第34話

 ◇三人称視点◇ 


「トレイス町出身……なぁ」

 明窓から臨むのは、雲一つ無い穏やかな昼下がりの晴天。空気を入れ替えようと開いた窓から、柔らかな風が吹き抜ける。そよ風に乗って、一枚、二枚と書類の山から資料が飛び立つ。

 しかし、それらを拾い上げる気にはなれない。

 少し肌寒くなり窓を閉める。

 すると風の音はピタリと止まり、部屋の中では静寂だけが息をする。

 一つ、溜息。

 そこから視線を逸らせば、机上に散らばるのは、ある青年の空白だらけで、そして一つの嘘を記した履歴書。

「あれから七年……か」

 ペタルチェーンは首へ掛けたまま、懐中から取り出すのは聖騎士紋章。

「……そうか、もう、それほどの月日が」

 陽の光に照らされたそれは、一切の黒ずみを見せる事はなく、丁寧に手入れされた過去を窺わせる。

「レイフ、お前は覚えているのだろうか」

 そして、開く。

「ヴィクトリア、君へ約束した宿願は果たせないのかもしれない」

 目に映るのは、こちらを向いて、満面の笑みを見せる女性の写真。

「すまない。でも儂は、儂達のより大切なものを守りたい」

 遠く、遠く、天より一つ高い場所へ、その魂の半分を置く。

「ああ、これでようやく、君の下へ」


 ◇レイフ視点◇


 夕刻。血を飲み干したような赤。

 カノリア村から帰還した俺達は、団長から呼び出しを受けていた。今回の一件と上代の穢蕊について話を聞きたいという。

 騎士団庁舎の最上階に位置する団長室。重苦しい扉のこの先に騎士団百万人の頂点がいる。

 身体の芯に力を込め、両手でその押扉を抉じ開ける。そこには華美な椅子に腰掛け、広い執務机の書類と格闘している英雄の姿。

「来たか」

 椅子に腰掛けたままこちらを見やる。俺達は招かれるまま、机の前まで歩みを進める。

「よく来た。まずは任務ご苦労だったな。たった二人でこの戦果。まさか上代の穢蕊とは素晴らしい。お前達が西部地方騎士団へ提出したヘクソカズラの果実は考古学の教授に鑑定してもらっている。詳細は未だ分からないが、朽ちぬ遺物である事は間違い無いらしい。お手柄だ。正式な辞令は少し先だが、お前達は主幹騎士へ昇進だ」

 騎士団長は異例の昇進を果たしたヒヨッコ達に、期待に満ちた眼差しを贈る。

「おめでとう」

 立ち上がり、机越しに握手を要求する。騎士団長直々に称賛を預かるとは、本来であれば比類無き栄誉。

 しかし俺は、その差し出された手を握らない。

「その前に質問良いですか? 団長」

「何だ?」

 震える足を必死に堪えながら口を開く。この震えは恐怖なのか、それとも、……歓びなのか。

「団長、貴方は七年前に、……ヨリス村へ行きましたか?」

「何の話だ」

「答えて下さい」

「……ヨリス村。……ああ、七年前の大火災で滅んだ村だったな。あれは痛ましく、不幸な災害だった」

「逸らかすな。……答えろよ」

「レイフ」

 暴走しかけた俺を、ライラは小声で窘める。

「……七年前。行っていない。行った事も無いな」

 フランボワズの瞳がこちらを向く。これは嘘。

 襲い掛かろうとする自身を必死に抑える。だが確定はしていない。ピースは未だ足りない。

「団長、貴方の祝福の真名は何ですか?」

「その質問の意図する事を理解しているのか? ……今すぐここで首を刎ねられても文句を言えんぞ」

「答えて下さい」

 団長は差し出した右手を引っ込め、ドスンと椅子に腰掛ける。

「答えん。答える義理も無い」

 秒針が時を刻む音。今ここでを放っても、ただ白を切られて終わり。しかしこの沈黙を突き破るのは、透き通るようなライラの声。

「ヴィダル・ハスロ著、『小さな星屑』ですね」

 団長室の正面向かって左奥の本棚へ視線を向ける。

「ほう? こんなマイナーで古い文庫を知っておるのか」

「ええ。本書は一見、幼いリスとハリネズミが虹の足を追いかけて旅をする冒険譚ですが、その実は暗愚な王家の圧政の告発であり、その痛烈かつユーモア溢れた皮肉には心梳くものが有りましたわ」

