第1話

  第1章 コカイン



     Introduction


 "クラプトンがJJ・ケイルの『コカイン』をカヴァーしているけど、歌詞うたの意味を読み違えちゃいけない、あれは間違いなく逆説だ、麻薬礼讃じゃなくて麻薬批判の意味で唄っているんだ"



     ♩


  

 2004年6月24日。

 この日、ギターの神の異名を持つ、エリック・クラプトンが愛用していた名器、通称ブラッキーが、世界的にも有名なクリスティーズのオークション・ハウスにて競売にかけられた。指板が擦り減り演奏する事はほぼ不可能となっていたため、クラプトン自身の手によって引退を余儀なくされていたブラッキーは、激しい競り合いの末、楽器チェーン店・ギターセンターによってなんと史上最高の95万9500ドル(約1億円)にて落札された。このニュースが世界中のファンをあっと言わせた時、その一人である僕は、とある少女を否応なく追憶してしまった。

「あたしがいつか返してって言う日まで、好きなだけ弾いてていいから」

 そう言って貸してくれたのが他でもない、クラプトンのシグネイチャー・モデルである市販品のブラッキーだったからである。

 まだ初心者だった僕にも、そのギターがものすごく良い代物だという事ぐらい本能的に直感できた。そのとき僕が弾いていたのは、父が若い頃に買った安物のフォークギターだった。弦を強く張ったまま、ベランダの納屋に長い間放置されていたそれは、ネックとペグの精度がおかしくなっていた。どれだけ丁寧に調律しても、必ずどこかで音程が狂うやっかいなオンボロ。それでも初心者には弾けるだけ有難いと、タブ譜を睨み、コードを覚えていた時、美しい曲線を描くブラッキーを携え彼女はやって来た。ボロボロに刃の欠けたカッターナイフと、神聖な力によって研ぎ澄まされた日本刀を比較するような気分になったのは決して錯覚などではない。

 中学の頃、つまり彼女と同じ時間を過ごしていた頃、僕は自分の演奏技術に強い自信を持っていた。しかし高校へ通うようになると、自分よりも上手い人をちらほら見かけるようになってしまった。大学へ通うようになると、自分ぐらいの人間はいくらでもいると知ってしまった。やがてほとんどのロックキッズと同じように、音楽で成功したいという夢と情熱を失くしてしまった。別の言い方をするなら、彼女が望んだような人間にはなれなかった、という事だ。しかしそれを恥じてはいない。理由は主に二つ。今の進路を選んだのには、サヨナラも言わず、ブラッキーだけを残し、春風とともに海を越えてアメリカへと去って行った彼女の存在が非常に強く影響していたから。そしてもう一つの理由は、そもそもロックスターなんて、普通は叶わなぬ夢だから…。ベストは尽くした。恥じる理由がどこにあると言うのだ。

 彼女は変わった名前の持ち主だった。宇宙と書いてコスモ。日本でも、そして彼女の母の生まれ故郷であるアメリカでも、同じ読みで通用するようにと名付けられたのだそうだ。コスモは少年のような顔つきをしていた、しかしスタイルだけは母親譲りで、同じ年頃の少女達とは似ても似つかないほどグラマラスだった。

 …白い肌。

 …長い四肢。

 …ミルクティーのような色をした髪の毛。

 …切れ長で、気の強そうな、けれど同時に少しだけ疲れたような眼差しの中に鎮座するヘーゼルの瞳。

 …光の加減で、瞳の縁が一瞬エメラルドグリーンに輝くのを何度か見た事もあった。

 そんなコスモに婚約者ができたと、彼女の従兄弟から報告を受けた。従兄弟の名はたけし。当時の僕らを正しく理解してくれていた数少ない味方の一人である。ただし、毅さんとの交際が本格的に始まったのは、悲しいかな、彼女が日本を去った後の事だった。そう、言わば彼女の置き土産のような存在が毅さんなのだ。いざ交際してみると、彼とは非常に良く気が合った。同じバンドのメンバーとして、何度となく音を合わせてもきた。わけあって、同じ年頃の少年たちと親密な交友関係を結べずにきたこの僕に、親友という言葉の意味を身をもって教えてくれたのは他でもない、毅さんだった。

「優太は昔から変に大人びたようなところがあったから、少し歳上の人の方がかえってちょうど良かったのよ」、母からそう言われた事もあった。

 そんな彼と久しぶりにファミレスで会う事になった。「話がある」と呼び出されたのだ。

「大学もそろそろ大詰めだって?」

 席に着くと毅さんはそう切り出した。僕は大学で心理学や依存症について学んでいた。

「うん、いま卒論に書く内容を色々と考えてるよ」

「卒論ねぇ。俺には縁もゆかりもない話だな」

 毅さんは苦笑いしながらソファーの上で足を組んだ。

「そういや大学うちの軽音楽部で、クラプトンが落札されたブラッキーのお金を、自分で設立したアルコールや薬物依存症者の回復施設『クロスロード・センター』に全額寄付するって発表した話が話題になってるよ。"クラプトンがJJ・ケイルの『コカイン』をカヴァーしているけど、歌詞うたの意味を読み違えちゃいけない、あれは間違いなく逆説だ、麻薬礼讃じゃなくて麻薬批判の意味で唄っているんだ"って…」

