第2話

  第2章 移民の歌



     Introduction


「それが葉山に移民・・してきた本当の理由だったのね」



     ♩



 1996年、春。

 生まれ育った大都会・渋谷から、神奈川県は三浦半島の小洒落た海沿いの観光地・葉山へと移り住んだのにはいくつかの理由があった。が、人に理由を聞かれた時、僕は常にシンプルに回答する事を心がけていた。

「母が肺を病んだから」

 嘘ではない。生まれつき体が弱かった母にとって、結果的にそうなった父の転勤先が、空気の綺麗な土地だったのは理想的でもあった。しかしそれは前述のとおり、結果的に、というオマケがつく。引っ越しの最大の原因は、たとえ何をどんな風に質問されようとも、シンプルかつ最低限な受け答えだけをする寡黙な少年へと、当時の僕を変えてしまっていたのだった。

 最初、「海のすぐ近くなんだ」と父から聞かされた時、僕の胸は多少なりとも期待に弾んだ。その言葉に嘘はなかった、が、引っ越した先はただの閑静な住宅街だった。結果、センター街へ徒歩で行ける場所で暮らしていた僕は、たちまち退屈してしまった。街へ行くには、バスと電車を乗り継がなくてはならない、しかし限られた小遣いで毎日行くには当然の事ながら限界がある。さすがは観光地なだけあって、足を伸ばせばお洒落な店をいくつか散見する事はできた。だからといって一人で行く事に何の意味があるというのか。春休みのためまだ友人がいなかった僕は仕方なく、自転車で図書館へ行ったり、まだ見慣れない近所の山や川を散策したりする日々を過ごしながら新学期を待った。

 それは木や石を地面に埋め込んだだけの、階段、と言えば言えない事もない、急な坂道を登っていた時の事だった。その坂道の先にある林の中から、木と金属がぶつかる硬質かつ規則的な音が聴こえてきたのだ。テンポだけはそのまま、音の数だけが突然激しく増える事もある。近づくにつれ、スニーカーが地面を踏みしめる低く湿った音も聴こえてきた。

 階段を登りきると、林の拓けた空き地が見えた。どこの山にでもあるであろう、簡素なベンチやテーブルが設置されている休憩所だった。壊れたままのジュースの自販機。悪戯書きが目立つ公衆トイレ。その向こうに広がる青空には、極細の飛行機雲が一筋、筆で描いたかのようにすっきり真横に伸びていたのを今でもよく覚えている。真下に広がる大海原は、手を伸ばせば海水を掬えるのではないかと錯覚するほど近くに見えた。

 規則的な音の犯人は、ミルクティーのような色をした髪の毛を、男の子にしては長めにカットしている人物だった。ベンチに腰かけ、左腕の上に交差させた右手のスティックで、チッチッチッチッ…、とテーブルを小刻みに弾いていたのだ、…と同時に、体の正面に置いたテーブルよりも低い位置にある円柱形の灰皿を、右腕の下に交差させた左のスティックで叩いてもいたのだ、…更に、コンバースの赤いスニーカーを履いた足が、ダンスのステップのように地面を踏みしめているのを見て、ドラムのイメージトレーニングをしているのだと気づいた。ドラムの演奏なんてテレビでしか見た事がなかった僕が、産まれて初めて目の当たりにした瞬間だった。

 ふと、「Hard rock cafe Los Angeles」とプリントされているTシャツの胸もとを思わず凝視してしまった。歳の頃にしてはやけに大きく丸々と張り出しリズミカルに揺れていたからである。女の子だったんだ、今更になって気がついた。

 見るからに高そうなボーズのヘッドフォンで耳を塞いでいる少女は、音楽が止んだのか、突然、手足の動きを止めると気の強そうな切れ長の目を見開いた。その表情は練習のせいか少し疲れているように、…もう少し正確に言うなら気怠そうに見えた。茶と緑を混ぜたような綺麗な色をした瞳が僕を捉えた。まだ穏やかな春の陽射しを反射し、瞳の縁が一瞬エメラルドグリーンに輝く。その閃光に、僕の心は鋭く貫かれた。瞳の色だけではなく、顔の造作もどことなく見慣れない感じがしたため、ほんの少し戸惑ってしまった。

 少女はヘッドフォンを首に降ろすやいなや、ついさっきまで気怠そうにしていたのがまるで嘘だったかのような晴れやかな笑顔を見せた。初対面の僕に対し、なぜそんな兄に微笑む妹のような屈託のない笑顔を振りまくのだろう、…非常に強い疑問を感じた。

「あたし君の事知ってる! この前あたしンのすぐ近くに引越しのトラックが来てた。その時に君を見た!」

 僕は警戒した。余計な事は言わないようにしよう、言えば言うほど疑われる、それがどれだけ本当の事だったとしても、誰も僕を信じてくれない、それなら最初から話さなければいい。…とある不運な出来事に遭遇して以来、半ば本気でそう思い込んでいたからであった。

「どこから来たの?」

 ヘッドフォンが除けた耳に着いている、ガーネットと思われるあかいピアスが、まるで意思を持った生き物の眼のようにキラリと光った。

「渋谷」

 受け答えはシンプルかつ最低限に、自分にそう言い聞かせながら返事をした。

「何年生?」

「中二」

「じゃああたしと一緒だね。名前は? あたしは美樹本みきもと宇宙コスモ

 コスモ? 思わず首を傾げてしまった。それではまるで、星座を模した眩しい鎧を身に纏い、不屈の闘志で戦う少年達を描いた漫画に出てくる架空の生命エネルギーの名前そのまんまじゃないか。

「ねぇ、こっちはちゃんと名乗ってるのよ。アンタも名前を言いなさいよ」

 僕は黙ったままでいた。すると突然、彼女の右腕が鞭のように鋭くしなった。信じられない事に、彼女はスティックを投擲してきたのだ、…それも僕の顔を狙って。慌てて避けると、スティックは林の中へと飛び込んでいった。

「もう、予備のスティックなんてないのにどっか行っちゃったじゃん。アンタが名前を言わないからだよ。アンタも一緒にあれを探して」

 知るもんか、予備がないなら投げたりせず大事にすればよかったんだ。…と言ってやりたいところだったが、やはり受け答えは最低限に、と判断し、「ヤダよ」と答えてそこから走り去った。

