第6話F.――文月――

 そしてとうとう気候はすっかり夏らしくなって来た。空気は梅雨入りからこっち、日にまし湿気をより多く含むようになり、夜間も気温は下がらず不快指数の高くなる昼夜が続いた。会社員の常は不平不満をぼやきながら日々出社していたが、その点弟の常は半ばフリーランスの身の上、都内には週に二日でも出る用はあったがその他は在宅して原稿を打つのが職掌、それならば夜間の方が静かであるし気温も幾分低めになる、と云う訳で哲は完全にではないが昼夜逆転生活の〝潜水艦人間〟を始めたのだった。常と哲は、尠なくとも一日に二回は顔を合わせた――、まず常が出社し、哲が起き出す頃、そして常が帰宅し、哲が寝ぼけた顔で出迎える際。哲は疲憊した常の顔を見ても何も言わず夕食を給仕し、常は瓶ビールをぐいぐい浴びるように飲み干した。常がシャワーを浴びて寝てしまうと、哲は洗い物を済ませてコンピュータに向かう。

 西村から授かった方策(哲はそれを〝伝家の宝刀〟と呼んでいた)は、とてもウマくいった。が、それを喜んでいいものかどうか、と云う段になると哲はいささか逡巡してしまうのだ。

 哲は宿題を済ませる新入学ピカピカの小学生よろしく、西村の施策を一から十までバカ正直に履行した。即ちまずチケット・サービスで検索をして、丁度都内のバンド・スタンド付きレストランにてさるプログレッシヴ・メタル・バンドが出演するとの情報を得ると、会社のひとを通じてロマンス・シートをひとつ予約してもらい、と同時にじぶんは銀座の某宝飾店に走ってリングを誂えようとしたが、青山操子の指のサイズが何号か聞いていなかったことに思い当たり、店員の微苦笑とともに買い物を切り替えてチョーカーと組になったダイヤモンドのイヤー・カフを購め、その段になってから肝腎の青山操子その人には一と言も話していなかったことに心づき、これまでの一連の行為を行った勢いに乗り、まさに騎虎の勢いである日中に青山家に電話を架けたのだった。

 都合のよいことに電話口には操子その人が出た。

 電話口の相手が哲その人と知ると、

「あ、あたし、ご免なさい」と弱々しい声で一と声発すると、「ちょっと今は」

 と言って切ろうとするので、そこを哲は、

「ちょっと待って!」と制止して、「ぼくからもお話があるんですよ」

 と言って、先日の詫びから始まって、操子に言われたことには一切頓着していないこと、こんど来日コンサートがあるので一緒に行かないか、いろいろ話もあるがあの会場ならショーが跳ねた後でも居残ってゆっくりできる、などとここを先途とコトバは口から澎湃ほうはいとしてほとばしるがまま、アスペクトも時制もシンタックスもなく支離滅裂に時どき尻餅をきながら、へなへな刀で以て決死の覚悟で切り込むバンザイ・アタックよろしく、時おりエンストする四〇年前の型式の錆だらけのポンコツ・ステュードベイカーでハイウェイを走ろうとするように、疾風怒濤の勢いで、かれは電話かこちらは何か、聞くものは一体操子か将又哲か、十数分に亘って息が切れるまで話し続けた。そしてふと気が付くと、一時の亢奮に背を押されてそこいら一帯で狼藉をはたらいた後のように、そこら辺一面に散らばるコトバどもが妙に生々しくて気恥ずかしい、ほとんど後ろめたいとも云えるようなものであるかのごとく思われて哲はっと電池が切れたオモチャのようにやおら黙り込んだ。――すると、無意識にまだ耳に当てていた受話器から聞こえてきたのは、何あろうきき違えのない声、それは操子の歔欷きょきの声であった。

「どうもありがとう」操子はすすり泣きながら言った。「どうも……、本当にどうも。今度の土曜日ね。あたし、きっと行きますから」

 不意に哲は目の前が暗くなる思いがした。目の前の視界いっぱいに黒い点々が無数に現れては群れを成して飛ぶ羽虫のようにざわざわと動き、群舞して右へ行ったり今度は左へ、次は上へ、そして下へと不愉快にざわざわ蠢き、哲は思わず目を閉じていた。そうなると却って操子との通話は楽なものになり、哲と操子は①土曜日に、②新宿駅東南口で、③午後四時半に待ち合わせる約を交わして通話を終えたのだった。