「おお! 十代でその行間を読み取るとは素晴らしい!」

 団長も釣られて本棚へ目線を向ける。

「これは儂が未だ若き日に、師匠から譲ってもらった本でな。人とは何か、人の上に立つとは何か、未だ答えの見えぬ自問自答を、本書の悪役であるアナグマへ壁打ちしながら今日までを働いてきた。儂にとっては正に聖書なのだ」

「まあ、そうして団長は王国の英雄と呼ばれるまでに至ったのですね」

 淑やかな、そして尊敬を現す言葉遣い。

「いやいや! 英雄など大それた字名よ」

「ご謙遜を。これまでの政治活動で起こった事件など、是非お話をお聴きしたいですわ」

「わっはっ――」

 上機嫌に笑い出した英雄の一瞬の不意をライラが突く。ピタリと笑いは止まるものの、それでも表情は一切たりとも歪まない。

「禮命へ恤える緋」

「……何だ? それは?」

 ライラの揺さぶりにも動揺しない。

「貴方の祝福の真名ですよ、団長」

「……知らぬのか? 儂は獅子の聖騎士。祝福の真名には獅子の文字が含まれておるのだ」

 出会い頭であっても鋭い警戒。何かを察したのか、疑っているのか、俺の誘い水には答えない。本命である禮命の是非を問う事は叶わなかった。カードを切った以上、ここから先の油断は期待出来ない。

 だが、全く効果が無かった訳では無い。ライラは再び目線をこちらへ。つまり『獅子の文字が含まれている』、これは嘘だ。

 そう、嘘。

 やはり嘘。

 嘘なのだ。

 ならば、残るピースはあと一つ。

「団長、貴方は先程、『ヨリス村の火災は不幸な災害だった』とおっしゃいましたね?」

「ああ、当時の東部地方騎士団の報告書には山火事が原因と記載されていた」

「実はそれは、違うんです」

「ほう?」

「確かに当時の地方新聞でもそのように報道され、調査に訪れた東部地方騎士団には物証が無い、有り得ない、そんな事が起こる筈は無いと取り合ってもらえませんでした。でも違うんです。七年前の九月二十九日、ヨリス村はある聖騎士により襲撃を受け、火を放たれたんです」

「聖騎士、とな? それは真なのか?」

「はい。私はその聖騎士の祝福の真名が『禮命へ恤える緋』である事を目撃しています。そして私は今もなお、その禮命の聖騎士を追っているんです」

「なるほど。そのような大罪には時効も成立せん。犯人は必ず捕まえなければなるまい」

「おっしゃる通りです。では、再度お伺いします」

 唾を吞み込む。

「団長、貴方の祝福の真名は『禮命へ恤える緋』、……ですね?」

「前述の通り、儂の祝福の真名には獅子の――」

「違います」

「…………」

 何かがと確信したのか、男は思考を巡らせる。だが、ライラが魔女で嘘を見抜けるなど、そんな突飛な思想には決して辿り着けやしない。

「何を出鱈目を。証拠でも有るのかね?」

「手の内を披露する積もりは有りません」

「正直に言いたまえよ。物証の無い推理など、ただの妄想よ」

「有りますよ。まだ分かりませんか?」

「…………では、考えを聞こうか」

 乗って来た。やはり真名を知られれば乗らざるを得ないだろう。カードの有無が不透明であれば、俺達が裏に別口の告発者を控えさせている可能性を考え、その物証の客観的な強度を推し量るべき。

 だが物証などは無い。当然無い。有るのはたったひとつ、俺の目撃証言のみ。ならばこの手が使えるのは今回限り。これを逃せば、次の謁見の機会など先ず有り得ない。最初で最後、唯一のチャンス。失敗は許されない、決して。

「団長は十七年前、第一次ビルノリア戦争の功績で聖騎士へ昇格してすぐ、反王政派レジスタンスから不意の襲撃を受け、祝福の真名の一部が獅子である事を暴かれた。箝口令虚しくそれは瞬く間に広がり、不幸な事に国民にとっては周知の事実となってしまった。そうですね?」

「……続けろ」

 不用意な発言を零さぬように、か。

「でも、この話は可笑しいんです。そもそも、レジスタンスが祝福の真名のを、見られる筈が無いんだ」

 懐中から未だ真新しい真鍮の騎士紋章を取り出し開いて見せる。

「騎士を示す紋章はこのように開き、ロケットペンダントのように騎士達に大切な思い出や家族を忘れさせない。それは騎士が戦地で恐怖に打ち勝つ勇気を振り絞らせる為、決して帰れぬのが明白な死地へその歩みを向かわせる為だ」

