第8話H.――神無月――

 H.――長月――

 その後、取り敢えずしゃんと意識を恢復した細君を連れて常は住まいのマンションへ戻り、哲はそんな二人を気にしつつも操子と密に連絡をとり合いながらも書き物仕事に没頭する日々が続いた。だが、どううも造化の神さま、運命の神さまと云うものはもの事をストレートには終わらせてはくれぬものであるらしい。変事が出来したのは九月四日の未明の事である。哲はその日、前の晩は本の原稿を書くのに根を詰めすぎたらしく、二時間ばかり仮眠しようと午前三時頃に目覚まし時計もセットしてベッドに這入ったところ本格的に眠り込んでしまい、目覚まし時計の鳴らした午前五時のベルもそっちのけで眠りこけ、目が醒めたのは午前六時二五分、双子の兄からの電話だった。何かうっるさく鳴ってんなァ……、から始まった哲の意識は、やがてンン? こりゃ電話だぞ。とするとスマートフォンかなあ。を経て、ああ電話だ電話だ。廊下で鳴っている。誰か――兄貴ィ、……あいないのか。に至って、哲は目をこすりながらベッドを後にすると、固定電話の鳴っている廊下へと急いだ。早く! 今行くからちょっと待ってくれ!! あと何回鳴る積もりだ? 二回、いや三回? ホラ直ぐそこだぞ……、ソラ摑まえたァ!! 受話器を手にし、耳に当て、やや息を切らしつつ、「はい、鈴之木」と送話口に吹き込む。と、聞き慣れた声が――イヤこれは一体誰の声だったかなァ……、「ああ哲っちゃん」ぼくを哲っちゃんと呼ぶのは、兄貴の常か、相溟学院の連中だけだから、オイお前さん、まさか柾木か!? と呼び掛けようとしたところ、それは双生児の兄の常の声になり、「おい哲よ、大変だ、大変なんだ!!」と哲に事態の急を告げた。哲は漸っと眠気の抜けた声で、「何があったん、一体?」常はすうっと息を吸い込み、角張った声で、「いなくなったんだ」と哲の前に言葉を並べた。「いなくなった? 忍さんが?」「ああ」「失踪した? マンションから?」「そう!」「け、県警には?」「まだだ。分かって直ぐにお前のとこに電話したんだよ」「そうか。――兎に角、直ぐ行くから、部屋で待ってて」哲は運動し慣れた人間ではない。けれどもこの際には四の五の言っておられず、常のマンションまでの約四・五キロをナイキのスニーカーで走り抜いた。タイムは三九分ほどかかった。元気のいい高校生の陸上競技選手なら五〇〇〇メートルを十五分ほどで走るから、まずまずのタイムではないだろうか。マンションのエントランスに着くと部屋のインターフォンを押してロックを解除してもらい、五階までエレベーターの筺に揺られ、常の部屋に急いだ。「どんな感じなん?」「どんなもこんなも、忍が出てから触ってないから、見るだけ見たってや」常が急にやくざな関西弁を使うのが気になったが、取り敢えず哲は言われた通り見るだけは見た――、ダブルベッドの忍が寝ていると思われる側には慥かに寝た形跡があって、シーツは寝乱れている。「深夜に家を出たみたいなんだよ」常はおろおろした声で言った。常によると、前夜忍は十一時前に休み、哲はあれこれ家事を済ませて仕事の資料に目を通し、寝たのは午前一時半だという。常は睡眠剤などは服んでいないが、寝酒にリキュールを一杯か二杯やる。昨夜はだいぶ疲れていたので酔いがすみやかに廻り、割と直ぐ深い睡りに落ちた。そして今朝は午前五時三〇分に目覚ましで起き、そして変事を知った――、これが概略だった。「外出の仕度は?」「うん、ワードローブから普段着が一着だけ消えてる。あとハンドバッグ一つ――、いつも使ってるやつで、交通系ICカードとか財布とか、一と揃い持って出ている筈だ」「靴は?」「履き慣れたローファーで出てるね」「どこか行きそうな場所は?」