知れないのだ。酒に酔い、荒れに荒れて聞き分けのなくなってしまったケダモノのような親を見る子どもが一体どれだけ心を傷めているか。それをまともに考えた事のある大人が一体何人いるというのだろう?

 家の中へと立ち去ってゆく「彼」の背中を見送った。すると「彼」の背後から、夏の夜の熱気と共に、アンモニア臭がムワッと漂ってくるのを僕ははっきりと感じ取ったのであった。「あの話は本当だったんだ!」、そう思うのとほぼ同時に、

「大丈夫? なんか今日は本当にごめんね」

 コスモは本当に申し訳なさそうな顔をしながら僕の目を覗き込んできた。

 この親子は非常によく似ている、…そんな思いが小さなしこりのように、僕の心の奥底に遺った。



     ♩



 秋になると、「付き合っている」という噂は、更に広く囁かれるようになっていった。

 コスモと共に教室に入ると、男子からは、あるいは口笛などで冷やかされた、また女子たちも耳元に口を寄せ合いながら僕らを見た。コスモを良く思わないクラスメイトは決して少なくなかった。そうでなくても彼女は目立った。そういう意味も含め、付き合っているという噂には旨味もあったのだろう。ある程度は仕方ない、僕はそう考え割り切る事にした。そして、交際の噂を淡々と否定し続けた。

 男子をたった一撃で張り倒したという、いわゆる「アリーナ伝説」にしても、嫌になるほど聞かされ続けた。しかしそうまでしてこの話を蒸し返し、そして面白がる理由が僕には解らなかった。が、張り倒した理由だけは嫌でも耳に入って来た。なんでも「外人」と言われてキレたのが主な理由だったらしい。コスモの母親は日本に帰化しているし、コスモ自身は日本生まれの日本育ちなので、国籍法上ではコスモは立派な日本人だった。したがって、僕にはむしろコスモが怒ったのは当然なのではないかと思えた。そうだとしても、暴力に訴えたコスモは確かに悪い、だが、一体いつまで小学校の頃の事を言えば気が済むのだろう? あるいは腕力に劣る女子にやられた奴を蔑みたくてそうしていたのだろうか? いずれにせよ、僕にはそんな噂を面白がる同級生が幼稚に思えて仕方がなかった。なぜならすでにコスモの家庭の実情を身をもって知っていたからであった。少なくとも「彼」の酒害に巻き込まれて苦しんでいる、という点においてコスモは全面的な被害者なのである。とにかく、「言いたい奴には言わせとけ」、その姿勢を僕は貫き通した。



 二学期の中間テストが終わると、僕はコスモと歌祈かおりちゃんの三人でカラオケへ行く事になった。コスモから、「とにかく一度歌祈の唄を聴いてみて」と言われた事があり、前々から約束していたからであった。歌祈ちゃんの唄がひじょうに上手い事は、すでに音楽の授業で何度も聴いていたので、「何を今さら…」と思う部分も少なからずあった。しかしカラオケで聴くとなるとまた勝手も違ってくるのであろう。が、たとえそれはそうだとしても、僕には少々不自然に思える部分もあったため、

「歌祈ちゃんと二人で行かないの?」

 その疑問を素直に口に出してみた。

「とにかく一度ユータもおいでよ、ね?」

 なぜそうまでして誘うのか、その真意をしばし勘ぐった。そしてその理由を、「前にユータが言ってたように、あたしにも友達できたよ」とアピールしたかったからではないだろうかと推察した。

 最初の頃、僕は歌祈ちゃんを少々風変わりな女の子だと認知していた。歌祈ちゃんと初めて話をしたのは、まだ4月、学校ではなく塾での事だった。理科の授業を受ける時、同じクラスにいたので話しかけたのである。

「君って確か学校も同じだったよね?」

「うん」

 さして音量が大きいわけでもないのに、やたらと良く通るマイク乗りの良さそうな、なおかつひじょうに美しい声で彼女はそう答えた。だがしかし、後はそれきり、彼女は完全に押し黙ってしまった。僕としては、まだ慣れていない土地の慣れていない塾なだけに、多少なりとも縁のある人間がそばにいてくれたら気休めぐらいにはなるだろうと思って話かけてみただけだったのだが、出鼻を完全に挫かれた形となってしまった。父が痴漢と疑われた後に起きた一連の出来事をふと思い出した。そして、「なんといっても相手は女子だ、また変な噂を流されたりしたらたまったもんじゃない、必要以上に話しかけないようにしよう」と判断し、彼女を意識しない事にした。

 当初僕は歌祈ちゃんを、かなり成績の良い子なのだろうと思い込んでいた。しかし、それは違うとしばらくしてからふと気がついた。歌祈ちゃんは、理科はもの凄く得意なのだが、その反面、他の教科はあまり得意ではなかったのだ。そう、初めて一緒になった塾のクラスがたまたま理科だったため、他の科目も僕と同じぐらいの学力があると勝手に思い込んでしまっていたのだ。「まあ、何か一つの科目だけが異常に得意だって子も稀にいるからな」、僕はそう思い、なおの事彼女を意識しないよう心がけた。

 なお、歌祈ちゃんは目が醒めるような美貌の持ち主だった。男子たちはもちろん、女子たちからでさえも、その容姿は一目も二目も三目も置かれていた。ほんの少し眠そうにも見えるトロンと色っぽく垂れた大きな目と、それを更に強調する深い二重まぶた。あの目で真正面から見つめられたら、たいていの男子は赤くなってしまうに違いないと思えた。しかも、歌祈ちゃんの髪の毛からはいつもお菓子のような甘い香りが漂っていた。コスモから聞いた話によると、彼女はアナスイのスイ・ドリームというブランド物の香水を愛用しているとの事だった。その仄かな甘い香りがとても良く似合う、圧倒的な透明感を持った、断トツの容姿を誇る美少女。にも関わらず本人はいたって冷然としていて、それを鼻にかけるような素振りをいっさい見せようともしないのだ。風変わりな女の子だと思われるのはむしろ当然の事であった。

 コスモと歌祈ちゃんが急速に仲良くなり始めたのは、5月中旬頃の事であった。コスモから伝え聞いた話によると、授業中の些細なやりとりがきっかけで話をするようになったのだそうだ。学校からの帰りに、

「今日、体育の授業の後に、女子の間でちょっと男には言えないようなトラブルが起きたのね。で、そのとき歌祈、あたしを庇って味方になってくれたんだ」

 そのような話を聞かされた事もあった。やがて彼女達ふたりは昼食を、放送室で音楽を流しながら共に食べるようになり出した。いつからか、放送室の扉には、


 Girls only

 Do not enter to men


 赤いマーカーでそう書かれたB5のホワイトボードがぶら下げられるようにまでなっていった。放送室は彼女達だけの秘密の楽園だった、というわけだ。が、だからといって塾や学校で歌祈ちゃんに話かけてみようという気にはなれなかった。コスモと歌祈ちゃんの関係が進展したからといって、僕と歌祈ちゃんの関係まで進展するとは考え難かったからだ。恐らく向こうも僕の事は、「たまたま理科の時だけ同じクラスになった、コスモとやたら仲の良い男子」、ぐらいにしか思っていなかったであろう。そんな歌祈ちゃんを交えて三人でカラオケに行かないかと誘われたのだ。多少なりとも僕が不自然に思うのはむしろ当然なのであった。