 開いた内側もまた、処女雪のように真っ新な真鍮。真名の刻印など在る筈も無く。

「だが、聖騎士は違う」

 英雄の眉が初めてピクリと、ほんの僅かであるが上下を見せる。

「刻印した祝福の真名を万が一にも見られる事の無いように、最後に母材と同じイエローゴールドを接いで閉じる。これはこの国で三百年以上続く伝統だ」

「そうか、カノリア村。……イーサクめ」

「だからレジスタンスが一瞬の隙を突いて盗み見るなんて不可能だ。一定の時間聖騎士紋章を手にし、そして破壊しなければならない。一方で、もしもそんな時間があったのなら、一部と言わず全文を明らかにする事が可能だった筈。やはり矛盾している。答えはNoだ」

 反論は無い。ただただ、こちらの言動を見つめている。

「だが、もしも接がなかった場合は?」

 ようやく、男の口の端が僅かに歪む。

「それならば、不意の一瞬を突いたり、紛失した場合に覗かれる可能性が有る。そして祝福を喪えば、聖騎士は何もかもを失う事を意味する。ならば、リスク管理が必要だ。そのために団長は嘘の情報を流した。例えば祝福の真名が暴かれ、あるレジスタンスのように広められたとする。だが事前に偽の真名が広まっていれば? どちらが正か? その混乱を国民へ植え付ける事が出来る。そしてそれを真と認識されなければ祝福は穢れない。何なら同日に別のテロリストから襲撃を受けたと一芝居打って、更なる偽情報を流し信憑性を下げれば良い。メディアが統制されたこの国では、国民がどの情報を正を認識するのは不可能となる。一方で、全文を流せば『何故、英雄の祝福は穢れないのか?』という疑念を生み、偽情報である事が確定してしまう。それでは意味を成さない。だから襲撃の詳細は明かさず、レジスタンスとやらも祝福の真名の一部しか流さなかった。目的を考えれば一部でも構わない。大切なのは猜疑心を齎す事だからだ」

「世迷い言を。そんな面倒な事をせずとも、聖騎士紋章を接げば良いだろう」

「いいや、団長は接げなかった、接ぎたくなかったんです。そうでしょう?」

 英雄の眼が細く鋭さを増してゆく。

「貴方には、出世と天秤に掛け捨ててしまった、愛したひとがいました」

 赫赫たる逆光に、男の表情を覆う影は黒を深める。

「貧富の差が厳しいこの国では、権力者であれば複数の妻を囲う事なんて珍しい話じゃない。別に立場上は愛妾として傍に置けば良い。だが、王の親族を娶った場合ならばどうだろうか? 遥か昔、この国を救った勇者の、高貴なる血を引く娘を蔑ろにして他の女へ現を抜かすなんて、あの傲慢な王家が許すだろうか?」

 錠の開いた金属音。

「いや、許さない。許す筈が無い。許す筈が無いんだ。醜く、嫉妬深く、ヒステリックと悪名高いアデラ元第四王女は、間違い無く団長を八裂きにするでしょう」

 真実は。

 目の前に。

「幾夜幾年が過ぎようとも、どうしても捨てられなかったそれを。元王族の妻すら暴く事の許されない唯一の、この世で最も安全とされる、その聖騎士紋章の内側へ」

 静寂。再び時計の針だけが音を刻む。

「……その推理は一つ違う」

 男は瞳を瞑り、天井を見上げて息を吐く。

「愛なき政略結婚とは良く揶揄される。確かに騎士の頂点へ立つ為の政略結婚ではあったし、最初は愛してなどいなかった。そして妻自身もそれを理解していた。儂には過去、いや、今も愛し続けている女がいる。だが共に生活を重ね、肌を重ね、時が経つにつれ、儂は何時しか妻を愛するようになっていた」

 どこか遠くを見つめた瞳は、再び光を捉え始める。

「愛しているんだよ」

 少々照れくさそうに、まるで少年の愛の告白のように。

「儂はちゃんと妻を愛しているし、結婚した事に後悔は無い。それに儂の妻は、儂を八つ裂きにはせぬよ。隠したのは死を恐れてではない。妻を傷付けぬ為だ。彼女はいつも突然泣き喚いては、浮気されているのでは? と家中のタンスや机を引っ繰り返し、証拠を隅々まで探しては、何も見つからずに安堵する。そして散らかった部屋を見渡して、自己嫌悪を繰り返す」

 自嘲したような浅い溜息。それでも妻への嫌悪の温度が微塵も含まれていないという事だけが、確かに伝わる。

「それでも、良い女なんだ、儂の妻は。変わろうと、自身の精神的な不安定にも必死に抗っている。儂の甲斐性無しの所為か、『君はそのままで十分に愛おしい』と伝えても不安がってな。何を恥じる必要の無い、女の嫉妬なんて可愛いもんだろうに。大切なのは受け止める男側の度量だろう。……良い女なんだ、本当に。世間で流れる噂ごときに、意味など有りはしない」

