第9話I.――霜月――

 やがて手配していたラテン語翻訳家が漸く都合のつくことになり、知己の常の仲立ちで仕事を受注してくれたが、それによると、問題の書面は精確なラテン語が使われており、何か不足なものがあって要求しているようだが、一体肝腎なものは何なのか悉皆見当がつかない、とのことだった。斉藤ドクターに問うと、さあ、こちらから患者さんにコンタクトを取る技術はまだ確立されておらんのですよ、と苦笑いしながら言うだけだった。そこで哲は一計を案じ、今までの病室から忍の身体を運び、圭介叔父の隣の空き個室にいれたら、と提議する。斉藤ドクターは詮方なさそうに渋々允可したので、それを受けて早速忍を移し、操子と共に様子を見る。――と、午後七時、哲が操子と晩餐を済ませて病室に戻ろうとすると、忍の病室と圭介の病室、両方の病室でサイレンが唐突に鳴り出し、赤色灯が回転し出した。ナース詰め所から何人も看護師が来て忍のと圭介のとそれぞれ点滴を確認したりするが、「あら!?」と叫ぶのでみると、忍の病室では忍が意識をとり戻しており、圭介の病室では圭介がこと切れていた。忍はだいぶ消耗しており、暫く入院する要がある、とのことだった。一方、圭介の通夜、葬儀は滞りなく遂行された。

 そして十月十三日、哲と常の誕辰であるが、この日哲と操子の婚約が、高橋亮の仲人によって正式に決まったのだった。

 婚約が決まってから、操子は毎日のように哲の住まいに通って来るようになった。哲は復た週に二度都内へ出て語学教師として齣(こま)をうけ持ち、その行き帰りにもノートPCを手放すことはなく、教育に執筆に、と多忙な毎日を送っていたのだけれども、そんな操子を拒むようなことはなかった。

 忍は日にまし恢復し、ある日枕許で看病していた常に向かって、

「わたしはしばらくの間、重力もなく上下左右の別もない空間にいた。そこでわたしは初め、身体の検査を受けた。健康や性別に関するようなことではない――、寧ろ教養や知識に就いての検分だった。だれがやったことか、だれの意思で為されたものか、その辺のことは残念ながら分からない。しかし、わたしはじぶんの語学力が認められると、すぐに登用された。とり立てられた。と言っても一体誰が、何のためにしていることなのか、と云うことは、わたしには一切分からないことなので、答えようもない。さて、インテークが終わってからのわたしは、日々――、と云っても時間の観念はまるでなかったから定かに言えることではないのだが、只管ひたすら本を読んで過ごした。読まされた。その一方で、わたしは地体本が好きだし、わたしの語学の研鑽の上でも有用だったからわたしは熱心にやった。いろいろな本があった。人体を描いたもの、海洋や宇宙、古風な機械類の成り立ちを描いたもの、音楽を説いたもの…。医術を説いたものもあった。山ほどの本をみて過ごした。その時間は、わたし個人にとっては非常に有意義で、幸福なものであった。しかし、その幸福な時間はあるとき突然奪われた。わたしは復他無重量で上下もない真っ青な空間、黝いほど蒼い空間へと投げ出された。そこではわたしにはもう一切の仕事も義務も努力もなく、見返りもなかった。それは沙漠を彷徨うのにも似た、辛い、まことに辛いものだった。何というか、じぶんの身体を虫食むものがいるのだ。わたしは、わたしの身体は腐らせられ、蝕まれ、喰われていった。侵蝕されたのだ。その余りの痛みにわたしは何度も叫び声を上げたが、もどかしいことにわたし本人の耳にはまったく聞こえず、況してや他の人にも一切聞こえないらしく誰も来てくれなかった」

 と語るのだった。

 操子は家事の手伝いをする旁々頻りと哲の住まいを訪れ、雑誌やレコードを見ては「このバンドは?」「この人は?」「これはどこのグループ?」と小児のようにうるさく問い質すのだった。哲はそんな操子を憎からず思い、次第に操子と交わす言葉数も増え、時には冗談を口にすることもあった。



 十一月六日、哲は操子と結婚式を挙げた。

 そして同月下旬、哲は常から、「忍が子どもを授かった」旨の報告を受けた。

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2×2 深町桂介 @Allen_Lanier

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