後編
それから約三週間の間、三ヶ月に一度ある精神世界の再評価は忘れずに他の生徒たちにも協力してもらい、ミハエルを迎えるための屋台の準備やその他周辺環境のセッティングに、滞在するための部屋と交流会の舞台となる計三種類のパーティーホールの確保と整備、当日の行動予定の計画作成などを行った。
そうして交流会当日。真っ白なリムジンが例年の聖界祭の期間とは打って変わり、人気の一切ない学園の正門の前に到着した。
今回の交流会では例年の聖界祭とは異なり、外部からの客はミハエル・シェーラントの他、テレビ局員数名と数十名の財界人のみとなっていた。
リムジンの扉が開かれ、中からは真っ赤なタキシードに身を包まれた淡い水色の髪色をしている透き通るような白い肌の男が姿を見せた。
そうして男は、生徒一同が待つ学園の体育館へと向かった。
「みなさんお待たせしました。それでは登場してもらいましょう。精神世界ギネス世界記録保持者のミハエル・シェーラントさんです」
校長が元気よく声を張り舞台袖に控えると、続いて反対側の舞台袖から爽やかなスマイルを全開放したミハエルが姿を見せた。
ミハエルの姿は、後ろの方に座る生徒にもよく見えるよう舞台の上部に設置されたスクリーンに映し出されている。
スラっとした長身のスタイルに彫刻のような顔面を持ったミハエルに対して見惚れ、緊張する生徒たち。
ミハエルは舞台の中央に置かれたマイクを握り口を開く。
「初めまして。ボクの名はミハエル・シェーラント。世界記録を持つボクがこうして突然君たちの前に姿を現したのは不思議だとは思うよね。ということで、少し失礼するよ」
そう言って、突然舞台下にいる生徒たちに向かって大きく両手を広げた姿を見せるミハエル。
「さぁおいで、我が愛しき弟よ!兄であるボクがこうして会いに来てあげたよ!」
そう叫ぶミハエルの声は体育館中に反響して、やがて静寂が訪れた。
「———やっぱりボクのことを覚えていないみたいだね」
ミハエルはゆっくりと舞台の階段を下ると、生徒会一堂が座る特設エリアへと足を踏み入れ、そしてある人物の前で足を止める。
「久しぶりの兄との再会だよ?」
「オレ?」
神宮寺は自らを指さし、キョトンとした様子でミハエルを見る。
そして、神宮寺の近くに座っていた生徒会メンバーは、一人残らず目を点にして空いた口が塞がらなくなってしまっている。
更に、その他の生徒たちも同様に驚きが隠せないと言った様子であっという間に会場がざわつき始めてしまった。
「言われてみれば貴方、どことなく似ている気がするわね」
そう言いながら神宮寺とミハエルの顔を何度も繰り返して見る花火。
「オレに兄か・・・・・まぁ、考えられなくもないな」
「思い出してもらえないのは少し悲しいが、君の記憶が消えてしまっているのは承知の上。No problemさ!」
ミハエルのその発言にいち早く反応したのは花火だった。
「え?貴方、記憶を失くしていたの?」
「まぁな、けれど大したことじゃない」
「大したことないだって?」
その瞬間、突然ミハエルの纏っている雰囲気が冷たいものとなった。
「君は幼い頃の記憶を全部忘れている、そうだろ?愛していた母親の存在すらも」
そう語るミハエルの表情からは、終始笑顔を絶やしてはいなかったが、神宮寺はなんとなく怒りの感情を感じていた。
「へぇ、あんた色々とオレの知りたいことを知ってそうだな」
「それは当然、兄だからね。お互いの気持ちが一致したところで、今日の交流会後、兄弟水入らずの時間を過ごすとしようか。神宮寺くん」
「ああ、そうだな。悪いな花火、お前も色々とオレに聞きたいことはあるだろうが、お前と過ごす時間はこの三日間なさそうだわ」
「そんなこと誰も頼んでないでしょう。確かに気にはなるけど、それは貴方の問題。私にどうこう言う権利なんてないしね」
神宮寺の発言に軽くツッコミを入れる花火だが、ここは世界的に有名なミハエルを主役として招いた正式な場。常に凛々しい態度を心がけなくてはならない。
「それじゃあ、君と時間を過ごせることを楽しみにしているよ」
そう言って、ミハエルは再び舞台へと戻っていった。
「すまないね。本来はここで軽く挨拶の言葉を述べるはずだったんだが、弟の姿を見た瞬間居ても立っても居られないくなってしまったよ。それでは改めて、今日からの三日間、よろしく頼むよ」
拍手喝采の中、ミハエルは堂々と生徒たちに向かって手を振りながら舞台袖に姿を消して行った。
そして入れ替えに再び校長が姿を見せると、交流会の流れについての説明を行なっていく。
今日この後に控える交流会では、一つ目の洋風パーティーホールを使用しての顔合わせの意味を込めての食事会を行う。
そして二日目は二つ目の和風パーティーホールにて、ミハエル直々に生徒たちの精神世界に対する評価付けを行なってもらうイベントが開催される。
ラスト三日目は、国宝クラスの生徒三名によるミハエル・シェーラントの精神世界の精神旅行体験&鑑賞会を行う予定となっている。。
その後の会場は興奮冷めやらぬ中、一先ず解散となり、パーティーホールへは皆がドレスアップした状態での集合となった。
聖界学園の女子たちは、白葉や花火などのより目立つ生徒の影に隠れてしまっているだけであって、全体的にレベルが高い。その証拠に、大きなシャンデリアの真下に敷かれた薔薇色のカーペットの上に佇むドレスに身を包んだ女子たちの姿に対して、既にいくつもの丸テーブルに用意された椅子へと、先に会場入りして腰掛けていた男子たちの視線が釘付けとなっていた。
そんな男子たちを置いてけぼりに始まった交流会一日目。
食事はフレンチのコース料理となっており、メインとして出てきた羊肉であるラムチョップを使用し、香草を用いた肉料理は、生徒はもちろん、ミハエルの舌もうならせた。
食事の後は、ほぼミハエルの雑談に近い話を終えて終了となった。
神宮寺はそんなミハエルの話を終始興味なさそうに聞いていたが、他の生徒にとっては、この世の中では誰もが憧れる存在。皆が真剣な眼差しを向けて嬉しそうにミハエルの言葉に耳を傾けていた。
そうして交流会一日目が終わり、生徒全員がそれぞれ帰路に就いた頃、神宮寺はミハエルに連れられてある病院へとやって来ていた。
ミハエルのボディガードは病院の前に待たせており、二人は今、希更木 シェティーナと書かれたネームプレートが貼られた病室の扉の前にいた。
「希更木・・・・・何でこんな場所に連れて来たのか意味不明だったが、そういうことかよ」
「さぁ、入ろうか」
扉を開けて中へ入ると、たくさんの花が飾られた大きな部屋に置かれたベットの上に、一人の女性が点滴を打たれた状態で寝ていた。
「彼女が、君とボクの母親だよ」
と、その瞬間、横たわる女性の顔を見たことで突然ものすごい頭痛が神宮寺の頭に走った。
「くっ⁉︎」
知らないはずの女性の顔は、どこか懐かしいような、それでいて底知れぬ罪悪感に蝕まれてしまいそうな感情に襲われた。
「はぁはぁはぁ————」
「ミハエル・シェーラントというのは偽名なんだ。ボクの本当の名前は希更木 春。兆候が見えて来たみたいだね。けれどまだ思い出すところまではいかないか」
そう言いながらミハエルは女性の頭に触れると、優しく撫でた。
「それならば、君の最大の罪を教えよう」
そうして振り返ったミハエルの瞳から頬にかけて涙が垂れ、何かを憎むような表情を浮かべていた。
「母はその命が尽きるまで一生目を覚ますことはない。なぜなら、神宮寺くん、君が母の精神世界を壊したからだよ」
「あぁっ!」
神宮寺の頭の痛みは更に増したものとなり、形容し難い苦痛が襲う。
「オレが・・・・・壊した?」
「君も被害者なのは分かっている。それにボクたちは唯一残されたたった二人の家族なんだ、いくら怒りを抱こうとも恨むことなんてできない。だけど、許すことはできるはずもない・・・・・ついでに、もう一つの真実を教えよう」
するとミハエルは背中の方に手を回すと、そこから何か白いものを取り出し、顔につける。そうして、まるで別人のような雰囲気と口調に変わった。
「この顔に、見覚えはありませんか?」
神宮寺の中には今、質問したいことが山のように溢れている。被害者とは一体何のことなのか?唯一残された家族とはどういう意味なのか?
しかし、そんな疑問が一度真っ白になるほどの衝撃的な光景が目の前にはあった。
「マジかよ————」
そしてその衝撃は、頭の痛みが吹き飛んでしまうほどのものだった。
「この姿でお会いするのは二度目ですね。以前お会いした時は気を失っていましたから」
そう言って仮面に連動して不敵に笑うミハエル。
ミハエルが今つけている仮面は、浅宮朝日の精神世界に入った際に会ったピエロのものと同じであった。
「お前が、ピエロだったのか・・・・・フッ、まさかピエロがオレの兄だったとはな。だけどそういうことなら丁度いい。聞きたいことがある」
無数の疑問の内、ピエロの姿を見た時まず始めに浮かんできた疑問。
「何ですか?」
「どうしてあの時、瀕死のオレを助けたりした?」
それは白葉が攫われ、神宮寺がピストルで撃たれた時のこと。
「フフッ言ったはずですよ。私は貴方のことをただ許せないだけだと、恨んだり嫌っているわけではありません。そうすることができたのなら、偶然貴方を見かけた時、私は貴方の前に姿を現さなかった」
ミハエルはゆっくり仮面を取ると地面へ落とし、そして踏んづけた。
「正体を知られたのならこれは必要ないですから。私は許せなかった・・・・・母の精神世界を壊した貴方が、あの浅宮朝日とか言う奴の精神世界の崩壊を見逃したという事実が。だから私が代わりに壊してあげたのです。あの二人も同様に—————」
言葉が終わる直後、病室の扉がガラガラと開かれた。
「失礼します。すみません、もう間もなく本日の面会時間は終了となります」
そう看護師に声をかけられ、先ほどの雰囲気と口調に戻るミハエル。
「おっとそれは失礼しなければね。それでは行くとしようか神宮寺くん」
一人二役を演じていると言うよりは、まるで二人の人間がミハエルの中にいるような感覚が神宮寺にはあった。いわゆる、二重人格というやつだ。
今日のところは共に学園へと戻り、そうして二日目の交流会を迎えた。
二日目の交流会は一日目とは異なり、午前からとなる。
本日はミハエルが学園の生徒全員分の精神世界を評価するというものであるため、ミハエル自身に相当な負担を要することとなる。
しかし今日から本格的にテレビ中継がされるため、ミハエルは慣れたように一切の表情のブレも見せずに着々と生徒たちの精神世界の評価付けを行っていった。
ミハエルの評価は、学園の職員数名で評価したものよりも世界的な基準に近いものとなっており、そのことは生徒たちも重々承知しているので分かりやすく喜ぶ者と落ち込む者の主に二択で反応が分かれている。
今まで自分は聖クラスだと思っていた者がミハエルの評価では、美クラスの生徒よりも下回っている者もいれば、期待以上の評価を貰った者もいる。
当然評価された生徒の中には神宮寺も入ってはいたのだが、ミハエルは何かを納得したように薄く笑みを浮かべるだけで具体的な評価は伝えなかった。
そして全員分の評価付けが終わった後は、昨日と同じく食事会となる。しかし昨日の雰囲気とは一変。
学園の屋上には、周囲の風景を設置されている窓から一望することができるいくつもの部屋が設けられている。それで二日目の交流会で使用されているのは床一面に畳が敷かれた和風のホールであり、先ほどまで天井と壁が透明なガラス張りとなっていたが、食事の時間を迎えると周囲が緑の自然を感じられる風景となって水の滴る音や鳥たちの鳴き声、風になびく木々のざわめきが心地よく会場全体に響き渡る。
そんなほんわかとする雰囲気を味わいながら様々な赤身が飾られたお造りや吸い物、主に鮭を使用した焼き魚料理がコースとして各自生徒たちに提供された。
本日も食事の時間は、生徒たちの質問に対して可能な範囲でミハエルが答えていく進みとなった。しかし今日のミハエルは、生徒全員の評価付けによる疲れで予定していた時間よりも早く自室へと帰っていき、二日目の交流会も切り上げという形で終了となった。