 頬杖を突き、虚空を見つめていた瞳をふと、こちらへ。

「だから」

 射抜く眼光は、鋸のような野蛮な凶器。

「儂の女に舐めた口聞いてんじゃんねーぞ」

 低い声に乗せたのは、ずっと飄々としていた団長の、初めて見せた義憤の有りっ丈。

「嘘ね」

 一閃。鈴を鳴らすような声が憤怒を切り裂く。

「私、嘘って嫌いなの」

 そしてそれはいつもの決まった呪いの言葉。

「貴方の嘘はたった一つ。『儂の妻は、儂を八つ裂きにはせぬ』、よ。でも、裏を返せばもはや自白ね」

 君は愉悦を隠さないままの、勝ち誇るような微笑。

「レイフ、

 フランボワズの天眼は遂に判決を下す。これで、ピースは出揃った。

「どうやってお前からの『No』という言葉を引き出すかが勝負だったんだが、しかし警戒鋭く、それは終ぞ叶わなかった。この舌戦、本来であればやはりお前の勝ちだ」

 もうすぐ。

「だが妻を侮辱され、言い返せずにはいられなかった。お前が為すべき振る舞いは、俺達の言及に耳を貸さず、この場から退席させる事だった。そして二度と会わない。俺達がこれらを告発しようとも、物証の無い事がやはり致命的で呆れた妄言と侮られる。それでお前は勝利が確定していた」

「手前の女を謗られ貶され、黙っていては男でなかろう」

「お前の妻を侮辱してしまった事は謝罪しよう」

 もうすぐだ。

「だが、庇ったな、妻を」

 ああ。

「防護策は完璧で、祝福の真名を直接合致させるには至らなかった。だが、聖騎士紋章へ金接ぎを行わず写真を隠すというたった一つの僅かな緩みが、お前の死因だ、英雄」

 七年も待った。

「お前が禮命の聖騎士だ! グスタフ・レードルンド!」

 刻を告げるは鐘の音。ノーチェスグラム大聖堂の時計塔が天涯を震わす。

 世界は緘黙して語らず。だが機械仕掛けの天使の奏鳴曲は終演を迎え、いつしか沈黙こそが一義を有し、前述これらを証明した。

「……まあ、そうか。あの宵闇では見えぬだろうと思ったが、あの大火が」

 団長は豪快に笑い腕を組む。一転、その目の奥には隠し切れない諦観が。

「そうだ。儂が禮命の聖騎士だ。それがどうした? 何が欲しい? 謝罪か? 殺すのか?」

「…………当然殺す。剣を抜け」

 吸い込む息は震えて、呑み込まれるのを必死で抵抗するよう。

「ずっとお前を殺したかった!」

 銀の剣を鞘から引き抜く。

「良い。贖罪もある。一撃だけチャンスをやろう」

 構える俺を目の前にしてなお、グスタフは獲物を持たぬまま、腕を組み不適に笑う。

 ……この余裕は何だ? 普通ならば剣で首を吹き飛ばせば終わりだ。

 人は死ぬ。

 人は死ぬんだ。

 何を考えている? 祝福の力がそうさせるのか。お前の祝福が何かは知らないが、俺にも奥の手がある。

「ライ!――」

 言い掛けて、止めた。

 これは。

 俺の復讐。

 俺の殺人。

 俺の犯罪。

 俺の逃亡生活だ。

 未来あるライラを巻き込む訳にはいかない。

「何遠慮してるのよ。早く目を瞑りなさい」

 それでも即答。君は少し剥れ面。

「……いいのか?」

「バカね」

 君は呆れたように浅い溜息。

「貴方って本当に、私の気持ちを舐めてるわ」

 一転して、そして吸い込まれるようなその微笑み。

「私はね、レイフ。貴方のバディよ。この世の全てを敵に回しても、私が貴方の味方になってあげる」

 そして君は俺の目を瞑るのを待たず、背伸びをして唇を重ねる。

「やれやれ、子供のキス――」

 グスタフの言葉は目の前の光景に飲み込まれる。

 魔女の絢爛。

 二人の足元から碧白い光と緩やかな風、そして魔女文字ルーンが溢れ出す。

「…………ま、さか……いや、しかし………………魔女の、……末裔か」

 泡食うグスタフの首に淡く灯る剣を。

「最後に一つ! 何故ヨリス村を、何故俺達の村を襲った!」

 それでも一瞬で表情を凜と切り替えたグスタフは、探るような目と、そして少しの沈黙。

 ……何を考えている。

「早く答えろ」

「例えば、……そうだな」

 一つの長い、長い溜息。

「暴走したトロッコが線路を走る。進行方向には五人の作業員がおり、このままでは轢き殺されてしまう。お前の手元にはレバーがあり、それを引けばその五人は助かるが、切り替えた先には一人の作業員がおり、そやつは代わりに轢き殺されてしまうだろう」

 何だ?

