第5話E.――水無月――
哲が仕事の半ばでたち上がり、午後三時半なのをみて部屋を出ると、きょう有休を取った常は復たじぶんの部屋でシンセサイザーを弄っているとみえ、映画の「スター・ウォーズ」の効果音もかくや、と思しき音響が家の二階いっぱいに拡がっていた(常によると、「機動戦士ガンダム」では実際にARP2600というアナログ・シンセサイザーが使われたのだそうだ)。やれやれ、と哲はかぶりを振って、一応声を掛けていくか、と常の部屋のドアを開けると、常はパッチ・ボードに向かって一心にケーブルのジャックを抜き差しして配線を替えているところだった。お忙しいとこ悪いけど、ぼくちょっと散歩に行って来る、と哲は常に言い残し外に出た。外は蒸し暑く、降られる心配はなさそうだが鉛色の雲が低く垂れ込めている。
哲は海岸沿いに向かって道を選ぶと、途中の自販機でポカリスエットを買ってそれを飲み飲み歩いて行った。十五分も歩くと潮騒の音が聞こえて来る。
砂浜を見下ろす歩道のふち、コンクリートの縁石に腰掛けて、疎らに立ったり座ったりして竿を投げている釣り人たちをぼんやりと眺めていると、
「あら、鈴之木さん」
と背後から声を掛けられて、哲はぎくりとした。
だが、声を掛けられたからにはふり返らなければならない。
ふり替えると、そこにいたのは忍であるようだ――、尠なくとも、見たところの話では、だが。操子だと言われても、反駁のしようがない。
「哲さんね?」
「よく分かりましたね」哲は目を丸くして言った。「いかにも、ぼくは弟の方ですが……。ご名答です、どうして分かりましたか?」
〝忍〟はくすくす笑って、
「そのTシャツで」
と告げた。そう言われてさすがの哲も苦笑いした。いま着ているのは、洗いざらしのスキッド・ロウ、セバスチャン・バック時代のTシャツだった。
「それ、同じTシャツ、いつぞやのパーティの晩も着ていらしたし」
「ああ、そうでしたか」
「ここ、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
〝忍〟は哲の隣に座った。哲は本来の哲の通り、だんまりになって〝忍〟も言葉を発しなかったので、ふたりの間には潮騒だけがとどろいた。
「ずい分他人行儀なのね」〝忍〟は言い、それでじぶんの目の前にいる〝忍〟が忍だと得心がいった。「あの時はとてもパッショネイトだったのに」
言われて哲はやや赤面した。
「あたしが誰か、お分かりになって?」
哲は頷いた。
「あの時は助かりましたよ。捜索に来て頂いて」
「いいえ。あれができるのはあたしだけでしたから」
「そうですか。あれは結構流布しているんでは?」
「いいえ。あたしもあれこれ調べているけど、できるのはあなたとあたしくらいよ」
それを聞いて哲は思わず、
「それをお出来になるくらいの才能や才幹がありながら、あなたどうして就労継続支援B型、でしたっけ、そんな施設に通っておられるのです? 驥塩車(きえんしゃ)に服(ふく)す、とは正しくこのことだ」
と言い募ってしまった。が、忍は、
「ま、ヤドカリはじぶんに合った貝殻を見つけるものですから」
とあっさり言うだけだった。哲は納得できないのだが、継ぐべき言葉が見つからなかった。そこを忍は、
「あなた、そろそろ女性と付き合われたら?」
「―……」
「ウチの姉なんかいかがです?」
「操子さん?」
「ええ、そう。妹のあたしが言うから間違いはないけど、しっかり者でよくできた姉ですよ」
「――お姉さんのお気持ちが第一でしょう」
すると忍は愉快そうに笑った。
「それを知らないあたくしだと思って? まあ、その辺はご安心なさいな」
その日、哲はもの思いに耽って帰り道をたどった。いつもはどうと云うことのない、変わり栄えのしない灰色の裏路地なのだが、それがその日はやけに長い迂路を選んで通っているような気がして、ふと見るとどこで間違えたのか、美事に道を違えていた。
哲の脳裡に慥かに残っているのは、忍と交わした会話の最後の方の断片だ――、忍曰く、
「あたしがどうして〝夢抜け〟の技術を体得したのか、お知りになりたい?」
哲は大してナニも考えずにうっそりと頷いた。
哲と並んだ忍は腰の辺りにあった石ころをとり上げ、「エイっ!!」と叫んで誰もいない海の方へ抛ると、
「あたしがこの能力を手に入れたのは、その辺のB級サスペンス・ホラーじみた月並みな話だけど、母が妊娠中に極秘で政府による有償の人体実験プログラムに参加したからなのよ」
とさらりと言った。哲が訊き返そうとすると、哲と忍を中心にくるりと天地が一閃し、
「うそうそ」と笑って、「本当はドリームフィールド社のアントニオ・マリャベッキというひとの作成したキャンペーンの為なのよ」
と言った。そして、哲が呆気にとられて見守るうちに、
「どっちもウソよ」と再び笑って、「そろそろ帰らないと母と姉が心配するわ」
と言って手を振り、あともふり返らずに帰って行ったのだった。
――いったい
哲は釈然としない思いで、小首を傾げて思案投げ首と云った按排で帰宅した。如上の通り、歩く道を間違えてふだんは用のない地区へ迷い込んでしまったのでだいぶ時間と体力にロスが生じ、だいぶ暖かくなっている時候のことで少しく発汗していた。
やれやれと思って帰宅すると、珍しくエプロンを掛けて頭にはバンダナを巻いた常が出迎え、玄関先で仁王立ちになり、
「いよーッ! 遅かったじゃねえのよン。今日は約の通りアタクシめがシェフをやりましたぜえ!」
「あ、そ、そう」哲は気圧される。「――で、今日は一体何を……」
「いいか? 題して〝野菜のブイヨン〟、又の名を〝ブイヨン・ド・レギューム〟と来たもんだ」
「ああ」哲は首肯した。「あれはだいぶ煮込む料理だね」
「そ。あと二時間半くらい、ネ。今二時半だから、丁度よかっぺ?」
「うん、ああそうだね」哲はますます気圧される。「でもあれは魚料理のソースとかに……」
「ところがどっこい」常は哲の手を引っ張って厨房に向かった。そしてオタマをとると、まだ作りかけのブイヨンにこないだ哲が拵えて作り置きにしてあるトマト・ソース、哲はいつでもトマト・ソースは田舎風のがいい、と主張して、どこから名前を貰ったのか常も知らなかったが、〝熊倉鴻之助流〟と称して二時間も三時間も煮込んでこってりしたやつを作る、そのソースを匙で二つほど抛り込んで、ホレ、と哲に手渡した。哲が言われるが儘、試しに味見をすると、成る程常が威張るだけあって、中なか美事なトマト・スープになりかかっていた。