とある部屋で、計三名の者たちが目の前の巨大スクリーンに姿勢を正して向き合っている。
スクリーンには、長髪の髪を後ろで結び長く髭を生やした年老いた白髪の老人が映っていた。
「いよいよ明日か」
「ええ」
「俺が今渡したデータは、マクシムが俺に託した大切なデータだ。俺へと足がつくことのないよう早急にあいつを消せ。今まで忠実な飼い犬だったが、危険分子となったからには切り落とさせてもらうぜ、ミハエル」
「先生もお人が悪いですぅ。こんな汚れ仕事をアタイたちに任せるだなんて。もし、アタイたちの素晴らしい精神世界が汚れてしまったらどうするんですぅ?」
「フッぬかせ。誰のおかげで今の精神世界を手に入れたと思ってやがる?それに、お前たちの将来は俺が保証してるから何も気にする必要はねぇ。それじゃあ頼んだぞ国宝級」
交流会三日目。一日目のパーティーホールの二倍はありそうな広さを持つ空間内の至る箇所にビュッフェ形式の食事が並べられている。
一日目同様にドレスアップをした生徒たちが既に会場内で食事を楽しみながら、鑑賞会が始まるまでの間談笑に浸っている。
今日は特に生徒会の仕事はなく、皆が自由行動を許されているが、会場の一角で花火と神宮寺が何やら真剣な表情で会話をしている様子。
「昨日に引き続き、今日も顔色が優れないわね」
「わざわざ心配しに来てくれたのかよ。お優しい生徒会長さんだな。お見舞いの件もそうだが、お前はてっきりオレのことが嫌いだと思ったんだけどな」
「ええ嫌いよ。話したことがなかったかもしれないけど、貴方のような精神世界に干渉できる力を持つ者に、私たち家族の人生は一度壊されたのだからね」
あっさりと重大な過去を告白する花火の言葉はとても冷たく、とても怒りが込められていた。
「けれど私は過去を乗り越えて、自分たちのような被害者をこれ以上出さないために行動できる強い自分になることができたわ。それに、どうしてかは分からないけれど、貴方のことは妙にほっとけないのよね」
「惚れたはれたか?」
多少の重い空気を払拭しようと神宮寺なりに冗談を言ったつもりだが、花火の大人の対応で呆気なく流されてしまった。
「さぁ、どうでしょうね?」
花火の言葉は、神宮寺の予想していた反応とは異なっていたため、一瞬の動揺が走ってしまった。
その直後、舞台上へとマイクを持ったミハエルが登場する。
「おはよう!今日でみんなと顔を合わせるのも最後だね。というわけでラストはとっておきのイベントを用意してある。もうみんなも知っているとは思うけど、昨日はボクが君たちの精神世界を覗かせて貰った分、今日はボクの世界を覗かせてあげよう」
そう言ってミハエルは自身のポケットから何か小さな物体を取り出す。
「これはボクが先生と呼んでいる人物が開発した精神世界の状況を大雑把にだけど読み取ることのできるチップなんだ。けれどこのチップの説明を行う前に、この学園が誇る国宝の三名にも登場してもらうとしようか」
そうしてミハエルの呼びかけと共に舞台上に気品あふれる三名の生徒が姿を見せる。
一人は腰ほどまであるさらりとした銀髪をなびかせた切れ長の目を持つ、二次元の王子様のような存在感を放つ人物。
そして二人目は、高校生とは思えない小さい背丈で、眠そうに枕を抱えながらピンク色の可愛らしいパジャマを着た少女。
そしてラスト三人目は、舞台の照明を反射するツルツルのスキンヘッドにイカつい顔つきの男性。こちらはこちらで、見た目だけならおっさんレベルである。
一人目はともかく、以下の二人のインパクトの強さに、会場内は驚きで満ちて静寂に包まれてしまっている。
そんな静寂を打ち切るように銀髪の人物がミハエルからマイクを受け取り発言をする。
「初めましてこんにちは、西門シラフと申します。以後、お見知りおきを」
そう言って軽く会釈した西門に対して、一部の女子が甘い悲鳴を上げて膝から崩れてしまった。
続いて少女へとマイクが渡る。
「んあぁ?おはようですぅ〜。アタイはユーシア・ミューラ。よろしくですぅ」
そして最後にスキンヘッドのおっさんにマイクが渡る。
「うむ。最後はワシだな。ワシの名前は羅神剛だ。長い言葉は好かん。よろしく頼むぞ一般生徒たちよ」
三名ともがキャラの濃すぎる国宝クラスの生徒たち。中には実年齢を疑いたくなる人物もいるほど。
そのため、生徒間ではところどころで本当に国宝クラスの生徒なのかという疑いの声が飛び交っている。
それは花火や生徒会連中も例外ではなく、またしても驚きの表情を浮かべている。
「初めてお目にかかるけれど、本当に彼らが国宝クラスの生徒なの?到底そんな風には———」
しかし、そんな花火の疑いの目を晴らしたのは神宮寺だった。
「間違いねぇな。数々の人間を観察してきたオレに言わせれば、聖クラスの連中よりも圧倒的な存在感を感じる。それくらい精神世界を見るまでもねぇよ。ただまぁ、お前や白葉先輩と比べると少し違和感はあるけどな」
「どういうこと?」
神宮寺の少し濁した言い方に違和感を感じた花火が興味深い様子で聞き返す。
「要するに、お前と先輩は国宝レベルの精神世界に達してるってことだ」
そんな神宮寺の言葉に、目を見開いて驚きを隠せない花火。
今回の交流会で、普段はクールビューティーな花火だが、何回その仮面を崩されて驚きに駆られたことか、そのことは本人でさえも気がついてはいない。
「僕も彼らとは初めて会ったけど、この学園は個性が溢れていてすごくいいと思うよ。では、改めてチップの説明をしよう。このチップは旅行者の頭につけることによって、無意識状態の身体から発せられる脳波を受け取り、情報を具現化することができるんだ。つまり、彼らが僕の精神世界を旅している間の情報をこのチップが受け取り、受け取った情報を具現化したものが舞台の上にあるモニターに映し出されるという仕組みさ」
ミハエル曰く、そのチップは今はまだ試作段階のものらしく世間に普及するのはまだ先のことだと言う。もしこのチップが普及すれば、白葉が卒業した後の聖界学園の精神世界の評価分けにおいて、何の問題も発生しなくなる。
「それでは早速始めるとしようか」
そう言ってミハエルが国宝クラスの三名へとチップを手渡すと、その直後、何かを語られたのかミハエルの動きが硬直した。
「それは一体どういうことだい?」
「どうもこうもないよ。先生はもうミハエルさんのことを必要とはしていない。dの組織の存在がバレてしまったからには、邪魔になる前にミハエルさんを始末するべきだと、先生はそう考えてるんだ」
「組織の運営はマクシムに任せていたんだ。それでボクが先生に見捨てられる理由にはならないはず」
シラフは不適な笑みを浮かべながら、動揺を隠せなくなってしまっているミハエルへと詰め寄る。
「本当に?この映像を見てもそんなことが言えるかな?」
直後、巨大モニターへと黒スーツを着たふくよかな男性が映り始める。
「この映像は僕が先生から託されたものだけど、すでに警察の手に原本は渡ってしまっているらしいんだ」
その映像内の男の正体はマクシム。映像内のマクシムは、dの組織が結成された事の経緯から行った悪事の数々を暴露していった。そして、その証拠となる会話映像なども流れ、そこには言い逃れなどできないミハエル・シェーラントの姿がはっきりと音声込みで映っていた。
「何ですか、これは?」
突然ミハエルの雰囲気が変化し、更に取り乱した様子を見せる。
「まさか・・・・・マクシムが、この私を裏切ったということですか?けれどどうして?」
「答えは映像のラストに載ってるですぅよ」
少女の言う通り最後に流れた映像の部分には、マクシムの言葉でこう告げられていた。
『この映像が誰かの手に渡っている時、ワタシの意識は既にこの世にはないでしょう』と。
つまり、マクシムは自分がミハエルから裏切られた時のために道連れにする計画だったのだ。
「うむ。マクシムの精神世界の崩壊がお主の破滅を産んだと言うことだな。言い換えれば、マクシムの精神世界を崩壊させることがなければ、あやつは逮捕された後もお主の忠実な部下であっただろうよ」
ミハエルは唖然とした状態で膝から崩れ落ちてしまった。
「————お終いです」
今この場には、聖界学園の生徒だけでなく、テレビ局員もいる。つまり、今ここで行われているやりとり全てが生放送されている状態なのである。
「さてと、僕たちの役目はこれからが本番なんですよ。実は、先生から貴方のことを始末してくるように頼まれててね、命までは奪いはしないけど、色々と記憶はいじらせてもらうよ」
そう言うと、国宝クラスの三名は装置を使用せずにミハエルの精神世界へと入り込み、残された体はバタバタとその場に倒れ込んでしまった。
映像が流れ終わった直後、生放送は一時中断され、会場内は大騒ぎとなっていた。
「今の映像に映っていた男・・・・・白葉を攫ったdの組織の一員だった男よね?」
「ああ。それに、オレを病院送りにしたのもアイツだ」
「映像を見ても信じられないわ。まさか、組織の黒幕がミハエル・シェーラントだったなんて」
「ついでにもう一つ驚く情報だ。ミハエル・シェーラント、本名『希更木 春』は、浅宮朝日の精神世界の崩壊を招いた張本人だ。つまり、オレたちがピエロと呼んでいた人物と同一人物だったってことだ」
花火は神宮寺の予想通り驚いた表情を見せた後、額に手を当て下を向く。
当然の反応だ。
終結したかと思われたdの組織の存在は、その真の黒幕が危うく野放しにされたままの状態だったのだから。
一体誰が何のために証拠の映像を流したのかは花火たちには皆目見当がつかないが、ただ一つだけ言えることは、花火は自身の考えの甘さを痛感させられたと言うこと。
すると突然、舞台上から「バタンッ」という大きな音を立て、ミハエルの目の前に三名の人物が倒れ込んだ。
「何⁉︎彼が何かしたの?」
「いいやその逆だ⁉︎」
突然の神宮寺の焦った様子は、これまでにないほどのものだった。
「三峰、早くオレの首輪を取れ」
「えっ、一体どうし————もしかして逆ってそういうこと・・・・・」
「ああ。おそらくだが国宝クラスの奴らは、ミハエルの精神世界を壊そうとしている」
「もしかして国宝クラスの三人も貴方と同じ力を持ってるということ?」
「おそらくできて記憶や五感をいじる干渉程度だろうが、記憶を消されるのが一番最悪なケースだ」
「貴方のことだから何か考えがあるんでしょう。信じるわ」
神宮寺は首輪が外れたと同時に勢いよくその場に倒れそうになったが、地面スレスレのところで花火が神宮寺の体をキャッチした。
「頼んだわよ」
神宮寺がミハエルの精神世界へと入ると、そこには白葉に描いてもらった自身の精神世界の風景にどこか似ている景色が広がっていた。
世界の上空に存在する大きな雲の下に白目を向いた人間が数えきれないほど倒れており、その中には浅宮朝日のような人物に、マクシムやジーベルに似た人物の姿もあった。
パッと見ただけでも何百万人はいそうな地獄のような風景は、とても世界一の精神世界を持つ男のものとは到底思えなかった。
思い返せばミハエルは、二重人格と思わしき部分がある。話している際、口調や第一人称が変化しているのが何よりの証拠だ。
そう思いふと遠くの景色を見渡すと、眩く光る一点が存在している。そうして神宮寺が光の下まで歩いていくと、壁が存在している行き止まる場所があった。
つまりは、自分の中にも存在しているこの見えない壁は、自身の中に存在する異なる人格を隔てる役割を担っているということだ。
ここで神宮寺は重要なある真実に気がつく。
もしかすると自分の記憶は欠落しているのではなく、今のこの意識こそが後から作られたもう一つの人格なのではないのか?と。
しかしこれ以上の思考をする暇はなく、視界の先に国宝クラスの三名と思しき人物の姿を捉える。
相手も神宮寺の存在に気がついたのか、一人は面白そうに、一人は眠たそうに、一人は機嫌が悪そうな表情を浮かべて近づいて来た。
「やぁ、君は確かミハエルさんの弟だよね?ふぅ〜ん兄弟揃って精神世界に干渉できるなんて厄介極まりない存在だ」
「アタイたちの邪魔をしに来たのなら、追い出しちゃっていいですぅか?」
「追い出すと言ってもこの気配、一筋縄ではいかなさそうだぞ」