 新築ほやほやの家に帰ると、蒼白い顔をした母が、咳をしながら玄関で迎えてくれた。病弱なため、滅多な事がない限り、母が家を留守にする事はなかった。家で安静にしている分にはさほど問題はないのだが、外出するにはタイヤの着いたカートで酸素ボンベを運び、そこから伸びたチューブを鼻に入れる必要があったからだ。その病名は慢性閉塞性肺疾患COPD。本来なら、喫煙者や、よほど空気の悪い環境で生活していない限り疾患しないはずの病だった。なぜ、母や僕はもちろん、父を始めとする親族にすら喫煙者がいない生活環境でこの病を患ってしまったのか、医者ですら分からないとの事だった。

「友達が来てるわよ。まるで男の子みたいに元気な女の子。ベランダのウッドデッキで座って待ってる。ねえ、あの子ハーフよね? 肌白いのね、目も綺麗だし、髪の毛もミルクティーみたいな色をしてる。まるで人形みたい」

 アンタも隅に置けないわね、とでも言いたげな母に背を向け、ベランダへ走った。すると先ほどの少女が、アディダスのリュックサックからスティックを取り出していた。そこにはスティックが何本も入っているようで、中からジャラッと乾いた音が聞こえてくる。予備がないんじゃなかったのかよ、そもそもどうして僕より先にここへ来てるんだ? …狐につままれたような気分だった。

「優太、この女の子にドラムを教えてもらう約束をしてたんでしょ?」

「してないよ」

 その少女がありもしない事を言って勝手に家へと上がり込んだのがこれで明白となった。彼女は母の言葉を耳にすると、

「ふーん、ユータって名前なんだ。よろしくね、ユータ君…」

 バウムクーヘンの最後のひとかけらを口に放り込むと、彼女はすぐさま立ち上がった。

「…とりあえず、ユータの部屋でも見せてもらおっと」

「ちょっと待て。なんでお前ここにいるんだ?」

「あたし地元だよ。抜け道や近道なんていくらでも知ってる…」

 あんな山道の一体どこに、抜け道や近道があるというのだろう。そもそもそれ以前に、その台詞は、答えになっているようで全くなっていない。

「…あたしの事はコスモって呼んでいいから、よろしくね、ユータ…」

 彼女は階段を駆け上がると、

「…ここがアンタの部屋?」

 言うや否やいきなりドアを開け、勝手に部屋へ上がり込んだ。

「ふ〜ん、男の子の部屋ってこんな感じなんだ。もっと散らかってるかと思ってた。本読むの好きなの?」

 部屋を見渡した後、棚に並んだ数十冊ほどの文庫本を眺めながら彼女は言った。さらに今度はCDラジカセを見ながら、

「音楽はどんなの聴くの?」

 と尋ねてくる。僕は当時流行っていたルナシーや黒夢の名を口にした。すると今度は、

「洋楽は聴かないの?」

 と言い出した。

「いや、英語の歌は…」

「確かにアンタお洒落だけどさ…」

 そのとき僕は、全国的にも有名な渋谷のアメカジ専門店・バックドロップで購入したショットの派手なワークシャツを羽織っていた。彼女はそれを一瞥すると、

「…本当に渋谷から来たの?」

 と言いだした。あまりにも不躾なその問い方に、思わずカチンと来てしまった。

「悪かったね」

「ごめん、気を悪くした?」

「別に」

 ふいっと横を向いた。好奇心の強そうなヘーゼルの瞳が、僕の顔を正面から覗き込んできたからだ。

「なんか素っ気ないね」

「勝手だろ。余計な事は言わないって決めてるんだ」

「そうなの? つまんないの。ねぇ、やっぱりエッチな本とか持ってるの?」

「もっ、…持ってないよ! てゆーかお前、その、エッチな本がどうとか、知らない人の部屋にいきなり入って来たりとか、なんかちょっとおかしくない?」

「今、何て言った?」

 彼女は突然怒りだした。

「いや、だから、エッチな本がどうとか…」

「違うよ、その後だよ…」

 男のような口の聞き方をすると、彼女はリュックからおもむろにスティックを取り出しながらこう言い出した。

「…頭がおかしいとか、変とか、狂ってるとか、そういう事、もう二度と言わないで。もしまた言ったらこれで引っぱたく…」

 そしてスティックの先端を僕の鼻先に振りかざし、

「…痛いよ!」

 鋭い目つきで彼女は叫んだ。この時点ですでにもうじゅうぶん過ぎるほどおかしいのだが、もし本当に叩かれたら一体どれだけ痛いだろうかと思うと怖くて声が出なかった。

「おかしいって言った罰として、明日までにこれ聴いといて…」

 彼女は新型の黒いウォークマンからカセットテープを引き抜いた。そして僕のCDラジカセに勝手にセットすると、巻き戻しのボタンを押した。

「…これの一曲目、『移民の歌』って言うの。レッドツェッペリンの曲。たぶんテレビとかでチラッと聴いた事ぐらいあると思う。あたしこのドラムが好きなの。ジョン・ボーナムって人。こんな感じの乾いた音が出せたらいいなって思いながら毎日練習してるってわけ。これを聴くんならさっきの事は許してあげる。明日また来るからそれまでに聴いといて。聴かなかったら月に変わってスティックでお仕置きだから。じゃあね」

 まるで口から火を吐く怪獣のように、自分の言いたい事だけを一方的にまくし立てると、手を振りながらウインクし、彼女は階段を駆け降りていった。

「おばさ〜ん! また明日遊びに来ますねぇ〜!」

 階下から、非常によく通るハスキーな声が聞こえてきた。するとすぐに母が部屋へやって来た。

「今の話、下まで聞こえてたわよ。大丈夫?」

「うん」

「よくよく考えたらお母さんもお母さんよね、うっかり家にあげちゃうなんてどうかしてた。あの女の子、元気なのはいいんだけど、ちょっと変わってるというか、危ないというか…」

 部屋にはまだ幼い少女特有の甘酸っぱい香りが漂っていた。



 その夜。

 レッドツェッペリンを聴いた後、僕は納屋にある古いフォークギターと教則本を引っ張り出していた。

 彼女がまるで地震が起きる時のように突然訪れ、夕立が止む時のように忽然と去っていった後、他にする事もなかった僕は再生ボタンを押した。するとイントロの後、確かにテレビで聞き覚えのある、「あああ〜〜〜〜〜〜〜ああ!」というロバート・プラントのシャウトが聴こえてきた。ああ、これってレッドツェッペリンってグループの曲だったんだ、と思うと同時に、なんかこれカッコいいな、と素直にそう感じた。が、フォークを引っ張り出した理由はそれだけではなかった。「本当に渋谷から来たの?」という言葉が頭から離れなかったからであった。あんな道なき山道に、抜け道や近道があると豪語した田舎娘なんかにナメられてたまるかと思ったのだ。自慢じゃないが学力にだけは自信のあった僕は、明日アイツの度肝を抜いてやると意気込み、一晩でいくつかのメジャーコードと簡単なアルペジオを覚えた。

