黒百合からヘリオトロープへひとつの嘘を

エピローグ

第35話

　◇レイフ視点◇

　一命を取り留めたグスタフは、何故かライラを魔女として弾圧しようとはしなかった。あの日は頭に血が上り冷静さを欠いていたが、ライラを魔女、騎士の敵と知った英雄を生かしておくなど、本来であれば有り得ない失態だ。

　それでも日常を渦巻く風に変化は無い。何故、グスタフは俺達を排斥しなかったのだろうか。

　そして翌日、俺達の戦果は無事認められ、騎士から格上げ、主幹騎士と成った。同期最早出世はもちろんの事、本来三年から七年程掛かる年月をたった三週間でスキップしてしまった。伝説の聖騎士アクセルに次ぐ、歴史上異例の大出世だ。少し昔であれば、どれだけの戦果を挙げようとも年功が優先されたそう。しかし戦争によって窮地に立たされた事、何より実力主義を重んじるグスタフが騎士団長になってからは、出自や年齢による偏執は取っ払われたらしい。

　あれからグスタフの事を色々調べた。奴はもはや騎士には収まらず、政治家としても活躍している。貴族や騎士の殺害特権廃止、官僚の収賄規制、多岐にわたる減税など。武力だけでは動かせない王国を、正しい方向へ導いている。

　民からは英雄と呼ばれるグスタフ。その血さえ満たしていれば、紛う事無き名君として、歴史にその名を刻んでいたのだろう。

　例え聖騎士、騎士団長に成れたとして、果たして俺に、その振る舞いの責任を果たせるのだろうか。

　◇レイフ視点◇

「ごめんね、テレーズ。君との約束を果たせなかったよ」

「良いのよ主様。貴方のペースで良いの」

　魔女様の衣装は七年前の簡素なワンピースから、沢山のフリルを遇らった純白の華やかなイブニングドレスへと変わっていた。霊堂の中も駆体は表面滑らかに風化を一切感じさせない。綺麗に清掃された内部には、鼠や蜘蛛の姿は何処にも無い。至る所に配置された蝋燭台と積まれた本の山はどこか幻想のよう。