 約束の時間に、僕ら三人は新逗子駅へと集合した。コスモはいつものように、ロールアップした太いジーパンにコンバースの赤いスニーカーとネルシャツ、という少年のような格好をしていた。反対に歌祈ちゃんは、キュロットスカートに清楚なデザインのブラウスという、いかにもその年頃の少女らしいキレイめな服を着ていた。そして僕は、すっかり色落ちしたリーバイス501とレッドウイングの黒いエンジニア・ブーツ、ショットの帽子にコスビーのTシャツという、コテコテの渋カジ・スタイルだった。

 切符を買って改札を通ると、すれ違った男子高生たちから、

「あの中坊、ブスばっか連れて調子に乗りやがって!」

 聞こえよがしに悪態をつかれた。とたんにコスモの表情が険しくなった。

「ほっとけよ。やっかんでるだけだ。相手にするな」

 歳下の男が一人で、抜群に可愛い女の子を、おまけに二人も連れているのだ。その反応はむしろ当然であった。

「あんな奴ら、どーせ毅の名前出しゃ一発で…」

「いいからとにかくほっとけ」

 その「毅」という人物が一体何者なのかを、当時の僕はまだ知らなかった、…むろん地元で有名な不良少年であろう事ぐらい想像はついたが、ともあれコスモの荒れた一面を窺い知ったような気がして、僕は少し気分が悪くなってしまった。

「歌祈と二人だけで出かけるとナンパされる事があってさ…」

 ホームに立つと、コスモはおもむろにそう語り出した。

「…いつも決まって、"二対二ならいいでしょ?"って言い寄って来るんだけど…」

 あくまでも、男の側に立って見るなら、キレイ系でスレンダーな歌祈ちゃんと、カワイイ系でグラマーなコスモが一緒に歩いているのだ、…声をかけたくなる気持ちも分からなくはなかった。

「…面倒だからいつも日本語が分からないふりをして英語で追い払ってるんだ。それもMother fuc…」

「th」と発音する時、前歯で舌先を軽く噛むのを見た。その瞬間、コスモが何と言おうとしているか予測できてしまった。そして、

「もういい! みなまで言うな!」

 やはり予測どおりだったがために、思わず大声で遮ってしまった。キョトンとしている歌祈ちゃんを尻目に、コスモは話し続けた。

「…で、ユータがいれば安心できるかなって思って試しに誘ってみたんだけど、これはこれで面倒なのね」

「ま、確かに俺、どこからどう見たって喧嘩が強そうなタイプには見えないだろうしね」

「そりゃあそうだよ」

 乾いた声でコスモは笑い出した。正直少し傷ついた。

 電車に乗り込み、三人並んで座れるスペースに腰を下ろすと、すぐさまコスモと歌祈ちゃんはペチャクチャとおしゃべりをし始めた。女の子たちと行動を共にするってこんな感じなのか…。二人の話を聞きながらふとそんな事を思った。

 横須賀中央駅に着き、徒歩で十数分の場所にあるカラオケボックスの室内に入ると、

「先に男から唄って」

 すぐさま歌祈ちゃんがそう要求してきた。僕はコスモから貸してもらったCDで覚えた、ビートルズの「イエスタデイ」を唄った(何を隠そう、僕はジョンよりポール派だった)。すると歌祈ちゃんが、

「すごいのね。洋楽が唄えるなんて」

 と言い出した。

「いやいや、唄えるのはスローテンポな曲だけだよ。早いのは無理」

「唄えるだけでもじゅうぶんすごいよ。あれは? ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』は唄えない?」

「唄えるよ。あれは名曲だよね。"LOVE"という言葉を使わないラブ・ソングだよ」

「唄って唄って」

 歌祈ちゃんに促されるまま、僕は「スタンド・バイ・ミー」を入力した。唄い終えると歌祈ちゃんは、

「映画の方の『スタンド・バイ・ミー』もいいよね。私リバー・フェニックス好きなのよ」

 と言い出した。すかさずコスモも、

「あたしもあの映画とリバー・フェニックスは好き」

 とてもよく通るハスキーな声で言い出した。

「まあ、リバー・フェニックスが嫌いだって人はそうはいないよな。男の目から見たって最高にカッコいいもん。…ところで俺、原作の方の『スタンド・バイ・ミー』を読んだ事があってさ…」

「あ、やっぱり映画と違うところあるんだ?」

 歌祈ちゃんが大きく身を乗り出してきた。塾や学校で見る時の彼女とは明らかに印象が違うな、と思った。

「うん。細かな違いは色々あるけど、最大の違いは後半の歳上の不良グループに銃口を向けるシーンだね。映画では、将来小説家になるゴーディ・ラチャンスって子が拳銃を構えてるよね…」

 潤んだ瞳が印象的な俳優、ウィル・ウィートンの顔を思い浮かべながら僕は話し続けた。

「…でも原作ではリバー・フェニックスが演じていたクリス・チェンバーズの方が構えてるんだよ」

「へえ、そうだったんだ」

「しかもそのシーンのセリフがカッコいいんだよ…」

 僕は人差し指を立て、拳銃を構えるフリをしてその台詞を口に出した。

「…"どこがいい、エース? 腕か、足か? おれには選べない。おれのかわりにきさまが選べ"。あれをリバーがやったら最高にカッコ良かったろうになぁ」

「確かにそれカッコいいかも!」

 歌祈ちゃんの瞳がハートの形をしているように思えて仕方がなかった。

「そういやリバー・フェニックスって、確か三年くらい前に麻薬の過剰摂取オーバードーズで死んじゃったんだよね?」

 僕がそう尋ねると、歌祈ちゃんは「うん」と悲しげに頷いた。

「そりゃあ一時的には気持ちがいいのかも知れないけどさ、やっぱり麻薬は人を幸せにはしてくれないんだよ。だいたい菜食主義者だったリバーが麻薬をやってたっていうのも、なんだかちょっと矛盾を感じるし」

「優太君ってもっとこう、無口な人かと思ってたんだけど、意外とよく喋るんだね」

 歌祈ちゃんの顔は、いかにも「意外だ」と言わんばかりの感情で溢れかえっていた。

「ん、まあね。渋谷にいた頃色々あって、余計な事は話さないって決めたんだ。でも、心を開いた相手は別だよ」

「それは、私には心を開いてくれてるって事?」

 歌祈ちゃんは首をハスに傾けて尋ねてきた。

「ま、そういう事になるね」

 そう答えると歌祈ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。

「優太君っていい意味で優等生っぽくないよね。ギターも弾けるし、音楽や映画にも詳しいし、それにほら、さすが渋谷で生まれ育ったシティーボーイなだけあってけっこうお洒落じゃん。いわゆるガリ勉タイプには見えない分、もし優太君が本気になって勉強したらもっとすごい点数を叩き出せるんじゃないかって、女子の間で話題になった事があるのよ」

 僕はジュースをストローで吸い上げてから、

「そうだったの?」

 とコスモに振り向いた。

「知らないよ。あたしは歌祈以外の子とは話さないもん」

 コスモはあっさりとした言い方で返答してきた。ソファーの上で胡座をかき、親指と人差し指でストローをつまむコスモのその仕草は、建築現場の休憩所で、ニッカポッカを履いた若い男が、煙草を喫っているかのようであった。

