第7話G.――葉月――
「実はわたしどもには、あなた方ご兄弟にまだお話ししていない事実がいくつかあるのです。過去の話ですし、お話せずにおいても構わないようなものですが、それでは余りフェアではないような気もしますし、思い切ってメールと云う形にさせて頂きます。
まず、わたしどもにもあなた方ご兄弟と似たような過去があります。そうです、同性愛です。ただ、わたしどもは本質的にはheterosexualな傾向の存在で、この関係も過去のことです。
ここまでこのことには一度も触れたことがありませんでした。そのことに就いては大変申し訳なく思うのですけれども、やはり余計なお疑いを喚起してしまうとやぶ蛇ですし、こうしていざ書き出していてもじぶんは若しかして非常に愚かしいことをしているのではないか、今も申し上げましたように、よけいな手出しをしまして却って災いを招くことになるのではないか、とも考えられ、まだ気持ちは定まりません。姉には相談も報告もしておりません。単独の気紛れでやったことですので、他言しないで頂けると、或いは他言なさるにしても、時機をよく見計らわれた上でなさって頂けると大変助かります。
それから、わたし自身の個人的なことに関し、少し紙面を割かねばなりません。わたし(と姉)の妊娠中に、実は母が政府の主導で行われました有償のプログラムに参加していたのです。この時は接触企業としてアントニオ・マリャベッキ博士という人物がトップのドリームフィールド社というという社が仲立ちになっていたのですが、母はこの会社からある薬物を受けて服用していたらしいのです。今わたしには、電脳空間であなたとお会いしたり、直感でもの事を見抜いたり、ひとにはない能力がありますが、それにはこういう裏の事情があるのです(因みに、斯かる薬物は姉には廻らなかったらしく、姉には特殊な能力は一切ないようです)。
以上、要用のみ述べましたが、結論を先に言うとわたくしは常さんをとても深く愛しております。夫婦をやって行くには、それだけで充分なほどだと思います。
姉もあなた様のことを大変気に入っておりますし、あの通りの姉ですけれどもどうか愛してやって下さいませ。」
鈴之木みよ子は八月三日に帰らぬ人となった。享年五八歳。
告別式を経て葬儀が済み、七月三十日に式を挙げて新たに夫婦となった常と忍が中心になって一連の手続きなども済ませてから、哲は一時的に虚脱したようになって今は独り住まいとなっている自宅で日を過ごしていた――、常と忍の婚姻については、慥かに「このような時季に……」と云う声もあったが、常(と哲)とは、「こんな時だからこそお袋に花婿姿を見せてやろう」と語らって式の敢行を決めたのだった。式にはみよ子も車椅子で参加し、感無量と云った表情を泛べていたのが哲には印象的だった。
が、みよ子がみまかってから
最初は半ば野次馬根性的な好奇心、半ば無関心で報道記事を読んでいた哲は、その内にじぶんの意識の底に胆汁のような狐疑の念が沸々とわき出すのに気づいた……、女性という生き物には、粘性を有する情念というものがつきもので無視できない。若しや青山家の姉妹も、二人とも男性性とはほど遠いところにある嫋々たる女性であるが、この札幌と歌舞伎町で起きた二件の惨劇のように、常を巡って対立が起きていたりしたらどうするか。
そこで哲は、常に対してやや頻繁にメッセージやLINEやメールを送り、何か変わったことはないか、異常を感じるような節はないか、少し諄いのではと思われるほどに重ねて問うた。が、何も知らない常は、何も気づいていないもの特有の、身勝手なまでの気楽さで、毎度、
「変わったことは特にありましぇん」
とか、
「案外結婚生活も悪くないモンですなぁ」
などと吞気極まりない返答が時おり返って来るだけだった。