羅神剛の表情は機嫌が悪そうなのではなく、神宮寺のことを精一杯警戒してのもの。
「むしろこの状況はチャンスと捉えよう。彼の意識が今この世界にあるということは現実での彼の体は無防備なはず。後々復讐などと言って先生の邪魔になるのだけは避けなければならないからね。この機に兄弟まとめて始末しておこう」
他人の精神世界に干渉できる者など滅多にいなく、精神世界を崩壊させることができるのも神宮寺とミハエルの二人だけ。本来なら危機感を持つことすらない事態だが、入り込まれた者に意識があれば以前生徒会が神宮寺を確保したみたく、外部から直接その者の体に物理的に干渉することができる。極端な話、精神世界に干渉され、崩壊させられる前に、現実世界の実体の方を始末してしまえばいいだけの話なのだから。
しかし、今の神宮寺の意識は体から切り離されているため、精神世界に入り込まれでもしたら外部からの抵抗もできない。その上、今日は交流会最終日ということもあってムードは完全にパーティー気分。それは生徒会一同も同じであり、神宮寺に付けている首輪の予備を持参してはいない。おそらく今、花火あたりが急いで取りに向かってはいるだろうが間に合わないだろう。
「つまりはワシとシラフでこやつを足止めし、ミューラにこやつの精神世界に干渉してもらうというわけだな」
「えっアタイ?」
「どの道彼はお兄さんを助けるためにここに来ているみたいだから、僕たちの誰か一人が残っている限りここからは動けないだろうね。けれど念には念をってことだよ。ていうことで頼んだよミューラ」
西門と羅神剛に見送られ、ミハエルの精神世界から抜け出そうとするミューラだが、神宮寺はそんな少女の腕をがっしりと掴むと、ものすごい力を込めて離さない。
「ちょっ、痛いですぅ」
しかし言葉とは反対に余裕そうな表情を最初こそは浮かべていたが、だんだんと苦痛の表情へと変化していく。
「へぇ〜ミューラは僕たち三人の中でも一番痛みには強いはずなんだけど」
「十秒やるよ。十秒間、お前らがこの世界に留まり続けることができたなら、オレはこれ以上お前たちの邪魔はしない」
そう言ってミューラの手首から手を離すと、勢いよくミューラが殴りかかって来た。
「怖くなったのなら、そう言うですよ————ッ⁉︎」
容赦なくミューラの顔面へと蹴りを入れる神宮寺。
意識の中だとは言え相手は女子。しかし、神宮寺にとってはそんなことは大した問題ではない。
「怖い?オレが?冗談。これまでどんだけの精神世界を壊して来たと思ってる・・・・・今更自分の世界が壊れることなんて怖がると思うかよ」
そうして蹴りを入れられたミューラの意識は、たったの一撃で現実世界へと戻されてしまった。
精神世界において、内外部からの強い衝撃を与えてやれば意識が現実世界へと戻るとされている。しかし、外部からは骨が折れるほどの衝撃を、内部からは意識を刈り取るほどの衝撃を与えてやる必要がある。
仮にも国宝クラスの生徒相手に、たったの一撃で神宮寺はそれをやってのけた。
「信じられん⁉︎仮にもワシらは国宝級。それにミューラはあんな見た目だが、ワシらが認める実力の持ち主であったことは間違いない。こやつ、今まさに信じられんことをしでかしおったわ」
そう驚く羅神剛とは対象的に余裕の笑みを浮かべる西門。
「確かに凄まじい一撃だったよ。けれど、僕たちはそう簡単にはいかないよ?」
「あっそ」
「クハッ————」
次に神宮寺は、風を切り弾ける音が響くほどの速さで繰り出した自身の足を、羅神剛が反応する暇もなくみぞおちにねじり込む。
羅神剛は呆気なく地面に伏すと、そのまま現実世界へと戻っていった。
「さっきの数倍は速いね」
そう発する西門の顔には、最早余裕の笑みは浮かんでいなかった。
「後五秒。楽勝だな」
そうして次々と繰り出される神宮寺の素早い攻撃の連続に、反撃の余地などなくただただ西門は交わすだけで精一杯。
神宮寺のその動きは、浅宮朝日との喧嘩とは比べ物にならないほど洗練された動きだった。しかしそれでもまだ、神宮寺は全力を出し切ってはいない。
次第に避けることすらままならなくなって来たのか、不意に耐性を崩した西門。神宮寺はその隙を見逃さず、西門の顔面に拳を突き当て思い切り地面へと殴り飛ばした。
「カッ—————」
計ピッタリ十秒で国宝クラスの三人を片付けてしまった。
精神世界の内部から意識を刈り取られて無理矢理現実世界へと帰された者は、少しの間現実世界においても意識損失となる。
つまり今、現実世界へと戻った国宝クラスの三名は床に伏したまま意識を失った状態であり、時期に来る花火たち生徒会によってその身柄が確保されるだろう。
そしてミハエルにおいては犯罪組織の主犯格である証拠が世界中に公開されてしまったため、その身柄は警察によって確保され、居場所はどこにもなくなるだろう。
「戻るか」
そうして現実世界へと戻ろうとした神宮寺であったが、先ほどの白目を剥いた人間たちが数多くいる影の一部に、何やら赤く染まったところがあることを発見する。
近づいて見てみると、全身に赤い液体を纏って倒れ伏す男性がいた。
そうしてその男性の顔にどことなく懐かしさと同時に湧き出る愛情と憎悪の感情を感じた瞬間、一昨日母の姿を見た病室とは比較にならないほどの頭痛に襲われた。
「ああああああああああああああああああああああ‼︎」
気がつくと神宮寺は現実世界へと戻り、叫び悶え苦しんでいた。
異常を感じた職員や花火やその他生徒会メンバーたちが何やら焦った様子で神宮寺へと必死に声をかけているが、誰の言葉も今の神宮寺の耳には届かなかった。
次第に神宮寺は意識を失い、失った先の世界で徐々に増していく光を見た。
暗闇がその光で覆われた時、神宮寺は花火たちの知る神宮寺ではなくなっていた。
神宮寺の父である希更木 志門は、精神世界の研究に携わる貴重な研究者の一人だった。
志門は十八の頃から精神世界のことについての研究を始めた。人間を構成する要素が具現化し、無意識内の世界と化している仕組みを紐解くために日々研究に没頭し続けていた。そして二十代半ば頃に精神世界へ直接触れることの興味を抱き始めた。いわゆるその興味が、後に精神旅行の概念へと繋がっていくことになる。
まだ誰も手をつけたことのない研究分野である精神世界への干渉は、膨大な人体実験を繰り返す必要があり、その労力は想像を絶することとなった。
けれど彼には隣にいて支えてくれる親友がいた。名前は、喜楽魔 俊之。志門と俊之は、金の力で集めた人間たちを使って、人間同士の精神を繋ぐ実験を日々繰り返し続けたが、人の精神に他人が入り込むなど世の摂理に反している事象であったため、人体実験の被験者たちはすぐに使い物にならなくなってしまう。
志門と俊之は共に三十歳を迎えるまで何一つ成果の出ない実験を繰り返した。そんな時、志門が十八歳の頃から交際していた彼女シェティーナとの間に第一子が誕生した。
そして、本当の悲劇の始まりはここからだった。
邪道を行く志門と俊之の感覚は既に麻痺してしまっており、志門はついに生まれたての自身の我が子を被験者として採用したのだ。
子供の名は『春』。しかし皮肉にも春は精神への干渉においては多少の抵抗を持っていたらしく、止まっていた研究の歯車が徐々に動き出した。
それからは春を主軸として幾人もの人間の精神と繋ぐ実験を繰り返す日々が続いた。それから六年が経った頃、春の体に異常が現れ始めた。
ある日の実験の際、唐突に春から発っせられる脳波が一瞬だけだったが異なる脳波を発し始めたのだ。その波長はその後の実験の度に長くなっていき、志門は自分たちの研究のせいで春の中にもう一人の別人格を作り上げてしまったことに気がついた。
涙する愛する妻と放心状態となってしまっている我が息子。鬼のような研究の日々で、愛すべき家族へ目を向けることを忘れていたことに気がついた志門は、春を実験台とすることを強く拒み始めた。
それから一年の間はこれまでの時間を取り戻すために志門は家族との時間を大切にし、第二子の誕生を迎えた。
神宮寺が一歳を迎えた年、精神旅行の研究は再開された。次の主軸となる被験者に選ばれたのは神宮寺。
神宮寺は生まれた時から二重人格であったことに気づいた志門たち研究者は、これを使わない手はないと考え、これまでの被験者とは比較にならない約一億人もの人間を人体実験に参加させた。
そしてそのほとんどの人間と繰り返し意識を繋がれる神宮寺。しかし神宮寺は、無意識的に他人と意識を繋がれる際、片方の神宮寺のみで全ての負担を背負っていた。まるで、もう一つの人格を守るかのように。
更に神宮寺は、実験に耐えうる精神と肉体を作るために、幼い頃から勉学、スポーツ、格闘技などのあらゆる分野において高度な教育を受けさせられた。
それからあっという間に五年の月日が経過し、神宮寺が六歳となった時、多くの犠牲の上に成り立った研究の成功は後一歩のところまでやって来た。
犠牲となった人々は、実験が及ぼした脳への影響または、実験の過程で作り上げてしまった神宮寺の無理矢理精神世界に干渉できる力のせいで、約一億人もの植物人間たちが出来上がってしまった。後に、脳への負荷により一時的に意識を損失していた者の中には、他人の精神世界に無理矢理干渉することができる力を手する者が現れた。けれどその力は、神宮寺の手にした力のように精神世界を崩壊させられるほどの力ではなかった。一方で神宮寺によって世界を崩壊させられた者たちは、その後何十年と年月を重ねようとも意識が戻ることはない。
そして、実験により無意識的に数えきれない人々の精神世界を崩壊させてしまった影響により、片方の人格にサイコパスが誕生した。それでも神宮寺が暴走を起こさずに実験を遂行できていたのは、志門らが同時進行で開発させた意識を無理矢理現実世界へ引き戻す銀の首輪のおかげであった。
最後の人体実験の被験者に選ばれたのは、神宮寺の母であり、志門の妻であるシェティーナだった。
神宮寺は、自分でも気付かぬうちに実験以外の日常生活と実験の際の人格を入れ替えていたことによる幼い脳への負荷と、実験の負荷により正常な判断などできるはずがなかった。
ただ一つ、そんな状況の中でも常に頭にあったのは、この苦しみから早く解放されたいという強い思いのみ。
そうして神宮寺は自身の母を手にかけてしまった。
シェティーナの精神世界は神宮寺によって崩壊させられ、そのデータを最後に志門たちの長年に渡る研究は成功し、世界へと新たに『精神旅行』という概念が広まっていった。
晴れて長年の苦しみから解放された神宮寺に待っていたのは、大好きだった母を無くしてしまったという地獄のような事実だった。
母を愛していた神宮寺の人格は、『お母さんの大好きな神宮寺の美しい世界を、大切にしてね』という母からの最後のメッセージを意識の中に刻み込み、壊れてしまいそうな自身の心を守るようにサイコパスと化した神宮寺の人格がもう一つの人格を眠りにつかせた。
自身の破滅を悟り、地面に膝をつき虚しく天を仰ぐ春。
まさかマクシムが自分を道連れにしようと考えていることなど想像すらできなかった。マクシムと出会ったのは春が高校三年生の頃であり、卒業後は共に先生と呼ぶ人物の下で働くようになった。そして初めて先生から任された事業がdの組織の運営であり、先生の協力の下、春とマクシムは一から組織を育てていった。以降春はミハエル・シェーラントと名乗るようになり、マクシムの口からも『春さん』と呼ばれることはなくなっていった。
「マクシム・・・・・ボクらはいつから友人ではなくなったんだろうか・・・・・」
ミハエルはマクシムと出会った頃から、神宮寺たちがピエロと呼ぶ人格しか見せてはいなかった。
しかし一番予想外だったのは、この世で一番慕っていたはずの存在である先生だった。
先生は、春の父である志門の研究仲間であり、両親を亡くした春のことを育ててくれた親代わりの人でもある。
けれど邪魔になると悟った瞬間、あっさりと自分を捨てた。
春の中には、怒りの感情などなく、ただただ絶望の二文字が頭によぎるだけだった。
そして茫然と意識が遠のく感覚に襲われている中、耳奥に響く何者かの悲鳴によって意識を取り戻すと同時に、失われていたと思われる記憶のピースがはまっていった。