「ところで歌祈ちゃんは唄わないの? 上手いんでしょ? 聴かせてよ」

「任せて!」

 強い自信を全身から漲らせながら、歌祈ちゃんはドリカムの「うれしい! たのしい! 大好き!」を入力した。そして、まさに神がかっていると言っても過言ではないほどの圧倒的な声量と抜群の歌唱力で朗々と唄い始めたのだった。僕にとって唯一かつ最大の武器であった、「英語がソラで唄える」というアドヴァンテージは、彼女の歌唱力に対し全く歯が立たないと思った、これではまるで象に立ち向かう蟻のようだとさえ思った。その歌声に圧倒され、僕はもう唄う気を完全に失くしてしまった、聴くだけで満足だと思ってしまったのだ。僕とコスモはただただ歌祈ちゃんの歌に聴き惚れ続けた。その後彼女は一人でマイクを握り続けた。でもそれは決して歌祈ちゃんがわがままだったからではない、むしろ逆にこちらから、「誰々の何々って曲は唄える?」、とリクエストしたからであった。特にザードのデビュー曲である、「グッド・バイ・マイ・ロンリネス」を唄ってもらった時は、かつて毎日目にしていた大都会・渋谷の光景がありありと脳裏に浮かぶ様で、涙が出そうにすらなった。歌祈ちゃんの唄が上手いのはもちろんの事、僕は「グッド・バイ・マイ・ロンリネス」のBメロが昔から非常に大好きだった。雨の降り注ぐ都会の情景を見事なまでに描写している歌詞とメロディーをたいへん気に入っていたのだ。

 僕は称賛の拍手を惜しみなく送り続けた。更に歌祈ちゃんがリクエストに応えて唄ってくれた、浜田麻里の「リターン・トゥ・マイ・セルフ」を聴き終えた時など、

「歌祈ちゃんって、浜田麻里よりも更に上を行ってないか!?」

 思わずうなり声を上げてしまった。

「なんかビブラートも黒人の歌手みたいに聴こえるんだけど?」

 すると歌祈ちゃんはこう答えた。

「日本人の歌手のほとんどは、ノドや顎を震わせてビブラートをかけてるからね。でもそれは間違ったかけ方なの。本当のビブラートは、横隔膜を揺らしてかけるものなのよ。私にはそれができるの」

「えっ? そんなテクニックどこで覚えたの?」

「本屋さんで立ち読みして覚えた。いい声を出すためには、人体の仕組みを詳しく知る必要もあるのよ…」

 歌祈ちゃんが理科にだけは異様に強い事を改めて実感した。

「…それに私ピアノ習ってるんだけど、そこの先生が声楽もやってて、ついでにボイストレーニングも受けてるのよ」

「どうりで唄い方がオペラ歌手っぽいわけだ」

「そ、オペラと歌謡ロックの良いとこ取りが私の理想とする唄い方なのよ」

「うん、すごくいいと思うよ。ところでもうそろそろ時間だけど、コスモは唄わないの?」

「あたしはいい。あたしは洋楽ばっかで日本の曲はあまりよく知らないから」

「だったら洋楽でも唄えば?」

「とにかくいいっ!」

「でもせっかくのカラオケなんだし…」

「唄わないったら唄わない! あたしはあくまでユータにも歌祈の唄を聴いて貰いたくて誘っただけなの! もしみんなでバンドやるならボーカルは絶対に歌祈! これもう決定ね? ユータも歌祈なら文句ないでしょ? ベースだって従兄弟にお勧めの人がいるんだから。…あ、あたしちょっとトイレに行ってくる」

 初めて知り合った時と同じように、口から火を吐く怪獣のごとく自分の言いたい事だけを一方的にまくしたてるやいなや、コスモは部屋から駆け出していった。その様子は明らかに不自然であった、何やら後ろめたい物があるかのようにさえ見えた。

「何だありゃ?」

 思わず呟いてしまった。すると二人きりになった部屋で、

「あのね…」

 歌祈ちゃんはこう切り出したのである。

「…コスモってほら、英語が流暢じゃん? だからそんな風にはぜんぜん見えないんだけど、実は歌が下手なのよ」

「えっ? マジで!?」

「私と二人きりでなら、下手でもなんでも唄えるんだろうけど、優太君の前ではきっと恥ずかしいんだと思う。かえって逆に可愛いでしょ? だから許してあげて…」

 歌祈ちゃんは目をつぶりながらオレンジジュースを一口、ストローで吸い込んだ。「まるで夏のCMのようだ、やっぱ美少女は何をしても絵になるんだな」、僕は素直にそう思った。

「…ところでコスモがミニスカとルーズソックスを履いて学校に来る本当の理由、優太君は知ってる?」

「知ってるよ。"どうせ自分が高校に行く事はない、親父がうるさくて勉強なんかしたくてもできない、あたしの家と成績で進学なんて無理、努力するだけ無駄、だからせいぜい今のうちに派手にやってやるんだ"って、いつも言ってる」

 歌祈ちゃんはほんの少し憂鬱そうな表情をしながら、手にとったグラスをテーブルの上に置いた。

「私もそれ、しょっちゅう聞かされてる。つい今さっき『スタンド・バイ・ミー』の事が話題になったけど、それを聞かされるたんびに、私いつも思うんだ、コスモってまるでクリスみたいだなって」

「確かに、父親の酒癖が悪いせいで偏見を持たれてるところとか、家庭が悪い事を理由に将来を悲観してるところとか、クリスとホント、瓜二つだよね」

 ふと、花火大会の日に起きた「彼」との一連の出来事や、リバー・フェニックス扮するクリス・チェンバーズが、「No fuckin' way!」と泣き出すシーンを彷彿としてしまい、僕もまた憂鬱な気分になってしまった。

「ついでに言うと優太君は優太君で、将来小説家になるゴーディにそっくりだしね」

「俺がゴーディに? 似てないよ…」

 思わず僕は笑ってしまった。

「…だって俺はコスモと同じ一人っ子だよ、兄を亡くした事もないし」

「でもコスモから聞いたけど、優太君ってオリジナルの短編小説を書いた事があるんでしょ?」

「ああ、『誰かの凪のあと』ね」

「そう! それそれ…」

 曲を入力していない状態のまま、僕は歌祈ちゃんとの会話をしばし楽しんだ。

「…放送室で聞いたよ、"リアルとファンタジーの中間を行くような話で面白かった"って」

「ですます体の女性の語り一人称、…太宰治のパクリもいいところなんだけどね」

「どんなストーリーなの?」

「とある小学生の女の子が、凪いだ夜の海で、それはそれは不思議な体験をするんだ。で、朝になって目が覚めたら、どういうわけか白装束を身に着けた女の子の赤ちゃんと一緒に砂浜に寝そべっているんだ。その赤ちゃんを抱き上げておじいちゃんの家に連れて帰ると、おじいちゃんからその赤ちゃんにまつわるとても悲しい話を聞かされるって物語なんだ」

「確かになんか面白そうね。私にもそれ読ませてくれないかな?」

「ありがとう。週明けでよければ家のワープロでプリントして学校へ持って行くよ…」


 …今では壊れてしまっていて、印刷する事はもう叶わなくなっているワープロで書いた僕の処女作、「誰かの凪のあと」の事をふと思った…。



     ☆



 あの女の子が今どこで何をしているのか、誰かご存知の方はおりませんでしょうか? 名前は美しい祈り、と書いて美祈みき。今頃はもう、小学校六年生になっているはずです。しかし残念な事に、それ以上の手がかりは何ひとつとしてありません。人探しをしているのに、たったそれだけしか手がかりがないだなんて、なんと馬鹿げた話だと思われる事でしょう。でも、本当に、たったそれだけしか手かがりがないのです。

 美祈と名づけたのは私の祖父でした。その祖父が先日、亡くなりました。亡くなる間際、祖父はしきりに美祈の事を気にかけていたのです。「美祈を引き取ってやれなかった事だけが心残りだ」、と。

