第8話H.――神無月――
H.――長月――
その後、取り敢えずしゃんと意識を恢復した細君を連れて常は住まいのマンションへ戻り、哲はそんな二人を気にしつつも操子と密に連絡をとり合いながらも書き物仕事に没頭する日々が続いた。だが、どううも造化の神さま、運命の神さまと云うものはもの事をストレートには終わらせてはくれぬものであるらしい。変事が出来したのは九月四日の未明の事である。哲はその日、前の晩は本の原稿を書くのに根を詰めすぎたらしく、二時間ばかり仮眠しようと午前三時頃に目覚まし時計もセットしてベッドに這入ったところ本格的に眠り込んでしまい、目覚まし時計の鳴らした午前五時のベルもそっちのけで眠りこけ、目が醒めたのは午前六時二五分、双子の兄からの電話だった。何かうっるさく鳴ってんなァ……、から始まった哲の意識は、やがてンン? こりゃ電話だぞ。とするとスマートフォンかなあ。を経て、ああ電話だ電話だ。廊下で鳴っている。誰か――兄貴ィ、……あいないのか。に至って、哲は目をこすりながらベッドを後にすると、固定電話の鳴っている廊下へと急いだ。早く! 今行くからちょっと待ってくれ!! あと何回鳴る積もりだ? 二回、いや三回? ホラ直ぐそこだぞ……、ソラ摑まえたァ!! 受話器を手にし、耳に当て、やや息を切らしつつ、「はい、鈴之木」と送話口に吹き込む。と、聞き慣れた声が――イヤこれは一体誰の声だったかなァ……、「ああ哲っちゃん」ぼくを哲っちゃんと呼ぶのは、兄貴の常か、相溟学院の連中だけだから、オイお前さん、まさか柾木か!? と呼び掛けようとしたところ、それは双生児の兄の常の声になり、「おい哲よ、大変だ、大変なんだ!!」と哲に事態の急を告げた。哲は漸っと眠気の抜けた声で、「何があったん、一体?」常はすうっと息を吸い込み、角張った声で、「いなくなったんだ」と哲の前に言葉を並べた。「いなくなった? 忍さんが?」「ああ」「失踪した? マンションから?」「そう!」「け、県警には?」「まだだ。分かって直ぐにお前のとこに電話したんだよ」「そうか。――兎に角、直ぐ行くから、部屋で待ってて」哲は運動し慣れた人間ではない。けれどもこの際には四の五の言っておられず、常のマンションまでの約四・五キロをナイキのスニーカーで走り抜いた。タイムは三九分ほどかかった。元気のいい高校生の陸上競技選手なら五〇〇〇メートルを十五分ほどで走るから、まずまずのタイムではないだろうか。マンションのエントランスに着くと部屋のインターフォンを押してロックを解除してもらい、五階までエレベーターの筺に揺られ、常の部屋に急いだ。「どんな感じなん?」「どんなもこんなも、忍が出てから触ってないから、見るだけ見たってや」常が急にやくざな関西弁を使うのが気になったが、取り敢えず哲は言われた通り見るだけは見た――、ダブルベッドの忍が寝ていると思われる側には慥かに寝た形跡があって、シーツは寝乱れている。「深夜に家を出たみたいなんだよ」常はおろおろした声で言った。常によると、前夜忍は十一時前に休み、哲はあれこれ家事を済ませて仕事の資料に目を通し、寝たのは午前一時半だという。常は睡眠剤などは服んでいないが、寝酒にリキュールを一杯か二杯やる。昨夜はだいぶ疲れていたので酔いがすみやかに廻り、割と直ぐ深い睡りに落ちた。そして今朝は午前五時三〇分に目覚ましで起き、そして変事を知った――、これが概略だった。「外出の仕度は?」「うん、ワードローブから普段着が一着だけ消えてる。あとハンドバッグ一つ――、いつも使ってるやつで、交通系ICカードとか財布とか、一と揃い持って出ている筈だ」「靴は?」「履き慣れたローファーで出てるね」「どこか行きそうな場所は?」「そんなのはおれの方が聞きたいよ」「うーむ」二人はダイニングで頭を抱えた。だが、二人とも、今回の結婚はやはり見送って時の経過を待ってから挙式すべきだったんだ、とか、先方にも足許を見られていたみたいだしな、だとか、そう云う「たら・れば」の話は決してしなかった。何しろ、次には哲も控えているのだ。それから警察に届けるべきか話し合ったが、この唐突な出奔の背後にはあのマリャベッキ博士の影もかいま見えるようだったし、そうなると余計話が混乱しそうだったので、直ぐに届けるのは控えようと云うことで話は一決した(後刻県警に行方不明者として届け出る際、なぜ届け出が遅れたのか問われた場合には、どの道マリャベッキ博士の名を出すことになる筈だった――、そんな遅くまで行方が知れず、またアントニオ・マリャベッキの影姿も認められないのなら、今回の一事にはマリャベッキが絡んでいる可能性は低くなり、従ってマリャベッキ氏の名前を出しても構わないと思われたからだ)。そして二人は取り敢えず、本当に取り敢えずだが、住まいの周りの草むらや藪、雑木林など普段視界から遠くなっている場所を中心に簡単に捜索したのだけれど、手がかりは一向に見当たらなかった。哲は仕事があった。九月に入ったので語学学校の講師としての仕事が入るようになり、Zoomのような気の利いた設備を使うのもおぼつかない高齢者も生徒に含まれているので都内へ出勤せねばならず、またキャンセルするとヒンシュクを買うようなところであるのでどうしても出ねばならず、それなら当面必要な生活資材を常のマンションに移してこっちで生活するか、とも提案したのだが、常は常でまだ消化し切れていない夏の休みがあと二、三日ほど残っているから、それを使ってしまおうと思う、哲っちゃんには哲っちゃんで暮らしがあるんだからそれに