「そんなのはおれの方が聞きたいよ」「うーむ」二人はダイニングで頭を抱えた。だが、二人とも、今回の結婚はやはり見送って時の経過を待ってから挙式すべきだったんだ、とか、先方にも足許を見られていたみたいだしな、だとか、そう云う「たら・れば」の話は決してしなかった。何しろ、次には哲も控えているのだ。それから警察に届けるべきか話し合ったが、この唐突な出奔の背後にはあのマリャベッキ博士の影もかいま見えるようだったし、そうなると余計話が混乱しそうだったので、直ぐに届けるのは控えようと云うことで話は一決した(後刻県警に行方不明者として届け出る際、なぜ届け出が遅れたのか問われた場合には、どの道マリャベッキ博士の名を出すことになる筈だった――、そんな遅くまで行方が知れず、またアントニオ・マリャベッキの影姿も認められないのなら、今回の一事にはマリャベッキが絡んでいる可能性は低くなり、従ってマリャベッキ氏の名前を出しても構わないと思われたからだ)。そして二人は取り敢えず、本当に取り敢えずだが、住まいの周りの草むらや藪、雑木林など普段視界から遠くなっている場所を中心に簡単に捜索したのだけれど、手がかりは一向に見当たらなかった。哲は仕事があった。九月に入ったので語学学校の講師としての仕事が入るようになり、Zoomのような気の利いた設備を使うのもおぼつかない高齢者も生徒に含まれているので都内へ出勤せねばならず、またキャンセルするとヒンシュクを買うようなところであるのでどうしても出ねばならず、それなら当面必要な生活資材を常のマンションに移してこっちで生活するか、とも提案したのだが、常は常でまだ消化し切れていない夏の休みがあと二、三日ほど残っているから、それを使ってしまおうと思う、哲っちゃんには哲っちゃんで暮らしがあるんだからそれに励精れいせいして精々邁進しろよ、と言い、哲のために帰りのタクシーも呼んでくれた。タクシーが来るまでの十五分間、哲はこの双生児の兄に対していっぱい言いたいことがあるようでその実どう頑張ってもいかなる努力をしてもその言葉はどこかじぶんでも分からぬところに深い深い穴を掘ってそこに没却してしまったようでいち言も見当たらず、詮方なしにそこで哲はゲイの兄貴に対し頑張れよ、の一と声を成る丈大きく明瞭な声で発し、ぽんぽんと(馬ならあの馬面の)鼻面をなでてやると馬もじぶんがホメられているとカン違いしてよろこぶ……、のだったが、哲は車が来たので名残惜しむような様子は見せつつも手を振って乗り込んだ。哲は内心では、(ああ今ぼくたちのことを見たこの運転手はどう思ったろうか後朝の別れを迎えたホモのカップルみたいに見えたかも知れないな、あでもぼくらは二人とも完全にクリソツであるし……)などと実に下らぬことを考えていたのだが、それはこの際どうでもよい。哲は哲として英語とドイツ語の文法ならびに訳し方に就いての講義を行い、朝夕と往還の電車内では書物の原稿を一心に打ち、と仕事に余念も油断もなく過ごした。常は住まいの周辺を中心にしてかなり詳しく捜索を行ったようだ。常と哲が別れて一日半経った晩のこと、哲のスマートフォンが鳴った。常からだった。「もしもし」「おい、哲っちゃん、あったあったあったぞい」「なにが?」「ふふん、聞いて驚くな、忍の衣類をまるまるワンセットだ」「な、何だって?」「ナンだってもカンだってもない。忍が身に着けていたもの、一緒にもちだしたもの、履いて出たもの、ぜんぶ揃ってるんだよ」哲は鳥渡考えてから、用心深く、「それ、どこにあった?」「林の入り口、取っ掛かり」「ふうん。間違いなく奥さんのものかい?」「ああ。――お前も見覚えあるだろ、千鳥格子模様のスカートに、えんじ色のブラウス。下着は……、さすがに見覚えないだろうが…」「下着っ!?」