　ただ、奥の部屋に張り巡らされた絹の繭だけが、あの日のまま。

「服、綺麗になったね」

「ふふ。そうでしょう。似合ってる？」

　テレーズはくるりと回ってその優美な姿を見せびらかす。

「似合ってるよ、綺麗だ」

　褒められ待ちだった魔女様は嬉しそうに微笑む。

「霊堂や内装も随分清潔になった。これはどうしたの？」

「妾の魔力で拵えたのよ。最近はちょっとずつだけど起きていられるようになったの」

「ライラの魔力……。そうか、そう言えば穢蕊の魔力を蓄える為に、剣へ血を浴びせろって言ってたもんね」

「そう！　だからあの女とは一杯接吻しなさい。それは主様の神速と膂力へより力を、そして更なる魔法を与えてくれるわ」

「簡単に言うな。そういうのは交際している男女が……」

「主様、色んな女を味見しては捨ててそうなのに」

「してない！」

　どいつもこいつも、何故俺をクズ男に仕立て上げようとするのだろか。

「因みに、何回くらいキスすれば良いんだ？」

「そうね……。千回とか？」

「出来るか！」

「あら！　意気地無しね！」

　赫焉の魔女は自身の白い髪を撫でながらも、妙にご機嫌のようだ。

「それにしても」

　テレーズは柔らかな表情でこちらを見上げる。

「あの日の〈ヘクソカズラ〉との戦闘。もっと上品で適切な魔法があった筈よ。まさか空間ごと吹き飛ばすなんてね」

　クスクスと幼い顔に似合わぬ妖艶な笑み。

「コントロールする術が有るのか？　それはどうすればいい？」

「ただ、イメージするのよ」

　清廉な声で抽象的に、そして呟く。

「私達魔女は本能で魔法を理解する。そしてその遺伝子の命ずるまま、皆魔法を愛するのよ」

　……そうか。ライラがあの日、自身の危険を顧みず、生命の雫を精製するなどという魔法を悪用する人間に対して、激昂していたのはそのためか。

「私の魔法を自身の手足のように扱う事が出来たなら、それは必ず貴方の復讐の役に立つわ」

「分かった。ありがとう」

　もし、あの絶大な力を手に入れる事が叶うなら、海を割り空を切り裂くあの伝説のように、自由な個のまま聖騎士へ上り詰められるのだろうか。

「今日はどうしたの？」

　白き魔女はわざわざ東の辺境まで戻って来た俺に、安らかな表情で疑問を尋ねる。

「うん。約束を守れなかった事を謝りに来た。……ごめんね」

「ふふ。主様は真面目ね。……貴方を選んだのは正解だった。久し振りに二人で会えて嬉しかったわ」

　純真な少女は掌を口に当て欠伸し、眦を下げる。

「……また眠くなっちゃった。少し横になるね」

「うん、おやすみ。また会いに来るよ」

　テレーズは繭の中へ戻り、そして再び眠りへ就いた。

　◇三人称視点◇

　雨上がりの土の匂い。

　どこまでも煢然で広大な草原を吹き抜ける上風に、青年は思わず瞼を前膊で覆う。葉擦れ音だけが耳元へ寂しい音色を奏でて過ぎ去る。

　まだ松葉杖と頭の包帯が取れぬまま、青年は跡地となった元ヨリス村へ戻っていた。残っているのはカタリーナ達と三人で造った簡素な慰霊碑と、あの日のまま、しかし何処か温度を失った草原だけ。瓦礫と灰の山となったあの日には、皆の遺体を見付けられず、たった三人では全員分の墓を掘る事が出来なかった。責めてものと墓代わりに造ったそれ。それでも不幸中の幸いだったのは、大地に再生を齎す〈オレガノ〉の恵みが、彼らの遺体を柔らかく土へ還してくれた。

　青年は悲鳴を上げる身体を引き摺り、ようやく慰霊碑の前へ。

「父さん、母さん、ユリア。俺、犯人を見つけたよ。七年間、ただ復讐の為だけに生きたよ。俺、頑張ったんだよ。……でも殺せなかった。皆を殺したあの屑を殺せなかったよ。その屑もさ、俺達と同じ被害者で、この腐った世の中を変えようとしてるんだ。……一体何が正しいの？　俺はどうしたら良かったの？　……俺さ、犯人は絶対にすげー悪い奴で、殺されて当然の屑だと思ってたんだ。でもね、そいつは正しい信念を持っていて、すげー良い奴だったんだよね。全然、そんな事想像もしてなくて。俺には殺していいのか、分からなかったよ。……でもね、俺は復讐を辞めてしまったら、何の為に生きてるの？　これからどうすればいいの？　……皆は、何の為に死んだの？」

　遣る瀬無いその問い掛けは、ただ、この晴れ晴れとした空へ、吸い込まれて消えてゆく。

「……でもね、父さん。いつも言ってたよね。自身の行いには責任を持てって。だから俺は、聖騎士に成る。そして責任を果たしてから、グスタフを殺すよ。復讐を成して騎士団も救う。だから皆、もう少し待っててね」

　そして、雨。

　こんなにも晴れ渡る、春風の中で。

「ごめんね。こんな息子で。こんなお兄ちゃんで、……ごめん」

　青年の足元にだけポツリ、またポツリと雨。

　雨はどんどん強くなる。

　この果てしなく青い、どこまでも蒼い空の下で。

　薄く水平状の白い雲が、草原に映る雲の影が、東へ東へと流れていく。

　そして白い綿毛を纏った蒲公英が、次へ命を繋がんとふわりふわり、しかし懸命に種子を飛ばす。

　過ぎ去る雲から見下ろせば、立ち竦む青年の姿など余りに小さい。

　でも。

　それでも。

　今はそんな小さな種でも。

　いつか。

　いつか。

　いつか大輪の花を咲かせる日が来る事を、その悠久の時を生きる雲達だけが知っていた。

　青年は家族に答えを願う。

　それでも返事は返って来ない。

　理由は一つ。

　人は、決して、生き返らないのだから。