「ああ、いいんでないの」哲は常にオタマを返した。「トマト・スープでディナーにするのも一興か」
「そだろ」常は胸を張った。「オイラもそろそろ世帯を持つんだし、このくらいはやっとかないとネ」
ああその話なんだけどさあ、と哲は常に言いたい気持ちがあったが、一体何をどう言えばよいのか悉皆見当が付かない。
哲は自室にひき取ると、晩餐までやろう、と決めて今年中には梓行したい、と思っている〝一九七〇年代・プログレッシヴ・メタルの先駆者たち〟と仮題を附した原稿の資料を拡げた。もう論旨と文章の進め方、章割りと全体の青写真はできあがっているので、あとはそれに従って文を書いて行けばことは済む。ただ、プログレ・ファン(と云うかマニア)には非常識ではた迷惑なのが多いようで、ちょっとした数字の誤りをあげつらってレポート用紙六枚に及ぶ〝抗議〟の手紙が来たり失礼な電話が掛かって来たりするので、用心して掛からねばならず、チャート上の動きだとか売り上げ枚数などの数値的なデータを参照にするため専門のレファレンス本が欠かせない。
鈴之木常と青山忍の結納は、哲が〝自由空間〟に行っている間にとり交わされていた。鈴之木家側はこんな時だし、延期してはどうか、ともち掛けたのだが、青山家の、それも驚いたことに本人の忍が中心になって、いや、ここはこのまま予定通りやりましょう、哲さんのことなら一切心配は要りませんよ、そう忍も申しておりますし、と連絡して来て、それに押される恰好で結句当初の予定の通りに行われたのだった。
そして、忍の〝予言〟の通り、哲は〝自由空間〟内で無事に見つかって現世へ帰還を果たした。
「なあ兄貴、ちょっといい?」
夕食の席で哲は、一応釘を刺しておくつもりで話し掛けた。
「ン? ナンだよ」
「いやさ、ホラ、さっきも兄貴の話に出たけど、忍さんって変わったひと……、つうか、変わった能力の持ち主じゃん」
「お前も変わってるよナ」
「うん、ウンウン」二、三度強く点頭して、「ぼくの能力は……、自家製、というか、まあじぶんで鍛えて…、鍛錬して養ったものだ」
「ウン、で、なに、忍ちゃんのことを言いたいのか?」
上機嫌だった常の、酔いが廻って充血した目には、どことなく剣呑な光が見えて、哲はその晩その話を常にすることは諦めた。
今日話した上で収穫だったのは、常が青山家の妹娘をどうやら大切に思っているらしいことが知れた、その程度であったが、このくらいで手を打っておくべきかも知れなかった。
――参ったよなぁ……。
青息吐息の哲は一体何をどう切り出すべきなのか考えあぐねてしまい、ワインの酔いもこの思案に殺されたものらしく、グラスに二杯飲んだワインもまるで廻らなかったと云うのは、その夜の仕事の進捗ぶりを考慮に入れると却ってよいことだったのでは、と思われる。哲は心のなかのメイン・コントロールに執筆中の原稿を据えて主としてこれに取りかかり、サブ・コントロールに忍(と常)のことを置いて恒常的に目を配りながら仕事を進めた。哲は意識の使い様を心得ている男だったから、サブ・コントロールに少許ヘンなものが鎮座ましましていてもほとんど気が散ることはなく、淡々と・粛々と執筆を続けていったのだった。ただ、コンピュータの〝窓〟を見ていると、復たこの間のように〝自由空間〟の中で五体を遊ばせてみたいものだという誘惑には見舞われた。だが、先日忍からは、この次こういうことがあってももう助けには来ないからね、と判然と言われていたので、哲はその、背中がむず痒くなるような誘惑には必死で抗った。
部屋の電波時計が午後九時半を打ち、哲は少し休むかと思って机を離れた。バルコニーに出ると少し冷たい夜気が身体に纏わり付いてくる。
哲は孤独だった。先だって問うた時には口先で否定していたが、常も定めし孤独なはずだ――、尤も形式・形態は異なっている。表向きだけ見れば、楽天家で外交的な兄の常には友人が多い。メールでのやり取りも積極的に行っているようだ。ただ、本当の友だちはいないのではないか。一方で、哲は上智大学図書館に篭もって錬金術の本やカール・グスタフ・ユングの著書を読み耽るような暮らしをしていたことだし、一般的なサークル活動みたいなのからも遠ざかっていたから、大学時代には友人はただの一人もできやしなかった。友人と云ってもよさそうなひとができたのは卒業してM社でロック音楽関係のライター兼翻訳者として活動をし始めてからのことで、然もみな哲より年かさで見識も深いひとばかりだったから、普通の友人というよりも寧ろ〝師友〟と呼ぶ方がしっくりくる相手ばかりだった。哲は孤独を覚える度に音楽に逃げ込んだ。人間は平気な顔をして裏切るが、音楽はいつでも寛容で優しい。感情の色合いもより取り見取りだ――、嫋々としたものが聞きたければプログレッシヴ・ロックがあるし、潑溂とした若々しさが欲しければパワー・ポップが、ちょっと昂奮気味ならパンクスが、もっと怒りが強いならハードコアやスラッシュ・パンクが、ゆったりしたければフォーク、お酒を飲んでいるならアシッド・フォークがある。哲は人間嫌いだったのか? 強ちそうとも言い切れない。街頭で募金活動などやっていれば千円札を出すのに吝かでないし、付き合いのある先輩の音楽評論家たちにもよくかわいがられている……。だが、本の虫で人付き合いをしない哲のことは大学の学友が蔭で何と呼んでいたかは哲本人もよく知っている――、人呼んで〝シミちゃん〟、シミは染みでも凍みでも沁みでもなく、〝
冷えてきたので哲は中に這入ろうかと思い、少し逡巡してから上着のポケットからカールトンのパケットと携帯用灰皿を出し、一本吸った。カールトンは燃えにくいたばこなので、考え事をしながら一服するにはもってこいだ。
哲はロング・サイズのたばこ一本を、フィルターぎりぎりまで灰にして吸い終えると灰皿をしまい、家屋のなかに戻った。尠なくともあと数週間は原稿との格闘が続くので、碌にねむる暇もなくなりそうだった。ポール・ロジャースなら分かるが、歌唱のできない哲には五〇〇〇〇・六〇〇〇〇もの聴衆を前にして歌うようなこともおそらく不可能事であろう。