哲は思わず叫んだ。「下着もあるのかい?」「そう言ったろ」「ふむむむ……」「スカートのポケットにはちゃんとハンカチも入っていた」「あ、あのさ」哲は復た叫んだ。「ハンドバッグの方は? 現金やカード類は?」「うむ、ぜんぶ無事だ。すっかり揃っている」「そうか……、よし、じゃあ今日か明日で、電話してみるよ」「電話? 一体どこに架けるのさ?」「決まってるじゃないか。あのアントニオ・マリャベッキのヒヒ爺いのところだ」「そうか。――じゃあおれは待ってるけど、くれぐれも煙に巻かれないように気を付けてくれよ」「大丈夫だ。ヤツの出方なら一度実験済みだからね。今度はおさおさ気を付けるよ」「気を付けろよ。おれは明日から復た出勤だ」「あい分かった、明日の晩に電話するよ」「ああ待ってる」電話を切った哲は、スマートフォンをポケットにしまうと、机上にあるPCのスリープを解除して、机の前の椅子にどっかりと腰を下ろして、蒼く光を放つモニタ・ディスプレイの中をのぞき込んだ。たっぷり三分三〇秒もじっと対峙していたが、軈てコンピュータを解放してつと席を立った。窓辺の電波状況のましな辺りを選んで、この間手に入れたマリャベッキの私用スマートフォンの番号を入力した。こんな時間だし、誰も出ないだろう、と思っていたら、ひとが出た。繋がったのだ。哲は驚いてその場で跳び上がった。しかし、それは男ではなかった。「はい、マイラ・ウォリックですが」と名乗るので、「アントニオ・マリャベッキ博士ではないのですか?」「あ、……はい、済みません。マリャベッキは今ちょっと」「ご不在で」「え、まあそうです」たどたどしい日本語で話すが、これでは埒があかない。哲は英語に切り替えて、「博士はどちらに?」「ちょっと分からないんです。ごめんなさい」「…実は、我われの方でも博士と関係のある失踪者が出ていましてね」「え? と申しますとどちら様でしょう?」「旧姓青山、現鈴之木。名は忍」「はあ。お気になられるようでしたら明日までにお調べしておきますけど」哲は腹が立ち、「そんな明日、明日と言われても、こっちはもう三日も探してんだ。今スグに返して欲しいのだ。できなければそちらへ行くまでだ」と、女はおろおろ声で、「本当に、わたし何も知らないのです。わたしはマリャベッキの個人秘書なのですが、博士はまた何も言わずに不在にしてしまって」と言うばかりでまったく進展が望めないようなので、明日できれば伺う旨を言い置いて電話は切った。常に電話して、個人秘書を名乗る女が出たが話が通じない、じぶんは明日瀬谷の本社を直撃するつもりだが一緒に来るか、と問うと、常は二つ返事で、夏休みの最後にいいイベントだな、と言って通話を切った。翌朝、哲は早く起き出し、今日は休みになるな、と思いながら昨夜も少しずつ文章の彫(ちょう)琢(たく)を確かめていた原稿のファイルを閉じ、PCの電源を切った。階下に降りるとキッチンに這入ってオートミールを煮、ブイヨンのキューブを一箇落として鶏卵も割り入れ、珈琲を沸かし、オートミールのポリッジで朝食を済ませると、ガレージに這入り、ジャガーXEのガソリンやオイルやタイヤの具合を簡単に確かめた。乗るにはいい状態のようだった。この車は父親からの唯一の遺産と言ってよかった。哲は常に電話して起きていることを確かめ、必要と思われる財布やカード類、身分証明書などをまとめてショルダー・バッグに詰め、家の戸締まりを確認してガレージのシャッターを開けると車を出した。車のサンバイザーに取り付けてあるボタンを操作するとシャッターは復た閉まり、哲はゆっくりと車を転がした。滅多に乗らないのだが、バッテリーも大丈夫なようだ。眠そうな目をしている常を拾い、哲はサングラスを掛けると車を出した。