最終話 絵の具のにおいと海のにおい。それと時々羽の音
渚の家は、この海から近い。歩いて数分でたどり着く。聞くところによると、今日の昼頃には帰ってきていたらしい。
渚の家の和室の座布団に足を延ばして座り、渚は俺の前に救急箱を慣れた手つきで取ってくる。渚は俺の足のけがを、消毒し、ガーゼを貼る。その柔らかい手つきが、とても温かかった。
「疲れた」
俺は主語を抜いてそう言った。
「うん」
なにが、とは問わず渚は返答する。
「疲れるな、ああいうの」
「でしょ。結構しんどいよ」
「二度とするかって感じだな」
「うん。私もそう思う」
「本当?」
「うん、本当。でもまたやっちゃうの」
渚の言葉に思わず吹き出す。ごちゃごちゃと考えていた自分が馬鹿らしくなり、さらに笑い続けてしまう。
しばらく笑った後、渚は縁側で乾かしている、海水でべちゃべちゃになったブリキの獅子を手に取る。
「まだ乾いてないか」
「うん、全然」
そう言いながら、彼女は獅子の頭に手を入れ、パクパクと口を開く。そしてそっとその頭をなでる。
「かわいいね、この子」
「そうか?」
「うん、すごくかわいい」
愛おしそうに、何度も何度も彼女は獅子の頭をなでる。やがてそれは、獅子の油単にまで手が伸びる。そこに書かれた白いインクの方を、じっと見る
「お話、書いたの?」
「うん、自分の話」
「ふうん」
しばらくその油単の文字を眺める彼女。そしてこういった。
「読んでもいい?」
別に断る理由もなく、「いいよ」と承諾する。そして、そのまま彼女はじっと油単の物語を読む。彼女に一度も伝えたことのない俺の業。読み進まれるうちに、次第に照れくさくもなってきて、足に貼られたガーゼをなでた。
十数分程すると、彼女は読み終えたようで、ふうと一息つく。
「ありがとう」
彼女は静かにそう言った。別にお礼を言われることではないのに、自然と涙がこぼれて来る。
「ねえ、今、何考えてる?」
俺は、いつも何かを考えている。そして、初めてその内容について尋ねられた。
「惨めだなって思ってる」
「なんで?」
「誰も傷つけたくなくて、もう自己表現のための何かをするのは嫌だったのにさ。まだずっと、ずっと、表現する側にあこがれて、お前が仲良くしてるような、ああいう人たちに、なりたがって、受け入れられたいって思ってる。わかってもらいたいって思ってる。あっち側の仲間になりたいって思ってる。でも、なれないんだよ。なっちゃだめなんだよ。表現することであんなに誰かを悲しませて、傷つけた俺は、きっとなっちゃだめなんだ。そして身内のお前なら、優しい言葉をかけてくれるんじゃないかとか、俺の獅子はかっこよかったよとか、あなたにしかできないことだよとか、そんな言葉を期待してる。甘えたことばかり考えて、お前に話を聞いてもらっている、この今に、嬉しさを感じてる自分が情けない」
涙ぐんだまま喋るのは苦手だ。ただでさえ脳みそは五歳児から成長していない感覚があるというのに、余計に何も成長していない現実に直面する。
「都合のいいことばかり考えて、だからこんなことも考える」
「どんなこと?」
俺を責めるわけでもなく、ただ淡々と、彼女はそう尋ねる。
ここまで恥をさらしたからだろうか。頭の中の言葉が、すべて口から流れていく。
「ここにいるお前が夢か幻なんじゃないかって考える。いや、そもそも俺とお前が出会ったこと自体が全部俺の妄想で、お前なんか最初からいないんじゃないかって、思った」
ひとしきりしゃべると、秋の虫の声が静かに部屋に響く。渚は獅子の頭を開けて、そして閉じる。
「ねえ」
獅子の頭で腹話術をするように彼女は言った。
「なんか飲む?」
「なんか、って?」
「冷えたビール。美味しいよ」
冷蔵庫からビールを彼女はとってくる。その数は三本であり、俺と獅子の前にそっと置いた。
「乾杯」
そういって彼女は缶ビールのプルタブを開く。俺も力を入れて開ける。冷えたビールがのどを潤す。それは熱くなった脳みそをゆっくりと冷やしていく。
「なかったことにしないでね」
ビールを一気に半分ほど飲み干したところで、彼女は言った。何のことかわからないまま、彼女はビールを一口飲む。
「私を、なかったことにしないで。私、ここにいるから」
そして俺の頭をなでる。彼女のよく使う絵具の香りがする。
「あなたの気持ちまでなかったことにしないで」
そのまま彼女はぎゅっと俺を抱きしめる。絵具の香りで鼻の中が満たされ、むせかえりそうになる。
「ねえ、知ってる? ストレスって、一分ハグするだけで半分以上が消えていくらしいよ」
「……まじで?」
「うん、誰かさんが教えてくれた」
誰かさんて、誰だよと尋ねる間もなく、ぎゅうと彼女の腕の力が強くなる。絵具のにおいがさらに強まる。同時に胸も苦しくなる。
「ありがとう。ずっと応援してくれて」
彼女の大きな手が、そっと俺の髪をなでる。きっと海水と汗で、ぎしぎしだ。あとでシャワーを借りたいと思った。