春は、父志門による約六年間の実験の影響で以前にはなかったもう一つの人格が生まれてしまった。その人格が後の精神世界ギネス世界記録保持者となったミハエル・シェーラントの人格である。つまりは春も神宮寺と同じく二重人格となったわけだが、春の場合はどちらか一方の人格が眠りにつくことはなく両者が両方の記憶を共有している状態となっていた。
春は自身を実験体にした父を恨んだこともあったが、弟である神宮寺の誕生と優しく大好きな母のおかげで父も家族を何よりも大切にするいい父親へと変わっていった。
しかし、そんな夢物語は一年という短すぎる時間だけだった。
父志門は以前よりも目を血走らせ狂ったように神宮寺を実験体として研究を再開し始めたのだ。春は、無力感に苛まれながら大切な弟を心の底から助けてあげたい気持ちをグッと堪えて耐え忍んだ。
春は決めていた。自分と同じく苦しんだ弟を実験が終わった暁には、精一杯何よりも大切にしてあげようと。
しかし、大好きだった母は、その弟に目の前で精神世界を壊された。
どうして・・・・・唯一優しくしてくれた母親を自らの手で壊したんだと、怒りが込み上げ叫んでやりたい気持ちになったが、恨むべき相手は父である志門。春は、怒りのままに志門に襲いかかり、気がついたら殺してしまっていた。
弟は被害者だ。何も悪くはない。分かっている。分かってはいるけど、納得はできなかった。春は兄として弟に何もしてあげられなかった謝罪を一方的に置き去りにして神宮寺の前から姿を消した。
しかしその記憶には一部改ざんされた部分があったのだ。
それは、父である志門が神宮寺を研究に利用しようとした核となる理由について。
志門は春を傷つけてしまった後悔から、心の底から家族を大切にしたいと思っていた。けれどそこに悪魔の手が差し伸べられたのだ。
その人物こそが喜楽魔 俊之。喜楽魔は、志門に気づかれぬようにある薬を盛った。それは、d(deathを意味する頭文字をとった名)と呼ばれる記憶を一部消すことのできる薬であり、喜楽魔が消した志門の記憶とは、家族に関する記憶。正しくは、家族がいたという事実はそのままに家族の存在を志門の中から消したのだ。それにより志門の中では、家族が何らかの原因で死んでしまったことになったということ。これから幸せなことがたくさんあるはずだった人生は、一気に奈落の底に突き落とされたということだ。
それにより志門は、神宮寺を息子と認識できずに実験体として使用してしまったのだ。更に喜楽魔は、自身の悪行に気がついた幼き春の記憶までも改ざんし、自分に関する悪事の記憶を全て消し去った。
結果、春は志門が薬で操られていることを忘れてしまい、志門に怒りを抱いてその命を奪ってしまった。
その後喜楽魔に引き取られた後も、度々自分の父にしでかした喜楽魔の罪に春は気がついたが、その度に喜楽魔が春の記憶を薬を使って消していたのだ。
これまで春はミハエル・シェーラントとして、家族の犠牲の上に成り立った精神旅行が広まる世の中を精一杯楽しんでやるため、善悪関係なく様々な方法で様々な人間を利用してきた。しかし記憶を取り戻した今、最も恨まなくてはならない復讐相手を尊敬し、仮ではあるが親であると思い、好き勝手に利用されて、挙句の果てに捨てられることにショックを覚えていた。
夢から覚めたような気分になった春は、そんな自分にとてつもない怒りを感じた。
と同時に、周囲の生徒に対してどこか怯えた様子を見せている神宮寺が視界に入る。
春はこの時直感で悟った。神宮寺は幼い頃の以前の人格に戻っていると。正直、母を壊したことを恨んではいないけれど許すこともできはしない。しかし、あの時守れなかったただ一人の家族を、今度こそは守ってみせると誓い春は立ち上がると、急いで神宮寺の下に駆け寄った。
「お姉さんたち一体誰なの?・・・・・」
知らない人たち、知らない景色が目を覚ました六歳の神宮寺を囲んでいた。見た目は高校生の男子だが、心が成長の止まった子供のまま。
生徒会メンバーが主に輪となって神宮寺のことを囲んでいる。
「何を言っているの?希更木くん。私たちのことが分からないの?」
花火は理解が追いついていない様子で目覚めた神宮寺を不思議そうな目で見る。
「おいおいマジかよ。もしかして記憶喪失にでもなったんじゃねぇだろうな?いや、元々昔の記憶はねぇんだっけか?」
「天。あんたいくらなんでも直球すぎでしょ。でもまぁ確かに急に倒れたかと思えば突然叫び出して、挙句の果てに何なの今のセリフ。もう、一気に色んなことが起きすぎて訳分からないんですけど」
その時突然、焦った表情を浮かべた春が周囲を囲む生徒たちを強引に掻き分け姿を現した。
春の顔には焦った表情の他に、片方の目からは涙が滴り落ちている。
「神宮寺!」
神宮寺は春の姿を見た瞬間、とても安心しきったような表情を浮かべた。
「兄さん」
春はそんな神宮寺を見て、何も言わずにただ抱きしめる。
「兄さん。母さんは、どうなったの?・・・・・僕、母さんのことを・・・・・」
母親の存在を口に出した途端、何かを悟ったように神宮寺の目からはとめどなく涙がこぼれ始めた。
春はただ何も言わずに、その悲しみを受け止めてやることしかできなかった。目覚めたばかりの本来の神宮寺の人格は、この時をもって初めて母の精神世界を崩壊させた罪と向き合うこととなる。
大量に溢れ出る涙では語りきれないほどの罪の重さに神宮寺は苛まれていた。そんな神宮寺に対して、更に罪を自覚させるような発言を既に春はできるはずがなかった。
そして神宮寺の変化にいち早く気がついていた白葉がここである推測を口にする。
「今の神宮寺くんは、今まで眠っていたもう一人の神宮寺くんなんじゃないかな?」
「それは一体どういうことなの?」
「旅行祭の時にも思ったんだけどね、精神世界の中にある見えない壁の正体。それは、異なる人格を隔てるための壁なんじゃないかなって思ったんだよ。つまり神宮寺くんは二重人格で、以前神宮寺くんの精神世界で見た壁の向こうにあった光の正体は、もう一つの精神世界ってこと」
そんな白葉の言葉に誰もが言葉を失う中、何かを納得したように茜も口を開く。
「私も見ました。神宮寺さんの世界にあった壁の向こうの光を。私は誰よりも神宮寺さんのすごいところやカッコいいところ、優しいところを知っています。けれど、旅行祭で見た神宮寺さんの精神世界は、人間の闇そのものに触れている気分でした。その他に神宮寺さんの世界には何もなかった。だから思ったんです。遠くに見えるあの光の正体が、私の大好きな神宮寺さんの本質を現しているのではないかと」
そう発言した時点で、何かに気がついた茜がものすごい勢いで頬を染め上げた。
そんな様子を見て花火と白葉は茜の気持ちを知っていたのか、呆れた表情と苦笑いをそれぞれ浮かべている。しかしその他の者たちはこれまた呆気に取られた表情で固まってしまっている。
生徒たちの中には茜を狙っていた者もいたのか、絶望の色を濃く纏う生徒たちもいた。
「そこでミハエルさんにお願いしたいのですが、神宮寺くんの精神世界を少しだけ覗いて見てもいいでしょうか?」
「はい。今貴方の言っていたことは全てが真実です。自分の目で見て確かめてみてください」
春からの許可も得られたところで、白葉は紙とペンを用意してもらった後、神宮寺の精神世界を覗き始めた。
国宝クラスであるユーシア・ミューラは現在二年生であり、入学当初から一気に国宝クラスへと評価された天才であった。そしてその評価のために彼女の精神世界を覗いたのも白葉であり、初めて見た精神世界でこれほど驚いたのは人生で初めての経験だった。
そしてその後にも神宮寺が持つ精神世界の闇を見て同じくらい驚かされたのだが、あの時はどちらかと言えば過去を連想させられた恐怖の感情が勝っていた。
しかし今、白葉も割と数えきれないほどの精神世界を見てきたが、またもや見たこともない景色が広がっていた。
神宮寺の精神世界は、眩い光が三百六十度全体の視界を照らしているのみ。色で例えるなら、黄金に近い色だがそれ以外は何も見えない。光のせいで周囲の景色が隠されてしまっているのか、本当に何もない光に包まれた空間なのかは白葉には分からなかった。
しかし、実際に世界の中に入っている訳でもないのにどこか安らぎ落ち着く温かみを感じる。まるで、白葉がずっと求めていた母親の愛で包み込まれているような気分にさせられる。
しかしそれと同時に寂しく思う。
本当に人格が入れ替わっているのだとしたら、先ほどの神宮寺の様子から自分たちのことを忘れてしまっているのだから。
いや、そもそも今の神宮寺にとっては白葉たちと出会った過去すらない。
白葉はゆっくりと目を開ける。
「描けたかしら?」
そんな花火の質問に対して、悲しげな表情で笑顔を向ける白葉。
「え?白紙じゃないですか」
すると、桜の驚いた声が背後から聞こえてきた。
「白葉、これは一体どういうことなの?見たんでしょ?今の希更木くんの精神世界を」
白葉はゆっくり頷くと、短く言葉を述べる。
「私の世界よりも純粋で、美しい景色だった」
そして茜は白葉の悲しげな表情から何かを悟ったらしく、先ほどの表情から打って変わり同様に悲しげな表情を浮かべている。
そして白葉が次の言葉を述べる前に、翔真が口を開いた。
「彼はもう、僕たちのことを覚えていないということか。だけど彼が来る前の生徒会に戻るだけだ、問題は特にない」
「本当にそう思っているの?」
「え?」
「口も態度も悪いけれど、希更木くんがいなければここに来るまでに私たちの誰かが欠けていた可能性は大いにあるわ。彼はそんなつもりではなかったのでしょうけど、私たちみんな、希更木くんに助けられていたのよ」
「それは・・・・・」
翔真も今花火が口にしたことは分かってはいるため、言葉に詰まってしまった。
「だけどもうこいつには兄貴がいることだし、俺たちの感情だけでどうこうできる問題じゃねぇだろ?」
「そのことなのですが、私を捕まえるために警察の方々が学園に向かっていることでしょう。なのでその前に、神宮寺とともに生徒会の皆さんに託しておきたいことがあります」
そうして春の話を聞くため、生徒会六名と春と神宮寺は一度生徒会室へと移動した。
「大切なお仲間を攫った組織の主犯格である私が何かをお願いできる立場にないことは承知しています。ですがどうか、聞き届けていただきたい」
「はっ、調子のいい話だぜぇ。あんたが捕まっちまうから神宮寺のことを頼まれるのは分かる。だが、その他のあんたの頼み事を聞いてやるメリットは俺たちにはねぇぜ?」
天の発言は生徒会全員の意思らしく、各々が揺るぎない瞳を春へと向けている。
「そうね。流石に全校生徒がいる中で長々と話をする訳にはいかなかったから場所を移したけれど、それがイコール頼みを聞くと言うことにはならないわね。まぁだけど、話を聞くだけならできるわ」
既にミハエル・シェーラントという人物に対する尊敬や憧れの気持ちを、誰一人として抱いてはいなかった。むしろ、この場全体が険悪な空気に覆い尽くされている。
しかしその中でただ一人、春の見方をする存在がいた。
「どうして兄さんが悪者みたいな言い方をされてるの?兄さんは何も悪いことなんかしてないでしょ?」
姿は変われど、幼い頃で記憶が止まっている神宮寺にとっては、短い間のことだけれどとても優しい兄のまま。
「その発言、聞いてて虫唾が走るよ」
「ああ、悪いが今のは俺も翔真と同意見だぜ」
「やめなさい二人とも、彼に非はないわ」
花火も気持ちが分かるからこそ、強く二人にはあたれない。
「それよりも時間がないんでしょ?早く話を聞かせてちょうだい」
「そうですね。それでは————」
春が先生と呼ぶ人物の名は喜楽魔 俊之。自分たちの父である志門の親友であり研究仲間であり、自分たち家族を引き裂いた元凶であること。そして春の消されていた記憶にある喜楽魔のこれまでの悪事の全てを覚えている限りで話した。
「一ついいかしら?」
青ざめた表情を浮かべ、呼吸がだんだんと荒くなりつつある花火が震えた腕をもう一方の腕で支えながら挙げた。
「話にあった被害を受けた会社の中に、三峰グループという名前の会社はなかったかしら?」