初め、そんな常の態度にやきもきしていた哲だったが、時間が経つと共にのど元を過ぎ、ススキノ、歌舞伎町に続く大阪ミナミや福岡中洲での事件と云ったものは報道されなかったこともあって、少しずつ青山の双生児姉妹に対する見方も変わって行き、と同時に懸案の本の原稿の仕事も、それまでとはちょっと違った視点での見方ができることに気づき、それと共に文章が頭の中にわき出すようになったので、復たそちらの方にかまけるようになって気分もだいぶ楽に落ち着いてきた。その内冷えたスイカやメロンでワインを一杯やるのも悪くなかろう。
そんなある日の昼下がりのことである。
哲は昼にシャワーを浴び、湯上がりに炊き上がったばかりのチキン・ライス――、まずフライパンに油を熱して軽く塩胡椒した鶏モモの細切れとミックス・ベジタブルを炒め、次に生米をバターでいため、生米用の計量カップで肉野菜とコメを適量ずつとって炊飯器(電子ジャー)に入れ、別の鍋でとってあった鶏ガラスープを炊こうとする分量、つまり合数だけジャーに入れて塩胡椒とケチャップを加えて調味し炊けばよいのだが、それを皿に盛って冷たいダイドー・コーラの缶をとって来て、昼餐にせんとTVを何気なくつけた。
すると番組は〝徹子の部屋〟がかかっており、パーソナリティの黒柳徹子が、
「今日のお客さまは、電脳空間、いわゆるインターネット空間の開拓と開発をご専門に手がけていらっしゃいます、アントニオ・マリャベッキ博士です」
と述べて、哲は熱々のチキン・ライスを掬ったスプーンを持ったまま固まった。
実在したのだ。
パーソナリティの説明によると、肩書きは〝ドリームフィールド社CEO〟となっていた。専門分野に就いても、忍の述べるところと変わりはない。
風采は白髪頭に銀縁の眼鏡をかけ、口ひげをたくわえており、日本語は流ちょう、口ぶりは穏やかそのもので紳士的な人柄が窺われた。
詳しく話を聞いてみると、来日したのは二〇年まえ、それまでにボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)とコロンビア大学で電子工学と大脳生理学の学位を取得して、研究テーマの追究に最適な環境が整っていたのは日本だったのでここで研究開発を手がけることにしたらしい。 又マリャベッキ氏によると、事業を経営するという形で日本で軌道に乗せることがかなったのはここ二~三年の話で、それまではもっぱら研究・教育に力を注いでいました、とのことで、それまでは「ごく実験的なことを繰り返し行っていた」ものらしい。
番組は三〇分しないで終わるので哲にはじぶんが真に知りたかったことの内容にはつまびらかにならず、ただマリャベッキ博士との和やかな会談という形で終わってしまったが、大学に這入る前からじぶんは法曹界で仕事をして将来は検事か裁判官か弁護士になろう、などと決めていた高校生にありがちなどことなく透徹したまなざしをしていた十代から二〇代前半の頃の氏の表情をちらと仄見るだけでその優秀さが知れるというものだった。
やれやれ、と哲は思った。何だかとんでもないのを相手にしちゃったみたいだぞ。
だが、取り敢えず原稿仕事の方は勘が戻ったらしく、筆が運ぶので哲としてはまったく文句はない。
原稿の執筆にかまけていると、今は〝浮き世離れ〟した一人住まい世帯なこともあって、つい昼夜が逆転した生活サイクルになってしまう。暮らしに必要な品物は単三型乾電池からおやつのチョコレート・ビスケットからコンドームに至るまで何でも通販で済むし、最近は〝置き配〟してくれるのでいらいらとトラックを待つ必要もない。操子とはメールで時どきやりとりをした(健康的な付き合いに入る程度だ)。オンナという生き物は愛人からいつも構って貰えないとさみしい・うち捨てられた気分になるものらしいので、哲は成る丈相手のことを頭に置いてメールを書くようにしていた。