瀬谷区までは小一時間の旅である。ウィークデイの朝ということもあって車は稍混み合い、ナビゲーションが示すアドレスにたどり着いたのは午前十時少し前のことだった。「すごいビルだな。威圧されるぜ」と常は呟いた。建築物は三階建てだったが、上から見ると一辺が七〇〇メートルほどもある方形の建築物らしく、緑地帯に縁取られているが、いやだからこそ、見る者に威圧感を与える造りだった。「どこから這入ればいいんだろうな」哲は建物の周囲で何回かUターンして本社社屋の周囲を巡り、その挙げ句、《お客さま出入り口》と小さく書かれたプレートが掛かった開口部を見つけた。車一台が漸っと通行できそうな狭い入り口だった。哲はジャガーXEの長軀をどうにか壁でこすらずになかへ入れ、ゆっくりと進んだ――、と、不意に周囲が暗転すると回転灯が廻ってご丁寧にサイレンまで鳴り出し、哲は寿命が縮むのを覚えた。脇のドアが開いて作業服を着てヘルメットをかぶった男がでて来た。「どちらさま?」哲は無言で身分証を出した。「音楽雑誌のインタビューですか」と皮肉るので、腹が立った哲は、「義理の姉が御社と関係ありそうな形で姿を消しましてね。アントニオ・マリャベッキ氏か、いないのならその個人秘書とか云うマイラ・ウォリック女史に会いたい」勃然(ぼつぜん)として答えると、ヘルメット姿はウォーキー・トーキーに向かってなに事かやり取りしていたが、やがて哲に向かって、「マリャベッキは不在だが、ウォリックはおります。お会いする、と言っている。車は廻しておくのでここで降りて。そこのエレベーター・ホールの三番のエレベーターで最上階へ行って」と指図するので、哲と常はそこで車を乗り捨てた。後刻常が哲に確かめたところでは、哲は生きて帰れる気はしていなかったのだということだった。哲は常を伴い、地味なドアを通って通廊に這入り、教えられた通りのエレベーターを呼んだ。筺にはだれも乗っていなかった。最上階で降りると、エレベーターは直ぐに行ってしまい、二人は厚地の黄色い絨毯の敷いてある廊下に取り残されてしまった。廊下はところどころ照明が灯っているが、基本的にうす暗い。哲は兎も角行こうぜ、と常を誘って取り敢えず右に進んだ。と、十五メートルほど進んだ暗がりで廊下は行き止まり――、いや左に曲がっており、その約五メートル先にドアがあった。「社長室」とだけ書かれたプレート。哲は迷わずノックした。返辞なし。もう一度、強めにノックする。と、「はあい。どうぞ」と云う返辞があって、哲は先に立って常を伴い中に這入った。中はそれまでの社内とは裏腹に陽光に満ちあふれ、室内は基本的に白色で統一されていることもあり、眩しいほどだった。室内は広く、低い事務机が幾つか(やはり白く塗られている)あり、コンピュータ端末なども置かれており、そのいちばん窓際の机に一人の小柄な若い女が着いていた。「どうも失礼しまして、この度はいらっしゃい」と女は言うた。哲が「マイラ・ウォリックさん?」と問うと、女は「はい」と答えた。「マリャベッキさんは一体どちらにおられるのですか?」「それが……、わたくしにもよく分かりかねまして」「どういう意味です? あなたはアントニオ・マリャベッキ博士の何なのですか?」するとマイラはみるみる汪然おうぜんとなって、「わたくし、マリャベッキの個人秘書ですが……」と鼻声で、「ですがマリャベッキは今回、わたくしを選ばなかった。わたくしをここに置いて行ってしまった」そう言うと低い声で泣き始めた。今度はおろおろするのは常と哲の方だった。涙の一段落した頃を見計らって哲が一体それはどういうわけか、よかったら少し話して欲しい、と言って懐柔(かいじゅう)し、ウォリックがぽつりぽつりと話したところによれば、実はマイラは個人秘書兼愛人なのであった(道理で美人で化粧も行き届いている、と哲は考えた)。