第4話 クマに食われる前にこんなことを考える
動物も子供と同じくらい好きだ。元気に近寄ってくれたらかわいいし、特にネコなんて、あの鳴き声がたまらない。それに大きな動物も悪くない。あの躍動感やワイルドさには、目を惹かれるものがある。だから、動物園にいるライオンやら、キリンやらクマに苦手意識を持ったことは一度もない。
ただ、野生となると例外だ。
現実感がない中、クマがすんすんと鼻を近づけてにおいをかいでくる。さっきの妄想を思い出す。恥ずかしさのあまり、クマの餌にでもなれたら、というやつだ。実際のところ、捕食される側に今自分がなってしまっている事実があまりにも大きすぎて、体は完全に固まってしまった。そういえば、渚がもし来るならクマが出るから、準備物でクマよけの鈴がいるんだとか言っていたような気がする。ダイソーで買ってから来るべきだった。
例えばこんなことを考える、といった具合に何かを考える間もなく、俺は願う。
時間を止めてほしいと。
どうか、考える時間をくださいと。
このまま一瞬で食われてしまうのは、あまりにも心残りだと。
それは一瞬の出来事だった。
木々が動く音も、風の音も、クマの鼻息も、失われた。世界から音が消えたのだ。
時間が止まると空気も止まるのであれば、呼吸もできないのだろうが、実際のところ、俺は今呼吸ができて、考えが巡らせているのだから、きっと問題ない。
俺のズボンにはあの日のようにスズメバチが止まっている。このスズメバチは、今初めて、俺の願いをかなえてくれたのだ。
この状況で、なにがしたいかを考える。
まずは当然生き延びることだ。
生き延びるためには、まずこのクマを撃退、もしくは逃走の二択になる。
例えばこんなことを考える。
前者の撃退の場合だ。
スズメバチにかめはめ波的なものすごい光線を出してもらい、クマを撃退してくれるととても助かる。
ただ、実際のところ、そんなことをしてしまえば、俺が気まぐれでこんなところに来たせいで、こいつの命を奪ったことになる。つまり、俺が余計な気まぐれを起こさなければ、こいつは死ななくて済んだ、ということになるのだ。
では、麻酔銃のようなものを撃って、眠らせる、というのはどうだろうか。いや、実際のところ眠らせて俺という餌を食う機会を失わせてしまえば、こいつはどっちにしろ餓死してしまう。
これは、俺の逃走という選択肢にしても同様のことが言える。
俺の逃走が成功した後のこいつの食料はどうなるのだろう。
例えばこんなことを考える。
俺がこいつに食われた方が、ここに来た意味になるのではないだろうか。
渚が去年の祭りで、捕獲したクマを食べた話をしていた。
例えば、俺がこいつに食われ、このクマが誰かに食べられるとしよう。
結果的に、俺の栄養がクマへと繋がり、そのクマの栄養が、どこかの誰かの人間の栄養になるのだ。つまり、俺がこいつに食われることは、どこかの誰かの命を繋ぐ。
となれば、俺はここでこいつに食われた方が、これからの人生で誰かに迷惑をかけるどころか、立派な社会貢献となるではないか。
ただそうなると、例えばこんなことを考える。
クマの栄養になるにしても、この止まった時間でやれることはないのかと。
渚を含む、SNSでいる芸術祭参加者の投稿に、何かしら激励のコメントや、労いの言葉をかけるというのはどうだろう。
ただ、実際のところ、祭りは終わっている。
どうせなら祭りの前とか、ここだ、というタイミングで送った方がいい。死ぬ前にそれくらいの奇跡を起こしてみたい。
となれば、二つ目の願いで、こういうのはどうだろうか。