 …そう、亡くなった祖父のためにも、私は美祈を探し出してあげたいのです。そして祖父の死を伝えたいのです。私には、祖父と美祈が無関係だった、とは、どうしても思えないのです。

 あの日あの時、私は凪いだ夜の海で、それはそれはとても不思議な出来事を体験しました。そして何より、その出来事についてお話しするのは、美祈の置かれた状況を正しく理解してもらうためにも避けては通れない事なのでした。ところが美祈を保護した私たちの元へとやってきた警察の人たちは皆、いちように、やれ「子どもの馬鹿げた妄想だ」とか、「まだ寝ぼけていて夢に見た事を現実だと思い込んでいるのだろう」とか言って嗤うばかりで、全く信じてはくれなかったのです。両親ですら信じてはくれませんでした。信じてくれたのは祖父だけだったのです。だからこそ、なんとしてでもあの美祈という少女の事を探し出し、そして祖父の死を伝えなければならない義務が私にはあると思っているのです。だからどうかお願いです、少しでも心当たりのある方が居たら、何でも構いません、どうか教えて頂きたいのです。



 あれは十二年前の事でした。

 夏休みになり、大好きだった祖父の家に泊まりに行った時、私は件の不思議な体験をしたのです。

 私の祖父は漁師をしていました。それも昔ながらの漁師で、一人で小さな船に乗り、沖の方で鮪や鰹を釣るというやり方をする人物でした。私はそんな祖父が大好きで、毎年、夏になるたび、海沿いで一人暮らしをしている祖父の家に遊びに行く事を何よりの楽しみにしていました。

 それはたいへん静かな夜の事でした。急に凪いだ海を見たくなった私は、寝静まっている祖父を起こさぬよう、静かに家を抜け出しました。歯を磨いた後なので、本当はいけない事だと分かってはいたのですが、誘惑に負けて飴玉を口の中に入れてから、砂浜へと駆けて行きました。祖父の家と砂浜は、徒歩で数分の距離でした。凪いだ海には大きな白い月が浮かんでいました。

 暗く静かな海岸に着くと、砂浜の上に、お腹の大きな女性が一人、横たわっていました。まさか、と思いながら近づいてみると、私が予知したとおり、なんとその女性は妊婦だったのです。私はすぐ近くまで駆け寄り、

「大丈夫ですか?」

 と話しかけてみました。まだ幼かった私にも、その息の荒い女性が出産直前の危険な状態である事は女の本能で理解できていました。

「すぐに救急車を呼びます。待ってて下さい」

 その女性にハッキリと聞こえるよう、耳元で大きな声を出しました。するとその女性は私の手を掴み、思いのほかしっかりとした口調でこう言ったのです。

「救急車に来てもらっても駄目なんです。それよりもお嬢さんにお願いがあります。その前に確かめたいのですが、泳ぐ事はできますか?」

 なぜそんな事を聞くのか、理由はまるで見当つきませんでしたが、ともあれ私は質問されたとおり、「泳げます」と答えました。スイミングスクールに通っていたので、泳ぐ事には強い自信を持っていました。夏に学校で行われる水泳の授業なんて、スイミングスクールでの練習に比べたら全然ぬるいと思っていましたし、同じ歳ごろの男子たちよりも速く泳げる事を何よりの自慢に思ってもいました。

「沖の方に小さな島があるのはご存知ですよね?」

「島?」

 そんな島なんてなかったはず。…そう思いながらも妊婦が指差す方向を見やると、なんとそれまで海面に浮かんでいたはずの大きな白い月が消えていたのです。そして同じ場所に、それまでなかったはずの小さな島がはっきりと見えていたのでした。

「あの島には神社があります。そこの祠に、このへその緒を納めて来て欲しいんです。そうでないとこのお腹の子は無事に産まれません。だからどうか納めて来て下さい」

 その妊婦の切実な物言いに圧倒された私は、「何故そうなしなければ無事に産まれないのか?」という根本的な疑問を確かめる事もせず、へその緒を受け取るとすぐに服のまま海へと駆け出して行きました。そして右の親指の付け根にへその緒を挟んで、一番得意なクロールで小さな島へと向かいました。

 夜の海は思っていたほど冷たくはありませんでした。距離にして100メートルほど泳ぐと、指先に砂浜の感触を感じ取りました。すぐに立ち上がり、辺りを見渡すと、そこにはあかい鳥居が幾重にも重なった参道がありました。その参道には石段が積み重ねてあり、そしてその石段の両端にはの消えた灯籠がありました。私の足が石段を、一段、一段、交互に踏み出すたび、その段の灯籠も、一つ、そしてまた一つ、闇夜の中に儚くも幻想的な光を放ち始めました。私はそれを不思議だとも、奇妙だとも、そして怖いとすらも思いませんでした。むしろ逆に、歓迎してくれているのではないかとすら感じられる仄かで暖かい光に、私は導かれるかのようにして階段を踏破したのでした。

 人っ子一人としていない夜の神社に入るのは、むろんこの日が初めてでした。普通だったら肝試し大会でもなければ体験し得ないであろう状況を、やはり私は、不思議と何故か少しも怖いとは感じませんでした。

 暗い地面に、アーモンドのような形をした光る何かが二つ、浮かんでいるのが見えました。きっと猫の眼に違いないと思われるそのアーモンド状の光は、私を警戒しているのか、ジッとこちらを見つめていました。しばらくすると、

「珍しいな、ヨミシロ祭りにニンゲンがやって来るなんて…」

 と言う声が聞こえて来ました。それはどうやらその猫の声のようで、私の意識の中にハッキリと聞こえて、…否、感じられるのでした。ところでこんな静かな境内で、どうして「祭り」が行われているなどと言えるのでしょう。私はただただ疑問に思うより他に考えが浮かびませんでした。それがその猫には分かったらしく、

「…えっ? これのどこが祭りだって? 祭り以外の何物でもないだろうに…。全くニンゲンってやつはやかましいのが大好きだからな…」

 そう語りかけてくるのでした。

「…昔まだボクがそっちの世界にいた頃、"外は危ないから"っていうわけの分からない理由で窓の外へ出してくれないニンゲンの女がいたんだ。危ないもへったくれもないよ、ボクらはみんな、押しては返す波のように、いつかまた必ずこっちの世界に戻って来るっていうのにさ。とにかくそのニンゲンの女が、ボクの体と同じくらいの大きさのスピーカーとかいう名前の木の箱から、オンガクとかいう名前の騒音をよく垂れ流してたんだよ。それもこっちが眠かろうとなんだろうとお構いなしに、ね。ボクがこっちの世界へ戻って来る時も、やたらめったら大きな声で泣いてたよ。ニンゲンってホント、ウルサイのが好きだよね。ところで君がこっちに来た目的はなんだい?」

「祠にこれを納めないといけないの」

 私は膝を折ってしゃがんだ後、へその緒を持っている両手のひらをアーモンド状の光の前に差し出しました。

「ああ、へその緒か。なんたって今日はヨミシロ祭りの中でも百年に一度しかないヨミシロカミの大祭の日だからね、人の子一人そっちの世界へ送り帰す事ぐらい造作もないよ。おいで」

 突如、鳥が羽ばたく時のような音が聞こえてきて、それと同時にアーモンド状の光は闇夜の中に霧散していきました。「おいで」と言っておきながら、その直後に消えてしまったアーモンド状の光を不思議に思いながらしばらく境内の中を歩くと、「ああ! きっとこれに違いない!」、と思われる祠を発見しました。へその緒をそこに捧げ、手を合わせて拝みました。すると再びさっきの猫のものと思われる声が伝わってきたのでした。