 全てが終わると、哲は汗塗れになっていることが初めて自覚された。シャワーでも浴びるか。そしてちょい酒が欲しい。ビールくらいでいい。仕事がある。そう、仕事はしなくてはならぬ。まだ日は高いのだぞ、そんな早くからビールなど……、ええい、ウルサいわッ。哲は不意に両手で握り拳をつくってじぶんの股間に叩き付けた……、睾丸で鈍い痛みが炸裂し、哲は愚かしげなことに今たたき込んだ両手で今度は睾丸をカバーし、「イタいのイタいの飛んでいけ」を唱和するようにゆっくりと性器をなで摩った。たっぷり五分も経ってから、哲は慥かにじぶんが・〝自由空間〟に滞在していた頃・青山操子の妹と・情交を持ったことをおもい出し、今更のように喉の奥で胆汁の泉のごとく滾々こんこんと湧き出す罪悪感を実感したのだった。

 哲は強い緊張感から解放された直後の顫える手指で廊下の手すりを摑み、やっとこさっとこたち上がり、中腰になって(睾丸の鈍痛は今や下腹部に居座っていた)階段を一段ずつ気を付けて降り、一階に着くとやや盛り返し気味でバスルームヘ向かい、エコキュートに残った湯で熱めのシャワーを浴び、身体は軽く洗って頭はリンスイン・シャンプーでざっと洗うと脱衣所に出て、乾いたタオルとドライヤーで水気を取った。下着と部屋着を身に着けて外に出ると、稍よろよろしつつキッチンへ迷い込み、冷蔵庫を開けてハイネケンを一本出した。そのプルタブを引っ張ろうとしているとき、哲は改めてじぶんの手指がまだ微かに顫えていることに心づいた。が、どうにか他者の助けは借りずに(抑も家にはたれもいないのだったが)プルタブを引くと、黄金色の液体をグラスに注いでごくりごくりと心地よい苦みのある酒を喉の奥深くに流し込んだ。そこで哲にも漸っと気付いた――、ああそうだ、今回電話したのは、ぼくが生まれて初めて女性のお宅に〝そっち〟の用事で電話をしたのだ、ラブ・コールだったのだ。だからこんなに緊張しているのかな? 忍サンとのことは忘れても構わないのだろうか? まったく、あの一事さえなければなあ、大手を振って外を歩けると云うものなんだが。そんなことをぶつぶつ思いながら哲は三五〇ミリリットルのビールを飲み干し、右手の甲でわずかに泡のついた口許を拭い、緑のカンをにぎり潰して空き缶入れに棄てると、ういっとおくびを漏らして二階に上がった。常も哲もいける口で、ビール一本程度では顔には出ないし足取りもたしかだ。PCに向かいメールをチェックすると、母のみよ子が入居している施設からメールが入っていた――、曰く、早期にご兄弟と予定の擦り合わせをした上で一度当施設をご訪問して頂きたい、ご母堂の意識が澄明なうちにおいで頂ければと思うので、早ければ早いほうがよろしい。これは常と相談する必要がある。ほか、仕事先の会社から、原稿の進捗具合とできればこれまで仕上がった分だけでも先にみせて貰えないかの件について。オーディオのメーカーから新製品の案内と都内ショールーム開設のお知らせ。あとは詐欺に近い(と云うか百パーセント詐欺)のものが二件――、そう、哲という人物は友人が極端に尠ない。相溟学園時代は〝社交的で明るい性格の常の弟〟という顔をしていれば何もせずともひとは向こうからちか付いて来た。が、上智大学で過ごした大学生時代は違った。年がら年中図書室の隅にこもり切りになって錬金術書と格闘している同級生になど、いくら魅力的だからと云ってちか付きやすい筈がなかろう。実際、哲は学科内でも相当の変わり者、偏屈モノとして見られていたらしく、食堂で(むろん一人きりで)昼食をとっていた際、あちらの方の席でドイツ語学科内の男女数名で〝仲睦まじく〟食事をしていたその集団のうちのある女子学生から指差しの上で嗤笑されたことがある。その他の男女学生たちもさざ波のような動きで鈴之木哲の方をふり向いては(ああ、あいつ!)と云うような表情を泛べて復たなに事もなかったかのように元の姿勢に返って行くのであった。哲は感受性が高い分、じぶんの見え方・見られ方には相応の注意は払う方である。けれども、大学生時代の哲にとって錬金術(とユングの心理学)はドイツ語に次ぐ〝必修科目〟だったのだ。おいそれと棄てる訳にはゆかない。それに、結局連中だって一体何だと云うのだ? じぶん達の方が哲よりマシな存在だ、というような顔をしておきながら、その実楽勝科目で単位を稼いで放課後にはテニスコートでちんちんかもかも、それが終わると〝しんみち通り〟の居酒屋でコンパ、そんな日々と孰方がよりマシだと云うのか。哲はよろこんで〝誇り高き孤独〟の方を選択したから、周りに平気でちか付いて来る学生はますますいなくなってしまった。一刻者の哲はこれ幸いといっそう熱を上げて〝研究生活〟に邁進するようになった。哲が所属していた外国語学部ドイツ語学科というものは三年、四年生になっても研究室分属やゼミというものは特になくて、したがって卒業論文や卒業研究もない。学生は専攻するドイツ語の試験を受けてこれに合格すれば卒業が認められる(副専攻を選択してこれで卒業論文を書くこともできる)。そこで哲は如上のとおり格別な就職活動はせず、雑誌社から仕事をもらってほかの学生より一と足早く〝就職〟してしまった。哲の名前と顔は比較的メジャーな雑誌などにもぽつぽつ出ることがあって、その件で話しかけてくる同窓生もいたのだが、哲は「まあそうだね」「そうかも知れないネ」「そうだといいね」の三語を決まり文句にして切り通し、飽くまでも〝俗物学生〟に対する態度は変えなかった。――哲とはキュニコス派の哲学者だったのだろうか?