 つと練習に疲れ、カセットを取り出してみた。するとそこには「Led Zeppelin3」と、まるで男が書いたかのような乱雑な文字が描かれたシールが貼ってあった。「何から何まで男みたいだ」と、思わず僕はわらってしまった。

 …実はそれが本当に男の書いた字だったとも知らずに…。



 次の日の朝、徹夜明けでうつらうつらしていた僕の目を覚ましたのは、

「ユータく〜ん!」

 あの非常に良く通るハスキーな声だった。窓を開けると、朝日とともに階下から、ボーズの見るからに高そうなヘッドフォンを首に下げたコスモの「Good morning!」というたいへん流暢な挨拶の声が飛び込んできた。

「ごめ〜ん。まだ寝てた?」

「うん。徹夜してたんだ」

「昨日のは聴いてくれた?」

「聴いたよ。上手く言えないけど、なんか良かった」

「起きたばっかで悪いけど、部屋に上がってもいい?」

「いいよ」

 覚えたてのギターを披露するいいチャンスだった。すぐに階段を登ってくる足音が聞こえてきた、そして更にノックの音。「どうぞ」と言うと彼女はドアを開けた。

「昨日はごめんね。勝手に家に押しかけたり、部屋に上がったりして。確かにあたし良くなかった。詳しい事は言いたくないんだけど、ちょっと浮かれちゃってたんだ。許して」

 やや太めのジーパンをロールアップして履いているコスモは、両手をもじもじさせながら分別臭い謝罪の言葉を口にした。これではまるで昨日とは全くの別人のようである。そんな歳の離れた兄に注意されて反省している妹のような姿を、

「まぁ、別にいいよ」

 少々訝しく思いながら返事をした。すると昨日まで部屋になかったギターに気づいたコスモは、

「ひょっとしてギター弾くの?」

 フローリングの上にお姉さん座りをしながら尋ねてきた。

「昨夜始めたばかり。メジャーコードとアルペジオ、少し覚えた」

「すごい! 一日で!? 聴かせて聴かせて!」

 コスモがそう言うのと同時に、母が菓子と飲み物を持ってやって来た。コスモの背中をしばらく注視すると、母は僕に目配せし、階段を降りて行った。

 僕は言われるまま、覚えたてのコードを弾いてみせた。

「え〜っと、これが、Cで、これが、E、そして、G、それと、まだぜんぜん覚束おぼつかないんだけど、笑わないでね、いちおう、…F」

「もうバレーコードも知ってるのね。笑ったりなんかしないよ。確かにまだ音は濁ってるけど、チャレンジするだけ立派だよ」

 女の子に煽てられ、思わず気分が良くなってしまった。しかしすぐに気を取り直し、昨日からなんとなく不自然に感じていた事を口にした。

「でもさ、なんかこのギター、音が少しな気がするんだ」

 思わずという言葉を使ってしまった。途端に昨日の恐ろしい記憶が蘇る。しかし彼女に、ドラムスティックで実力を行使しようとする意思は微塵も見られなかった。安堵した僕は、やはり覚えたてのアルペジオで、「トゥインクル・トゥインクル・リトル・スター」を演奏して見せた。

「確かに音程が変だね。貸して」

 コスモがギターを構えると、ギターの側板サイドのへこんだ部分が、大きな胸をムニュッと押し上げるのが見えた。

「音叉」

 言われるままに音叉を渡した。するとコスモは、受け取った音叉を煙草の灰を落とす不良少年のような仕草で弾いて音を出した。そして鳴り響くA音で五弦の解放音を確かめた後、各弦の調律をチェックし始めた。

「ギターも弾けるの?」

「ちょっとね。でもあんま上手くない。こんな狭い指板を押さえてるとだんだんイライラしてくる。それにドラムの方が好いてる。スネアぶっ叩くとスカッとするし。…うん、多分これネックが歪んでるのよ。フレットもすり減ってるし、ペグもグラグラ。修理しないとダメね。てゆーかアンタすごいよ。たった一日で音程がおかしい事に気づくなんて音感いい証拠、音楽やらないなんてもったいない。ねぇ、一つ聞くけど、一晩でこれだけ覚えたって事は…」

 少年のような鋭い目が僕を見た。

「…やる気あるんだよね?」

「うん」

「分かった。今からエレキギター持って来てあげる。ちょっと待っててくれる?」

「いや、何もそんな今すぐじゃなくても…」

「その方が都合いいのよ」

「都合がいいって、…どゆこと?」

「とにかくこれでも聴きながら待ってて。ジミヘン」

 最新型の黒いウォークマンからカセットを引き抜き僕に差し出すと、グラスと皿をトレイに載せ、コスモは立ち去って行った。言われるままに再生ボタンを押すと、「紫のけむり」の熱情的で強烈なビートが鳴り出した。その破壊的なグルーヴに雷が落ちる時のような衝撃を受けた。たった一日とはいえ、自分で弾いた事のある僕の耳には、今までに聴いた事のあるギターの音とは明らかに違うという事が一瞬で理解できてしまったからであった。洋楽に心を完全に奪われてしまった瞬間だった。

 しばらくすると母が部屋にやって来た。

「名前、確かコスモちゃん、って言ったっけ? 最初はちょっと警戒したりもしたけど、案外いいね。"ご馳走さまでした"って、グラスとお皿洗ってから帰ってったわよ」

「マジでぇ!?」

 にわかには信じられなかった。しかし母に嘘を吐く理由などあるわけがない。信じるより他なかった。

 しばらくするとコスモは、真っ赤な自転車を手押ししながら再びやって来た。前後の荷台を目一杯に使って様々な物を運んで来ている。黒いケースの中に入っているのは、大きさから見てエレキギターで間違いないだろう。他にもスピーカーのような物と、キーボードのように見えなくもない黒くて平べったい機器が見えた。

「重たいから手伝って!」

 窓の下から彼女は叫んだ。

「それ何?」

「いいからとにかく手伝って!」

 まさかこんな大荷物になるなんて、と思いながら階段を降りた。そして彼女に言われるまま、つい数日前の引っ越しの時のように荷物を持ち上げた。確かに重たい。いくら自転車を台車がわりにして運んできたとはいえ、女の細腕ではかなりの重労働だったに違いない、…僕はそう思いながら、ギターが収められているのであろう黒いハードケースを、それはそれは大事そうにいだき持つコスモと共に部屋へ戻った。