「三峰グループ・・・・・見覚えがあります。数年ほど前まで精神旅行の装置を製造していた会社でしたか?ですが確か三峰グループは別の名前に変わっているはずです」
「え、ええそうよ。まさかとは思ったけれど、こんな形で縁が繋がるとは思わなかったわ。いいでしょう。頼みの内容次第では生徒会はその案件を引き受けることにしましょう」
そんな突然の花火の態度の変化に動揺を隠せないその他のメンバーたちだが、生徒会長の意思ならば、それを拒否することはできない。
「それでは、話の続きをさせてもらいますね。私は先生を、止めてほしいのです。正確に言えば、これから先生がしようとしている計画を何としてでも阻止して貰いたいのです」
その計画の内容とは、人類の安楽死計画であり、自身の邪魔となる存在を全て排除し、日本というこの国を我が物にすることが目的なのだという。
そしてその安楽死計画の方法とは実にシンプルであった。自らが志門と共に作り上げた精神旅行を利用しての実行を計画しているという。
精神旅行を実現させたのは志門と喜楽魔であり、喜楽魔はその後の精神旅行装置を製造する三峰グループにも勢力を伸ばしていた。そのため、世の中に出回る全ての精神旅行の装置の中には意識をロックするという隠された機能が搭載されている。
つまり、その機能のスイッチは喜楽魔の意思一つで発動されてしまい、もし発動されてしまえば永遠に肉体と意識が分離された状態となってしまう。そして残されたその者の体はカプセル式の装置だとしてもやがて枯れ果て朽ちてゆく。
それが安楽死計画の全貌である。
「そんなの、タイミングによっては世界のほとんどの人口がいなくなっちゃう場合もあるんじゃない?」
「そうね。白葉の言う通り、日本はおろか世界が壊滅してしまう可能性だってあるわ。これは私たちの感情でやるやらないを決められることじゃないわね。やらなければ、止めなければならないことよ」
「けどよ、んなもんどうやって止めるんだよ。俺たちでさえ足を掴むことのできなかったミハエル・シェーラントを、あっさりと始末するような人間だぜ?付け入る隙なんてあんのかよ」
「一つだけあります。私は毎回記憶を消される直前、その証拠となるものをある場所に隠していました。これがその場所です」
そうして見せられたのは、何かの研究施設のような真っ白な建物とその周辺の写真だった。
この写真だけではどこかは分からない。しかし、ミハエルが次に見せた建物内の写真を見て、神宮寺が反応した。
「これって、僕がいた施設の写真だ」
「え?神宮寺くんがいた施設ってどう言うこと?」
白葉が質問すると、すぐに春の後ろに隠れてしまった神宮寺を見て、少し寂しそうな表情を浮かべる白葉。
「今は本来の人格が目を覚ましたばかりで、これまでの人格の記憶は何一つ思い出せてはいないと思います。ですが、これまでの人格が眠ってしまった訳ではないはずです。じきに今の人格の記憶の中に、これまでの記憶が蘇って来ると思います。なので、いずれは貴方たちのことも思い出すはずです」
そう言われて涙を流す茜と白葉に、安心した表情を見せる花火や他のメンバーたち。
「警察では、私も精一杯先生の悪事を証言してはみますが、全ては証拠がなければ空想に過ぎません。それでは、後のことは頼みます。それと神宮寺、私は再び貴方の前からいなくなりますが、過去も未来もずっと、神宮寺は私にとって大切な弟であり家族です。そして彼女たちにとっても貴方は大切な存在なはずです。なのでこれからの人生は、彼女たちを信じて進んでみてください。私は神宮寺の幸せを心から願っていますよ」
そう言って春の目から涙が姿を見せた瞬間、生徒会室の扉がバッと開かれて何人もの警官が押し寄せてきた。
そうして逮捕され連行されていく世界一となった男の背中は、とても小さく悲しいものだった。
春が警察に連行されて生徒会室を去って行った後、まず始めに白葉が口を開いた。
「ねぇ花火ちゃん。さっきのは一体どういうことかな?過去に、花火ちゃんと喜楽魔っていう人物の間に何があったの?」
「・・・・・喜楽魔 俊之は、私が今の目的を持つ、きっかけとなった男よ。初めて彼と会ったのは—————」
花火が喜楽魔と初めて会ったのは、花火が丁度中学一年生の頃だった。
三峰の父である三峰 彼方は、精神旅行を行うための装置を製造する大企業「三峰ホールディングス」の社長であり、精神旅行の事業以外にも様々な分野への進出を成功させていた。
当時中学一年生だった花火は、よく父が運営する会社へと遊び感覚で入り浸っており、装置の製造過程などを見学しに来ていた。そんなある日、父である彼方が全幅の信頼を置く当時四十後半を迎えていた喜楽魔 俊之を偶然会社で見かける機会があった。喜楽魔への花火の第一印象は、笑顔を見せるとしわくちゃな顔になるのが特徴の、とても苦労をしてきた人であり優しいそうな人だと言うのが正直な印象だった。
三峰ホールディングスの株主であった喜楽魔とは直接話すことはなかったが、それからは何度か会社内で見かけるようになっていった。
しかし花火が中学三年生になったばかりの頃に、父は会社を追い出され家族は奈落の底に落とされて行った。そのことに関する度重なる責任とストレスに苛まれた彼方は、自殺を図ってしまったのだ。そして父の死に直面して病んでしまった母は、花火が高校二年生となった今でも目覚めぬまま病院のベットの上で昏睡状態にある。
彼方が会社から追い出されてしまった理由———それは、会社の不正隠蔽のためである。
当時、三峰グループが製造していた精神旅行の装置には、喜楽魔の命令により装置の発動後に意識をロックする機能が隠して搭載されていたのだ。そのことに気がついた彼方は、喜楽魔の悪行を世間に、そして他の株主たちに公表しようとした。そうなれば会社の倒産は免れない。彼方はそのことは覚悟の上であったが、喜楽魔も彼方の策略を阻止するように行動した。喜楽魔は、かつての研究で作り上げた精神世界に干渉できる人間の一人を使って彼方の世界に無理矢理干渉させた上、五感を奪ったのだ。
その結果、経営者としてやっていけなくなった父はゴミのように会社から追い出され、家族の温かみも、可愛い娘の笑顔も、三人で楽しく笑うことも叶わなくなってしまった。
父親の死後、死の理由の真実に気がついた花火は一時は感情のままに喜楽魔への復讐も考えはしたが、復讐にこれから先続いていく人生を賭けてしまうのなら、父のような精神世界による被害者をできる限り出さないように行動しようと決めたのである。
そうして始めたのが今の生徒会であり、精神世界に関する悪事や、人の行動が誰かの精神世界に大きく影響することを知っているため、精神旅行が世間に広まった現在、質の悪い環境を正そうとしている。
「————と言うことよ。だから別に復讐をしようとは思ってはないけれど、もう二度と彼の思い通りにさせる気はないわ」
花火はとても意思の籠った瞳を質問者である白葉に向け、そして神宮寺を含めた生徒会メンバー皆に向けていく。
白葉の件を経て神宮寺に対する信頼を少しずつ積み重ね始めた花火だが、龍門高校から転校して来てきたばかりの神宮寺に対しては、翔真以上の憤りを感じていた。
神宮寺のような他人のことを何とも思ってない人物に花火の家族は崩壊させられたのだから。しかしそれでも、神宮寺に対して感情のままに怒りをぶつけるようなことはなく、自分に課した使命と向き合い全うして行った。
「花火姉さん。私も全力で、喜楽魔とかいう奴を止めるために協力するわ!」
「だな!そのためにはさっさと神宮寺に記憶を取り戻してもらわなくちゃならねぇし」
「そうですね。神宮寺さんには、私のことは絶対に思い出してもらわなければ困りますからね」
「まぁ花火ちゃんは復讐なんていいと思ってるだろうけどさ、そんな奴私たちで独房にぶち込んじゃおうよ!」
「白葉。まさか君からそんな荒い言葉が飛び出すとは驚いたが、僕もかなり頭に来ているからね。この僕の知恵と技術を絞りに絞った粛清をお見舞いしてあげるとしよう」
そんな各々がこれからの計画に意気込むコメントを述べる光景を、軽く笑みを浮かべて眺める花火。
「頼もしい限りね。みんな、今回の依頼が最後だと思って全力で挑みましょう!」
その後、花火たちのことを思い出す段階までには達していないが、サイコパスであった希更木 神宮寺の人格で体験した幼い頃の記憶は、施設を出た時の時間までを思い出していた。
現在の神宮寺の精神年齢は小学一年生くらいではあるが、幼い頃から高校生や大学生が学ぶような学問を教え込まれていた神宮寺は、状況把握にも優れた能力を持っていた。
そのため、花火たちを仮の意味で信用した神宮寺はかつて精神旅行の実験が行われていた施設であり、かつ実家でもある建物内に花火たちを案内した。
春の話によれば、喜楽魔の悪事の証拠が眠っているとのことだったが、どこを探せどそれらしき物は見当たらない。
考えられることは、春が花火たちに嘘の情報を流したか、花火たちよりも先に来た誰かが証拠を全てこの施設から持ち出したかの二択。
しかしそれは考えればすぐに分かることだった。春には花火たちにこれ以上隠し事をする必要がない。となると、答えは後者ということになる。
その後花火たちは刑務所にいる春とのコンタクトを試みたが、今の春に何かをできるはずもなく、成果はゼロのまま数日が経過したある日、とあるニュースが世界的に放送された。
内容は、精神旅行の軍事的利用について。
世界的に有名なミハエル・シェーラントが逮捕された件については、全世界で彼のこれまでしてきた悪事のことも含めて報道された。その中にはマクシムとジーベルの意識消滅に関する件も取り上げられており、一部の政治家などが意識消滅の話題に関して連日議論する場が設けられたほどだった。
そこから繋がる今回の軍事的利用についての内容は、明確な意思による他人の精神世界の破壊についての再議論と、そこから派生する精神旅行中の装置の破壊についてのものだった。政治家らは、旅行中の装置破壊を行えば永遠に意識と肉体が分離されるのではと考えた。そしてその考えは的中してはいたのだが、装置は度重なる実験の結果、熱耐性や強靭な物理耐性を持っており、どんな方法で破壊を試みても破壊できない現状が世間の一般常識となっていた。
しかし、もしも旅行中に破壊することが可能ならば、精神旅行を使って一国を滅ぼすこともできると、語られた。
今回のニュースは世界中に大きな動揺を走らせる結果となった。安全性は言うまでもなく保証されているが、人間の本能からか続々と精神旅行を行わなくなる者が増えて行ったのだ。
まさかこんな形で精神旅行が衰退期を迎えるなど誰も予想できなかっただろう。そしてそれは全ての黒幕である喜楽魔 俊之もその一人であり、最も今回の件で計画を大きく狂わされた人物であった。
春の悪事が思わぬ形でマクシムに晒されることになったことで安楽死計画の障害になると判断してのトカゲの尻尾切りであったが、その判断が己の首を結果的に締めてしまうことになるとは、思いもしなかった。
「これ以上の状況の悪化は計画への大きな支障を来たすな。もう少しだけ準備が整うまで時を見計らってもよかったんだが、時は既に来たようだ」
世界的に旋風を巻き起こしたニュースから一週間後、精神旅行へ出かけた者の意識が戻らないという事態が相次いで世界各地で報告され始めた。
「私はなんて無力なの。これじゃ、同じことの繰り返し・・・・・本当にもう、止める手立てはないの?」
花火は一人、生徒会室の椅子に腰掛け己の無力さを痛感しながらも、現状の打開策を全力で思考していた。
聖界学園だけで見ても、既に五割ほどの生徒が精神世界内に囚われてしまい、生徒会メンバーにおいては茜と翔真が囚われた状態にあった。よりによって真面目な二人が、タイミング悪く精神旅行をしてしまったせいで囚われる結果となったのだ。
そんな二人の旅行先は、神宮寺である。神宮寺を好きである茜が人格が入れ替わった神宮寺の精神世界に興味を持つのは当然だと言えるが、花火を愛する気持ちから神宮寺に強い対抗心を抱いていた翔真が何の気まぐれか、唐突に神宮寺の精神世界に興味を抱いたのである。そうして二人が精神旅行に出かけてから既に五日が経過していた。