 友人の絶対数がすくないことを、哲は負い目に思ったことはない。ただ、操子と婚姻するにあたって、式や披露宴に呼ぶ知己の数に多寡たかが生じ、釣り合いがとれないかも知れないと思うことはある。尤も、哲には学校以外で培った同業の音楽評論家やレコード会社のA&R(アーティスト・アンド・レパートリー)担当などの知人がいるから、年齢層を考えなければそう気にすることもないかも知れぬ。

 ――と、そんなことを、机上においた宝石店の化粧箱とチケットを交互に見ながらつらつらと考えるのだった。仕事が捗らないのをよそ事の所為にするのはよくない。哲はこれまで仕上がった分、およそ二五〇ページ分のワープロ・ファイルをメールに添付して送り出した。二五〇ページ分というとご大層なようだが、完成したら七〇〇ページ分になる筈なのである。これと云って決められた締切日の設定はないし、焦るよりもマイペースで進めればよかったのだが、七月頃には三五〇ページほどまで薦めているだろう、とのペースで書いている積りだったから、これは少々遅れていると謂わねばなるまい。

 哲はディスコグラフィ兼書庫にしている隣の小部屋に這入ってアフィニティのオリジナル盤など、何点かレコードを探した。――と、その時だった、哲が〝矮小感〟とじぶんで名づけることになる一種の現象に見舞われたのは。じぶんは何一つ取り柄のないニンゲンだ、狭量で俗物性を糾弾する立場をとりながらその実自分こそいちばんの俗物であって(しかもその単純な事実にてんで気がついていないというこのちゃんちゃらおかしな不合理性)、大のナルシシストにして自己愛者嫌い、要するにニンゲンが小さいのだ、普通の勤め人はやりたくないのかできぬのかは分からないがその前に恐らく怠惰なのだろう、いっかい普通の勤め人もやってみてそれからだって遅くはなかろう。「音楽評論家でござい」なんて鼻息荒くしたって誰も洟も引っかけてはくれないよ、これまでのところ稼いできた約一〇〇〇万円の現金は、うぬの実力と云うよりは音楽雑誌社のご厚意で入って来たものだろう、もっとよくその辺のところをとっくり考え直して一からやり直し、出直しをするのだな。うぬは〝もの書き〟を以て任じているようだが、キミはモノを書いていると言うよりは、〝恥を搔いている〟のだ、そのことを先ず何よりも先に自覚しないと………。

 哲はクレシダのアルバム「アサイラム」アルバム(英プレス、ヴァーティゴ・レーベルによるオリジナル盤)をターンテーブルに載せて聞きながら我知らず椅子に座ったまま顔は両膝の間に落とし突っ伏して、両手で後頭部を搔き毟りながら呻き声を上げていた。アルバムB面の終曲〝レット・ゼム・カム・ホエン・ゼイ・ウィル〟が終わり、針がお終いまで端って行ってぷつん・ぷつん・ぷつん、と音が出ているのに気づくまで、哲はひとりで煩悶もだくだを抱えて呻吟していた。ハッと気がついて立ち上がり、スタイラスをのけると大事なレコードをそっとレコード・プレーヤーからおろしてしまい込んだ。何かがヘンだった。どこかがおかしい。哲は舌でそっと上唇を舐めた。ナンだろう、ちょっとうつ病っぽいのだろうか。相溟学園の同窓生で医大に行ったのがいたな、岡部に西木……、ええい。

 忘れてしまえ。お前には仕事があるじゃないか。

 哲はTシャツの袖からでた腕をぴしゃぴしゃ叩き、それから立ち上がっていったん階下に降りるとキッチンでマグにいっぱい珈琲を淹れ、階に持って上がり、原稿のファイルを開いた。「第二章-六 クレシダとユーライア・ヒープ」と題した小文にとり掛かった。


「……クレシダにしてもユーライア・ヒープにしても、音楽的には互いに特に大きな関連性があると云う訳ではないのだが、孰方も強く文学との繫がりを連想させるバンド名である。具体的に記せば、クレシダはシェークスピア、ユーライア・ヒープは文豪ディケンズとの…」


