第2話 花摘む野辺に日は落ちて ’1949年のオッシッコ’の 件

 1.

 小学校4年生の頃の私の泣き所の話です。私は四年生になってもまだ寝小便の癖が直らずにいました。一人だけ宮崎の生目村を離れて都会の鹿児島の祖父母の許に預けられた時のことです。慣れない環境で緊張の日々を過ごしていたせいなのか、病気なのかは分りませんでした。


 〈うわー、これはまるでオーストラリアの地図だよ。またもやらかした〉。ねえやが手洗いして干した布団はまだ乾ききっておらず中心部の濡れ方は地図に見えました。


 祖母は「おまんさんは勉強の方は全く手がかからないけれどこれだけが惜しいね」とよく嘆いてました。祖母は私に葛根湯を飲ませたり、寝る前の水の摂取を禁じたりしました。ある時寝小便をさせないために早めに私を起してトイレに連れて行く役目の叔父(当時鹿児島大学4年)が起こそうとした時、間が悪いことに、学校のトイレで小便している夢を見ていた私は勢いよく放出し始めました。「こら、しっかいしやんせ!」との大声に思わず小便も止まったが時すでに遅しで、叔父の脛はびしょ濡れでした。それに構わず連れていかれたトイレで続きをやりました。「Nature Callsに答えたわけだ寝る前の水飲みを」と言っただけで許してくれました。私はこの時小便をしながら"1949年のオシッコ"と叫んだそうです。叔父はこの言葉を覚えていてよくわたしをからかったものです。多分学校で西暦を学んだばかりでそれを使ったのでしょう。 習ったことは即くりかえし”反復は効果なり”を実践していた頃でした。


 叔父さんごめんなさい! あの時文句も言わず叱りもしなかった叔父の姿はで今も忘れません。小学時代のおわりに共に暮らしたこの12歳年長の叔父はまるで私の兄のようで、95歳でなくなるまで親しい付き合いが続きました。


 2. 

 大竜小学校*は家の真ん前にあり、道の向こうは学校の裏側でした。正門は100mほど行った反対側にありました。学校の、道に面した通りは腰の高さまで石垣で囲われていました。祖父は転校初日の挨拶のために、80歳余の高齢でしたが、私と共に1m弱高さの石垣を軽々と乗り越えて教室まで行きました。(当時は学校で事件の起こることなど全くと言える程なく、正門は昼の間は解放されており、裏からも誰に咎められることなく出入りが出来ました。放課後には、生徒に一般の大人も加わって校庭で野球などを楽しんだものです。まだサッカーをプレイする人はありませんでした。)(*注:母と叔父3人もここを卒業しました。)


「今日は転校初日なので敬四郎を連れて学校まで挨拶に行った。時間短縮のために、あの石垣を乗り越えて行った、敬四郎には悪い手本だったかな」と笑って云い、「神も大目に見て下さるだろう」と付け加えた。日頃の謹厳さを裏切る言葉で嬉しくなった。(祖父は旧七高の名物教師で厳しさでは有名だったそうだがこれは別の話)。


 お祖父さん、ありがとうございました! くそ真面目な孫にということを身をもって示して頂きました。


 3. 

 足洗い場は、はだしで遊ぶことを常とした生徒たちにはなくてはならないもので、当時は市内の各校にありました。祖父の家にもありましたがこちらはポンプを押して井戸の水を汲みだす方式でした。外から帰るとまずここで足を洗うのが私の習わしでした。私は夜になって喉がかわいた時などは家で飲むのがはばかられましたので祖父の開発した裏ルートでよく足洗い場へ行くことにしていました。夜の洗い場は静まり返っていて恐ろしい物の怪が冷たい空気と共に現れそうな雰囲気でしたが、この時はお化けの怖さには目をつぶって水飲みに集中しました。動物的欲求が恐怖心を上回ったのでしょう。密かに水を飲む行為は今思うとことですが、当時の私にはそういう感情はなかった。一言でいうなら、未熟な人間でした。これだけはもう一度繰り返したくはありません。


 おばあさん、私はこういう事をしていました。ごめんなさい!

(祖母は薄々感じて居たかも知れません。学校の休みに生目村に帰る際の荷物の中から、防空壕の跡地で見つけた宝物の防毒マスクの部品を見つけて没収するほどの人物ですから。) (第2話 おわり)



                            

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