「さあ、これでもう用は済んだだろ。とっとと帰ってくれないか? ニンゲンはただここにいるというだけですでにもうじゅぶんすぎるほどやかましいんだ。いいかい? そもそもボクらの中にはニンゲンの大好きな『センソウ』とかいう名前のそれはそれはやかましい殺し合いに巻き込まれてこっちに来ているやつらだってたくさんいるんだからね。その事を忘れないでくれよ」

 言われるまでもなく、私は再び夜の海へと向かいました。むろんあの妊婦の元へ帰り、へその緒を無事に納めたを報告するためにです。

 私が、更に更に不思議な体験をしたのはそのあとの事でした。石段を駆け降り、海に潜った直後、まるでコーヒーの中に落ちた角砂糖のように、あるいは口の中に放り込んだ飴玉のように、私の身体が細胞レベルにまでバラバラになって、海の中へと溶け出してゆくかのような未知の体験をしたのです。そして、まだマグマの海だった遠い遠い昔の地球が次第に冷え始め、水蒸気が発生して大気に雲が生まれ雨が降りだす光景を、そして更に、地球の永い永い歴史の中から、一番最初の生命が誕生する奇跡の瞬間を、それこそまさに走馬燈のように目の当たりにした直後、私は突然ハッと目を覚ましたのでした。するとどうした事か、私は、あの妊婦がいたはずの砂浜に寝そべっていたのです。凪いだ海には朝陽が登り始めていました。そして驚いた事に、私の隣には、白装束に包まれた女の子の赤ちゃんが大きな声で泣きながら寝そべっていたのです。不思議な事に、私に用を頼んだ妊婦の姿は、広く白い砂浜のどこをどう見渡してもまるで見当たりませんでした。しかし、まずは何より、お腹を空かして泣いているのに違いないと思われる赤ちゃんを保護する事が先決だと判断した私は、砂浜からその子を抱きかかえ、すぐさま祖父の元へと向かいました。

「おじいちゃん見て! 砂浜に赤ちゃんがいたの!」

 家に戻るやいなや、私は大声で祖父を呼びました。すると祖父はその赤ちゃんを見るや否や大変驚き、

「なんていう事だ! これではまるで美祈に瓜二つじゃないか!」

 と言うのでした。

「誰? その美祈って?」

「話は後だ。おじいちゃんはこの子をお風呂に入れる。お前は紙オムツと粉ミルクを買って来てくれ」

 私の腕から赤ちゃんを受け取った祖父の背に、私は「分かった」と声をかけ、自転車を走らせました。買い物を済ませた後、すぐに飛んで家に戻り、粉ミルクを淹れ、紙オムツをつけてやりました。もろもろの作業がひと段落つき、赤ちゃんが眠りについたのを確かめてから、その「美祈」という人物について祖父に尋ねました。

「お前には話してなかったな。おじいちゃん、死んだおばあちゃんと結婚する前、実は他のひとと結婚してた事があったんだ…」

 白装束と毛布に包まれ、スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てる赤ちゃんを見守りながら、祖父は朴訥とした声で話し続けました。

「…そのひととの間に女の子の赤ちゃんができたんだが、当時はまだ戦時中でろくな食い物がなくてな、産まれてすぐにその子は死んでしまったんだ。戦争が終わると食糧難はさらに酷くなって、タチの悪い風邪をひいてその嫁も死んでしまったんだ…」

  祖父が淹れてくれたお茶を飲みながら、畳の上で姿勢を正しました。むろんその話の深刻さを受け止めていたからに相違ありません。

「…赤ちゃんが産まれた時、戦争なんて一刻も早く終わって欲しい、そんな祈るような思いを込めて『美祈』と名付けたんだ。もちろん戦時中にそんな事を言ったりしたら、たちまち非国民だと言われて村八分にされかねないし、この名の本当の由来はお祖父ちゃんと嫁と二人だけの秘密にしていたんだ。美祈が死んだ日も、この海から日本の街を焼きに飛んで来るB29を見たよ」

「その時の赤ちゃんと、この子が瓜二つだって言うのね?」

 そう尋ねると、祖父は「ああ」と言って頷きました。

「ところでこの子はどうして砂浜にいたんだ?」

 祖父の問いに対し、私は先ほど体験した不思議な出来事を全て話しました。ひととおり話し終えると、なんと祖父は、

「そういえばこの子、まだへその緒がついていたな。おじいちゃんもお風呂に入れてやった時、その事が気になってたんだ」

 と言うのでした。

「ねえおじいちゃん、その、最初のお嫁さんの写真、持ってないの? もしあるなら見てみたいんだけど」

 祖父からへその緒がついていたと聞かされた時、何を隠そう私はとある淡い予感を感じたのでした。写真について尋ねたのは、その淡い予感を確かめたかったからに相違ありません。祖父は古い箪笥の一番上にある引き出しの奥から、一葉の写真を出し、私に見せてくれました。…すると、なんという事でしょう! その写真には、昨夜砂浜にいた妊婦とそっくりな女性が映っていたのです! 私がその事を指摘すると、祖父は再び朴訥とした口調でこう話し始めたのでした。

「ますますもってして不思議な話だな。実はな、この写真と一緒にへその緒を和紙に包んで引き出しの奥に大事にしまっていたんだ。ところがこの写真を出した時、へその緒だけがそっくり失くなっていたんだ。だからその不思議な話が夢や幻だとはおじいちゃんにはどうしても思えなくてな…」

 しばらく間、私と祖父は黙りこくってしまいました。その重い沈黙をかき消したかった私は、

「ところでこの後どうしたらのいいのかしら?」

 と尋ねました。すると祖父は顎に手を当ててしばらく考えあぐねた後、

「警察に届けるしかないな」

 ひとりごちる時のような口調でそう言うのでした。後は最初にお話しした通りです。警察にもあの不思議な出来事は説明したのですが、前述のとおり、やれ「子どもの馬鹿げた妄想だ」とか、「まだ寝ぼけていて夢に見た事を現実だと思い込んでいるのだろう」とか言って嗤うばかりで、全く取り合っては貰えなかったのです。では母親は一体どこで何をしているのでしょう? それを説明できる人もいません。謎が謎を呼ぶばかりで、誰にも本当の事は分からず終いだったのです。

「この子を引き取りたい」

 祖父は警察にそう申し出ました。しかし警察からは、「条例では、一人暮らしの老齢の男性が孤児を引き取る事は許されていない、だからそれは受け入れられません」という意味の返答をされ、にべもなく却下されてしまいました。

「だったらせめて、名前をつけさせて欲しい。美しい祈りで、『美祈』がいい」

「ご要望に沿えるかどうかは分かりませんが、ご意見だけは聞いておきます」

 そのやり取りからしばらくした後、施設の車がやって来ました。そしてあの女の子の赤ちゃんは、婦人警官の胸に抱かれて施設へと去って行きました。

 もうお昼が近づいているというのに、その日の海はやけに静かに凪いでいました。



 もう一度お尋ね致します。あの女の子が今、どこで何をしているのか、誰かご存知の方はおりませんでしょうか? 正直に言うと本当は、「美祈」という名で呼ばれているのかどうかすら分からないのですが、しかし私にはどうしても、その子の名前は「美祈」に違いないと思えてならないのです。あの子と祖父が無関係だったとも思えません。だからどうしても、あの子に祖父の死を伝えてあげたいのです。