 以後、幸いにも哲は仕事に没頭できた。

 哲は走っている列車に似ていた。動力は蒸気なのか電気なのか或いはディーゼル機関なのかは判然はっきりしなかったが、風が吹いても雨雪になってもものともせず、その鋼鉄の顔をさらしたまま、腐食性の大気の充ちるなか、細かなことは一切構わずに疾駆している。初めのうち、もの事は万事OKなように思えていた。哲は十六、七パーミル程度の急勾配も問題とせずに登坂し、湖水のほとり、田園風景の中、近郊区域、都市部の中を疾駆し時間通りに各停車駅に通達した。なので哲がうけ取るべき言葉は賛辞のみであるはず……、いや、あるべきであった。けれどもいつの頃からか、大気がいたずらと云うか厭がらせをするようになり、哲は段だん職務の遂行が難になってきた――、大体この腐食性の大気は哲の車体の無防備なあちらこちらから浸透して来て、哲は身体のあちこちががたついて来た……、そしてまず方向幕が剥がれ落ち、続いてウィンドウ・シルが、そしてヘッダーが剥がれ、金属の行先標が落ち、KE76型ジャンパ連結器が外れ、さらに構体の雨どい、中ばり、横ばり、枕ばり、そしてキーストン・プレートも傷みだし……、という有様で、結局遅かれ早かれ哲は奄々えんえんたる余喘よぜんを以て途上にて停止する命運にあるものだった。そして哲はその運命の描き出す通り、最後に一と息蒸気をもらすと立ち止まってしまった。それは二度と動くことのならぬ死出の山だった。こればかりは哲の体力を以てしても乗り越えることは能わなかった。

 そう、哲も道理が分かっているのなら、混乱を避けることもできる筈であった。

 土曜日、哲はスコッチ・ツイードの夏物のジャケットを着て、ボタンダウンのシャツ、モス・グリーンのスラックスといった出で立ちで上り電車に乗った。操子とは家が近いのだし、近所で待ち合わせてもよかった……、と云うのは後知恵で、いまの仕事先の雑誌社や出版社の中には新宿近辺に所在するものもあったからそれを頭に入れて、などと考えてみても今日は普通の会社は一般に休日となる土曜日だし、どっちみちその日哲は新宿の辺りで特に用事はなかった(けれども、レコード屋巡りという大事な用件はあった)。

 土曜日の上り列車はグリーン車も割と混んでいた。哲は海側の窓際にひとりで腰掛けていたのだが、これは頼み込んで常についてきてもらった方が得策だったかも、と考えていた。常は例によってアナログ・シンセサイザーに首まで浸かっていた。男と女、一対一のデートというのは哲はまったく未経験である。常は忍とたまに外で会っているようだし、この点では常の方が一歩リードしていると云ったものだろう。慥かに忍との交わりはあったが、あれは肉の交わりではない(なお悪いじゃないか、と云う声もあるけれども)、と考えて哲は努めて考えないようにしていた。とは云い條、今日これから会う予定の女性はその忍と生き写しの相手なのである。

 車中、哲は気付けにと思ってヒプノティックというリキュールを携帯用ウヰスキー・ボトルに入れて持ち出してきていたので、それをちびちび飲みながら終点までの鈍行列車の旅を(どうにか)楽しんでいた。先日の西村知教の〝ご高説〟はまったく正鵠せいこくていた。百発百中、見事なものだ。しかしながら、ここから自分にはことさら操子を得てどうしよう、というアタマはないのだ。操子がいて困る、ということはむろんないのであるが、操子にはたけおとなしくしてもらい、当方に不測不備があってもご海容かいよう願いたいものである。と言うのも、こうして断定的に述べてしまうのも語弊があるかも分からないが、じぶんには操子を〝満足〟させるだけの自信がない。操子と仮に一緒になり、哲が正常で健康なる一男子では、ない、との話が漏れてしまうと、哲にとっては破滅になる。悲劇だ。哲はその点、常はどうしているのか気になっており、幾度か常には鎌をかけてみたのだが、常としては「その点では特に何も話はないし、翼々と気に病む要はない」とのことでてんで相手にはされなかった。

 帰りの電車の分まで残そう、と思ってでて来たのだが、品川に着くまえにポケットボトルは空にしてしまった。優等列車ではないので車内販売などないし、落ち着かぬ気分のままに東京駅に到着したのだが、二階から階段でプラットフォームに降りると、髪の毛になぶらせる外の風は案外心地よいもので、さてあと三時間どう過ごすか、半ばわくわくしている自身がいた。こんな時間から酒を飲ませる店は(尠なくとも哲は)知らないし、又へべれけで待ち合わせ場所に現れるのも不作法であるし、操子という女性は思ったより神経質なひとのようだから、間違って鈴之木哲はアルコール中毒だ、などとの噂も立てられぬよう気をつけねばならない。要するにもの事は程度が肝腎、ということだ。

