第1夜①

 今朝は、寝起きに鶯の声を聞いた。風通しのよい室内に差し込む春の日差しは、眩いながらも柔らかで、浴びれば真綿に包まれるような心地よさがある。絵に描いたような穏やかな春だ。


「ふわぁ……これぞまさに『春眠暁を覚えず』って感じね」


 京が春爛漫を迎える中、左京三条に位置する屋敷の一画で、沙那さなは大あくびをした。

 春の陽気に逆らうことは早々に放棄して、脇息にもたれ、うつらうつらと微睡んでいると、几帳をずいと押しのけられた。


「これっ! 起きていらっしゃるのなら、手習いや琴の練習をなさいませ!」


 沙那は、仮にもこの屋敷の主人・たちばなの則実のりざねの娘であるが、乳母は、遠慮も情け容赦もなく手厳しい言葉を浴びせかけてくる。

 早くに亡くなった母の代わりに何かと気にかけてくれる彼女に感謝はしているけれど、毎日同じお説教を食らっていれば、目新しさは失せて久しい。


「ばあやは今日も朝から元気ねぇ……」

「何か文句がおありですか?」


 さりげなく吐いた愚痴は彼女の耳に届いてしまったらしい。

 地獄耳なんだから、と内心でぼやきつつ、沙那はぶんぶんと首を横に振った。


「いいえ、全く。ばあやには、ずっと元気でいてほしいと思っただけよ」

「また、調子のいいことを言って! 姫さまが立派な婿君をお迎えになるのを見届けなければ、ばあやは死んでも死に切れませんわっ!」

「それじゃあ、ばあやには永遠に生きてもらわなきゃならないわね」


 ――だって、立派な婿君が見つかる目途すら立っていないのだもの。

 あっけらかんと口にする沙那を見て、乳母は肩を怒らせた。


「まったくもうっ、どうしてこんな、ぐうたら姫に育ってしまわれたのかっ!」

「私に比べれば、世の姫君は、皆、ぐうたらしているわよ。前に会ったときに、左大弁さまの大君おおいぎみも、権大納言さまの中の君も、毎日、日が高く昇ってから寝所を出ると言っていたわ」

「そのお二方は、ひっきりなしに殿方を通わせた上での朝寝坊だからいいんですっ! なぜ、『恋人が朝まで離してくれなくって』という惚気と自慢だとお気づきにならないっ!」

「あれって、そういう意味だったの!?」


 道理で、同席していた気のおとなしい姫君たちは、気まずげに苦笑いをしていたはずだ。

 数か月越しに真意を知って、沙那が驚きに目を丸くすると、乳母は深々と溜息を吐いた。


「はあ……これだから、恋人の一人もできたことのない方は仕方がありませんね。姫さまも恋人の一人や二人、いや三人や四人はつくってから生意気はおっしゃい! そのために、人一倍綺麗なや琴の音で公達を釣るしかないのですっ! さあ、練習あるのみ!」

「理不尽だわ……」


 一度も恋人ができたことのない沙那よりも、恋人と付き合っては別れてを繰り返している左大弁の娘や権大納言の娘の方がずっと立派だ、沙那も恋の駆け引きを見習うべきだ、と乳母は言う。彼女たちだって『多くの公達に放って置かれない自分』を自慢に思っているから、誇らしげに口にするのだろう。

 そこのところが、沙那には分からない。


(お父さまとお母さまは、お互いとしかお付き合いをしたことがないはずだけれど、幸せそうだったわ)


 妻を一人しか持たない公達など、まずいない。男にとって『数ある女の一人』と扱われることに、沙那ならいい気持ちはしないのに、それでも誰かとお付き合いをして、結婚しないといけないのか。

 どうして、ろくに顔すら知らない相手に、次から次へと惚れた腫れたと騒ぐことができるのか。

 火遊びめいたすぐに破局する程度の恋に一喜一憂して、生きるの死ぬのという話になるのか。

 恋を経験したことのない者が、何度も破局を繰り返した者よりも劣っているように扱われるのか、分からない。


 ――沙那には『恋』が分からない。


 以前この考えをうっかり口に出したとき、友だと思っていた姫君からは化け物を見るような目で見られてしまったから、沙那は反論せずに乳母のお説教を聞き流すことにした。


「幼い頃は、紗子すずこさまと競うように熱心に手習いに励まれていましたのに……っ、今や、片や帝の寵愛篤い女御さま、片や婿取りにも難儀するぐうたら姫だなんてっ!」

「仕方ないでしょう。そもそも従姉妹とはいったって、生まれからして全然違うんだから。紗子は左大臣さまの娘、私はぎりぎり公卿の娘で」


 母方の従妹の紗子とは、幼い頃、母の実家で一緒に育った仲だ。

 中級貴族だが上国の国司を歴任して蓄財した母方の祖父の家は、娘を上級貴族の正室とするには足らず、下級貴族からは高嶺の花と見られる程度の中途半端な家格だったらしい。その家のそこそこ美しいと評判だった姉妹には、貧乏な文章生もんじょうしょうと当時の摂政の嫡男がそれぞれ通う仲になり、それぞれ娘を儲けた。

 下級貴族出身の学生だった沙那の父が、ようやくそれなりの官位を得て婿として遇されるようになったのは、沙那が十にもなろうとする頃で、父は居心地の悪い婚家から離れたいと自分の屋敷を用意して、母と沙那を呼び寄せた。

 それからも数年間は、沙那は、紗子に会うために祖父の家を訪れたけれど、紗子が父親に引き取られてからは会うこともできずに、関わりはふみのやりとりだけになり、疎遠になってしまった。