この時の止まった世界で、ネットがし放題かつ、好きな時間にコメントなどができる便利機能付きのタブレットがつかえるようになる、というのは悪くないかもしれない。何かのアニメで、過去にメールを送る不思議現象が起こるものがあった。そういう類の願いは、いいのではないか。
するとスズメバチの体から、にょきにょきにょきと、小さなタブレットが生えて来る。そしてそれは少しずつ大きくなり、俺の両手に収まった。止まった世界のため、足は動かないが、手は動くみたいだ。そして、スズメバチからはWi-Fiの電波まで飛んでいる。パスワードも必要ないみたいだ。
死ぬ前だからこそ、あの祭りの参加者の一人の躍り手の人に、本祭前日のタイミングを指定し、激励のメッセージを送った。返信もこの不思議電波空間では受信できるようで、スタンプでの返事が来た。優しい人のようだ。
もう一人、森にこもって村を作り上げた俺と渚と同い年の女の子作家に、雨の中の設営が大丈夫ですかというメッセージを送った。がんばると、返事が来た。
他にも、体調を崩している女性作家に、体調が大丈夫かどうかを尋ねた。いいねのスタンプがついた。
ここまで送り続けて、次はだれにしようかと思い、ふと気づく。
どれだけ自分のことばかり考えているのだと。
誰かの応援や心配、賞賛の言葉をかけたところで、自分のことを見てほしいという承認欲求が見え見えじゃないか。
ばっかじゃねえの。
純粋な善意で紡いだ言葉がだんだん汚いものに見えてきて、コメントを送るのはやめた。こんなことよりも、さっさとクマの餌になった方が何億倍もましかもしれない。
けれど、こんなことを考える。
どうせ食われる前に、無制限にネットができるのであれば、もう一度くらい去年の祭りの動画を見てみてもいいかなと考える。きっと止まった時間は、俺が解除を望まない限り、まだ続く。
動画サイトを開き、去年の祭りの動画を、じっくりと見る。何度も見て、内容も覚えているけれど。なぜか何度も見てしまう。
火おこしの儀から始まった。火がぱちぱちと燃えていた。
渚が森を歩く。見たことがないほどの足取りの軽さ。もし俺がここに彼女と来ていたら、どんな足取りになったのか。
動画の場面、それら一つ一つが脳裏に焼き付く。
声が、斧が、水が、手が、笑顔が、スティックパンが、炎が、舞が、壁画が、バーベキューが、鹿の肉が、和紙が、温もりが、獅子が、歌が、音が、叫びが、大きな声と、優しい声と、水、抱擁、こぼしたビール、ガチャガチャのストラップ、割れたガラス、湖、山車、ブリキの獅子、太鼓。早回しのようにそれは頭に流れ込んでくる。
やがて再生が終わったあと、ピアノの音と、それに続いて舞う人がいた。
そこに、俺はいない。俺がいたとしても、何ができるのか考える。
獅子舞をやっている自分がここに混じったらと考える。きっと惨めでたまらなくなる。ただ見て感動するだけで終われる人間ならどれだけよかっただろうか。
美術館も、映画も、画集も、見るたびに悔しくて叫び出したくなるのに、何度も何度も見てしまう。そこにあるかもしれない、底知れぬ物語を感じてしまうのだ。
きっとまだ世界にはたくさんの物語があって、生きている限り、まだまだ俺が関われる物語はある。生きているこの世界が、何億倍にも広がって感じられる。
そんな彼らとの違いに、胃が痛くなる。けれど同時に、彼らが表現しているこの場を否定することもできないし、こんなところで俺がクマに食われてしまえば、ニュースになる。この森での作品鑑賞も中止になるし、来年の祭りの開催すら危ぶまれてしまう。
では、あとは生き延びることが、きっとこの場に迷惑をかけない、唯一のことだろう。
すると、時が動き出す。目の前にいるクマは、じりじりと俺に近づいてくる。
クマの時速はおよそ六十キロ。背中を向けて逃げると、クマ側への刺激となり、確実に追いつかれる。
