三年目の春の話 Epilogue

 頬を撫でる感触に瞼を持ち上げる。

 半透明の人ならざる姿、精霊。彼女達はそよそよと笑いながら飛んで、開け放したままの木枠の窓から消えていく。

 竜は夢を見ない。希望という名のそれも、眠りの中のそれも、だ。

 少しの動きだけで悲鳴を上げる寝台から上半身を起こし、右腕で胸に抱えたままだった物を両手に持ち替える。

 ただの日記帳。市街で普通に手に入れる事が出来る、それこそ子供達が自身の小遣いで買えるような、ありふれた物。違いがあるとすれば、色褪せていて今にも壊れてしまいそうな古い物だという事だろうか。

 内容はもう暗記してしまっているのだけれど、触れていると存在を感じられるから、ついつい手にしてしまう。こんな自分の姿を見れば彼女がどのような反応をするか、台詞だけじゃない、声も表情も、その後の諦めたような姿も、全て、傍に在る。

「クルミ」

 愛しい名前。たった三文字の言葉を音にするという事がこんなに難しく、切なく、それ以上に胸が震えるような喜びもあるものだと彼女が教えてくれた。

 何冊もある日記帳は全て自分の為に残してくれた物で、今手にしている物は初めて彼女がカジャルに行った時の物だった。

当時は知らなかった事が後々になって日記を読んで判明する事も多く、彼女がまだ生きていた時にこれを見せてくれていたら、そう思ったものだ。

 このカジャル行きも、その内の一つ。

 誘われたからというのも理由の一つなのだけれど、どうやら最終的な決め手はカジャルでしか採れない宝石を買い付けることが出来るという点だったようで、そういう事をどうして言ってくれなかったんだと思う反面彼女らしいとも思う。

 他人の懐に入るのがとても上手なくせに、その懐に飛び込む事はしない。人懐っこいようで、人一倍他人との距離を調整するような人間だった。それは自分達のような生き物から見れば理解できないものだったけれど、少しでも心が傷つかないようにと必死になる姿は滑稽で、とても切なくて、とめどなく愛しさが溢れた。

 彼女曰く虫除けのハーブのようなもの、月狼の雫。あれを月狼が初対面の人間に渡した事にも驚いたけれど、本当に彼女がただの飾りだと思っていた事も日記帳から知った。竜の角笛を持っているのに、そういう事に想像力は働かないようだ。だからこそ後の事件で怒鳴る羽目になったのに。

「そういうところも愛しいけど」

 笑った顔も怒った顔も、全身で感情を表現するところも、感情が高ぶると訛ってしまうところも、好きなところも嫌いなところも、全て包んで愛しいと思える。

 そして彼女もまた、人の短い一生をかけて愛してくれたと、今だから解る。

 木枠の向こうに見える、今は大木となったそれが目に見える形で彼女が遺してくれた物の一つ。この小屋も、彼女が生きた証。日記帳も、今は自分の胸に在る月狼の雫も。この、命も。

 全てが愛しいと思える世界を遺してくれた。

 風の精霊達が戯れているのを眺めながら感傷に浸りたかったけれど、どうやらそうも言ってられないようだ。気配がこちらに近付いてくる。午後からの会議が云々って言ってた気がするから、きっとその呼び出しだろう。

 めんどくさい、離れたくない。駄々をこねた幼い自分を叱ってくれたのは、本気で叱ってくれたのは、クルミだけ。

竜だから仕方ない。そんな小さな差別すらも彼女は取り払って全力で向かい合ってくれた。

人間と竜の違いは大きい。理解出来ない事の方が大きかっただろう。それでも彼女は諦めずに対等に接してくれた。何故してはいけないのか、その理由も懇切丁寧に伝えてくれた。その上で分かり合えない事があっても、彼女は最期まで人間として生きた。

 寝台の上を整えて、動かすだけで音が響く窓を閉める。勿論、カーテンを閉めるのも忘れない。日記帳も机の上に。やりっぱなしでは彼女に怒られてしまうから。

 扉を開けると暗くなった室内に一筋の光が差し込む。自分は何とも思わないが、彼女は間違いなく目を細めるだろう。眩しそうに。幸せそうに。

 振り返って、微笑む。

 暗い室内は、それでも時間がある時に掃除をしているから清潔感は保たれている筈だ。

 寝台が居間にあるのは、彼女がそれを望んだから。日に日に短くなる起きている時間を、少しでも有効に使いたいと笑ってお願いしてきた姿を今でもはっきりと覚えている。

 冷たくなる手を握っていたのもこの場所だったのに、あの時の激情は、今は彼方へ。

 すべて、クルミが教えてくれた。

 姿は見えなくても、肉体が土に還っても、クルミは今も生きている。

 これからも、生きていく。

「行ってきます、クルミ」



Fin.

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八百六十七年の孤独 鈴音 @tinklingbell

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