そんなある時、操子から来たメールに、「八月二〇日はわたしの(そして忍の)誕生日に当たります。例年は愛山学院時代の学友も含めて二〇人ほどでパーティを開くのですが、今年は忍の結婚一年目ということもあるし、わたしどもの家族(わたし、忍、母の鏡子)とあなたがたご兄弟だけでちょっとした飲み会を開きたいと思います」とあったので、何はともあれ哲は出席することになった。出るとなったら、何かひとつ手土産を持参すべきだろう。哲はとつおいつ思案に暮れた。もう二〇代半ばになる成人の女性だ。レゴなんか持って行ったって喜ぶ訳がない。じゃあ人生ゲーム? モノポリー? じゃあチェック柄のパンティとか? アホ。嫌われるわい。ワイン……、ビール……、酒類は揃っていると思うし。じゃあ何か料理をしたら。そうか。パーティ向けのなら幾つか知っているし腕に覚えがあるが、ミートローフなんかはどうだろう。よし、いいだろう、キリのクリーム・チーズを入れて焼成しましょう。会は三日後である。哲は眠い目をこすり、眠気覚ましに珈琲を二杯ほど飲んでから近所のスーパーへ行き、牛挽肉を一キロほど買ってきた。
哲はいま、必要な場面でじぶんの職業は〝フリーランス・ライター〟などと記すことが多いが、実際は〝ジャーナリスト〟だと考えている。これまでにポピュラー音楽関連の著書は共著が二冊、単著が一冊、自著が出ていたが、「サイケデリック音楽から七〇年代ロックへ」とか、「プログレッシヴ・ロックとロンドン・パンク」とか、「NWOBHMとニュー・ウェーヴ」などといった切り口でまだまだじぶんは「書ける」と思っていた。これまでに本を出版した経験では、一年に一冊ではちょっと暮らしはきつい、年二冊出せば何とか食いつなげることが分かっていた。哲はこのように、音楽を広く周(あまね)く聴いてそこに書ける材料をみつけて書いていく、謂わば〝目(耳)の職人〟として過ごしたかった。これは、世の学者学徒連が大学や大学院でやっていることとほぼ同じである。対象が違うだけだ。
その〝最強リスナー(哲は心密かにじぶんのことをそう呼んでいた)〟鈴之木哲は、八月二〇日の午後三時、無事に重たいミートローフを焼き上げた。むろん五名の参加者しかいないから余ることが考えられるが、常に弁当としてサンドウィッチを持たせればいい、と哲は考えていた。哲はコールド・ミートローフ・サンドウィッチも好きだったのだ。
他にシャンパンなども用意した(結局飲み物もポンスなど作れるよう何種類か用意してしまった)ので荷物がどっさりになってしまい、例の茶色の紙袋に詰め込んでみたのだけれど、両手がふさがってしまうことが分かったので、早めにタクシーを手配した。
車内に乗り込むと、哲はちょっと落ち着いた気分になり、母親のみよ子のことを考えていた。みよ子は非業の死を遂げた、とは哲は思っていなかった。ホモ・セクシュアルの息子が立派に結婚して一家を構えたところを見届けてからこの世を去ったのだ。死に顔も安らかそのものだった。病――、早発性痴呆、現統合失調症のために平生の平和だった意識がどれほど混濁していたのかは分からない。けれども、常も哲もそれなりにまっすぐ、生きていることは分かって貰えたろう。哲は思考の最後に「Q.E.D.(quod erat demonstrundum)」と考えて思念を閉じた。車は角に菩提樹の植わった交差点に停まっていた。ここからならあと五分程度だ。
――ぼくは操子さんを愛しているのだろうか? 哲は何の脈絡もなく不意にそう云う疑念に見舞われ、ガツンと殴られたような衝撃を感じた。と言うのも、その答えが分からなかったから。大体、哲にはろくろく女性と交際した経験もないのだ。高校生時代は双生児の兄との同性愛関係にふけり、大学時代は図書館にこもって本ばかり読み変人扱いをされ、大学を出てからはまことに中途半端な社会人をやって生きている……。青山家の姉妹はそこに転がっていたのだ。待ち構えていた。これは何か? 一種の試験なのだろうか? ノーマルなら受け入れられ、ノーマルでなければシステムからはじき出されるとかそんな類の?