 毅さんがジッポの蓋を開けると、赤い炎が爬虫類の舌のように伸び、煙草の先端を舐めた。僕には理解できない嗜癖だ。酒も煙草も、生涯やらないと決めている。そもそも毒だと思っているからだ。

「…コスモの婚約者が酒を飲まない人だと聞いた時、正直ホッとした。コスモにはもう、アルコール依存症の家族に苦しんで欲しくない。そして当時のコスモと同じように、親のせいで不利益を被って本領を発揮できずにいる子どもたちを一人でも多く助けてあげたい。あの頃の僕は無力で、あんなに好きだったコスモの事を、ほとんど助けてあげられなかったから」

 煙草を持つ手が僕を指差した。

「何度も言ってるとおり、それは仕方のなかった事だ。あの頃お前はまだ中坊で、それだけの力がなかったんだ。でも、ガキはガキなりに精一杯やってた。それはこの俺が一番良く知ってる」

「毅さんが認めてくれているのは素直に嬉しい。でも、大学でカウンセリングを学ぼうと決めたのは、やっぱりあの頃の体験があるからなんだ」

「確かにお前ら、コスモの親に振り回されて、一番幸せだった時に破局しちまってるからな…」

 遠くを見るような目をしながら、毅さんは真上に向かって煙を吐いた。

「…あの頃のお前らは、嫌いになって別れたわけじゃない。むしろ逆にあんなに強く惹かれあっていたのに、コスモのオヤジの酒癖が悪かったせいで引き離されちまっただけなんだ、可哀想にな…。が、自然な事だよ、七年もちゃあ、互いに新しく別の誰かを好きにもなるさ…」

 喫い終えた煙草を灰皿に押しつけて火を消すと、毅さんは再び遠くを見るような目を天井に向けた。

「…特にコスモ、アイツは本当に可哀想だったよなぁ。そしてその事に、当時まだガキだったとはいえ責任を感じているお前は、その十字架を背負ってカウンセラーへの道を進もうとしているってわけだ。…時間が経つのは早いな」

「…ところで話って?」

「実はコスモからこっそり"ユータにお願いがある"って連絡があったんだ。いくら俺の叔父に絶対的な落ち度があったとは言え、コスモの母親はあんな犯罪ことをしでかしちまってるからな、実家うちとはほとんど絶縁状態になっちまってる、が、俺は個人的にコスモという人間が好きだ、アイツへの態度を変える気はない。結論を言う。

 …ブラッキーを返して欲しいそうだ」

「そっか、そうだよね、もともとそういう約束だったわけだし、返すのは構わない。でも…」

 毅さんは掌を広げて僕の話を遮った。

「分かってる。あいつは今、知ってのとおりアメリカ暮らしだ。今すぐに返して欲しいとは言ってなかった。詳しい事はここにある手紙を読むといい。俺が今、女と暮らしてるアパートに届いたエアメールだ。コスモがどうしてもお前に直接伝えたいと思った事が書いてあるそうだ。宛名こそ俺名義だが、中身は紛れもなくお前宛だ、見てのとおりもちろん封は切ってない」

 懐かしいな、素直にそう思った。初めてコスモからエアメールを受けとったのは、中学の卒業式を終えた後の事だった。

 …お別れの手紙だった。

「話が中途半端なんだけど、先に手紙を読んでもいいかな?」

 封を切ると、中には見覚えのある小さな丸い文字の書かれた手紙が入っていた。



     ☆



 久しぶり。元気? 毅から聞いたよ。いま大学でカウンセラーになるための勉強してるんだってね。すごい、やっぱユータは頭いいや。

 あたしね、実はもうすぐ結婚するんだ。あたし今ロサンゼルスの日本語学校で先生やってるの。ダーリンも同じ学校で働いてる、…といってもダーリンは先生をやってるわけじゃないんだ、主に事務や裏方の仕事をしてるの。日本語は少し話せるって程度で、読み書きができないのよ。つまり先生になる以前の問題ってわけ。

 馴れ初めは友達の結婚式だったんだ。余興でバンドの生演奏をお願いされたの。なんといってもアメリカはロックの国だからね。あたしはもちろん、ド・ラ・ム♩。その時ギターを演奏したのが彼だったの。三年生お別れ会の時、毅や歌祈たちと一緒にライヴをやったのはもちろん忘れてないよね(あの時はホントすんごい盛り上がったよね)、あの時と同じぐらい、音がすごく良く合ったんだ。すっかり意気投合しちゃったのよ。しかもすっごいカッコイイんだ。サングラスかけるとトップガンのトム・クルーズみたいなの(これ読んで、今、笑ったでしょ?)。

 付き合おうって言われた時、本当の事を全部正直に話したんだ、…もちろん、日本での事を。そしたらダーリンこう言ってくれたんだ。


 Thank you for telling me about things in Japan.

