年を取らない女

りくこ

第1話 年を取らない女

 地縁のない街の、知らない飲み屋に行くのが好きだ。

 できれば小さめの店がいい。行きずりの相手と、その場限りの会話を楽しめるような。

 そんな場所では、予想もしない面白い話、変わった話、ちょっとした奇譚に出会えることもある。大方は与太話なんだろうが、それでいい。日常からほんの少し浮いた椅子に腰掛けて、とりとめもなく流される音楽じみた言葉を聞く。


 その日は佐野懸河さのけがわ駅を降りてすぐ、ホテルの裏に寄せ集まっているうちの一軒によく考えもせずに入った。カウンターばかりの居酒屋。だいぶ高齢の主人はにこやかで、肴も酒も旨い。ほかに何かあるかとメニューを裏返したら、水着グラビアが貼ってあった。

 店主の特権、目の保養さね、などと嘯く。

 これはアタリだな、と思いつつ、隣り合った男と会話するうち、どんな拍子にか、そいつの友だちの話題になった。

 いや、正確には友だちの母親だ。


 やつの母親はそりゃ若く見える人でね。美人にも美人なんだが、三十は過ぎてるのに二十歳そこそこにしか見えない。父兄参観なんかにゃ、ひとりだけ姉ちゃんが来たのかとどきどきしたもんだ。

 後から知ったんだが、父親が東京で大学に行ってる間に見初めたらしい。よく使っていた喫茶店の娘だったんだとさ。相当な競争率だったようで、通い詰めて口説き落としたとか。

 まあ、母親の方も計算はあったかもな。やつの家は二代前に株式化した建築屋で、田舎とはいってもこの辺りじゃそこそこ知られてる。玉の輿ってほどじゃなかったかもしれんが……。

 やけに詳しいって? 商工会の飲み会なんかじゃ本人が自慢げに惚気てたっていうから、当時同席したオヤジ連中はみんな知ってるよ。

 母親の母、要はやつの祖母(ばあ)ちゃんだな。早くに死んだんで会ったことはなかったそうだが、祖母ちゃんもそういう感じだったというから、女の子がいたら、さぞかし姉妹のような母娘になったろうな。もっとも男しかできなくてね。俺のツレは、その二番目だ。娘が欲しかったのか三人まで作って、結局諦めたんじゃないかな。そこは知らねえけどな。なんにしても、残念ながら息子らは父親似だったよ。


 それのどこが妙な話なんだ、と尋ねると、男は開運なんて縁起のいい名前の酒をあおって、いや、ここからだ、と答えた。


 言った通り、やつの家は割合と大きな会社をやっていて父親もそこそこ遣り手なんで、家業は順調に見えてたんだが、実はゆっくりゆっくり傾いていってね。俺たちが小学校中学年くらいになる時分には、少し悪い噂も聞くようになってた。詳しいことはわからねえが、お袋と近所のオバさん連中が井戸端会議しているのを耳に挟んだりしたね。

 その頃、父親は三十半ばかなあ……。変な夢を見たそうだ。やつの母親、つまり嫁が夢枕に立って深々と頭を下げてね。

―― ここではもう駄目なようだから、お暇いたしたいと思います。

 そう告げられたんだと。むろん夢だからな。起きていって朝飯の支度をしているとこへ、おまえ夢に出てきたぞ、って話したら笑われたそうだ。そりゃそうだな。

 そんで、次の日曜。母親はS市まで車で出かけた。短大の同級生が旦那の異動で引っ越ししてきたってんで、近場の友だちが何人か集まって、まあ、ちょっとした同窓会をしたんだとさ。土産と、結婚してからのアルバムを持っていって。

 その途中、高速で事故に巻き込まれた。

 そういうのはこの県じゃ珍しかないし、他県のあんたにゃ記憶にもないだろうが、これが酷い事故でさ……。ほとんど燃えてしまったって聞いたよ。歯型で本人確認するしかないところを、歯医者に通ったことがなかったんで、燃え残った指輪とか身に着けてたもので判断したんだそうだ。

 おかげで父親はすぐには妻の死を信じられなかったし、しばらくは半信半疑でいたらしい。

 とにかく、こういう事情で写真がない。そこんちの長男、兄貴だな。やたら絵が上手かったんで、仕方なくそいつが授業で描いた母親の絵を遺影にしたりしてさ。それがまた気の毒だってんで、地域の人らはみんなもらい泣きしてたよ。