 何の話だ?

「レイフ、お前ならどうする? そのレバーを、……引くか?」

「何の話だ。関係が無い」

「答えろ。引くか? レイフ」

「…………」

 答えられない。

 何だ? その悪趣味な質問は。

「無言。という事は躊躇い、機会を逃し、行動を起こさないという事。つまりレイフ、お前はその五人を見殺しにするのか」

「違う! それは――」

「違わない。選べない、という事は何もしないという振る舞いを選んだという事だ」

「……違う」

「切り替えれば、一人の人間を殺す事になるからか?」

「――ッ!」

 それはそうだろう。この問答に、正しい回答など無い。出口の無い言葉遊びだ。

「だったらお前――」

「儂は引く」

 真っ直ぐな眼差しと強い声で、男は俺の問い掛けを遮り断言する。

「迷う事無くな。理由は単純。より多くの命が助かるからだ。儂には騎士百万の頂点という立場に伴う責任が有る。常に公平で在らねばならない。決断出来ない、なんて事は。それは国家公安組織の長として国家国民に対して不誠実だ」

「……何が言いたい?」

「話を戻そう。八年前に終結した第二次ビルノリア戦争を知っているな?」

「ええ。私の父上はそこで亡くなったわ」

 ライラは俺の左胸に収まったまま口を開く。

「切っ掛けはやはり奴らの領土侵犯であるが、その実、あれは民主国が保有する非人道的な大量破壊兵器破棄の為の戦争だ。祝福の功罪か、我が国は工業、特に軍事方面の発展について民主国へ劣後する。かの国が国際法違反の兵器を所有するという疑いがあり、それを処理する必要が有った。だが結局、戦争には確かに勝利はしたが、それはビルノリア一帯を防衛したに過ぎん。先の戦争終結後も在りかは見つからず、それらの廃棄は叶わなかった。民主国のより内側、兵器の製造工場の破壊へ至るには、今度はこちらから侵略戦争を仕掛けなければならない。だがもう、王国は血も涙も流し過ぎた。民主国が裏で着々と再戦の準備を進めているのは分かっていたが、王国の被害は甚大であり、全てを出し尽くしていた。次は負ける、必ずな。だから戦争という手段を用いず、秘密裏に大量破壊兵器の製造拠点を破壊する必要が有った。そのためには、世界を焼き尽くしたと伝えられる最上の、現存する唯一の魔女の力へ縋るしかない、という結論へ至った」

 いつかの父が話した、赫焉の魔女の罪。

 ……テレーズ。何故君は、世界へ火を放ったのだろうか。

「封印を阻止するだけなら、虐殺は不要だった筈だ」

「それは、……すまなかったな」

「謝罪なんて要らない。訊いているのはその理由だ」

 端から赦す気は毛頭無い。赦されようとするその振る舞いすら、……憎らしい。

「虐殺は不要と言ったな?」

「当たり前だ! 事情を話して交渉すべき――」

 グスタフは言葉を遮り鼻で嗤う。

「所詮は子供。政治の実務を知らんな。対等な立場での交渉と、力無き市民の虐殺、どちら確実か?」

 吐き気が、する。

「相手が損得勘定の無い盲信的な異端者である場合は? 交渉の裏で封印を完遂されてしまった場合は? 国家を揺るがす、国民の命がベットされた最重要局面において、失敗など在ってはならない。作戦の成功確率が最も高いのは、……奇襲し、殺す事。選ばない、なんて事は有り得ない」

 虫唾が走る。この目の前の屑にも、的確な反論を用意出来ない自分自身にも。

「結果として魔女の確保は失敗した。どれだけ捜索しても霊堂とやらには辿り着けなかった。儂は不完全なまま作戦を切り替え、鴉の精鋭六人を連れ、戦争推進派の民主国の犬共を暗殺へ向かった。運良く、部下六人の犠牲の下、目的は達成された。王国の平和は守られたのだ」