「私の絵の展示とか、全部来てくれてたでしょ。大学のやつも。遠かったでしょ」
そんなこともあったなと思い出す。わざわざ渚の通う県外の大学まで行くと、重たいやつと思われてしまいそうで、それが嫌でいつも勝手に行ってた。そしてコメントカードは毎回欠かさず書いてた気がする。
でも、そんなの、お礼を言われることじゃない。表現する側の、渚を応援してたら、自分も、同じ世界に、行けるんじゃないかだなんて、結局自分のことばかり考えてる。
こういうのを、エゴイストというのだろう。
「またごちゃごちゃ考えてる?」
彼女は笑いながらそう言った。
「うん、考えてる」
「あなたらしいね」
彼女の優しい言葉が耳の奥に届く。一分のハグを、二分、三分と続ければ、一体どうなるのだろう。そんなことを考えながら、今はこの温もりに身をゆだねてもいいのかなと思った。
けれど、実際のところ、俺はそんな都合よくあの長野の山奥から帰っているわけではなく、意識を取り戻したら、あのごつごつとした岩の足場で寝転んだままだった。
本当に、夢だったんだと愕然とする。どこまでも都合のいいことなんて結局起きなくて、俺はいつだってしょうもない、エゴの塊のような妄想にとらわれているだけなのだ。
にしては、頭の部分だけ柔らかい。それに、月明かりだけじゃない、別の光のようなものも目に入る。それはどこか人工的な光であり、そのまぶしさに目がくらむ。
そして、森の香りに混じって、絵の具の香りが漂ってきた。
夢で嗅いだ香りと、同じだった。
「あ、起きた?」
聞こえるはずのない声が聞こえる。その光の方を見る。絵具や泥で薄汚れたままの、渚の顔が見えた。
「……え、」
例えばこんなことを考える。この渚もきっと俺の幻なんじゃないかと。どこまでもどこまでも妄想は続いていて、いよいよメンタルクリニックへの受診も前向きに検討しなければいけない。
ただ、実際のところ、俺の頭は岩ではなく、彼女の柔らかい太ももの上に乗っていて、彼女の持つ筆が、そっと俺の顔をなぞる。絵具特有の冷たい感触がした。
「電話してくれたでしょ」
彼女は俺の顔に何かを描きながらそう言った。
「うん、かけた」
「ありがと」
「何のお礼だよ」
「内緒」
そして、なんで俺が電話をかけたのか、彼女は聞かない。ただ、俺の顔に絵を描き続ける。
「何、描いてるんだ?」
まどろみの中、意識が少しずつはっきりしてくる。唯一出た問いが、それだった。
「おまじない」
「おまじない?」
「うん。明日も、いい日でありますようにって」
人工的なヘッドライトで彼女の表情は照らされる。絵の具と泥にまみれた彼女の顔は、世界中で最も美しく、それでもどこか儚くも見えた。
彼女はそっとヘッドライトをよけ、岩の横に置く。光の角度は変わるが、彼女の顔は変わらず照らされる。ほんの少しうるんだ瞳で、そっと俺の額に、自分の額をくっつける。
「来てくれてありがとう。君のそういうところ好きだよ」
なんと返せばわからなくなり、言葉を失う。そんな今にも消えてしまいそうな彼女を、思わずぎゅっと、抱き寄せる。ヘッドライトの光が何度か点滅する。そして、その光は消え、世界は暗闇に包まれる。
「知ってるか? 一分のハグで、ストレスの半分以上が消えるらしいぞ」
「へえ、よく知ってるね。初めて知った」
「誰かさんが教えてくれたんだよ」
「誰かさんって?」
「内緒」
ヘッドライトも消え、月も雲に隠れた暗闇は、すべてを包み込んでいる。それは、嘘か現実か。夢か事実か。はたまた妄想か真実か。すべてを曖昧に包んでくれる暗闇は、獅子の中にいるときと同じ気分だった。
「なあ」
彼女を抱き寄せたまま、口を開く。
「なに?」
静かに彼女はそう答える。
「ちょっと、考えてたことがある」
「うん。なに?」
「しょうもない話だよ。自分のことしか考えてない。エゴの塊みたいな話」
「うん。いいよ。聴かせて。すごく聴きたい」
「ありがとう。いつも。本当に。ありがとう」
どこから、そして、何から話そうか考える。
いつもいつも、変なことを考えてばかりなのに、肝心な時に頭は回らないのである。
まあいい、喋れそうになったら喋ることにする。
それまではゆっくり考える。いろんなことを、考える。例えばこんなことを考える。
考えるだけはもう飽きたから、そろそろ考えたことを、本当にしていくのはどうだろう。
ここまでたくさん考えたんだから、たくさんの本当が作られていけば、なんだか、明日もいい日になるような気がした。
そんなことを話そうとしたとき、ブウンと羽の音がした。
森と絵具のにおいがした。
そして、海のにおいがした。
おしまい
例えばこんなことを考える ろくなみの @rokunami
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