 ところがだ。通夜の席でちょっとした問題が起きた。

 東京からやってきた母親の親族が遺影を見て「ありゃ、誰だ」って言うんだ。顔が全然違うじゃないか、と。


 子どもの絵が遺影じゃ、そいつは無理もないだろう、と思ったら、顔に出ていたようだ。いや、事情は伝えてあったし、長男は絵の学校を薦められるほどに達者で誰かわからないなんてことはなかったんだよ、と男は補足する。


 とはいっても、昔のことだ。今みたいに携帯に画像を入れて持ち歩く時代じゃねえからな。取り急ぎ来た親族も写真なんか必要とは思わなくて手持ちがない。先々の式次第は決まってるしで、そんなに中断もしてられない。子どもが一生懸命描いたものだから、とかなんとかいって納めてもらって葬式は終わらせたんだけどよ。おかげで変な雰囲気になっちまったみてえだ。

 そのせいだろうなあ……。父親は、いつからか「妻はどこかでまだ生きてる」って信じちまった。そう思いたかったんだろうなあ。

 奇妙なもんで、そうすると「どこそこで、亡くなった奥さんを見た」「H市の繁華街にいた」とか目撃情報が届くようになる。その度に父親は仕事もほっぽり出して探しに行く。当たり前だが、毎回空振りで戻ってくる。

 この繰り返しが半年くらい続いたかな。ツレの表情が暗くなって、マズい雰囲気になっていってるのが、子ども心にもわかったよ。

 ある時も、父親は情報を掴んで出かける準備をしていた。そこに末っ子が学校から帰って、大きなランドセルを背負ったまま玄関に突っ立っている。「父さん、ちょっと出てくるからな」と言い聞かせるのを、末っ子が服を掴んで止めるんだ。

「駄目だって」

「何が駄目だ」

 煩わしく感じながら手を振りほどこうとする父親に末息子が言うんだ。

「パパに伝えてって。『あれは、もううちを出て行ったのだから、諦めなさい』って」

 誰がそんなことを、と聞くと、おばさんだ、と答えるが、親戚の誰なのかまではわからない。思い返してみれば、確かにドアを開ける直前、曇りガラス越しに末っ子は誰かと話しているような素振りをしていたんだとか。

 いい加減なことを言うな、と怒鳴られて半泣きになった末っ子は上がり框ですっころび、その拍子に壁に飾ってある古い創業者一家の写真が目に入った。

「この人。このおばさんだよ」

 末っ子が指さしたのは初代の傍らにいる和服を着た初老の女だった。とたんに、ああ、無理なんだなって父親の憑き物が落ちたってさ。


 どういうことです、よくわからないな、と私は聞いた。

 その会社を創業したのはツレの曽祖父なんだが、創業者のひとつ上の姉貴は物見ができる人だったそうだ。当時は失せもの探しなんかでよく知られてたらしい、と男は答えた。


 まあ、末っ子は親父の権幕が怖くて適当に指しただけかもしれねえがな。父親が落ち着くとどこそこで見かけたって噂も途絶えたんで、もともと謝礼目的のデマだったのかもしれんな。

 その後かい? 会社は持ち直したし、数年して父親は再婚したね。取引先の紹介だったかな。俺も高校に上がってたんで相手の顔までは知らねえが、そんなに派手な女じゃないことは確かだよ。妹が生まれたはずだ。ツレが随分と可愛がってたな。そこは立ち直ってよかったな、ってとこだ。


 ふうん、と私は思った。よくあることだ。火事場泥棒のように不幸を利用して金を巻き上げる。気の毒ではあるけれど、不思議というほどでもない。これで終わりか、と酒の追加をしようか、切り上げようか迷っていると、男は「と、思うだろ?」と繋げる。おいおい、出し惜しみはよしてくれ。


 働き始めてからはツレとは縁が切れてたんだが、いつだったか駅前で鉢合わせて。お互い忘年会が終わって、だったかな。なんとなく飲みなおそうってんで、すぐそこの焼き鳥屋に入ったんだ。

 大体は近況やら他愛もない思い出話だった。そこから何故か亡くなった母親に話が移ってね。綺麗な人だったなあ、と言ったら、何とも言えない間で黙りこくるわけ。複雑なんだろうな、余計だったわと後悔してたら、「俺はほっとしてる」とか言いやがる。

「人んちも、いろいろあるもんな」

「違う。そういうんじゃない」

 俺は母さんが怖かったんだ、と言う。

「いつまでも若いままの顔で、俺たちの目の奥を覗き込んで言うんだ」

「何を?」

―― やっぱりおまえは違うねえ。やっぱり駄目みたいだわねえ……、と。


 ゾクリとした。


 そんな話を拾いに。

 ときおり、飲み屋が並ぶこの街へ行く。

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