車が青山家に着いた。
哲は二〇〇〇円を渡し、「釣りはいいです」と言って車を降りた。
空を見ると、一天に雲がわき立ち、その縁が陽光を受けて金色に輝いていた。夕立が来ようとしているのか。この荷物のなかに生憎と傘は含まれていない。
構わず哲は道路を横断し、青山家のインターホンを押した。
「はい」と出たのは操子だった。「ああ、哲さん、いらっしゃい」
哲は上がり框にブラウン・バッグをどさりと置き、式台に腰掛けて靴を脱いだ。かすかに息が上がっている――、緊張しているのだ。
「あらまあ、鈴之木さん、食べるものをこんなに沢山すみません」
鏡子がでて来て挨拶した。
「余計なことでなければよかったんですが」
「余計も何も」と鏡子は眼鏡を直しながら、「ウチじゃあ忍が、ほれ、ブイヨン・ド…、何でしたっけ」
「レギュームでしょ、母さん」操子がひき取った。「野菜のブイヨン」
「そうそ、そうでした。ドイツ語? フランス語? むつかしくてあたしにはてんでさっぱり……、まあいいわ、それを作るだなんて意気はよかったんだけど、いかんせんお鍋を焦がしちゃいましてねえ。失敗だ、ってピザでもか、って話し合ってたところだから、たすかるわ」
「ミートローフがありますよ」哲はわざと冷淡な口調で言った。「余るぐらいたっぷり……」
「パーティ向きじゃないの」
操子が危なっかしい手つきで紙袋を持ちながら言った。哲は上がって靴を直すとスリッパを履き、操子と鏡子の跡を追った。青山家に上がり込むのは、実はこれが初めてなのである。
操子は居間に
「皆さんお飲み物はなに? はい忍はバヤリースね。常さんはビール、哲さんは? ビールで。母さんは……、あらシャンパンまだ冷えてないわ」
誕生日にもかかわらず配膳の係りを務める操子の姿を哲は密かに見やった。
嫌い、ではない。それは慥かだ。哲は世の〝カサノーヴァ〟に声を大にして問いたかった。一体、オンナに惚れると云うのはどう云うことを言うのか? オンナと何日、何週間、何ヶ月ほどつき合えば〝充分〟なのか? オンナを好きになるのは頭でか、それとも性器でなのか? 教えてくれ、誰か…。
「お誕生日おめでとうございます」
「おめでとう」
「有難うございます」
一同はグラスを持ち上げて乾杯し、それから哲の持ち込んだミートローフにナイフを入れてとり分けた。ミートローフはまだ温かくて、操子も忍も、グレイヴィが肉のなかに残ってジューシーなことや、ブロック状に切ったクリーム・チーズがいい味を出していることなどを如才なく褒めた。母親の鏡子が、
「操子さん、あなた結婚してもおさんどんしなくても済みそうね、よかったわ」
と言った時は、鏡子以外の四名は一瞬の沈黙をおいてからわっと一斉に笑い声を上げたので、哲は(一緒になって笑いながらも)いっそう複雑な気分になった。
けれど、そんな哲の心の内のささやかな煩悶などかるく打ち砕いてしまうほどの衝撃力をもつ出来事が起こったのだ。
その時はもう宴も闌で、平生ほとんど吞まない忍を別として一座の四名の身体にもうアルコールがビールなりワインなりシャンパンなり日本酒なりでだいぶ廻った頃になって、その吞んでいない筈の忍が唐突に倒れたのだ。
「あ」
「なに」
「お」
「あら」