そして、今回の〝聖遷(とマイラは言った)〟に、マリャベッキ博士はマイラ・ウォリックではなく別の誰か(マイラは〝両刀〟と呼んだ)を連れて行ったのだ、と云うことだった。両刀、とはどうやら〝ふたなり〟の意味らしいな、と哲は推測した。先生はわたくしではなく両刀を連れて行ってしまった……、と言ってマイラは泣いた。そこで哲が、マリャベッキは鈴之木忍のことも連れて行ったのではあるまいか、と言うと、マイラは洟をかんで、「それは大いにあり得ますわ、気の多い人ですから。多情多恨を絵に描いたような人でした」と言う。哲がそこで、「では一体どこへ?」と問うと、「さあ、いつも思いつきで出かけてしまうので、具体的にどことは分かりませんわ」と判然(はっきり)しないことを言うだけだった。哲は拱手して、「さあ困ったね」と言った。「忍さんが見つからない限り、ぼくらはあなたのことを解放する訳には行かない。済まないが、ぼくたちと一緒に来て貰います」マイラは大人しくうなだれて、「あたしにもよく分からないお話なのですが、どうも復たマリャベッキが不行跡を致しましたようで、大変申し訳ありません。仰有る通りに致します」と言う。その上でマイラに問うと、東の角の机の四段目の抽斗に細引きが入っている、ということだったので、長さは十メートル以上得あるようだったが、それを取ってマイラ・ウォリックを連れてエレベーター・ホールに出た。マイラに車で来ている旨を告げると、「あ、じゃあエレベーターは二階で降りて、光の入る通路がありますから、そこを真っ直ぐ行って……、兎に角あたしの申し上げる通りに行かれれば車回しのあるロビーに早く着きますから」と言うのでふたりはマイラの言う通りに歩き、軈てちょっとした庭園をしつらえた玄関にたどり着いた。「ここで?」常が言うと、マイラは手近にいた守衛に話し掛けて身振り手振りで何やら問答を繰り返していたが、その内話がついたとみえて、明るい顔でふたりの許にもどって来た。「大丈夫、キィは車の中にありますから、今廻してくれるそうです」約五分後、三人は車の中にいた。哲が運転席に、何となく信じ切れないので常を隣につけてマイラは後部座席に、それぞれ収まった。「哲っちゃん、これからどこさ行くだ?」常がエセ東北弁で言うので、「常ちゃのお住まいじゃあずましくない、おらの家さ行くべ」マイラ・ウォリックは、「あら、あたし拉致されちゃったのかしら」と何だか嬉しそうだ。一行は午後一時前に鈴之木家に到着した。マイラは一人でジャガーの後部座席に残し、哲と常は車を降りるとマイラのために照明は点したままでガレージのシャッターを閉め、家の中に這入った。常は「これからどうする?」と言ったが哲は「まずは腹に何か収めないと。あのマイラ何とかにも喰わせないとな」と言ったので、常は玄関脇にあるガレージへと降りるドアを開け、車のなかでじっと待っていたマイラ・ウォリックを降ろし、家の中に連れてきた。マイラは、「あら、あたし、日本の普通の民家に這入ったことって、留学して来た時以来だわ。ワァオ!!」と何故だか亢奮する。哲は、そんなマイラの前に立って、「マイラ・ウォリックさん、あなたはどうされたいですか? どういうお望みであなたはここまで来たんです? ――まあ、最初に食事にしましょう。作り置きのトマト・ソースがあるので、スパゲッティにしようと思うんですが、いかがでしょうか?」マイラはパスタでいいと答えたので、哲はキッチンに立った。本当は一人分ずつ茹でたいのだが、今日は時間が時間だし皆腹を減らしているので、三人分を一度に茹でた。アルデンテより少し固めに茹でると、鍋であたため直したソースを盛り、マイラにまず供した。