「まずこれ、プリメインアンプ。エレキギターの音を出すために作られた専用のスピーカー。マーシャルっていう有名なメーカーの製品なの。この平べったいのはボスのマルチ・エフェクター。ペダルを踏むと音色が変わるの。ギターとアンプの間に繋いで使って。オーバードライヴにディストーション、ディレイ、コーラス、リバーブ、代表的な音はほとんど出せるし、自分好みの音を作って記憶させる事もできる。ま、あたしの本職はギターじゃないから、詳しい使い方はこのマニュアルを見て。もっともアンタの場合、まずはギターを覚える事ね。今すぐこれを使う事はないと思うけど念のために教えとく」

 ズラリと並んだペダルにボタン、そして電光掲示板。洗練されたメカニカルなデザインに、

「なんかこれ、カッコいいね」

 男心がくすぐられた。

「感心なんかしてないで話を聞いて。これ、ホンット〜にマジで、大事にしてね、約束だよ。フェンダーのストラトキャスター…」

 コスモはカチッと音を立てて黒いハードケースを開いた。すると中から、均整のとれた女性のウエストラインを彷彿とさせる、美しいプロポーションのエレキギターが姿を現した。その見るからに良い音を奏でそうなギターがキラッと黒光りするを目にし、思わず「すげえ」と息を呑んだ。

「…エリック・クラプトンのシグネイチャー・モデル、通称ブラッキーって言うの」

「シグネイチャー・モデル?」

「そ、シグネイチャー・モデル。シグネイチャーは、署名とかサインとかっていう意味。つまりこれはクラプトンの名前を公式に冠した市販品のブラッキーなのよ。何度も言うようでアレなんだけと、ホント、大事にしてね」

「分かった、大事にするよ。でも、本当に借りていいの? だってこれ、めちゃくちゃ良さそうじゃん」

 ゴクリと唾を飲み込んでしまった。

「うん。あたしがいつか返してって言う日まで、好きなだけ弾いてていいから。それとこれも…」

 リュックから白いジャケットのCDが出てきた。

「…クラプトンのスローハンドってアルバム。今ここにあるギターは、その白いジャケットに写ってるクラプトンご愛用のギター、本家本物のブラッキーを模したモデルなの。ちなみにこのクラプトンって人はね、ギターの神様って言われてるのよ」

 レベル1の勇者が、物語の序盤で、伝説の聖剣をいきなり手にした瞬間だった。



 その夜。

 僕は貸してもらったCDを、何度も何度も繰り返しては聴き続けていた。なんて素敵な音なんだろうと、恍惚としていたからであった。

 このCDで聴くクラプトンの音には、ジミー・ペイジやジミ・ヘンドリクスの様な荒々しさや激しさはなかった。が、「バランスが良いという概念をギタリストにすると、エリック・クラプトンという人間が生まれます」と形容するより他ない、パルデノン神殿をすら彷彿とさせる清潔な構築美を感じたのだ。しかも、この人はこの音を、いま目の前にある物と同じ楽器で出しているのだ(むろん厳密には同じではないのだが)。僕もこんな音を出してみたいと思った。

 僕に訪れた変化はそれだけではなかった。英語が突然聞き取れるようになりだしたのだ。「ワンダフル・トゥナイト」を聴いていたときの事だった。途切れ途切れに聴き取れる英単語から、「あ、これ、大人の男女の夜のデートの事を唄っているんだ」と、推測できてしまったのである。…耳だけで英語を理解した最初の瞬間だった。

 ホロリと一粒涙が落ちた。いつかこの曲の弾き語りをコスモに披露してみたい、ふとそう思ってしまったからである。それにしてもなぜ彼女は、知り合ったばかりの僕にこんなに良くしてくれるのだろう? …質問してみたくなった。しかし本当の事を知ったら、この甘い魔法が解けてしまいそうな予感がした。何故かしら、知らないままでいた方が、幸せでいられるような気がして仕方がなかったのだった。



 夕べの体験を話すと、

「英語が分かるようになった? 良かったね」

 コスモはそう言ってにっこり微笑んだ。

「君ってもしかして、英語できるの?」

「コスモって呼んでいいって言ったじゃん。アメリカじゃみんな"First name"で呼び合ってるよ…」

 大変流暢な英語だと思った。

「…英語ならまあまあ喋れるよ。ママがアメリカ人なの。若い頃、横須賀の基地で海軍の兵隊さんたちにご飯を作ってあげてたんだって。除隊する頃にはすっかり日本の海が気に入っちゃってそのまま住み着いたんだって言ってた」

「お父さんは?」

 と聞くと、彼女の顔は途端に暗くなった。片親なのだろうか、そう思った僕は慌てて言葉を継ぎ足した。

「あ〜ごめん。言いたくないなら言わなくていいよ」

「うん。じゃあ言わない。ユータって、最初は冷たい人なのかなって思ってたんだけど、本当は優しいんだね」

「そうかな、普通だと思うけど」

 彼女は毎日部屋に来ては、僕のギターが上達するよう、様々な便宜を図ってくれた。春休みが終わる頃になると、

「あたしの本職はあくまでドラムなんだけど…」

 と前置きをした上で、

「…でももう、ギターはあたしよりずっと上手だよ。あたしに教えてあげられる事はもう何もない。正直に言うと、この短期間でここまで上達するなんて思ってもなかった。まさかこんなにギターのセンスがあったなんてね…」

 と言い、最後にポツリと意味深な言葉を独りごちた。

「…やっぱよく似てるわ」

「似てる? 誰に?」

「さあね」

 質問は、そこはかとなく哀しい声で、はぐらかされてしまった。奇妙な変化の兆しだった。彼女の太陽のような明るい笑顔は、春休みが終わりへと近づくにつれて次第にかげを帯びるようになり始めたのだ。特に最後の日の暗さは尋常ではなかった。山の休憩所で初めて知り合った時、一瞬だけ垣間見せたアンニュイな表情を再び目にするようになった僕は、心配というよりは心細くなってしまった。

「明日から学校だね。クラスも一緒だといいな」

 努めて明るく話しかけた。しかしその翳が消える事はなかった。

「今まで本当に楽しかった。ありがとう。でももうこんな風に話せる事はないと思う。ギターは、好きなだけ弾いて。返して欲しくなったらそう言うから」

 物怖じするような性格には見えないし、返して欲しくなったなら、きっとハッキリそう言うだろう。だがしかし、そのお別れの言葉は一体何なのだろう、これではまるで今生の別れのようである。不安になったのは言うまでもない。