四名は思い思いに口から言葉を吐き、一瞬固まってから、まず姉の操子がとり皿を卓子のうえに置いてひざまずき、妹を介抱しようとした。母親の鏡子はいそいそとたち上がって忍が手から離し床の上に転がっている皿と箸を拾い上げた。夫にしてこの一座ではアルコールの摂取量が妻の忍に次ぐ尠なさだったと思われる常は忍の背中に手を廻してソファに靠れ掛けさせようとしたのだが、忍はぐんにゃりとすっかり気を失っていてなかなかうまく行かない。哲はこの三名からいささか出遅れた恰好だったが取り敢えずグラスを置いて三名の輪に這入り、「こりゃあ救急車かな」と言った。が、常は、「大丈夫、気付けの方法はあるんだ」と言って蒟蒻のように締まりのない細君の背中を前にして立つと、エイっと言って一と声励声し気合いを入れると、じぶんの右膝をぐっと忍の背中の肩甲骨の辺りにぐっと押し込んだ。それは常の傍で長年暮らして来た、玩具も一緒なら絵本も一緒、知育教材も一緒、と何でも一緒に共有して育ってきた筈の哲にも未知の、じぶんの兄がこんな技をいったいいつ体得したのか、と疑問に思うほど意外なやり口だったのだが、その一発が効いたとみえて、忍は間もなく「ン……、グッ」と声を発して常の膝に抱かれる恰好のまま、やや上体を硬直させて目を開けると、黙したままおぼつかない様子で辺りを見廻した。鏡子は、「あらまあ忍さん、どうかした? 大丈夫? もう、ひとを吃驚させないで頂戴」と言った。常は新妻のTシャツの乱れを直してやりながら、「悪い間違いをしでかしたんだよな、な?」と言い、四囲が静かなのをいいことに、「悪い間違いを犯して、哲の顔でも見ちまったんだろ。な?」と頬にそっと指を走らせた。その言葉に操子は大笑いして、「常さん、そりゃああなただって同じことよ」と言ったが、まだ心配そうに、「忍さん、あなた大丈夫?」と問うた。
肝腎の忍は、哲の顔を見上げたり操子を見たりしていたが、操子の問いかけには自信なさそうにかぶりを振るのみであった。哲は酔っ払ったおくびを誤魔化しながら、「忍さん、こりゃあ二階で休んだ方がいいな。寝室は二階でしょう?」鏡子がそうだ、と言うと、「誰か……、力があるところでぼくと兄貴が中心になればいいんだが、いざ女性のお城に闖入するとなると気が引けるもんですね」と本心を述べ、常も、「そう、おれたちが組になって忍ちゃんを運べばいいだろ」その案には鏡子も操子も反対しなかったので、一階のいまは使われていない客間からかび臭い敷き布団をもって来て忍を寝かせ、頭の方を常が、足の方を哲が持ってそろそろと廊下を歩んで階段へ向かい、注意深く上階へ運んで行った。哲がみたところでは、忍は薄目を開けていたようではあるが、頬に血の気がなく、表情もあいまいで無表情と言って差し障りなかった。一緒について来た操子の指示で忍の寝室に這入ると、用心に用心を重ねて骨細の忍の体躯をベッドに移した。操子が、「いい? 何かヘンなところがあったら、迷わず鳴らすのよ。いい?」と言ってベルのボタンを握らせた。握るかどうか試してみる考えもあったようだが、忍は微かにうなずいて見せると大丈夫、ベルは握った。一同三名は復た居間に雁首をそろえたが、これではパーティどころではない。鏡子が哲に、「今日は楽しかったわ。どうもごちそうさま。このお肉は明日常さんがここから出勤する時にお弁当のお菜にしますね」と言ったので、哲もここはお開きか、そうだなそれが妥当だよな、と酔った頭で考えた。「ぼく、ここに泊まって行っていいんですか?」常が問うたが、鏡子は何でもなさそうに、「当たり前よ。忍のご亭主でしょ」とのことであったので、常は点頭したが、「あっ」という顔をして、「おれ、一応スーツとってこないと。オフィス・カジュアルで出ていい会社なんだけど、もう管理職だから一応スーツ引っかけてくことにしてんだよね」と言ったので、哲は常の目を見て頷き掛け、「それならこれからタクシー呼ぶから一緒に乗っていくかい?」常はうなずいた。