 あれからもう十二年が経ちます。あの日私は十二歳でした。つまり、「美祈」は今、あの日の私と同じ歳なのです。だからというわけではありませんが、私にはあの子が見つかるのではないかという予感がしてなりません。とにかくどうか、どうかお願いです、何か少しでもご存じな事があるのでしたら、どうか私に教えて頂きたいのです。

 そういえば先ほど、「お隣の国」が、「私たちの国」の島のすぐ近くにまたしても船を寄越してきたとニュースで報道されていましたね。土地なんて、本来なら誰の物でもないのに、でもそんな事を言っていると他人ひとの物を自分の物のように主張して奪い取ろうとする人が必ず現れます。だから人は主張するのです、「ここからこっちは自分の土地だよ」、と。そう主張しなければ、土地はおろか命さえ奪われかねません。結果、だから人は境界線を引くという悪循環に自ら苦しむ事になるのです。そして、こんな事で苦しむのは人間だけなのです。ああ、近い将来、また戦争が始まるのでしょうか、嫌ですね。皆が皆、他人ひとの物を奪おうとしなくなればこんな心配しなくて済むようになるのですけれども。これでは、「ニンゲンは、ただいるだけでやかましい」と言われても仕方がありませんよね。それとも、ああ、やはり、こればかりは私の期待し過ぎなのでしょうか? でももしも、「美祈」に祖父の死を伝える事ができたなら、全世界に平和が訪れるような気がしてならないのです。

 ですからお願いします。「美祈」について何かありましたら、どんな事でも構いません、どうか教えて頂けますようくれぐれもよろしくお願い申し上げます。



     ☆



 …今になって思えば、作中にもあるとおり、それこそまさに「子どもの馬鹿げた妄想」のような物語だし、書き方にしたって太宰治の歴然たる亜流もいいところである。しかし世界で一番最初の読者になってくれたコスモから「面白かったよ」と言って貰えた時、僕は確かなる手応えをはっきりと感じたのであった…。

 

 …その時に感じた、「確かなる手応え」を思い出しながら、

「…ありがとう。週明けでよければ家のワープロでプリントして学校へ持って行くよ」

 感謝の言葉を素直に述べた。すると歌祈ちゃんも、

「こっちこそありがとう。楽しみにしてるからね」

 と答えてくれた。そんな歌祈ちゃんの返事とほぼ同時に、お店からの呼び出し音が室内に鳴り響いた。僕は受話器を手に取りそれに応じた。

「お時間10分前だって」

 歌祈ちゃんにそう告げると、

「あ、じゃあゴメン、最後にもう一曲だけ唄わせて…」

 歌祈ちゃんはそう断った後、リモコンを操作した。

「…ところでずっと前から聞いてみたかったんだけど、優太君ってやっぱりコスモの事好きなんでしょ?」

「ノーコメント」

 歌祈ちゃんはクスクス笑いながらマイクを構えた。すると頭上のスピーカーから歌祈ちゃんの甘い笑い声が、渇いた肌を潤す真夏の雨のように降り注いできた。きっと歌祈ちゃんにはもう見抜かれているのだろう。しかしこちらが認めない限り事実にはならない。そう思いながら歌祈ちゃんが次に入れた曲が何なのかを確かめるために画面を見た。曲はザードの「心を開いて」だった。やがてイントロが鳴り始めた。するとその音を背景に歌祈ちゃんはこう言い出した。

「今日は私ばっかり唄っちゃってゴメンね。お金多めに出すから許して」

「気にしなくていいよ。唄って欲しいって要求したのはこっちだし、むしろ逆にいい物を聴かせて貰えて良かったと思ってる。だからお金は平等に支払わせてもらうよ」

「ありがとう、じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうね」

 やがて歌い始めた彼女の美声にしばし耳を澄ませた。間奏のパートが始まると、歌祈ちゃんはコスモが居ない事も手伝ってか、更にこう言い出したのであった。

「この歌詞うたにもあるけど、私とコスモが仲良くなれたのは、私もコスモも人と深く付き合う事があまり得意じゃなかったからなのよ…」

 僕の中にあった、歌祈ちゃんに対する「少々風変わりな女の子」というイメージは、気づけばきれいに霧散していた。性格の良さが、唄や仕草や言動から滲み出ているのがハッキリと感じ取れたからである。むしろ逆にこれだけ性格が良く才色ともに恵まれた少女が、なぜ「人と深く付き合う事が得意ではない」と主張するのか、僕には全く解らなかった。しかし、事実、コスモと同様彼女もまた、クラスでの様子を見る限り友人が多いタイプだとは決して思えなかった。そんなちょっぴりミステリアスな所がまた、コスモの大親友・歌祈ちゃんの歌祈ちゃんたる所以ゆえんであり、魅力でもあったのだ。

「…それともう一つ、コスモはきっと、優太君の事が好きだと思うよ」

「えっ? 聞いた事あるの?」

 思わず身を乗り出してしまった。

「あるよ、放送室でね。でも、笑って答えてくれなかった。けど女の子同士だから分かる。コスモは優太君の事好きだよ。だって優太君に対するコスモの態度って、なんだかまるでお兄ちゃんに甘えてる妹みたいで可愛いじゃん。たとえばさっきの"唄わないったら唄わない!"って言い方なんてモロにそうだったし…」

 実はこの時、すでにコスモの兄の死を放送室で知らされていた歌祈ちゃんにとって、コスモが僕に兄の代わりを求めている事を見抜くのは容易だったのだろう。しかしなぜ、「まるでお兄ちゃんに甘えてる妹みたい」と言ったのか、その真意を知る由など当時の僕にはまだなかった。「女の子ってホント、他人の恋愛ごとにあれこれ首を突っ込むのが好きだよなぁ」、そう思うぐらいがせいぜいだったのだ。ともあれ歌祈ちゃんは、満面の笑みを浮かべながら僕の目を覗き込んできた。

「…嬉しい?」

「ノーコメント」

「さっきもそう言った。それズルいよ」

 歌祈ちゃんは再び笑い出した。

「じゃあ他になんて言えばいいのさ?」

「でも、クラス中のみんなが言ってるよ、"あの二人はぜったい両想いだ"って」

「うん、言ってるね」

「でもいいなぁ、相思相愛、少女マンガみたいで羨ましい」

「だから違うって」

「だったらどうして毎日一緒に登校してるのよ?」

「それはたまたま家がすぐ近くだったから」

「うん、コスモもそう言ってる」

「それだけじゃない、アイツは俺が迎えに行ってやらないとすぐに学校をサボろうとするから…」

 突如、けたたましい声を上げて彼女は笑い出した。するとやや長めの真っサラな黒髪がフワリと揺れ、スイ・ドリームの甘い香りが漂ってきた。

「…何がおかしいのさ?」

「いや、ゴメンね笑っちゃって。なんだかまるで優太君ってコスモのお兄ちゃんみたいだなぁって思っちゃって、つい…」

「お兄ちゃんお兄ちゃんって、一体さっきから何なんだい?」

「ううん、こっちの話、気にしないで」

 その意味深な発言とほぼ同時に間奏が終わり、歌祈ちゃんは再び唄い始めた。やがてコスモが帰ってきたため、歌祈ちゃんとこれ以上この話をする事はなかった。

 やがて時間がやって来た。僕らは割り勘で支払いを済ませた。お店を後にすると、

「今日は私ばっかり唄っちゃって本当にゴメンね。お詫びにご馳走させて…」

 歌祈ちゃんはそう言い出した。

「…私の家、『シー・サイド・メモリー』っていう名前のカフェをやってるの。マーロウってプリン知ってる? 葉山ではけっこう有名なんだけど、優太君はまだ知らないんじゃないかな?」

