第24話 ペトロフとしての矜持
「皇帝陛下に告白されて、返事どころか突き飛ばして逃げてきたって本当ですか?」
どこで聞いたのかという思いを込めてオリガを睨む。
「部屋から飛び出してきた皇后様に驚いて紅茶を被った侍従長が陛下から事の次第を聞いて大笑い、そのまま宰相閣下に急行して御報告。そして閣下から若様やあちこちへ話と笑いが伝染しております」
「なにそれ……ねえ、どうしたらいいのかな」
「ずっと好きだった方に愛していると言われて何を躊躇してらっしゃるのですか?」
「もう好きじゃないわ」
「そうかもしれませんが、人の心は移ろいやすいものです。ましてや傍で『好きだ』『愛している』と甘く囁かれればころっといってしまいます。それなら逃げずに、勇気を出して素直に陛下の手をお取りになったらいいではありませんか」
オリガの言葉に何も言えずに膨れると、オリガは苦笑する。
「ずっと陛下のことをアナスタシア様を泣かせる糞野郎だと思っていました。真相を知らない陛下も被害者ではありますが、アナスタシアを泣かせるのだから無条件で糞野郎です」
「オリガ、言葉が悪いわ」
「でも、あのとき炎の壁に躊躇なく突っ込む陛下の御姿を見て……ちょっと見直しました。炎の向こうにアナスタシア様がいる、それだけで陛下は若様さえも躊躇する炎の中に飛び込みました」
「お兄様はペトロフ公子としてのお役目があるもの」
「屁理屈はおやめください。それを言うなら陛下にはロシャーナ帝国の皇帝としてのお役目があります」
魔法に自信があったからとか、オリガの言葉を否定する嫌な言葉はたくさん頭に浮かぶ。
それが声に出ないのは、私を見たあの瞬間の陛下の安堵した顔が忘れられないから。
「期待するのが怖い」
「それは誰でも怖いものです、気持ちとは目に見えるものではありませんからね」
オリガが淹れてくれた甘いミルクティを一口飲む。
「子どもができなかったらどうしよう」
「陛下は皇妃を娶ることになるでしょう。しかしいま陛下の気持ちを拒んでも結局は同じことではありませんか。陛下の子を抱く皇妃様に嫉妬して『あのとき陛下を受け入れていれば』と後悔せずにすむのだから勇気を出す価値はありますわ」
ミルクティの中に涙が落ちる。
「大丈夫ですよ、アナスタシア様」
「ありがとう、オリガ」
「もう大丈夫ですか?」
「ええ」
「それなら陛下をお呼びしますね」
「え?」
「陛下はシエナ宮の入口でペトロフの騎士たちと半刻ほど睨み合いをしていますわ。会わせろ、会わせないと五月蠅いったらありゃしません」
***
どうしてこんなことに?
確かに大丈夫だといったけれど、あれは気持ちが落ち着いただけで陛下と直接話し合う準備ができたというわけでは……。
「先触れもなく突然来てしまってすまない……言い訳をさせてもらえるならば先触れは出したんだが、先触れを聞いてもらえないと侍従が困った顔で戻ってきて、どうすればいいかと悩んで俺自身が来てしまって」
陛下の先触れを拒絶するなんて何してくれているの!?