哲はタッパーや皿やらを紙袋にしまってからスマートフォンで車を呼んだ。タクシーは五分ほどで来た。哲は先にタクシーの後部座席に乗り込み、常がそれに続いた。一と息おいてから、哲は常に、「信じて貰えないかも知れないけど」と前置きをしてから、忍の〝特異体質〟と〝病〟のこと、それから例のマリャベッキ博士という人物に就いて二、三分にまとめてざっと話をした。常は真っ直ぐ前を向いて聞いていたが、聞き終えると、「客観的証拠は出せるのかい?」と問うた。哲は、「ああ、メールは取ってある。尤も、匿名のフリーメールだがね」「ふん。――まあ、お前の話を聞いて、改めてしっくり来た、と云うところもなきにしもあらず、でね。パズルのミッシング・ピースが見つかった気分、とでも言おうか。完全に信じ切れた、と云う訳ではないが、ほっと解放された部分があるのも慥かだ」それから少しく黙し、次の言葉を探っている様子だったが、次の角を曲がるとマンションに、というところで、
「で、お前は何をするつもりなんだ、それとも……?」
と問うた。哲は、「兄貴は明日は会社だろ。ぼくはずっと在宅だから、このドリーム何とかいう会社に聞き合わせてみるさ」と言った。常も頷いて、「ああ、うん、そのくらいが関の山だな」と言い、千円札を一枚出し、タクシー代、と言って車を降りた。哲は自宅に帰着すると全身に非道い倦怠感を覚え、鳥渡(ちょっと)休もう、と思い階下のリビングにあるカウチに横臥したが、酔いも手伝ってそれ切り寝入ってしまった。幸いにも夢のない睡眠だった。翌日、醒覚した哲はカウチの上で起き直ると、時計をあらためた――午前九時三〇分だった。大抵の企業は営業している時間帯だ。哲は階段を一足飛びに上がるとじぶんの部屋のコンピュータで検索を掛けた。すると、川口のコンピュータ・ショップ、北区赤羽の整体院、横浜市瀬谷区の外資系企業、そのほかが当たった。ここから一択するとしたら、瀬谷区の会社だろうか。取り敢えずその会社のウェブサイトを開いた鉄はその場で固まった。トップページではこの間TVでみたあのマリャなんとか云う男が愛想のよい笑顔もにこやかにサイトの訪問者を迎えていたからである。しばらくの間この会社公式ホームページ内で行きつ戻りつを繰り返していた哲は、やがて電話番号の掲載されているページを見つけてアクセス・ポイントを探そうとした。(ええと、商品のご購入およびサービスのお申し込み……、会員登録……、会員情報の変更ならびに退会のご連絡……)どれもちょっと違うようだ。ここにはピッタリ来る連絡先はないのかな、と思いかけた時に、あった(苦情ならびにご不明点のご連絡)。番号も掲載されている。哲は早速斯かる番号に架電してみた。スマートフォンに番号を打ち込んで「通話」ボタンを押し、二〇秒から三〇秒ほど待つと応答があった。「苦情のご報告をご希望の方は1を、ご不明点のご連絡ならびに解決をご希望の方は2を……」「会員番号がお分かりの方は番号を十一桁の英数字でご入力下さい。会員番号がお分かりにならない方はそのままお待ちください」呼び出し音が鳴る。例のお決まりの文句「ただ今電話が大変混み合っています。このままお待ち頂くか、一旦電話をお切り頂いて少し経ってからお掛け直しください」が流れるかと思いきや、トゥルルルー、トゥルルルー、と信号音が聞こえて、「はい、大変お待たせいたしました、〝ドリームフィールド〟カスタマー・センターの明智がご担当いたします」と若い女の声が言った。「ああ、もしもし。ぼくは会員ではないんだけどね」と告げて、くわしく鈴之木忍の抱えている〝症状〟を告げると忍の旧姓や住所などを求められたのでそれらの情報も提供し、サポセンの担当者によるアイデンティフィケーションには「忍の義理の弟」と名乗るに留めたが、それ以外の点に関しては全て正直に答えた。然しながら、サポートセンターの明智女史は冷然として、最終的に、
「この青山忍さまに関する情報は、主に個人情報保護の観点から、忍さまに就いての情報が存在しているのかどうかと云う点も含めて、全て非開示とさせて頂きます」