哲はふっ、と吐息を漏らすとキィボードに向かった。
翌日、哲は外に出る用事がないため深更まで仕事をして朝は起きて来ず、部屋のドアノブにも「ドント・ディスターブ」のプレートが掛かっていたので、常は声を掛けずにでて来た。が、それは謬った選択であったと思い知ったのは、午後早くのことである。
常は午前十時前に出社したが、常勤のチェッカー(翻訳校正者)がその日は欠勤だったので代わって文献(論文)一本の校正を行い、赤えんぴつを片手に「導尿カテーテルの衛生管理」と題する八ページほどの英日翻訳案件と対峙していた。常は今でも八五〇〇〇語から九五〇〇〇語ほどの英単語の知識があると思われており、じっさい手元に置いた辞書はまったく使わないでいても大意を摑むことが可能だった(実際は〝大意を摑む〟のではなく、〝精度の高い翻訳をする〟のが仕事であったので、辞書は引いた)。昼食を挟み、やや眠気を覚えつつ原文を突き合わせて医学論文の後半部分を読み進めていると、不意に名前を呼ばれた。
「はっ、ハイィ…」
といきなりのことで間の抜けた返辞をすると、
「鈴之木さん、外線3番お電話です」
とのことで、常は手を伸ばしたが、その時その脳裡では、(おれに電話だって今ごろおれに掛けて来るのなんていたかなあいややっぱり考えつかない若しかして哲のヤツかなマンダレイに火を放つデンヴァース夫人のように家に火をつけちまったのかも知れないぞまあでもおふくろは長生ハイムに入っているから安心だがね)などと神経回路が盛んに発火とインパルス伝達、シナプス間隙での伝達物質放出……、と繰り返していたのだが、手は取り敢えず伸ばして受話器を摑んだ次第である。
「もしもしお電話代わりました。鈴之木です」
すると、電話口にいたのは意外な人物だった。
「あのう、いつもお世話になっております、青山操子ですけれども」
「ああこれはこれは、先日はどうも……」
「いつもお世話さまです」
「ええ、あのう、いま弊社から案件は…」
「はい」トーンが少し落ち、「今日は少々別の、そうプライベートな用で…」
「はあ」
「いま実は御社の近くまででて来ておりまして、そのできましたら大変恐縮ですけれど三〇分くらい……」
常は少し頭を働かせて直ぐ断を下した。導尿カテーテルの案件は午後五時までに仕上げれば問題ない。四角四面な論文より、美女と話している方が楽しいに決まっている。
十五分後、常は会社から十分ほどのところにある目立たない喫茶店で青山の姉娘と会っていた。
青山はオフィス・カジュアルにどうにか収まるサマー・セーターを着て、下はマキシ・スカート、僅かにスモークの入った眼鏡を掛けている。常はネクタイなしのピンストライプのワイシャツに下はベージュのスラックス、とどうにか近距離の出張の終わった同僚がお茶をして休んでいる図、に見えただろうか。
「……そうですか」操子の話が終わると、常は机の上で手を組み、その上に顎を載せた。「でも、兄のぼくが言うので間違いないですが、あいつ変わってますよ」
操子はちょっと考えて、
「ええ妹もそんなことを申していました」
「そうですか」常は冷めかけた珈琲を一と口飲んで、「それならばそういうことでお話は通しておきます」
操子はほっとしたように、
「ありがとうございます」ぺこりとお辞儀をする。「どうかよろしくお願いいたします」
常はいくぶん荷厄介なものを背負い込んだような気がしたけれど、常は然諾を重んずる男であって、家までもって帰った。
家に這入ると、当然ながら弟はもう起きていて、焙じ茶を飲みながら居間のTVを見ていた。
「ただ今。夕食はあれでいいかな?」
「お帰り。うん何でも構わんよ」
昨夜のトマト・スープを温め直して器に装い:二人は食べ始めた。常は今夜はしらふである。
「あのさ」常はやや俯伏して黙然とお菜に箸を運ぶ哲に話し掛ける。「青山さんのことなんだけどさ」
「…うん」
「上のお姉さん、いるだろ」
「ああ、操子さんとか云ったね」
「そう。今日その人と会社の近くで会って」
「うん」
「――話したんだけど、お前と付き合いたい、ってよ」
すると哲は、
「ああ。こないだも妹の忍さん、そんなことを言っていたっけ」
と答えたので、常は、
「なあんだ、お前、承知している話だったのか。――水くさいなあ。忍ちゃんと会ったならそう言やあいいのに」
「だからこないだだってそう言ったろ。偶々会った、ってさ」
「ふうん。――お前はどうする積りなんだ?」
「そうだなあ」哲はペットボトルの〝午後の紅茶〟をもう一杯マグに注いで、「とり立てて障碍はないし、付き合うかもね」
「はっきりしないヤツだなあ」とやや体育会系の常は惘れる。「もうちょっとハキハキしろよ」
「ぼくもいろいろと考えるところがあってさ。――例えばこの家さ、今はこうして二人で暮らしているからいいものの、ゆくゆくは孰方かが受け継いでもう片方が出ていくだろ。まあそんなことだけどね」
哲は肩を竦めた。
「まあそういうことは、追々考えればいいさ。お袋のこともあるしな」
と、哲は、
「実はきょう、こっちにも青山さん方から電話があってさあ」
常は仰け反る。
「な、ナンだ、陽動作戦かよ」
「――で、明日、会うことになった」
「つまり、操子さんだな?」
「いいや、お姉さんは仕事で忙しいから、彼方(あっち)からは忍さんが来る、ってさ」
「へええ」
常は呆気にとられてそう答えたばかりである。毒気を抜かれてしまったのだ。
「ああそう。じゃあま、よろしく言っといて」
哲は点頭して、
「分かったよ」
静かに答えるのだった。
翌日、哲は早めに起き出してシャワーを使い、丁寧に頭と身体を洗って孰方も乾いたタオルで拭ってシャツとスラックスを身に着け、髪の毛はさらにドライヤーでブロウするとブラシを入れ、そんな弟の姿を横目にした常は、
「いつになくご丁寧なことで。ククククク」
と嗤って先にでて行った。
哲は手製のBLTサンドウィッチと珈琲で昼餐を済ませると、約した時刻の四十五分も前に家を後にした。
バスと江ノ電で待ち合わせ場所に着くと、手持ち無沙汰にヘッドフォンで音楽(因みにアネクドテンの「ニュークリアス」アルバム)を聴いて待っていた。思わずギターとチェロとメロトロンのアンサンブルに聴き惚れてしまい、視覚の方がないがしろになっており、背中をトントンと突付かれて気付いた次第である。