 哲は中央本線の特急列車に乗って新宿へ出た。中央本線なら快速電車でもグリーン車を連結して走る時代だが、日頃乗る鉄道に関し贅沢をする哲は特急列車の方を選んだ。こちらの方が座席は座り心地がよい。それに、快速と違って御茶ノ水にも四ッ谷にも停車しないから、速達性という点でも優っている。

 予定より少許すこしばかり早めに新宿に着いた哲は、こちらは予定通りレコード屋巡りに出た。できたら神保町にまで足を伸ばしたかったのだが、ふだんから時間がなくて困っているのでこれは贅沢が言えない。哲は七〇年代のプログ・ロック、ハード・ロック周辺のレコードを、欲しいもの・仕事に必要なものは大抵オリジナル盤で揃えていたが、時間をかけて店を回ってもなかなか手に入らぬものがいくらかあって、今はそれを〝狩って〟いるところだった。ウェブを使えば簡単に手に入る。慥かに。けれど、ウェブを通じての売買では肝腎の盤面の情態が分からないのだ。哲はレコードを並べて楽しむ単なるコレクターではなく、プレイヤーにかけて実際に聴いて楽しむ方だから、ミント品(新品同様のもの)とまでは行かずとも、それなりの盤質のものが欲しかった。

 その日の収穫は二枚だった――、ジェントル・ジャイアントのライヴ盤と、バークレイ・ジェイムス・ハーヴェスト「ゴーン・トゥ・アース」。

 それを手にして哲は待ち合わせ場所に向かった。

 こういう待ち合わせに際しては、男の方が先に来るというのが鉄則になっている(らしい)。哲はレコードに気を取られながらも気にかけて時計には眼をやり、結局新宿駅東南口に来たのは約束の三〇分前だった。

 操子は来ていなかったので、哲はほっとした。

 オトコとオンナ。近年はLGBTQなどという区分ができているが、こと性慾というものにかけてニンゲンというものに果たして進歩の痕は認められるのだろうか。自らを「moechus calvus(モエクス・カルウス)、ハゲの女たらし」と以て任じたユリウス・カエサルの時代から二〇〇〇と余年を経るが、下世話なTVをつけるとこの手の話題で盛り沢山だ。そして今、じぶんもそうした〝俗物〟どもの好餌たる存在となろうとしている……。

 それともじぶんだけは違う、さしずめ偉大なる例外なり、とでも言うべきか。

 常とのことは〝部外秘〟で通した筈だったが、ものの見事に母のみよ子には露見していた。母親の目は節穴ではなかった訳だ。そしてこのことは今、青山家の姉妹も知っている。

 操子は午後五時二分頃に姿を見せた。今日はスカイ・ブルーのツーピースを着ていた。近くに来ると、シトラスの香りのオードトワレをつけているのが分かり、哲は急にどぎまぎした――、何だかまるでじぶんが今の年齢の十も下、十五か十六のガキになって生まれて初めてレディのお相手をしてエスコートせねばならなくなったみたいな気がする。「こんにちは」哲は精一杯愛想よく操子に挨拶した。「こないだはどうも」

「ええ、失礼しました」操子は済まないと思っているのか、稍俯き加減に言った。「今日はお招き下さって恐縮です」

「もう会場は開いていますよ。さ、行きましょう」

 二人は南口方面に向かい、タクシーを拾った。個人タクシーのトヨタ・クラウンで、運転手は六〇がらみの無口な男で、車内は喧しいFM放送が入っていた。

 会場は六本木にある。二五分ほどで着いたが、そこまで二人は車の中で一と言も口は利かなかった。

 会場の近くに来て、哲は車を停め、精算をし、運転手に幾らか心付けをやり、車の前で待っていた操子を伴ってヴェニュー(会場)の門をくぐった。お決まりの所持品チェックを受け――、ここで哲は今日ここで手渡すために宝飾品を持参してきたことを思い出し、何となくどぎまぎした。それからチケットを出し、ギャルソンの案内で指定された二人がけになっているボックス席まで連れて行かれたが、その時はもう夢心地で、ふわふわと雲でも踏んで歩いている気分だった。開演までは四〇分ほど間があり、操子は化粧室に行き、その間にこの化粧箱の中身のバクダンをどこかで棄てて来ちまおうか、とさえ哲は考えたのだが、考えねばならぬのはここで済ませる夕食のメニューの方で、哲は菜譜を頼りに、ビールはヒューガルテン、アミューズ代わりにフィッシュ・アンド・チップス、オードブルとしてドイツ・ソーセージの盛り合わせをとり、魚料理は金目鯛のポシェ、肉料理は牛肉のタルタルステーキ、ほかにデザートや酒も誂え、と云った感じで選び出した。間もなく戻って来た操子にも話して了解をとり、その辺をまるで人工衛星のようにごとく周回しているギャルソンのひとりを摑まえてオーダーすると哲はすっかり疲れてしまい、今度はじぶんも手洗いに立ち、個室に這入るとズボンと下穿きをおろした恰好で便座に力なく腰掛けて(はああ……)と独り密かに溜め息を吐くのであった。だが、五分も十分もこんな恰好をする訳にもゆかず、詮方なしに二分ほどでたち上がると個室は出て、蹌踉そうろうと席に戻った。席には既にアペリティフが来ており、操子は気のせいかやや非難がましい目つきで見てきたようだ。哲は口の中で詫び言を述べると席に着いた。アペリティフのグラスをチンと合わせ、飲み干した。