と言い放ったのだった。どう絡もうが粘ろうが一切努力の甲斐なく「お断りします」「上の決定ですので、詳細は申し上げかねます」「不可能です」の一点張り、こうまで言われては大人しく引き下がるより他にやりようはない。一体どうするか。哲は電話をおくと、PCに向かった姿勢でがくりと机の上に肘をつくと手指で額を支え、眉を顰めて思案に暮れた。と、ここでひとつ思い付いたことがあるらしく、スマートフォンをとり出して操子の番号に電話を架けた。
「あの会社は、〝人材リクルート〟と称して、過去に実在した霊魂を現在の肉體に〝封印〟して機能させる、そういう事業を展開しているんですよ」
操子は昂然と言い放った。哲は己が耳を疑う。「ま、まさか…」「本当よ。あたしの両親は、厚生労働省にいる某官僚の方から話を貰って、有償だと聞かされて…、その頃からうちの経済は左前になっていたのもあって……、それで乗ってしまったということらしいわね。忍は、忍の体質に就いてご承知ならお分かりと思うけど、忍は生まれつきの体質としてこの事業に適性があるので、これから体調が本復し次第、パートタイムでもいいからリクルーターとして働いてくれないか、と打診を受けていたところなのよ」操子はいささか情けなさそうに言った。哲は思わず、「何のために…?」と問うた。操子は苦々しそうに、「決まってるでしょう、おカネのためよ」と言う。「あなたには」「ええ。あたしにはその辺の素養はまったくないわ。だから忍のマネージャーとして働いているようなものです。忍は性格的に浮世離れしている、と言うのかしら、現実味のないところがあって、見ていると危なっかしくなることがあるんですよ」「ええ、分かります」操子は笑った。と同意に洟を啜ったので、哲にも操子が泣いていたことが伝わった。「忍さんの体質と特殊能力と病弱な体質のあいだには何か関係が……」「そりゃあ、大ありでしょうよ。ただね、合理的な筋の通った説明、西洋医学として立派に成立するような理由付け、法曹も満足するだけの源因探し、そういったものは期待できないと思うわね。だいたい人ってものは、もの事に源因とか理由を求めすぎるものなのよ。それによって、そう云う行為によって、本当の本当の真実がどれ程隠蔽されてしまっているか、みんなその単純な事実を知らないんだわ。事実は求めるべきものではにゃい、寧ろ真実なるものはその到来を待ち侘びるべきもの、入来を恋い焦がれるべきものなのよ。これに気づけば、そりゃ法的審理には時間は喰うでしょうが、えん罪の数はずっと減ると思うわね、つまりニンゲンって云う愚かしくて誤謬ばかり犯している生き物にも、少しはモノというものが、透徹した視線で以て見えて来るからなのよ。あなた、法理学者とかでなかったわよね、そうよね音楽ライターなのよね、よかったいいえ分かってる。分かってるんだけどね、つい長広舌を振るってしまって、あたしのことを指名手配人名簿の五番目以内に載せている自治体が、地方自治体が尠なくとも五か六はあるわね。……えっ、指名手配するのは県警の責任の下に行われることだ、ですって? おかしいわね、じゃああれは一体何だったんだろう……」操子の突然の饒舌ぶりにタジタジとなった哲は、操子の張る前線に勇敢に切り込んで行く役を振られた。そこで哲は南無三、なるようになれ、と念じて、操子の言葉が数秒途切れたその隙に、「…――あのう」と恐る恐る切り出した。と、操子は二、三秒黙った後に垓一垓して、「どうぞ」と控え目な声量と抑えめな語気でいったので、哲も咳払いしてからこわごわときり出した。