「鈴之木くん」忍……、らしき姿がそう言った。「お待たせ」
「ああどうも」哲は反射的にプレイヤーを止め、ヘッドフォンも外した。「これはこれは」
忍は、じぶんの後ろに立っているもう一人のソックリさんを表に出し、
「姉の操子です」と紹介した。「お兄さまの方かな、いつも会社でお世話になっているのは」
「こんにちは、初めまして、操子です」
「どうも。鈴之木の弟で哲と申します」
「今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、どうかよろしくお願いします」
と、忍は操子と目配せして、じゃあそろそろ、と言った。「ちょっと予約してあるお店があるので、行きませんか」
哲は頷いて、いいです参りましょう、と返辞した。
そして連れて行かれたのは、釣り船屋のうえ、二階にはいっているカフェ・バーのような店だった。店の中は四〇から五〇もあるだろうか、大小様々なボトル・シップでいっぱいで、セロニアス・モンクが掛かっていた。哲が音の源を探すと、やはりアナログ盤のようだ。哲はジャズ・マニアではない――、ジャズには疎いのだが、オーストリアはウィーン製のプロジェクトのものらしいターンテーブルにタンノイの大きなスピーカーを見ていると(アンプは何を使っているのかは分からなかった)、段だん嬉しくなって来た。
三人は白いお仕着せを着た若いウェイトレスの手で〝ご予約席〟へと案内され、戸がないだけで実質的に個室と変わりのないそのコーナーに落ち着くと、まず姉妹がめいめいカクテルを誂え、鈴之木さんは、と見るので、哲は、
「じゃ、じゃあぼくは、ジントニックを頂きます」
と言った。日が高いうちからアルコールを摂るのは久しぶりのことで、まだ二〇代なかばで真面目な哲には縁のない経験だった。
料理はまだ午後早いからだろう、軽いものがメインで、初めにチーズとサラミ・ソーセージの盛り合わせやカナッペが運ばれ、オードブルが済むと魚や肉のカルパッチョが運ばれてきた。
酒はうまかった。ジントニックのジンには本格的なロンドン産のビーフイーターが使われていたので、哲は同じものを三回もお代わりした。
飲食しながら三人は会話に興じた。操子はこの間の印象より陽性の印象を与え、よく喋った。
「哲さんって、慥か何かのご研究なさってるんでしょ」
酔って目元が赤い操子が言うと、
「姉さん、研究と云うよりはご執筆でしょう」
と忍が言葉尻をとる。そこで哲が、真ん中をとって、
「どちらでも構いませんよ。似たようなものです」
と言うと、忍が、
「――慥か、錬金術のご研究じゃ……なかった?」
と突っ込んでくるので、哲はそれを受け止め、
「錬金術のことはね、学生時代で止めたんです」
「錬金術って……、あの中世の、ヨーロッパの?」
と操子。
「金をつくり出そうとしたのでしょう? 卑金属から」
と忍。
「金だけが目的ではありませんでしたけどね……」
すると、操子が、
「それで、い、今は何をご研究になっているの?」
「音楽ですよ」
「おんがく」
「そう、そうよ」忍。「哲くんの音楽は有名だったのよ」
「どういった音楽を?」手を振って、「こういうのも?」
いつの間にか音楽はオクターブ奏法のギターに――ウェス・モンゴメリーに変わっていた。
「いや」哲は頭を搔いて、「ぼくはジャズは疎くて…」
「じゃあ、なあに?」操子の口調は稍(やや)諄(くど)い。「どんなのですか?」
「プログレッシヴ・ロックですよ」哲はあっさり言った。「マニア向けの音楽」
「あら、そんなことないわよ」と操子。「キング・クリムゾンとかジェネシスとか、有名じゃない」
が、忍は口吻を少しとがらせ、
「あら、あたし知らないな」と言う。「姉さんの方が音楽には詳しいのよね」
と云った按排で三時間ほどの予約時間は愉しく過ぎ去った。帰り際、操子が手洗いに立ったのをみて、忍は、
「ねえ、姉さんもなかなか悪くないでしょう?」
と哲にささやいた。哲は
哲は
常はすでに帰っており、ワイシャツのボタンを外して風を入れながらビールを飲んでいた。
「どうだった?」
「ああ、お蔭さまで、とても楽しかった」
「そうかい。そりゃあよかったじゃねえの」
「ああ」
「忍ちゃんもいたんだろ?」
「いたよ。――けど、あの人はちょっと変わってるね」
「酒の中に真実あり」、ひとは酔った時に本音を漏らすものだ、とはエラスムスの言葉だが、哲は思わず本懐を吐露してしまった。
「変わってる? 何で?」
哲はそこでユング心理学や錬金の秘術などの言葉も援用しつつ忍が有している〝特殊能力〟に就いて述べ伝えようとしたのだが、常はそんなものは鼻で嗤い飛ばして、
「要するにさ、お前は妬いてんだろう」と極め付けるのだった。「忍ちゃんの方が羨ましくなったんでないの? 試しに操子ちゃんと付き合ってみな。〝隣の花は赤い〟、この諺の意味が分かって来る、ってもんよ」
復たしても哲は見事にやり込められてしまったのだった。 哲はすごすごと撤退して自室で原稿仕事にかかるより他なかった。
長生ハイムから架電があったのは、それから二日ほど経ったころの昼下がりであった。平日だったので無論常は出社しており、家には哲がひとり残ってソルト・ソースのスパゲティを昼食に拵えようとにんにくを刻んでいるところだった。哲は、こんな真っ昼間に掛けてくるのは①何かのセールスか、②昨今流行りの詐欺か、と考えて最初はとらず、従って電話は規定の回数鳴り続けると復た静かになった。やれやれ、と思ってキッチンに向かうと、再びなり出した。
「はい」
と送話口に吹き込むと、
「あ、あのう、長生ハイム健康管理課の長門と申します」
女の声が応対した。哲は瞬時にこの架電の意味をくみ取って、
「あ、いつもお世話様です。鈴之木みよ子の次男の哲ですが」
とやると、長門女史はタスカッタと思ったらしく、
「こちらこそ大変お世話さまです。……あのう、お母さまの状態についてお話ししたいのですが、いまお時間は」
「そうですね」哲は時計をみた。一時半。手早く食事をして、原稿を書くところまで書いて、夕刻になったらM社に一本電話を入れる…。「――そう、十五分くらいでしたら……」
「はい。手早く申し上げますが、みよ子さまのご病勢がですね」
「
母親には統合失調症の持病があった。
「はい。左様でございます。三日ほど前から、何も召し上がらなくなってしまって」
「ああ、そうですか。ドクターには…」
「はい、中松先生にもお知らせして診て頂きましたが」
「何と仰有います?」
一瞬息を吞むのが哲にもわかった。
「末期的、だと」
「ははあ」
「それで」と事務的な口調をとり戻し、
「最期をご家庭でお迎えになりたい方には、少し早めのお引き取りを願うようにしておりまして」
「ふうむ」
その辺りはみよ子と話し合ったことはない。うっかりしていた。
「――で、その辺は」
「兄と……、兄が同居しておりますので、相談のうえ、ご連絡します」
通話が終わり、哲は空っぽな気分で重たい子機をもち、何だかその重みにこの地球上で最も慥かな存在感を期待するかのような気分でいたが、取り敢えずじぶんの食事をせねば、と思ってスパゲッティを茹でる仕度をした。
浅いフライパンにたっぷりのオリーブ・オイルを温め、半ば揚げるようににんにくを炒め、塩を入れてしょっぱくならぬように気を付けて味を見て、茹で上がったパスタをそこへ加えてオイルを絡め、皿にとる。序でに哲は珈琲も淹れて食事を始めた。人間、食べなくなったらおしまいよ。哲は思う。お袋、あと何日くらいもつんだろ。長生ハイムに預けてよかったのかどうか(尤も、入りたいと言い出したのは本人で、月に一遍程度の面会でも不平や不満を口にしたことはなかった…、と思う)。食事を終えて、哲は自室で原稿の続きを書いた。気が散って集中できないのでは、との懸念はみごとに払拭された。いま取り掛かっているのが、主にアルバム紹介とチャート・アクションと参加メンバーにその担当楽器、と云う記事が多くを占めるパートだから、ということもあって、この辺りの記事は「ロック・レコーズ」、「ロック・スターズ」「ザ・グレート・ロック・ディスコグラフィ」、そしてピート・フレイムによる「ザ・コンプリート・ロック・ファミリー・ツリーズ」といったレファレンス本を繙けば情報が手に入るから、それを書き写せば事足りる。ロック・ジャーナリズムの一つの特徴(と云うか欠点)がそこにあって、知識があれば誰にでも書けてしまうものなのだ。そういう性質の記事が目に付くのがロックの評論だ。例えばロック界でマルチ・プレイヤーと云えば? とか、ストリングス(弦楽器)入りのバンドは? など、「知っていればネコでも書ける」記事が多いのに哲は気付いていたから、せめてじぶんだけはそういう悪しきジャーナリズムからは距離をおいて、良心的な記事を書くようにしよう……、と云うのが哲の心に決めている方針だった。
さて、哲がその日の仕事を上がろうとした時になって階下の玄関のドアを開け閉てする音がした。哲は降りて行って、常を出迎えて序でに昼間の電話に就いて話した。常はウン、ウンと頷きながら聞いていたが、「意外に早かったじゃないか」とだけコメントした。それから語気を改めて、「今日、昼に忍ちゃんから電話があってな、操子さんが、果たしてお前をフィアンセと看做していいのかどうか迷ってる、と言うので、あああの調子なら問題ないでしょう、と答えておいたぜ」と言ったので、哲も常に合わせてニッと笑った。 写真集の 一件は仕方がなかったと云えば仕様もなかったが、エッセイ集出版の方はどうにか差し止めることができた。偏に常の尽力の賜物である。が、常は哲らがいくら言っても、そんなモノの為にやったことではない、と言って
常は仕方がない、常や周囲のひとの生命を考え、車は特別に誂えて窓には防弾ガラスを使った。結局テロルには三度見舞われたが、孰れでも常の車は頑丈さを常にアッピールして瑕ひとつ付かず、巻き込まれて亡くなったのも〝
さて、哲はちょっと様子を見てみるから、と常に断って、慥かに様子見も兼ねて忍に電話を架けた。その電話口で、哲はぽろりと、母のみよ子は
「それは寿命なの?」忍は問うた。「それともご病気?」
「うむ」哲は少し考えた。「いま五八歳だから、まだ寿命ではないと思う。病気のためかな」
すると忍は、
「じゃああたくし、お母さまのために何か手を打てないか試してみますから、しばらくお待ちになっていて下さい」 と言うので哲は一も二もなくどうかよろしく、と答えた。 常はそんな哲を摑まえて、
「おい、哲っちゃんヨォ」と挨拶した。ずいぶんなご挨拶だな、と哲が体を
そこで哲も気が付いて、
「あ、ご免よ兄貴」と謝った。「別に、抜け駆けとかするつもりじゃあなかばってん」
常は手触りが絹のようになめらかな声色で、
「なかばってん、何じゃい?」と問うた。「どういう積もりばあったもので、あんな挙ば出たものか、聞かせて貰うたい」
哲は狼狽えたが、
「いや、別に他意はなかとよ。お袋の……、病気で周りのひとに迷惑をン掛けていると云うかお世話になっているので、ちょっとでも希望的観測がみえたらよかばってん、と考えて…、ほんなこつ、それ以外の意図はなかとよ、なかばってん…」
常は、
「こいつ、パイルドライバーでも掛けたろかいッ!?」と凄んだけれど、目は笑っていた。 哲は兄の常がもう怒ってはいないことを知ってほっとした(産まれた時間は十数分しか違わず、じぶんとまるで生き写しのご面相をしているというのに、哲は常のことを兄貴と呼んで又顔も立て気味にすることが多い)。慥かに常の言うことはよく分かる。忍は常の婚約者なのであって、哲のフィアンセは操子なのだった(この先、意図的にしろまた無意識的なものであるにせよ、取り違える可能性もなきにしもあらずだが、それはこの際ここでは触れない)。そんな矢先、一事が生じたのだった。それは哲の側に生じたことだったが、仮に常の側に生じたことだったとしても、その人間関係における重大性には変わりがなかったろう。
哲としてはこのような一儀が出来するのは寝耳に水も同然だったのだけれど、一方でことを起こした当事者である操子にしてみれば物事はごく当然の成り行きに従って展開されたものであるらしい、そして公然とは口にはしなかったものの、その全ての責任は哲に帰することができるものなり、と考えているらしく、哲にとってはそれ以上のプレッシャーはまるでないものであった。