 電車で新逗子駅へ戻ると、歌祈ちゃんの実家でもあるその「シー・サイド・メモリー」という名のカフェに案内された。さすが我が子に「歌祈」という洒落た名前を授けただけあって、椅子、テーブル、内装に外装、その全てがとても瀟洒で、東京のお店と比較しても全く引けを取らない見事なカフェだと心の底から本当にそう思った。なお、渋い色をしたマホガニーのカウンターテーブルの奥には、歌祈ちゃんの父親であろうと思われる見るからにジャズとコーヒーの好きそうな人物が、黙々と料理を仕込んでいる姿が見えた。

 窓から相模湾が一望できる席に着いて少し待つと、ダンディーなおじさんが描かれているグラスに入った大きなプリンが運ばれてきた。そこにはまるで理科の実験で使われているビーカーのように目盛りも刻まれていた。この耐熱ガラスで作られた容器は洗って再利用されているらしく、目盛りはレシピの分量を測るのに使用されているのだと歌祈ちゃんの母親から聞かされた。

「うわぁ、こんなに大きなプリンは初めて見た」

「男の子なら普通に食べ切れるでしょ? もっちりとしてて美味しいのよ」

 促されるまま、プラスチックの黒いスプーンで口に含んだ。

「美味いっ! こんな食感のプリン初めて!」

「お母さん、紹介するね、清水優太君って言うの。コスモとまるで兄妹みたいにもぉすぅ〜っごい仲良しで、さっきカラオケで英語の歌も披露してくれたのよ。学年でも一位二位を争うような優等生で、なんかオリジナルで小説も書いてるんだって」

「あら、それはすごいわね」

「いや、大した事はないですよ。あんなの太宰治のパクリですから」

「パクリだろうとなんだろうと、まだ中学生なのにそんな物を書いてるって時点でもうすごいわよ」

「あたしそれ読んだ事あるんですけど、リアルとファンタジーの中間を行くようなストーリーでとっても面白かったですよ」

「コスモちゃん、読んだ事あるんだ?」

「はい」

「月曜日、私にもプリントして持ってきてくれるって」

「あら、おばさんもそれ読んでいい?」

「ありがとうございます。ぜひお願いします…」

 僕は心から感謝の意を表した。

「…月曜日、歌祈ちゃんに確かに渡しておきますよ、だから何か思う事があったなら、どうか遠慮なく正直な感想を聞かせて下さい。ハッキリ言ってくれた方が有難いんです」

 僕がそう付け加えると、歌祈ちゃんは更にこう言い添えるのであった。

「理科の時だけ塾のクラスも同じなの」

「あらそうなの? 歌祈は理科以外はいたって平凡だから、これから色々と勉強見てやってもらえる? よろしくね。優太君」

 歌祈ちゃんの母親は、マーロウを載せていた銀色のトレイを小脇に挟んで軽く会釈した。目元が歌祈ちゃんととてもよく似ていて、ほんの少し眠そうに見えた。歌祈ちゃんも、

「このプリンはお近づきの印だと思って。これからよろしくね、優太君」

 そう言ってニッコリと微笑んだ。

 …これ以来、僕は歌祈ちゃんともよく話をするようになった。学校ではもちろん、塾や塾への行き帰りに行動を共にする事も多くなった。理科以外の科目を教えてほしいと頼まれる事も増えた。むろん、自分が好きな女の子の大親友からの頼みである。僕がその望みに懇切丁寧に応えてあげたのは言うまでもない。



     ♩



 コスモからはこんな誘いを受けた事もあった。

「高校生の従兄弟がいるんだ。毅っていうの。文化祭でライヴを演るんだ。いい機会だから紹介したい。毅の家は車の整備屋さんをやっててガレージをスタジオ代わりにもしてるんだ。ついでにそこにも案内してあげる」

 以前から、コスモのドラムを聴いてみたいと僕は常々思っていた。山の休憩所でのイメージトレーニングしか見た事がなかったからである。文化祭にコスモの出番があるとは言っていなかったが、そのガレージへ行けば聴かせてもらえるだろうと思い、招待を受ける事にした。それにもう一つ、実はコスモにとある疑義を抱いていた。つまり、尻尾を掴むチャンスだと考えてもいたのだ。

「歌祈ちゃんも来るの?」

「歌祈も誘ったんだけど、"ピアノのレッスンがあるから"って断られちゃったの、だから二人で行こ?」

 歌祈ちゃんの事を確かめたのは、その尻尾を掴むのには歌祈ちゃんがいない方が都合が良いと思ったからであった。

 文化祭へ行くと、話のとおり毅さんを紹介された。見るからに不良性のある風貌をした、背の高い人物だった。そもそもその高校自体が非常に荒れていて、言葉は悪いが動物園のようだと思った。

「な〜、このモヤシみてぇなのがコスモの彼氏?」

 毅さんの冷やかすような言い方が神経に触った。わざと悪ぶった言葉遣いをしているのは明白だった。

「彼氏じゃね〜って言っただろ!」

 コスモまでそんな言い方をし始めた。言葉遣いと言葉の意味が、僕を二重に傷つけた。

「でもよぉ、コイツにあのブラッキー…」 

「毅! 余計なこと言わないで!」

 コスモは稲妻のような声で話を遮った。

「へいへい…」

 毅さんはわざとらしく肩をすくめてみせた。

「…俺たちジギーのコピー演るんだ。俺はベースを担当してる。楽しんでってくれや」

「ジギーは僕も好きです」

 嘘ではなかった、が、社交辞令で言ったのもまた事実だった。

「そいつは良かった。準備があるから俺はもう行くわ。応援よろしくな」

 と言い残して毅さんは去っていった。

 その後さらにコスモから、毅さんの彼女だという人物も紹介された。学校でのコスモよりももっと短いスカートと、もっと太いルーズソックスを履いている彼女とコスモはひじょうに仲が良いようで、楽しそうに会話をしていた。が、僕はそのひとと仲良くしようという気にも話をしようという気にも全くなれなかった。そして彼女も僕には全く興味がなさそうであった(…そう、こういう人種との付き合いが全くなかった僕にとって、毅さんへの第一印象はまさに最低最悪だったのだ。今となっては笑い話だ、まさか人種と年齢差という壁を越えて親友になるだなんて、お互いこの時は夢にも思っていなかったのだから。人とは解らないものである。いずれにせよ、いくら密かに想いを寄せていた女の子からの誘いだったとはいえ、ここに来た事を僕はかなり強く後悔し始めていた)。

 やがて毅さんがステージに登場してきた。演目は「アイム・ゲッティング・ブルー」「グロリア」「ドント・ストップ・ビリービング」の三曲。どれも好きな曲だったし、高校生にしてはかなり上手な演奏だと思った。しかし第一印象のあまりの悪さに、彼に対する評価には下向きの補正バイアスがかかった。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、

「どう? 毅、他のメンバーよりも頭ひとつ抜きん出てるってユータにも分かるでしょ?」

 コスモはそう尋ねてきた。カラオケで歌祈ちゃんを推したのと同じように、今度は毅さんを推す気でいたのはとっくに気づいていた。しかし素直に毅さんを認める事ができずにいたため、

「まあ、…ね」

 と曖昧に答えるのみに留めた。そもそも歌祈ちゃんとならともかく、毅さんと共にバンドを組むだなんて何かの悪い冗談にしか思えなかった。そのような展望ヴィジョンはまるきり脳裏に浮かんで来なかったのだ。

 予想していた出来事はその後起きた。休日の夕方までに限り、楽器の演奏が許されていると聞かされていた毅さんの自宅のガレージへと案内された時の事だった(確かにロックが「ウルサイ音楽」である事は否定できない)。

 ガレージの奥の小部屋には、パールのドラム、カワイのキーボード、ヴォックスのベースアンプ、オレンジのギターアンプ、そしてマイクスタンドの頂点にはシュアーのマイクが設置されていた。

 壁には赤でスプレーされた筆記体の落書きがあった。


 Weekend,Come hear to the Jone lennon.