「あのう、それで若しまだお手許に残っていて、尚且つ差し支えがなければ、でいいんですけれどもね、そのアントニオ・マリャベッキ博士の個人的な連絡先をお教え願う訳には参りませんか?」たぶん却下されるか断られるのだろうな、と考えていたので、五、六秒の後に、哲は、「ええ、電話番号とメール・アドレスだけですけれど、お使いになられるのでしたらご提供して差し上げますわ」と言って、スマートフォンを持った儘あちらこちらをここでもない、そこでもない、と捜し回り、軈て胃の腑が痛くなって来た哲が、もういいです、このあと若し見つかりましたらでいいですので、と断りを言おうとした時になって、「あった、あったわ」と操子の欣快(きんかい)の叫びを聞くことに相成った訳である。操子はそのメール二件、携帯電話一件のアドレスを少し慌てて手近のメモ・パッドに書き写し、間違いのないように復唱して、では忍さんの容態は、と改めて問うと、操子は、
「忍は人事不省の寸前の状態にいます。まだここ、昨日あなたと常さんで移して下さった床から出られず、意識は一応あるようですけれど意思の疎通はほとんどできず、目をぱちぱち瞬かせるのと偶に重い口を動かして〝水〟だとか〝パン〟とか言えるくらいなんです。障碍者の一歩手前ですわね。これも何も、きっとあのマリャベッキ博士のケッタイなプログラムとやらのせいかと思うと、腹立たしいような情けないような……」
凡そ七分三〇秒に亘って哲は操子によるマリャベッキ博士への呪詛の文句を聞いたあとで、これから大事な予定があるので申し訳ありませんが、と伝えて電話を切った。
大事な予定。哲はいま聞き出したアントニオ・マリャベッキ氏本人への直通連絡先と思われる三つのアドレスを前にして少し考え、まずスマートフォンと思われる番号に架けてみることにした。多分出ないだろうな、と思っていたが、豈(あに)図(はか)らんや、出たのである。しかもご本尊が。
「はい」とその半分寝惚けたような声は言った。「ミキちゃんかな。――違う? じゃあ、エイコちゃんだろ」哲は(こいつ、女からの電話だと思ってやがる)と内心噴飯したが、もう少し調戯ってやることにして、スマートフォンの録音機能をオンに入れた。と、電話口のマリャベッキは、「マリコちゃん、もう浮気はしないからさあ、いい加減赦してちょうだいよ。ぼくちゃん、もう二週間もきみに逢えなくて、淋しくて死んじゃいそうなんだよ。お願いだからさあ。そろそろ声を聞かせてよ、そうすりゃぼくちゃんも安心して仕事に打ち込めるんだけどなあ」と甘ったるい甘え切った声色を使うので、哲は全身がむずむずして来て、思わず、「ふざけんなよ」と言ってしまった。すると哲とマリャベッキ氏の間には心なしか寒風が吹いて、たっぷり二〇秒の沈黙の後、「……だあれ? アンタ――」とアントニオ・マリャベッキは恐る恐ると云った感じで声を出した。そこで哲は、「お宅のお仕事(びじねす)の犠牲者の親族だけど」と態とやくざな口調で詰め寄ってみた。アントニオ・マリャベッキは一瞬のうちに〝男性〟としてのペルソナを恢復して、「うちでは別に、違法なことなど一切やっていません」と強硬に出た。「何なら、いちど当方の仕事の現場をお見せしますが?」売り言葉に買い言葉で、哲も、「面白い、それじゃあ拝見しましょう」「分かりました、当方で時間が空いているのは、八月三〇日、九月二日、四日、六日……」哲はじぶんのメモも開いて予定を確認したが、いずれの日も語学教師が入っていたり執筆の予定日だったりしてちょっと予定が折り合わなかった。「その内落とし前つけたるさかいに、精々ソッ首洗って待っとれや」と復たやくざみたいな口調になって通話を終えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます