冷静パスタ

小狸

短編

 ここ数年、「落ち着く」という心情とは無縁の人生を歩んできた。


 それはひとえに、私がある被害を受けたからというのが大きい。


 詳しい被害の内容については、どうかここでは伏せさせてほしい。


 とにかく、そのせいである。


 落ち着けなくなった。


 誤解を恐れず言うのなら、そういう病気になったのである。


 ぐるぐると常に感情が渦巻き、熱を帯び、挙句何が何だか分からなくなる。

 

 身体は緊張し、背中や太腿は頻繁に攣り、夜寝る時すらもままならず、睡眠導入剤を飲まねば入眠することはできない。


 そんな状態で生きているのだから、人よりも数倍、疲弊するのが早い。


 特に人と遭遇した時や会話する時の疲労度合いが半端ではない。その時その時は問題ないのだが、会話が終わり、家に帰宅すると、どっと疲労感が出る。そのままシャワーも浴びずに寝てしまうこともしばしばである。


「年相応の落ち着きが欲しいんですよね」


 私は主治医に言ってみたことがあった。


「何だか、いつまでも子どもみたいに発奮している状態みたいで、皆みたいに落ち着いて物事に対処できるようになりたいです」


 主治医はこう言った。


「それは、今は難しいと思いますよ」


 続けた。


「薬を増やして、疑似的にそうなることもできるでしょうが、所詮は付け焼刃です。その場合、私は、あなたの受けた『被害』を無視してしまうことになる。まだその時ではない、んですよ」


「まだ――じゃあ、いつ、ですか」


「いつか、です。長く遠い治療になると思います。それだけ、あなたの受けた『被害』は大きかった。それだけ辛いことを受けたんです。苦しい思いを、したのです。ご安心下さい。それまで私は、私達は、あなたの話を聞き続けますので。ただ周りの方々のような落ち着きを手に入れられるのは、『今』ではない。それを、ご了承いただきたいと思います」


「そう、ですか」


 そう言われて、少し安心できた自分がいた。


 それから数年、仕事を退職し、市や国からの援助を受けながら、私は何とか生活することが出来ている。


 何とかと付けたのは、未だ落ち着きとは無縁の人生だからである。


 希死念慮は留まる所を知らずに溢れ出て来るし、仕事盛りの時に仕事ができていない自分への自責はとめどなく止まらず、外でも家でも人から監視されている感覚が残り、大きな音に過敏で、もう人間として生きていくにはあまりにも「生きづらい」どころではなく生きていくのに向いていないのではないかと思って絶望と共に眠る毎日である。


 でも、最近は。


 朝起きて、カーテンから外を見て、太陽の光を浴びて。


 ほんの少しだけ、混線した頭の回路が、静寂になる感覚を取り戻すことができるようになった。


 そんな気がするのは、きっと気のせいではないと思いたい。




(「冷静パスタ」――了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冷静パスタ 小狸 @segen_gen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