これも〝姉〟という立場が為させる一種のプレイロールなのだろうか、だとしたら今後はちょっと厄介だよな、と哲は人知れず思うのだったが、後に操子の言うことを綜合してみると、案外筋道だって理にかなっていたので、その点哲は少うし操子のことを見直した次第である。
さて、具体的な出来事と時間の推移は以下の通りだ。
忍との通話から二、三日後、哲のスマートフォンに操子から架電があった。何かと思うと操子は打ち付けに非難がましく、
「問題になっているのは他ならないお義母さんのことなのに、どうしてあたしの方には何も仰有ってくれないの。あたしだって鏡子の娘、忍の姉、あなたのパートナーということに変わりはありません。若しかしてあなた、わたしよりも忍の方により強く好意を抱いているの?」と語気も強く詰るのだ。挙げ句の果てには、「あなた、ホモなんでしょ?」とまで。
哲は延々三〇分に及んだその通話において、常に守勢に立たされ、その間弱酸性の厭味や強アルカリ性のあてつけを一方的に浴びせかけられ、そろそろ〝不快ゲージ〟がレッド・ゾーンにふり切ろうかとする頃になって、不意にストレス源はなくなった――、つまり操子はヒステリックに泣き崩れ、と同時に受話器は乱暴にがしゃりと電話機本体に叩き付けられて通話が終わったのだった。
正直なところ、哲はこういった暴風のような操子の態度に接して非道く戸惑った。哲は(そして兄者の常も)まるで女性経験がなかったし、母親のみよ子はごく気分が安定したひとで、滅多なことではヒステリーを起こすようなことはなかったからだ。
哲は電話口で操子の悪口雑言を拝聴しながら、ただおろおろするばかりで、漸っと通話回線が切れた時にはほっと胸をなで下ろす思いだったが、同時にふたりの前途と云うものを考えたとき、あまりのことに立ち竦んでしまいそうになった。その場で固まっている弟をみた風呂上がりの常も、ちょっと平常ならぬものを感じたらしく、
「――どったの、哲っちゃん?」
と声を掛けたほどだった。
「う、うん……」哲は何かをコトバにしなければならないと考えながら、その実普段は明晰なはずの頭脳も空転するばかりで、何から話せばよいのかとんと分からぬありさまだった。「それがさ」
常はそこで、まず哲を冷蔵庫の前に連れて行き、グラスに冷たいミネラルウォーターを注ぐと「ほれ」と手渡した。「さ、お兄さん、ぐーっといこ、ぐーっと」
哲は言われるが儘にグラスを空にした。ちょっとずつ普段の哲に返ろうとしているらしく、白かった頬にも赤みが差してきた。常はそれを見届けると、哲の手からグラスをとるとじぶんのために一杯注ぎ、一と息に干した。
「何があったんだよ」
常のフランクな問いに、
「う、うん。幾つかあるんだよ」
「そう云う時は」哲は冷えたグラスの底を当てて哲の額を冷ましてやりながら、「もの事のいちばん最初から話すのがいちばんいいみたいだよン」
「ああ」ごくりとつばを吞んで、「怒らせちゃったんだ」
「誰を?」
「み、操子さんを」
「どうして?」
「忍さんに連絡を取ったの、ヘンに誤解されちゃったみたいなんだ」
「ああ」常も渋い顔をした。「そいつぁマズいね」
「もう、ボクらはダメかも」
「うむ、まぁそこまで悲観するこたないさ」
「しかし」
「こういうことは、時が癒やしてくれるもんだよ」
「で、でぼ」哲はかんだらしい。「あまり時間はないよ」
常は顎のしたに手を当てて思案した。
「それもそうだなあ」たっぷり二分も考えていたろうか、「ああ」ぽんと膝を叩いた。「ちょっと考えがある」
「どんな考えだい?」
「ウン――、相溟で一緒だったのに、西村っていたの、覚えてるか?」
「ああ、西村知教」
「そう、そいつだ。――今この辺に住んでいるらしい」
「へええ」
「西村に相談してみたらどうだ?」
「えーっ、あんな遊び人にかい?」
「そうさあ」常は力強く頷いた。「ああ遊び人かどうかは別として」と言いながら常もクスッと笑った。高校時代の西村の成績通知表では、〝素行・品行・徳行〟の欄が常に「〇点」であったことをおもい出したものらしい。「――そう、その点は別として」
「うん、別として?」
「若い女の子の扱い方、あしらい方は尠なくとも心得てるよな」
「ああ、それは言えるね」哲も頷く。「尠なくともボクらよりはずっと狎(な)れてるだろうね」
「ちょっと連絡してみよう」
「ああ、ボクは構わんけど」
ええっと、と常は名刺入れの中を引っかき回して一枚とり出した。早速哲に手渡す。
「これだ、これ」
「ふん。――へえ、女子高の教師か。そりゃまた…」
常はにやっと笑って、
「羊ちゃんの群の中に解き放たれたオオカミ、って言いたいんだろ?」
「んん、まあね」
「ところが今じゃ、同僚の女性教師と結婚し以後至って落ち着いてるらしい」
「そうかあ。意外だな」
西村知教とは高等部在学中は〝名うての女たらし〟として鳴らした男で、六本木のクラブが寝床、とも言われ、外見さえ綺麗ならば整形美人でも構わぬ、との思想の持ち主だったが、一度などOLだろうと思って二十二、三の女をホテルに連れ込んだところ、警察手帳を持っていて非番の警察官であることが分かり、さすがにこの時ばかりは蒼くなったという。
「ああ、かなりの恐妻家らしいんだ」
「へええ。想像もつかないね。何でそんなこと知ってるんだい?・;」
哲の問いに常は、
「ひと月半くらい前かな、鎌倉駅前でばったり
「ふうん」
「五つ、六つかな、小さいお子さんを連れているんで、そういう趣味もあったのか、と聞いたら大笑いされてさ」
「そうか、まあ尤もだ」
「もっともだって? いったいどっちがだい?」
「まあそう怒るな、両方ともなんだけれどねン」
「そうやって語尾に〝ン〟をつけて話すな。おれの専売特許だ……」
哲はそう息巻く常のてから名刺をとり、
「ふむ、湘南女学院の教諭か。それにしても何を教えてんだろ?」
「バカだな、哲っちゃん、彼奴に教えられるのはただの一つだけだって」
「あはは。そうか、とすると〝人の倫〟かねえ?」
常は双生児の弟に悪乗りして、
「そうそう。ヤツにはそれっきゃないじゃんか」
けれども哲はふと真面目な顔に立ち返って、
「ま、何を教えていても結構だが、周囲にある家庭とか学校とか云う小社会を濫りに動揺させるのだけはやめといて貰いたいけど。あの手合いには俗物が多いから
常は真面目な顔をして、