哲と常は語らった上で操子にも事情を明らかにしよう、ということで話は一決した。操子は気を揉みながら家で仕事をしつつ鏡子と過ごしていたのだった。哲と常は青山家を
常は会社があるので哲がひとりでバタバタしなければならぬ。語学教師の仕事も〝当面休講〟としてもらい、じぶんの家と青山家と病院とをひっきりなし往還した。お蔭で車の運転技術がブラッシュアップされた。――そしてその倥偬(こうそう)のなか、忍がひょっこり帰宅した。哲は丁度病院で〝夜とぎ〟、つまり宿直(とのい)をしている晩に起こったことなので、直截(ちょくせつ)その現場に居合わせた訳ではなく、後日談として操子からスマートフォンへの連絡で知ったことなのだけれど、青山家で操子と鏡子とでわびしい晩餐をしたためていると、表のベルが鳴ったので誰かと思って外に出てみると麦わら帽子をかぶった忍が佇立していたのでひどく吃驚したのだという。操子も鏡子もあれこれと質問攻めにすることはなく、ただああよくお帰りになったね、疲れたろう、お風呂も沸いてるしご飯もできているよ、と言って迎え、平生食が細い筈の忍はご飯を二膳お代わりして食べた(アルコールは欲しなかった)。翌朝操子から常に電話を入れて、その夕常が迎えに来て、それで一応丸く収まったのだそうだ。
哲はその頃、圭介叔父が書いたノートの文章と血の汗を流す思いで格闘していた。「…… primus ascensus ad honoris amolioris gradum]などと判読できる。トゥッリウス・キケロの文章を模したものだろうか。哲は操子に、きみラテン語は、と問うと、「pig Latinなら得意なんだけど」、と大笑し、次に真顔になって、「忍のほうができるかも」と言うので、哲は忍を伴って大学病院に行った。その途次、哲は忍の様子を観察するのだが、そう変わったところは見受けられず、ひとまず哲もほっと安堵の胸をなで下ろすのであった。大学病院に着くと、哲が先に立って五階のナース・ステーションに向かった。斉藤教授は銀縁眼鏡の奥の金壺眼を光らせ、忍に向かって、あなたラテン語お出来になりますか、と問うた。忍が少し、と答えると、そうですか、ぼくらは学部で必修科目なのですが、いま覚えているのは、第一変化名詞の格変化だけです、femina、feminae、feminae、feminam、femina……、これで正しかったでしょうか。ま、この程度でして」と言って禿げた額を叩きハッ、ハッと笑った。忍はノートブックをうけ取ると開き、パラパラとページを繰って読んでいたが、「お分かりになります?」と下手に顔を眺める斉藤教授の問い掛けに対して、「……よりよい職階へ至るために必須なこの階梯をのぼらんと試みたが、つい好機を逸してしまった」とすらすらと訳し出してみせたのであった。哲も学生時代に少しばかり覚えのあるラテン語の字句と、久しぶりに引っ張り出した羅和辞典と初等文法書片手に格闘してみた。何と言っても、錬金術の書物を読もうとすればラテン語かアラビア語は必須なのだ。けれども二〇分も読んでいると頭に血が上り、そんな思いを抱えて病室を抜け出て外気の吸える非常階段室に出ると、いつ来たものか操子もそこにいた。「ねえ、叔父さまのこと、忍も関係あるかも知れないわ」「まさか。忍さんは優秀だから立ち所に分かるんだろ」「まさか。今だってまだうちでは寝てる時間のほうが長いのよ」忍はまだ常の住まいには戻っていない。「語学ができて役に立つんだからいいじゃないか。復た恢復したら今度は語学が役に立つ仕事に就ければいい」「ご免なさいね。関係ないことに巻き込んでしまって」「いや、いいんだよ」哲が答えると、操子はぐっと体重を哲にかけて来て、「抱いて」と言った。哲は操子と不器用なキスをした。「愛してるわ。たとえあなたが愛して下さらなくても」哲には何と答えていいのか分からず、ひたすら髪といわず首筋といわず、果ては操子がくすぐったがって笑い出すまでキスを繰り返した。忍は体調が本復したとは言えず、昏倒してしまう。大学病院に収容して加療することになった。
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