「……なら、ヨリス村は何だった? その犠牲無くとも任務は成功したじゃないか」

 ようやく声を絞り出すも、剣を握るその手は僅かに震える。

 もうすぐ、七年間の悲願が成される。

 そしてそれは愛しき日常との、ライラとの別れを意味していた。

「儂は目的の為なら手段を選ばない。最善を尽くすべきだ。最善は魔女の力を手に入れての兵器の破棄。今回は偶々運が良かっただけだ。もし失敗していればまた八年前と同じように九四三六七人、いや、より多くの命が失われていた可能性があった。そして儂の可愛い部下の命も失われなかったかもしれない。儂の中で天秤に掛けた結果、ヨリス村二七一人の命は、……ほんの僅かに、軽かった。……だから儂は、レバーを引いたのだ」

 団長は華美な椅子に背を預けて、自身の掌に目線を落とす。

「一度でも最善を選ばなければ、失敗した日に、と考えてしまう。その一度の甘えが一生の後悔になる。……あの日、聖騎士紋章を見られた少年を……見逃したようにな」

 ……覚えていたのか。俺の事を。

「それでも時間は巻き戻らない。レイフ、お前も本当に大切なものは何かを考えろ。そしてそのためには手段を選ぶな。……復讐は正しい」

 グスタフは俺の復讐を促す。

 しかし、その右手は震える。

 剣が、剣が上手く握れない。

 呼吸は浅く、どんどん速くなっていく。それを見て、グスタフは嘆息。そして遺言を紡ぐ。

「儂も騎士に成ったのは復讐の為だ。姉の仇を討つ為にな」

 その声はどこか諭すよう。

「儂が若い頃、ああ、南部では珍しい雪が降っていたのを覚えている。……姉が何者かに輪姦されてな。裏路地で発見された遺体は、……眼球も、何もかも潰された、悲惨なものだったよ。そして後の目撃情報から、犯人は間違い無く騎士達だということが判明した」

 余りに胸糞悪い話に血の気が引いていく。

「だが今から三十九年も前、当時の騎士には法治特権と名ばかりの殺害特権が有ってな。姉は盗みを働いたなどと言い掛かりを付けられ、犯人らは裁かれなった」

 無表情につらつらと。

「二年後、十六の歳に儂は騎士に成った。その犯人を探す為、この手で殺す為にな。儂は首席だったから中央騎士団へと話を貰ったが、その屑共がいるであろう地元の管轄、南部地方騎士団へ入団したよ。そしたら酒の場でな。あいつらは過去の犯罪を武勇伝のように話すんだ。悪事自慢から抜け出せない幼稚な屑供だったよ。そのまま下手人を特定し、その日の内に全員殺した。思い付く限りの苦痛を与えてな。……胸の閊えがようやく取れ、一人殺す度に、晴れ晴れとした気持ちになったよ」

 天井を見上げ、噛み締めるように呟く。

「そいつらの死体は業者に片付けさせた。この王国にはそういった連中がウヨウヨ蠢いているからな。それでも儂の姉は氷山の一角。他にも同じような苦しみを抱えている人達が大勢居る事に気付いたのだ。儂は偶々祝福された者だったから復讐を成就させられた。だか、大多数の力無き者達は、ただ泣き寝入りするしかない」

 不意に、背中の火傷跡が再び熱を帯びたように身体を蝕む。

 それはそうだ。間違ってはいない。

 だがお前がそれを言うのか?

 お前が燃やしたヨリス村で生き残った、この俺の前で?

 お前のその言動は、矛盾している。

「結局、騎士が悪事を働いた時、それを裁く裁判所は騎士団より立場は低く、分権は為されていない。ならば揉み消されて終わりだ。この国において、王族と深く繋がり強大な力を集約する騎士団を制御する事は不可能だ。だから儂は、そんな騎士を、世の中を変えたいと、変えねばならんと思った。自身の意志を通す為には力が、武力と権力、金が必要だ。だから先ずはポンポンと騎士団長にな成ったのだ」

 世界の安寧と天秤に掛け、愛した女を捨ててまで。

「騎士団長に成れば政財界の凡ゆる方面へ顔が利く。有と有らゆる手を使い、ようやく儂は貴族と騎士の法治特権を取り除く事に成功した。そして儂は騎士団を浄化する為、人事制度を改定し、監獄アルドレットと鴉の騎士隊を結成した。名前くらいは聞いた事あるだろう?」

「叙任式の日、俺の同期が襲われていた。儀範と成るべき参事補騎士にだ。それは本当に機能しているのか?」

「百万の人間を抱えれば、どうしても擦り切れた精神の変異や、異物の混入は防げぬ。鴉も少ない人数で複数の案件を抱えている。この世の全てを裁く事は出来ない。必然的に優先順位は発生する。レイフ、お前のような力有する者が、手の届く範囲で守ってやってくれ」