「西村からはそんな俗臭はしなかったがなあ」
と云うことで、週末の土曜、哲は夜八時半を選んで架電した。いるかな、留守かな、と思いつつ名刺にあった番号に架けた。
初めに「はい」と言って出たのは小さな女の子だった。そこで哲はしどろもどろになってしまい、あの相溟高等学校の、とか、中等部から一緒だった、とか余計なことを喋ってしまい、結果として(多分)その子の母親で(多分)西村知教の細君のご登場を経て、漸くのことで予て望める我らが西村クンのご
哲は咳一咳して喉の調子を整えると、
「鈴之木ですが」と言った「お久し振りです」
と、電話口の西村知教の声がぱっと明るくなった。
「鈴之木? あの双生児の? 先日以来だな。今回は孰方(どっち)だい? 兄貴の方か? 弟か? それともふたり一緒なのか?」
「最後のだよ。――ふたり一緒だ」
と、西村知教はけたたましく笑い出した。
「ウソをつけ、ウソを……。ああ、然しあの頃は楽しい学園生活だったなあ」
「ああ、まったくだ。きみは余り学校で見かけた記憶がないんだがね」
西村は
「おいおい、そりゃあないぜジェームス」
これは中等部の時に学園内で流行っていたジョークである。ふたりは揃って笑い出した。健全な、裏表のない笑いであった。笑いとはこんなに健康的でもあり得るのだ、と哲はほとんど慄然とする思いで感じ取った。屈託ない笑い声が止んだ頃、西村が改めて用件を問うた。
「ああ、そりゃねえ」哲はさらりと言った。「お前さんの、昔取った杵柄でちょい相談があるんよ」
ああ、二人称〝お前さん〟――、何年ぶりに使う言葉だろうか。
「杵柄? はて」
「要するにコレ関係よ、コレ関係。〝小指一本おっ立てて、オンナでござあい〟」
これも高等部で流行った冗句である。西村知教は再び笑った。
「なあんだ、そんなことか」口調を変えて、「悪いけど、参考になりそうなことは……」
「いやいや、そんなことはなかろう。何しろ、あの頃もういろいろとお前さんの話は聞いていたからな」
すると、
「そうか」と観念したように声を潜めて、「横浜市の女子大生二人連れをヤッちまった時の話か、それとも大磯で女子高生を引っかけたときのことか、或いは小田原の短大生を…」
哲は蒼惶として、
「いやいやいやいや」とおっ
すると西村は、
「そう言やあ、きみら兄弟はとってもルックスはいいのにこれまで浮いた噂ひとつ聞いたことがねえな。どうもおかしいと思っていたんだが」
「うんうん」この辺りの話題もどうもやりにくい。「そだな。勉強ばっかやってたしな、本の虫でさ。で、今になってお前さんのティップスをお借りしなきゃイケない場になっちまっってさ」
「ふうん」ありがたいことに西村はそれ以上追及しようとしなかった。「ま、おれでよければ、いつでも身体は空いてるから」
とのことで、哲は西村知教と待ち合わせて、江ノ島近辺のショット・バーで午後四時に待ち合わせた。
哲は先に行ってまち、じぶんの方が先に気づくだろうと思っていたのだが、事実はその逆で西村の方から話しかけてきたのだった。
「いよう、ひさしぶりだなぁ、兄弟」
そう言うと、西村は(相溟学院生の間でひろく行われている)友愛を表す仕草のグーのハイタッチを求めて来たので、哲も気安く応じた。哲が改めて観察したところでは、知教は哲の予想以上に老成していた――、頭は早くも薄くなり、形のよい頬骨からあごにかけてのラインは
「ああ、ひさしぶりだ」
本音を言うとそんな気になれなかったのだが、哲は精いっぱい陽気を装って話に応じた。なんと言っても自分らはまだ二〇代なのだ。若々しくて当たり前なのである。
ふたりは四方山話をしながらショット・バーへの道をたどった。哲は主に西村知教の歩んだ、まだ未知の卒業後の足取りに関し質問した。
西村が語ったところによると、西村は哲の予想の通り卒業後に浪人していた。つまり、高三生の時にどの大学にも引っ掛からなかったのだ。相溟学院はできのよい進学校と思われがちで、また事実十中八九そうした解釈で間違いないのであるが、時にできの悪い学生が生じることもある。一年間浪人して東北大の文学部に入り、四年で卒業し、教職に就いた、と云うことだった。
「お前さん、ぜんぜん変わらないなぁ」西村はうらやましそうに言った。「見違えるようだった」
バーは都合よく営業しており、店はまだ空いていた。
「じゃ、話を聞こうか」
知教はカクテルを選びながら言った。
哲は話し始めた。
哲が話している間、知教はずっと一切言葉を挟まずに耳を傾けていた。時どきカクテルを啜り乾き物に手を伸ばしてカシューナッツやウォールナッツを奥歯で咀嚼するだけで、いっさい声は発しなかったから、みるひとによっては哲の新しい友人は友だち甲斐のない男だ、と評したかも知れない。が、尠なくとも哲には大事なことがちゃんと分かっていた、西村がじぶんのことを気に掛けてくれていることは承知していた。
知教は話を聞きながらラッキー・ストライクを出してジッポのライターで火を付けた。
そして哲の話が終わると、おもむろに重たそうな煙を吐き出して、
「そいつぁ、お前さんの中では、どんな重みがあるよ?」
と問うた。そしてマティーニに口を付けた――、酒コトバは〝知的な愛〟だ。哲は、
「胃の腑でデンと構えてるんだよね。本当なら酒飲むのはあまり感心されないんだろうが」
そう言ってスクリュードライバー(酒コトバは〝女殺し〟)を啜った。
「おやおや、受験にはあんなに強い筈の哲っちゃんらしくない弱気でないの」
「高校時代、遊ばなかったからな」と肩を竦めて、「そのツケだろうな」
「常はいま、会社員なんだろ?」西村知教は稍酔いの廻った口調である。「お前さんは何だっけ?」
そこで哲は手短に説明の労を執らねばならなかった。
「専門職でないの」知教は感嘆と羨望の混じった口調で言った。「出世したんだな。立派だ」
「いや、ただ好きなことで身を立てたいと思っていたからな……。勤め人の方がずっと安定しているぜ」
「そうかね。まぁ、人間、適材適所とは言うからな」そしてもう一杯マティーニを誂え、「ここはお前さんが持ってくれるんだったな?」と確かめてから、「これは簡単な方程式の――、恋愛方程式の演習問題さ。結論から簡単に言えば、お前さんの勝ちになる可能性がとても高いね」
哲はちょっとびっくりして、