その時、生徒会室の扉が勢いよく開かれ血相をかいた白葉が姿を現した。
「花火ちゃん、大変!」
その青ざめた表情は、只事ではないことが起きたことを物語っていた。
「何があったの?」
「天と桜ちゃんがたった今、茜ちゃんたちを助けるために精神旅行に出かけちゃったの」
「そんな・・・・・こうなる気がしていたからあの二人には釘を刺しておいたつもりだったのに、とことん私の考えの甘さに怒りを覚えるわ」
天と桜は、翔真と茜とは同じ生徒会メンバーだと言うだけであって、特筆仲がいいわけではない。しかし、様々な困難を生徒会という一つの組織で力を合わせて乗り越えてきた絆は、自身の犠牲も厭わないほどの覚悟を持たせるのに値するものだったようだ。
「希更木くんもまだ目を覚まさないの?」
「うん。神宮寺くんは装置とか関係なく精神旅行ができるからどうして目覚めないのか訳が分からないよ」
「そうね。彼の実家である施設に案内してもらった日からもう十日になるわね。流石に長すぎるわ。けれど、もし彼が目覚めたのなら、小さな希望だけれど、この現状を打開できる可能性が生まれるわ」
花火の言う打開策は白葉にも何となくは理解できているらしく、とても辛そうな薄らとした笑みを浮かべる。
更にそれから一カ月が経過した。
状況は以前にもまして最悪であり、注意喚起を行なっていた聖界学園内では以前の五割から六割弱までと、そこまで犠牲者の増加は見られはしなかったが、世界中の人口の約三割の人間が精神世界へ囚われの身となってしまった。
喜楽魔の狙いは日本という国を掌握することこそが真の目的であるが、開発された精神旅行装置の意識をロックする機能は、全てを同時にしか起動させることができなかったため、地球規模による被害が出てしまったのだ。
世界の三割と見れば尋常ではない数ではあるが、精神旅行が一番流れに乗っていた時期に計画が実行されていれば、被害は五割を超えていただろう。
しかし未だに現状を打開する有効な手立ては見つかってはいなかったが、この一カ月の間で、有効であると思われる策が三つほど思案された。
まず一つ目が装置の破壊について、これに関しては不可能であると思われていたが、装置へと処理しきれないほどの膨大な情報を与えてあげることにより、意識ロックシステムを含めた全ての機能に以上が発生し、まともに機能しなくなることが判明した。
しかしこの策は愚策であった。
装置は本来、装着者の意識を他人の世界へと送り出す際と引き戻す際のみに起動する仕組みとなっている。そのため、装着中の装置を取り外し破壊することのメリットがないのである。むしろ、引き戻す機能が失われるというデメリットの方が大きい。これがもし、今回の事が起こる前であれば有効であっただろう。しかしこの研究のおかげで精神旅行中の装置破壊による軍事利用の立証にもなってしまったため、もう二度と、精神旅行がブームになる時代は訪れない。
そして二つ目は、精神世界へ無理矢理干渉することのできる者たちによる協力。ミハエル・シェーラントの一件で世間的にはその存在が隠されていた彼らの存在が表沙汰となった。彼らは、装置を必要とせずに他人の精神世界へと旅行することができるため、内側からの衝撃により意識を元に戻せるのではないかと考えた。
そして何とその考えは有効であったが、無謀だと思い知らされるのにはそこまで時間を費やしはしなかった。
世界の人間たちは知る由もないが、何十億と存在する人間のうち、精神世界に干渉できる力を持ち得る人間はかつて志門と喜楽魔の実験に参加させられた内の十万人程度の数であり、この策に乗っかった人間はその内のほんの一握りである。当然、己を犠牲にしてまでも他人を助けようなどと思う者などいないだろう。おまけにその者たちには精神世界に干渉する回数制限が存在したのだ。分かりやすく言うと、一日に使用できる回数は五回程度であり、囚われた意識を救い出すよりも先に目覚めていない者たちの肉体が限界を迎えてしまう問題がある。
最後の三つ目は、事件の犯人である喜楽魔 俊之の逮捕である。春が警察に連行されて間もなく、喜楽魔に関する悪事を証言した際は、証拠が何もないという理由から警察は捜査に乗り出さなかった。
しかし、春の証言が事実となってしまった今は、その犯人である喜楽魔の逮捕に向けて警察が動き始めていた。
そしてここでも問題が一つ、警察は一向に喜楽魔の動向を掴むことができない上、春の証言以外は何も犯人と決定付ける証拠がないため、喜楽魔を指名手配することはできないでいた。
けれど、日本という国において敵と認識された喜楽魔 俊之は、以後名前を変え、顔を変えるでもしない限り、表立って日本を掌握することはできなくなったと言えるだろう。
そしてこの策もまた、囚われた人々の解放に直結する策ではないという欠点を抱えている。
しかし希望は消えてはいない。
世界でただ二人だけが有する力を宿す存在が目を覚ましたのだ。
その名は希更木 神宮寺。彼はこれより、人類の救世主となる。
場所は学園の医務室、点滴を打たれた状態の神宮寺が一人ベットの上に横になっている。
そんな神宮寺を椅子に座り眺める花火の瞳は、心配と不安、絶望が入り混じったものとなっていた。
しかし、次の瞬間花火の瞳に希望と思しき光が宿る。
「おはよう、ようやく目覚めたわね。それでその・・・・・私たちのことはまだ何も思い出せないのかしら?」
目覚めてすぐ、隣にいた花火が恐る恐るそう問いかけてきた。
「そう怖がらなくて大丈夫だよ。もう僕は、君たちの知ってる以前の僕ではないけれど、今は全部覚えてる。僕と君たちがどういう関係だったのか。そして、僕がこれまで何をしてきたのかを。君たちがどこの誰かってこともね。花火さん」
「そう。思い出してくれたのなら何よりだわ。というか花火さんって何?慣れない呼び方をされると気持ちが悪いのだけれど」
神宮寺は花火のことを『三峰』という呼び方をしていた。
新しい呼び方がお気に召さなかった花火が、あからさまに不愉快そうな表情を浮かべた。
ここ数日の花火は世界の現状に思い悩み、そして何もできない無力感に苛まれ続けていた。その結果、いつ目覚めるかも分からない神宮寺を眺め、希望をなくさないようにすることだけが唯一の救いとなっていた。
「まぁ冗談はさておき、貴方にお願いしたいことがあるの」
「冗談って表情じゃなかったと思うんだけど、お願いを聞く前に一先ず今の状況を教えてくれるかな?」
隠しているつもりではあるだろうが、花火の今にも折れそうな疲れきった表情を見て、兄である春が捕まる前に話していた未来が本当になってしまったのだと悟った。
そうして花火は事の経緯を全て神宮寺へと話した。
そして必然とも言えるだろう花火が導き出した希望の願いへと辿り着く。
「なるほど、要するに君の願いというのは、僕の中に囚われた彼らの意識を取り戻させて欲しいということだね」
「そうよ。例え人格が変わっても流石の一言だわ」
花火は安心した表情を浮かべて頷いた。
「むしろこっちの人格の方がすごいくらいなんだけどね」
神宮寺もまた優しく微笑みかけると、何かを決意した覚悟を決めた表情を見せた。
「天さんたちのところに案内してもらえる?」
そうして案内された場所はカプセル式の旅行装置が無数に並ぶ大きな空間。旅行祭の時にも使われた場所だ。
そして立ち並ぶカプセルの約半分近くが生徒たちで埋まっている。
カプセル装置は、数日の間であれば使用者の体調を維持してくれる優れものであるが、カプセルにも限界がある。カプセル内での生命維持が難しくなった場合には、病院へと移されベットの上での点滴生活となる。
当然装置は使用時にしか作動しないため、神宮寺は始めからベットの上での生活となったのだ。
そして今、神宮寺は天と翔真がいるカプセルの前までやって来た。
「僕の体を支えてくれる?」
「え?ええ分かったわ」
次の瞬間、突如脱力した神宮寺の体を慌てて花火が支える。
「以前にも似たようなことがあったわね」
そう呟く花火の目には、小さな雫が浮かんでいた。
神宮寺が意識を失ってから数分後、次々とカプセルの開く『プシュー』という音がそこら中から鳴り始め、中からは意識を取り戻した生徒たちが現れた。
それから約一時間後、カプセルで眠っていた茜と翔真を除いた全生徒の解放に成功した。
翔真と茜を助けるために潜るべき精神世界は神宮寺の精神世界であったのだが、意識を無理矢理現実世界へ戻す理論をあまり知らない天と桜は、意識不在の翔真と茜の精神世界へとそれぞれ入ってしまったのだ。その結果、神宮寺は迷子になっている二人を見つけることができた。しかし、翔真と茜に関しては神宮寺の精神世界にコネクトしているため、神宮寺自身の意思ではどうすることもできないのだ。
そうして神宮寺と花火は、目覚めたばかりの桜と天を連れて生徒会室へと向かった。
「白葉ももうすぐ来ると思うわ」
そしてその数十秒後に勢いよく開かれた扉から、涙目になった白葉が現れ、勢いよく神宮寺に抱きつくというなんとも大胆な行動を取った。
「ちょっと白葉?」
「ほんとによかった。もう全然目覚ましてくれないし、このまま一生覚まさないんじゃってすごく不安だったんだよ。もう、お姉さんを泣かせるなんて生意気」
「心配してくれてありがとうございます白葉先輩」
「えっ⁉︎—————神宮寺くん私のこと分かるの?」
驚いた白葉の涙は一瞬で姿を隠してしまった。
それから花火、白葉、天、桜の四名は、自分たちの情けなさを胸に抱きつつも、信じる思いが込められた瞳を神宮寺へと向け、神宮寺の言葉を待っていた。
この中に、神宮寺がこれから伝えようとしていることが分からない者など一人もいなかった。現につい先ほど、神宮寺は奇跡を起こしてくれたのだから。
「花火さんから、何が起きているのか全部聞いたよ。先に話しておくけど、僕のこの力は、精神旅行の装置を開発するための実験で得た力なんだ」
神宮寺は自分の過去についてをみんなに話した。精神旅行を実現するために多くの人間が人体実験の被害者となり、一番の被害を受けた神宮寺は一方の人格がサイコパスとなり、他人の精神世界を崩壊させる力を得てしまったのだと話した。
それを聞いて場は凍りついた。自分たちが今まで容易に行って来た精神旅行が残酷な犠牲の上に成り立っていたのだと知ってしまったから。
「つまり、今の貴方の人格が本当の貴方で、これまで私たちが接して来た人格は、苦痛から自分を守るために表に出て来てしまった人格ということなのね」
「だけど、僕が今まで眠っていた原因の大半は、自分の母親の精神世界を手にかけてしまったからなんだ」
あの時の神宮寺は薬を盛られたみたいに脳が正常な判断をできておらず、母親とも認識せずに精神世界を崩壊させてしまった。
「まさかあんたにそんな過去があったなんてね。正直、始めは他人の精神世界を壊すなんてイカれた奴だと思ってだけど、実験の影響でサイコパスにされちゃったのね」
いつもはツンケンしている桜でさえも、神宮寺に同情してしまう状況となっていた。
「僕は罪のない人たちを傷つけ過ぎた。記憶を取り戻した今、その責任を取らないと」
「けれど貴方の意思じゃないんでしょ?」
「もう一方の僕も、結局は僕なんだ。それに、僕をこんな風にした父さんは、喜楽魔に操られていた。僕はそのことに気がついていたけれど、あの時は何もできなかった。全ては父さんの始めた研究が原因だから・・・・・敵討ちなんて言うつもりはないけど、息子である僕がなんとかくちゃ。それにこれは僕にしかできないことだから」
誰も口を開かず、神宮寺の次の言葉を待っている。
「僕はこれから、世界中を回って精神世界に囚われてる人たちを助けてくるよ」
現在世界中では、計二十億人以上もの人々が精神世界に囚われてしまっている。これは、かつての実験で体験した数よりも比較にならないくらいの多さ。
「もし全員を助けられたとしても、貴方自身がどうなってしまうかは検討もつかないわ——————ごめんなさい。失言だったわ」
既に神宮寺の考えを察していたし、それを望んでいたからこそ送り出す覚悟を決めていたが、思わず出てしまった発言を花火は急いで訂正する。
