第5話 一人の獅子

 例えばこんなことを考える。

 目を覚ました時、俺の中の問題がすべて解決していて、俺のやりたいことが何不自由なくできるとしたらどうだろう。

 歌や踊り、絵画や立体作品。はたまた映像制作。どれもこれもがそつなくこなせ、自分のやりたいことができるのである。

 ただ、実際のところ、目が覚めたところで、俺は結局、俺でしかないのだけれど。

 俺にできることは、本当のところ一つだけである。


 なんて、物語があったらどうだろう。

 唯一の友人が表現者の世界に足を踏み入れ、それにうらやましくも近寄る勇気もなく、中途半端な時期に芸術祭の名残感じに行く、哀れな男の物語である。

 こんな物語を俺が描き、それを全国に出版するのだ。そして芥川賞や本屋大賞を受賞し、さぞや世間で有名になる。俺の中の世界が、めちゃくちゃ面白いんだと言うことを、世界中に知らしめられる。

 ただ、実際のところ俺は文章を長々と書いたことは一度もないし、そもそも書いたところで、応募する勇気は果たしてあるのだろうか。応募して落選したとき、俺の心は持つのだろうか。


 そんな物語を妄想しながら、椅子にもたれ、窓の外の雲が流れるのとぼんやりと眺める。慣れない運動をしたこともあって、体中の痛みや疲れは、まだ抜けない。

そんなぼんやりとした状態の俺の耳に、コンコンチキチンと、なつかしい音が聴こえてくる。カネや太鼓のこの音色。すっかり地元で参加の足が遠のいた、獅子舞の練習の音である。


 例えばこんなことを考える。

 昔参加していた、獅子舞の祭りに俺が再び参加して、大人の獅子をしっかりと極めなおすというのはどうだろう。新しく何かを始めるより、もしかしたら現実的な判断かも知れない。

 ただ、実際のところ、戻れるわけがない。

 なぜ来たんだなんて問われたら終わりである。気まずくてそれこそ二度と行けなくなる。

 では、逆に一人で獅子を振るというのはどうだろう。

 獅子の頭も自分で加工し、獅子の油単も自分でデザイン。

 悪くはないアイデアだが、実際のところ、自分にそんな技術はない。結局できないことを考えてばかりである。

 では、こういうのはどうだろう。


「なに、獅子頭を作ってほしい?」

「うん、俺だけの獅子頭」

 バイト先の叔父の鉄工所で、俺の業務である事務作業が一段落したため、そんな話を持ち掛けた。信じられないといった顔で叔父は瞬きをくりかえす。

「普通の獅子頭じゃだめなのか?」

「うん、だめ」

 きっと普通のは違う。普通という文化に馴染めず、うじうじ悩み続けている俺に、ふつうはきっと相応しくない。

「じゃあ、どんなのだ?」

「……普通じゃないの、というか」

 自分で言っておいて、ずいぶんとざっくりとした指示であることに気づく。困惑するような叔父に何か言葉を付け加えようと、視線を泳がす。すると鉄工所の棚に、ブリキでできたロボットのおもちゃが置かれていた。

「……ブリキ」

 咄嗟にその単語が口から洩れる。

「ブリキ?」

そしてその反射は、一つの答えでもあった。

「うん、おもちゃみたいで、いいじゃん」

 すると叔父が「面白い」と言って作り始める。

 自分でも、こういうのができたらいいのになと思ったりするけれど、実際のところ叔父のようにテキパキと鉄の素材を加工することはできない。ただ、こういうものがあれば、なんだか自分は救われるような気がしたのだ。

 事情を知っているからか、気を遣ってか叔父は、どうして獅子を地元の祭りで元通り振らないんだとは聞いてこない。そういう距離感がありがたかった。

 ブリキの獅子は、一週間もしないうちに叔父からうちに届けられた。口を開けて閉じると、ガツン、ガツンと、普通の獅子とは異なる重厚な音が広がる。

 気持ちのいい感触だった。

 次に獅子の布を買ってきた。ホームセンターで一番安い黒い布である。

 そこに俺は何かを描こうかと思った。

絵でもよかったが、きっとこの獅子には相応しくない。自分を包む獅子なのだから、どこまでも俺らしくあってほしい。

というわけで、物語を書くことにした。


昔獅子舞をしていたことを書いた。


友達に誘われ、人と共に獅子を振ることが楽しかったことを書いた。


そして、高揚した気持ちを表現するため、型にはない、激しい動きをしたことを。


そして、それが小さな子供にぶつかってしまったことを。


どれほどのケガになったかは知らないし、獅子頭がどうなったかも知らない。


そこからどうなったかを、俺は知らない。


 黒い布に白いペン。力強く書けば、線は残り、文字となる。それは多少字がへたくそでも、それらしい見た目になっていく。

 文章表現なんて知らない。めちゃくちゃでいい。誰にも見せるわけじゃない。

 ひとしきり書き終わった後、頭をかぶり、布をまとう。当然前はほとんど見えず、獅子の口開いて閉じる。そしてそのまま、左右へ揺れる。物語に今自分が包まれているんだという高揚感が、ひたすら自分を守ってくれているように感じた。