 言語は違えど、いかにもコスモが考えそうな冗談に、思わず僕はクスリと笑ってしまった。週末っていつだよ、そもそもジョンはとっくに死んでる、来るとしたら魂だけだ。

 コスモと毅さん、そして彼の友人達がダーツをやり始めた。ダーツのルールは分からなかったが、コスモがあの精密なコントロールで圧勝している事だけは、悔しがる毅さん達を見れば嫌というほどよく分かった。

 それにしても、ここは一体何なのだろう、と思った。楽器やダーツはいい、英語の赤い落書きも、センスが良いので寛容する事ができる。しかし、である。吸い殻がうず高く載った灰皿。床に転がっているアルコールの空き缶。これではまるきり不良漫画のたまり場だ。毅さんの前歯が少し溶けているのを見た時からある程度予想してはいたが、リポビタンDの瓶の中に入っている物は「揮発性の液体」に違いない。まさかコスモはそこまではやっていないだろうと信じたかった。

「よお、パンクでも演らね〜? 俺はピストルズを演りたい気分だ」

 そういえば毅さんの顔は、セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャスにどことなく似ていた。

「じゃああたし、『God save the Queen』がいい」

 コスモが流暢な英語を口にしながら手を挙げた。そして慣れた手つきでドラムの椅子を回転させ、高さを調整し始めた。更に、ベース、ギター、ボーカル、各々の準備が整ったのを確認すると、スティックをぶつけながら「one two three four!」と声を出した。するとあのいかにも暴走族が好きそうな下卑たイントロが始まった。

 初めて聴いたコスモの生演奏は非常に良いと思った。特にタム回しのグルーヴには注目すべきものがあった。無駄な力みを感じさせない突き抜けるような音は聴いていて非常に心地良く、きっとコントロールが良い事と無関係ではないのだろうと思った。が、楽器隊はともかく、ボーカルが全くなっていない。これでは英語の授業でお馴染みのカタカナ・イングリッシュだ。他の人はともかく、コスモにそれが解らないわけがない、音を合わせる仲間として不満はないのだろうか。僕も、ギターはともかく歌は人並みだった、しかしこれなら僕の方がずっと上手いと思った。そもそもコスモには、こんな人達と付き合って欲しくなかった。

 演奏が終わると毅さんが煙草に火をつけた。

「あたしもちょうだい!」

 やっぱりそうだったか。そう思いながら、慣れた手つきで火をつけるコスモに近寄った。

「お前の勝手だけどさ、せめてそういうのは、二十歳まではやめないか…」

 ちょっと前までパンクロックの生演奏が流れていたせいもあってか、室内はシ〜ンという音がするぐらいシ〜ンと静まり返ってしまった。毅さんの口からポロリと煙草が落ちるのを目の端に捉えた。煙草が床に落ちる時のかすかな音すら聞こえてきそうなぐらい、完璧に静まり返っていた。しばらくすると、「生徒会長?」と囁く毅さんの彼女の声が聞こえてきた。その見下しているのが見え見えの声を無視して言い切ってみせた。

「…でないと俺、コスモを嫌いになるよ」

 コスモの上半身がビクッと動くのがはっきり見て取れた。何故だか理由までは分からなかったが、花火大会の一件で、僕は薄々気がついていた、「コスモは僕に嫌われる事を酷く怖れている」、と。つまりこれは決め台詞だと承知の上で言ったのだ。コスモの手から煙草を奪い取った後、消し方がよく分からなかったのですぐ近くの水道を使って消火し、そしてそれを床に叩きつけた。すると毅さんはこう言い出した。

「白けンだけど」

 そんな彼に言い返した。

「クラプトンは、麻薬も酒も煙草もみんな止めてますよ。それでも白けますか?」

 そして子どものように怯え切っているコスモに、「悪いけど先に帰る」と言い残し、ガレージを去った。



 その夜、僕は部屋でコスモから借りたままにしているカセットを、何度も巻き戻しては聴き続けていた。曲はジョン・レノンの「スタンド・バイ・ミー」。正直、この曲のジョンの唄い方は崩し過ぎているように感じられて好みではなかった。やはり映画「スタンド・バイ・ミー」でも使われているベン・E・キングのオリジナルの方がずっといい。しかし何故かその夜だけは、無性にジョンの声が聴きたい気分だった。

「コスモちゃんから電話」

 母がコードレスの受話器を持ってやって来た(当時はまだ携帯電話なんて子どもが持つ物ではなかった、つまり子どもは家の電話で連絡を取り合うのが普通だったのだ。たった数年で社会はずいぶん変わってしまった。今では中高生にケータイを持たせるかどうかで親が真剣に悩んでいる。当然と言えば当然だ。家の電話なら子どもの交友関係を伺い知る事もできるのだから)。けれども今は電話に出る気分ではなかった。「言わずとも解れ」という意思表示を込めて母を一瞥した後、音量をさらに上げた。

 どうやらジョンの魂は、本当に降りて来てくれていたようだった。買い替えたばかりのコードレス電話は、そのとき聴いていた曲を、コスモに伝えてくれていたのであった。



 月曜の朝。

 学校に着くと、歌祈ちゃんが僕の席へと近寄って来た。

「コスモと何かあった?」

「別に」

 仏頂面で返事した。すると歌祈ちゃんは、深い二重で強調された、ほんの少し眠そうにも見えるトロンと色っぽく垂れた大きな目で怪訝そうに僕を見つめながら、

「これ、渡してくれって」

 スヌーピーが印刷されているメモ紙を寄越してきた。そこにはいかにも少女らしい、小さな丸い文字が書いてあった。



     ☆



 I'm sorry about yesterday.

 It will never happen again.

 I won't do it even after I'm 20 years old.

 So please "STAND BY ME".



     ☆



 振り向くと、珍しく僕よりも先に学校へ来ていたコスモが、見るからにバツの悪そうな上目遣いでこちらの様子を伺っていた。

 英語で書いたのは、きっと歌祈ちゃんにすら知られたくなかったからに違いない、…と思った直後、いま自分が手にしているメモ紙を、大きさがほぼ同じだった事も手伝ってか、一瞬まるで借りっ放しのカセットであるかのように錯覚してしまった、…と同時に、このメモ紙の英文と、カセットに貼ってあるシールの英字の筆跡が明らかに違う事に気づいた。

 ふと、歌祈ちゃんの髪からスイ・ドリームの甘い香りが漂ってくるのを感じた。すると突如、三人でカラオケへ行った時に聞いた彼女の意味深な言葉がオートマチックに蘇った。

「なんだかまるで優太君ってコスモのお兄ちゃんみたい」

 コスモには、ちょうど「スタンド・バイ・ミー」のゴーディ・ラチャンスと同じように死んだ兄がいて、その事が心に暗いかげを落としているんじゃないのか?

 …初めてそう予感したのは、まさにこの瞬間ときの事であった。

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