「毒味でもしますか?」哲は皮肉を込めて問うたのだが、マイラはそれには及ばないと言った。非常に奇妙なことだが、三人は食べながらマイラの処遇に就いて話し合った。すると、マイラは目をきらきらさせて、「あたし、縛られたいんです」と言った。「高手小手に……、考えただけですばらしいわね」ふたりは引いていたのだが、マイラには伝わらなかったようだ。哲は、「済まないけど、縛り方って、ぼくらよく分からなくて」するとマイラは、「あら、あなた方、あたくしをこんな風にこんな場所へ連れて来るだけでも充分違法行為に当たるのよ。若しあなた方があたしのお願いを聞いて下さらないなら、あたし、あなた方があたしをここへ拉致ってその上縛った、って警察で言うわ」哲は気乗りのしない視線を常と交わしてから、「教えてくれるなら、やりますけど」と言った。マイラはスパゲッティにフォークを入れながら大きく頷き、「じゃあ任して」と驚くべき健啖(けんたん)ぶりを披露しつつ言うのだった。そして食事が終わると、マイラは細引きを出させ、さっきのガレージがいいわ、と言ってすたすたとそちらへ歩を運んだ。哲は常と顔を見合わせたが、常は肩を竦めるだけで、哲も同じ思いでガレージへ向かった。ガレージではマイラが細引きを持って踏み台に乗り、天井に剝き出しの鉄骨に紐を引っかけようと苦心していた。哲がそのマイラから細引きを託され、ここはこういう風に、そこはそうやって、といちいち細かく指図を受けて、十五分もするとマイラは立派に鉄骨の梁から細引きで以て吊り下げられている婦人の図そのものになっていた。「さ、知っていること、全部吐いて貰おうか」常が命ずると、マイラは妙にとろんとした目つきになって、「ご主人さまァ、どうぞいたぶってェ、だけど余り熱いことは厭ですゥ」と何を勘違いしたのかそんなことを口走るので、哲は惘(あき)れてしまった。まさか芝居ではあるまいな、と試しに頬を張ってみると、「ああっ、ご主人さまぁ、何でもお命じ下さぁい」と甘ったるい声を出す。狂言ではなくマジなのである。「おい、ではマリャベッキの居場所を言え」と問うと、「分かりませェん」「誤魔化すとためにならんぞ」と手指足指をジッポの火で炙ってみたが、返辞は変わらない。「では忍さんは」と矛先を変えてみると、「あああの人なら、古代ローマにルーツがあるから、大英博物館じゃないですか」「いい加減なことを言うとろくなことにならんぞ。大体服だけ残っているじゃないか」「霊体だけあっちに行くから肉は要らない。もちろん服も不要なのでそれは置いて行くはず」「霊体って、一体どこで何をするのだ」「過去の故事に関する膨大な資料・史料がありますから、そうしたものに接触をとって、エキス、エッセンスを吸収させて、要件をふるいに掛けて残すのです」「そんなものをとって何をするんだ」「これからリクルートする人材の目星を付けるために使うのです」「人材のリクルートはもう聞いた。これまで一体どんな人間を獲得して来たのだ」そう問い詰めると、「ミサキ、ミカサ、ツバサ……」と録音されたりプログラムされた音声を再生するかのようにしゃべるので、繰り返し問うと、た「ミサキ、ミカサ、ツバサ……」とリピートするだけなので、「おい、ふざけるなよ。お前と遊んでいる時間はないのだ。お前の生命など保証できないぞ」そう(慣れぬながらに)精一杯居丈高に言うと、「わ、わたしの生命などはるかに軽いものなのです」とガクガクふるえながら繰り返し、半分壊れてしまったので更なる追及は諦めた。苦労してマイラ・ウォリックの肉體を下におろすと、パチンと平手打ちにした。するとマイラはハッと意識をとり戻したので、タクシー代は渡すから帰るように言い、口許によだれを溜めた女を駅前まで送って行って解放した。