 哲はこの時でもまだ迷いがあった。じぶんは操子の相手には適さないのではないかと云う思い、常とこれ以上こんぐらかった関係に陥るのは賢明なことではないのではないかという疑い。じぶんに果たして女性が愛せるのかと云う狐疑(こぎ)……。そしてまた、そう云った種々の疑念を抱えつつ、それらを一言でもここで発すればそれまでになる、じぶんの負け(すなわち常の負け)、鈴之木家の負け……、そういうことになるのだ。だから、哲にできること、そして今の哲にするべきことはと云えば、〝運命に抗ってでも先へ進むこと〟――、ただこの一事であった。哲にはそのことも痛いほどよく分かっていた。

 従ってその哲は、一応表面上は旺盛なる食慾を呈した。幸い金目鯛は好物だったし、タルタルステーキも嫌いではない(それに、抑もこういうメニューを提議して決めたのはじぶんなのだ)。そこでヒューガルテンで流し込むようにフィッシュ・アンド・チップスを口に運び、かたきでも取るかのようにエスカルゴを咀嚼した。

 その間に緞帳が上がり、バンド・ゼラットの演奏は始まった。フォークに近いプログレッシヴ・ロックとは云い條、ロック音楽であることには変わりはない。ドラムス、ベースをはじめとする電気楽器の音がまともに肚の底に響いた。いつからはそれはハーモニーを奏でるものではなく非道ひどいカコフォニーとしか思えなくなり、それと時を同じくして食べ物は食べ物に思えなくなった――、牛肉は肉ではなく柔らかく絨毛が生えた玄関マットだ、ヒューガルテンは誰かが風呂で身体を洗った後の石鹸と垢の混じった汚水を冷やしたもの、ケーキはキッチンのシンクを磨くときに使うスポンジたわしだ。それでも、哲は強靱な精神力によって我れと我が心をとり戻した。その頼りとなったのが他でもない音楽、ロック・ミュージックだった。フラッシーなソロ・パートのシンセサイザーが、耳の底に残る禍々しくひずんだギター・リフが、声高らかに歌い上げるバリトンのヴォーカルが、哲がこれまで訴求しこれからも希求してゆくべきものが何であったのかを哲に対し再び明らかに提示し直し、言ってみれば哲に生きる道を教えた。三曲目、このバンドの新作レコードではハイライトに来る十六分二十秒の大曲を聴き終えたとき、そこにはいつもの哲がいた。

 哲は再びいつもの旺盛な食慾をとり戻して晩餐を終えた。操子の方に目を遣ったが、哲の変化に気付いた節は見受けられなかった。哲は操子にもこのバンド・ゼラットのアルバムを何枚かコピーしてやっとけばよかったか、と思ったが、操子も電気的に増幅したヴォーカル・パートはほぼ完璧に聞き取れている筈だった。

 開演から約一時間二〇分後、ヴォーカルのラパスがやや済まなそうに、

「次の曲が今日の公演の最後です。みんな今夜はどうもアリガトウ。次の曲、〝ウィズ・ユー・フォーエヴァー〟です。聴いて下さい」

 と表明し、ピアノに向かうキィボーディストに照明が当たってピアノのイントロが始まった。

 と、哲の中の声が頻りに哲をいた――、今だ今だ、今しかなかろう、いまを逃せば一生涯こんなチャンスは巡って来ることはないぞ、この曲はあと約二分でエレクトリック・ギターが入ってくる。電気楽器の音が入る前に渡すんだ。

 そこで哲はじぶんのバッグの中を漁って――、一回は見つけられず完全に見失ってしまい、ちょっとパニックになりかけたが、二度目にそっと手を入れると覚えのあるつるつるした包装が手に触れ、哲はその、多少手擦れがして又バッグの内容構成物とふれ合って結果として少しヨレた宝飾店の包みを取り出し、焼き立てのタイ焼きでも進めるような無造作さで、