 区切りを付けるように、禮命の聖騎士は老眼鏡を外し机にコトリと。

「しかし結局、騎士団にこびり付いた歪みと裏切りの文化は、儂の一代では落とせなかった。それでもなお、木を見て森を憎んではならない。こんな騎士団の中にも純白の正義は確かに存在する。初心では誰しもが高潔にと思うものだ。だか立場が上に成るにつれ、その権力を失うのが惜しくなる。何より、儂が上がる為に必死に命を賭して戦地へ向かった部下達は儂の財産だ。……儂はこれ以上身内を斬るには、ここに長く居すぎたのかもしれん。この組織を更に改革するには、そろそろ新しい風が必要だ」

 未来へ捧ぐ祈りのように。

「儂は、今の、この歪んだ騎士団を、愛している」

 遺言にはピリオドが。

「これが終わったらすぐに北の民主国へ逃げろ。儂のように下っ端を殺しただけなら隠蔽出来るが、この騎士団長を殺したとなればそうはいかん。面子の為、騎士団はお前を血眼になって探すだろう。だが民主国内部なら騎士団も迂闊には手を出せない。北のリベリト市から更に北、ビルノリア油田まで労働者用の専用鉄道が出ている。そこから先は歩きになるが運が良い。今なら雪解けの季節だ。……上手く潜り込めよ」

 暗に殺せと促している。

 それでも手の震えは止まらない。

 痺れを切らしたグスタフは机を掌で叩く。机のカップは倒れコーヒーが零れる。

「臆すな! やれ! 殺しは強者の特権だ!」

 グスタフは自ら首を剣に押し当てる。首からは一筋の血が流れ、その目は殺せと叫んでいる。

 それでも、それでも手の震えも、過呼吸も止まらない。

 目頭が熱い。

 そして、嫌な思考が脳裏を過ぎる。

 ……グスタフは本当に殺して良い人間なのか?

 こいつは俺と同じ腐った世界の被害者で、しかもこの国を守り、歪んだ騎士団を正に正そうとしている。

 後任は誰だ?

 そいつは歪んでいないのか?

 この男が死んだなら、法治特権とやらは復活してしまうのではないか?

 再び、その濁った特権によって涙を流す人が現れるのではないか?

 その瞬間、絢爛の中からは赫焉の魔女が。

「爺の説教なんて聞くだけ無駄よ」

 テレーズは剣を握る俺の右手に掌を添え、早く首を刎ねろと急かす。グスタフの首から更に二筋三筋の鮮血が流れ出す。

 それでもなお、禮命の聖騎士のその表情は、凛としたまま。

「次から次へと。お前が赫焉の魔女なのか?」

「あら。鋭いわね。ご明察よ」

「そうか。大地が抉れたなどと言う西武地方騎士団からの報告書には目を疑ったが、なるほど、魔女の力ならば辻褄が合う。……あの日、何故レイフを選んだ? 何故レイフだけが霊堂へ辿り着けた?」

「さあ? 運命、かしらね?」

 テレーズは左手の人差し指で俺の右頬を突く。

「顔が好みなの。爺の主様なんてごめんだわ」

「はっはっは!」

 豪快に笑うグスタフ。テレーズは慈愛に包むような、そして純真な声で囁く。

「レイフ、貴方の家族の声が聞こえない? 早く、早くそいつを殺せって、……

 ふと彼らの顔が思い浮かぶ。こんな時、皆なら何て言うのだろう。温かな家族。その命は失われたとしても、彼らが残していったものがある。人が人として愛し愛され生きる為に必要な事。大切な、守るべき、亡き家族との唯一の繋がり。彼らが確かに生きていたと証明する唯一の傷跡。

 それはもはや呪いのようで、でも暖かい。

 ……そうか。自身の振る舞いには責任を持て、か。

 歯を食い縛り瞳を閉じる。そして剣の光は揺らめて消える。

「今はまだ、殺さない」

 剣を禮命の聖騎士の首から外し鞘に仕舞う。グスタフも、テレーズも驚きこちらを見やる。

「正念場で臆したか」

 グスタフは独り呟く。ライラだけが何も言わずに、ただ俺を優しく抱きしめてくれる。

 必死に涙を堪え、何とか想いを言葉に変える。

「今グスタフを殺せば、またグスタフの姉や、俺の家族のような被害を受ける人が出てくる。それじゃあ駄目だ」

 それでは余りに無責任、なのだろうか。

「決めた」

 分からない。でもきっと、俺の家族ならきっと、そう言うのだろう。

「俺は聖騎士に、騎士団長に成る。俺が聖騎士に成れば、騎士団を健全な組織へ、というお前の意思を受け継げる。それなら英雄が死のうとも世界は痛まない。そして責任を果たした時、俺はようやく、グスタフ、お前を殺せる。それが父との約束だ。……それまでお前は決して腐らず、弱き人を護り続けろ」