 哲と常は語らった上で操子にも事情を明らかにしよう、ということで話は一決した。操子は気を揉みながら家で仕事をしつつ鏡子と過ごしていたのだった。哲と常は青山家をおとない、四人は膝詰めで魂胆話に耽った。哲が主として話をして、操子はその話しにじっと耳を傾けていたが、幸い哲のおそれていた、「あたしのことは構わないで!」と云うようなヒステリックな反応はなく、「アントニオ・マリャベッキ……、いいえ、初耳です、聞いたことないわね」とか、「ドリームフィールド社? おカネのため? まあ、あの子やっぱりムリして……」と云ったような女性らしい抑制の効いた反応が返って来るだけだった。では善後策をどうしようか、という話になって、青山家の忍が使っていた部屋を漁ってみたりするのだが、出てくるものはと言えば忍の(操子にも思い出深い)品々ばかりで、操子は鏡子と共に涙に暮れてしまう。これでは話にならない。哲はつごう三日間を青山家で過ごし、幸い語学教師の予定は入っていなかったので書き物仕事で必要な資料など一揃いを持って行って青山家で仕事しながら鏡子と操子の心の支えになった。鏡子も操子も二人きりでは心細かったとみえて、哲は些細な事柄でもよび立てられた。が、そんな三日目の昼下がりにそれは来た。哲のスマートフォンが鳴ったのは午十時二〇分過ぎ、たまたま三人がお茶の間に顔を揃えてお茶を飲んでいるところだった。本当は電話には出たくなかったのだが、発信元が市民病院であって、何となく虫の知らせがあって哲は電話に出た。「こちら、鎌倉市民病院相談室の高野と申しますけれども」ああ、と吐息をつく思い。来るべきものが来たか。「鈴之木圭介さんに就いてのお話なのですが、いまお時間の方は――」「あ、はい、大丈夫ですが」言いながらたち上がって、鏡子と操子の視線を背中に浴びつつ隣室に移る。「実はですね、余り予後がよろしくなく――」「ああ、はい」圭介叔父は父方の叔父、哲と常の父親の弟に当たる人物だが、胆道腫瘍とのことで入院していた。が、常と忍の結婚したことは知っているし、哲と操子が結婚する予定であることも知っていた。高野は続ける。「それでですね、主治医の中今ドクターの話では、最近はちょっと違う症状……、ドクターは〝離魂病〟だと言うのですけど、そう云ったものも見られましてですね、この辺は大学病院へ移らなければ詳しい検査ができない、と仰有るんですけど」「そうですか。癌の方は」「末期、とのことです」「ああ、そうですか。では」「いや、それがですね」「何か?」「あはあ、最近叔父上さまは、意味不明のことばをノートに書き付けていらっしゃって、それが中今先生によるとどうもラテン語らしい、と仰有るのですね。詳細を調べるためにこれは大学病院に移した方が得策だ、とのことで、どうやらもう紹介状も書いて下さったようなんです」「――ははあ」と云う訳で圭介叔父は大学病院に移ることになった。十日ほどのゴタゴタの末に、既に半ば人事不省になっている叔父を二〇キロほど離れた大学病院に移し、そちらの大学の主治医となる教授先生と面談した。先生はノートを見ながら、叔父さまはどんな仕事をなさいましたか? とか、コンピュータは使われたのですか? とか一つ一つ明瞭な問いを発し、哲はその都度、エンジニアをしていました、とか、ええ割と得意でした、などと答えた。そして最後にラテン語はお出来になりました? と問うので、哲はさあァ、と首をひねった。