「大丈夫? もしかして具合悪い?」

 彼女は少し俯くと、

「とにかく、今までありがとう。帰る」

 突然立ち上がり、部屋を飛び出してしまった。するとすぐに母が来た。

「アンタ、ひょっとしてコスモちゃんに何かした?」

 少しだけ、疑うような目つきをしていた。しかし、男にとってその手の誤解が一体どれだけ大きな痛手となるか、母だって「あの一件」で嫌というほど解っているはず。フローリングの上に胡座をかき、太ももに乗せたブラッキーを弾いていた僕は、母の目を見て堂々と答えた。

「いや、何もしてない」

 事実、心当たりは全くなかった。

「それなら別にいいんだけど…」

 母とコスモ、女同士の親睦はその春急速に深まっていた。たとえばコスモと二人でキッチンに立ち、昼食を準備したりする姿は、まさに母と娘のようだったのだ…。

 …死産という悲しい出来事を経て、二人目を永遠に望めなくなってしまった母の口癖は、「優太の次はが良かった」だった。そしてその口癖を初めて耳にしたのは、母が救急車で産婦人科へ搬送されてから三日後、父に手を繋がれて病室へ見舞いに行った時の事だった。

「お母さんね、子宮を切り取らなきゃもう助からないって言われちゃったの…」

 点滴に繋がれた母は、ベッドの上で静かに涙を流し続けていた。

「…優太、"弟と一緒にキャッチボールがしたい"って言ってたよね。ごめんね、その夢を叶えてあげられなくて…。ああ、お母さん、優太の次は妹が良かった。一緒に人形の洋服を作ったり、お菓子を作ったりしてみたかった」

 そう言い終えると、母は真っ白なシーツの上で激しく慟哭し始めたのだった…。

 …そう、母がコスモに、どんなに強く望んでも永久に得る事のできない娘の代わりを求めていたのは、もはや誰の目から見ても明白だったのだ!

「…コスモちゃん、最初はあんなに明るくて元気だったのに、不思議ね、なんだかまるで幽霊が、消えて居なくなっちゃうみたいだった」

「俺も不思議だった。"もうこんな風に話せる事はないと思う"って言われたんだ」

 もう二度と会えないなんて絶対に嫌だと思った。押し寄せてくる不安や寂しさを振り払おうと、しゃかりきになってバッキングの練習を繰り返した。すると不吉な事に、僕は何度も弦を切ってしまった。

 彼女への好意をはっきりと自覚した瞬間だった。



     ♩



 …新学期初日。

 事前に言われていたとおり、まずは父と共に職員室へ向かった。職員室の窓から、校庭にピタリと綺麗に整列している全校生徒たちが、校長の話を気怠そうに聞き流している様子がはっきりと見て取れた。

「こんな息子ですがどうかよろしくお願い致します」

 父は担任に深々と頭を下げた。担任は、僕と父を交互に眺めながらこう言った。

「渋谷ではたいへん優秀だったそうですし、様子を見る限り素直で優しそうですから、すぐにクラスにも馴染めるでしょう。どうかご心配なさらずに」

 最後に父はもう一度、担任に頭を下げた後、「申し訳ありませんが仕事がありますので」と断り、そして職員室から出て行った。すると担任がこう尋ねてきた。

「どうしてお母さんは送りに来てくれなかったの?」

「母は肺を悪くしていて気軽に外出できないんですよ」

「ああ、そういえばそうだったね」

 更に担任と二、三話をした後、彼に続いて廊下を歩いた。教室に入ると、すでに入室していた生徒たちから一斉に好奇の目でもって迎えられた。

「まず始めに転入生を紹介します。清水優太君だ。渋谷からやって来たそうで、向こうでの成績は非常に優秀だったそうだ。さあ清水君、自己紹介をしなさい」

 促されるまま挨拶をした。しかし教壇から見渡したクラスメイト達の中に、見慣れたコスモの顔はなかった。現実はそんなに上手くいかないか、…そう思いながら席に着いた。

 一時間目の授業が終わると、さっそく皆から話しかけられた。

「…渋谷から来たってホント?」

「…家どこ?」

「…趣味は?」

「…クラブ決めてる?」

 僕はただ簡潔に返答した。疑われるくらいなら初めから話さない、そう心に強く決めていたからである。

 二時間目の授業が始まる直前、あの中学生の持ち物としてはかなりの高級品ではないかと思われるボーズのヘッドフォンを首に下げたコスモが教室に入って来た。しかもここは学校だというのに、紅いピアスを平然と着けたままだった。それだけではない、当時の女子高生達の間で流行していた、ミニスカートとルーズソックスまで身に着けていたのだ(それはあくまで、『女子高生達の間』での話だった、…つまり中学の時点でそういった格好をしていた女子は、渋谷ですらまだほんのごく少数だったのだ)。校則違反の見本のような姿。暗く気怠そうな顔。これではまるきり不良少女である。あの躍動的なまでの明るさは一体どこへ行ってしまったのだろう。まるで別人のような彼女を見て、思わず「えぇっ!?」と声を出してしまった。

「お前、ひょっとしてアイツの事知ってるの?」

 相手は女子だ、あまり下手な事を言うと冷やかされるかも知れない、そうでなくとも警戒していた僕は、

「…まあ、少しね」

 極めてシンプルにそう答えた。

「アイツとは仲良くしない方がいいよ…」

 コスモの実情がどうであれ、同じクラスになれてまずは何よりだった、と思っていた僕の心は、次の一言でたちまち凍りついてしまった。

「…アイツの親父、頭おかしいんだ」

 小さな声で耳打ちされた。コスモには聞こえないように、という意図でそうしたのは明白である。しかしどうやら、それは彼女の耳に届いてしまったようであった。ふと彼女に目を向けた。コスモもこちらを見ていた、…刹那、コスモにも聞こえたのだと僕は察知した。



 小学校が同じだった、という男子からそれとなく聞き出した話によると、彼女の父親は酒癖が非常に悪いとの事だった。運動会の時に学校で酒を飲み、よその親に怪我をさせて警察の世話になったとか、同級生の親が経営している居酒屋で暴れたため出入り禁止になったとか、あまりの酒癖の悪さゆえ、精神病棟に入れられたとか、ひどい醜聞ばかりなのである。もしその話が真実だったとしても、コスモはコスモ、父とは全く別の人格だ。頭では分かっていた、が、どうしたらいいのか僕には全く分からなかった。