 後から聞いた話だが、左大臣は、東宮妃として嫁がせる娘を見繕っていて、捨て置いた紗子のことを思い出したらしい。お眼鏡に適った紗子は、東宮妃に選ばれて入内し、帝が即位した今は『承香殿の女御』と呼ばれている。

 紗子の人生を好き勝手に引っ掻き回した左大臣を思い出すと、沙那は今でも憤りを覚えるが――。


(でも、あの子は、意外と気が強いから大丈夫なのかもしれない)


 おとなしいながらも芯の強かった紗子を思い出し、そろそろ次の文を出そうかと思案していると、乳母のお説教も終わりに差し掛かってきた。


「紗子さまを見習ってくださいまし! 聞いていらっしゃいますか!?」

「あー、はいはい、わかりましたって!」


 どんなに紗子を見習ったところで、所詮は『ぎりぎり公卿』でしかない参議の娘は、左大臣家の姫君とはまるで違う人生を送ることになるというのに、乳母は高望みをしすぎだと思う。

 沙那がうんざりして顔を背けたとき、牛飼い童の声が聞こえた。この屋敷の主人が帰宅したのだ。


「お帰りなさいませ、お父さま!」


 乳母の説教から逃れられるという打算と、大好きな父が帰宅した純粋な喜びから、沙那が勢いよく立ち上がって出迎えのために駆け寄ると、起こった風で御簾がふわりと巻き上がった。遮るものもなく姿を露わにした沙那に、目を丸くして慌てている父がくっきりと見える。


「これ、沙那! そなたも年頃なのだから、端近はしぢかに出てはならぬと言っただろう! 誰ぞに垣間見られたらどうする!」

「あら。ばあやはその方が嬉しいみたいよ。お金持ちの方に見初めていただければ、お父さまの老後の心配もないし。お父さまはお金の勘定がいつまで経っても上手くならないんですもの」

「こやつめ!」


 父は今でこそ参議の職に就いているが、元々、学問と家族にしか興味が無く、出世には向かない人だ。

 最愛の妻は、沙那の弟を産むときに亡くなってしまったが、それ以後も、父が他の女人の元に通うことは無かった。沙那がどこぞに嫁げば、もう心残りはないと出家でもしてしまうかもしれない。

 そんな父は、母の忘れ形見である沙那のことを、他人に話すのも恥ずかしいほど溺愛していた。普段の父なら、沙那が駆け寄って出迎えれば、口では苦言を呈しつつも大喜びしたはずだが、今日ばかりは本気で諫めているように見える。


「相変わらず、貴殿は娘御と仲がいいな」

「失礼いたしました! ついうっかり!」


 その場によく通る声に、沙那は慌てて引き下ろした御簾の陰に身を隠した。

 なんだ、来客がいるなら先に言ってほしい。父だって自分だって、来客相手にはそれ用の姿を見せているのだから。

 こほん、と小さく咳払いをして喉を整えると、沙那はつんと澄ました声を出した。


「どなたですの?」

「私のことなど忘れてしまったかな。東のちい姫は」


 その声には聞き覚えがあった。それに『東の小姫』という呼び名は、母の家で暮らしていたときに、東の対の屋に住んでいた沙那を指す呼び名で――。


「……まあ! 望月の小父さま?」

「望月?」

「月に一度しか紗子に会いに来ないから、紗子と『望月と同じ頻度でしか見られないわね』ってあだ名をつけたの」

「これ、左大臣様に何を言うのだ!」


 御簾越しに見る紗子の父である左大臣は、最後に会ってから十年近く経つというのに、歳の割には若々しく端正な面持ちを保っていた。最近『顎に肉がついた』と落ち込んでいた沙那の父とは大違いである。

 この容姿に高い地位まであれば、それは若い頃から女泣かせだっただろうな、と思うと、涼やかな容姿まで憎々しく感じられるのだけれど。


「ご無沙汰ですわね。私の方こそ、小父さまには忘れられたと思っていましたわ」

「忘れるものか。小姫のことはもう一人の娘のように思っているよ」


 蕩けるように甘い声かけも、彼にとっては武器の一つなのだろうが、そんな小細工には騙されない。

 沙那はじろりと左大臣の影を睨みつけた。


「小父さまには実の娘も実の息子も、たっくさん、いらっしゃるでしょう? 血の繋がらない『もう一人の娘』まで気にかける暇があるなら、その時間で紗子に会いに来てほしかったわ」


 彼には、方々の女に産ませた子どもが、両手の指では数えきれないほどいるはずだ。その子らに寂しい思いをさせておいて、言うべきことではない。当然のことながら、紗子と考えた『望月の小父さま』は『月に一度しか顔を見せないなんてあり得ない』という強い非難を込めた悪口だった。

 数年越しの恨みを込めて沙那がふてぶてしく詰ると、左大臣は可笑しそうに喉を鳴らした。


「くくっ、手厳しいな」

「娘が大変失礼いたしましたっ!」

「いやいや、なかなか気が利いたやりとりじゃないか。……これなら、ちょうどいい」

「はい?」

「実は、今日、私が訪れたのには訳がある。小姫に、承香殿の女御様のことで相談があってね」

「紗子がどうかしたんですか!?」


 思わず御簾ににじり寄る沙那に、左大臣は世間話でもするかのように、飄々と言った。


「ああ、実に困ったことになった。……消えてしまったのだよ、あの子は。宮中の奥深くから、忽然とね」


 実の娘の失踪を告げているとは思えないほど、平坦で軽い、底知れない口調だった。

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