 テレーズは能面のような表情のまま、そして絢爛と共に姿を消す。

 旅路の行末は末路に非ず、俺は下を向いたまま駆け出し団長室を飛び出る。しかし激痛が身体へ悲鳴を上げさせる。途中何度も躓き転倒しながらも、ようやく辿り着いたのは、図書館第六号舎の奥の奥。誰も使わぬ埃塗れの資料室。遂に我慢が限界を迎え、必死に抑えていたものが堰を切ったように溢れ出す。

「レイフ……」

 追い掛けてくれた君。その声は、震えている。

「レイフ!」

 意を決したような強い声。驚き振り返れば、そこには穏やかな、人の幸せを願う君。

「おいで」

 暗闇の中、両手を広げ手招く君。躊躇する俺の頭に優しく手を添え、柔らかな胸の中へ引き寄せ、そして抱きしめる。

「頑張ったわね。誰が何と言おうと、……貴方は、頑張ったわ」

 重なる頬の感触が、三十六・五度の吐息の熱が、渇いた心に水を注ぐ。

「貴方の復讐なんだから、貴方の選択が正しいの。他人が兎や角言ったって、気にする必要なんてないわ」

 柔らかな声が鼓膜を揺らす。その度に嗚咽は強くなる。

「一番、難しい道を選んだわね。貴方らしいわ」

「……俺さ、犯人はさ、すげー悪い奴だと思ってたんだ。そしたらすげー良い奴で、弱い人達の為に必死に踠いてて、誰からも愛される英雄で。……でもそしたら、そしたらさ! 殺したらさ! 俺の家族が、悪者になっちゃうじゃん! ……そんなの嫌だよ」

 慟哭に混ざるは苦しい憎悪。一人では抱え切れず、誰かにただ吐き出したくて、ぶつけてしまいたくて、裏返る声を必死に紡ぐ。

「嫌だよ」

 怨恨は掠れ、嗚咽にサラサラと掻き消される。

 そして沈黙を破るのは、醜い俺の憎悪を真正面から受け止めてしまった惨憺たる、しかし傷口を縫うような君の声。

「人ってね、複合的なものだと思うの。弱いから色んな側面と矛盾を抱えて使い分けてる。誰しもがその人の願う、その人自身を演じているんじゃないのかしら。アリシアだって、ベンノだって、皆そう。だからね、善人のグスタフだけじゃない。英雄の中には貴方が憎むべき、憎んでもいい凄惨なグスタフも確かにいるのよ。だから貴方は殺していいの。本当は意思なんて継ぐ必要は無いのよ。もし、人を殺すのが怖いのなら、……私が一緒に殺してあげる」

 安らかなその声は震え、しかし強い意志と温かな血が通っている。

 この感情の由縁が魔女の呪いと知ってもなお、酔っ払う程に春闌くこの体温へ溺れてしまいたいと願う自分自身も、やはり矛盾している。

「レイフ、貴方はね、良い人過ぎるのよ。復讐の為ならと悪人振っているけれど、最後の最後で悪人に成り切れていないわ。普通ね、カノリア村みたいな安い報奨金の注文は受けたりしないわ。アリシアみたいな裏切ったくせに告白するような気持ち悪い女、それとその父親なんて助けたりしないわ。……でもね。貴方が良い人だから。だからグスタフに辿り着いたのよ。二千万人のこの王国で、聖騎士紋章を造った人間と偶々巡り合って、しかも懇意になるなんて、そんな奇跡普通有り得ないわ。貴方は決断力が無くて、疑り深くて、意気地無しな人だけど。……だけどね、良い人よ。こんな血で血を洗う腐った騎士団の中で、貴方は本当に出世なんて出来るのかしら。……私、不安だわ」

 俺の肩には。

 誰かの、温かな涙が。

 そしてそれは、憎悪に濁り堕ち行く俺の心を、寸での崖際で繋ぎ止める。

「だからね、レイフ。私が、……私が傍にいてあげる」

 力無き俺達は、ただ、ただ二人で泣き続けた。

 君がいる。

 俺の傍には君がいる。

 ねぇ。

 ライラ。

 俺はね、ライラ。

 ただそれだけで。

 たったそれだけのことで。

 この残酷な世界をもう一度、生きてみようと思えたんだ。

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