 コスモはクラスで孤立していた。しかも、困った事に彼女は目立った。校則違反の制服とピアスはもちろん、ハーフゆえのルックスとスタイルは更に際立っていた。音楽やギターについて質問したい事もあった。だがしかし、ボーズのヘッドフォンを被り、頬杖をつきながら窓の外を一人でボンヤリと気怠そうに眺めているコスモに対し、一体どうやって話しかけたらいいのだろうかと僕は迷った。

 悪い噂もチラホラ耳に入ってきた。コスモは放送委員をしていて、昼になると彼女の流暢な英語と共に様々な洋楽が流れた。その全ては、コスモが所有しているCDを音源ソースにした物で、その膨大な量のCDやボーズのあの見るからに高そうなヘッドフォンは、いわゆる「援助交際」で手に入れた物である、といった噂だった。むろん、僕はその噂をいっさい信じてはいなかった。が、たとえそうだとしてもそんなコスモに一体どうアプローチしたら良いのだろうかと悩みながら数週間が過ぎた。

 そんなある日、コスモが学校を休んでしまった。そのため担任からプリントを持って行って欲しいと頼まれ、彼女の家の場所を書いた簡単な地図を渡された。コスモの言っていたとおり、確かに僕の家のすぐ近くだった。

 昭和四十年代ぐらいに建築されたと思われる木造の平屋、それがコスモの家だった。大きな洋風の家で、高価な楽器に不自由しない裕福な暮らしをしているとばかり思っていたので少々拍子抜けがした。

 見覚えのある赤い自転車が止まっていた、つまりコスモは中にいるのだ。呼び鈴を鳴らした、しかし反応がない。僕は庭の方に回り込み、窓に向かって声を出した。

「コスモ、俺だけど。先生からプリント預かってきた。いるんでしょ」

「帰って!」

 室内からコスモの声がした。

「プリントならポストにでも入れといて!」

「顔ぐらい見せてよ」

「いいから帰れ! どうせアンタもあたしの事頭がおかしいとか思ってンでしょ!」

「何を言ってんだよ!」

 部屋の窓が突然開いた、と同時に黄色い目覚まし時計が飛んできた、…それも顔面に。慌ててかわすとすぐ後ろの電柱にぶつかり、乾電池が弾け飛んだ。くまのプーさんが描かれた時計の針があり得ない位置を指しているのを目にし、ぶつかった衝撃で時がワープしたのだろうかと場違いな思いが頭をよぎる。それにしても以前のスティックといい、なんという精密なコントロールなのだろう、もし男なら数年後、甲子園のヒーローかも知れない。そう思いながら振り向くと、彼女の頬にひと筋、涙が光っているのが見えた。そして、その頬に痣がある事に気づいた、…と同時にピシャリと窓は閉じられた。



 その夜、コスモの母が我が家に初めて訪問してきた。往年のマリリン・モンローを彷彿とさせるグラマラスな体型をした人物であった。

「娘から聞きました。ごめんなさい…」

 濃紺のリーバイスがやけに様になっている金髪蒼眼の白人女性は、たどたどしい日本語でそう切り出した。

「…私の主人はタクシーの運転手をしています。24時間働いて24時間休むという変則的な勤務でして、休みの日はひたすらお酒を飲んでいます。娘が学校を休んだのは、酔った主人に殴られてできた痣を気にして行く気をなくしてしまったからなんです…」

 そう聞いた瞬間、精神病棟に入院した事があるという噂は、恐らく本当なのだろうと思った。

「…子どもに聞かせるような話ではないかも知れませんが、アルコホリックス・アノニマス(…と発音する時、コスモよりも更に流暢になった…)という、お酒を自主的に止めている人たちの自助会にも参加しているんです。けれども主人の酒癖は治らなくて…」

 アルコホリックス・アノニマス、通称AA。クラプトンが断酒に成功した事でも有名な団体である。

「…やっぱり私たちのせいかしら、うちの娘は感情の起伏が激しいようなところがあって、ひどい事をしてしまったって泣いてました。だからお願いします。許してあげて下さい。友達になってやって下さい」

 そう言って彼女は深々と頭を下げた…。

 …今の僕になら解る。これはもう典型的な機能不全家族だ。アルコール依存症の父。依存症者が引き起こす様々な問題行動の後始末に追われる、…換言するなら、依存症者から必要とされる事を必要としている共依存の母。そして、病んだ親に傷つきながらも、まだ無力ゆえに家から逃げる事すら叶わない子ども。

「うちの息子も…」

 一緒に話を聞いていた母は口を開いた。

「…コスモちゃんから音楽を教えてもらって活き活きしてたんです。料理も上手だし、食器を洗ってくれたりテーブルを拭いてくれたり、気が効くんで私も感心してました…」

 コスモが、「いつもご馳走になってすみません」と言って持ってきてくれた手作りハンバーグを家で焼いて食べた事もあった。噛んでも噛んでも旨味が出てきた、正直母より美味いと思った。なんでも刻んだサラミが隠し味なのだそうだ。コスモの母の訪問を受けて初めて知ったのだが、コスモの家庭は共働きのため、すでに家事はお手の物だったのである。…もう少しだけ正確に言うと、心を病んだ親のせいで、すでにコスモはあの年頃にしてはしっかりとし過ぎてしまっていたのだ。しかしそれには反動もある、幾つになっても大人になりきれない未来を招く危険性を孕んでもいるからだ。

「…それが春休みが終わった途端に来なくなったんで心配だったんです。うちは男の子ですし、私も体が悪いので泊めてあげる事はできませんけど、そういう事でしたらこれからも遊びに来させてやって下さい」

 母がそう言うと、コスモの母は、

「そう言って頂いて本当に助かります」

 もう一度深々と頭を下げた…。

 …なおこれは、コスモが日本を去ってしばらくしてからの事であった。この日の事を思い出した僕は、ふと母にこう質問してみたのだ。

「もし俺が女だったら、コスモとはどうなってたかな?」

 すると母は、

「何かあるたびにうちに泊まりに来て、大の仲良しになって、歌祈かおりちゃん達とガールズバンドでもやってたんじゃないの。でも分からないよね、やっぱり優太は男だから。どうせお母さんもう長生きはできないだろうし、いつかコスモちゃんみたいな元気な子がお嫁さんに来てくれたら安心できるのになぁ、って、あの頃からボンヤリ思ってたの。『あんな事』になっちゃって本当に残念だった」

 そう言って、痛いくらいに悲しそうな顔をしてみせた。しかし、「あんな事」にまつわる「真相」を、僕は母に言い出せずにいた。当然だ、僕は毅さんと歌祈ちゃんの三人で誓い合ったのだ、「この秘密は墓場まで持って行こう」、と。もっとも母も本当は、女の勘でその「真相」に気づいていたに違いないと思っているのだが…。