「操子さん。これ、ほんの気持ちです。よかったら」うっかり〝召し上がって下さい〟と言いそうになり、コトバを一度引っ込めて、「お使いになって下さい」

 と操子の手の中に落とした。照れと、あともう一つ、何と言うのか……、コワかったとでも言おうか、そういう曰く名状しがたい感情があったので、哲はその後の操子の様子は確認していない。意識もできるだけ音楽の方に集中してしまった。曲はその日二番目の長さで――十二分五〇秒ほど、哲が見ない内に操子が到来物の中身を確かめることもできた筈である。

 軈て拍手喝采のうちにショウは跳ねた。客電がついたので哲が身支度をしていると、操子が化粧室に立ち、その間に哲はその日の飲食代金の精算を済ませて待っていた。操子は「地下鉄にします? 六本木駅が近くでしょう?」と言ったが、哲は、

「まず外に出ましょう」

 と答えて先に立った。会場の外に出ると、小雨が降っていてあとに従う操子に哲は折りたたみ傘を差し掛けた。客待ち顔のタクシーは直ぐ見つかって、哲は、

「これで行きましょう」

 と、言うが早いか黒塗りの日産フーガの後部ドア近くに立って、ドアが何か動物の筋肉の反射実験でもやるような按排で開くのを待ち、操子を先に乗せた。哲は乗り込むと、東京駅を命じた。

「降ってきましたね」

 運転手が独りごちるように言うと車を出した。

 休日の火ともし頃とあって道は少し混み合い、東京駅前に着いたのは三〇分ほど経ってからだった。ふたりとも帰る方角は一緒だった。時刻を見ると、午後九時十二分発の久里浜行き、東京駅仕立ての列車だが、一番線から出るようだったのでそれに乗ることに決めた。二人分のグリーン券をもとめてプラットフォームに向かう。

 列車は既に入線していた。グリーン車の二階に向かうと乗客は疎らだった。窓には僅かに雨滴がついている。

 発車までは五分ほどあるようだ。プラットフォームの自販機で缶コーヒーでも買って来ようか、と哲が通路側のシートからたち上がろうとすると、黒い闇をバックに座った操子の目が光ったように見えて、哲は少許竦んだ。

 しかし、操子は静かな口調で、

「今日はどうもありがとうございました」

 と言ったのだった。その口調に騙された哲が悪い。

 哲がコーヒーは止めて乗って待つか、と思い座席の上で尻をもじもじして座り直すと、いきなり操子が、

「抱いて」

 と言った。低い声だが、間違いない内容だった。

「抱いて」

 と言われて、哲は非道ひどく動揺した……、動物園のチンパンジーに情交を迫られているときでもこうは狼狽えないだろう。哲は取り敢えず何らかの意味なり情緒なりを表す表情を顔に泛べねばいけないと思い、当座しのぎに中性的な微笑を選んだ。

「抱いて」

 と言った側の操子がいったいその夜になにを考えていたのか、どういう考え方をしたからあんなコトバが出たのか、操子本人にも見当などつかないのではないか。ことがそうである以上、哲などには想像することすらむつかしく、解明するには復た西村知教あたりの知恵を借りねばならなかっただろう。

 さて、二人の間に、

「抱いて」

 女声によって発された、艶めかしいと云うよりは抱擁感に満ちた柔らかな声、そのルースな残響が漂ったままの状況で〝2159S〟列車は定時に始発駅東京を発った。グリーン車の二階席には相変わらずひとの姿は僅かで、検札に来た車掌も眠たげだった。

 哲はたばこが吸いたくなっていた。何でもいい、メビウスでもキャスターでもいいからいっ服欲しい……。しかし、結婚までには(いったい誰の結婚だい? ハハハッ)脱却したい癖だった。けれどもそうしたことは別にして、いま哲は非常に、心底から、真摯な気持ちで、たばこが一本、そう一本でいいのだ、欲しかった。

 たばこ一本あれば、時間稼ぎができる、気のおける相手との交渉事などで、又じぶんの考えを改めてまとめ直したりすることもできる、気分を変えることもできる、そう気分転換にはもってこいだ、たばこには種々いろいろと効能はある――筈だ。

 そんなたばこも、最近キラワレ勝ちである。やれ発がん性があるだの、肺気腫によくないだの、結核に悪い、虚血性心疾患に悪い、脳卒中に悪い、慢性閉塞性肺疾患に悪い、副流煙がどうの、ともっぱら叩かれる側に回り、加熱式たばこの愛煙家も含めてたばこを吸うひとは肩身が狭い。

 であればいっそのこと、たばこもLSDや大麻、覚醒剤やコカイン・ヘロインと同列の扱いにして痲薬指定し、違法薬物にしてしまえばどうか。大体、アルコールというものも有害だ。二〇歳までは摂取してはならないことになっているし、成人年齢を過ぎたって酒の上でのけんかは頻繁にあるし、痴漢や強盗をはたらいたり駅員をぶん殴ったりする手合いにも「酒を飲んでいて覚えていない」旨の供述をする者の多いこと。果ては中毒患者さえいるではないか。そんな毒物のエチルアルコールは合法で、たばこも合法で、どうしてメスカリンは非合法な痲薬として糾弾されつまはじきにされ非合法化されねばならぬのか。