 例えばこんなことを考える。

 家で一人、獅子にこもって楽しむのではなく、他に楽しみ方はないだろうかと。


 うちから車で十分ほどの場所には、海があった。昔、渚と学校終わりに、あいつのシーグラス集めとやらに付き合わされていたのを思い出す。


 別に海と言っても、綺麗な場所とは言い難い。魚の死骸や、人の捨てたごみ、そしてごつごつとした砂利のある、少なくとも快適さとは対照的なこの海。家から車で十分ほど運転をすればたどり着くのである。

 観客のいない中、俺は獅子頭をもって海へととりあえず走ってみる。

 ザブンと、ぬるい海の感覚が足に伝わり、ズボンを濡らす。獅子の油単も当然濡れる。ずしんと、獅子全体が重くなる。

 だけど不思議と不快感はなかった。

海の中で獅子を振る。バシャンバシャンと、音が鳴る。ガン、ガンと獅子の口は開いては閉じる。その鉄の音が、空一杯に広がっていき、波の音に入り混じる。足に石やゴミ、ガラスが刺さって、しみる。だけどそれよりも体を動かすのが心地よかった。空に向かって飛び、時に海に沈む。 


 腕や足が痛くても、こんなことを続けていれば、もしかしたら渚のようなああいう表現者たちの世界に近づけるんじゃないかって。

 けれども、いくら振ったところで、結局のところ俺は獅子を振りながらもうじうじと妄想を続けているだけで、きっと明日も明後日も、いろんなことを考えながらも、実際との比較を続けてばかり。言い訳ばかりの子どものころから、何一つ成長していない。

 いくら何かをやったところで、誰とも俺は交われない。

「ああッ! あ、があっ!」

 そんな自分が嫌で、振りながらそんな風に叫んでみる。叫んだところでこんな海には誰も来ないし、誰も俺の叫びなんて聞いてくれない。

 例えばこんなことを考える。渚がこんな俺の叫びを実は聞いてくれていて、この海のそばまできてくれている、なんて展開はどうだろう。そして俺の獅子の動きを見て「やるじゃん」なんて言って俺に微笑みかけるのだ。そして俺は渚に「だろ?」だなんて言って得意げな顔を浮かべるのだ。

 ただ実際のところ渚のSNSでは、長野県での作家との交流で忙しいようで、しばらく向こうに滞在するようなことを書いていた。つまり、結局のところ渚の人生にはもう俺はいない方がいいのである。

 どうしようもない現実を忘れられるのではと思った俺は、とにかく体が動かなくなるまで獅子を振り続けることにした。夕日が少しずつ沈み始める。暗くなっても振り続けたら、俺の体はどうなるのだろう。筋肉痛の体はもう限界で、次第に体の動きも鈍くなる。すると、いつしか俺は振るのをやめていた。

 砂浜でブリキの獅子と海を眺める。

 汗が額をつたう。頭はぼんやりしていて、乱れた息を整えるので精いっぱいだ。

いろいろごちゃごちゃと考えていたのは、少しだけ収まる。


 考えるより前に、俺はスマホを手に取り、渚に電話をかける。何回かコールした後、渚は出た。

「はい、もしもし」

「もしもし」

「どしたの」

 渚の問いは当然であり、そのまま返答を考える。

 しばらく考えたのち、出てきた言葉は。

「疲れた」

 だけだった。

「お疲れ様」

 そしてその声は、スマホ越しではなく、後ろから聞こえる。

 白いロングスカートをなびかせる、渚の姿があった。都合のいいことばかり考えていると、たまには都合のいいことも起こるものだ。

 渚は俺の足元をちらりと見る。じゅくじゅくと、指先から血が流れ続けていて、浜が赤く染まっていた。

 俺の傷口にそっと顔を近づける渚。その手は柔らかく、心臓が高鳴る。

「うち、来る?」

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