 常は会社があるので哲がひとりでバタバタしなければならぬ。語学教師の仕事も〝当面休講〟としてもらい、じぶんの家と青山家と病院とをひっきりなし往還した。お蔭で車の運転技術がブラッシュアップされた。――そしてその倥偬(こうそう)のなか、忍がひょっこり帰宅した。哲は丁度病院で〝夜とぎ〟、つまり宿直(とのい)をしている晩に起こったことなので、直截(ちょくせつ)その現場に居合わせた訳ではなく、後日談として操子からスマートフォンへの連絡で知ったことなのだけれど、青山家で操子と鏡子とでわびしい晩餐をしたためていると、表のベルが鳴ったので誰かと思って外に出てみると麦わら帽子をかぶった忍が佇立していたのでひどく吃驚したのだという。操子も鏡子もあれこれと質問攻めにすることはなく、ただああよくお帰りになったね、疲れたろう、お風呂も沸いてるしご飯もできているよ、と言って迎え、平生食が細い筈の忍はご飯を二膳お代わりして食べた(アルコールは欲しなかった)。翌朝操子から常に電話を入れて、その夕常が迎えに来て、それで一応丸く収まったのだそうだ。

 哲はその頃、圭介叔父が書いたノートの文章と血の汗を流す思いで格闘していた。「…… primus ascensus ad honoris amolioris gradum]などと判読できる。トゥッリウス・キケロの文章を模したものだろうか。哲は操子に、きみラテン語は、と問うと、「pig Latinなら得意なんだけど」、と大笑し、次に真顔になって、「忍のほうができるかも」と言うので、哲は忍を伴って大学病院に行った。その途次、哲は忍の様子を観察するのだが、そう変わったところは見受けられず、ひとまず哲もほっと安堵の胸をなで下ろすのであった。大学病院に着くと、哲が先に立って五階のナース・ステーションに向かった。斉藤教授は銀縁眼鏡の奥の金壺眼を光らせ、忍に向かって、あなたラテン語お出来になりますか、と問うた。忍が少し、と答えると、そうですか、ぼくらは学部で必修科目なのですが、いま覚えているのは、第一変化名詞の格変化だけです、femina、feminae、feminae、feminam、femina……、これで正しかったでしょうか。ま、この程度でして」と言って禿げた額を叩きハッ、ハッと笑った。忍はノートブックをうけ取ると開き、パラパラとページを繰って読んでいたが、「お分かりになります?」と下手に顔を眺める斉藤教授の問い掛けに対して、「……よりよい職階へ至るために必須なこの階梯をのぼらんと試みたが、つい好機を逸してしまった」とすらすらと訳し出してみせたのであった。哲も学生時代に少しばかり覚えのあるラテン語の字句と、久しぶりに引っ張り出した羅和辞典と初等文法書片手に格闘してみた。何と言っても、錬金術の書物を読もうとすればラテン語かアラビア語は必須なのだ。けれども二〇分も読んでいると頭に血が上り、そんな思いを抱えて病室を抜け出て外気の吸える非常階段室に出ると、いつ来たものか操子もそこにいた。「ねえ、叔父さまのこと、忍も関係あるかも知れないわ」「まさか。忍さんは優秀だから立ち所に分かるんだろ」「まさか。今だってまだうちでは寝てる時間のほうが長いのよ」忍はまだ常の住まいには戻っていない。「語学ができて役に立つんだからいいじゃないか。復た恢復したら今度は語学が役に立つ仕事に就ければいい」「ご免なさいね。関係ないことに巻き込んでしまって」「いや、いいんだよ」哲が答えると、操子はぐっと体重を哲にかけて来て、「抱いて」と言った。哲は操子と不器用なキスをした。「愛してるわ。たとえあなたが愛して下さらなくても」哲には何と答えていいのか分からず、ひたすら髪といわず首筋といわず、果ては操子がくすぐったがって笑い出すまでキスを繰り返した。忍は体調が本復したとは言えず、昏倒してしまう。大学病院に収容して加療することになった。


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