クマを刺激しないように、体の力を振り絞る。火事場の馬鹿力というやつか、それともしばしの休息があってのことかよくわからないが、なんとか体も動きそうだ。フラフラの中、何とか重い腰は上がった。
例えばこんなことを考える。
このまま目を合わせたまま、じりじりと後ずさりをすれば、生存確率は上がるかもしれない。
実際のところどうなのかはわからないが、試してみる価値はあるだろう。
他にはこういうのはどうだろう。クマは蛇など、細長いものが嫌いだと、聞いた記憶がある。俺の手荷物は少ないけれど、ズボンにはベルトが巻かれていれば、あのクマに対抗できる可能性も、ゼロじゃない。
ただ、実際のところ、腰に手を回したら。ベルトの感触がなかった。
今朝のことを思い出す。
朝食時、紅茶をこぼしてしまい、ベルトがないタイプのズボンに履き替えていた。
万事休すかと思ったとき、一歩後ろへ下がる。
グシャ、ベコっ、と音が鳴る。
後ろには、俺が疲れて置いていた、ペットボトルのゴミを入れたレジ袋があった。
目の前のクマの動きが止まる。さらに踏んで、音を鳴らす。ベコ、ベコ。
クマは神妙な顔をし、少しだけ後ずさる。
これだ。
このクマは、ペットボトルのへこむ音が苦手なのだ。
クマとは少しずつ距離がとれていく。このまま後ろに下がり続ければ、崖というか坂というか、急勾配の斜面がある。
例えばこんなことを考える。
俺がこのまま後ずさりを続け、そのまま崖の下に落ちるように、転がっていくのだ。
どうせこのまま食われるよりは、落ちて生きるか死ぬかのギャンブルに賭けたほうがいい。
吉と出るか、凶と出るか。
ただ、このままクマに正面から立ち向かうのが、凶どころか大凶ルートなのは確定だ。
となれば、自分で引いた凶を選ぶ。
そんな自分の運にかけて、俺はクマに微笑みながら、崖の下へと体をゆっくりと転がしていく。もちろん、ペットボトルのゴミは持って帰る。来た時よりも、美しく、だ。
崖を転がり落ちる中、途中岩や石に体がぶつかり、激痛が走る。大丈夫、死なない。死なない。こんなところで死んでたまるか。
幸い、崖の下まで転がり終えることはできた。あらゆるところがジュクジュクと痛む中、クマは崖の上から俺を見下ろしている。ここからが本番だ。このままクマが俺を狙うために全力ダッシュをすれば、追いつかれる可能性は顕在だ。
さっきまで見ていた動画を思い返し、こんなことを考える。
クマは、設置されたロープは登れるだろうか。動画の中にあった、森の奥にある崖をのぼれるロープがあったことを思い出す。
例えばこんなことを考える。
いや、そんな暇はない。考えるより、体が動かせ。今動かさなきゃ、俺の物語が終わる。
背中を向けて走るのは悪手ではあるものの、この距離で、この高低差なら、可能性に賭けることができる。
川にかかった丸太の橋を渡り切る。するとその向こう側に、崖の上まで登れるロープがある。これも、去年の動画の通りだ。去年のカメラマンはスマホを持ちながら、こんなところをよくもまあ上ったものだ。
擦りむいた手でロープをつかむと、焼けるような痛みが走る。ただ、クマに食われるよりかはましだと言い聞かせながら、必死でロープを上がりきる。あとはひたすら走り続ける。カメラマンが巡ったルートを思い出しながら。時々石に躓き、蜘蛛の巣が顔にかかることもあった。今思えば、動画に出ていた渚はクロックスを履いて歩いていた。常人の技術じゃない。
クマが追いかけているかどうかはわからないまま、気づけば俺は巨大な岩の上に寝転んでいた。
クマの気配はもうなく、岩が俺の火照った体の熱をじんわりと冷やしてくれる。
例えばこんなことを考える。時間が止まっている時、メッセージをしていたのが、実はすべて電車の中でやったことで、クマなんかと出会わず、幻覚を見た俺がここまで走ってきたとしたらどうだろう。