 But I won't change my mind with such a trivial matter.

 If I were kind of jerk, God wouldn't have brought you in front of me.


 ユータなら分かるよね。でも、一応念のために訳しておこうと思う。


 日本での事を正直に話してくれてありがとう。

 でもそんな事で僕の気持ちが変わったりしないよ。

 もし僕がそんな男だったなら、神様は君を僕の目の前に連れて来たりはしなかっただろう。


 いかにもアメリカ人らしい言い方だよね。プロポーズされた時も、「まだ日本の刑務所にいる君のお母さんも、僕の家族だと思ってる。君と一緒に帰りを待つよ。もう少しで出所できるのなら、それを待って挙式をあげよう」って約束してくれたんだ。嬉しくて泣いちゃった。


 ところで、カウンセラーになるのを選んだのは、あたしの事でユータなりに考えてくれたからなんだよね。嬉しく思う。あの手紙には夢がどうとかって書いたりもしたけど、あの頃のあたしはまだまだ子どもだったんだなって思ってる。ユータなりに頑張ってくれているのなら、あたしそれだけで幸せ。


 生まれて初めて好きになった異性ひとはあなたでした。そしてもう二度と、あんな風に異性を好きになる事はないと思ってます。もちろん、今のダーリンは一番大切な人です。でも、あたしにとってユータは特別な存在なんです。でもね、仮に今あたし達が再会したとしても、もうあの頃のような関係に戻る事は絶対にないと思ってるの。あの頃のあたし達の関係は、あの多感だった時期のあたし達だけにしか起こり得なかった、ある種の化学反応だったんだよ。


 …世界のどこを探しても、あの日の二人はもう居ない…。


 ちょっぴり寂しい気もするけど、あれは、ある日ある時、ある条件がそろった時にしか起こり得なかった化学反応ケミストリーだったのよ。そもそも同い年の男の子だったユータに、死んじゃったお兄ちゃんの代わりを求めて甘えていたあたしもあたしだったんだし。


 前置きが長くなり過ぎちゃった。お兄ちゃんの話題ついでに本題に入るね。今更もいいとこなんだけど、ブラッキー返してもらえる? ダーリンがどうしても弾きたいんだって。

 本当はね、アメリカと日本、離れ離れになった時点でブラッキーの事はもうあきらめてたんだ。「ユータにだったらあげてもいいや、天国のお兄ちゃんも、ユータが弾くのなら喜んでくれるだろう」って思ってたの。でも、ダーリンは全部、何もかもを承知の上で、結婚式の時にそのブラッキーを弾きたいんだって言って聞かないのよ。そしたらなんだかあたしもさ、急にブラッキーが恋しくなっちゃったんだ。あのギターは、なんと言ってもお兄ちゃんの形見だから。今すぐじゃなくていいの。結婚式には必ず呼ぶから、その時に持ってきて。絶対だからね。


 コスモ・J・ウィンストンより、もう一人のお兄ちゃんへ。


  …追伸。


 もし良かったら、ユータの新しい彼女も結婚式に連れて来て。その人にも会ってみたいの。待ってるからね。



     ☆



 幸せそうなコスモの姿が、ありありと目に浮かぶようで嬉しかった。しかし同時に、複雑な気持ちで胸がつかえそうにもなっていた。

「ブラッキーを返して欲しいという気持ちと経緯はよく分かった。いつでも返せるようにしておく。コスモには毅さんの方から連絡しといてもらえるかな」

「分かった。ところで一つ聞かせて欲しい。お前らが別れた後にやって来た最初の夏、俺、言ったよな、…お前ぐらい頭が良けりゃ、片言の英語でアメリカに渡ってコスモを探すぐらいできるはずだ。今ならまだ間に合う、金なら俺がどうにかしてやる、夏休みのうちにロサンゼルスへ行ってこい、って」

「言ってたね、よく覚えてるよ」

「覚えていると言うのなら、なおさら聞かせて貰いたい…」

 ほろ苦いコーヒーを啜ると、毅さんは言った。

「…お前、なんであの夏、コスモを追いかけなかったんだ?」


 …ふと、コスモと過ごしたあの眩しすぎる日々の思い出が脳裏に蘇った…。

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