「ぼくは学生時代、錬金術の本を読むのに没頭していましてね」

 哲はアルコールが適度に残っていて普段は重たい脳味噌がふわふわするような感覚を楽しみながら話した。操子が聞いているかどうかは分からないし、孰方(どちら)でもよかった。返辞は求めずに哲は話す。

「錬金術と云うのは、主に古代から中性にかけてヨーロッパからエジプト北部、アラブ世界、あと中国などでも研究されたようです。ぼくは中国の錬金術は疎いのですが…。

 錬金術というのは、最終的な目的としてはその名の通り、卑金属を貴金属へと変化させたり、エリクシールと呼ばれる不老不死の薬液を得たり、あとはホムンクルスやユダヤのカーバーラではゴーレムと呼ばれたのですが、新たなる生命を有する個体をつくり出したりすることも目的とされました。中世には名の知れた自然科学者も錬金術に首を突っ込んでいまして、ロジャー・ベーコンとか、あのアイザック・ニュートンにも錬金術師としての一面があったのだそうです。

 錬金術では、まず第一質料、プリマ・マテリアと云うのですが、これをアタノオルと呼ばれる炉で加熱し、変成を齎して目的の成果物を得るというのが一般的なやり方だったようです。このプリマ・マテリアとしては、錬金術師たちは水銀と硫黄に着目する者が多かったようです。硫黄は男性性の、水銀は女性性の象徴だったようです。

 このプリマ・マテリアになん日も何晩も熱をかけてゆくと、プリマ・マテリアの色の変化として内部で生じている化学的変化が顕れるようになり、まず黒くなるのでニグレドまたは黑化、次に白くなるのでアルベドつまり白化、そして黄色に変わるのでキトリニタスまたは黄化、最後に赤くなるのでルベドつまり赤化、とこの段階を踏んでプリマ・マテリアは変質していき、最終的に望みの……、そう標的物質が得られると錬金術師は考えたのです。錬金術と云うと、デューラーとかモリエヌスとかミヒャエル・マイヤーとかヨハン・ダニエル・ミュリウスなどの寓意図、一見して訳のてんで分からない木版画や銅版画と、それらの説明として付けられているらしい、さらにカッ飛んだ叙述文というのがワンセットでついて来て頭の中はもうグシャグシャ、と云う印象を持たれると思いますが、何でこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなものでこんなもので、あ座りますかここどうぞ、に、ちょっと息切れしていますが、いったいどうしてこんな子ども騙しの道具立てでひとをコロリとだませてしまうのでしょうね。その尤もらしい説明としては、基本的に錬金術師が先代の錬金術師から受け継いだところの知識や実験データや見識といったもの、謂わばその術師の智恵それ自体ですよね、それらは一子相伝だったそうですよ。我が子でない場合は、愛弟子一人だけ、と云ったふうに。佐藤亜紀という作家による『鏡の影』という小説に、主人公が叔父だったか、錬金術に手を染めている人物の手伝いをするのだったかな、筋がうろ覚えで相申し訳ないのですが、兎に角その人物が亡くなって、主人公がその奥義を記した羊皮紙の大部の書物を受け継いでさて開いてみたら、何と中はまっさらなままだった……、まあ何が言いたいかはこれで充分に伝わるでしょう。そうまでしてその奥義が秘匿された術も、文明の近代化が図られるのと同時に忘れ去られました、いともあっさりと。錬金術師たちの実験室はあちこちにあったはずですが、ひとつとして現存していません。喪われてしまったのです。慥かに、錬金術が現代文明まで残したのは蒸溜法くらいなものですが、現在は主に心理学の分野で顕著な功績が認められています。錬金術師たちは実験炉をのぞき込みながら、じぶんの心と対話を続け、その成長と発展、熟成をじっと待ったのです。そのことに気付いたのはカール・グスタフ・ユングでした。ユングはそのことをモチーフにして『心理学と錬金術』と云う書物も著したほどで、事実この本は錬金術にまたそれまでと違った角度から光をあてるものとして評価されています」

 と、日頃の無口に似合わず滔々と弁じ立てた哲は、じぶんが降りる駅の近いことに気付き、話を止め、代わりにそうっと操子の手を取った。

「また、メールか電話で」

 窓に映った操子の影を見ながらそっと言うと、

「ええ」

 と車内の操子が燈火を浴びてにこやかにそう答えた。

 その時改めて、哲はじぶんがズボンの前を濡らしていることに気が付いたのだった。

 その途端、哲にはこの青山操子という女性が何千光年も何万光年も遠い存在に思われた。

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