まあ、実際のところ、そんな現実だろうと妄想だろうと、疲労困憊の俺からすれば、真実なんてどっちでもよかった。真実なんていくつあってもいいのである。
ごろんと寝返りを打つ。ポケットの中に何か硬いものが入っている感触がする。寝転んだからこそ、ダイレクトにその感触が分かったのだろう。俺のズボンのポケットは、ふくらはぎ部分にもあり、そこにはモバイルバッテリーが入っていた。
俺は物をなくすのが得意だ。だけど、見つかったのは珍しい。黒い武骨なデザインが、何故だか涙を誘う。伸びているコードをスマホにさす。渚に何かメッセージを送ろうかと考えるが、何も浮かばない。何を送っても、今自分の心に浮かぶものとは何かが違う気がする。渚の連絡先の通話ボタンを一瞬だけ触れ、数回コールする。何を話すかなんてどうでもいい。ただ、かけたくなってしまった。しかし、三回コールをした後、思わず通話を切る。彼女は今、彼女の時間があると言うのに、祭りが終わったあと、のこのこと森の奥で遭難しかけている頭の弱い人間にかまわせるべきじゃない。
例えばこんなことを考える。
天からこういう時に月の光が差してくれて、そこから俺がそのぬくもりを感じながら涙を流すというのはどうだろう。とても映画的でロマンチックだ。
ただ、実際のところ雲行きは悪くなり始め、ぽつり、ぽつりと雨粒が頬に当たる。
ああ、これでいい。ロマンチックじゃないくらいが、きっと俺にはちょうどいい。
生き延びた俺に祝福するように、そっとスズメバチが飛んでくる。雨の中、こいつもよく俺のところまでついてきた。
三つ目の願いがまだだよと、スズメバチが言っている気がした。
例えば何があるか考えるけれど、走り切って、疲労困憊の俺の頭に、高尚な願い事なんて思いつかない。
ではこういうのはどうだろう。
使わずに、ここぞという時のためにとっておく。
そうすれば、いつでも願いがかなえられる強い状況になり、何をするにも自信満々に生きていけるかもしれないし、どこかの誰かを幸せにできる願いを叶えられるかもしれない。
ただ、実際のところ、スズメバチの上にブウンと音を立ててやってきたのは、巨大なトンボ。たしか、SNSで、彫刻家の作家の投稿に、オニヤンマが制作中によくやってくると書いていた気がする。
例えばこんなことを考える。
このオニヤンマは、この山の主であり、ここまで来た俺のことを、賞賛してくれているのかもしれない。そして、体を巨大化させ、俺を載せて地元の町まで運んでくれる。そうすれば交通費も浮くし、虫の背中に乗って空を飛ぶと言う、最高の人生体験をすることができるじゃないか。
ただ、実際のところ、オニヤンマは巨大化することなく、重なったスズメバチを、むしゃむしゃと食べ出した。
不思議と怖さや理不尽さは感じない。ただの自然の摂理なんだと思うし、次第に食いちぎられていくスズメバチをじっと見続けた後、何事もなかったかのようにオニヤンマは寝転がる俺の方を見た。
雨粒がぽつりぽつりと落ちていく中、次第に雨足が弱まってくる。オニヤンマの緑色の大きな瞳が、じっと俺を見つめる。オニヤンマは何も言わない。透明の羽に、ほのかに見えた月明かりが反射する。途端に眠気がやってくる。オニヤンマは逃げることなく羽を休める。
例えばこういうのはどうだろう。
俺はだいぶ疲れている。ひと眠りしたほうがきっと疲れはとれる。
そんな俺のそばで眠ってくれる都合のいい人間はいないけれど、今そばにいるこのオニヤンマとなら、一緒に夜を明かしたいと思った。
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