  …ともあれこの日、僕はコスモの母親にはっきり宣言した。

「明日の朝、彼女を必ず迎えに行きます。おばさんの方からそう伝えて下さい」

 コスモの母が帰った後、自分の部屋に戻った僕は、購入してきたばかりのCDで、クラプトンがその息子ジョン・コナーの死を悼んで作った名曲、「ティアーズ・イン・ヘヴン」を再生した。「コスモはもうこの曲の事を知っているのだろうか? もし知らないのなら聴かせてあげたい。コスモと二人きりで聴きたい」、心からそう思いながら…。

 音に合わせて下手くそなりにブラッキーを奏でた。その頃にはもう、アンプもマルチ・エフェクターもどうにか使いこなせるようになっていた。コスモのおかげだ。母から「遅いからもうやめなさい」と言われるまで、ひたすらギターを弾き続けた。

 ホルダーに立てかけたストラトキャスターの美しい曲線を眺めた。すると不思議な事に、亡くなった人を悼むような気分になってしまった。今にして思えばそれは当然の事だった。事実あのブラッキーは、コスモの兄の形見の品だったのだから…。

 …窓から見える白い月が、やけに綺麗な夜の事だった。



 …翌日。

「まさか本当に来てくれると思わなかった…」

 それがコスモの第一声だった。ドアを開け、顔を出してくれたまでは良かった。しかし残念な事に彼女は制服を着ていなかった。

「…アンタ、ママから全部聞いたんでしょ? なんとも思わなかったの?」

「何も感じなかったわけじゃないけど…」

「あたしと一緒にいたら、アンタまで言われるかもよ、頭がおかしいって」

「そうかもね」

「そうかもねって、アンタ馬鹿じゃないの!?」

「かもね、でもいいよ、言いたい奴には言わせとけ」

「もし、付き合ってるって言われたら?」

 正直、コスモの様な童顔でボーイッシュな顔は好みではなかった。が、とびきりの美少女である事に違いはない。スタイルだって抜群だ(そもそもそれ以前に、人の事をあれこれ言って選り好みできるほど、僕は自分の容姿に自信を持ってもいない)。本当ならば今すぐにでも付き合って欲しかったが、さすがにそれは言えなかった。

「シンプルに、付き合ってないって言えばいい。冷やかしてくる奴を相手にムキになってたらかえってソイツの思う壺だよ。淡々としてればつまんないヤツだと思って諦めるさ。とにかく、学校にだけはちゃんと行こう」

「アンタはいいよね。家だって綺麗だし、親とも仲がいい。うちなんて酒を飲むと親父がうるさくてさ、勉強なんかしたくてもできない。学校へ行って一体何になるのって思っちゃう」

「うちだって色々あるよ。引っ越したのだって、お袋が体悪くしたからとか、親父の転勤とかって言ってるけど、本当は少し違うんだ。うちの親父、疑われた事があってさ…」

「疑われた? 何に?」

「痴漢に」

 想定されうるあらゆる答えとも違う返答だったのだろう、彼女は明らかに動揺していた。しかしその反応は当然だと思った。なぜならコスモは、すでに父とも面識を得ていたからだ…。 

 …初めてコスモと会った日、父は、

「確かコスモちゃんって言うんだよね?」

 朗らかな笑顔を浮かべながらコスモにこう話しかけたのだった。

「おじさんも昔ツェッペリンが好きでさ、ジミー・ペイジの真似して安物のレスポール・タイプを買って練習してた事があるんだ。でも左手を大怪我して弾けなくなっちゃってね…」

 父が左手に怪我をしているのは、ずっと前から僕も認知していた。「どうしてこんな大怪我しちゃったの?」と、何度か尋ねた事もあった。だが父は、「まあ、ちょっとな」と言ってごまかすばかりで、ついぞ教えてくれた事はなかったのだ。

「…だからもうそのレスポール・タイプは売っぱらっちゃって今はないんだ。でもそのオンボロのフォークだけは値段が付かなくてね、処分するにもできなくてそのまま放置してたんだ。まさかそれが役に立つとは夢にも思っていなかったよ…」

 その時僕はブラッキーを、そしてコスモはオンボロフォークをそれぞれかかえて向かいあい、フレッドの押さえ方についてあれこれレクチャーを受けていた。そんな僕らに父は微笑み、最後にこう言ったのである。

「…優太の事をよろしくね」、と…。

 …コスモの様子からして、「痴漢だなんてあり得ない」と思っているのは明白だと思った僕は、胸の内に秘めていた苦しかった思いを一気に吐き出す事にした。

「親父と一緒に電車に乗ったときの事なんだ。切符買って駅に入った時、急にトイレに行きたくなって親父に待っててもらったんだ。トイレから出てきたら他の男の人達に取り押えられて駅員室に連れてかれてた。しかもすぐそばにいる女の人が"痴漢だ、痴漢だ"って騒いでた。そんなはずはない、何かの間違いだって、俺にはすぐ分かったよ。たった今子どもと一緒にいた人がそんな事をするわけがないじゃん、って。でも、どうしたらいいのか分からなかったんだ、お袋は入院してたしさ。しばらくしたら駅員室から親父が出てきた。その女の人、何度も何度も頭を下げてたよ、"すみませんでした、本当にどうもすみませんでした"って。なんでだと思う?」

「分かんない」

 コスモはドアに寄っかかり、腕を組んでいた。真剣に聞いてくれているのは明白だった。

「その女の人が痴漢にあったのはどうやら本当みたいなんだ。電車の中で" この人痴漢です!"って叫んだ、その痴漢は電車から降りて駅の構内を走って逃げた、女の人は痴漢を追いかけた、逃げた痴漢はたまたま階段の近くにいた親父とぶつかってそのまま走り去った。…で、ぶつかった時に転んだ親父を、女の人は誤認したんだ、"この人痴漢です!"って…」

 まるで歌を唄っている時のように呼吸が苦しくなったため、しばらく息を整えた。僕は喋り過ぎている、自分でも、分かってはいたがもう止められなかった。

「…ところが、親父が持ってた切符と、女の人の証言が食い違っている事が分かって、親父の誤解はようやく解けたんだ」

「解けたんなら良かったじゃん」

「良くないよ。次の日学校で噂されたんだ。"アイツの親父は痴漢だ"って。親父を捕まえた人が、実はクラスの悪ガキの父親だったんだ。捕まえるだけ捕まえて、すぐにその場を去ったみたいで、事の顛末を知らなかったんだよ。だから俺は反論した。"痴漢じゃない、女の人が謝ってるのを見た"って。そしたら次の日今度はこう言われた。"昨日うちの親父に聞いたけど、近くに子どもなんかいなかったって言ってたぞ"って」