「私もほんとは神宮寺くんには行ってほしくないけど、止めるわけにもいかないね」
そして神宮寺の覚悟を悟ったからこそ、白葉も胸を締め付けられる想いで神宮寺を送り出そうと決める。
「お前にまだ礼を言えてなかったな。助けてくれてありがとよ。こっちのことは任せとけ!」
「なんかあんたにはなんだかんだ助けられてばっかりだわ。あんたならできる!託したわよ」
天と桜も笑顔で神宮寺を送り出す。
「おそらくだけど、貴方の動きを察知すれば喜楽魔が動くはず。だけど貴方への手出しは絶対にさせないわ。だから信じるわよ希更木————いえ、神宮寺くん」
つい一ヶ月ほど前まで人格の入れ替わった神宮寺の精神年齢は六歳であったが、長期の眠りの中、超加速でこれまでの記憶を再体験していたため、目覚めた神宮寺の精神年齢は肉体に追いついていた。
それでもまだ高校生の子供である。いくら自分自身で決断したこととはいえ、とてつもない重圧にさらされているはず。それなのに覚悟を宿した神宮寺の表情は、仲間たちから大きな信頼と責任を託されてもなお揺らぐことはなく、旅に向けての準備に取り掛かった。
その二日後、神宮寺は旅への出発前にある場所へとやって来ていた。それは、春が収容されている刑務所。
窓ひとつないその建物は、白一色で埋め尽くされており、外部との接触が完璧に遮断された造りとなっている。
警察官に連れられ、神宮寺は一人、大きなガラス張りの箱が置かれているこれまた白く無機質な空間へと案内された。
幼い頃、兄とはほとんど会うことができなかったが、僅かに過ごした少ないその記憶にしっかりと兄の記憶が焼き付いている。
兄は基本的には優しい性格の持ち主だったが、よくお菓子の取り合いなどで喧嘩をしてしまうこともあった。しかしそれも本当に数える程度の話。そして神宮寺が実験に行く際は必ずどこか怯えた表情を浮かべていたことを覚えている。
そして、幼い頃に見た記憶の中の最後の兄は、神宮寺を見て涙を浮かべている姿だった。日々の実験の影響でまともに脳が活動しなくなっていた神宮寺を、以前の自分と重ねてしまったことによる恐怖、怒り、悔しさなどの感情が含まれた春の涙。
その後の記憶は本来の人格は覚えていなく、次に目を覚ました時には涙を流して自分のことを抱きしめる成長した兄の姿があった。
無機質な空間で目を瞑り以前の兄との思い出を思い出していると、ガラス張りになっている箱の中央の床が円状に開き、銀色の首輪と手錠をかけられた春が現れた。
痩せ細り髭が生えた春の姿は、以前の輝きに満ちた面影など一切なくなっていたが、面会に来た神宮寺の姿を見た途端、春は笑顔を浮かべると同時に涙を流した。
「久しぶりだね兄さん」
「・・・・・お久しぶりです。まさかこうして会いに来てくれるとは思いませんでした」
「今日は兄さんに話しておきたいことがあって来たんだ」
そう言って神宮寺は、世界規模で起きている事の全てを春へと話した。
すると、春は拳に力を込め唇を強く噛み締める。
「先生を、止められなかったのですね・・・・・」
「安心してよ兄さん。僕が本当に伝えたかったのはここからなんだ」
神宮寺が世界中を巡り、現在精神世界に囚われている人たちを救うことを話すと、春は驚いた表情を一切見せず、むしろそのことを分かっていたかのようにガラスの壁へと思い切り両拳を打ちつけ、腹のそこから込み上げる怒りと悔しさを吐き出すように大きな声を上げた。
「兄さん?」
「・・・・・それが何を意味するのか、分かっているのですか?」
春はゆっくりと口を開き、神宮寺へと視線を向ける。
「何十億という人間の精神世界に入り込むということがどれだけ危険なことか分かっていますか?かつての実験で一億人という大量の精神世界を体験した時でさえ、貴方は壊れてしまったというのに・・・・・もしかしたら無数に生まれた人格によって今の貴方の人格は消えてしまうかもしれない。最悪の場合は、命すら—————」
その時、春の言葉に動揺した様子を見せない神宮寺を見て、春は全てを理解した。神宮寺は自分の死を覚悟した上だということを。
「情けないところを見せましたね。確かに、皆を救える可能性を持っているのは貴方と私の二人だけ——————本来なら、弟を守るべき立場の私が犠牲にならなければいけなかった・・・・・けれど、自身の愚かさのせいで私はこのザマ」
そうして春は神宮寺へと頭を下げ、謝罪した。
「行かないでくれ、などとは言うつもりはありません。私にはその資格がありませんから。ですが、一つだけ聞いてもらえますか?」
神宮寺は頷き、まっすぐな目で春を見る。
「どうか最後まで生きることを諦めないでください。貴方には帰りを待つ者たちがいることを絶対に忘れないでください」
神宮寺はどこかで兄と会うことを躊躇っていた。記憶を全て取り戻した今、兄がこれまでしていたことも、兄と離れ離れになってしまったことも分かっていた。
だからこそ、兄の立場で考えた時に今更自分と真剣に向き合うのは気まずいかとも考えたし、十年以上経った今でも兄が自分のことを弟として好きでいてくれているか、とても不安だった。しかし、本来の人格が目覚めた神宮寺のことを涙を流して抱きしめてくれた兄の姿や、自分がこれから命を落としてしまうかもしれない旅に出ることを考えた結果、向き合うことに決めたのである。
「ありがとう兄さん。必ず忘れないよ」
神宮寺は薄らと瞳に涙を浮かべてそう答えた。
そうして気がつくと残りの面会時間が五分ほどに迫っていた。
「兄さん。実は二つほど頼みたいことがあるんだ」
神宮寺の頼みとは、神宮寺の精神世界に未だ囚われている茜と翔真を解放すること。
特別に警察官の計らいにより一時的に首輪を外された春は、無事茜と翔真の解放に成功した。
「ありがとう兄さん。もう一つは—————」
そうしてお願いしたもう一つの頼みとは、母親が眠っている病院の場所を教えて欲しいという内容だった。
神宮寺は一度、春に連れられ母の病院に足を運んだことがあるが、そうした細かな記憶などはちょくちょく思い出せていないものもある。
春は警察官からペンと紙を受け取ると、病院が位置する住所と聖界学園から病院までの大まかな経路図を描いてくれた。
「神宮寺には伝えておきますが、母の肉体はもう既に限界に近いです。実験の影響が一時的に脳へと作用し、植物人間となってしまった人などは回復の見込みがありましたが、母の場合は、絶対に目覚めることはありません。意識は疾うに死に、魂のみがただ肉体に滞在しているような状態です」
神宮寺は母の件に関しても覚悟はしていたが、目覚めて間もなく、母が死を迎えようとしている現状は簡単に受け入れられたものではなかった。しかし、その原因が自分だと言うことも理解している。
「それじゃあ、兄さんの分も、母さんに別れを告げてくるよ」
唇を小刻みに震わせながら必死に涙を堪える。
「感謝します。神宮寺」
「じゃあ、僕はもう行くね。兄さんと話せてよかったよ」
「はい。それでは、お元気で」
二人は決してまた会おうなどとは口にしなかった。
その理由は分かりきったこと。次に会える可能性はほぼない。神宮寺が無事に帰って来られる可能性は、砂漠の中で宝石を見つけるようなものであり、春もまた、死刑になってしまう可能性がある。それほど精神世界の概念が中心となった現在の世界では、他人の精神世界を壊すという行為には重い罰が課せられる。実際に、花火の父の精神世界に害ある干渉を行った人物は、その時は誰かの命令下にあったことと、その行為自体が花火の父の直接的な死因に関係はしていなかったため、懲役五十年という罰が課せられた。
しかし春はマクシムやジーベルだけでなく、浅宮朝日の精神世界までも崩壊させてしまっている。
つまりこれが最後の兄弟水入らずの時間だったのである。
その次の日、神宮寺は母のいる病院へとやって来た。
神宮寺もあれが兄との最後の時間であったことは分かっており、今日は母との別れの時間である。
神宮寺は母の病室へ入ると、いつも自分の頭を撫でてくれていたミイラのように痩せ細った手を握りしめた。
「母さん、僕だよ?」
兄の時とは違い、始めから涙を堪える神宮寺。
「久しぶり、だよね?僕の体感では、母さんが抱きしめてくれていたのが昨日のことのように感じるよ」
そうして神宮寺は買って来た花を殺風景となっている病室に置かれた複数の花瓶の中にいける。
既に入れられていた花たちは、その美しい見た目が失われて枯れてしまっていた。確か、以前に春と来た時は、生き生きとしていた記憶がある。
「兄さん・・・・・」
春は週に一度は母の下を訪れており、その度に部屋に彩りを持たせていた。病室で一人ぼっちの母が寂しい思いをしないようにと。しかし春が来られない今では、その花たちも枯れてしまっている。
サイコパスとなった人格の記憶にあった春の印象は最悪であったが、今の神宮寺はその時の記憶を取り戻してもなお、春へ尊敬する気持ちを抱きながら花を部屋へと飾った。
「母さん今日はね、お別れを言いに来たんだ。母さんが起きていた頃に母さんと触れ合える時間は本当に少ししかなかったし、今の母さんと会うのもこれで二回目だけれど、僕、旅に出なくちゃいけないんだ。だから、色々とこれまでのことを聞かせてあげるね」
母からは何の返答も返っては来ない。けれど、神宮寺は優しい笑みを浮かべながら話しかけ続ける。
「————というわけで、兄さんとも最後に兄弟らしい会話ができたと思うんだ」
長々と話してしまったため、既に三時間ほどが過ぎてしまっていた。
ここで一度、看護師が面会終了三十分前の声かけをしに来た。
「あと三十分か。最後に、母さんの精神世界を旅行してみてもいいかな?どうしても最後に、どんな姿でも母さんの世界を見ておきたいんだ。これは、僕が過去と向き合う意味でも大切なことだから」
その瞬間、確実に幻覚ではあるが、母の口角が僅かばかりか上がった気がした。
神宮寺はゆっくりと意識を集中させて母、シェティーナの精神世界へと入り込んで行った。
シェティーナの精神世界は至る所に白黒の渦が存在しており、渦がない真っ黒な空間には赤い亀裂がいくつも生じていた。
神宮寺は幼い頃に何度かシェティーナの精神世界を覗かせてもらったことがある。
ふさふさと風に靡いていた草木は枯れ果て、あの特徴的だった無限に続いているかのような桜道はひび割れ、見る影もなくなってしまっている。
シェティーナの精神世界は、いつ消滅してしまってもおかしくないほど、残酷な姿へと変貌していた。今現在も空間内のひび割れは増していくばかりであり、それに伴う渦の発生も増えていく。
「ごめんない・・・・・ごめんなさい、母さん」
向き合わなければいけないのに、改めて見ると自分がしてしまった罪の重さに押し潰されてしまいそうになる。
この崩壊は自分が起こしてしまったもの。大好きだった母さんの、あの綺麗な精神世界を奪ってしまった。
「胸が張り裂けそうだ———————」
今までずっともう一人の自分の影に隠れて母と向き合うことを無意識に避けて来たが、これが最後・・・・・向き合わないわけにはいかない。
ひび割れた空間に触れる度に胸に感じる突き刺さるような痛み。
母はもっと痛かったはずだ、苦しかったはずだ、悲しかったはずだ。
ひびに触れる度に母の感じたであろう痛みを知ることができる。こんなものじゃ償いにはならないかもしれないが、この痛みから目を背けることはできない。
これは神宮寺自身の自己満足でしかない。誰も止めてくれない——————
「っ⁉︎」
しかしその時だった。どこからともなく現れた無数の光の粒子に神宮寺の体は包まれた。
「・・・・・この感じ、すごく懐かしい」
温かく心地がいい心休まる感覚。
母の腕の中で抱きしめられている感覚だ。
「母さんを傷つけてしまって、ごめんなさい・・・・・約束を守れなくてごめんなさい」
神宮寺は小さな子供のように涙を流した。
「母さんが好きだと言ってくれた僕自身の世界を、僕は自分の意思で傷つけてしまう。母さんのことも、僕自身さえも守ることのできないどうしようもない僕だけど、今苦しんでいる世界中の人たちを救うことができれば、僕が生きていた意味もあるのかな?」