「大変申し訳ありません」
「いや、君が騎士たちに大切にされていることが分かったのは嬉しいこと……いや、ちょっと大切にされ過ぎていて君と会えないのは困るのだが」
陛下はオリガが淹れた紅茶のカップを持ち上げて柔らかく微笑む。
「君の侍女は俺を少しは認めてくれたのかな」
否定はできないが肯定もしづらくて私は黙って紅茶を飲む。
馨しい紅茶の香りが鼻を抜ける感覚にホッと息を吐き、心を落ち着かせる。
「ご用件をお聞きしてもよいですか?」
「明日、ミハイルの病死が発表される」
ミハイル様は前皇后様のご実家が運営している孤児院に預けられることに決まった。
どうか幸せになってほしいと思う。
「それを持って皇室は規定に従い二年間の喪に服す……だからその間に俺とのことを考えてほしい」
「陛下?」
「俺たちは離縁はできないが別居はできる。もし君が俺を受け入れられないというなら、いろいろ義務は果たした上でとなるが将来的には別居も受け入れるつもりだ」
別居のことを考えなかったわけではない。
ただ見ない振りをしていたのだと、陛下に別居と言われて心が痛くなったことで自分の弱さを自覚する。
人の心は移ろいやすいもの、オリガの言う通りだ。
あれほど期待しないって思っていたのに、あっさりと前言撤回で陛下に期待しちゃっている私がいる。
でも陛下は皇帝。
好きや嫌いだけの話ではない、子どもは絶対に必要になる。
医師の診察を受け、子どもができやすい日に房事を行ってきた。
それを二年、いまだに子どもはいない。
陛下に愛されることは幸せだろうが、子どもができなければ陛下の愛情を誰かと分けることになる。
妙に律儀で四角四面なところがあるから、皇妃に対して愛はないというかもしれない。
でも陛下と皇妃の間には子ができ、子ができればそれなりの情が生まれるだろう。
オリガの言う通り、人の心は移ろいやすいものだ。
「本日までで俺に皇妃を娶る予定はなかったから、今回のことで候補者のリストも白紙になる。二年後、三年後、その先のことは分からないが君に子どものことで負担をかけるのは変わらない」
候補者リストの白紙化は想像の範囲内。
喪中期間になれば皇帝を始めとする全ての皇族は出産を除く祝い事は自粛せねばならず、あくまでも候補でしかない令嬢たちを言い方は悪いが皇室がキープしておくわけにはいかない。
二年後と陛下は仰った。
やはり私に子どもができなければ、皇妃の話は必ず出てくるということだ。
「これからも君には俺との房事は受け入れてもらうしかない。皇后の責務として思って、申し訳ないが耐えてほしい」
「陛下……」
皇妃がいない以上、子を産むのが皇后の最優先事項。
そして喪中の件で宙に浮いてはいるが陛下が皇妃を娶ろうという意志を見せて継嗣に対する前向きな姿勢を出した以上、私も房事を受け入れる姿勢を見せなければいけない。
自分を受け入れることに耐えろと言うのは屈辱だったに違いない。
「君は、俺と二人でいるのは苦痛か?」
苦痛?
「緊張はしますが、苦痛ではありません」
「緊張か……はは、俺もいま緊張している」
「陛下が、ですか?」
首を傾げると陛下は困ったように笑う。
「君に嫌われたくないから……何を話せばいいか分からないんだ」
……え?
「君に喜んでほしくて、笑ってほしくて、だから何を話せばいいかと悩んでしまって。でも黙っているとどうしてもネガティブなことを考えてしまうから焦ってしまって……本当に、情けないほどいま緊張している」
覚えのある感情だ。
私もあなたに、喜んでほしくて、笑ってほしくて、どうしたらいいか分からなくて……結局は何も言えず、あなたの零す溜め息に体が強張った。
「君は、ずっとこんな緊張を強いられていたんだな……そう実感するたびに自分で自分が嫌になるよ」
私とあなたは同じということ?
それなら、あのときの私がしてほしかったことがある。
「陛下、お時間は大丈夫ですか?」
「うん?」
「大丈夫ならば、もう少しお話したいです」
私の言葉に陛下はきょとんとしたあと、嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑ってくださった。
心がなんだかそわそわっとくすぐったい。
「ああ、もちろん。喜んで」
陛下のことは嫌いではない、やっぱり好きだと思う。
正確には前の好きとは違うけれど、好きであることには変わりない。
でも、私が好きだと言うことはない。
私が好きだと言えば陛下は喜んでくれるかもしれない。
でも子どもができなければ、私の好きだという気持ちは陛下を苦しめる。
私はペトロフの女。
子どもが生まれてくるその日まで、私が陛下に好きだということはないだろう。
恋心を捨てた皇后 ― ずっとあなたが好きでした 酔夫人 @suifujin
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