「え、そうなのかい?」
とじぶんでも判然マヌケな声を上げてしまった。
「そうさあ」
「ど、どうしてそんなことが?」
と、知教はスツールの上で身体をちょっとくねくねさせ、「そんなの決まってるじゃんか」
「……」
「まだ分からんのか」
「――ああ。わからない」
と哲は西村知教に救いを求める視線を送った。
「お前さんも相当な朴念仁、唐変木の石部金吉クンだな」とちょっと笑って、「いいか、まずちょっと
「ああ」
「オジさんと女子大生がいるとする。オジさんはまあ、フツーのひとだよな。五〇がらみ、若しかすると六〇代、会社では例のドブネズミ色の背広を愛用しているクチで、頭髪はもうよほど薄くなっており、顔にはでかいホクロがあって、老眼鏡をかけ、呑むのはビールかポン酒。聞くのは演歌。バツがあるのか婚姻経験がないのかまでは分からぬが住まいはワンルームのアパート、家賃は四五〇〇〇円ときたもんだ。片や女子大生は二〇歳そこそこ、化粧はバッチリ、ハンドバッグはルイ・ヴィトン、香水はジヴァンシー、財布は…、財布違う、パースだパース、パースはシャネル、二つ目の(オンナはバッグを二つ持ちたがる生き物なんだってよ)ショルダーバッグはフェラガモ、お召し物もブラウスはグッチ、と万事そんな按排だ。オジさんは日本経済新聞と週刊新潮と歎異鈔をご愛読、TVはもっぱらニュースと巨人戦。コンピュータの関連にはてんで疎くてまるで手につかない有り様。と一方の女子大生は、学校じゃあほとけの教授の講座ばかりえり好みして、読書というべきものにはとんと縁がなく、お脳はグッスリ休暇を取っているという体たらく。新聞は元より、TVも見ません。聞くのは流行りのアイドル・タレントとヴィジュアル系。代わりにPCとタブレットとスマートフォンが手放せない暮らしを送り、メールやSNS上での交流だけで会ったこともないし・どこに住んでいるのかも知らないし・そもそも果たしてホントに生きているのかどうかさえも定かでない、そんな〝お友だち〟も複数人いるらしい。――と、こんなふたりには元より接点がなく、したがってこのおふたりさまは本来なら街で会ってもせいぜいすれ違って過ぎるのこそ関の山、まるで共通点・共通項がなく、仮にお見合いパーティかなにかでたがいのプロフィールを手渡されたとしても、オジさんは「うーん、どうかねえ……」であとを濁し、片や女子大生のお嬢さんはクスクス笑っておつもりになさったであろう、そうそんなまるで接点のないおふたりなのだったが、運命の糸は我われニンゲンにはさて分からぬもの、このふたりが急接近する時が来たのだ。と云ってむろん媒介物が必要で、その媒介をなしたものはごく分かり易く、酒だった。実はこの女子大生のお嬢さんは市内のナイトクラブでホステスをして時給二五〇〇円也を稼いでいて、出勤は週に二日だけながら、指名料なども含めるとけっこうな額の実入りになるのだそう。一方オジさんの方は週に三日か四日訪れる客で、カネ払いもよかったし、マスターからは上客あつかいされていた。このふたりは別のホステスの〝ヘルプ〟などで何度か席を一緒にしたことはあったが、互いにじぶんの〝真逆な〟存在だとの認識に至ったようで、オジさんの方には幾分か未練があったようだけど、女子大生のお嬢さんは天から相手にしない態度であった。
ところが、この関係が違ってきたのは店で初めて出逢ってから四ヶ月ほどした夏のある時で、この四ヶ月という時間、この数字が大事なんだぜ、四ヶ月ほど経った頃のことだった。
その夜、オジさんは残業あがりで終電の何本か前の電車で帰り、夏の深夜のさびしい道をとぼとぼと家へ向かっていた。――と、絹を引き裂く悲鳴が響き渡った。一体誰か? どこにいるのか? オジさんは半ば反射的に身体が動いて声のした方角へと走り出していた。と、裏路地の入り口にさし掛かったとき、ただ事でない空気が充ちているのに気づいてそこへとび込んだ。そこでオジさんが目の当たりにしたのは、組んずほぐれつしてとっ組み合うひと組の男女の姿だった。オンナの方は『助けてぇ!』と叫んだ。男は『静かにしろ、殺すぞ』と脅している。オジさんは問答無用で男の背後に回り込むと、何をしようか少しく迷ったようだが、けっきょく金的を狙うことにしたらしく、男の背後からむんずと手を伸ばして手に触れたものをぐいぐいにぎり締めたから男は堪らない、ううっとうめいて仰け反ったところを、学生時代柔道で鳴らしたオジさん、背負い投げを食らわして一本勝ちした、ってワケ。男は無事逮捕・収監されたそうです。
さて、それからのオジさんとお嬢さんの間だが、ぐうっと距離が縮まって、マスターはだいぶやきもきさせられたらしい。
つき合ったのか、って? 聞くだけヤボな話だよ」
話し終えると、西村知教はモスコー・ミュールを誂えてマティーニの残りをぐっと飲み干した。
「……」哲はレッド・アイを飲みながら、「随分お前さんは話が得意なんだな」
「いや」知教は照れたように笑って、「これでも進学校で教壇に立ってるもんでね」
「――で? なにが言いたいんだ?」
「簡単さ。つまり、ピンチはチャンス、ってことさ」
「ピンチはチャンス」
「そう。ピンチこそチャンス。ピンチでこそ動くものがある」
「ふうん。実験かね?」
「ああ。おれの実験だよ」
「ぼくにはなにが言いたいのかよく分からんが」
と、西村知教は居住まいを正して、
「つまりだ。――今ごろ、そのカノジョは何を考えてると思う?」
「さあねえ。別の男のことじゃないか」
「ちゃうちゃう。おれ思うに、今ごろ自己嫌悪に沈んでいるだろう」
「自己嫌悪?」
「ああ。あれだけお前さんに罵詈雑言を投げつけたのだ。関係を……、無にしてしまったのだから」
「じゃあ、ぼくはどうすれば? どう出ればいい?」
知教はカクテルに口を付けて、
「そうさな」と言った。「おれなら、まずカノジョに電話するね。それで、丁寧に詫びを入れて、先方の詫び言も受け容れる。そしてどこかいい場所のレストランをとってカノジョを誘い、その折には名の通ったビジュティエでダイヤモンドのリングでも誂えて持参する、と」
「それで、うまく行くかね?」
「おうともさ。保証するよ」
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