そんな神宮寺の問いに答えるように光が帯びる温かみは増す。
そうして光は消えてゆき、ついに世界の限界を知らせるように精神世界が大きな揺れを帯び始め、強制的に神宮寺は現実世界へと戻された。
「ありがとう母さん——————」
静かな病室内に響き渡るシェティーナの鼓動が止まったことを知らせる機械の『ピ————————』という音。
母が亡くなった。そのショックは、簡単には受け入れることができない。しかし、受け止めることができないほど神宮寺は弱くはなかった。
神宮寺は涙を拭い、今作れる精一杯の笑顔を母へと向けた。
「おやすみなさい」
この日、神宮寺は完璧に過去を乗り越えたとは言えないが、もう思い残すことは何もない。
そして翌朝、神宮寺は誰にも見送られることなく学園を出た。
挨拶もなく行ってしまった神宮寺を、きっと花火たちは怒るだろうが、神宮寺が生徒会のみんなの下へ戻ることはもうない。
けれどもし、無事に戻って来れたのなら、思う存分怒られようと、そう神宮寺は思った。
神宮寺が旅を始めてから約二十年が経ち、精神世界に囚われていた全員の解放が確認された。
神宮寺の解放活動はまず日本から始まった。北から南までを約一カ月で回り終え、日本全体の解放を終わらせた後、次に向かったのは中国。その次に韓国、そしてロシアと順々に恐ろしいスピードで次々と囚われている者の解放を成功させていった。
そしてそんな神宮寺の活躍を花火たちはテレビで逐一確認していた。当然、何も言わずに旅立ってしまった神宮寺に対して、少なからず怒りを抱いてはいたが、それよりも神宮寺を応援する気持ちが勝っていた。
世界中のあらゆる国々は、日本で精神世界に囚われていた人々が全員解放されたという情報を得て、それが一人の人物の仕業であることを知る。
そうしていつしか神宮寺が旅する先々でテレビの報道陣が待ち受けており、解放と取材の両方をこなす日々が続いていた。そうして映し出される神宮寺の姿は、今なお絶望の真っ只中にいる者たちの希望となり、ヒーローであった。
次は自分たちの国に救世主様が来てくれる。愛する者の解放を望む者たちは涙を流して喜びに震え、神宮寺を崇めた。
気がつくと、神宮寺は世界中から現実世界に舞い降りた『英雄』と呼ばれるようになり、子供だけでなく全人類の憧れとなっていた。
その一方で花火たちは、テレビで見る度に美しかった神宮寺の顔が、ストレスや疲労、多くの精神世界を一気に経験することによる影響で別人のように変わっていく様に、とてつもない不安を抱いていた。
そんな神宮寺を見ているのが辛くなってしまった花火たちは、だんだんとテレビを見なくなっていき、各々がただ神宮寺の無事を祈ることしかできなかった。
そして高校を卒業し、各々が立派な大人に成長したある日。
その日は、神宮寺が旅立ってから丁度二十年が経つ日だった。
神宮寺を除いた花火、白葉、天、翔真、桜、茜の六人は母校である聖界学園の生徒会室に久しぶりに集まり、部屋に置かれているテレビをつけた。
わざわざ六人で集まった理由は、それぞれが十五年前に見るのをやめてしまった神宮寺をもう一度見るため。
昨日、神宮寺が約二百ある世界中の国の人々を精神世界から見事解放に成功したとの情報が流された。
そして今日、その最後に辿り着いた国にて『英雄』のインタビュー映像が放送されるとの告知がなされた。
ついにやり遂げてしまった。神宮寺は、本当の意味で花火たちの中でも『英雄』になった。
「あの野郎、やりあがったよ!」
「彼を見下していた頃の僕を殴りたい気持ちだよ。今では尊敬する気持ちしかない」
「私は始めから信じてたよ。神宮寺くんなら絶対にやり遂げてくれるってね」
「テレビも生放送じゃないみたいだし、今頃は飛行機の中かしらね。久しぶりだし、少し会うのが怖いけど、生きてるだけでも奇跡よね」
「そうですね桜ちゃん。生きていてくれるだけで十分です。ようやく・・・・・ようやくなんですね」
「そうね。私も彼には頭が上がらないわ。帰って来たら、私たちみんなで盛大に迎えてあげましょう」
そうしてテレビをつけると、その場の空気を一変させる残酷な事実が告げられていた。
その内容は、希更木 神宮寺の死を知らせるものだった。
生きてる・・・・・生きてるんだ。
帰らなきゃ・・・・・帰らなきゃ。
呆然とする思考の中、ふと、生徒会メンバーの顔が思い浮かんでいた。
少なからず犠牲は出してしまったが、二十年かかって囚われていた人たちの精神世界からの解放に成功した神宮寺は、既に自分が何者で、どうしてここにいるのか、今まで何をしていたのかも分からなくなっていた。
ただ神宮寺を突き動かしていたものは、心の奥底にこびりつく使命感のみだった。
そしてその役目が終わった今、神宮寺は力尽き、地面へと倒れ込む。
この場にいる多くの者たちが自分を必死に呼ぶ声がするが、聞こえない。
だんだんと視界も闇で覆い尽くされてゆき、呼吸が小さくなっていく。
「みんな・・・・・元気だといいな—————」
神宮寺は度重なる疲労とストレスによる肉体の限界と共に、入りきれなくなってしまった新しく得た精神世界の経験が、神宮寺の精神世界を内側から破裂させていき、その波が神宮寺自身の精神世界の崩壊を生んだのだ。
神宮寺の精神世界は三十七歳という年齢で幕を閉じた。
目覚めると、眩い光が眼球を刺してきた。それと同時に周囲で人の声がする。
「奇跡だ————」
「ついに俺たちの研究が報われたんだな!」
徐々に意識を取り戻すと、ベッドに横になる自分を取り囲みながら悲しみや喜びの表情を見せる男女六名の姿が視界に入って来た。
「分かりますか先生?先生は運命に打ち勝ったんですよ」
「本当に実現できるなんて始めた頃は夢にも思わなかったわ。こんなの感動しちゃうじゃない」
懐かしい者たちが今、自分のために涙を流してくれている。目覚めた直後で状況がイマイチ理解できなかったが、徐々にこれまでの記憶を思い出していく。
自分はこれまで本当の彼らのことを忘れて、夢を見ていたような気がする。
ベッドから起き、上半身を起こすと突如腹部に軽い衝撃が走った。
「パパ!」
そう言いながら勢いよく抱きついてくる白髪の少女。
「・・・・・白葉。どうしてオレは自分の娘のことを一瞬でも忘れてたんだ?」
そうして次第に白葉の背後に立ち涙を流す女性の正体も思い出していく。
彼女は忘れていてはいけない、何よりも大切な存在。
「心配かけたね。花火」
花火はキラキラと輝く美しい涙をポロポロと流しながら笑顔を向ける。
「おかえりなさい————神宮寺くん」
「この後は念のためどこか異常がないかを調べなくてはなりませんから、花火さんと白葉ちゃんは研究室の外で待っていてください」
「はーい!」
「分かりました。それじゃあ、夫のことよろしくお願いしますね茜さん」
その後、目覚めたばかりの神宮寺の体からは特に異常は検出されなかったため、再度花火と白葉は研究室へと通される。
そうして神宮寺が座っているベッドの周りに再度皆が集合した。
「一先ず神宮寺、いや研究長。長年の研究の成功、おめでとうございます」
赤髪の男性が片手にビールを持ちながら研究の成功を讃える。
「二十年か・・・・・長かったな。みんな、これまでこんなオレについて来てくれて本当に感謝する」
「だな。俺たち高校で出会ってから今の今まで研究に没頭しすぎてたおかげで、俺たち全員三十七歳独り身のジジイとババアになっちまったしな」
「余計なお世話よ!ていうか、こんな時くらいビール飲むのやめなさいよね」
「天。神宮寺は既婚者だ」
「こまけぇな翔真は、そんなんだから年齢イコール彼女いない歴なんだぞ」
「うるさい。君に言われたくない」
「天さん、酔っているんですか?桜ちゃんの言う通り、ほどほどにしないと体に毒ですよ」
「なぁ〜に?茜って俺に気があったのか?」
「はぁ、どうしてそうなるんですか?」
「みんな静かにして!パパが困ってるでしょ」
神宮寺を置いてけぼりに、変な方向に場が盛り上がって来た時、小学六年生である白葉が上げた一言で場は静まり返った。
「悪りぃ悪りぃって白葉ちゃん。とまぁおふざけはここら辺にして、俺たちが開発した薬があればどんな不治の病だとしても治せることが証明されたわけだ」
「開発した自分ですら驚いてるよ。さっき茜に検査してもらった結果、病気も含めて何一つ異常が見つからなかったんだから」
神宮寺は十五歳という若さで心臓の病気を抱えていることが判明した。その病気は現代の医学では治すことのできない不治の病であり、この先、生きられたとしても四十歳までが限界だと余命宣告を受けていた。
そんな時、十七歳の頃に出会った天、翔真、桜、茜と共にどんな病気でも治せるような薬を開発するという夢物語のような研究を始めた。
そうして研究は十五年続いた。その間、大学で出会った花火と付き合うようになり二十三歳で結婚、二十五歳で白葉が生まれた。
研究から十五年。神宮寺たちが三十二歳となった年、ついに一つの薬が完成した。
その薬の仮名を『D』と名付けた。
「そういや神宮寺。なんで完成した薬に『D』って名前をつけたんだよ?」
ふと気がついたように天がそんなことを質問てくる。
「ああ、それはさ————」
完成した薬の内容は、使用者の脳を主軸として著しい回復活動を促進+付与する影響を全身の細胞に広げていくというものである。そのため、脳へと多重な負担がかかってしまうこととなり、回復の過程で一度の一瞬の間、肉体を殺してから新しい細胞に作り治す効果をもたらす。
「つまり、病を治すために一度は死んだ状態になることから、『死』のイニシャルを取ってとりあえず『D』と呼ぶことにしたんだよ」
「なるほどな」
「僕はなんとなく理解はしていたけどね」
「だけど、実際に完成した薬を体験してみて、もっと適切な名前を思いついたよ」
「もしかしたらその名前がこの薬が世に出た時の正式名称となるかもしれませんから、期待してますよ先生」
「ああ、だけどその前に夢の中で経験した出来事をみんなに話そうと思う」
そうして神宮寺は、自分が他人の精神世界に旅行できる世界を過ごしていたことを話した。
その世界では、天や翔真、茜、桜に花火、そして白葉と自分の七名は聖界学園と呼ばれる学園の生徒会のメンバーであり、様々な困難に立ち向かったこと。
そしてその世界の中の自分には、六つ年上の兄がいたこと。
最後には、精神世界に囚われた世界の人々を助けるために、自分の命が尽きてしまい現実世界へと戻って今に至ること。
「てことはつまり・・・・・どゆことだ?」
「神宮寺が体験した夢世界での死が、薬の仮名の語源となった『D』に直結しているということで間違いないだろうね」
翔真が述べたことを分かりやすくまとめると、回復の過程で一度肉体が死ぬ出来事が、夢の中で体験する死と繋がっているということ。
「なるほどね。つまりは夢の中で死ぬことが、薬によって病が治り、そして目覚める条件ってことね」
つまり、夢の中の世界で死ななければ、現実世界では目覚めないということ。
「それにしても、まさか現実世界で五年の月日が流れた内に、夢の中の世界では三十七年経過していたとは驚きました」
「まぁ、そりゃあ目覚めたばかりで記憶が曖昧になっちまってたのも仕方ねぇわな」
比率にして約八倍の速さで夢での世界は時間が流れていたことになる。
しかし神宮寺にとっては、とても夢だとは思えなかった。性格や多少の容姿、そして生い立ちや置かれている状況が各々異なれど、目の前にいるこの六人とともに別の世界で過ごしていたのは現実。
喜びや悲しさ、怒りなど様々な感情を経験した。多くの人を傷つけたし、救いもした。
あの世界で起こったことは、神宮寺にとっては全て真実なのだ。
「神宮寺くん。それで、完成した薬の名前は何にするの?」
愛する妻である花火も、出会った頃からずっと神宮寺の側にいて支え、そして見守ってくれていた。
多くの人たちの支えがあったおかげで完成させることができた努力の結晶。
「『精神世界』と呼ぶことにしよう!」
完結。
精神世界 融合 @BURNTHEWITCH600
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