「えっ!? それって!」

「そ、いるわけないんだよ。だってトイレにいたんだもん。まるでアリ地獄にいるような気分だったよ、本当の事を言えば言うほど疑われてさ。仲良かった奴らも、"信じてる"って言ってはくれたけど、声と体が大きな奴には勝てなくてさ、表向きには付き合ってくれなくなっちゃったんだ。ちょうどその頃だったんだ、親父のやつ、上司からこう言われたんだって。"海の波を利用して発電する機械を葉山の事業所で開発している、家を建てるお金を会社で半分援助するから転勤しないか?"って。23区内でマイホームなんて夢のまた夢だし、学校で俺の立場が悪くなってたのもあったし、退院したばかりのお袋も"空気の綺麗な所がいい"って言うし(事実、"葉山に越してきてから呼吸がウンと楽になった"と、母はたいへん喜んでいた)、それならいっそ転勤しようか、って話になったんだ」

「それが葉山に移民・・してきた本当の理由だったのね」

「移民は大げさだな…」

 思わず僕は笑ってしまった。すると彼女も笑い出した。

「…親父のやつ、言ってたよ、"たとえ冤罪だったとしても、痴漢の噂がたった奴がうちの会社に来るのはまずい、…恐らく上でそういう話が出たんだろう"って。まったく迷惑な話だよ、世の中のほとんど全ての男は、痴漢したいとか幼い女の子を誘拐したいとかそんな事は夢にも思っていないのにさ…。とにかく、それからだよ、いちいち受け答えするのも、反論するのも嫌になったの。最初に言ったろ、余計な事は言わないって。同じだよ。コスモの事で何か言われても、最低限の事だけ答えればいい。それに、量より質だよ、上辺だけの奴が何人もいるより、本当に解ってくれる奴が少しだけいる方がいい。だからコスモもさ、自分から壁を作ってないでもう少しだけ心を開いてみないか。クラスの全員から好かれてる奴なんているわけないんだって開き直っちゃえ。悪く言う奴には言わせとけ。きっと友達できるよ…」

 …話は前後するが、しばらくするとコスモに、歌祈という名の大親友ができた。名は体を表すということわざどおりの歌唱力と美貌を併せ持ち、おまけにピアノまで演奏できる、まさに音楽の申し子のような少女だった。相対的に僕との時間は少々減ってしまったが、女同士の付き合いもあると思うとかえって嬉しかった。

「…親父さんの事はきっと本当なんだろうけど、料理が上手い事だって本当じゃん。俺に音楽を教えてくれた、ブラッキーだって貸してくれた、コスモにも良いところはいっぱいあるんだ。だからきっと友達ぐらいできるよ!」

「ブラッキーは、あれは、貸すというより預けてるのよ」

「預けてる?」

「そ。親父に売られそうになった事があったの。酒を買うお金が欲しかったのよ。全力で止めたけど、いつまた同じ事が起こるやら。こんなんじゃブラッキーが心配で安心して出かける事もできやしない。でもアンタの家なら安全じゃん。近いからいつでも返してもらえるし。つまりアンタと知り合えたのはあたしにとって渡りに船だったのよ。でも、まさかあんなにギターのセンスがあったとは思わなかった。今頃は、きっともっと上手くなってるんでしょうね」

 僕はブラッキーをたいへん気に入っていた。売ろうだなんて夢にも思った事がなかった。クラスの友人に案内してもらい(本当はコスモにして欲しかったのだが)、横須賀の楽器屋へ行った事があった。テレキャスター、ムスタング、ジャガー、レスポール、フライングVにSG、…代表的なギターをひととおり試奏してみたかったからだ。でもやはり、ストラトの弾き易さと多彩な音色にかなうだけの魅力を、他のギターに見出す事はできなかった。またそこでエレキギターがどれだけ高価なのか、再確認する事もできた。

「分かったよ。あのギターは大事にする。とにかく、学校にだけはちゃんと行こう」

「明日から行くよ」

「明日から?」

 彼女は気怠そうにこう答えた。

「こんな顔じゃ行きたくない…」

 どうしてこんなに可愛らしい女の子の顔を傷つけたりできるのだろう。僕は激しく憤った。

「…アンタが何を考えてるのか、あたし分かるよ。顔に書いてある。"優太"って名前のとおりだ、アンタって本当に優しいよね…」

 好意を持っている女の子に、面と向かって誉められて、思わず赤面してしまった。

「…ねえユータ、今から海に行かない?」

 まるで兄に甘える妹のような声を聞き、「そういえばギターに夢中になってばかりで、まだ一度もこの土地の海へ行った事がなかったな」と、今更ながらに思った。

「分かった。ただし今日だけだよ。明日からは必ず学校へ行くって約束して」

 今日だけとは言いつつも、心はたちまち、学校をサボって海へ行くという無邪気なスリルでいっぱいになってしまった。

「案内なら任せて!」

 そんなコスモの背中を追いかけ、自転車のペダルを漕いだ。しばらくするとアスファルトの敷かれた細長い坂道の下に砂浜が見えた。コスモは自転車を飛び降り乗り捨てた。主人あるじを失くした赤い自転車は、しばらく慣性のまま青い水平線の方へ走り続けると、やがて白い砂の上、ハタリと音もなく倒れた。僕も真似して飛び降り、その勢いのまま二人で砂の上に倒れ込んだ。何がおかしいのかよく分からなかったが、とにかく笑いが込み上げてきて、大きな声で僕らは笑い合った。笑いの波が収まると、僕らの間をヤドカリがとおり過ぎていった。それを見送り、コスモと目を合わせると、再び僕らは笑い合った。パステルカラーの海と空が、目に痛いくらい眩しく輝いていた。そしてそれよりも更に眩しく煌めくコスモのエメラルドグリーンの瞳を見た。この綺麗な瞳に僕が写っているのだと思うと、自分は今、世界で一番幸せな人間なんじゃないかという想いで心がいっぱいになった。

「ユータが考えてる事あたし分かる」

「言ってみて」

 二人きりの答え合わせをするのには、まだもうしばらく時間が必要な事にコスモは気づいていたのだろうか。返答は、

「I'm not tellin’!」

 流暢な英語と少年のような笑い声によってはぐらかされてしまった。それはまるで砂浜に書いた字をさらう、気まぐれな碧い波のようであった。

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